心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2011年02月07日(月) 幸せへの道

より多くを持っている方が幸せになれる、という考え方は間違いではありません。
財布の中身が空っぽより万札がたくさん入っていた方が良い。テストの点数だって0点より100点の方が良い。そうしたいろいろを獲得するために「能力」が役に立ちますから、「能力もたくさん持っていた方が良い」ということになります。

おそらくだからこそ、「あなたには〜の能力がない」と言われれば、人は幸せになる道を断たれたかのように感じてしまうのでしょう。

アルコール依存症は「酒を正常に飲む能力を失う」病気です。
「あなたにはもう酒を正常に飲む能力がない」と言われれば、それを素直に受け取れずに抵抗する人もいます。なんとかうまく酒を飲もうと実験を繰り返す人もいます。

ない能力があるかのようにふるまい続けていると、酒によるトラブルは避けられず、やがていろいろなものを失っていきます。仕事、家族、財産、社会的地位・・・。

能力がないことを受け入れられれば、酒をやめる努力ができるし、酒で得ていたメリットを別の手段で得るように訓練することもできます(その手段が山登りでもいいじゃないのさ)。酒のトラブルは避けられ、本来のその人の人生を生きるという幸せが実現されます。

その能力を持っていないことを認めることが、幸せへの道です。

発達障害についても同じことが言えます。発達障害というのは、何らかの能力を弱める形で発現します。だから、「あなたには〜の能力がない(あるいは弱い)」という形で告げることになります。それが可哀想だという人もいますが、ない能力があるかのように扱うことは、かえってその人を傷つけることにしかなりません。

能力がないことを受け入れられれば、対策が打てるようになります。訓練で苦手な能力を伸ばすこともできるし、代替の手段を使うこともできます。服薬で改善されることもあります。得意なこともあるのですから、そちらの能力を開花させて職業につなげていくことも可能になります。

こうしてみてみると、能力を失うことは残念なことですが、その人から幸せを奪っているのは「能力の喪失」そのものではありません。ない能力があるかのように、本人や周囲が信じてしまうことが、その人から幸せを奪ってしまうのです。

手に入れることではなく、手放すことが幸せへにつながる。性格上の欠点を手放すというステップ6・7がテーマのミーティング中にそんなことを考えました。


2011年02月06日(日) 岡山へ

先週、仕事で岡山に行ったついでに、市内のAAミーティングに寄ってみました。

生まれて初めて路面電車に乗りました。電車というよりバスみたいという感想。ICOCAが使えるとありましたが、suicaはダメでした。

ミーティングは午後6時半からの2時間で、途中タバコ休憩つき。ミーティング・ハンドブックを使ったものでしたが、最初に序文を読まず、10ページの12のステップだけ読んでわかちあいに入りました(このパターンは初めての経験でした)。

AAには標準のミーティング・フォーマットというのがありません。だから、場所によってグループによってミーティングのやり方は違うし、手順を決めていないグループもたくさんあります(その日の司会者によって違うパターン)。僕のホームグループではきちっとしたフォーマットを決めていますが、他のグループが別のやり方をすることになんの異論もありません。

今年は岡山でラウンドアップが開催されるそうで、実行委員会の議事録が回し読みされていました。みんなで集まる機会が多いので「岡山地区委員会」が立ち上げられるかもしれない、という話題も出ていました。

ラウンドアップだ委員会だということになると、「AAの用事」が増えてしまうわけで、メンバー一人ひとりがどうやってそれに必要な時間やお金を工面していくかという悩みが生じます。それを支えるのは「ソブラエティのこの喜びをより多くの人に伝えたい」という気持ちでしょう。回復の喜びを持たない人に役割を任せてしまうと、どうしても「貧乏くじを引かされた」という話になってしまいます(だって他の人は楽してるんだもの)。やはり回復あってのAAなのだと思います。

ゆったりとした雰囲気のミーティングの締めくくりは平安の祈りでした。どこに行ってもAAがある、それが良いことなのだと思います。

帰り際「AAにつながる前に、ひいらぎさんのホームページを見たんです」と言ってくれた人がいました。少しでも役に立てたのならば嬉しいのですが、更新が滞って古くなってしまったコンテンツのことを思うと少々心が痛みます。

