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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年12月27日(日) 発達障害について(その2) 知能検査の結果(IQの数字)は正規分布になります。
統計を取り扱う人間には常識以前のことでしょうが、正規分布の場合±1σ以下の範囲に約7割が入り、中央から±2σ以上外れるのは4%ほどに過ぎません。
IQのσ(標準偏差)は16だそうです(田中ビネー方式の場合)。
知的障害とはIQ70未満をさします。人口の2.1%だそうですから、上の計算と合っています。僕が子供のころに学校に存在した養護学級には、主に身体障害と知的障害の子たちが学んでいました。
知的障害のうちIQが50〜70を「軽度」と呼びます。軽度であれば、本人も周囲も障害の存在に気づかずに社会生活を送っている場合も珍しくありません。IQが50あれば日常生活には大きな不都合がないと言います。IQ50とは暦年齢の半分ぐらいの知能ということですから、成人の場合には約9才、小学校中学年ぐらいです。
小学校中学年の子がどんな暮らしをしているでしょうか。新聞記事を読んでも理解はおぼろげでしょうが、テレビ欄を見て好きな番組を探すことはできます。買い物をすることも、家計簿をつけることもできます(足し算さえできればいいんだから)。それなりの文章も書けます。私たちの日常生活では、小学生ぐらいの知能しか使っていないのです。
さすがにIQがあまり低くなってしまうと(健康的な問題を抱えがちなこともあって)、施設で暮らさざるを得ませんが、知的障害の約9割を占める軽度(IQ50〜70)の人は、社会参加に問題がなく、比較的単純な作業なら工場などで労働も十分に可能です。なんとか高校を卒業し、運転免許を持ち、働いて結婚して子供を持っている人もたくさんいます。療育手帳の取得率も1割未満です。
知的障害と精神遅滞は同義語ではなく、知的な障害を原因として社会的な適応障害が起きたケースのみを精神遅滞としています。精神遅滞は知的障害の約半分ですが、その約8割は「軽度」であり、適応障害がないはずの人たちです。
では何が問題なのか。それは情緒の発達にトラブルを抱えるからです。
純粋な知的障害の場合は、情緒の発達は普通の子と変わらず、すくすくと成長すれば安定した情緒を持った大人になります。しかし、知的な能力が低いほど、情緒も不安定になりやすいことも分かっています。
親の期待が過大だと、子供は大変苦しいわけで、「お前はこんなこともできないのか」と責められ続ければ、情緒がこじれてしまうのもうなずける話です。良く聞くのは、本来であれば特殊支援学級(昔の養護学級)に入れるべき子供を、親が頑張って普通学級に入れてしまう話です。親として子供のためを思ってのことでしょうが、子供はいずれ授業について行けなくなります。
小学校の先生から「9才の壁」という話を聞きました。小学校3〜4年生あたりでカリキュラムに抽象的な概念を扱う課題が出てきます。算数であれば分数や小数。国語であれば接続詞などです。この先5年生、6年生と進むと最小公倍数や文章題の解題などさらに難しさを増していきます。
そして、この3〜4年生でつまずく子供が多いのだそうです。(もちろんつまずく理由は知的障害に限りませんが)。母親が宿題を見てあげられなくなるのも一つの原因だそうです。そして知的な問題を抱えた子供は、抽象的な概念を把握する能力の発達が遅れるため、このあたりで授業について行けなくなるのだそうです。
またこの頃は子供が大人に対して秘密を持ち始める時期でもあり、それもハードルを作るわけです。
話を戻します。考えても見てください。自分がさっぱり理解できない外国語で行われる会議に毎日出席し、資料の意味は分からず、なのに時折質問を受けて答えなければならない日々を。理解できない授業に出続けるとは、そういうことです。さらに、暗号のような宿題を持って帰り、親には「お前はこんなこともできないのか」と言われる。これですくすくと情緒が延びるわけがありません。不登校やひきこもりにならない方が不思議で、もし高校卒業まで授業に静かに座っていられるのなら、並はずれた忍耐力の持ち主と言えます。
