心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年05月25日(火) AAとアラノンの関係

僕は海外でのAAミーティングに出たのは、台北のグループに行ったことがあるだけです。台湾はAAが盛んではなく、英語圏のAAメンバーが現地の人にAAを伝えている真っ最中で、グループも首都に一つ。地方に二つあるぐらい。ちょうど1970年代の日本のAAが、M神父とP神父の二人によって始まったばかり、という時代に似ています。

僕が参加したのは土曜日のミーティングでしたが、隣の部屋では家族の人たちがアラノンのミーティングをやっていました。それが終わると、本人も家族も一緒になって、近くの喫茶店でアフターミーティングを楽しんでいました。実際には喫煙室は本人たち、禁煙スペースは家族の人たちにほぼ分かれ、その間を小さな子供たちが行ったり来たり。

こうした光景は珍しいことではなく、世界中のAA(とアラノン)で行われています。ミーティングに一緒に出かけた夫婦が、一方がAAに、もう一方がアラノンに参加し、子供はグループがアルバイトで雇った child care に預けられ、ミーティングが終われば子供を引き取って帰って行く・・。それが当たり前であり、少々極論すれば、ある程度の大きさのAA共同体がある国で、それが実現していないのは日本だけと言ってもいいぐらいです(というか、グループが3つしかない台湾でさえ実現していることです)。

AAとアラノンは一緒にラウンドアップを開催したり、アラノンのオープンスピーカーズにAAメンバーが呼ばれてスピーチをすることも、当たり前のように行われています。

なぜ日本はこうなっていないのか。それは日本のAAとアラノンの仲が悪いからです。なぜ仲が悪くなったのかは、昔のことなので僕は詳しく知りません。僕がAAに来た頃は、もうすでにこの二つの団体は冷たい関係でした。

もちろんAAには12の伝統があり、その6番によって、他の団体と特別な関係になることを戒めています。つまり他の団体と提携したり、傘下に入ったり、傘下におさめたりということができません。けれど「アラノンだけは特別」なのです。それは、ビルとボブが作ったアルコホーリク本人の団体のAAと、ビルの妻のロイスが作った家族の団体という、密接な関係があり、同じ12のステップ、12の伝統という原理と価値観を共有しているからです。

もちろん伝統に従ってお互いの方針に口を挟んだりしないものの、このパートナーシップは世界的にも、歴史の上でも当然のこととされています。

AAにとってアラノンはunqiue(唯一無二)の相手だとされています(ガイドライン「AAとアラノンの関係」)。しかし日本のAAは、唯一無二のパートナーであるアラノンに対して、その他の多くの団体と同じ扱いをしてきました。例えてみれば、酒のせいで仲違いし別居している妻を、他人扱いしているダンナのようなものです。

例えば日本のAAは2000年に12ステップの文言の翻訳文を改定しました。これはビッグブックの翻訳改訂の一部として行われたことですが、日本に12ステップを広げたAAが、その文章を変えることは他の団体にも大きな影響を与えることでした。けれど、ゴーイング・マイ・ウェイな日本のAAは、そのことを外には相談しませんでした。だから「唯一無二の関係であるアラノンに対しても何の相談もなく、AAが勝手に物事を進めた」という悪い心証をアラノン側に与えたとしても不思議ではありません。

実は10年以上前になるのですが、アラノンが二つの団体に分裂してしまったことがあります。AAは家族からの問い合わせがあればアラノンの連絡先を伝えたり、AAの書籍にはアラノンのGSOの電話番号を載せていたわけです。けれど、アラノンが二つになったので困ってしまったのです。どちらか一方だけを選べば、他方を支持しないと表明したも同然。では両方掲載しようか、などと話し合ったあげく、結局AAの評議会で、どちらも掲載しないことになりました。

けれど何も載せないわけにはいきません。仕方なくアメリカのバージニア州にあるアラノンのWSOの連絡先を掲載してきました。日本の人に対して、バージニアの連絡先を教える・・・こんな不自然で不親切なことを、日本のAAは10年以上も続けてきてしまったのです。