路面電車は道の真ん中を走っているので、それを待つ人も道の真ん中に立つことになるのか? 不安だったので、ミーティングの後で外の喫煙所でタバコを吸っている人たちに尋ねてみたら、そのとおりだと教えてもらいました。ただ、実際行ってみると、路面電車が赤信号待ちで停まっており、道の真ん中に立って待たなくて済みました。

出張のリクエストが増えてきたのは、景気が良くなってきた証拠かも知れません。今年の夏あたりには本格的に良くなりそうな気がしています。


2011年02月02日(水) 危機ではなく、幻想の終わり

ジェラルド・M・ワインバーグの本、『コンサルタントの秘密』を買いました。
(読んでいるヒマはありませんが)

1980年代にコンピューター科学の雑誌「bit」を読まれていた方なら、懐かしく思い出すかも知れません。その本には、人生に役に立つ様々な「法則」が書かれています。その一つ、ロンダの悟り第2番は、

「それは危機のように見えるかもしれないが、実は幻想の終わりにすぎない」

というもの。

人は生きていれば、時に危機的な状態に陥り、追いつめられた気分になることもあります。
危機は突然やってきたかのように思えますが、たいていは気がつく前から存在していたものです。安全な状況が続いていたという勘違いは、自分の抱く「幻想」にすぎなかったというわけです。

アル中が精神病院に入院するはめになり、酒をやめろと言われる。ご本人にとっては、もう一生酒が飲めなくなる大変な危機的状況かもしれませんが、単に「自分の酒はそれほど問題ではない」という幻想が終わっただけの話です。問題は入院するずっと前から存在し続けていたのです。


2011年01月28日(金) ダイエット文化と摂食障害

この雑記の下に掲載しているニュース検索に引っかかった記事に、こんな記述がありました。

「若い女性がマスメディアの影響で痩せた体型を過剰に理想視するようになることが,拒食症などの摂食障害につながると言われる」

拒食や食べ吐きが起こる背景には、痩せた体型を理想とする文化があることは間違いがありません。しかし、摂食障害の原因をダイエット文化に求めてしまうと、解決策が見えなくなってしまいます。

先日の大河原先生の講演でも、「摂食障害はダイエットから始まるわけじゃない。今の自分が嫌いだからなる」と強調されていました。ダイエットには目標があるが、今の自分が嫌いなのには底がない、とも。

体重のコントロールは、今の自分が嫌いという状況を解消するための手段にすぎないのでしょう。人間のやることはしばしば「手段の目的化」を呼びますが、それはアルコールも拒食も似ています。

時にアル中は嫌いな状況から逃げようと遁走を試みます。しかし、世界中どこに逃げようと、自分だけは連れて行かねばなりません。その自分自身が世界で一番嫌いな相手だったりします。

解決には自分を好きになるしかないのでしょうが、「好きになれ」と言われてなれるものでもありません。そのための行動、努力が必要なのでしょう。回復という点では、アルコールだ摂食障害だと区別する必要はないように思います。

「自分がかわいい」「自分大好き人間」というのは、今の日本語としてあまり好まれない言葉かも知れませんが、それも大事な価値観でありましょう。


2011年01月26日(水) 尊敬する人

日本AAのA類常任理事をしてくださっていた大河原先生の講演を聴く機会に恵まれました。
講演のテーマは摂食障害についてでしたが、先生はアルコール依存症の治療歴が長いので、話はしばしばアルコールとの対比となっていました。

摂食障害が「依存症」なのかどうか? (食べ吐きは食べ物依存症なのか?)

