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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年08月06日(水) ニュース検索 「えんぴつ」や「さるさる」ではなく、「家路」においてある雑記 http://www.ieji.org/journal.shtml には、下にニュース記事を検索した結果を載せています。
ひさしぶりに、このニュース検索のメンテナンスをしました。
いつの間にか Google と Livedoor しか検索できなくなっていたからです。検索結果の表示形式が変わると、それを拾い出すこちらのプログラムも変更しないといけませんが、手間がかかるので面倒がってほったらかしだったのです。
検索エンジンである Google や Livedoor は、検索結果を再利用することも考えてくれているのでしょう。表示形式は滅多に変更されません。ところが Yahoo は、何を考えているのかしょっしゅう変更をやかしてくれます(さすが孫さん)。
新聞社のサイトにとってみれば、検索結果の表示ページですら「貴重な広告スペース」であり、売り上げのもとです。だから結果表示を機械的に使われては困るわけです。なので、しょっちゅう変更があっても文句の言いようがありません。
asahi.com はいつの間にか検索ページにAjaxが導入されて、面倒なことになっていました。読売は外部の検索エンジンを使っているのですが、それを Goo から Yahoo に変えていてくれました。そんなことに一つ一つ対応していくと、だいたい半日は過ぎてしまいます。
でも、おかげでまたニュース検索がにぎやかになりました。
いままで引っかからなかった記事をひとつピックアップします。
自立支援施設 住民ら署名合戦 (朝日)
http://mytown.asahi.com/aichi/news.php?k_id=24000120807310002
(愛知)障害者自立支援施設建設が暗礁(読売)
http://chubu.yomiuri.co.jp/tokushu/dounaru/dounaru080405_1.htm
名古屋マックのことだそうです。
2008年08月05日(火) 閑話 寂しいときにはその「寂しさ」を、切ないときにはその「切なさ」を、そのまま抱えて生きていけばいいのだ、と自分に言い聞かせる日々です。
職場は毎日朝から最後の一人が帰宅するまでエアコンがつけっぱなしです。温度設定は27℃。僕の場所は冷えにくいところなので、自前の扇風機を併用しています。通勤の車の中もエアコンはつけっぱなしです。7月下旬からは、自宅でもエアコンを使うことが増えました。夜中に窓を開けっぱなしのまま電話で話をしていると、声が外から回り込んでお隣に迷惑になるのを心配します。そして窓を閉めればパソコンの熱もあって温度が上昇するのでエアコンです。
こういう生活を続けていたら、すっかり冷房病になってしまいました。
気象庁の発表する注意報・警報を携帯のメールで受信しています。以前、大雪警報を知らずに残業していたら、帰宅できなくなりかけたので、注意を払うようにしているのです。でも、ここのところ毎日毎日大雨の注意報あるいは警報がでていて、もうすっかりそれに慣れてしまい、危機感を感じません。
さて、掲示板で公務員の話が出ていますが、僕は「行政というのは集めた税金の再分配役に過ぎない」と思っています。お金が再分配される過程で、消防や警察や教育というサービスに変わる場合もありますし、道路や箱物に形を変える場合もありますが、助成金や補助金という名目でお金のまま分配されることもあります。
行政が効率化しない最大の原因は、競合相手がいないことでしょう。より安価で良質のサービスを提供する業者が新規参入してきたりしませんから危機感が生まれません。逆に、努力したところでマーケットシェアが増えるわけでもありません。さらには、金を払ってくれる人間と、金銭やサービスを受け取る人間が必ずしも一致しないのも、問題を複雑にしています。たくさん税金を納める人が、市役所ではVIPラウンジに通され、市民課の待ち行列を飛び越して書類を交付してもらえる・・なんてことはありません。
この金の払い手とサービスの受け手が異なる現象は、テレビやラジオの民放にも見られます。放送局にとってのお客様はあくまでCM枠を買ってくれる企業であって、視聴者は客ではありません。じゃあNHKはどうなんだ、とか。どうしてNHKの著作物は視聴者みんなの共有物にはならないのでしょう。大河ドラマのDVDとか、実費で売ってくれても良さそうなものじゃないですか。
話がどんどんそれました。
2008年08月04日(月) 仕事 高校生の時にアルバイトしたことがあります。夏休みの間に、S○NYの工場でスピーカーの組み立てをやりました。体を動かすアルバイトは、それが最初で最後です。大学に入ってからは、コンピューターソフトのアルバイトしかしていません。
例外として、人から頼まれて「おもちゃショーに出品するおもちゃの半田付け」という仕事を3日だけやったことがありました。半田不良でショーの当日動かないおもちゃばかりで大トラブルだったそうです。あとはひたすらソフトの仕事ばかりしています。
雑誌に原稿を書く仕事もしましたが、すべてパソコン関係ばかりですから、ソフト関係の仕事にくくっています。それらのアルバイトが本業になって、そのまま来てしまいました。書いたソフトは様々で、パソコンのワープロソフト、ゲーム各種、ワークステーションのCADソフト、保育器の温度制御、スキャナーのドライバーなどなどあって、今は工場で使う特殊用途のソフトを専業にしています。
