心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年10月12日(火) 閉鎖病棟で3年

アル中の分散収容という言葉を知っている人は、この業界?でもかなりの古参でしょう。
おそらく20年ぐらい前までは、アルコール依存症の人はその他の精神病の人と一緒に精神病棟に入院しているのが普通でした。統合失調の人は入院中は継続して具合が悪いのが普通ですが、依存症の人は酒や薬が切れれば一見マトモに見えるようになってきます(そう見えるだけなんですけど)。自分はマトモだと思っている人に具合の悪い人と同じ行動制限を加えていると、不満が溜まってきます。
そうした不満を持ったアル中さんたちを、一カ所(同じ病室とか)に固めておくと、雰囲気が不穏になり、やがて統合失調の人たちを扇動して「病棟内反乱」を起こすこともしばしばでした。そうなると困るので、病院側はアル中さんを一カ所に固めず、病棟内のあちこちに散らばらせました。これが分散収容です。(古くローマ時代から伝わる知恵「分割して統治せよ」ってやつか?)

そうしたやり方を変えていったのは、久里浜病院での開放処遇です。いままで閉鎖病棟に閉じこめておいたアル中を開放病棟に移し、分散していたものを一カ所に集め(アルコール病棟)、期限の定めの無かった入院を2ヶ月あるいは3ヶ月と決め、ただ寝かせておくのではなく行軍や自省というプログラムを行いました。これが全国に広がった久里浜方式というやつです。

さらには依存症を取り扱うメンタルクリニックが増加したことにより、わざわざ入院しなくても、デイケアを含む通院による治療が普及していきました。こうして閉鎖病棟から開放病棟へ、入院から通院へと、依存症の治療は変わってきたのです。

ところが今でもアルコール依存症の人を閉鎖処遇している病院があります。現場のことを何も知らない僕は、そうした病院は「旧態依然の治療を行っている悪い病院」だと考えていました。けれど、必ずしもそうではないみたいなのです。

先日高名な臨床医の先生の講演を聴いたのですが、その中で、何度入院させても退院すると飲んでしまう人は、閉鎖病棟や保護室に2年とか3年入れておくと酒や薬が止まることがある、という話がありました。そんなに長い間行動制限するのは可哀想と言われるかもしれませんが、人間は大事なものは鍵をかけてしまっておくわけで、その人のことが大事だと思うからこそ(命を救うために)保護室に2年という処遇になってしまう、という解説でした。

前述の病棟内反乱の話でわかるとおり、アル中というのは酒が切れればマトモに戻ったような気がしていても、考えていることは全然マトモに戻っておらずメチャクチャなわけで、それで飲んでしまうというのなら、酒がちゃんと抜けるまで2年閉鎖処遇というのも妥当な話なのかもしれません。

依存症悩み事相談所を開設した覚えはないのですが、家族の方から相談を受けることは珍しくありません。その中にはいつまで経っても良くならず、着信時の電話番号を見るだけで少々うんざりというのもあります。典型的なのは、男性で、年齢は40代、職業は無職か危機的状況、結婚生活・経済生活は奥さんの驚異的な忍耐力によって維持されているか、あるいは一歩進んで実家に戻っておいた母親の年金で酒を飲んでいる状態。暴言があり、説教すれば暴れ、何度入院させても退院すればすぐ飲んでしまい、なかなか再度の入院に同意しない。家族が経済的にも精神的にも疲れた果てている・・。そんな話です。

保護室あるいは閉鎖処遇2年というのは、こうした状況に対する一つの回答なのかもしれません。そういえば、東京の某有名回復施設の所長を長くやったBさんも、飲まない生活の始まる前には保護室に2年入れられていたという話をしていたような気がします。

閉鎖から開放へ、入院から通院へと治療法が変化し、その変化のせいで助からない人たちを生んできたとするなら、昔のやり方も残す必要があるのでしょう。そんなわけで、その講演を聴いて以降、僕の考え方が変わり、その手の相談に対しては、どこそこの病院(そこは閉鎖しかない)に頼んで3年ぐらい入院させてもらったらどうか、という回答をしているのです。本人が治療意欲を持つのを待っていたら死んでしまう病気ですので(死ぬのが本人とも限らないし)。その判断の良否を判定するには数年かかるでしょうけど。


2010年10月06日(水) 患者調査データ発表される

厚生労働省の平成20年患者調査の結果が一部発表されています。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/kanja/10syoubyo/index.html

