心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年12月03日(木) mil 原点回帰運動について(その7)

さらに続きます。

ビッグブックによる12ステップのやり方、という言葉を使うと、まるでそれにはたった一つのやり方しかないように聞こえてしまいます。
しかし、実際にはかなりバリエーションがあります。それは流派と呼んでも良いのかも知れません。B2Bやビッグフット、最近目立つジョー・マキューもそれぞれ一つの流派と呼べると思います。余計なものを使わずビッグブックだけという人たちもいます。棚卸表も少しずつ違います。「ビッグブックに書かれたやりかたをする」という点では共通でも、それぞれ特徴があります。「ビッグブックのやり方」あるいはビッグブック・ムーブメントというのは、それらの総称であり、決して一枚岩ではありません。

例えばドゥー・ザ・ステップというのを紹介します。

僕には経験がありませんが、これは元はドクター・ボブから始まったやり方だそうです。スポンサーとスポンシーが一対一でビッグブックを先頭から読んでいき、途中でスポンサーが大事なところに注釈を与えたり、スポンシーに質問をしたりします。その注釈や質問が「ドゥステ」のキモなのだそうで、ビッグブックへの書き込みは代々受け継がれているわけです。ぶっ通しでやっても2〜3日はかかるとか。
そしてステップの箇所に来ると、そこに書いてあることをします。祈るべきところでは祈り、棚卸表を書くところでは書きます。ドクター・ボブは約五千人の患者を治療したそうですが、患者たちはドクター・ボブの指導を受けながらベッドで棚卸表を書きました。スポンサーの目の前で棚卸しを書くのはプレッシャーが大きそうですが、ともかくそれをやり、すかさず性格上の欠点のあぶり出しが行われます。埋め合わせはその場ではできないので、スポンサーと一緒に誰にいつ埋め合わせをするか計画を立てます。
ドゥステは「次の人に渡し続けないとステップが腐ってしまう」と言われ、スポンシーの相手をすることによって、スポンサー側のステップが深められていきます。ステップのやり方はどれもそうですが、スポンシーよりスポンサーにご利益が大きい仕組みです。
ドゥステをやる人たちは、ビッグブックの表紙の裏にドクター・ボブから始まる系譜を書き、スポンシーはその一番下に自分の名前を加える習慣だそうです。
(経験がないのでドゥステについて違っている部分があったら教えてください)。


2009年12月02日(水) mil 原点回帰運動について(その6)

「バック・ツー・ベーシックス」や「ビッグフット」にどんな意味があったのでしょうか?

少なくとも僕は「これだけで回復できた」という人は一人も知りません。これらのビギナー向けのテキストがメンバーに回復をもたらさなかったのは明らかなことです。(回復した人はそれ以上のことをしています)。そもそもどんな形式であれビギナーズ・ミーティングとは、それだけで回復が達成できるものではありませんから、効果がなかったと非難するにはあたりません。

ある精神科医がビッグフットに対して「これは旅行のパンフレットのようなものだ」と評しました。私たちが旅行会社のパックツアーに申し込むと、旅行の日程を書いた紙が送られてきます。そこには何日にどこへ移動し、何を食べ、何を見、どこへ泊まるか書いてあります。それを見て私たちはどんな旅行になるのかおおよそ理解します。もし旅行に申し込んでも、集合場所しか知らされず、旅行の内容についてさっぱり情報がなかったら、あなたは大いに不安になるのじゃないでしょうか。

12ステップが旅行そのものだとすれば、ビッグフットは旅行の日程表のようなもので、旅行(ステップ)の概略を把握できる効果があります。けれどパンフレットを読んだだけで実際に旅行をしなければ、旅行の経験は得られません。しかし、旅行に行こうかどうか迷っている人には、旅行の中身を知ることは決断する上で大切です。

もし日本のAAがステップで回復した人の集合体であったならば、ミーティングではステップという旅行の経験談がたくさん話されていたに違いありません。その話はビギナーの人たちの耳にも入り、自分もどんな旅行をするのか(つまりステップは具体的にどうするのか)おおよそのところがはっきりと分かるはずです。
しかし現実のAAにステップをやった経験者が少なく、経験と力と希望が分かち合われていないとしたら、ビギナーの人たちには情報が与えられず、突然「ステップをやろうじゃないか。私がスポンサーになってあげよう」という人が現れても、知らないおじさんについていくのは怖いと感じて怖じ気づいて当然です。