情緒のこじれが原因の適応障害は、知的障害に限らず発達障害全般に言えることです。情緒が未発達なゆえに衝動の制御が効かない状態で社会と接すれば、アルコールやギャンブルの問題が深刻化しやすいようです。それを依存症とひとくくりにするのではなく、精神遅滞の問題であるのか、依存症の問題であるのか、鑑別が必要だと思います。
社会適応がよい人たちにも依存症は過酷です。障害ががない人でも、いったん依存症で職を失うと再就職が大変です。ハンディキャップを抱えた人が、なんとか学校や最初の就職というハードルを乗り越え、安定した社会的地位を保てていたとして、病気のせいでそこから落ちてしまうと、今度は依存症とハンディキャップの両方が足し合わさった高さのハードルを越えなければならない困難があります。
依存症の人に知的障害(後で述べるIQ70〜84の境界知能も含めて)が多いのかどうか。それはおそらくこれからデータが出てくるだろうと思います。
僕が感じた一つの例を挙げてみたいと思います。
AAのミーティング・ハンドブックには、アルコホーリクを「足をなくした人間」にたとえているところがあります。切断した足が生えてこないのと、正常飲酒する能力を失ったことを同じとみなしているわけです。
これはどちらも「障害」という概念に一致します。障害という概念は、症状が固定して治癒不能になった意味です(法律やそのための診断の概念では別ですが)。トカゲの尻尾と違って人間の足は切れば生えてこない。アル中も正常飲酒できるようにはならない。どちらも症状の固定です。
この「足をなくした人間」という表現に対して拒否反応を起こす人がいて、それは自分が一生酒が飲めなくなったことに対する嫌悪の感情の表れであり、酒を飲めないことを(知識としてだけでなく)心情の上でも受け入れられるようになれば、自然に消失していきます。
しかし、中にはこの表現にいつまでもこだわる人がいて、不思議に思ったのです。
9才の壁のところでも書きましたが、知的障害を抱えた人は、抽象的な概念を把握するのが困難です。切った足が生えてこないのも理解できる。二度と酒が飲めないことも納得した。けれど、症状の固定は理解できない。なぜならそれは抽象的な概念だからです。そうやって枝葉にとらわれて幹を見なければ、本筋が流れていきません。
ビッグブックでは、アルコホリズムを身体の病気と精神の病気に分けて表現しています(その分類は医学的なものとは違います)。この twofold disease (二つの病気の組み合わせ)を理解することがステップ1の無力を理解するために大事なポイントになってきます。ところが、この二つの概念の把握に苦労する人がいます。どうも良くないのです。
ステップは小難しい抽象概念を操作しないとできないことなのか。おそらくそんなことはなくて、本質はもっとシンプルなものだと思います。AAから出版するわけにはいかないでしょうが、もっと分かりやすいステップの翻案書が出てもいいと思います。また、スポンサーやAAメンバーは、あまり些末な議論に入り込まずに本筋に導く努力が欠かせないのでしょう。
2009年12月24日(木) 発達障害について(その1) 初めてカトリックの御ミサに混じってみました。なんて正しいクリスマスの過ごし方なのでしょう。もちろん日本人らしく鶏肉やケーキもいただきました。まだ年内の仕事は残っていますが、大きな案件は片づいてほっとしています。
さて、そもそもなぜ発達障害に関心を持ったかというと、その数が多いからです。
アルコールの離脱症状で抑うつが出るので、依存症の人にうつ病が多いように思われがちですが、依存症の人に特にうつ病が多いわけではない(普通の人と変わらない)ことは、医者の側からも言われますし、自助グループの側からも実感できることです。うつ病の有病率は2%ほどで、統合失調症は1%程度。
ところが、発達障害となると、これが一桁多いわけです。ギャンブル依存症のリハビリ施設では、利用者のうち医療機関で発達障害の診断を受けた人が2割。それとは別に検査中の人が2割だそうです。利用者の発達障害を医療機関に評価してもらうことが欠かせなくなっているというのです。
知的障害と境界知能、自閉症とアスペルガーと高機能自閉症(PDD)、AD/HDとLD、そして第4の発達障害である「被虐待」。複数の障害を持っている人が多いことを考えあわせても、何らかの発達障害を抱えた人の割合は、うつ病や統合失調を大きく上回ってきます。さらには、医者にうつ病あるいは他の精神病と診断されていた人が、実は専門医の診断で発達障害であるが明らかになるケースも珍しくありません。