患者調査というのは、全国の医療機関を抽出して、どの病気の人がどれぐらい入院・通院しているか調べた統計で3年おきに調査が行われています。(この後で使う用語の解説も上記のサイトにあります)。

アルコール依存症の総患者数は4.4万人。過去5回とも4万人台で推移しています。アルコール依存症の診断基準(IDC-10)を満たす人は約81万人と推定されますから、依存症の治療を受けている人は19人に1人しかいないわけです。ということは19人中18人は未治療のまま。

依存症についての集計はこれだけしか載っていないので、他の精神病を見てみましょう。
気分障害全体(うつ病、躁うつ病、気分変調症など)の総患者数は104万人。これは平成8年の43万人から2倍半になっています。このうち7割弱がうつ病(F32-33)です。
統合失調症は総患者数が平成8年に57万人、それ以降なぜか総患者数の発表がありません。入院が減って通院が増えていますが、総数に大きな変化はなさそうです。
神経症(F40-48)が59万人。
摂食障害(F50)は総患者数の発表が無く、推定入院数が1.7千人、通院数は1.0千人。このうち神経性無食欲症(いわゆる拒食)が入院1.0千人、通院0.3千人。
自閉症の総患者数は2万7千人。一貫して増え続けています。

話をアルコール依存症に戻すと、昭和の時代には入院数が1万人台後半だったものが、今回は9.1千人とほぼ半減。通院は2千人程度からほぼ倍増しています(とはいうものの近年減少中)。アルコール依存症の治療が入院から通院にシフトしている時代の流れを反映しています。

こうして眺めてみると、目立つのはうつ病の患者が近年ぐんぐん伸びたことです。うつの患者が増えたのは、不景気が続き労働環境が悪化したり、人間関係が希薄になったという、ストレスフルな方向への社会の変化・・・が原因ではなく、製薬会社が新しい抗うつ薬(という利益率の高い商品)を売るために積極的にうつ病のキャンペーンをやったからです。いや、別にそれが悪いと言っているわけではありません。ただ、何らかのキャンペーンを行えば、いままで病院に行かなかった人が「ああ自分のこれは病気の症状なのだ」と思って医者に行くようになるってことです。

だから、もし依存症の新しい治療薬が開発されたり、薬でなくても何らかの新しい治療法ができあがれば、それを提供する会社が積極的なキャンペーンを行って、その結果依存症患者がわんさとクリニックを訪れるようになるでしょう。

でも、今のところそんなうまい話にはなりそうもないので、19人中の18人を治療へと誘う役割は、回復者自身の手にゆだねられているというわけです。なかなかそういうことに税金は使ってもらえないのです。


2010年09月30日(木) 回復とは何か?

アルコール依存症に「治癒はないが、回復はある」と言います。
治癒とは治った状態、病気のない状態です。例えば風邪が治れば、風邪を引いていない健康体に戻るわけです。依存症の場合には、病気がない状態には戻れないのですが、回復はあるとされています。(少なくとも診断基準は満たさなくなる)。

ではその「回復」とは何なのでしょう。どうなれば「回復」なのでしょう。それがハッキリしなければ「回復しろ」と言われても、何を目指して良いのか分かりません。

以前アメリカの回復擁護運動の本を読みました。彼らが擁護(アドヴォケート)する「回復」とはいったい何でしょうか? 彼らは回復について様々な定義を試みたあげく、最後には回復を定義することを諦めています。人によって何を回復とするかは実に様々であり、それを包括できる定義は決めようがなかったのです。「その人が以前より良くなった、回復した」と思えるのならそれが回復、として回復の定義を一人一人に任せてしまっています。

12ステップでは何が回復かはハッキリしています。「霊的な目覚め」が実現された状態が回復した状態です。けれどステップをやる以前でも、ともあれ飲んでいた酒が止まっていれば、それはそれで回復と呼んでかまわないでしょう。

それぞれ勝手に回復を定義して良いということなら、僕は僕なりの回復の定義をしなくてはなりません。それはこんなものです。

飲んでいた頃の僕は「もし・・・だったら」という考えにとりつかれていました。例えば、僕は進学のために上京し、東京での一人暮らしに適応障害を起こして酒がひどくなりました。すると、それを振り返って「もし実家が東京の近くにあったら、自宅から学校に通えて楽だったろうに」と思ってしまうのです。

