心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年01月14日(金) 働くということ

廣中直行著『やめたくてもやめられない脳』を再読しています。

なんのために読んでいるかというと、アルコールや薬物という「物質依存」と、ギャンブルや買い物のような「プロセス依存」について、脳の中で起きていることの違いを知りたいと思ったからです。

それについては、いつか書くとして、この本の中にこんな文章がありました。

<精神医学の考え方が変わってくるのと並行して精神的な成熟に対する社会の考えも変わった。私が学生生活を送っていた一九七〇年代後半まではまだ古い考えが残っていて、精神的な成熟とは、基本的には動物学的な概念だった。つまり成熟した人には食糧を手に入れる能力と繁殖能力がなければならなかった。食糧を手に入れる能力とはすなわち「世の中に出て」働く能力であり、もっと言えば官庁なり会社なりといった組織に属することのできる能力であった。繁殖能力とは「まっとうな」結婚をし、その生活を維持する能力だった>

その後、時代は変わり、人の価値観は多様化しました。成熟した人(=精神的に健全な人)であるために、組織に属して働いたり、家族を持つことが必ずしも求められなくなりました。人それぞれであっていいというわけです。

しかし、稼得能力+家族という価値観が圧倒的だっただけに、それにかわる強烈な価値観を一人ひとりが持つことは意外と難しいことです。

発達障害に関する文章を読むと、(特定子会社であれなんであれ)働けるようになったことが本人の自己評価に大きく寄与している様子をうかがうことができます。

断酒会の新年会に行った話はヨソで書きました。いろんな人といろんな話をしたのですが、気がついたことがありました。県内の断酒会は高齢の人が多いのです。AAが30〜50代が主力に対して、断酒会は60〜70代の人が多いのです。(都市部に行けば若い断酒会員も珍しくないのだそうですけど)。

この断酒会の人たちはすでに勤め人はリタイアして、仕事は田んぼだけという人も多いのですが、とまれ酒を飲みながらでも働き、やめた後はもちろん働いてきた人たちです。長く断酒会をやっている人たちも多いのですが、その人たちが会に来た頃は、酒さえやめれば、仕事も家族も失わず、失っても再獲得できる人が多かったのだと思います。つまり、それだけの能力を備えた人が多かったわけです。

だからこそ、仕事や家族を急いで求めずに、まず半年、1年、2年と断酒に専念しろというアドバイスが有効だったのでしょう。イネイブリングを止め、底つきを待つという戦略も有効だったのでしょう。

これからもそうした戦略が有効な層は存在し続けるでしょうが、違うニーズを持った人たちも増えている・・。

新年会でそんな話をしていました。


2011年01月11日(火) ステップを進める速度

スポンシーのステップ5「恐れのリスト」の分かち合いが終わりました。
まず簡単にストーリー形式の棚卸しをやって、さらに表形式で「恨みのリスト」→「恐れのリスト」と続けてきました。ここまで長くかかりました。今後「性のリスト」があって、お終いに「傷つけた人のリスト」が来るのですが、ここまで来ればあとは順調に流れるということは経験的に分かっています。

彼が棚卸しを書き始めたのは去年の5月だったそうなので、もう半年以上かかっています。この間、スポンサーとスポンシーの一対一でやるセッションは10回を越えているはずです(数えてないけど)。ビッグブックのステップのやり方をしている人だと、12ステップ全体にかける時間は数週間から数ヶ月程度でしょうか。だから、棚卸しだけで半年以上というのはずいぶん長くかかったことになります。

なぜそんなに長くかかったのか。それはステップを戻っていたからです。
彼が棚卸し表を書き上げて、さあステップ5だと意気込んで来たときに、僕は
「棚卸しを聞く前に、いったんいままでの復習をしよう。まずステップ1を僕に言葉で説明してくれ」と言ったのです。

彼は満足な説明ができませんでした。一生懸命棚卸し表を書いているうちに、ステップ1がどこかへいっていました。「ステップ1が抜ける」というやつです。それはステップ2、3についても同様でした。そこで「医師の意見」まで戻って、(最初の時ほど丹念ではないものの)もう一度ステップ1とは何かという分かち合いをしました。ステップ2、3も同様です。その時には赤本も使いました。

「私たちはいま、最後には自由な身となってくぐり抜ける凱旋門を築いている」(p.109)