摂食障害は依存症と同じだという先生もいれば、違うという先生もいます。両方の主張に接する人は、違う患者層に接しているので違う結論に達しているだけだ、と言います。

大河原先生は「摂食障害は依存症とは違う」という意見の先生です。違う病気なのだが、その回復の過程はよく似ているとおっしゃっていました。つまりアルコール依存に有効なノウハウは、摂食障害に対しても有効であると。

一時間以上の講演内容をこの雑記に記すことはできませんが、一つここで書いておこうと思うことは

「回復には尊敬する人を持つことが大切だ」

とおっしゃっていたことです。人間誰しも愛されたいという欲求を持っています。しかし「愛される」ことは相手次第なので、自分でコントロールできません。しかし、尊敬すること、愛することは、自分次第です。自分が主体となることが大切です。

僕の知る限り、AAプログラムがうまく機能している人は、AAの中に「尊敬できる誰か」を持っている人です。誰かを尊敬するということは、相手の持っている何かが自分より優れていると認めることでもあります。自分が一番でないと気が済まない人は、誰も尊敬することができません。なぜなら相手の優位性を認めることができないからです。こういう人たちは「なぜオレを尊敬しないのだ」と怒っているのです。

僕もAAの中に尊敬する人たちがいます。(だからといって相手に恭しく接しているわけでもありませんが)。その中には僕よりソーバーの短い相手もいます。年数に関係なく、その人がAA的価値観を僕より優れて実現していると思うからこそリスペクトの対象としているのです。


2011年01月25日(火) ふたたび心の理論

発達障害の話。

「注意欠陥・多動性障害」とうのはその頭文字の「ADHD」という略語が使われる場合がほとんどです。ただ、「えーでぃーえっちでぃー」というのは略語として音節があまり減っていませんね(TNP27と同じ)。

発達障害の話題を取り扱ったブログなどを読むと、アスペルガーに「AS」という略語をあてている場合があります。これは Asperger の先頭二文字だとずっと信じていたのですが、実は「自閉症スペクトラム(autism spectrum)」の頭文字のようです。

ASについて気がついたことがあります。
これは本に書いてあったとか、だれぞ先生の講演で聞いた話と違って、僕が観察と帰納的推理によって導き出したものなので、ほとんど自分用メモのレベルです。

ASの人は

・人の気持ちが分からない
・空気が読めない
・話の流れが分からない

という特徴があります。これはAS関係の本を読めば書いてあることです。

けれど、ご当人は、自分にそんな特徴があるとはまったく思っていないものです。つまり、ご当人は「自分は人の気持ちが分かる」「空気も読める」「話の流れも分かる」と思っているということです。できないことの自覚がありません。

「心の理論」については以前書きました。
(参考リンク:http://www005.upp.so-net.ne.jp/ma2ma3/kokoro.html

前回の雑記で、最も基礎的な Perspective Taking の能力を身につけるのは3〜6才となっていました。
Perspective Taking というのは「他の人が何を考え、感じているかを想像する能力」です。

心の理論の課題を再掲します。
子供(A君)にチョコレートの箱を見せます。「何が入っていると思う?」と質問すると、答えは当然チョコレートです。箱を開けて見せ、中身が実は鉛筆であることを示します。箱を閉じたところへ、B君が部屋に入ってきます。そこでA君に再度尋ねます。「B君にこの箱を見せて、中に何が入っているか聞いたら、なんて答えると思う?」

正解はチョコレートです。B君は中身が鉛筆であることを知りません。箱だけ見て「チョコレート」と答えるでしょう。

3才の子供にこれを試すと、ほとんどが「鉛筆」と答えます。Perspective Taking の能力がまだ発達していないので、B君の気持ちが想像できないのです。4才、5才になるとほとんどが正解します。ダウン症の知的に遅れのある子供でも、この課題の通過はあまり遅れません。しかし自閉症児の場合には10才ほどにならないと、この課題が通過できません。

アスペルガー症候群の場合には、心の理論の課題通過はこれほどの遅れがないようですが、質的な違いが指摘されています。それはつまり、心の理論の課題通過は、心の理論の獲得を意味しないということです。以前掲示板でブログを紹介した狸穴猫さんは、彼女が定型発達者とのコミュニケーション手法を、外国語講座のシチュエーション場面を丸暗記するように憶えていったのだそうです。

