心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年04月05日(月) mil 回復とはなんぞや

「回復」とは英語の recovery を訳した言葉です。
AAはアルコール中毒を病気だと主張しましたが、この病気には完治がない(酒がコントロールできるようにはならない)ということも提示しました。

ただし、AAはすべてのアル中は完治不能だとは言っていません。ただ、あなたがそうであるか、自分で決めなければならない、と言っています。もし疑念があるのなら、もう一度「節酒とやら」を試してみればいい、と提案しています。

(実際その提案に従って節酒にチャレンジし、早めにAAに戻ってくる人もいます。これも「底つきの底を浅くする」方法のひとつです。不安定な断酒を維持させても「底上げ」につながるとは限らないのです)

完治のかわりに示したのが recovery という概念です。
recovery も、動詞の recover も、普通の英単語です。「失ったものを取り戻す」とか「正常な状態に戻る」という意味があります。しかしAAが示した recover は、元の意味を踏まえた上で新しい意味を加えているのですから、あまり元の意味にとらわれるべきではありません。つまり「何を取り戻せば回復なのか」と議論しても始まりません。

オンライン辞書の Merriam-Webster をひいてみました。すると recovery には通常の意味のほかに

the process of combating a disorder (as alcoholism) or a real or perceived problem.

「アルコホリズムのような病気、あるいは存在しそれに気がついている何らかの問題を乗り越えようとするプロセス」

つまり「回復」というのはプロセスなのです。プロセスは過程、経過、道程です。「回復」は完成されることはなく、回復が終わってしまったら、それはもう回復ではありません。

英語では recovering alcoholic(回復中のアルコホリック)と、recovered alcoholic(回復したアルコホリック)が混用されますが、回復がプロセスであると考えれば、両者がほぼ同じ意味であることがわかります。

RDPワークショップの講師の人は、「回復とは変化を続けることである」と述べていました。

回復とは問題を乗り越える努力を続けることです。努力をやめてしまったら、それはもう回復ではありません。


2010年03月31日(水) 漢字の表記の問題

最近、「障害」を「障がい」と表記することが増えています。例えばハンディキャップを持った人々を表す言葉、障害者→障がい者というのがその一例です。
あるいは障碍という表記をする場合もあります。

これについては、このような説明がされています。もともと障害は障礙と表記した。「礙」の異字体の「碍」を用いて障碍とも表記した。ところが戦後の当用漢字表には「礙」も「碍」も入らなかったために、同音異字の「害」の字をあてた。近年になって障害を持つ当事者から「害」の字はイメージが悪いという意見が出たために、本来の表記である「障碍」あるいはひらがなで表記して「障がい」としている。

僕も説明が面倒なときには、この説明で済ませてしまっています。いくら同音だからといって、イメージの悪い「害」という字をあてるのはヒドい話だ、というわけです。

しかしこのストーリーには誤解も含まれています。当用漢字表が作られる前から「障害」という言葉は使われていました。碍という字は「さわり・さまたげ・さえぎり」という意味で、例えば電柱についている碍子は電線を通る電気が他へ流れ出ることを「さまたげて」います。そして「害」という字にも「さわり・さまたげ」という意味があります。障害と障碍は混用されていました。当用漢字表を境に障碍→障害と変化したわけではありません。

もう一つ、心身のハンディキャップに対して障害という言葉が一般化したのは、戦後1951年に施行された身体障害者福祉法で「障害者」という言葉が使われ出してからで、それ以前は「不具者」あるいは「癈疾者」という言葉が使われていました。現在では不具、廃疾は差別用語とされています。

つまり、障害者という表記は侮蔑や無頓着から生まれたものではなく、戦後の新しい時代、新しい意識を反映したものです。偏見を取り除こうという意識から「障害」という表記が一般化したわけです。

しかし時代が変われば人々の意識も変わります。今度は害の字が気に入らない、「障害も障碍もコンパチブルであるなら、これからは障碍を使えばいいじゃないか」、と言われれば、まったく反対する理由は見あたらないのです。