ビッグブックでは12ステップを凱旋門を作る作業に例えています。ステップ1はその基礎、ステップ2は礎石(cornerstone)、ステップ3はかなめ石(keystone)です。どれか手抜きでも建物は倒れてしまいます。だから「基礎に流すセメントは足りなくはないか。砂を抜いたモルタルを作ろうとはしなかったか」というチェックをする勧めがあります。

スポンサーも、スポンシーも、ステップを自分で思い描いたスケジュール通りに進めたいという願望を持っています。しかし工期通りにできあがっても、欠陥建造物では回復は望めません。正しいタイミングというのは、スケジュール通りという意味とは違います。

言葉での説明を求めたのは、彼も将来はスポンサーを務めるわけで、その時に言葉で説明できなければ困るし、ステップミーティングで話ができなければ困るだろうからです。

そんなわけで、これからスポンサーに棚卸しを聞いてもらおうと意気込んできたスポンシーにとっては、すっかり出鼻をくじかれた格好になったのですが、それでやる気を失ってしまわないのが彼の一番良いところです。次からはきっちりと体勢を立て直してきました。

彼はぼくより若いので、将来的には僕よりたくさんの人を手助けし、結果を残す可能性は十分あります。ぜひそうなって欲しいものです。

掲示板とブログで案内をしましたが、今週末にビッグブックのステップのセミナーが板橋であります。ビッグブックのステップと言っても一様ではなくバリエーションがありますが、彼らについては紹介文にあるとおり「絆の強いスポンサーシップ」と「ビッグブックにより忠実」が特徴です。こんな雑記を読んでいるよりずっとたくさんのものが得られるでしょう。12ステップに興味のある方は、ぜひお出かけになってください。

http://www.ieji.org/dilemma/2010/11/116-aagg.html


2011年01月05日(水) fixed mindset と growth mindset

受験勉強を例に取ります。
頭の良い人は人は良い高校・大学に合格し、そうでない人はそれなりの所に合格する。
では、ある人が一生懸命勉強して、目標より1ランク、2ランク上の高校に合格したとします。その場合、その人は勉強の努力によって賢くなったのでしょうか?

「知能は人の土台をなすもので変えることはできない。新しいものごとを覚えることはできるが、賢さを変えることはできない」

そう考える人たちがいます。アメリカの心理学者キャロル・ドウェックは、こういう人たちを固定思考(fixed mindset)と呼びました。こう考える人たちは、失敗を避け、知的に見えるように振る舞うことで、スマートな自分を誇示しようとします。

この人たちは自分に対する否定的評価を恐れます。例えば失敗を隠そうとします。マイナスの評価は大きく自尊感情を傷つけてしまい、その評価を覆すのは容易ではないからです。また、自分より劣った者と比較して優位感を保ちます。人の間違いを指摘することを、自分の優秀の証と捉えるからです。

一方、努力によって賢さを伸ばせる(知能は変えられる)と考える人たちを成長思考(growth mindset)と呼びます。努力によって成長し続けられると考える人にとって、人生とは成長そのものです。失敗によって自分の価値が決まることはないので、失敗を恐れないし、それほど恥じることもありません。

参考リンク:自分の能力を固定的に考える人と成長し続けると考える人
http://d.hatena.ne.jp/himazublog/20060318/1142697735

僕はネットで雑記を書いているわけですが、当然完ぺきな人間ではないので雑記や掲示板では間違ったことも書いてしまいます。親切にその間違いを指摘してくれる人もいます。それは大変ありがたいことです。
中には間違いを指摘したのに、僕が思ったほど凹まないのを意外に思う人もいるようです。おそらくその人は fixed mindset の人で、皆の前で間違いを指摘されて落ち込んだ経験があり、僕が同じ反応を示さないことが気に入らないのでしょう。

その種の失敗を恐れていていて雑記は書けません。間違いを指摘されたから僕の価値が減じてしまうわけでもありません。逆に僕がより賢くしてもらえたのですから。つまり僕は growth mindset の人だと言いたいわけです。(だからといって、掲示板で自閉圏の固着に付き合いたいとは思いませんけど)。

では、この二つのタイプのどちらが12ステップに向いているでしょうか?
それは growth mindset の人ではないかと思います。fixed mindset の人は、あえて自分の欠点(つまり失敗)を探す表形式の棚卸しには心理的抵抗を示すからです。

