心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年03月11日(木) 信仰についても高すぎる要求を自分にしない

「ステップ2でつまずいている」と言う人がいます。

その考え方は否定しませんが、僕はそうした話を聞くと、心の中で「はたしてそうだろうか?」と考えます。実はその人はステップ1でつまずいているのではないか。アルコールに対する無力を認めることができていないんじゃないか、と思うのです。

しかし、それは置いておいて、ステップ2にも難しさがあるのは事実です。

ステップで使われる「神」という言葉は、あくまで「自分で理解した神」という意味です。決して他の人の理解する神ではありません。神という言葉を聞いたときに、キリスト教やその他の宗教の神を思い浮かべる人が多いのですが、その信徒でない限りその神を思い浮かべるのは適切ではありません。なぜなら、それはその人の理解できている神ではないからです。

理解できていない、つまり信じることができない対象(神さま)を信じようとしても、それは無理です。無理なことはやめて、いま自分が信じられるものを信じればいいのです。

ではいま自分がどんな神さまを信じているか?

たとえばこんな質問をします。もしあなたの願い事を叶えてくれる神さまがいるとしたら、あなたはその神さまに何をお願いしますか? マジで考えてください。

仕事の成功、お金、健康、異性などなど。人によって願い事は違うでしょうが、ちゃんと考えてくださいね。

では次の質問です。もしその願い事を叶えてくれる神さまが、本当にいるとしたら、あなたはその神さまを信じてもいいと思いますか?

はい。そういう自分に都合の良い神さまだったら信じてもオーケーだ、と答えられた人は、もう「信じることのできる対象(神さま)」を持っているわけです。

もちろん、そうした都合の良い神さまを信じることは、稚拙な信仰です。「そんな未熟な信仰ではいけない」と私たちは耳タコで聞かされてきました。祈りとは願い事ではないと聞かされてきました。だから私たちは自分の理解できる神さまを捨て、人の信じる神さまを自分も信じなければと四苦八苦してきたのですが、それは間違ったやり方でした。

「ほかの人が信じる神のことは考えなくてよいのだとわかって、とてもありがたかった。あまり適当でなくても、自分なりの考えで、神に近づき、神に触れることができた」(p.68)
「そうして時間がたてば、とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのことが、受け入れられるようになった自分に気づくようになる。それが成長なのだが、成長するには、どこかで始めなければならなかった。だから私たちは、自分なりの神への理解から始めた。たとえそれはせまく、かぎられた理解だったとしても」(p.69)

立派な信仰を持つに越したことはありませんが、すぐにそうなれるわけではありません。幼児洗礼を受けて毎日曜日に何十年も教会に通い続けて得られるような信仰心を、たった十数回AAミーティングに通っただけで得られるはずがありません。立派な神さまを立派に信仰するという無茶な要求を自分にするのは止めて、いま自分の立っている場所から出発するしかないのです。

自分がどうしても神を信じることができない、理解することができないと言う人は、信仰心についても「立派な信仰を持った自分」を無意識に要求しているのです。そうではなく、拙かろうとも等身大の信仰から始めるしかありません。

ステップ2は、どんな神さまを自分は信じているか、どんな神さまなら信じられるか、ということから始めるしかありません。それが「私はこんな神さまを信じています」と人に言うのが恥ずかしいような幼さであったとしても、ともかくそこから始め、あとはそれを成長させていくしかありません。


2010年03月10日(水) selfish/self-seeking(利己的と身勝手)について決着

今回はテクニカルな話です。

RDPの棚卸し表では、第4列(自分の過ち・欠点)には4つチェックする欄があります。
先頭から「利己的」「不正直」「身勝手・恐れ」「配慮(関心)の欠如」です。

これはビッグブックの以下の場所から来ているのでしょう。

 Where had we been selfish, dishonest, self-seeking and frightened? [p.67]
 自分がどこで利己的で、不正直で、身勝手だったのか。何を恐れていたのか。(p.98)

 Where had we been selfish, dishonest, or inconsiderate? [p.69]
 私たちはどこで自分勝手であり、不正直であり、思慮を欠いていたか。(p.101)

ここで問題になるのは selfish(利己的)と self-seeking(身勝手)の違いです。二つの違いについて入手できる情報と言えば、『ビッグブックのスポンサーシップ』に数行書かれているぐらいですが、困ったことにその文章が要領を得なくて違いがよく分からないのです。

先月奈良で、RDPの開発者ジョー・Mの後継者であるラリー・ゲインズ氏によるRDPのワークショップがありました。その中でも「この二つはどう違うのか?」という質問が出ていました。それに対するラリーさんの答えは極めてシンプルで、