しかし、時を経てアラノンは再び一つの団体に戻りました。騒ぎも過去のこととなり、AAの書籍にアラノンGSOの連絡先を掲載する、という議題が提出されたとき、この問題に関心があるメンバーは、議案はすんなり承認されるだろう、と予想しました。

・・がしかし、そうはなりませんでした。30人で協議する全国評議会では結論が出ずに、常任理事会に委ねられ、理事会では1回の議論であっさり否決されてしまいました。今後ともAAの書籍はバージニアのアラノンを紹介し続けていくことになったわけです。

なんだそれ?

僕は評議会には行っていませんし、理事会へは参加資格がありません。だからその場の議論の内容は知りませんが、報告書などでその話を探ると、どうやら(日本の)アラノンがアルコールだけでなく薬物の問題も扱っていることが問題にされたようです。つまり、AAはアルコールだけなのに、アラノンはアルコールと薬物となると、バランスが取れない。パートナーとしてふさわしくない、というわけだ。

確かにAAはアルコールだけという縛りがあります。各グループやメンバーがそこから逸脱するのは勝手ですが、団体としてはそれは守っていかねばなりません。けれど、アラノン側から「AAも薬物を扱ったらどうですか」と言ってきたわけではなく、それはアラノンの事情であってAAには無関係のことです。

そりゃ薬物うんぬんも大事ですが、それは相手のことです。それよりもっと大事なことは、自分たちがどうあるべきか、ということのはずです。

日本のAAメンバーにアラノンとの関係の話を振ってみても、そもそも「AAとアラノンの特別な関係」を知らず、AAにとってアラノンもその他大勢の団体の一つに過ぎないと思っている人が多いのです。これは長い不幸な歴史がそうさせてしまったのでしょう。一方、数は少ないものの、アラノンに関心のある人の口から出てくるのは「アラノンのここが気に入らない」という話です。それはわからなくもない。僕だってそういう気持ちになることもあります。けれど、関係改善を目指すのなら、そんなことを言っていても始まりません。

僕はスポンサーという立場になったり、ソーバーも少し長くなって「先ゆく仲間」として相談を受けることがあり、その中には夫婦仲が悪いという相談もあります。夫婦仲が悪いときは、ダンナの側は「妻の態度が悪い。妻のあそこがここが気に入らない」という話をするものです(逆も真ですけど)。僕も男なので、その立場に同調できなくもありません。けれど、相手の気に入らない点をあげつらって非難していたのでは、夫婦仲の改善が見込めないのは明らかです。相手をそういう態度にさせているのは、自分の態度が悪いからではないか、という観点で自分をチェックし、「自分の」落ち度を正していくしかありません。「自分の側の掃除をする」というのが、AAのステップなのですから。

これと同じことを、AAとアラノンの関係に当てはめてみれば、どうすればいいかは自ずと明らかです。「アラノンは薬物がうんぬん」とぶつぶつ言っているのは、AAの側のみっともない言い訳でしかありません。まずAAの側で、正すべきことがあるはずです。

「変えられるのは自分だけ」とか「自分の側を掃除する」という言葉は、AAにいれば耳タコで聞かされる話です。

どういう判断が下されるべきだったか、ステップを基盤に考えれば導かれる結論はひとつしかない。そう思うのですが・・・。


2010年05月21日(金) 持っているもの

先日ホームグループでバースデイ・ミーティングをやらせてもらいました。
そこで「ひいらぎさんて、好きなようにに生きているっていうか、好きなことばっかりやっているという感じがします」と言われました。

好きなように生きているのは確かですが、好きなことばかりやっているわけではありません。生きていれば、嫌なこと、やりたくないことだってしなくちゃなりません。だいたい、今僕がやっているいろんなことは、僕が手を伸ばして選んだことばかりじゃなく、いろんな事情があって僕に回ってきてやらざるを得なくなったことも少なくありません。