しかし、長野にある実家が東京近辺に移動することは現実にはあり得ないわけで、「実家が東京の近く」という幸せは、僕の人生のタイムラインの上には実現不能です。つまり幸せを別の人生の上に求めているわけです。実現不可能な幸せを追い求めてしまうのだから、これは不幸です。

この他にも、もし大学を辞めてなかったら、もし会社を辞めてなかったら、あそこで彼女と結婚していたら、結婚しなかったら、あの時大酒を飲んでトラブルを起こさなかったら・・という「たら」「れば」を考えてしまうわけです。それは、人生が過去に分岐していて、自分が選ばなかった分岐(選択肢)の先に幸せがあったはずだ、という思いです。そしてこれは、酒をやめた後も続きました。例えば「もし、アル中になっていなかったら」というやつです。

今はそうではありません。自分の追い求める理想は、自分の人生のタイムラインを未来に延長した先にあります。実際その幸せが実現できるかどうかはわかりません。けれど、この人生(道)の先にその可能性があり、それを目指して歩いていけばいいのだ、と分かっています。

新宿で雨に打たれ歩きながら考えました。自分は大学を中退し、仕事もたびたび辞めてキャリアを中断し、自殺未遂をし、精神病院に入院し、酒で10年分の人生経験を失って、そのツケはいまも払い続けています。けれど、僕の人生はこれで良かったのだ、と。

「自分の人生はこれで良かったのだ」、いまのこの人生は生きるに値する良い人生だ、そう思えるようになることが、僕の回復の定義です。そして、そのような変化をもたらすのに、人間一人の力では不十分だということも。

僕の回復の定義は、飲んでいない期間が長くなるにあわせて、その都度変化してきました。これからもソブラエティが続いていけば、また定義が変わっていくのかも知れません。


2010年09月27日(月) 共依存=支配とコントロール

アルコール依存の人が酒をやめると共依存の症状が残る、というのがこのギョーカイの標準的な理解なのだそうです。

共依存とは「世話焼き」のことだと言う人がいます。例えばアル中の旦那を持つ奥さんが、旦那が酒を飲んで起こしたトラブルの後始末をするのが世話焼きです。二日酔いで体調が悪い夫のかわりに職場に休む連絡をしてあげる。酔って帰宅し玄関で寝てしまった夫を布団まで連れて行く。夫が外で人様にかけた迷惑をかわりに謝ったり弁償したりする。・・・これが共依存であると解釈すると、「酒をやめた後に共依存が残る」という言葉が理解できなくなります。

なぜなら、アル中さんは酒をやめたからといって、誰かの世話焼きを強烈に行うことはあまりないからです。(AAメンバーが誰かのスポンサーになればあるかもしれないけど)。

共依存の本質は世話焼きではなく、支配とコントロールです。奥さんたちは「世話焼き」という手段によって、酒を飲んでいる旦那をコントロールし、状況全体を支配しようとしているわけです。アル中本人が酒によって万能感を味わおうとするように、共依存の人は世話を焼くことによって万能感を実現しようとします。アルコール依存症では酒を飲むことが原因ではなく症状であるのに対し、共依存の場合には世話焼きが症状ということです。

酒をやめたアル中さんたちは、(あまり人の世話は焼きたがらないが)状況全体を支配し、コントロールしたいという欲が出ます。そのために、自分の考えが一番であり、人の言うことは聞きたくない。「アル中は・・・である」とひとくくりにされたくない。こいつらまるでわかっちゃいねえバカばっかり、オレの言うことを聞いていればいいのに、になってしまうわけです。

なぜ支配すること、コントロールすることを望むのか。それは自分の中の満たされない欲求を満たそうと努めるからです。ステップ4ではその様々な欲求に「本能」という名前を付け、自分の欲望のアンバランスさを分析していきます。

しかし、自分の共依存の問題を解決しようとするならば、ステップ4以前に、まずその問題を抱えていることを自分に対して認めねばなりません。アル中が飲酒をコントロールしようとして失敗を重ね、最後にアルコールへの無力を認めるように、共依存でも状況をコントロールし、人を支配しようとして失敗を繰り返す自分を自覚し、状況に対して無力を認めることから始めなくてはなりません。

そのためにも、共依存=世話焼きと表現することをやめ、共依存=支配とコントロールという文脈を使っていく必要があります。

ACの問題も共依存です。アル中本人と同じで、ACも症状が世話焼きとは限りません。「ACの特徴」というのを検討してみれば、過剰に物事を推測すること、自分を過剰に批判すること、責任を取りすぎること、取らなさすぎることなどなど、それぞれが自分を取り巻く状況を支配しコントロールするためのものであることがわかります。