当然のことながら、そうした困難を抱えた人が、アルコールや薬物その他の依存症にもなり、自助グループにやってくることも頻繁に起きているのに違いありません。そして、本人ですら発達障害に気づいていない場合もたくさんあると思われます。そして、依存症の人の親も依存症というケースが多いことと、親が依存症の家庭にはネグレクトを含む虐待が多いことを考え合わせれば、依存症者が発達障害を抱えている確率はより高くなって不思議でありません。
こうした人たちは、その障害ゆえに社会適応に困難があり、(それが逃避的に何かに耽溺する原因になったのかも)、自助グループに入って続けていくのにも困難があるのは当然のことです。彼らも必要な支援があれば社会に適応してやっていけるように、自助グループの側に少しの配慮があれば、彼らに回復を提供することも可能になってくると思います。AAでは目が見えない人のためにビッグブックをオーディオCDにしたり、点字の本を作ったりしています。別のトラブルを抱えた人向けには、別の配慮を行うことも可能ではないでしょうか。
従来「まだ底をついていない」「やる気がない」「みんなと一緒にできない」「その場にふさわしい行動ができない(≒KY?)」などと言われてきたケースをもう一度見直してみると、それは「まだ苦しみ足りない」のではなく、すぐそれとは分からないハンディキャップを抱えていたがために依存症の回復プログラムに乗れなかった人たちが多かったのではないか。そして、彼らも適切な対応があれば回復の道に入れたのではないか、そう思うのです。
また、どうしても自助グループが役に立てないケースがあったとしても、その問題の所在が明らかであれば、お互い無駄な時間とエネルギーを使わず、自尊感情を傷つけあわずに済むというものです。
しかし発達障害と依存症の関係について考えるためには、まず発達障害についての知識がなければなりません。というわけで、ちょっと発達障害について学んでみたことを書いていきます。
付記:最近は障害を障碍(あるいはひらがなで障がい)と書くケースがあります。碍子(ガイシ)の碍で、礙の俗字。意味は「さまたげる」。現代表記では障礙を障害と書き換えますが、害の字が「がいする」にも通じるために、それを嫌う人がいるのでしょう(子供を子どもと表記するように)。
2009年12月23日(水) クリスマスコンサート AAの会場に部屋をお借りしている教会のクリスマスコンサートのチラシをいただいたので、仕事の合間に行ってきました。今年の8月から使わせて頂いているのですが、来年の2月まで半年間は仮許可なので、失礼の無いようにしておきたい、という思惑もありました。
演奏するのは地元の夫婦のユニットで、奥さんがアルパという南米のハープとアイリッシュハープ、旦那さんがギターとアイリッシュフルート。南米の曲を中心に、クリスマスらしい曲あり、みんなで賛美歌を歌い、子供たちが歌を唄うのを聞くという90分でした。
小さな聖堂を埋めているのは、おそらくほとんどが信徒の人でしょう。それでも「キリスト教徒でない人にも賛美歌を歌わせてしまって、ごめんなさいね」という言葉が出ていました。ひょっとしたらこのユニットのファンの人も来ているのかもしれません。
僕は特定の宗教に属しているわけではありませんが、宗教に対するアレルギーはないので、教会という場所や賛美の歌に違和感はありません。これが20年前だったら大きなアレルギー反応が起こったことでしょう。あの頃は、教会や宗教だけでなく、どこにいても自分が場違いな感じがして、居るべき場所はこの世界には無いと感じていました。今は、自分はどこにいても構わない気がします。自分はどこにいてもいいし、歓迎されなければ去ればいい、と。
ソレアードや平和を作る人を聴きながら考えたことは、最近よく考える「信じるという能力」についてです。自分を信じる(自信)、人を信じる(信頼)、神を信じる(信仰)というものは、どれも同じ信じるという一つの能力なのだと思うのです。
話は変わって、AAでは会場に教会の部屋を借りていることが多いので、その教会の人と接する機会が少なからずあります。ミーティングが始まる直前まで部屋で話をしてくれる熱心な人もいれば、廊下で立ち話をしただけの人もいます。そして感じることは、やはり神父や牧師を職業とする人たちの頭の良さです。というか頭が良くなければ聖職者にはなれないのでしょう。それだけでなく、人と接する社会的スキルなど様々な能力などなかなかハードルも高そうです。(もちろん、何にでも例外はあるにせよ)。