「程度の違い」

というものでした。
selfish → self-seeking → self-centered の順に程度が酷くなっていきます。この程度とは「どれだけ求めているか」、つまり強迫感の強さです。この3つに共通するものは self つまり自分に(だけ)利益をもたらすという点です。

例えば同僚と昇進を争っていて、どちらかが上のポストに就けるとき、相手の足を引っ張ろうとして相手の能力に疑問を呈するアピールをする程度だったものが、自分が昇進できない不安が強まると、ウソの噂を流して相手を貶めようとする、とか。

別の例を挙げると、ある車を買いたいと思う。なぜその車が欲しいかというと、それを手に入れることでエゴやプライドが高められるから(つまりこの場合も利益を得るのは自分のみ)。他に使うべき金を惜しんで車を買うために貯金するだけでも selfish なこと。そして金が貯まって車を買いに行くと、値上げされていて金が足りないとする。さらに意固地に金を貯めても足りないとなると、今度はウソやズルや盗みをしてでも金を増やそうとする。このように欲求、恐れ、あるいは強迫感の強さによって、自己中心性というのは程度が強まっていくわけです。僕なりの言葉で言えば「人を押しのける力の強さ」でしょうか。

そう考えると身勝手と恐れがセットになっていることも頷けます。利己的と身勝手に本質的な違いはなく、ただ程度の違いと考えるのはシンプルで気に入りました。

なお、日本の回復研究会の配布している棚卸し表では selfish は自己中心と訳されていて、self-seeking は身勝手とされていたり、あるいはその言葉が削除され「恐れ」のみの欄になっていたりします。

自己中心性に関するラリーさんのコメント。
アル中は「自分に都合の良いものを、自分に都合の良い方法で、手に入れようとする。だから彼らが最も聞きたくない言葉は No だ」。


2010年03月09日(火) ストーリー形式の棚卸しを聞く

スポンシーの棚卸しを聞きました。今回はいままでの人生をストーリー形式で振り返るやり方で、従来の日本式の手法です。僕はこれにライフストーリー形式という名前を付けています。

書いてもらう前にスポンシーに出した指示は「これを書くのに何週間も、何ヶ月もかけてくれるな」でした。これが済んだら表形式の棚卸しに取りかかる予定なので、それが何ヶ月も先に伸びてしまっては、ステップ全体の進行が止まって困るのです。完璧を求めすぎる余り、時間がかかりすぎるのは良くありません。それよりも設定した期限までに仕上げることを要求したのです。

僕がこの方針をとるのには理由があります。僕はストーリー形式の棚卸しから性格上の欠点を分析する技法をスポンサーから受け継いでいません。聞いていれば大まかな欠点はわかるものの、その原因・根源を探っていく技量を持っていないのですから、そこに注力する意味はありません。表形式をやる前フリとしてやっているわけです。

このやり方にも利点があり、その人の人生全体を鳥瞰することで、行動や考え方の傾向を知ることができます。また登場人物も一通り把握できます。これは大事なことです。正直になりきれないスポンシーは表を書くときに、特定の相手を完全に無視して表に載せないことがあります。あるスポンシーは恨みのリストに奥さんと子供を載せませんでした。理由を聞くと、「妻と子に対してまったく恨みはありません」と真顔で答えたのでした。こんな具合なので、なにか重要なインシデントがあっても、その相手を表から外してしまう可能性は十分あります。棚卸しから誰かを外せば、埋め合わせからも外すことになり、それがステップ全体の効果を台無しにする可能性もあります。ストーリー形式を先にやっておけば、本人もスポンサーもそれをチェックできます。

ストーリー形式の場合、書くときも、話すときも、聞くときも、「考える」よりも「感じる」ことが大事であるように思います。しかし感じたことの効果は、月日とともに薄れていってしまうわけですが。

今回は全体を聞くのに3時間を要しました。これは決して長い方ではありません。けれど短すぎるとは思いません。なぜなら、今回の話では中学校以降は現在まで、ひたすら同じパターンの繰り返しだからです。場所を変え、相手を変えて、同じことを繰り返しているだけです(だから聞く方はすごく飽きる)。

おそらくご本人は、いままでの人生が同じことの繰り返しだったとはほとんど気がついていないに違いありません(けれどなぜ自分の人生がうまくいかないのか悩みはある)。酒や薬を飲んでいるときも、飲んでいないときも同じです。今回はソーバーが始まって数ヶ月での棚卸しでしたが、これが仮に数年後に聞いたとしたら、酒や薬を飲んでいた頃とやめた後でまるで変わっていないことに気づくでしょう。つまり、

