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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年05月30日(月) アル中の自己防衛システム アル中は本当に酒を飲みたいと思っているのでしょうか。
飲んでいればトラブルがやってきます。仕事ができなくなる。金が稼げなくなる。家族や友人との約束も守れなくなる。そればかりでなく人に迷惑をかける様々なことをしでかしてしまいます。長い目で見ればその人の人生も、周りの人たちの人生も台無しになってしまいます。
アル中の人は、そんな風に物事を台無しにしたいと思っているのでしょうか。
いや、決してそんなことはありません。彼(彼女)は、できることなら、健康的で、人に迷惑をかけない、社会的に自立した生活を送りたいと願っています。
けれど依存症という病気が強迫性や渇望によって彼(彼女)に酒を飲み続けさせてしまいます。そのせいで、アル中は望んでいない人生を送ることになります。彼(彼女)は本当はそんなことはしたくない。人に迷惑をかけたり、信頼を裏切ったり、自分や家族の将来を台無しにしたくない善良な人間です。であるにもかかわらず、彼(彼女)が現実にやっていることは、結果からすれば物事を台無しにすることばかりです。
しかもそれは誰に強いられたわけでもない、彼(彼女)が自分でやっていることです。やってはいけない悪いことを自分の意志でやっている・・まるで自分が道徳観念の欠如した悪人か、立ち直る気のない意志薄弱者のように思えてくるし、まわりもそう見なすようになります。彼(彼女)はそこから抜け出そうと努力しますが、たいていは成功しません(病気だから)。
人間はそのような自分の姿を真っ正面から見ることに耐えられません。激しく自尊心が傷つき、最悪の自殺に発展しかねません。だから、彼(彼女)は自分自身を守るために、自己正当化を行います。つまり、理由付けです。
例えば酒を飲まなければならないのは、ストレスのせいだと言い出します。ストレスに耐えてやって行くにはどうしても酒が必要なのだ。だから悪いのは自分ではなく、家族や職場の連中、あるいは社会が悪いと言います。育った環境や親のせいにすることもあります。単に自分は酒好きだと言う場合もあります。
最初は自分にウソをついていることを自覚していますが、やがてそのウソを信じるようになっていきます。自分は善良な人であり、身の回りで破壊的なことが起きているのは周囲の悪人たちのせいだという「防衛」を完成させます。この防衛によって彼(彼女)は、善良に生きたいという自分の理想と、破壊的な現実の行動との折り合いをつけ、自殺せずに生きていくことを可能にしているのです。アル中の自己正当化というのはこのように形作られます。
残念なことに、この防壁は酒をやめても消えずに残ります。彼(彼女)は鏡に自分の姿が映るのを避けるように、正確な自己像を捉えることを拒みます。酒をやめてしまった以上、辛い現実に直面しても酒に逃げ込むことができなくなるからです。他者への恨み、後悔、自己憐憫が相変わらずその人を支配しています。この世の中はクズばっかりだし、自分の人生はもはや生きるに値しないと感じています。そうした感情や、その態度によって発生する他者との軋轢が、彼(彼女)を再び飲酒へと引き戻してしまうことは良くあることです。
アル中の回復とは酒をやめることであり、酒をやめるとはこの「防衛」が取り除かれることです。そのためには、どんなに嫌でも鏡に映った自分の姿を見るしかありません。ただ、それを一人でやることに慣れている人はいませんから、何らかの他者の手助けはどうしても必要なことです。
他罰性、尊大性、被害的認知、自己正当化などはこの防壁の現れです。防壁が取り除かれたとき、その陰に隠されていた善性が再統合され、自分自身に対する信頼、他者に対する信頼を取り戻すようになります。彼(彼女)は自分が思っていたほどの善人ではないかもしれませんが、自他の不完全性を受け入れて生きていけるようになります。
まとめると、アル中は自分が最もしたくないことをせざるを得ない状況に追い込まれ、生きていくためにやむなく「防衛システム」を身につけます。自分に嘘をついて人を責めることが上手になります。それがアルコール以上に彼(彼女)を生きづらくさせています。そして、回復とはそれを取り除くことです。
では家族はどうなのか? 実はこの文章は家族のことを書くための前説です。なので、次回に続きます。