ドウェック先生の話に戻します。この二つの違いは、人格の根本を成すものですが、あくまで考え方に過ぎないので変えることができます。スポンシーが fixed mindset を持っているようなら、growth mindset に変わるように導くことが必要なのでしょう。そのためのヒントは上のリンク、ドウェック先生の話の中にあります。

参考キーワード:実体理論、拡大理論

fixed mindset の人は自分より劣った者との比較を好みます。それは逆に自分より優れた人との比較を恐れ、回避することでもあります。「スポンサーとスポンシーは平等だ」と強調する人は、この fixed mindset のタイプなのでしょう。

そりゃもちろん、スポンサーだろうがスポンシーだろうが、人として平等なのは当然です。でも、それを言ったら教師と生徒も、医者と患者も、人としては平等です。でも、生徒は先生の、患者は医者に従わなければ勉強も治療も成りません。

「スポンシーってのはスポンサーのドレイだよ。反抗は許さん」と言い切っちゃう人もいます。こういう人が嫌われるかというと逆で、スポンサーとして大人気だったりします。人として平等だけれど、スポンシーはスポンサーの指示に従ってくれないとスポンサーシップにならないのであります。


2011年01月04日(火) 新春発達障害ネタ

今年もよろしくお願いします。

そして今年もいきなり発達障害ネタからです。

名古屋の杉山先生が書いた文章に、こんな話がありました。
新しく来た看護師さんが先生の元で仕事を続けていると、患者さんの「ああこの人のこの部分が発達障害なのだ」と分かるようになってきます。やがて来る人全員が発達障害を持っているかのように見えてしまうのだそうです(もちろん、そうではない)。

発達障害とは何かというと、その人の持っている能力のバラツキです。分かりやすい例えをするなら学校の成績を思い出して下さい。成績の良い人は5教科すべてで高い点数を取り、成績の悪い子は全般に点数が低くなります。けれど教科によって得手、不得手があって、算数が得意だけれど国語がダメとか、英語ができるけれど理科の点数が多少低いなどと、点数のバラツキがあるのが普通です。

これは勉強以外の分野についても同じで、自閉圏の人は記憶力に優れるので学校の勉強はできるのですが、一般化や想像する能力が低いので、人の輪から疎外されやすいのです。

それほどの偏りでなくても、スポーツが苦手だったり、本を読むのが苦手ぐらいはいくらでもある話です。できる人は何をやらせてもうまいし、逆に神さまの恵みがその人のどこに隠されているか探すのが大変な人もいます。能力の全般的な高低だけでなく、その人の中でバラツキがあるものです。

もちろん、このバラツキすべてが「障害」ではありません。

杉山先生は「発達凸凹」という概念を提唱しています。人間は誰でも能力の発達の凹凸(つまりデコボコ)を持っているものです。そのことが社会の中で暮らしていくのに支障になっていなければ「障害」と呼ぶのは適切ではありません。しかし、そのデコボコ(凹の部分)が、生活に影響したり、人間関係を維持するのを妨げるようになると、精神的なトラブルを起こすようになります(適応障害)。

杉山先生は、発達凸凹+適応障害→発達障害という視点を提唱されているわけですが、医者でない僕としては適応障害という精神疾患に限らず、社会適応全般の障害も加えて考えた方が良いと思います。

中学校→高校→大学→就職という人生のステップ(階段)を考えたとき、一つ上との段差は小さいし、周りのみんなと一緒に上がっていけます。だから大きな発達凸凹を抱えた人も定型発達の人と一緒に階段を上がれます。だから、人生の中途までは順調に見えるわけです。

けれど、その人の能力の凹の部分がどこかで足を引っ張ります。それが適応障害のうつ症状となって現れたり、アルコールや薬物の依存として目立ってくるわけです。そうして仕事や家族を失うと、今度は復帰するために階段を一ステップずつ上るのではなく、一度に大きな段差を乗り越えねばなりません。

定型発達の人はその大きな段差をなんとか乗り越えることができても、凸凹の大きな人は凹の部分が妨げとなって乗り越えられず、ふたたび階段の下へ落ちてしまうわけです。こうした社会適応の障害がある場合は、やはりその凸凹を「障害」と呼ぶのが相応しいのでしょう。