しかし「障がい」とひらがな表記にするのはいかがなものか。漢字が二種類あるからひらがなで統一してしまえ、というのも乱暴な話です。売春という言葉は春をひさぐ方だけを取り上げているので、買う方も取り上げて売買春という言葉を作ったのならわかります。しかし、これを「ばい春」と表記したらずいぶんマヌケです。

同じような問題で、子供→子どもという表記の変更があります。「供」という字が「従う」というイメージを思い起こさせるために、子供は大人に従うものだ=子供の権利を軽視する意識の現れであり好ましくないのでひらがな表記、という理屈のようです。

「とも」と読む漢字には、共・友・朋・伴・侶・供などありますが、いずれも「共」という一つの字を源としたものです。これらは「ひとつのグループに属する」という意味を持っています。そのグループの中の上下関係を規定する言葉ではありません。確かに「お供」という言葉に象徴されるように、「供」単独には従者という意味がありますが、他の漢字と組み合わせて言葉を作るときに「供」という字が従うという意味を含むわけではないのです。

そうしてみれば、「子供」→「子ども」に表記を改めろ、というのはほとんど難癖に等しい意見なのですが、すでにずいぶん一般化して法律の名前にもついています。「子ども」というひらがな混じりの表記に違和感が少ない理由を考えてみますと、小学校で「供」という漢字を習うのが6年生になってからなので、多くの小学生は「供」をひらがなにした「子ども」と書きます。私たちはそれを見慣れているのでしょう。元々「子ども|子供」という表記のゆれがあったために、子供→子どもは受け入れやすかったのだと思われます。

さて、僕が雑記を書くときにどうしているか、というと「障害」、「子供」を使っています。「子供」については、「子供|子ども」の表記のゆれの範囲内でどちらを選ぶかの問題です。子供の権利を軽んじるわけではありませんが、やはり教養は大事にしたい。「障害」については単純に、サーチエンジンがまだ「障害|障碍」を表記のゆれとして扱ってくれない(ところがある)ため、ハンディキャップのことを示したければ障害と書かざるを得ないだけです。同じことは僕が「アルコール症」という言葉を使わず、アルコール依存症やアル中という言葉を使う理由にもなっています。

もちろん雑記以外のところでは、その場にあわせた表記を選択していますが、自分の雑記やブログでは表記を選ぶことも自己表現のひとつです。であるからには、自由に自分の選んだ表現をすれば良いのであって、そこに正しい・間違いはありません。昔の表現が間違っていて、新しいのが正しいと限ったものでもありません。「その表現は正しくない」と言う人のほうが正しくないわけです。

とは言うものの、言葉にはパワーがあり、どの言葉、どの表現を使うかは大事なことです。実際に社会を変えよう(例えば偏見を取り除こう)としている人たちが、言葉の表現を変えることで自分たちの思想を表現しようとすることがあります。しかしその人たちは言葉を変えるぐらいで社会が変わるとは思っておらず、単に表現のひとつとして言葉を変えているだけです(社会を変えるためには別のことをやっている)。そのことを理解せず、自分ではなにもしていないくせに、言葉の表現を変えるだけで社会改革に参加しているつもりになっちゃっている人たちがいるのが困ったことです。


2010年03月30日(火) 積極的な行動

かずきちさんがブログで「ステップ3は行動のステップか」というエントリを書いていたので、それについて書いてみたいと思います。

ステップ3は「決心をする」ステップです。では決心するのは行動なのかどうか。

ビッグブックには、ステップ4の先頭に「次に、私たちは精力的に行動を始めた」とあります(p.92)。

一方、12&12には「ステップ3は、残りの全ステップと同じく、積極的な行動を求める」とあります(p.48)。

どちらも「それ以前のステップは行動ではない」とは言っていません。ステップ4以降の行動には活発さが求められること、ステップ3以降の行動には積極性が必要なことを言っているのみです。

ステップ3の「決心する」は made a decision です。decision はここでは決心と訳されていますが、決定すること、判断することです。判断を下すのは、明らかに行動(行為)です。