こうして考えてみると、ビッグフットの果たした役割は、「ビギナーをステップにいざなう」という本来通常のAAミーティングが果たさなければならない役割であり、その機能を代行したにすぎなかったわけです。

「バック・ツー・ベーシックス」や「ビッグフット」を経験した人の中で、準備ができていた人たちはビッグブックのやり方でステップに取り組みました。ビッグフットは入り口として十分な役割を果たしたと言えます。ビッグブック・ムーブメントの成熟とともに、こうしたビギナー向けミーティングは下火になっていった感があります。しかし、何らかの形のビギナーズ・ミーティングは常に必要とされているはずです。いずれ新しい何かが始まるのではないか、と期待しています。

さらに続きます。


2009年12月01日(火) mil 原点回帰運動について(その5)

さらに続きます。

「ワリー・Pという一個人の12ステップの解釈を、AAの原理だとして広めてはならない」という批判を受けて「バック・ツー・ベーシックス」は1年あまりで使われなくなってしまいました。では本当にワリーの解釈は偏っていたのかどうか? 6年経ったいま再評価してみると、それはワリー個人の解釈ではあるものの、決してビッグブックの伝える内容から外れてはいません。ワリーの本もあくまでビッグブックを読むことを前提としていたわけで、AAの原理から外れようがなかった、ということでしょう。批判は的はずれでした。

しかしワリー・Pの本を日本で出版して使っていこうとしても、翻訳許諾のために提示された条件が厳しすぎてクリアできそうにありませんでした。そこで日本のメンバー達は一計を案じました。自分たちでテキストを書けばいいのです。
日本ではAAメンバー自身が回復のためのテキストを書くのはごく珍しかったのですが、アメリカではたくさんのテキストが広まっていました。ネットでダウンロードできるものもあれば、ヘイゼルデンで売っているものもあります。そこで日本のメンバーも自分たちが手にしたもの基づいてテキストを作ることにし、完成させたのが「ビッグフット」です。

ビッグフットはビギナー向けミーティング用で、「1時間のミーティング4回で12ステップすべてをこなす」というコンセプトは引き継がれました。これを使ったAAミーティングが行われるようになり、毎夏には一泊二日で12ステップを学ぶセミナーが開かれるようになりました。

当然予想されたことでしたが、これもワリーの本と同じように批判の対象となりました。AAのオフィスで売っている本ではなく、メンバーが書いた本をミーティングで使って良いのかどうか。かまびすしい議論が続いた挙げ句、その是非は常任理事会というAAの最終責任機関に持ち込まれました。彼らの判断は、賢明にも政府的役割を避けました。ビッグフットをAAミーティングで使うことの是非は判断せず(つまりそれは各グループの良心に委ね)、AAと外部の接点になる病院メッセージではメンバーが書いたテキストは使用しないで欲しい、という限定的な依頼の形を取りました。

それでビッグフットを使っていた病院メッセージで、ビッグブックだけを使うことになったわけですが、それで特に不都合は起きませんでした。ビギナー向けのミーティングでも本を二冊使うのは煩雑だと感じられるようになりました。こうして、独自のテキストを作って使う熱は徐々に冷めていきました。

現在でも「ビッグフット」の名前を冠したミーティングは行われていますが、すでに独自テキストは行われておらずビッグブックのみを使っているという話です。それでも、1時間のミーティング4回で12ステップを、というコンセプトは維持されたままです。

まだ続く。


2009年11月30日(月) mil 原点回帰運動について(その4)

ここで日本ではなくアメリカの事情に目を転じます。

アメリカのAAは1990年代にメンバー数の減少を初めて経験しました。その事情についてはジョー・マキューの本の紹介に書いたので、ここでは簡単に済ませることにします。