都市部のAA会場に行くと、年単位で酒が止まっているのに生活保護で暮らしている人の存在が珍しくありません。見れば知的障害も精神障害もありそうにない。就職しようとしても仕事が安定せず、最悪ストレスで再飲酒&再入院という結果になってしまうのだそうです。今後時間はかかるでしょうが、発達障害についての社会資源が増えていけば、こういう人たちも適切な支援を得て社会復帰していけるでしょう。ただ、それが何年先の話なのか。

政府の税収不足を背景に、福祉に使う金を削ろうという動きがあります。単に生活保護を受ける人数を減らそうとするのではなく、発達障害に対する適切なサポートを増やすべきです。そうした分野が一つの産業として成立するぐらいになれば、生活保護受給者が納税者に次々変わって、政府だって潤うはずです。


2010年12月31日(金) 今年も1年ありがとうございました

Webalizerの出力データ。

今年一年の統計データ
送出バイト数 68.0Gbytes
訪問者数 70万8千
リクエストページ数 378万
リクエストファイル数 630万
リクエスト数 600万

今年も多くの皆さんに訪問していただいて、本当にありがとうございました。
一日の訪問者数2,000人足らずというのは、大きな変化がありません。

今年を振り返ってみると、AA的に大きなトピックはスポンサーシップにありました。

話はいきなり逸れます。グループホームや作業所を作ろうと活動している人たちの話を聞くと、障害を持った子供たちも18才までは養護学校で面倒を見てもらえて、親として大変ありがたい。ところが18才を過ぎた途端に、社会的なサポートがぐっと少なくなり親の肩にずっしりとかかってくるというのです。

また統合失調の親御さんたちの話でも、「自分たちが死んだらこの子の面倒は誰が見てくれるのか、これでは死ぬに死にきれない」と言います。「この子」といっても30代、40代の中年になっているわけです。

同じような問題は、アルコールや薬物依存の「この子」たちにも言えます。

「配偶者(奥さんとか)子供と同居」「単身」「親と同居」の3種類のパターンを比較したときに、一番社会的回復に時間がかかるのが「親と同居」のパターンです。もちろん、一概にものを言ってはいけなくて、仕事をしながら老親の面倒を見ている立派な人もいます。しかし、家族や仕事を失って実家に身を寄せ、親の年金で暮らしている依存症者も少なくありません。とりあえず家賃や食費の心配をしなくて済むぶん、社会的回復が先送りされている面があります。

これは、学校卒業後に親から自立することなく就労体験の少ない人にとっても、あるいはいったんは経済的に自立し結婚生活を営んだ後に親元に戻った人でも同様です。この両者にあまり差はなさそうです。

特に男性にとっては老いた母親の作る料理や身の回りの世話、年金などは(経済的不自由に目をつぶれば)それなりに快適なものです。母親がおらず父親だけとの同居だとそれほどの快適性はないみたいですが。

親の心配としては、やっぱり「自分たちが死んだらこの子の面倒は誰が見てくれるのか」ということです。そもそも人の世話にならなくて済むように、経済的に自立して、生活のことも自分でできるようになって欲しい、と息子に願うのが親の気持ちです。

昔だったら、そんなケースでも「2年ほど毎日ミーティングに通わせて、しっかり酒や薬を切るのが先だ」とシンプルなアドバイスをすれば良かったのです。それは酒や薬が止まれば仕事もできるようになる、「酒をやめられれば何とかなる」という前提条件が成り立っていたからです。

しかしその条件が成り立たないケースが増えてきたというわけです。この年齢でなんとかしなければ、親が亡くなってしまった後は、生活保護でどこかの施設に入るしかない・・いま何とかしなくては。スポンサーをやっていて、つくづくそういうことを感じさせられました。

さて、今年最後のミーティングに行って参ります。なんだかんだ言っても、ミーティングがあって、ステップがあって、根本的な酒の問題が解決できるからこそ、その先の問題で悩めるわけですから。

皆様良いお年を。


2010年12月30日(木) なぜ発達障害に関心を?