ステップ1は、自分はアルコールに対して無力だと「知る」ステップです。ステップ2は、その問題はハイヤーパワーが解決できると「知る」ステップです。この二つのステップは、情報を手に入れるステップなので、「情報を手に入れる」以上の行動は必要とされません。ミーティングに行くのも、スポンサーの話を聞くのも、「情報を手に入れる」ためです。

ステップ1と2を順調にこなせば、私たちは決断を迫られます。自分は問題を抱えている(アルコールの問題)、しかもその問題は今日にも明日にも再燃するかもしれない。もし問題の解決策がないのなら、黙って問題に耐えていくしかありません。どこかに解決策があっても、それを知らなければやはり耐えるしかありません。

しかし、ステップ2で解決策の存在を知ってしまった。そこで二つの選択肢があります。解決策があることを知りながら、それをせずに今までと同じ悩みに耐えていくか、あるいはその解決策を試してみるか。

解決策が分かっていても、決断を下せないことはいくらでもあります。僕は先日車のアイドラーという部品を交換しました。ずいぶん前からエンジンの異音に気がついていて、いつかはディーラーに持ち込んで点検修理しなければならないと分かっていました。問題があることを知っている(異音)、解決策があることも知っている(ディーラー)。これはステップ1と2ができている状態です。

けれど僕は「解決策を使う決断を下す」という行動を取ることはありませんでした。異音のする車に乗り続け、その音に不満を持ちつつも我慢を続け、関係ないエンジンオイルを交換したりしていました。僕が問題から目を背け続けるうちに、アイドラーの破壊は進んでいきました。ある日アイドラーはついに壊れ、ディーラーに持ち込む以外方法がなくなりました。そして修理の5日間、僕は車なしでとても不便な生活を強いられました。事故をして永久にその車を失わなかったのは、せめてもの幸いでした。

自分で直せないものを修理できる力を持ったもの(車の場合には修理工場、自分の場合にはハイヤーパワー)を頼る、という決断をまず下さなければ、解決策を知っていたとしても何の役にも立ちません。ステップ3こそはまさに要(かなめ)です。

人間は生活しながらたくさんの決断を重ねています。RDPのセミナーでは「人は一日に約5千回判断を下す」と教えられました。そして

決断の質が生活(人生)の質を決める。

とも教えられました。良い決断をすれば良い人生が、ヘボな決断をすればヘボな人生が待っているわけです。

春だというのに雨や雪の寒い日が続きました。そんな日に車なしで徒歩と電車で濡れながら通勤する羽目になったのは(おまけに遅刻もした)、直せる力を持った存在を頼らないというヘボな決断を僕が下し続けたからです。僕がアルコールで何度も入院したのも、ヘボな決断を続けたせいです。

ステップ3は良い決断をするステップです。ヘボな決断はステップ3ではありません。いままでヘボな決断を続けていたものを、良い決断をするように変わらなくてはなりません。ステップ1と2で情報を手に入れても、いままでと同じ自分であり続けることができます。けれどステップ3でもいままでと同じならば、ヘボな決断が下されステップ3にならないだけです。

ヘボな決断を良い決断に入れ替える、という「行動」がステップ3です。


2010年03月24日(水) 仲間の「支え」

スポンサーだからといって、スポンシーのことを勝手気ままに雑記に書いて良いわけではありませんが、少し書いてしまいます。

スポンシーのひとりからは毎晩電話をもらっています。その電話代は月に数百円では済まないでしょうが、それも回復の費用だと思ってもらうしかありません。ミーティングに通う費用や仲間と飲むコーヒー代と同じことです。

毎日の電話の内容に大きな変化はありません。変わりがないことも大事な情報です。変化がない状態が続いていれば、小さな変化に気づくこともあります。

最近スポンシーの電話の中で、「ミーティングの前(や後)に○○さんと話をしました」という話題が出てくるようになりました。以前はそういう話題が出てくることはありませんでした。もちろん以前からミーティングの前後に仲間と話をしていたでしょうが、その「仲間と会話した」という事実は、家に帰ってスポンサーに電話する頃には頭に残っていなかったわけです。なぜ頭に残らなかったのか、それは話の中身が他愛のないことだったからかもしれず、回復に関わることなのに彼の頭に引っかからず残らなかったのかもしれません。