AAのミーティングでは問題とその解決方法の経験が分かち合われます。問題とは例えば酒のこと、酒をやめて生きていく上でのトラブルです。解決方法は、そのトラブルを12ステップを使ってどう乗り越えたかです。当時のGrapevineの記事を読むと「誰も解決方法を話さず、問題ばかりを話し、みじめな気持ちを分かち合っている」と書かれています。二十世紀後半のAAは水で薄めたワインのように効き目が落ちていました。

ニューヨークのAAのオフィスには過去の文書がアーカイブされています。ワリー・Pはそのアーカイブを調査し、1940年代・50年代の成長期にAAがどのような姿をしていたかを明らかにしました。彼は当時のビギナー向けのミーティングとして、1時間のミーティング4回で12ステップすべてをこなすプログラムを復刻しそれを本にまとめました。
ビッグブックを教科書として使って「ステップを教える」ことは、実際初期のAAで行われて成果があったにもかかわらず、現在のAAメンバーにはそんな簡便な方法は受け入れがたかったのでしょう。12ステップは非常に難しくて時間がかかると信じていた人たちにとって、たった4時間で一通りステップができるのは衝撃的でした。当然それは批判の的となり、さらにワリー・PはAAの前身のオックスフォード・グループの原理を強調し、AAとは別団体を作ろうと画策していると非難されました。にもかかわらず、ワリー・Pの「バック・ツー・ベーシックス(基本に帰ろう)」は全米や海外に広がりました。

日本でもこれを試そうという動きが起こり、ワリーの本の翻訳が進められ2003年の秋に一泊二日で12ステップをこなすイベントの広報が配られました。これが予想以上にヒステリックな批判を浴びてしまうのです。僕もその騒ぎのせいでビッグブック・ムーブメントに巻き込まれたわけですが、その騒動は後年までムーブメント全体への後遺症として残ってしまいます。

「そんなインスタントなステップに効果はない」と断じる者もいれば、自分より先にステップを進める者がたくさん現れることへの恐怖を述べる者もいました。しかし、一番声が大きく影響が及んだのは「ワリーの本はAAの本ではないから、ワリー個人の解釈をAAの原理だとして広めてはならない」というAA純化主義の意見でした。

実は1980年代から90年代の日本のAAでは「AA純化運動」とも言うべき活動があり、「純粋にAAではないもの」の排除が行われました。それが治療施設マックとの分離であり、P神父が訳した各種の本の廃棄であり、バースディメダルなどの非公式化でした。その時代を経験した人によれば、何ごとにも行き過ぎがちなアルコホーリクのご多分に漏れず、「AAではないもの」に対してはかなり強権的な圧力が加わったようです。AAを本来のAAらしくという思想は良かったものの、その実施が政府的活動になってしまったのは当時のリーダーたちの誤りでした。そして後になって、ビッグブック・ムーブメントの人たちがそのとばっちりを受けることになったのです。

批判を浴びることにうんざりした人たちは、1年あまりでワリーのテキストを使うことをやめてしまいますが、そのオックスフォード・グループ譲りの「絶対性」を愛するメンバーは今でも確かに存在します。

さらに続きます。


2009年11月29日(日) mil 原点回帰運動について(その3)

話は21世紀に移ります。2000年に新しいビッグブックが発行されると、当然それを引用しているミーティング・ハンドブックも改訂せねばなりません。しかし、これがすぐには実現しませんでした。AAの惨状はミーティング・ハンドブックを使っているからだという論を唱える人たちがおり、彼らはミーティング・ハンドブックの発行をやめ、ビッグブックへ移行することがAAを改善する手段だと考えました。しかし、一冊70円の小冊子を三千円以上するビッグブックに換えることは、多くのグループには耐えられない財政負担でした。結局新しいハンドブックが印刷され、それがグループに配布されました。

その時になって初めて、今まで慣れ親しんできた「12のステップ」「12の伝統」「序文」の文言まで翻訳が改まったことを知った人は多かったようです。そんな話は聞いていなかったぞ! 元の方が良い、というヒステリックな意見がわき上がり、その騒然は1〜2年収まることがありませんでした。

こうしてAAの表側で紛糾が続いている頃、裏側?では静かに別の動きがありました。日本のAAではとてもじゃないが自分は回復できない、と見切りを付けた人の中で、経済的に余裕のある人たちや、死にものぐるいの人たちが、回復できるステップを求めてアメリカに渡り「本場」のAAを体験しようとしました。