2011年05月29日(日) 良いことが起きたときだけ 良いことが起きると「これは神さまのおかげ」と感謝する人がいます。
その人にとって、神さま=自分に都合の良い存在、ということです。自分に都合の良い事をしてくれるのが神さまであり、良いことが起こればそれは自分の信仰の証しであると考えます。
悪いことが起これば、「私は真面目にやっているのに、なぜ神さまはこんなヒドいことをされるのだろう」と恨むのです。あるいは、自分の信仰心が足りないのではないかと悩んで見せたりします(まあそれは否定しないけど)。
神さまは自分に都合の良いことばかりして下さるとは限りません。
「神は父であり私たちは子である」(AA p.90)
僕らは神という大人に面倒を見てもらっている幼い子供のようなものです。子供は歯を磨きたくないかもしれません。けれど、それを放っておくわけにはいかず、大人が代わりに歯を磨き、やがて本人が自ら歯を磨くように仕向けます。遊んでいたいけれど勉強させたり、夜遅くまで起きていたいけれど寝かせることをします。いずれも、本人の将来のためであり、本人の希望通りにすることが良いことではありません。
ママはいつも夜早く寝ろってうるさいけど、ママが実家に泊まる日は、パパと一緒に夜更かしするの。でも次の日にパパと昼まで寝ていると、帰ってきたママがすごく怒るの。だからママは嫌い、パパが好き・・・良いことが起きると神さまのおかげだと感謝する人は、こういう子供みたいな存在なのです。
神さまは自分に都合の良いことばかりして下さるとは限りません。僕らから見たら理不尽としか思えないこともいっぱい起こります。でもそれは、僕らが神さまのような全知全能ではないから、何が本当に良いことか分からないだけかもしれません。
会社が倒産したり、恋人が心変わりをして去っていったり、アル中が酒を飲んで死んだり・・・それが必ずしも悪いことだとどうして言えるのでしょう? それはあくまでもあなたの(あるいは僕の)判断に過ぎません。
信仰心を持っているつもりで、実は神さまに「あれをしなさい」「これはしてはいけません」と指示を飛ばして、いつのまにか神さまより偉くなろうとしている人は困った人です。
世の中には良いことも悪いことも起こります。信仰心を持とうと持つまいと、そのことを受け入れている人たちがいます。神という言葉を使わず神を意識することがなかったとしても不合理不条理な世界を嫌わずに生きている人であれば、それは立派に信仰を持った人だと言えます。
悪いことが起きると神さまを恨んでいるようなら、信仰心がその人を劣化させたと言う他はありません。それは「不可知論者」の態度です。橋を渡ったつもりでまだこちら岸にいるのです。
2011年05月25日(水) 怒りと恨み ここで言葉の意味をはっきりさせておきます。
怒り(anger)は僕らが良く経験する感情です。例えばあなたが道を歩いている時に誰かがぶつかってきたら、怒りの感情を覚えるでしょう(身体的安全の問題)。誰かが話している言葉が、あなたを怠け者だと指弾しているように聞こえたら、あなたはその相手に対して「私のことを何も知らないで何を言うか!」という気持ちになるでしょう(自尊感情の問題)。
怒りの感情は必要なものです。怒りの感情によって、僕らは自分の安全安心や、自己評価や、そのほか大事にしているいろいろなものを守ることができます。怒りは僕らが生きて行くために必要だからこそ与えられているものです(程度問題ではありますが)。
では恨み(resentment)とは何か。ジョーのステップでは恨みを、re と sentment に分解して説明しています。re という接頭子にはいろんな意味がありますが、ここでは「再び」とか「何度も」という意味です。sentment という英単語はありませんが、sentient(知覚)と語源が同じで「感じる」という意味です。
つまり恨みとは「何度も何度も怒りを感じる」ことです。例えばあなたが「怠け者」と言われたら、その時に「何も知らないで何を言うか!」という怒りの感情を抱きます。その数日後にまた「怠け者」と言った相手に会ったとします。するとあなたの中で数日前の「怠け者」という言葉が思い出され、「再び」怒りの感情を抱きます。さらには、別に相手に会わなくても、その人のことを思い出しただけで、同じ感情がぶり返されます。これが恨みです。
この時、相手は一度だけ「怠け者」と言っただけです。(それも言ったかどうか本当は分かりません。ただあなたがそう感じただけかもしれません)。けれど、あなたは何度も何度も恨みの感情をぶり返し、傷つきます。(相手は何もしていないのに!)