人間は酒や薬をやめたぐらいでは考え方も行動も本質的に変わらない。

という当たり前の事実が判明するのです。(これは何も今回のスポンシーに限ったことではなく、僕を含めたアル中に普遍的な傾向でしょう)。
これは自分で自分を変えることの難しさ。「自分の性格上の欠点に対する無力」の認識につながります。これを理解するからこそ、ステップ6、7の「自分は自分の欠点に対して無力だが、ハイヤーパワーにはそれを変える能力がある」という考え方に発展できるわけです。

ここにおいてステップ2の「解決=ハイヤーパワー」という理解はとても大事で、それがないとどうしても「解決=自分の努力」になってしまいがちです。すると、自分の欠点を自分で見定め、自分で直そうとします。これは何でも自分の力で解決できるはずだと思いこんでいた、飲んでいた頃の考え方と同じです(その人を酒に導いた考え方と同じと言っても可)。酒をやめただけでは人は変わらないので、「古い考え」に戻るのは自然なことです。そうやってステップ4・5の効果が失われていくのでしょう。

僕はステップ4・5は一回やれば十分だと思っています。前回やった効果が薄れてしまったのでまたやらねばというのであれば、それは前回のステップ4・5が不十分だったというよりは、その前のステップ2・3がちゃんとできていなかったということです。その状態で棚卸しをやっても前回と結果は同じでしょう。

しかし今回も疲れました。


2010年03月06日(土) 安易に共感しない

病気を英語の頭文字で呼ぶことが増えています。例えば後天的免疫不全症候群はAIDSです。EDは「いーことができない」の略ではなく、勃起不全。最近眼科の壁にAGAというポスターが貼ってあったので、眼科の新しい病気かと思ったら「男性性脱毛症」でした。ハゲも眼科で治る時代らしいです。

DSM-5ではアルコール依存症が「アルコール使用障害(Alcohol-Use Disorder)」と名前が変わります。これも頭文字を取ってAUDと書かれるようになるのでしょうか。

ミーティングで「AUDのひいらぎです」とかアイデンティファイしたら間抜けな感じですが、そう言う人たちが増えればきっと慣れてしまうでしょう。

さて本題。

さて、スポンシーと話をしていて気をつけているのは、安易に共感しない、安易に同情しない、安易に慰めない、安易に癒さない、ということです。つまり、共感せず、同情せず、慰めず、癒さず、ということです。

スポンシーは何かしら傷ついているから相談してくるわけです。あるいは不安になったり(恐れ)、恨みを持ったりするからこそ、スポンサーにそのことを相談してくるわけです。

その時に、スポンシーの味方になって、スポンシーを傷つけた相手を非難すれば、スポンシーは安心するでしょう。「あなたは悪くない」と言ってあげれば、落ち込みから浮上してくるかも知れません。

けれど、それを繰り返していれば、スポンシーはあなたに「嫌なことがあったときに話を聞いてくれる良い友だち」以上のことは期待しなくなり、いざあなたがその役目から降りたときには、裏切られたと感じるでしょう。

それではスポンシーが自分で問題を乗り越える力を獲得できずに終わってしまいます。回復ではなく悪化の手助けです。

心に悩みや葛藤を抱えたまま生きることは、決して悪いことではありません。悩み続けていれば、心はいずれその悩みを乗り越える道を見つけるものです。前向きにそれに向き合っていくことにするか、変えられないものとして受容するかはともかくとして、何らかの道を見つけます。

スポンシーはそういう「自分で問題を乗り越える力」がずいぶん弱くなっているので、別の手段に頼ろうとします。それが例えば酒、ギャンブル、異性であったりします。嫌なことがあると、不眠のために処方された睡眠薬を夕方飲んで寝てしまう人もいます。薬の依存になっていなくても、嫌なことを乗り越えるために気持ちよくなる薬が欠かせない人は、いつまでたっても同じ程度の悩みで音を上げています。

やめたばかりのスポンシーは、本当に些細なことで悩むものです。細かなことで悩まず易々と乗り越えていけるようになって欲しいと願うならば、やはり安易な癒しは与えないことでしょう。

悩みとはゴミのようなものであり、心に悩みがあるとは、心という部屋の中に悩みというゴミがたくさん散らかっている状態です。健康な復元力があれば、いずれ心の中が整理され掃除されて、悩みと折り合いがついていくものです。この自然な復元力が失われているようであれば、「棚卸し」という積極的な行動によって整理整頓をうながすべきです。

一時的な効果しかない慰めを与えるより、永続的な効果のある12のステップへ導くのがスポンサーの役割だ、という当たり前の話でした。


2010年03月05日(金) ボーダーの人は本当にアル中か?