もちろん彼らの皆が回復できたわけではありません。しかし中にはスタンダードなAAプログラムをつかみ取り、それを日本に持ち帰った人も現れました。彼らは日本のAAの中で、ある者は静かに、ある者は派手に活動を始めました。

そうした活動が目立ってくるのは2002年頃。それと同時に新しい日本語版のビッグブックの売り上げも伸びていきます。

問題なのはステップを持ち帰ったメンバーの数が少なかったことです。1対1のスポンサーシップを使って時間をかけて伝えていたのでは、伝達は遅々として進みません。ちょうどAAがオハイオ州アクロンで始まったときのように、どうやって回復を広く伝えるか、というジレンマに悩まされたのです。


2009年11月28日(土) mil 原点回帰運動について(その2)

さて、1990年代のビッグブックにまつわる話をしましょう。

ビッグブックはAAのステップのやり方や伝え方を書いた本で、一番基本的な本なのですが、当時のAAではビッグブックはほとんど使われませんでした。かわりに使われていたのは、ミーティング・ハンドブックというわずか16ページの小冊子でした。多くのメンバーは、それがビッグブックの抜き書きだということも知りませんでした。
(現在でもミーティング・ハンドブックは広く使われ、それしか使っていないグループもあります)。
ビッグブックの代わりに使われていたのは、12&12という本で、この本はビッグブックの補遺であるために重要な事柄が抜けている難点がありました。さらに、日本のAAで現実に行われていたステップのやり方が、(ミーティングで12&12を読んでいるにもかかわらず)この本の内容からも外れていたのです。その点で、日本独自のステップのやり方を「12&12のやり方」と称するのは正しくありません。

日本のAAが12&12をメインに据えたのは、日本でAAを始めたM神父とP神父の選択の結果だったことは明らかです。しかし彼らはその動機について語らずに亡くなったので、その真意を知ることはもうできません。ビッグブックが最初に訳出されたのが1977年、12&12は1979年なので、「12&12しかなかったから」という伝承は誤りです。
日本語版ビッグブックの初版にP神父が加えた「訳者註」は、その後の版から削除されていますが、それを読むとP神父がまだ酒をやめてないのに宗教にかぶれたアルコール中毒者に手を焼いていた様子がうかがえます。これはP神父が伝道組織で活動していたことと関係あるのかも知れません。依存症者が宗教に走ってもろくな結果がでないことは、現在の僕らも経験することです。P神父は、信じることよりも酒をやめることを優先するように、とその文章で勧めています。(宗教ではないけれど)信仰を強調しているビッグブックを使用をP神父がためらったのは、そうした事情があったのではないか、と思われます。

ビッグブックを使うあたって、その翻訳の品質が問題となりました。12&12のほうが後に訳されたということは、それを訳したP神父の頭もより回復し、翻訳にも慣れていたことを意味します。おまけに12&12は1990年代に翻訳が改定され、読みやすい文章になっていました。
一方ビッグブックは初期の訳のままで、これを何とかしようという話になりました。原文の持つニュアンスや雰囲気をより正確に伝える文章が望まれました。ちょうど日本のAAが始まって20年を迎える節目に、評議会という意思決定機関が作られ、その第一回でビッグブックの翻訳改定を進めることが決まりました。
それから紆余曲折がありましたが、担当者の努力もあって2000年に翻訳改訂版が出版されます。これによって多くのAAメンバーがビッグブックの存在を知り、実際それを手にしました。その影響は無視できません。この翻訳改定がなかったならば、現在のビッグブック・ムーブメントもなかっただろうと断言できます。

また別の努力もありました。
1990代の終わり頃、ある埼玉のメンバーが「ハンドブックという狭い窓を通してではなく、ビッグブック全体に触れよう」と提唱し、各地のAAラウンドアップでビッグブックを読んで分かち合う一連のミーティングを開催しました。この運動はそれほど長続きしなかったものの、一部のメンバーの中に「やはりAAはビッグブック」という意識を植え付けました。