しかし今は「仲間と会話した」ことが彼の一日の中で大事なことだと感じるようになったわけです。この変化が起こるまで、毎日ミーティングに通って半年かかりました。いかにアル中が人間関係を苦手にしているか、それを乗り越えるのに時間を要するかがわかります。

もちろんスポンシーも過去に、他の人と心の深い部分で通じ合った(と思った)こともあったはずです。けれどそれは酒か薬が身体に入っていたからこそできたことでした。いざ酒や薬が使えなくなって、しらふで世間に放り出されると、どうやって人付き合いしたらいいか分からずに途方に暮れてしまう、それはどのアル中さんにもあることです。

もちろん、表面的な付き合いはできるのです。というか、表面的な人付き合いは上手だったりします。自分の内面を隠して飾って(虚勢を張って)見せることは得意なのです。そして、人付き合いとはそういう表面的なことだと思ってしまっているので、人間関係に虚しさを感じていたり、人に対する恐れを持っています。

そういう偏りを取ってくれるのは、ステップよりも、仲間という人間の存在によるものです。であるからこそ、気まぐれにあっちの会場、こっちの会場に行ってもらうのではなく、当面同じミーティングに通い続けてもらう、というのが僕の考え方です。


2010年03月20日(土) mil 「底つき体験」に関する誤解

依存症からの回復には「底つき体験」が必要だとされます。
しかし、「底つき体験」とは何であるか。これはずいぶん誤解されているように思います。

まず一つは、「社会の底辺のようなところへ落ちぶれることが底つきだ」という誤解です。おそらく「底」という言葉のイメージが底辺を想像させるのでしょうし、アル中という言葉にはそういう雰囲気が含まれているのでしょう。しかし、アル中さんがドヤ街にたどりつけば回復するわけではありません。どちらかと言えば、頑固に底つきしなかったがゆえに落ちぶれてしまったわけです。

大きなトラブルが起きることを「底つき」だと思っている人も少なくありません。例えば酒のせいで失職したり、離婚されたり、あるいは大きな病気にかかるなどなど。つまり「酒を止めよう」と思うきっかけになるような出来事が「底つき」だと思われているわけです。その出来事は大きなトラブル(入院など)かも知れませんし、小さなトラブル(健康診断の数値が悪い)かも知れません。

なぜそのような誤解が生じるのか考えてみます。するとどちらも「飲んでいた酒をやめるきっかけになる」という意味で使われていることが分かります。何かのきっかけがあって酒を止めた人たちが、「回復には底つきが必要」と聞かされます。当然その人達は、自分が現在飲んでいない以上は回復に向かっていると信じたいでしょう。そして、自分が酒をやめたきっかけを「あれが底つきだった(=だから私は回復に向かう条件が整っている)」としてしまったのでしょう。

もちろん「底つき」は落ちぶれることではなく、断酒を決意するきっかけでもありません。では「底つき」とは何なのか。

まず底つきのためには、何であれ「酒をやめる努力」が必要です。ほとんどのアル中さんは、酒をやめるために最初から何かを頼ろうとはしません。断酒のために人からああしなさい、こうしなさいと言われることを好まず、自力でやめようとします。その努力が成功しているうちは、底をつくことはできません。つまり「底つき」とは断酒の失敗からしか得られないものです。

中にはまったく自力で断酒できなかったという人もいます。精神病院に入院して物理的にアルコールから隔離されているとき以外はやめたくてもやめられなかった、と言います。失敗続きの人の底つきは実にシンプルです。

なまじ自分の力で断酒が成功している人のほうが底つきは難しいわけです。しかしやがて再飲酒というチャンスがやってきます。その時に、自分ではうまく断酒できなかったことを認めて別のやり方に切り替えることができれば、それが「底つき」になります。あくまで自己流にこだわれば、底つきのチャンスは次回の再飲酒に先延ばしになります。

中には再飲酒という失敗を犯さなくても、自己流の断酒の見込みの無さに気づける人もいます。しかしそういう人はわずかです。

問題をややこしくしているのは、少ないながら自己流で一生断酒できる人が存在していることです。この人たちは底つきなしで一生酒をやめきったわけです。その中には回復を遂げずに一生酒を我慢した人もいるでしょうし、底つきが不要な回復を得た人もいるのかもしれません。しかしいずれにせよ少数です。