牧師親子の歌声はプロ並みでした。医者や弁護士は自分の子供を同じ職業に就かせようとするそうですが、牧師はどうなのか。コンピューターの中のこびとさんたちを働かせる仕事を選んだ僕を、農夫だった父はどう思っているか。それを気にしたことがありませんでした。
「信仰を持っている人たちは、人生がどういうものであるかということについて論理的な考えを持っているのだ」(p.73)
2009年12月21日(月) この雑記について この雑記も最初は日記形式で日常をつづっていました。
すると僕の周りの人が雑記に登場するのですが、次第に誰かのことをネットで全世界に向けて書くのも「いかがなものか」という気分になってきて、だんだん日常を書くことが減りました。
かわりに増えてきたのが、考えていることを書くことです。
大学ノートに書くことを、かわりにこの雑記に書いているようなものです。
何かを勉強しているときにはその復習であり、なにかアイデアがひらめいたときにはそのメモ書きです。アイデアの場合には、それは僕の仮説に過ぎないので、メールや掲示板で指摘を受ければ、アイデアを捨てたり、修正したり、論証不足として結論を先送りしたりするわけです。従って、雑記は完成されたものではなく、未熟な状態のものが提供されているわけで、そこは読む側も分かっておいていただきたいものです。常にクリティカルな視点は持っていて欲しいということです。そうして僕が考えたことは、現実に活動する中で役に立つかどうかが試され、経験として僕の一部になり、役に立つことが実証された考えは使える道具となります。
また、この雑記は、頭の中をさらしている、とも言えるわけで、かなりの羞恥プレイです。
だからこそ、5年前、10年前に自分が書いた文章は恥ずかしいわけです。誰だって自分の少年期・青年期の日記を読み返すと「その恥ずかしさに悶えてしまう」のではないでしょうか。それは成人してからも同じであり、以前に書いた自分の文章を読んで恥ずかしく思わないのだったら、それは進歩がない、回復がないことを意味するのではないかと思います。
それと、以前から「セラピストになれるのではないか」と言われることもありますが、そんなこともないでしょう。僕が「自分の経験という井戸」を持っているのは依存症という分野だけだからです。依存症専門のセラピストは儲かりそうもありませんしね。
雑記を書くのにあてる時間は最大30分程度と決めています。それ以上時間を使うと、他の時間を浸食してしまうからです。ただ、先日のDV関係復習のような慣れない記事は、資料を読み返したり、本を調べたりするので1時間、2時間とかかっている場合もあります。それは「調べて正しいことを書こう」というよりも、「学ぶためには時間が必要」だからです。
2009年12月20日(日) 料理・学習・動機づけ 料理が下手な人がいます。
本人も料理が下手なことは分かっていて、なんとかしようと思っているのですが、自分では解決できずにいますから、下手だと言われると傷つくわけです。
料理が下手な人には特徴があって、たいていテキスト(レシピ)どおりに作りません。
テキストに書いてあるとおりの材料を集め、指示通り包丁で切って、順番どおりに鍋やフライパンに入れて加熱すれば、だいたいテキストの写真に似た料理ができあがります。味もまあまあです。僕も料理は下手だという自覚があるので、何か作ろうと思えばネットでレシピを探すことから始めます。
おそらく料理には勘所があって、それをマスターすればよりおいしく作れるのでしょうが、それは普通に料理が作れるようになってから、次のステップとして取り組めばいいことです。
テキスト通りに何度も作っていると、だんだん上達してきて、季節の食材の変化にも対応できるようになり、冷蔵庫の中の食材だけで料理が作れるようになります。つまり「応用」がきくようになるわけです。
テキスト通りに作ってうまくいく経験を重ねると、一度も作ったことのない料理でも、レシピを入手してそのとおりに作れば、たいていの料理を作れる自信がついてきます。これが「自信」というやつで、経験のないことも「できる」手応えをつかむことによって、その人の能力はぐっと上がるわけです。(経験のあることをできると思うのは、ちょっと自信とは違う)。