こうして、現在のビッグブック・ムーブメントの種は1990年代に蒔かれました。


2009年11月27日(金) mil 原点回帰運動について(その1)

現在日本のAAや、他の12ステップグループで広がりつつある「ビッグブック・ムーブメント」について、なぜそれが起こってきたか、という観点からまとめて書いておこうと思います。

僕がAAにやってきたのは1995年、再飲酒を経て翌年からAAのメンバーとしてアイデンティファイしています。だから、それ以前のことは、伝聞や資料から得た情報を元にしています。

1990年代は、日本のAAが停滞を始めた時期です。日本のAAは1975年に東京で最初のグループがスタートし、関東から全国へと順調に広がっていきました。しかし、10年、20年を経ると、ある傾向がはっきりしてきました。それは、AAグループの数は増えているものの、1グループあたりのメンバー数は増えておらず、逆に減ってきている可能性が指摘されたのです。
もちろん、大きなグループも小さなグループもあって良く、どのサイズが適切だとは言えないのですが、グループとしての成長がないのも困りものです。
その原因はどこにあるのか、はっきりしていました。

AAを知ってやってきても、1回か数回ミーティングに出席しただけで来なくなってしまう人はいつの時代にもたくさんいます。AAにずっと残る人のほうが少数派です。変化はそのAAに残った人たちに起こりました。5年、10年とAAを長く続けられる人が減り、せっかく酒が止まったのに1年、2年ぐらいでAAから去っていく人が増加したのです。

AAから離れた人たちがすぐ再飲酒するわけではなく、中には長期間断酒が続く人もいます。けれど多くは長くとも数年までの間に再飲酒し、ふたたびAAに戻ってくるか、あるいはAAと無縁の飲んだくれに戻ります。
こうしてAAのドアを1〜2年単位で入ったり出たりする回転ドア現象が起こるようになりました。グループの中に長く残る人は一握りで、他のメンバーは1年か2年で総入れ替え、ということが起こりました。またいったんメンバーが増えたグループも、数年後にはすっかり数が減ることもありました。
これでは、グループあたりのメンバー数は増えていきません。

数年でAAを去り、しばらく後にまたAAに戻ってくる。それは自己選択の結果であり、本人の責任だという考え方がありました。要するに彼らが本気になれないのは、「まだ苦しみ足りないから」だと考えられていたのです。実際、何度もAAを出入りして、人生の時間を無駄にしたあとで、ようやくしっかりしたAAメンバーになった人たちの存在が自己責任論を後押ししました。

しかし、AA側にも責任があるのではないか、と考える人たちがいました。ただ、AAが以前とは変わってしまった、悪くなった、と嘆く長老たちはいても、何が問題なのか、どう改善すればいいかはハッキリせず、「ともかく今まで以上に一生懸命AAをやるしかないだろう」という根性論が多かったように思います。

1990年代というのは、あることが指摘され始めた時期でもありました。
日本の大多数のAAメンバーは、日本のAAしか知りません。しかし中には、仕事や家族の都合で海外と日本を行き来する人もいれば、外国のAAメンバーが日本に長期滞在することもあります。その人たちから「どうも日本のAAは、他の国のAAとは違う」という意見が出されました。中には「日本のAAはAAとは呼べない別物だ」とまで極論する人もいました。

僕は1980年代に日本でソーバーを得た人たちを何人も知っています。彼らはAAをやりながら、なにより人生を楽しんでいる(つまり「回復」している)のは確かだと感じられました。彼らのやった12ステップに効き目があったことは確かでしょう。ただし、そのステップがなかなかうまく他のメンバーに伝えられなかったのだと思います。

1〜2年で人がAAを去っていくのは、彼らがAAで酒はとまったものの「回復」を得られなかったからです。逆に言えば、それはAAが彼らに回復を提供できなかったからであり、彼らの後の再飲酒はAAの怠慢と責められても仕方ありません。海外と隔絶し独自の進歩を遂げた日本のAAは、(酒をやめさせるということはともかく)ステップを伝え回復をもたらすという点で、その有効性を失っていたのです。
回転ドア現象とグループメンバー数の停滞はその現れでした。

(続く)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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