大多数の人にとっては回復に「底つき」は不可欠です。それは、自分のやり方ではうまくいかなかった。だから(人からああしろ、こうしろ言われるのは気に入らないが、それでも反発心を抑えて)人の勧めに従ってみるしかないだろう、という「ある種の諦め気持ち」のことです。アル中さんにとって、人の指示に従うことは、酒を手放すことより難しいことです。多くの場合、自分で底つきをしたと思っても、まだまだ留保が大きく、自分のやり方を諦め切れていないものです。

底つきをした人はみじめな顔つきをしているものです。そりゃそうでしょう、自分の力を完全に否定されたわけですから、情けないみじめな気持ちになって当たり前です。あるAAメンバーが言っていました。

「俺はみじめになったヤツを見るのが好きだ。そいつが回復する準備ができたってことだからな。みじめならみじめなほうがいい、とことんみじめになって来てくれ、って思うよ」

自分のやり方にとことんこだわると、社会的に落ちぶれたり、大きなトラブルを起こしたりします。酒のせいでいろいろなものが損なわれないうちに回復につなげることを、底つきの底を浅くする=底上げと呼びます。なるべく失うものが少ないうちに回復したほうが良いに決まっています。依存症のケアに携わる人たちの間で「底上げ」がずっと言われ続けています。

しかしそもそも「底つき」が誤解されているために、「底上げ」に何が必要なのかも誤解されています。自己流の断酒を応援し、それをサポートすることが底上げにつながるのではありません。それは病気の進行を遅らせているだけで、アル中さんをより回復が困難な道へ誘導してしまうことになります。良かれと思って間違った手助けをしている点では共依存とちょっと構図が似ています。さすがに、早めに自力断酒を失敗させるために再飲酒の罠を仕掛けろ、とは言いませんが、失敗(再飲酒)の機会を捉えて自己流を諦めさせるのが「底上げ」への最短路です。

依存症の早期発見・早期治療が進んできましたが、それが必ずしも「底上げ」につながっていないのは、こうした事情があるからでしょう。


2010年03月17日(水) 金の使い方

総務省統計局が発表した今年1月分の家計消費支出状況によると、酒類消費に支出した金額は一世帯あたり(全国平均)2,877円でした。一日に平均すると96円弱になりますから、アル中でないおとーさんたちは一日一本の発泡酒も飲んでいないということになります。ちなみに外食費のなかで飲酒の費用は1,928円なので、両方足しても一家族あたり1ヶ月の酒代は5千円たらず。
(ちなみに昨年11月は、酒類消費3,533円・外食費中の酒代1,374円)。

アクティブなアル中だった頃の僕は、一日に焼酎を1〜2本、ビールと日本酒を少々飲んでいました。外で酒を飲むことはあまりなく、ましてやおねーちゃんのいる店で飲むこともなかったので、酒の支出は酒屋やコンビニで買う費用だけ。おおむね月6万〜8万円ぐらいだったでしょうか。これを10年続けたわけです。(終わりの頃は酒税改定やディスカウントショップの出現で酒がかなり安くなっていた気がします)。

ギャンブル依存や買い物依存の人は、金の使い方も桁違いなので大変なようです。

いずれにせよ、その金の無駄な使いっぷりのバカさ加減は「笑っちゃうしかない」わけです。そのバカさ加減を正面から見つめると、我ながら「痛々しい」としか感じられないわけで、なんて自分はバカだったんだろうと自己憐憫に浸ったりするわけです。また自分のバカさ加減を受け止めきれない時には「こんなに金を使ってたんだぜぇ〜」という自慢話をしてしまい、それは昔に無駄金を使ったバカさ加減を、今その自慢話をするという形で再現してしまっているので、聞いている方に「痛々しさ」を感じさせてしまいます。

しかし、回復が進んでいけば昔の自分のバカさ加減も受け止められるようになりますし、今も大して変わらないバカっぷりの自分自身も受け入れられるようになります。結果として、自分のバカさ加減を「笑える」ようになってくるはずです。