あなたが折角良い気分で楽しんでいても、部屋に相手が入ってきたとたんに、あなたの心に恨みがわき上がり最低の気分になります。これは「自分の感情を相手にコントロールさせている」ということです。相手に謝罪や反省をしつこく要求する人もいます。相手に頭を下げさせればスッキリするかもしれませんが、逆に相手が頭を下げなければいつまでも最低の気分でいることになります。そして、相手が頭を下げるかどうかは相手次第です。つまりこれも「相手に自分の感情をコントロールさせている」のです。
なんとか相手に謝罪させようという努力は、自分が相手をコントロールする努力に見えますが、実は逆で相手に自分をコントロールさせる努力になってしまっているのです。相手はあなたの感情をコントロールしたいとは思っていないでしょう。しかし、あなたが勝手に(恨むことで)相手に自分の感情をコントロールさせているのです。「どうか私を支配して下さい」と頼んでいるようなものです。
僕はそんなのは嫌です。誰の支配も受けたくないし、自由でありたい。自分の感情は自分でコントロールしたいと思っています。だから恨みは手放す努力をします。相手に謝罪を要求することもありますが、相手にその気がなければそれ以上の努力は自分を傷つけるだけに終わります。
恨みがましい人間の感情を支配するのは簡単です。ちょっとその人の気に入らないことをやってあげれば、いつまでもこちらを恨んできます。世の中にはそうやって恨みがましい人をからかって遊ぶ悪い人もいます。恨まれるのは楽しいことではないものの、それで相手の気分をコントロールすることを楽しめるなら安い代償だと考える人もいるということです(恨みがましい人は無視したりスルーすることができないから)。つまり恨むことによって傷つけられやすい立場に身を置いてしまうということです。
恨みという感情は自分が疲れる感情です。脳が疲れれば鬱になります。鬱の人は恨みを抱えているものです。せっかく休息や薬で鬱が改善しても、恨みがましい癖が抜けないので、また鬱に戻っていきます。
恨む人は「私は正しい、あいつが間違っている」と言います。恨むことは、相手にコントロールされること、支配されることを望むことです(歪んだ愛情)。恨む人は幸せと健康を拒み、不幸と鬱を愛する人たちです。
2011年05月23日(月) 伝統に関する議論 掲示板で伝統7(AAの経済的自立)についてのスレッドが続いています。
スレッドの流れとは別にメモ的にちょっと書いておきます。
日本のAAのミーティング会場は、たいていキリスト教の教会の一室か、公民館のような市町村の施設の部屋を借りて開かれています。
AAが教会の部屋を借りている場合には教会に使用料を支払っています。使用料を支払うことによって、教会とAAグループが別の団体であることをハッキリさせる意図があります。使用料といっても名目上のものであることが多いでしょう。おそらく教会側としては献金として受け取っているのでしょうが、真面目な信徒の方が毎月献金する額にくらべたらわずかな額にすぎません。AAの支払う使用料は、教会の財政運営にはほとんど寄与できていないはずです。
(だから教会によっては無料で貸すと言ってくれるところもあるほどですが、それを断って純粋にAA側の都合で使用料を受け取ってもらっているわけです)
教会にとっては経済的なメリットがないにもかかわらず、なぜそのような善意の取り計らいをしてくれるのか。その事情については詳しくないのですが、おそらく教会が地域のコミュニティーセンターのような役割を担うべきだという思想があるのでしょう。昔のテレビドラマ「大草原の小さな家」をみると、村で何かが起こるたびに皆で教会に集まって話し合っています。公民館や公会堂のような役割がそこにはあるのでしょう。あるカトリックの教会ではAAミーティングをやっている間に、別の部屋では日系ブラジル人の人が茶話会をやったりコンサートの練習をしていたりします。
ではAA会場に市町村の公民館のような施設を借りている場合はどうでしょうか。そういうところでは、部屋の使用料や冷暖房費が決められていて、使った団体がそれを支払うことになっています。一方で、何らかの公的な意義のある団体の場合には、団体登録をして利用料減免申請書を出すと、部屋を無料で貸してもらえるという制度を設けている市町村がたくさんあります。これは、行政がそうした団体に便宜を図ることによって、運営を助けているわけです。本来支払うべき利用料を払わずに済むわけですから、間接的にはその団体に助成金を与えているに等しいことになります。