だからといって、「本当はやりたくなかったのに、貧乏くじを引かされた」とぶつぶつ文句を言っていたって、人生はちっとも楽しくなりません。

別に僕が上手にできなくたって、ちっとも構わないと思ってます。神さまじゃないんだから、全部の問題を解決できないのは当然だし、ミスや失敗があって当たり前です。それに、状況に逆らわずに流されることが大事な局面だって当然あるでしょ。

例えばこの雑記だって、間違ったことを書くこともあります。で、どうして間違えちゃいけないのか。神さまじゃないんだから、間違えることだってあります。これを読みに来る人だって、まさか「神の言葉」を期待している訳じゃないでしょう。ミスや失敗は僕の「人間らしさ」の証明だし、それで一番恥をかくのは僕ですからね。

楽しいこと、面白いことばかりやろうとすると、いつの間にかそれがつまらなく感じられてしまうものです。それよりも、たまたま自分のところへ回ってきたことを、なるべく楽しもうという姿勢が必要なんじゃないのかな。

大事なことは、自分を哀れな状況の犠牲者だと思わないこと。それと、何でも自分の思い通りにしようと思わないこと。それに、しっかりした考え方の人で自分の周りを固めること。

僕だって十何年か前には、AAミーティングで酒臭い息を吐きながら、「生きる意味が分からない。何のために生きているのか分からない」と泣き言を言ってたわけですよ。

「私たちは陰気な人間の集まりではない。新しい仲間が、私たちの生き方に何の喜びも楽しみも見つけられなければ、彼らは私たちのように生きることを望むはずがない。人生を大いに楽しむことを、私たちは全面的に強調したい」(p.192)

持っていないものは手渡せないので、金持ちになる方法とか、有名になる方法とかは教えてあげられません。僕が持っているのは人生を楽しむ方法(つまりステップ)で、それがうらやましいと思ってもらえたのなら、僕もうれしい。


2010年05月20日(木) 脱抑制

横浜のアディクションセミナーで「ひいらぎさん、忙しいんですね」と言われて、ああ、自分は忙しいのかと自覚した次第です。忙しさの自覚がないのも困ったもので、「なんてことだ、あれもできてないし、これも間に合ってない。自分はなんて能力不足なんだろう」と、自己肯定が低下しまくりなのです。けれど、能力不足が欠点なのではなく、能力以上に引き受けてしまうのが問題なのですな。
冷徹な判断力で「これ以上できません」と断ることができない。それはつまり「頭が悪い」とか「ステップできてない」ってことなのですが、それは認めたくないので実務能力不足という設定にしてしまうわけです。このように「自分の問題から目をそらす速度には自信がある」わけです。

さて「脱抑制」の話。
うつ病と自殺には関係があるのですが、うつが本当に重いときは自殺も起きません。これはうつで行動力・決断力が削がれているので、自殺という行動を起こすことすらできなくなっているわけです。うつが改善してくると、行動力・決断力も復元してくるので、「自殺ができる」ようになります。

ここで抑制という言葉を「こらえ」という言葉に置き換えてみると、多少分かりやすくなります。つまり脱抑制とは「こらえ」が効かなくなる状態。こらえるのは理性の健康な働きで、そのおかげで死にたくなっても死なずに済んでいるわけです。だから、うつが良くなってきたときに、自殺(企図)、自傷行為などの逸脱行動に気をつける必要があります。

脱抑制をネットで検索してみると、認知症のケアのページが見つかります。認知症でも脱抑制が起こるのは、それが部分的な脳の機能低下と考えれば分かりやすくなります。

・後先を考えずに行動する
・感情をむき出しにする
・場違いな言動
・肯定的な意見以外認めない
・冷静になるのに人の助けが必要

易怒性と並べて書かれていたりとか。
発達障害では、IQが低くなると情動も不安定になるんだそうで、これも抑制機能の低下というわけでしょう。

アルコールも脱抑制をもたらします。脳の高次機能としての抑制機能が酔いによって失われた結果、普段は理性がタガをはめてできなくしていることが、「できるようになってしまう」わけです。普段言いたくても言えなかったことが、言えてしまったりとか。その「酒による解放感」を繰り返し求めてしまうのは、酒が好きなのじゃなくて、酔いが好きなのです。なので、酒をやめただけだと、酔える対象を変えてアディクションが続いてしまいがちというわけ。