「手に職がある」と言えばよく聞こえますが、「ほかの仕事はできない」ということでもあります。仕事があるところにしか住めないわけです。
ソフト書き(プログラマー)の人材は慢性的に不足しています。
それほどハードルが高い仕事じゃないと思いますけどね。僕がこの業界に入った頃は、大学中退どころか高校中退の連中もいっぱいいましたし、40過ぎてからこの仕事を始めた人も少なくありませんでした。英語をおぼえるより、C++言語をおぼえる方がずっとずっとず〜〜っと楽だと思います。でもこの仕事は人気がないみたいです。
やっぱり http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=50495 みたいなことになっているからでしょうか。
(これはある出版社の情報処理技術者試験の参考書に挟まれていたしおりだそうです)。
僕も若い頃は、職場のデスクにお風呂道具が入れてあり、下着は近くのコインランドリーで洗ったものですが、昨今は毎日家に帰っております(午前様だったりしますけど)。
世の中の不景気が続くと、就職に有利な理系の学部の人気が高くなる・・ということを昔は言いましたが、今はどうなんでしょう。
2008年08月03日(日) 食べること 生きることは食べることだな、と最近つくづく思います。
食べている時間はもとより、その前後には、食材を買いに行っている時間、調理の時間、後かたづけの時間があるわけです。人によっては満腹でごろごろする時間なども加えてもいいかもしれません。
それらを足しあわせると、人生のかなりの部分は食事をするために費やされています。そもそも、働いて金を稼ぐことも、その金で食事をするためでもあります。
食べるために生きているのか、生きるために食べているのか。
それはともかく、一人暮らしになって食べることが大きな時間を占めるようになりました。食べるためにすることは、すべて自分のための事です。何でも自分のコントロールが及んで楽しくもあります。いままでその部分は、ほとんどが妻の役割でした。その時は、すべてが妻のコントロール下にあって、こちらは食事に不満があれば文句を言うことしかできないわけです。でも不満ばかり並べ立ててるわけにもいかないので、黙って食べるしかありません。
その忍耐が、「お弁当は毎日ちゃんと作ってよね」とか「からになったお弁当箱は、嫌がらずに洗ってよね」という不満として吹き出していったのでありましょう。
調子が悪い妻に替わって、自分が料理をしていたときは、それは子供たちのためであって、決して自分のためではありませんでした。
いま一人で暮らして、自分以外に食べる人がいない環境で、自分が食べることに時間を使いながら、生きることは食べることだと実感しています。
2008年08月02日(土) 怖かった AAの第4章76ページには「私たちが抱えている人生の問題」というのが、生計が立てられないとか、人間関係の問題とか、落ち込みの餌食などなどがリストアップされているのですが、その中に「他の人が助けを必要とする時に助けになれない」というのがあります。
僕が助けてもらったと思って感謝していることの一つを挙げますと・・・。
離婚したときの僕は、一見元気そうに見えても、さすがに心の中はメゲてしました。そんな時に、「貯金も家族も失ったけれど、借金はないし仕事もある」と言ってくれた人がいました。それだけ恵まれているのだから、投げやりになってはいけないと、前向きになれたのは、その一言のおかげでした。
人間の言葉は、そのように人の心を変える力を持っています。それは過剰な褒め言葉である必要はないと学んだ機会でした。
でも、その人がたまたまトラブルがいくつか重なって、体も心もお疲れである時に、話を聞き終わった後に僕がしたことは、すこしでも元気づけられる言葉を差し出すのではなく、逆に足を引っ張る行動であったわけです。よりによって、こんな時に。なんてこった。
「10年AAでステップやって、そんなもんですか。それなら元がよほどひどかったに違いない」とか、「(言うことと行動が違う)二重生活を続けていること自体が問題なのです」とか、「普段自分は頭がいいと思って人を(特に女をか?)見下しているから、そうなるんです」と言われても、本当のことなので反論のしようがありません。
十分手加減してもらったのはわかってるんですが、正面切ってそう言われると、さすがにメゲメゲにめげるのであります。だいたい、助けになれないと嘆くこと自体が共依存的だし、上から目線なのかもしれません。
「もう電話もメールもしてくるな」という怒りのパターンには慣れっこなのですが、冷静にグサグサと突かれて、実に・・・実に生きた心地がしませんでした。
2008年08月01日(金) オンライン化 「例のイベントに行きますか、どうしますか?」と聞かれたとき、正直面倒だなと思いました。それでも、行くことにして切符の手配など頼んだのは、最近の自分の有り様を反省したからでした。
とりあえずお祈りとか黙想はしているものの、日々の棚卸しはサボりまくりです。寝る前に「ああ、今日を振り返っていないな」と気がついても、寝るのが優先でステップなんぞどこへやら。
もう一度方向修正する力をもらいに、そのAAイベントに行ってみようという気になったのです。8月は3回上京することになるので、少々面倒に感じなくもありませんが、これも自分のためであります。