どういった種類の団体の利用料減免をするかは市町村ごとに規則が違いますが、例えば手話サークルのような福祉目的の団体であればたいていどこの市町村でも減免対象にしているようです。で、AAも(AA以外の自助グループも)この減免制度を利用しているケースがたくさんあります。
僕は数年前にAAサービスの役割を与えられていました(いまはサービス組織から離れてAAの隅っこにいるだけです)。その頃に「AAグループがこの減免制度を利用することは、伝統7の経済的自立を妨げているのではないか」という議論がありました。AAは外部から寄付金や助成金を受け取らずに、あくまでメンバーのお金で運営する・・・はずなのに、減免制度を利用すると、間接的に行政から助成金を受け取っているのと等しいことになるのではないか、というわけです。
AAは統治機構を持たないので、もしこれが「伝統に反する」ということになっても、やめさせる命令を出せるセクションはありません。けれどもし伝統違反ならば放置しておくことはよろしくないわけで、何らかの注意喚起はしなくてはなりません。だから、減免制度利用は伝統7に反するかどうか、という議論が続きました。
例を挙げると、わが家の一番近くのAA会場は市の公民館の会議室を借りています。30人入ってもまだ余裕の広さの会議室の夜間枠(4時間)の利用料は1,400円です。民間の会議室を借りればこの数倍必要でしょうから破格の値段ですが、それでも月に四回ミーティングをすれば6千円近くになります。この公民館では必要ありませんが冷暖房費を取るところもあります。もし減免制度を利用しなければ、毎月これだけの財政負担が生じることになります。少人数のグループが献金袋で集めるお金で、この負担に耐えられるでしょうか。また、グループの負担が増えたらオフィスの運営はどうなるでしょう。
減免制度利用に賛成の人も反対の人もいましたが、どちらの側の人も相手を納得させるだけの議論はできませんでした。そこでNYのGSOにメールを書いて経験を分けてもらうことになりました。各国のオフィスはそれ自体が権威を持っているわけではありませんが、各グループは自分たちの経験をオフィスに送ることで、他のグループがそれを利用できるようにしています。だから困ったことがあればオフィスに尋ねてみて、他のグループでの成功や失敗の体験を分けてもらうことができます。とりわけAAの歴史が長いアメリカのGSOに集積された経験は尊重されます。
GSOからの返事はこんな感じでした。ちょうどそれに当てはまる経験はないが、AAでコンベンションを開くためにホテルの部屋をたくさん予約すると、何部屋ぶんか料金を割引してくれる。割引してもらうことは、ホテルから(つまりAA外部から)寄付を受け取ることにならないか、という議論があったが、ホテル側がAAに特別な便宜を図っているのではなく、他の客に対するのと同じ割引をしているのであれば、AAが寄付を受け取っていると考えるのはふさわしくないということになった。
これには皆が納得しました。つまりAAが特別待遇を受けているかどうかが問題というわけです。誰もが受け取れるものであれば、私たちが拒否する必要もない。ところで、どんな団体を減免制度の対象にするかは、市町村によって大きく違っていることも分かってきました。減免制度の利用の有無という単純な線引きは適当ではなく、もっとケースバイケースであり個別の事情を聞かなければ判断のつけようがない問題だという認識が広まりました。グループの自律性にまかせるべきだということになって話が終わりました。
たった一つのことを判断するのに、皆が知恵を絞り、時間も手間も使いました。挙げ句に結論は「これだけじゃ判断できないよ」という曖昧なものでした。でも伝統を守っていくということは、そういうことだと思います。伝統は僕らに考えることを要求します。けれど、僕らは考えることを厭います。
もし「減免制度利用は伝統7違反」というルールみたいなものができたら、これは考える必要もありません。個別の事情も考えなくてかまいません。その市町村の減免制度を調べる手間も要りません。考える必要がないので楽でいいのですが、でも伝統は僕らにルールに頼らず、考えることを要求しているように思うのです。
12の伝統に関する議論に無駄はないと思います。一つの結論を出す必要もありません。皆が一つのテーマについて考え、自分とは違う考え方をする人がいることを知る。世界は自分の想像より常に広いことを知るわけです。
2011年05月20日(金) 自分に対する埋め合わせだって? 12ステップの、ステップ8と9で「傷つけた人に直接埋め合わせ」をします。
埋め合わせとは何か? 一つには謝罪です。あと借りたもの(例えば金)は返す約束をしろ、とビッグブックにはあります。人に迷惑をかけたり、損害を与えたならば、現状復帰が望ましいのですが、現実にはなかなかそれは難しく、結局のところ謝ることしかできない場合も多いものです(これはやってみればわかる)。