うつの薬は全般的に低下した脳の機能を賦活させる働きをするわけですが、決断・実行能力が先に回復して、抑制する能力が遅れると、結果として薬のせいで脱抑制が出現することがあります。(本人にはイライラすると感じられる)。

長年アルコールを使っていると、この脱抑制が脳から取れなくなってしまうようで、アル中は酒をやめた後も脱抑制・易怒性が目立ちます。(断酒板で逸脱行動が目立つのはそのせい)。失われた機能を回復させるには、時間も必要だし、リハビリもいるのでしょう。

脱抑制という言葉から見えてくるのは、「こらえる」能力というのは精神の健康の大事な要素だってことです。それは立つでも座るでもない「中腰で耐える能力」、白でも黒でもない曖昧なものを許容する能力、矛盾したものを引き受ける能力、などとつながっているのでしょう。


2010年05月18日(火) 安定したおばさん

「AAメンバーは一生ミーティングに通い続ける必要があるのか?」

という質問を受けることがあります。僕の答えは、どうやらその必要がなさそうな人たちが相当数いる、というものです。

たぶんこのネタについてネットで書くのは初めてではないかな。

過去にAAミーティングに行っていたが、現在は滅多に行かない、けれど再飲酒のリスクはさほど高くなさそうな人たちが確かに存在します。そして、僕の知る限り、そのほとんどが女性です。条件だしをしましょう。

・年齢的にはおばさんからおばあさん。
・過去には熱心にAAに通っていた時期があった(けれど現在は滅多に行かない)。
・飲んでいない期間は長い(10年以上とか)。
・ダンナがいて、安定したトラブルの少ない結婚生活を継続している。
・家族親族、地域社会、職場などでそれなりに安定した人間関係が保たれている。
・人格障害や発達障害などの依存症以外の問題が存在しないか目立たない。

もちろん僕とこの人たちの接点は多くないわけです。表面上は平静でも、実は日常生活は波乱に満ちている・・という可能性がないわけではありませんが、たぶんそんなことはないでしょう。

この人たちの安定したソブラエティが高度な霊的進歩の結果なのかどうか、それは分かりません。どっちかっていうと「どこからみても普通のおばさん」です。この「どこから見てもふつうのおばさん」というところが大事なのでしょう。特異な感じ、特別な感じがないということです。

目立つ存在になることで自分の価値を周囲に認めさせよう、という欲求が薄れ、ベクトルが「平凡」に向かっているという感じ。こういう人たちはネット断酒とかやらないでしょうね(そもそもパソコンとかしなさそうだし)。

・・それに比べると男はダメですな。


2010年05月17日(月) アディクションセミナーに参加

横浜のアディクションセミナーに行ってきました。
もう20年以上続いている催し物ですが、僕は初めて参加しました。

中身について個々に書くことはできないので、印象に残ったり、思いついたことだけメモしておきます。

ギャンブル依存症で、例えば対象はポーカーゲーム賭博という人の場合。賭博には詳しくないのですが、賭博用のゲーム機ではなく、普通に風営法で許可を得た賭博の絡まないゲーム機を置いてある店もあるのだそうです。

で、ポーカーゲームをやっても「賭けなければいいんだろう」と、そういう(普通の)ゲーム機で遊ぶのだそうです。でも、もうその時点でスリップは始まっていて、やがて賭博店に出入りするようになってしまうのだとか。