しかしながらACの人たちは、状況に対する無力を認めるにしても、自分が状況をコントロールし、人を支配しようとして失敗を繰り返している無力ではなく、自分が状況の犠牲者であるからこそ無力だと感じがちです。これではステップ1にならず、後のステップへも進みません。「誰かを悪者にし、状況の被害者をやっているうちは回復しない」と言われるゆえんです。(むろん虐待などで被害を受けた傷のケアとは別の話)。

アル中さんたちが、アルコールの問題から目をそらそうとするように、共依存の人たち(親や奥さんやACの人)は自分に支配とコントロールへの強い渇望があることから、目をそらそうとします。それが「世話焼き」という言い換えとして現れてくるわけです。依存症の人は問題に対する否認が強いのですが、それは共依存やACでも全く同じです。

あるACの人が(その人も回復歴は長いのですが)「自分はACだから準備も完ぺき主義なんです」と言っていたのですが、それを聞いた僕は反射的に心の中で「自分はACだからコントロール欲が強く、完ぺきな準備をすることで状況を支配したいのです」と言葉を置き換えたのでありました。


2010年09月21日(火) 「言いっぱなし聞きっぱなし」だけでは回復しない

自助グループの多くは「言いっぱなし聞きっぱなし」を採用しています。
「言いっぱなし聞きっぱなし」と言われても、自助グループになじみのない人は何のことだか分かりません。言いっぱなしという日本語はあっても、聞きっぱなしという単語は普通使いませんから。「言いっぱなし聞きっぱなし」というのは、自助グループのジャーゴン(専門用語)であり、内部で使うべきもので、一般に向けて使う言葉ではありません。

これは crosstalk の禁止という意味です。ミーティングで誰かが離したことに対して、直接意見や質問をしないというルールです。
例えば誰かが「酒は飲んでいないが昨日の晩も妻を殴ってしまった」と語ったとしても、それに対して「DVは犯罪だよ」とか「殴られる者の気持ちになってみろ」などと言わないわけです。そのかわり、自分も昔は殴っていた経験とか、それがなぜ止まったのかとか、子供の頃に親に殴られ続けた経験などを話しても良いし、あるいは平然とスルーして自分の話したいことを話します。

人は肯定され、受容されるのを好むものです。批判されたり否定されるのを好む人はいません。だからクロストークがあると、人はそこから遠ざかるようになり、自助グループとして成立しなくなってしまいます。
ましてや、依存症の人たちは(ACの人たちも)自己中心ですから、たとえ建設的で自分の回復の役に立つ意見であっても、指示を受けることを好みません。指示を受けられないで、自分で自分の誤りに「気づいて」修正していくしかありません。

しかし、自助グループが「言いっぱなし聞きっぱなし」だけで機能するかと、そんなことは決してありません。なぜなら「言いっぱなし聞きっぱなし」というのは自助グループの中のローカルルールであり、社会はそうなっていないからです。仕事で上司から指示を受けて「あなたの言いたいことは分かるが、私はそれをやりたくないのでやらない」などと言っていたら雇ってもらえないわけです。社会復帰のためには、やりたい・やりたくない、ではなくやる必要があることをやらなくてはならないからです。

そもそも回復のためには、やりたくないことも、必要であればしなくてはなりません。

自助グループの多くが採用している12のステップは、やりたいようにやるものではなく、スポンサーの指示を受けながら、その通りにやった時に効果が出るようにデザインされています。やりたい部分だけやる、とか、自分の解釈でやる、というのでは本来の効果が出てきません。

自助グループというのは、「言いっぱなし聞きっぱなし」の非指示的なミーティングと、強力に指示的なスポンサーシップの二つを両輪として進むようになっており、片方だけではグループとしても個人としても成長回復がありません。

話は脇に逸れるのですが、断酒会にはスポンサーシップがないではないか、という人がいます。僕は断酒会員ではないのですが、断酒会で先輩が後輩の世話をするとか、会長が新人を指導するというのが、スポンサーシップに相当するのだと聞いています。さらに、平等意識が強調されるあまり、この「指導」の関係が希薄になりつつあるのが、断酒会員数の伸び悩み(あるいは減少)と関連しているという意見を聞いたことがあります。AAでも、スポンサーシップが弱体化した時期には、停滞感が漂いました(それはまだ続いているかも)。