今年の初めの雑記を読み返すと、発達障害のことばかり書いていたことがわかります。今年は発達障害に始まり、発達障害に終わった1年だったとも言えます。

僕はアルコホリズムの当事者としてアディクションの問題に関心があるだけです。その僕がなぜ発達障害の問題を追いかけているのか。それは単なる興味ではありません。

AAで酒をやめて5年ぐらいは、僕は県外のAAの実情をほとんど知りませんでした。たまに県外で開催されるAAのイベントに参加するか、出張に行った先のAA会場を訪れるのがせいぜいで、地元のことしか知りませんでした。けれど、しょっちゅう県外まで出かけていく仲間もいて、彼らは「東京近辺のメンバーはすごい(実力があるよ)」と感想を言うのでした。

地元のAAグループはどこも同じような問題を抱えていました。医療機関や保健所などいろいろなところからたくさんの人がAAを紹介されて会場を訪れるのですが、AAにつながる人は少なく、数回来ただけで来なくなってしまう人ばかりでした。また、せっかくAAを続けた人も、2〜3年すればミーティングに来なくなることが珍しくありませんでした(これを「卒業」と呼ぶ)。

結果どこのグループでも、一部の熱心な人たちがAAグループを切り回し、あとはビギナーばかりという状況が続いていました。

ビギナーを定着させ、「卒業」を防ぐために、ミーティングに出続けようという呼びかけが熱心に行われていましたが、何の解決にもなっていませんでした。だがきっとそれは僕の地元のローカルな問題で、東京や神奈川に限らず、大都市近辺には人数の多いグループはいっぱいあるにちがいない。日本のどこかにはこの問題を解決した人がいるはずだ・・・。そのように期待していました。

その後、AAの評議員という役割に選ばれました。これをやっていた2年間は、毎月東京へ行って関東の仲間と話をし、また2月には全国から集まっての会議がありました。それでわかったことは、僕らが抱えていた問題は、全国のAAに共通する問題だということです。

NY GSOのメンバー推計を見ると、アメリカのAAメンバー数は126万人。グループ数は5万7千ですから、1グループあたりの平均メンバー数は22人です。いま日本のAAグループで22人のメンバーがいるグループがどれだけあるでしょう?

AAを「卒業」したとしても、その後ずっと再飲酒することがなければ、AAはその人の役に立ったと言えるのでしょう。だが、そうではないことは数々の経験が証明しています。

「日本のAAは構造的問題を抱えている」

ではその原因はどこにあるのか。12ステップの力が弱まったからです。ステップ5(棚卸し)までしかステップをやらない人たちが増え、やがてまったくステップをやらないAAメンバーも増えてきました。スポンサーもスポンシーも持たないメンバーも増えました。僕も日本のAAのメンバーとして、これと無縁ではありませんでした。スポンシーや、グループのビギナーを手助けする手段を持たず、なにより自分の飲まない生活そのものが危険にさらされていました。

AAが持っているユニークな力を、日本のAAは失ってしまっていました。ではどうやってそれを取り戻せばいいのか。日本のAAを始めた二人のメンバーはすでにこの世にいませんし、この二人の代わりを勤めようという人も現れません。手段はないのか?

その答えが「ビッグブック」でした。これはAAのメッセージを運ぶ器として作られたものですから、うってつけでした。同じ問題意識を持っている人たちが集まって、ビッグブックのムーブメントが起こりました。それについては何度も書いてきているので改めて書きません。

その結果を評価するにはまだ早いと思いますが、多くの人たちと同じように、僕も「手ごたえ」を感じています。このやり方を続けていけば大丈夫だという確信を得ています。

だがビッグブックを使ったステップですべてが解決されたわけではありません。僕自身のスポンサーシップの中にも失敗がありましたし、他の人についても同様です。うまくいかなかったケースはいくらでもあるのです。

失敗には原因があり、そこには何かの問題が存在しているはずです。その原因をつきとめて解決すれば、失敗は減り、ビッグブックのステップの成功例はもっと増えるはずです。なにも考えずにただ失敗を繰り返していては愚かとしか言いようがありません。

そうやって調べていくうちに、発達障害の問題につきあたりました。もちろん、ステップがうまくいかない理由には様々なものがあり、すべて発達障害というわけではありません。けれど、発達障害を学んだ目で見れば、依存症と呼ばれる人のなかに意外なほど発達障害の問題を抱えていそうな人が多いことに気づかされます。

たいていの場合、発達障害は回復の足を引っ張る方向に作用しています。この問題をどうやって解決していったら良いのか。それは(少なくとも僕にとっては)すべてこれからです。でも、数年前からこの問題に取り組んでいる人たちもいて、その人たちの経験は他では得がたいものです。