12ステップにはいろいろ誤解がつきまとっていますが、埋め合わせについても多くの誤解があります。その最大のものは、埋め合わせの目的です。「相手との悪化した関係を修復するため」だとか、「社会の一員としての責任を果たすため」だと考えるのは間違いです。確かに埋め合わせをしていけば、そうした効果が得られることもあるでしょう。しかし、12ステップ全体の目的が、回復するため、つまり酒をやめるためのもので、ステップ8・9もその一環です。埋め合わせは100%自分の回復のためであって、相手のためにすることではありません。
時には埋め合わせができないこともあります。例えば相手が面会を拒否するとか。せっかく会ったのに、「お前の顔なんか見たくない、とっとと帰れ」と言われるかも知れません。埋め合わせの目的が「相手との悪化した関係を修復するため」だとしたら、これは埋め合わせの失敗になってしまいます。けれど、ステップ8・9は100%自分の回復のための行動ですから、相手がどう反応するかは成功失敗とは関係ありません。実際にやってみればわかりますが、残念な結果になったとしても、回復の効果は自分の中に現れます。
将来、状況が変わればまた違った埋め合わせができるかも知れません。
埋め合わせには重要な条件が付いています。埋め合わせをすることによって、かえって相手を傷つけたり、他の人に迷惑をかけるようなら、やってはいけないのです。これは男女関係ではよくあることで、例えばあなたの過去の不倫の相手に家まで謝罪に来られても困るでしょう。回復中の仲間に対する埋め合わせも気を使います。相手の回復の妨げにならないように気を使わなければならないのですから。また、「直接」の埋め合わせなのですから、手紙やメール、あるいはネットの掲示板で埋め合わせをすることはふさわしくありません。「直接」の機会が与えられないなら、与えられるまで待てばよいことです。
また何をどのように埋め合わせするかも大事です。ステップ4・5の棚卸しで、どのように相手に迷惑をかけたかきちんと把握する必要があります。そうしないと、まるでトンチンカンな埋め合わせになってしまいます。また埋め合わせは他者に要求できるものでもありません(12&12 p.62~63)。
12ステップの質疑応答をやると、かなりの確率で出てくる質問が「自分に対する埋め合わせは必要ないのか?」というものです。理屈はこうです。自分は他者から傷つけられた(だから憤慨している)。しかし、その相手に埋め合わせを要求できないことは分かった。であれば、傷つく立場に自分を置いたのは自分自身だから、自分を傷つけたのも自分自身である。だから、自分に対して埋め合わせをしてはいけないのか? というのです。
頭で12ステップを考えていて、実際にやっていないからこそ、こうした考え方になってしまうのです。実際やってみれば、他者に対する埋め合わせこそが最も自分の傷を癒すことに気づくはずです。ステップ4・5がちゃんとできれば、埋め合わせをしたい、という気持ちになっているでしょうから。その気持ちを実行に移せばよいだけのことです。
12ステップというものは、きちんと考えられて設計されています。自分勝手に解釈してステップをやると、自分が回復できないばかりか、まわりの人にも迷惑をかけます。
埋め合わせをされる立場のほうからすれば、「いきなりやってきて、もごもご言って帰って行ったけど、ひょっとしてあれが埋め合わせってやつかなあ」ということになるかもしれません。どんなふうに埋め合わせをするかは埋め合わせをする側の問題なので、あなたが埋め合わせを受ける側ならそのことについて気にする必要はありません。
2011年05月19日(木) 発達障害について(その15) すでに発達障害の診断をもらった人、あるいは診断はもらっていないものの発達障害の特性を持っていると自認している人も次第に増えてきました。その背景には発達障害ブームとも呼ぶべき社会現象があります。
そうしたブームによって、発達障害の存在が社会に認知されるのは大変良いことです。しかし、社会現象には必ず陰の部分もあるものです。
最近気になっていることは、発達障害概念の混乱です。ただ、その話をするには前説があったほうがいいかもしれません。
発達障害の中でも、精神遅滞や自閉症(カナータイプ)は古くから知られており、僕の子供のころには養護学級や自閉症の施設が存在していました。これらのタイプは知的障害があるという点で共通です。