ノンアルコールのビールなら大丈夫だろう・・・そう思っていると、やがて本物のビールを飲むようになってしまう、という話と同じ図式ですね。

午前中はオープンスピーカーズ、午後の分科会は前半は回復研に参加。後半は女性の回復施設か共依存のグループの分科会に参加しようと思ったのですが、行ってみると部屋の中が女性ばかりでとても入れる雰囲気じゃなかったので、すごすご退散してロビーで雑談して過ごしました。

前日の上映会で見た映画『アヒルの子』の監督&主演の小野さやかさんが、フォーラムの入り口で映画のパンフを配っていました。ちょっと感想をお話しして、「20才であんな映画が撮れるなんて、嫉ましいぐらいの才能だ」と言ったらグーでパンチされてしまいました。
映画も見ないでサインをもらったヤツは、ちゃんと見に行って欲しい。
http://ahiru-no-ko.com/
ご本人は「私そんな(サインを求められるような)じゃない」とご謙遜でしたが、いやそんなことはないはず。

内容はリンク先を見ていただければわかりますが、5歳の時に1年間親元を離れ、ヤマギシ会の幼年部に預けられた少女が、それを「親に捨てられた」と思い、二度と捨てられないためにその後ずっと「良い子」を演じてきた。そうやって自分を失った彼女が、自分を取り戻すために撮影カメラを携えて家族一人一人と対峙していくという話。

柳美里のような文章であれば主観でなんとでも描写できますが、映画の場合(編集が入るにせよ)カメラはすべてを映し出してしまいます。「アヒルの子」については、記憶が新鮮なうちにまた別のところ(たぶん「家出」)で書きたいと思います。前日の上映会の後にワークショップがあり、たぶんそこで映画の後の5年間の話を聞けたのが、僕にとって良かったのでしょう。

そのワークショップで芹沢俊介から2メートルのところに自分がいたとは、思い出してもちょっと信じられません。自分もあんなふうになれたらいいと思うのですが、まあ無理でしょう。

話をアディクションセミナーに戻して、ある人が「日本の自助グループは、いままで問題ばかりが分かち合われてきた」という話をしていました。同じ悩み、苦しみを抱えた人がミーティングに集まって「ほっ」とする。その「ほっ」とするところで終わっており、問題をどうやって解決していくかという話になかなかならなかった。それが昨今一歩進んで、解決方法とか、解決した結果どうなったか、という話が分かち合われるようになってきた、というわけです。

日本の自助グループが、いま転換点にさしかかっていて、いままでと考え方ややり方が変わっていくという意識がずいぶん共有されていると思います。ともかく僕は、その現場に立ち会って(というか巻き込まれて)いきたいのです。

帰ったらメーリングリストに同じ話が出ていました。

たぶん賢さとは、どのように状況に巻き込まれるかだと思うのです。


2010年05月14日(金) 表現形

用事があって、初めてGA(ギャンブラーズ・アノニマス)のミーティングに出席しました。クローズドだったのですが、「同じ12ステップグループの仲間だから」という理由で、中に入れて頂きました(僕は聞いているだけで経験はシェアしませんでしたけど)。

その日初めて人(ニューカマー)が来たということもあったのか、分かち合いの内容は「解決方法」よりも「問題」の分かち合いが多めでした。アルコールとギャンブル、対象は違っても、肉体のアレルギー(一度手をつけるとコントロールが効かなくなる)、精神的とらわれ(せっかくやめているのにまた手をつけてしまう)、という病気の本質は何も変わりません。

その点、アルコールは合法で、覚醒剤は違法だ、という区別は何の意味もありません。それは道徳や法律に関しての区別であって、病気の問題とは違います。合法・違法にこだわる人は、これが道徳の問題ではなく病気だ、という言葉の意味がつかめていないからこそ、そこにこだわれるわけです。

しかしビギナーにとって、依存の対象の違いは大きな違いです。覚醒剤で刑務所に入ったという話を聞いて、アルコールのビギナーが「俺はそこまでヒドくない」と否認に入ってしまうことは良くあるわけです。だから、依存の対象ごとにグループが分かれているのも、うなずける話です。(だからといって、ビールでアル中になった人と、ワインでアル中になった人を別ける必要はないと思いますけど)。