自分が料理が下手だという事実に直面して、テキスト通りの料理の仕方を身につけ、それが一通りできるようになったら、他の料理に応用していく・・・。自分なりのやり方を加味するのは、それができてからで遅くありません。これは楽器の演奏でも、資格試験の勉強でも、人が何かを「学習」するときの基本手順です。
12のステップもこの基本手順どおりの構造をしています。おそらく他の断酒のやり方でも、体系化されているものは同じ構造だろうと思います。ともあれ、まず自分が抱えている問題に直面しなければなりません。しかし、(たとえ料理が下手という程度であっても)欠点というのは直視したくない、受け入れたくないものですから、合理化という防衛機制によって無理矢理受け入れやすい形に変形してしまいます。そのせいで「学習」という手順の最初の一歩を外してしまうのです。
この合理化は、問題を否認させたり、他者に責任転嫁するという形を取ります(断酒会やAAのやり方がどうのという話も、たいていこれが出所です)。一人の人がこの合理化の壁を突破して進歩できるようになるには、それなりの時間がかかります。それを少しでも短縮するために、「動機付け面接法」というのが注目されています。ただ、動機付け面接法は、回復の入り口に導く方法であって、回復なり学習の手段そのものではありません(つまりステップや指針の代替にはならない)。
AAでスポンサーをやったり、ニューカマーの相手をする人は、この動機付け面接法に関心を持っても良いんじゃないかと思います。
2009年12月19日(土) 軽症のアル中 アルコール依存症も病気なので、軽症や重症の違いがあるのは当たり前です。
例えば、うつ病でも、重くなれば昏睡状態になってしまいますが、軽ければ医薬品ではなくハーブで治療が済んだりします。
「アル中には重症も軽症もない」というのは、極端な表現で正しくないのですが、しかし、使う場所によっては正しくもあります。
AAや病院にやってくる人たちは、ほぼ決まって「自分はそれほど重症ではない」と感じるようです。かくいう僕も「自分はそれほどひどくない」と思っていた一人です。根拠はいろいろあって、自分はまだ家族があるとか、働いているとか、刑務所に行ったことがないとか、でもそんな程度のことなのです。
そもそも病院やらAAに来ている時点で負け(という表現もヘンですが)なのです。要するに重症です。
ネットでこんなことをやっていると、見ず知らずの人から相談のメールが舞い込むことは珍しくありません。その中には「自分は酒をやめた方が良いか」という相談もあります。例えばこんな話です。
会社の同僚と酒を飲みにいったら、恥ずかしいことをしでかしてしまった。ところが自分にはその記憶がない。おまけに同僚からは、最近のお前の酒の飲み方はおかしいと言われる。どうしたらいいか。
まだ誰からも断酒を勧められていないわけですが、ブラックアウトは依存症になる人の特徴で、これから依存症になるのか、もうなっているのかに関わらず、断酒するしかないと返事をします。すると、その人は酒をやめてしまうのです。
(もちろん、メールで相談を受けた時点でもう重症でやめたがらない人もいますが、それは別の話)。
詳しく聞いてみれば、IDCなりDSMの診断基準を満たすでしょうが、もうパターンもわかってしまったのでたずねることもしません。だいたい僕は診断をする立場じゃないですし。それと、僕はその後を追跡するフォローアップはしません。
ただ、僕にメールを送った人なら分かると思いますが、1月1日には過去にメールをいただいた人に年賀のメールを送っています。すると、その返信で近況を知らせてくれる人が結構いて、2〜3回メールのやりとりをすることがあります。それで、その後も努力の必要もなく酒をやめていることが知れるのです。
リアルでも、AAメンバーとして活動していると、ときおり「私も実は以前は酒を飲んでいまして」という人に会うことがあります。この場合も同じで、家族に量が多すぎることを指摘された段階で、酒をすっぱりやめてしまっているのです。もちろん、その時点での診断基準は満たしているようです。
そんな具合に、軽症のアル中さんというのは、自分の健康に対する意識が損なわれていなくて、おまけにアル中さん特有の認知の偏りもまだなくて、自分の飲酒について危険を感じた段階で、素直にすっと酒をやめてしまうのです。医者に行くまでもありませんし、酒をやめ続けることに何の困難も感じていないようで、年賀のメールだけが僕との接点です。