日本の自助グループの中には、12ステップを採用していてもスポンサーシップが普及していないところが少なくありません。それには、先に成立したAAやアラノンがスポンサーシップをないがしろにしたせいでありましょう。しかし「自助グループに理解がある」とされている援助職の人たちの中に、「自助グループは受容的で非指示的なものだ」という誤解や幻想がありはしないか、と思うのです。だとすれば、そういった誤解を解いていくのも僕らの責任であり、自助グループは受容と指示の両方をバランス良く提供するものだという知識を広めて行かなくてはなりません。

話は少し変わるのですが、日本では「カウンセリングは非指示的なものだ」という考えが広がっています。カウンセラーは話をよく聞いてくれるもので、ああしろこうしろと指示はあまりしない、という考え方です。これは肯定的関心、共感的理解を重視する「来談者中心療法」というのが日本で流行っているからです。

来談者中心療法(Client-Centered Therapy)というのは、その前は「非指示的療法」(Non-Directive Therapy)という名前で、カウンセラーが指示することよりも受容することを重視しています。これはカール・ロジャースという有名な心理学者が提唱した技法で、これを指示する人たちをロジャース派(あるいはロジャリアン)と呼びます。

実は欧米では指示的なカウンセリングが主流で、ロジャリアンは少数派です。しかし、日本ではカウンセラーといえばロジャリアンばかりです。なぜそうなってしまったのか。ある有名な先生がこんなたとえ話をしていました。オーストラリアに入植したヨーロッパ人がウサギを持ち込んだら、天敵がいないのであっという間にオーストラリア中にウサギが広がってしまった。日本のロジャリアンも同じであると。

日本ではカウンセリングも、自助グループもあまり普及しているとは言えません。それは、それは一般にはあまり効果がないと見なされているということでもあります。僕は共感と受容を重視する方針を否定するつもりはありません。そういうことも必要だと思っています。しかし、そればっかりでは困ってしまうわけで、やはりバランスが大事です。日本で自助グループやカウンセリングが流行らないのは、あまりにも共感と受容に偏りすぎているからではないかと思うのです。


2010年09月16日(木) 飲酒夢

例によって、ざっくりとした翻訳です。
元ネタはこちら
Drinking Dreams | A Wake Up Call for Recovering Alcoholics
http://www.everythingaddiction.com/addiction/alcoholism-addiction/drinking-dreams-can-be-a-nightmare-or-a-good-reminder/

Drinking Dreams Can Be a Nightmare or a Good Reminder
飲酒の夢は悪夢かそれとも良い警告か?

土曜日の午後、私たち4人はニューポートビーチの Woody’s Wharf の前の波止場にボートを横付けした。船を泊めた私たちは、通路を上がってレストランの中にあるバーに入った。妻と妻の友人たちは、お休みを言って化粧室へ行ってしまったので、私はしばらくバーをぶらついてから、バーテンダーに氷なしのウォッカのダブルを頼んだ。手渡された大きなタンブラーは、縁まで透明な冷たい液体で満たされていた。私は片手にそのグラスを持ち、もう一方の手を腰に当てて、ぐっと飲み干した。

そしてタンブラーを口から離すと、目の前にスポンサーがいるじゃないか!

・・・というところで私は目が覚めた。

飲酒の夢(あるいは薬を使う夢)は、まだソブラエティ(断酒期間)が短い人たちにはありふれたことだし、ひんぱんにあることだ。それがいままで経験した中で一番リアルな夢だという人もいる。

私もそうした夢を何度も見たことがあり、そのたびに途方もない罪悪感、悪い予感、悲しみを伴って目を覚ました。私はもう一度ニューカマーに戻って、ホームグループで立ち上がり(ワンデイの)白いチップを受け取らなくちゃならならないのか。妻やほかの家族の失望はどれほどのものだろう。

というところで、それがただの夢であることに気がついた。

その気づきは私の心を喜びと感謝で満たしてくれた。それはともかく、こうした夢にはどんな意味があるのだろう? 私たちはこうした夢を気に病む必要があるのだろうか? それは私たちのプログラムが弱まっている兆しだろうか? 再飲酒(再使用)の夢は回復の一部なのだろうか? ほとんどの人は回復の初期に見るだけだが、中には最後の(本当の)飲酒から十年以上経ってから飲酒夢を見る人もいる。