これが、僕が発達障害に関心を寄せている理由です。

つまり、まずAAの中でステップの力が弱まったという問題があり、それをビッグブックのステップという手段で乗り越えつつあるわけです。そうやって、ひとつの山を乗り越えたところ、次に発達障害という山が見えてきたので、今度はそれを乗り越えなくちゃならなくなったわけです。

(たぶん、発達障害という山を乗り越えれば、次にまた別の山が待っていることでしょう。問題と解決とは常にそういう構造をしているものです)。

適切な支援があれば、酒をやめ、人々のいる社会に復帰できる人はもっと増えるはずです。


2010年12月24日(金) 掲示板について

過去の話ですが、「これ以上ひいらぎさんの掲示板に書くなら、実家に帰らせていただきます」と奥さんに言われてしまった人がいました。「ぶどう」に限らず、掲示板投稿やブログのコメントを書くことによって精神状態が悪化しているのに、それを自分で止めることができない、という悪循環にハマってしまう人がいます。とばっちりを喰らうのは家族です。

このような聡明な奥さんが、誰にでも与えられているわけではありません。

「心の家路」もすでに9年目。多少なりとも名が知れたようで、リアルで人に会うと感想をいただくことがあります。その中で最も多いのは、掲示板「ぶどう」運営に対するねぎらいの言葉です。

それは「どうしようもない行為を繰り返す人たちの相手を、よく続けてらっしゃいますね」という類の、褒められているのか貶されているのかビミョーな言葉です(褒められていると受け取っておきますが)。

メンヘル(メンタルヘルス)に関する掲示板を運営している以上、いろいろな状態の人がやってきます。回復した人ばかりではなく、精神状態の悪い人たちも来ます。その「どうしようもない行為」については、ある程度の受忍も必要だと思っています。

掲示板運営のねぎらいの言葉に対して、僕の答えはいつも決まっています。

「ご家族の苦労を思えば、大したことはない」

僕はしょせん掲示板で相手にしているだけなのです。それは、自分の空いた時間を使っているだけだという意味です。嫌なら相手にしなければいいし、放置してもいい。スルーする能力は掲示板でのコミュニケーションに必要な能力です。最悪、書き込み禁止で相手を締め出す手段も残されているのです。

けれど、「どうしようもない行為をする人たち」にだって、家族はいるのです。家族は本人に24時間態勢でつきあわなければなりません。相手にしたくなくても絡まれるし、無視すればキレられる。本人を締め出したくても、離婚や別居という面倒な手順を経ねばなりません。まして親子となれば、別れたところで血のつながりは断てないのです。

そういうことを考えると、掲示板から締め出すのも早め早めの決断が求められていると考えています。

ネットワーク環境の普及とともに、掲示板にたどり着く人たちの性質も変わってきました。2009年後半の掲示板のやりとりのなかで、「もはやオープンな掲示板で有意義なコミュニケーションは期待できない」という意見が出ていました。僕もある程度それに賛成です。

実際に僕も「ぶどう」を初めとするオープンな環境から、クローズドなコミュニケーションへと移行しています。例えば直接のメールのやりとりや、メーリングリスト、会員制の掲示板、mixiなどです。管理人がそんなわけですから、「ぶどう」が以前ほど流行らなくなって、単なる情報掲示板になっていったのも当然です。

もともとリアル(対面)の自助グループに関する同好の掲示板だったわけで、ネットでうだうだ言ってないで自助グループに行け、というスタンスなのですから、掲示板が流行らなくても何の問題もなかったのです。

ただ、今回「ぶどう」が変な盛り上がりを見せた中で、やっぱりオープンな環境でなるべく有意義なコミュニケーションをしたいという要望がある程度あることもわかってきました。そのためには「どうしようもない行為を繰り返す人たち」をある程度制止する必要があるでしょう。何らかの形で、掲示板の機能を変更して、その要望に応えていきたいとは思っています。冬休みに時間が取れればやります。

掲示板の意見に偏りがあるという話もありました。個人の運営している掲示板なのだからそれは当然のことです。世の中にはたくさんの掲示板があり、それぞれに特色があります。自分の気に入った掲示板に行けばいいことですし、自分で掲示板なりブログなりを運営して、そこで自分好みにやればいいことです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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