逆に、依存対象の違いが気にならなくなってくれば、それはビギナー卒業の時期が来たってことなのかもしれません(目安の一つにはなる、ぐらいの意味)。

話を聞いていると、ギャンブルの人は借金がすごい。そのかわり(肝臓が悪くならないせいか)ニューカマーでも顔色はそれほど悪くありません。

ただし、借金というのは病気の本質ではなく、表面に現れてきたものにすぎません。アルコールの人にとっての内臓の病気(肝臓の数値とか)、薬物の人にとっての刑務所や執行猶予と同じ、病気の表現形というわけです。

この週末は横浜のアディクションセミナーに行く予定です。


2010年05月13日(木) 数え方

「死んだ子の年を数える」という言葉があります。
いまさらどうしようもない過去のことを嘆く意味です。

死んでいなくて、生きている子供の年も数えます。
赤ん坊が生まれれば「生後何日」と数えます。
しばらくすれば何ヶ月と数え、細かい人だと何ヶ月と何日まで数えるかもしれません。
1年の誕生日には親戚を呼んで誕生会をやるぐらいうれしい。
1年を過ぎれば1年と何ヶ月と数えますが、2才3才となっていけば「何ヶ月」の部分が取り去られ「うちの子は何才です」という表現になり、中学生高校生になれば「お子さん何才ですか?」という質問に対して、とっさには答えられず学年や生年から計算しないと数が出てこなくなります。
なぜこのように最初は数を細かく数え、年数が経つと粗くなるのか?
それはおそらく、生まれた直後は子供がいることが新鮮な感動で、年を経ると子供が存在して当たり前の日常になっていくからでしょう。(刺激閾値の上昇?)

断酒後の日数の数え方も同じ感じです。
断酒直後は「断酒何日」と数え、やがて何ヶ月、もうすぐ1年、1年と何ヶ月・・という数え方になっていきます。3年、5年と経ってくると「何ヶ月」という端数はあまり重要ではなくなってきます。十年を超えてくると、「お酒をやめてどれくらいですか?」という質問に答えるのに簡単な計算が必要になってきます。その先はまだ経験がないからわかりません。

断酒9ヶ月の人が「あと3ヶ月で1年です」と言うのは自然なことだと思います。1年目前の人が「あと3日で1年です」というのと同じ。けれど、例えば3年経った人が「私の断酒歴は3年5ヶ月15日です」と表現するのはかなり変な感じです。それは「私の息子は3才と5ヶ月15日です」と同じで、「何でそんなに細かく数えるのか?」という疑問(違和感)を聞く側に与えます。普通は「息子は三才半です」ぐらいのものでしょう? (断酒千何日目ですというのも同じ類かも)。

なんでそんなに細かく数えるのか? ご本人の心の中まではわかりませんが、「死んだ子の年を数える」心理なのかもしれません。その人の中では、手放したお酒=死んだ子供になっている。我慢の断酒が続いている、ということなのではないかな、と。

自分のソーバー(断酒歴)の長さをどう表現するか。その年数をどれぐらい強調するか。そういったことは、その人のソーバーの質を計る一つの目安になると思うのです。

なんでこんな「人のソーバーの質を計る」という話をするかというと、スポンサーをやるためには、スポンシーのコンディションを把握するためのスキルやテクニックが必要になってくるからです。そのためには、なるべくいろいろな指標を使えた方が便利です。霊的であるということは実際的であるということだ、とビルも書いているしね。

また自分の状態を知る指標になることもあります。もう何年もやめているのに、「俺はソーバー何年だ」と強調したい気分になったときは、自分のソブラエティの質を表現するのに年数以外の手段を失っているのではないか? つまりコンディションが悪くなっているのではないか、と自分に問うことができます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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