ただし、自分を笑えることが回復の指標であるのは確かなことですが、自分を道化にして注目を集め人気を取るという脇道へ逸れてしまうことも、ありがちなことです。これは自分を笑うことを回復の手段にしてしまうことが間違いでしょうね。笑いというのは回復の結果として表れてくるものであって、手段ではないからです。


2010年03月16日(火) スティグマのある病気の告知

統合失調症(精神分裂病)の告知を受けていない患者さんは意外と多そうです。医者は治療上のメリットがなければ、告知をしないのかもしれません。家族は告知を受けているけれど、本人はご存じないというケースもありました。

AAに来る人の中には、当然統合失調の人もいます。AAはアルコールの問題だけを扱っているので、統合失調か否かは問題じゃありませんが、しかし気になってしまう時もあります。例えば幻覚・幻聴の内容です。

昔の精神科は入院が必要になるような重度のアル中ばかりを診ていました。そんな時代でも、幻覚(幻視)・幻聴を体験する患者は半分以下だったそうです。それでも僕がAAにつながった十数年前には、幻視・幻聴体験を話す人は珍しくありませんでした。その後、健康日本21のような国策のおかげでアルコール依存症の二次予防が進み、比較的軽症のうちに治療を開始する人が増えた結果、幻視・幻聴体験を持つ人の比率はさらに下がっている印象を受けます。

だからAAのミーティングで幻視・幻覚の話が出るだけで少々珍しいことなのですが、その内容がちょっと気になってしまったりするのです。アル中の人の妄想はたいてい被害的で、例えば声の幻聴が聞こえる場合にはたいてい非難する内容で、幻聴が褒めてくれるということはまずありません。しかし聞いていると、それはアル中の幻視・幻聴ではなく、統合失調のさせられ体験や被害妄想ではないかと思えてくるケースもあります(この違いは言葉では説明しにくい)。実際に、後になって治療上の必要から告知を受けたという告白を受けたことがありました。

医者が告知しない理由は、統合失調症にスティグマがまとわりついているからでしょう。本人の悩みを増やすだけなら告知の意味がありません。陰性症状(感情鈍麻・思考困難・意欲低下など)主体で妄想がほとんどない人もいますし、若い頃は陽性症状が目立ったけれど今は陰性の残遺症状があるだけの人もいます。その若い頃に酒を飲んでいたなら、急性症状もアル中の症状の一つにされちゃっているかもしれません。あるいは本人はそれを妄想だと思っておらず、実際にあったことだと信じていても、話を聞いてみると、いろいろつじつまが合わなかったりとか。

酒をやめた後も生き辛さが残ってしまい、それはアル中以外の何らかの病気があるからではないか、と考える人は珍しくありません。例えば雑記に発達障害の話を書けば、「私は発達障害でしょうか?」というメールが舞い込みます。ところが統合失調の話を書いても、同様のメールの数はほとんどきません。それは、「生まれつき」のほうが統合失調より社会のスティグマが少ないからだと想像しています。

自分は何かの病気ではないかと考えて、それを調べてみる。そういう「自分探し」は決して悪いことばかりではありません。時にはそれによって解決に向かうこともあるでしょう。けれど、どんな真実が出てこようともそれを受け入れる覚悟がないのなら、自分探しはやめるべきです。医者が「うつ」と言っているのなら、そういうことにしておけば良いと思うのです。

統合失調と境界性人格障害(ボーダー)の境、統合失調と広汎性発達障害(アスペルガー)の境、統合失調と非定型うつ病の境、どれにも明確に区別できない曖昧な部分があるようです。はたしてそこで正確な診断が必要なのでしょうか。医者は病名に対してではなく、症状に対して薬を処方してくれます。病名は便宜的なものです。正確な診断があってもなくても、治療(例えばカウンセリングに行く)が同じなら、診断にどれだけ意味があるのでしょうか。

医者が告知しないのには理由があり、それを信じれば良いと思います。明らかに未治療である場合を除いて、第三者が首を突っ込むべきでない問題だと感じています。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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