逆から見れば、医者やAAに行く羽目になる人というのは、もうそれだけで重症です。「家路」にしても、雑記や掲示板を何度も覗く段階で、軽症でないのは明らかなのです。読んでいる人が全員重症なので、一緒くたに扱っても問題ないというわけ。(読者が家族や関係者であっても、その人たちが相手にするアル中さんが重症ばかりなので、これも問題ありません)。
ネットで「プレアルコホーリック」と称している人がいますが、ネットで活動しないと酒がやめ続けられないのなら、もう「プレ」じゃないだろうと思うのです。
「自分は軽症だ」という主張そのものが、重症を物語ってしまうわけです。この逆説に気づくのも回復のうちでしょう。
2009年12月17日(木) ある種の技法 二郎さんの掲示板で、家族が抗酒剤を本人に無断で飲ませると、家族を信頼できなくなってしまう、という話がありました。実際、みそ汁などにこっそり入れられて、それを知らずに酒を飲んでしまったために、セルフ嫌悪療法をやってしまった、という話はたまに聞きます。
(実際にはそんな経験はないのですが)、もしスポンシーから(一応しらふという設定として)「妻(母がでもいいけど)がみそ汁に抗酒剤を入れていることがわかった。もう信用できない。妻をどうすればいいだろう」という相談を受けたとします。
いきなり話がそれますが、「妻をどうすればいいでしょう」というのは相談ですが、「そんな妻とはもう離婚するしかありません。どう思いますか?」というのは、もう離婚すると決めているのですから相談ではありません。その場合には、まずその指摘から入ります。人の意見を自分の耳に入れるために必要なスタンスをスポンシーに示唆することは大事なことです。
話を元に戻します。本人が家族を信用できない以前に、本人がいままで信用できないことばかりしてきたからこそ家族の信用を失って、こっそり抗酒剤という仕打ちを受けるわけです。しかし、この種の説教はスポンシーの耳にあまり入りません。説教はアル中さんの耳に届かないのです。「それとこれとは話が別」などと屁理屈をこねられるのが関の山です。
恨みの感情をどう取り扱うか、というステップの話はスポンシーがステップをやっていれば効果があると思いますが、それ以前であれば話をしても効果がないと思います。
スポンサーとして言うべきことは、おそらく「それであなたはどうしたいのか?」でしょう。スポンシーは「妻がどうすべきか」を話していますから、そもそも主語が違うのです。
「主語を私にして、〜したいと表現してみよう」と導きます。
「私は妻がこっそり抗酒剤を入れるべきではないと思います」
主語は私になったけれど、〜したいになっていません。
「私は妻にこっそり抗酒剤を入れてほしくありません」
願望の表現になりましたが、いま一歩。
ここら辺で「つまるところ、あなたは奥さんが信用してくれないのが不満だということでしょう」と導けば、
「私は妻に信用してほしい」
「私は妻に信用される人間になりたい」
「私は妻にこっそり抗酒剤を入れられない人間になりたい」
という言葉になるでしょう。
そして、そのために何をすればいいか考えてもらえば、「毎朝妻の前で抗酒剤を飲む」という結論が出てくるかもしれません。
自分が信用できないことばかり繰り返してきたことを反省し、信用されるためには信用される行動を取らなければならないと決意し、そのための具体的行動として毎朝妻の前で抗酒剤を飲む・・・という思考がアル中さんはとても苦手です。おそらくそうした思考を司る脳の部位がアルコールで損傷を受けたか、飲む前から損なわれていたのでしょう。機能が回復するには時間がかかるのです。なので、説教が意味を持ちません。
いたずらに自尊感情を傷つけることはせず、自発的な行動を促す・・・てこれ子供の相手をするときの話じゃなかったっけ、と思うのですが、酒をやめたばかりというのは実際子供みたいなものなのです。あるいはリハビリのお手伝いという感じ。
この手法には、自分が信用できないことを繰り返してきたという事実への直面化がなされていません。なのでこの技法ばかりってわけにはいかないと思います。
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