ASの人はパターン学習のような丸暗記が得意だということを踏まえると、「答えはチョコレート」と記憶することで先ほどの課題を通過できます。

つまり自閉症に限らず(アスペルガー、PDDNOSの別を問わず)AS全般に「人の気持ちが分かる」能力がそれほど発達することはなく、その代わりにパターン学習・観察・記憶しているパターンへ当てはめという戦略によって「人の気持ちを推理している」のではないと思うのです。

アスペルガーの人が心の理論の課題に取り組むとき、定型発達者とは脳の別の部位が活発になっていることが確かめられています。

だとするならば、ASの人の「人の気持ちを分かろうとする」努力は、知的作業である(のかもしれません)。

定型発達者にとって見れば、「人の気持ちを読む」ことは必ずしも知的作業ではありません。「空気が読める・読めない」ということが挙げられていますが、この場合の空気(雰囲気)とは圧力のようなものです。例えば、会議で延々一つのテーマについて話し合って、もうみんながウンザリしてきている時。そろそろ結論を出したい(それが最善の結論でなくても)。もはや新しい視点や意見など歓迎しない。そこで「もう何を言っても無駄だし、言わない方が良い」と感じるためには、何も知的な作業は要りません。相手の顔の表情や声のトーンが雄弁に物語っているからです。この時、雰囲気とはまさに「圧力」です。

これをASの人は知的作業、つまり考えることによって推理しているのではないか。それは幼い頃から獲得された能力なので、半ば無意識に行われており、推理しているとは本人も自覚していないのかもしれません。そしてその能力を「これが人の心の読み方だ」と思っているのではないか、というのが僕の考えです。

それが知的作業であるならば、知能の高低と関係あるはずです。
社会性の障害が重くないアスペルガーやPDDNOSの人で、知的に高く、社会適応に意欲的な人であれば、この代替能力を磨いて自覚なく社会にとけ込んでいることは十分考えられます。しかし、それは本当の Perspective Taking とは違う作業なので、より濃い人付き合いを求めるほどに「疲れ」を招きます。また、なまじ能力が高いだけに、より深刻なシチュエーションで過ちを犯します。

(四輪駆動車は普通の車より困難な場所で立ち往生する)。

その結果、人間不信に陥ったり、意欲を失いうつになったり、激しく傷ついたりしているのではないか。

ASの人たちは寂しさを抱えた人たちです。寂しいからこそ人との触れあいを求めるものの、人付き合いは(知的作業を伴うので)疲れるし、時に理解できない人間関係のトラブルに巻き込まれてうんざりし、やっぱり一人がいいと思うものの、一人は寂しい(最初に戻る)。

ASの人たちは自分に能力がないことにまるで自覚がない・・それが悲劇の原因の一つではないかと思うようになりました。

類似例を挙げます。アルコール依存症の人は、酒を正常に飲む能力を失った人たちです。しかし、教えられるまでは、もう正常に飲めないという自覚がありません(僕もそうでした)。能力がないのに、正常に飲もうと要らぬ努力を重ねているうちは、悲劇が増えるばかりです。「君にはその能力はないよ」と教えられたとき、酒をやめる方への努力が始められ、解決へと向かいます。

ASの人が「あなたのその能力は普通の人とは違うし、限界もある」と指摘されればショックかも知れません。しかし、それによって悲劇を防ぐこともできるし、代替能力をさらに育てる方向へと向かえる。そう考えます。


2011年01月21日(金) セルマンの関係把握の5段階

ロバート・セルマン(Robert Selman)の Five Stages of Perspective Taking というのを取り上げます。

Perspective Taking というのは「他の人が何を考え、感じているかを想像する能力」であり、自己発達、他者の理解や社会スキルを促すものだそうです。

まずはこれの翻訳を
http://everything2.com/title/Selman%2527s+Five+Stages+of+Perspective+Taking

とても小さい子供は、自分以外の人が自分とは違った経験や感情を持つことを理解していません。けれど Perspective Taking (関係把握)の能力は成長とともに発達し、成人になると洗練されたものとなります。精神分析医のロバート・セルマンは、この関係把握の能力の獲得を5段階に分けて記述しました。