「タダで気持ちよくなれて良かったじゃないか」というのは、あるオールドタイマーがその話を無視するときのセリフだ。大騒ぎするな。そいつはお前に感謝を教えてくれるんだ、というわけだ。

心理学の人たちには別の主張がある。私たちの脳は長年のアルコールや薬の使用で病んでいる。ソファーの上で眠れない夜を重ねて、ようやく眠りと呼べるものを手にしても、それは健康な睡眠にはほど遠い。それほど質が悪くなくても、私たちのレム睡眠がもたらす癒しと回復は、身体が求めるレベルには至っていないことが原因だという。

飲酒夢はしばしばストレスにさらされたときに出現する。言い方を変えれば、人生が山場にさしかかっている時だ。また飲酒夢を見るのはソーバー(しらふ)の人に限られるのも興味深い。

こうした夢を見たときに、最初に思いつくのは、それを秘密にしておこうという考えだ。もしその話がオールドタイマーの耳に入ったら、あなたのプログラムの質に疑いの目を向けられるかもしれない、と心配になるだろう。だが私たちは学んだはずだ。隠し事をするのは(古い考え)古い行動だ。それは私たちを酒や薬に引きずり戻す。

だから一つ提案するとすれば、もし回復の初期にそうした夢を見たら、その夢のことをソーバーの友人やミーティングで分かち合うべきだ。

それはその夢から力を得るばかりでなく、他の人が飲酒夢の分かち合いをするきっかけにもなる。

別の利点もある。そのぞっとする体験は、私たちに飲酒の狂気を思い出させてくれ、ソブラエティのメンテナンスをするよう促してくれる。

ボーナスもある。あなたが生き生きと描写して語れば、きっとグループに良い笑いをもたらせるに違いない。


2010年09月13日(月) 健康な人は自殺しない

自殺予防週間だそうです。
健康であるのに自殺してしまう人はいません。そこを勘違いしてはいけないのです。

何らかの苦しさから逃れるために、酒を飲む人がいます。処方薬を多く飲む人やリストカットをする人もいます。それは苦しさに耐えて生き延びるための手段です。人は「生き続けたい」という自己保存の欲求を強く持っていて、たとえやっていることが自己破壊的に見えたとしても、それは生き延びるための手段です。だから、自己破壊的な行動さえなくなればいい、と安易に考えてはいけません。

リストカットやODをした人に「もう絶対しないと約束して」と言っても無駄で、しなければもっと苦しくなってしまうだけです。断酒すると飲んでいた頃より苦しくなります。酒や薬で麻痺させる手段が使えなくなるからです。その苦しさを別のもっと健康的な手段で解消する必要があるのですが、そのためには金も時間も手間も必要になります。(その手段の一つが自助グループですが、自助グループがすべてとは言いません)。

リストカットでもODでも、あるいは飲酒やギャンブルでも同じですが「耐性」が形成されるので、同じ効果を得るために、より激しく、よりたくさんやる必要が出てきます。けれどそれにも上限がありますから、やがてはどうやっても望んだだけの効果が得られなくなります。それは生き延びる手段を失うことを意味します。その時、死ぬことが究極の解決として選択肢の一つに挙がってきます。生き延びるだった手段が、人生にピリオドを打つ手段に変わってしまうわけです。

そういう意味では、依存症の人や、リスカやODをやるひとは、生きる欲求の強い人だと言えます。やっていることは問題行動なので病んでいるのですが、根源的な自己保存の欲求の部分は健康?です。

問題行動を起こさずいきなり自殺してしまう人がいます。彼らは健康なのに自殺したのか? そんなことはありません。生き続けたいという根源的な部分が病んでしまった結果です。(その多くがうつ状態だという話には説得力があります)。

あるセミナーで、講師が「人には自殺する権利があると思いますか?」というお題を出しました。

これには例外はあるかもしれません。拷問され脱出できず、なぶり殺しにされるしかない状況があったとしれば、苦しみから逃れるために死を選ぶことまで否定できません。けれど、そうした特殊な状況を除けば、「自殺する権利はあるか?」と尋ねられたとき、「そんなものはあるわけがない」と即答できるはずです。

そこで自殺する権利があるのかないのかちょっと考えてしまった、という人は、死んでいるより生きている方が良い、という信念が揺らいでしまっているわけで、根源的な自己保存の欲求が弱くなっているのじゃないか・・・つまり病んでいるのじゃないか、自分のことを気にした方が良いかもしれません。

最後は人のことより自分の心配をしろ、という結論になってしまいました--;


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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