時代が下ると、教育の現場で知的障害がない発達障害が取り上げられるようになってきました。最初(おそらく日本では1980年代)は「学習障害」(=LD)です。これは読む・書く・話す・聞くのどれかに障害を持っているものです。ただし知的障害を持たないというところがポイントで、アルバート・アインシュタインも識字障害(これは読むことの障害)を抱えていたと言われています。
1990年代になると、「注意欠陥多動症」(=ADHD)が注目されました。LDとADHDは医学的には違った障害なのですが、結果として学習の妨げになる点は共通していたので、教育の分野では「ADHDはLDのひとつ」と認識されてしまいました。それは現在も続いています。LDとADHDを併発する人が少なくなかったことも、この混乱に拍車をかけました。
21世紀になると「アスペルガー症候群」や「高機能自閉症」が注目されるようになりました。これは知的障害のない自閉症です。しかしアスペルガーの印象は決して良かったとは言えません。アスペルガーの少年が凶悪犯罪を起こしたことが大きなニュースになったことや、自閉症という言葉が知的障害を連想させるのもその原因なのかもしれません。(以下この領域を「自閉症スペクトラム障害(=ASD)」と呼びます)。
LDだけが認知されていた時代には、ADHDの人もLDだとされていたわけです。また、ADHDだけが認知されたいた時代には、アスペルガーなのにADHDだとされていた人もいました。そして、そうした混乱は今も続いています。
最も顕著なのは、自閉の問題を抱えている(ASD)なのに、自身をADHDだと認識している人です。
2011年05月17日(火) 顔写真 ちょっと前になりますが「BOX-916」の表紙に顔写真が載ってしまい、物議を醸したことがあります。これはAAになじみのない人には説明が必要でしょう。
BOX-916というのは日本AAの月刊の雑誌で、発行部数は多分3,000部ぐらい。一部300円でほとんどが有料購読です(AAオフィスの収入の大きな柱になっています)。一方、国際的な雑誌としては AA Grapevine があり、これはNYのAAグレープバイン社が発行し、部数は10万部ちょっとぐらい(中身は英語)です。中身は meeting in print(活字によるAAミーティング)と呼ばれメンバーの投稿による「経験の分かち合い」が行われています。
AAには12の伝統があり、その11番目には「AAメンバーとして名前や写真を、電波、映像、活字にのせるべきではない」ということになっています。これは外部の新聞やテレビについてのことですが、BOX-916でもGrapevineでも、顔写真やフルネームが掲載されることはありません。(ただし、会議の報告書などAAの内部資料には実名が掲載されていることは良くあり、あくまで実名や写真をAA外部に出してはいけないという話)。
実はBOX-916の表紙に出た顔写真はAAメンバーのものではありませんでした(写真素材集から取ったものらしい)。だから問題ないじゃないか、という意見もあったのです。けれど、BOX-916もAA Grapevineも、人の顔写真を載せることを注意深く避けてきました。その顔写真が、AAメンバーのものであろうとなかろうと。
なぜかというと、AA外部の人が見た場合、写っている人がAAメンバーかどうかは区別がつきませんから、AAは顔写真を出しても構わないところだと誤解されてしまっては困るからです。そんなふうに、注意深く配慮を積み重ねて「無名性」というものは守られています。
「心の家路」のリンク集でも、AA(あるいは他の12ステップグループ)のメンバーがやっているブログなどで、顔写真の掲載があるところはリンクしないように気を使っています。その顔写真がご本人(メンバー)のものであれ、その他の人のものであれ(例えば子供の写真とかでも)。
(12ステップグループではない、外部の施設や断酒会の人などはそれは関係ないわけです)。
もちろんあまり厳格にやるとリンクする先がなくなってしまうので、細かいことに目くじら立てないようにしています。12の伝統とは少しの逸脱も許されないルールではなく、配慮の積み重ねによって守られていくべきものだからです。
大切なことは、「結果として12の伝統というルール?が守られること」ではなく「伝統を尊重しようという個人個人の心のベクトル」なのだと思っています。
(注:メンバーの死後も名前と写真を伏せるかどうかは、本人の遺志と遺族の意向によります。ビル・Wが死んだときに、世界中のメディアに向けて初めてそのフルネームと顔写真が発信されました。なのでビルの顔写真やフルネームは結構気楽に使われています。けれど控えるべきだという意見もあります。)
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