ユニクロに買った服のサイズ交換に行きました。
僕は胸回り(男だからバストじゃなくてチェスト)が88cmぐらいです。これはちょうどサイズSとMの境目あたりです。結果、Sサイズを買えばちょっとキツく、Mサイズを買うとちょっと余ることになります。どちらがいいかは服によります。
今回はMを二つ買って帰ったのですが、ちょっと大きい感じなので、まだ袖を通していない一つをSに交換してもらおうと思った次第です。
店員さんに「サイズ交換お願いします」と言ったら、「じゃあ棚から希望のサイズのを持ってきて下さい」と言われました。でも、棚には同じ商品がありません。忙しがっているうちに2週間もすぎてしまい、お店はすっかり秋物の世界になってしまいました。
仕方ないのでバーゲン品の棚から、似たような同じ値段のを選んで持っていきました。あとはレジでピピッとBCRで処理しておしまいです。レシートを持っていくのは忘れたのですが、問題なくて、住所とか名前を書けとは言われませんでした。
つい1年か2年前は、MとLの間だったんですけどね。
ネット販売が盛んになって古本屋がつぶれていくって話を書いている人がいました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080525/crm0805251244006-n1.htm こちらの記事などを読むと、アダルトショップ(大人のビデオ屋さん)も苦境に立たされていることが分かります。
実際、僕の住んでいる市内でも、ここ数年で3軒つぶれています。1軒は家族経営だったようで、中学生の男の子がよく店番をしていました。その子が高校生になると、友だちがビデオを買いに来ちゃったりして。かなり可哀想な気がしました。けれど彼にとっては、ビデオの中に存在する女たちと、友だちとの会話の中に登場させる女の子とは、はっきり別の次元に属している話しぶりだったのが印象に残っています。でも、その店もつぶれてしまいました。
それで、良かったのか悪かったのか。
ひさしぶりに、とんでもない大ポカをやってしまって、自己嫌悪で落ち込んでいます。でも、誰が悪いのでもなく、自分が悪いので仕方ありません。ここでも謝っておきましょう。「ごめんなさい」
2008年07月31日(木) 気まぐれ更新 月末になると仕事が忙しい。
別に月末になると仕事が増えるわけじゃありません。ただ納期設定が「月末」ってのが多いのです。例えば「いつ頃までにできますか?」と聞かれたときに、8月5日と答えたとすると、「なぜ7月末でなく、5日延ばす根拠はなにか」と聞かれても答えようがありません。経験と勘で決めてるだけですから。そこで面倒がると月末が忙しくなるのです。
ミーティングに行かなくても帰宅が夜10時という日々が続くと、雑記を書いている余裕も少なくなっていきます(と言い訳)。
さて、一人暮らしを始めてしばらくしたら淋しくなってしまい、毎晩AAに行っていた時期があります。一週間丸々AAメンバーと顔を合わせない日はないぐらい。もちろんそれはミーティングばかりではなく、病院メッセージだったり委員会だったりしたのですが、ともかくアル中仲間の中にいました。
これをやると淋しさは紛れます。生きていく虚しさとか、自分の愚かさ醜さとかも、かなり気にならなくなります。思い起こしてみれば、淋しさ、虚しさ、愚かさなどを紛らわすために酒を飲んでいたのです。酒が虚しさの治療薬だったのです。
そう言う意味では、確かに酒のかわりにAAで虚しさを紛らわすことで、AAに助けられているのです。でもそれは、依存の対象がアルコールからAAに変わっただけなので、回復とか健康とは言い難いわけです。
酒をやめ始めの時期はマイナスの感情で一杯ですから、それを肴にまた酒を飲みかねません。飲まないことが第一ですから、AAの仲間と触れあう事による「サポート」を得るのはとても大切です。その時期はともかくミーティングに通うしかありません。
でも、いつまでもそれでは困ります。ミーティングで得られるカタルシスも、時が経てば慣れてつまらなくなってきます。そこで週末のAAイベントに出てみると、知り合いが増えたりして、もっと刺激的で楽しかったりします。でもその刺激にも慣れてしまいます。さらにもっと遠くの、もっと大きなイベントを求めて毎週末出かけたり、あるいはイベントを準備する側にまわったり・・、そうやって現実生活からも回復そのものからも乖離していきます。熱狂している=実はシラフの酔っぱらいがいっぱいいるのがAAです。
淋しいときには淋しい自分と一人で向き合う必要があります。「安易な癒し」に逃げていては、自分自身を見つめる作業がおろそかになります。酔いに逃げずにシラフで生きていくのがソーバーですからね。ステップの成果が虚しさを埋めてくれるのがAAの原理です。
そしてもう一つ。淋しさ、虚しさ、愚かさを抱えていると、「なんとかそれを解消しなくちゃ」という強迫観念に囚われてしまいがちです。虚しくない完全な人生を目指してしまうわけですが、そこに誤りがあります。人間なんてどうやっても不完全なものです。虚しさ愚かさがあって当たり前です。それを無理に解消しようとするから、酒とか薬とか変になっちゃうわけです。虚しさを抱えながら生きて行けばいいのです。
愚かさを抱えながらも、「今の自分はこんなものです」とハイヤー・パワーに報告して、それで一日終了であります。
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