あまり真面目な話ではないので、話半分に聞いてください。

パーソナリティ障害(人格障害)の一つに、境界性パーソナリティ障害(BPD)というのがあります。いわゆる「ボーダー」の人たちです。これは女性に多い。

BPDにはアルコールを含む薬物乱用が多いことが知られており、治療中のBPDの5割〜7割に薬物乱用があるそうです(アメリカの話)。では、アルコール薬物依存の人にボーダーは多いのか? 調査によって、また薬物によっても幅があるのですが、1割〜4割ぐらいです。ただ、対象を女性に限ればもっと割合は増えるかもしれません。BPDと薬物乱用が合併すると、より深刻なことになり、反社会性行動や自殺企図が増えるデータがあります。

ボーダーの女性アル中は、ネットにもAAにもいます。ただ、僕が知っている人はサンプル数としてはそう多くはありません。その多くないサンプルから僕が感じていることは、

この人たち本当にアル中かなぁ?

ということです。

彼女たちの飲んでいた頃の話は、結構すさまじいものです。・・・けれど、やめる気になったときは、結構スッパリ酒をやめています。やめる気になるまでは大変なのですが、その気になりさえすれば(BPDのないアル中さんに比べれば)結構簡単にやめてる感じがするんですよね。

もちろん彼女たちの飲酒時の状況を、DSM-IVでもIDC-10でも操作的な診断基準に当てはめれば、ちゃんと「アルコール依存症」っていう診断になるのでしょう。ただし操作的診断基準の問題については、素人の僕がここで改めて書くまでもありません。

彼女たちの飲酒は、どんなにすさまじかろうと、詰まるところボーダーの症状に過ぎないのじゃないか?

という印象です。
だからってBPDのアル中さんを別扱いする必要があるかどうかは判りません。ただ、女性のAAメンバーがスポンサーを選ぶときは、そのことを考えた方がいいような気がするのです。


2010年03月04日(木) 批判に対して

いままで最も批判を多く受けたAAメンバーは、誰あろうビル・Wだと言われています。AAの内部からも外部からも、常に激しい批判にさらされていました。(もちろん陰口やうわさ話にもさらされていました)。例えば、「ミーティングに出ていない」と最も非難されたメンバーも、やはりビル・Wであったと言われます。AA創始者としてドクター・ボブと共に「特別」な立場にあった彼が、ミーティングを普通のメンバーのように使えたわけはなかったわけですけれど。

だから、批判に対してもっとも経験を積み、どう対処すればいいか一番考えたのもビル・Wであったでしょう。彼の著作である12の概念や『ビルはこう思う』には、批判を受けた場合について、繰り返し書かれています。

批判を楽しい気分で聞いていられる人はいません。また、楽しい気分で聞かなければならないわけでもありません。

批判が的を射ていたならば、私たちはそれに対して感謝すべきです。自分で気が付けなかったことに気づかせてくれたのですから。

批判が100%真実ということは滅多にありませんが、いくばくかの真実はたいてい含まれているものです。批判は個人に向けられるときもあれば、AA全体に向けられるときもあります。たとえば、ここの掲示板にも、わざわざAA批判をしにやってくる人たちがいます。

例えば「AAはタバコを吸っている人が多い」という話は何度も出ています。おそらくその真意は「だからAAには行きたくないんだよ」というもので、AAに行かないエクスキューズが行われているだけです(自助グループに行く人は行く素晴らしさを述べ、行かない人は行かない言い訳を述べる傾向があります)。批判の真意がなんであれ、AAにタバコを吸う人が多いのは事実です。そうした継続的な批判や、医療関係者からのお小言があるおかげで、AAで何年かした人たちの中に、タバコをやめる人たちが出てくるわけです。

「近くにミーティング場がない」という話は、遠くの会場まで行きたくないという言い訳であることが多いのですが、そうした話のおかげで「やはりいずれは全国津々浦々まで会場をちりばめねばならないね」と未来の目標が再確認されます。

「神とか言っているのが人を遠ざけている」という話からは、やたらめったら信仰を語る危うさを学ぶことができます。

もちろん、批判が誤解による場合もあります。その場合には誤解を解く努力をしてみるべきですが、相手が聞く耳を持たないのなら、少し苦笑いをして忘れるほかありません。こうして私たちの謙虚さがちょっぴり鍛えられます。