こんな状況を考えてみてください。

ホリー(Holly)は木登りが大好きな8歳の女の子です。彼女は近所では一番木登りが上手です。ある日彼女が木に登っていると、一番下の枝から落ちてしまいましたが、ケガはしませんでした。しかし彼女が落ちるところを見ていた父親はびっくりしてしまい、彼女に「もう二度と木に登らないように約束しなさい」と言い、ホリーは約束しました。

別の日、ホリーは友だちのシーン(Sean)と遊んでいると、シーンの子猫が木に登って降りられなくなってしまいました。いますぐ何とかしないと子猫が木から落ちてしまいます。子猫のいる高さまで登れて、子猫を降ろせるのはホリーだけです。でもホリーは父親との約束も憶えています。

子供たちにこの状況を提示して、「ホリーが木に登ったら叱られると思うか?」「お父さんはホリーが木に登ったことを許してくれると思うか?」「ホリーがなぜ迷っているかシーンにわかるか?」と質問してみると、子供たちの年齢によって答えが違ってきます。

0) Undifferentiated perspective-taking (3〜6才)
自分と他人が異なる考え、感情を持っているということを理解するがしばしば混同する。

この年齢の子供たちは、ホリーは子猫にケガをしてほしくないので、彼女は子猫を助けると予測します。そして父親も木登りについて、ホリーと同じように感じてくれると信じます。「だって、お父さんも子猫が大好きだもの」

1) Social-informational perspective-taking (5〜9才)
人々は異なった情報を得ているために、異なった視点が生じるということに気づく。

この年齢の子供たちに「ホリーのお父さんは、ホリーが木登りしているところを見たらどうするでしょう?」と尋ねると、こう答えます。「もし子猫のことを知らなかったら、お父さんは怒るでしょう。でも、ホリーが子猫をお父さんに見せたら、気を変えてくれるわ」

2) Self-reflective perspective-taking (7〜12才)
他の人の立場に立ってみたり、自分の考えや感情や行動を他人の視点から見ることができるようになる。また他の人も同じことができることを理解する。

この年齢の子供たちに「ホリーは自分がお父さんに叱られると思っているか?」と尋ねると、「いいえ(ホリーは自分が叱られるとは思わない)。だって、木に登った理由をお父さんは分かってくれるもの」と答えるでしょう。お父さんにはホリーの立場に立って考える能力があるので、なぜ子猫を助けようとしたか分かり、そのことがホリーの視点に影響を与えるだろう、という前提がこの答えに含まれています。

3) Third-party perspective-taking (10〜15才)
2者の状況から離れ自分の考えや感情が公平な第三者の視点からどう見られているかを想像できるようになる。

この年齢の子供たちに「ホリーは叱られるか?」と尋ねると、こう答えます。「叱られない。ホリーにとっては子猫を助けることが大事。でも、お父さんが木に登ってはいけないと言ったことも憶えている。だから、お父さんに木に登った理由を説明できれば叱られないだろう、って考えるはず」 この答えは、眼前の状況から離れ、ホリーと父親両方の視点を同時に捉えています。

4) Societal perspective-taking (14才〜成人)
Third-party perspective-taking を理解している人は、より大きな社会の価値感に影響されるということに気づく

ホリーが叱られるか尋ねると、「叱られない。動物愛護の精神からすればホリーの行動は正当だ。父親がその価値観を認めていれば、叱るという考えは捨てるだろう」という答えになるでしょう。

(翻訳お終い)

0) 自分と他の人が違う感情を持っていることが分かる(3〜6才)
 ↓
1) 違う視点を持つ人は違う感情を持つことが分かる(5〜9才)
 ↓
2) 他の人の立場に立って見ることや、人から自分がどう見られるか想像できる(7〜12才)
 ↓
3) 自分と相手の立場を離れ、第三者からどう見えるか想像できる(10〜15才)
 ↓
4) より大きな社会の価値観に影響を受けることが理解できる(14才〜成人)

ASの人はこの Perspective Taking の能力が弱いわけです。

(話はもちろん続きます)


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加