AAメンバーとして最初の1〜2年は、スポンサーがビシビシお小言をくれるでしょう。あんまり危なっかしければスポンサーじゃなくても誰かが厳しい助言をしてくれます。しかし何年か経ってくると、あんまりお小言は言われなくなってきます。それは多少は回復成長があったからでもありますが、概ねは年数が経って周りが小言を言いにくくなっただけの話です。

自己満足はAAメンバーの成長を止めます。自分はよくやっている(十分良くやった)という意識ほど危険なものはありません。慢心があると、批判に敏感になり、自己防衛的な言い訳に終始して、そこから何かを学ぼうとする姿勢になりません。人はそうした姿勢を実によく観察しているものだと思います。なぜ自分の努力に相応しい、年数なりの評価が得られないのか悩みがあるとするならば、自己満足ということについて考えてみるべきでしょう。

こんなことを書くと、まるでAAをストイックな求道のように感じ、そんな陰気なやり方は嫌だと思う人もいるかもしれません。けれど、仕事であれ人間関係であれ、慢心による怠惰がトラブルの原因になっていることは多いものです。「下りのエスカレーターを逆にのぼっているようなもの」とは、回復というジャンルに限った話ではありません。生活全般、人生全般に及ぶことです。

時には頭ごなしに叱られることが必要なこともあります。そうした損な役回りを引き受けてくれる人はあまりおらず貴重な存在です。年数が経ってくればなおさらです。


2010年03月02日(火) 抗うつ薬の作用機序の続き

抗うつ薬がなぜ効くか、という話は以下に書きました。
ダウンレギュレーション
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20091117
ネガティブな認知バイアスの解除
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20091118
残念ながら元ネタにしたDr.KOBAのブログが閉鎖されたため、元の論文をたどれませんが、たどったところでabstructしか読めないのであまり意味はありません。

抗うつ剤はシナプス間隙に放出されたモノアミン(セロトニン)の再吸収を阻害するため、セロトニン濃度が上昇します。これによってうつが良くなるのだと考えられています。しかし、セロトニン濃度は抗うつ薬を飲んだ直後から上昇するのに対し、うつの症状の改善には2週間〜6週間もかかり、この時間差が謎になっています。

これについて、濃度が上昇するため受容体の数が減少する(=ダウンレギュレーション)ためであるという説を紹介しました。これは素直に読むと、セロトニンに対する感受性が下がることに効果があるわけです。
一方で、抗うつ薬を飲み始めた直後から、物事をネガティブに捉える認知バイアスが解除されていることが観察され、その効果が発揮されるまでに時間差があるのだろう、という説を紹介しました。こちらも素直に読めば、抗うつ薬の作用機序は、カウンセリングによる認知行動療法と同じで、(内分泌のレベルではなく)認知のレベルの改善によるものだ、というわけです。

ところがSSRIでは受容体の減少が起きないため、ダウンレギュレーションが一般的な作用機序とはみなされない、という説がでています。

人間の脳は大人になってしまうと神経の再生は行われず、ただ死滅して徐々に減っていくのみと考えられていました。しかし、記憶をつかさどっている海馬では、その一部で神経細胞の新生が続いていることが分かってきました。(この神経新生は加齢とともに減っていくので、これが加齢による記憶力の低下の原因かも)。

うつ病の人の脳では、この神経再生に必要なBDNF(脳由来神経栄養因子)の濃度が減っていることが分かっています。これにより海馬神経新生が阻害されることがうつの原因だという考え方があります。抗うつ薬の服用によってBDNFの濃度はすぐに戻るものの、神経新生が進んで海馬が機能を取り戻すまでには数週間かかる、という説です。

コルチコイドというのは人がストレスを感じたときに分泌される「抗ストレスホルモン」ですが、これが海馬におけるBDNFの濃度を低下させ、海馬の再生を阻害します。海馬はコルチコイドの濃度にも関わっているので、海馬が傷害されコルチコイドの濃度が上昇すると、さらに海馬が傷害されることになります。

うつ病患者の脳では海馬が萎縮しているとされますが、ストレスによって海馬が自分を傷つける悪循環を、抗うつ薬が逆転させる、という話になるわけです。そうなると、うつ病も器質性の病気ということになります。

今世紀になって統合失調症の脳に萎縮があることがわかってきました。うつ病や統合失調症は内因性の病気とされてきました。統合失調はドーパミン、うつ病はセロトニンの内分泌系の異常であって、アルツハイマーのような脳の組織変性は起きていないと考えられていたわけです。けれどやっぱり器質の問題だったのかも知れません。

21世紀は器質の時代か・・・。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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