心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年02月18日(月) 予備原稿

謙虚さとは自分を小さく見せることではなく、等身大に見せることです。
自分を大きく見せることの虚しさを知ると、今度は小さく見せることが良いと思い始めます。だから、自分にも人にも「小さく見せる」謙虚さを求めます。
人が陰口を言っていれば、そんなこと言わなければいいのにと責めたくなる。それはその人に「小さく見せる」謙虚さを(自分の心の中で)押しつけているのです。誰だって陰口は言わない方が良いと知っています。けれど、だから「陰口は言わない」というのは実は謙虚ではありません。だって、本当は言いたいのに、言わないでおくのは「小さく見せる」行為ですし、人が陰口を言うのを非難したくなるのは「小さく見せる」ように強制したくなるからです。

等身大であろうとすれば、当然陰口も口をついて出るでしょう。それによって、人を傷つけ、自分の評判を落とすこともあるでしょう。でも、それが自分の姿です。実質と評判はできるだけ連動していた方が良いのであって、「小さく見せる」ことによって評判が実質より高くなるのは謙虚な生き方ではありません。

そもそも陰口を言いたくなる原因である、恨みや恐れに対処していくことが、本当の謙虚さです。

とはいえ、回復には時間がかかります。陰口は人を傷つけることも確かですから、ここでも「まるで回復した人のように振る舞う」という方法論を使うべき時なのでしょう。つまり、恨みや恐れが手放せた人が陰口を言わないように、回復していない自分も陰口を言わないように務めることです。

ただ、この方法論は対症療法ですから、それを回復だと勘違いすると、陰口を禁じられた自分がまた別の恨みを抱えることになります。やはり恨みや恐れに対処する作業はべつにきちんと取り組む必要があります。

誰かが誰かの陰口を言うのを聞くのは、決して愉快な気分ではありません。けれど、ここで「まるで回復した人のように振る舞」ってしまい、陰口は悪いことなのに、この人は回復していないなぁと心の中で断罪してしまうのは、自分は陰口を言わないから回復したという幻想に囚われているのです。

行動を変えることによって内面が変化したふりをするのではなく、内面を変化させる努力をして結果として行動が変わるプロセスを楽しみましょう。


2008年02月17日(日) NATTO

妻が調子が悪いと言いだして、ご飯のおかずが納豆だけになってしまいました。
僕の父母は納豆を食べない人だったので、子供の頃の僕は納豆を食べたことがありません。納豆は食べませんでしたが、とろろ(長芋のすり下ろし)は嫌になるほど食べました。
結婚してから納豆を食う羽目になったのですが、慣れるまで大変でした。外見にせよ、匂いにせよ、口の中での感触にせよ、どうも納豆は食べ物って感じがしません。やはり腐っていると表現するのが正しいでしょう。
でも、芥子をたっぷり入れて混ぜることを覚えてから、納豆もそれなりに好きになりました。

よく言われることですが、納豆を最初に食べた人は勇気が必要だったことでしょう。ゆでた豆を藁づとにくるんでおいたら、いつの間にか腐っちゃったけど、他に食べるものがないから、餓死するよりましだ・・と思って食べたのでしょうか。

なぜ納豆菌によって腐った大豆を食べてもお腹を壊さないのか、理由は僕には分かりません。おそらく別の菌で腐った豆には、お腹が痛くなる原因物質があり、納豆にはそれが含まれてないのでしょう。では、その原因物質は、なぜお腹を痛くするのか・・・。おそらくは、人間がそう進化した結果なのでしょうが、じゃあなぜそう進化したのか、というふうに突き詰めていくと、結局「わからない」という結論にたどり着いてしまうものだと聞きます。

なぜ塩はしょっぱいのか、説明しろと言われても困ります。
同じように、ステップがなぜアルコホーリクを回復させるのか、と尋ねられても、僕にはさっぱりわかりません。AAを続ければ続けるほど分からなくなってくる気がします。ちょっとくらい何か理屈をつけてみたところで、結局突き詰めれば「わからない」にたどり着くのですから・・。

慣れるまで良さが分からないのは、納豆もステップも同じかもしれません。納豆を食べたことがないのに、納豆の味を論じても仕方ありません。食った者勝ちです。そして食べたことの無い人に、納豆の味を説明しても伝わらないのも当然です。


2008年02月16日(土) 停電とカフェイン

午前中は停電していたので、目が覚めていたのですが布団の中で過ごしていました。パソコンも使えないし、テレビも見られません。こたつもヒーターも使えないので部屋も寒くてしかたないし・・。電子ピアノを弾こうとした子供が「あっ、これも使えない」と気がついて、母屋のアップライト・ピアノを弾きにいってしまいました。

夕方ホームグループのミーティングの後、ファミレスで仲間とお茶。いつも僕はそこで食事をするのですが、今回は軽食とお茶だけにしておきました。そのぶん、ドリンクバーで紅茶のお代わりが多くなりました。

その最中から帰り道に、なんとなくイライラ感が強まり、帰宅後はさらにイライラしてしまいました。このイライラの原因は何なのだろうか・・・と考えていくと、やっぱりカフェインの摂りすぎだろうと思われます。全然眠くならないし。

コーヒーやお茶の中のカフェインも、やっぱり気分を変動させる薬物だと思います。その変動の幅はアルコールほど大きくはないのですが、何も変化しないわけではありません。年月と共に僕の体の中からアルコールの影響が薄れていき、同時に服用しているうつの薬が減って行くにつれ、カフェインの影響も無視できなくなってきています。
(血糖値による気分の変動も相対的に大きくなっています。つまり腹が減ると機嫌が悪いのです^^)。

だからと言って、じゃあコーヒーやお茶を飲まないでおこうとは、ちっとも思いませんが、飲み過ぎには気をつけようと思います。カフェインによる爽快感を強めようと、インスタントコーヒーをコップにたくさん入れ、どろどろのコーヒーを飲んでいる人の話を聞いたことがあります。人間どんな物質でも乱用できるんですね。

アメリカのAA会場には、カフェイン・フリーのコーヒーを用意しているところもあるのだとか。そういうアブスティネンスを求める人がいても不思議じゃありません。それは決して禁欲による行為ではなく、気分の外乱を避ける気持ちによるのでしょう。

まあ、僕も5年後にはコーヒーもお茶もコーラもやめているかも知れません。逆に、酒に舞い戻っている可能性もゼロじゃないわけです。つくづく困った脳みそです。


2008年02月14日(木) AAの中での自分の評判

AAの中での自分の評判。

評判は高いに越したことはないのですが、評判は狙って取りに行けるものでもありません。それは泡みたいなもので、勝手にぶくぶくと膨れたかと思うと、風に吹かれてどこかに飛んで消えたりします。したがって、評判の高い低いで、自己評価が上がったり下がったりするのは、それは「他者の評価への囚われ」です。
せっかく酒への囚われを取り除いてもらったのに、今度は別のものに囚われたのでは何のためのAAだか分かったものではありません。

AAの中で評判を与えてくれるのは「仲間」です。仲間は大切にしなければいけません。けれど、仲間は(どんなに飲まない期間が長い人であっても)同じ病気であり、わがままで身勝手で、不正直で、常に何かを恐れ、恨んでいる存在だということも忘れてはいけません。そう言う意味で、本当に「仲間」なのです。

仲間同士、仲良くできれば一番良いことです。でも、意見が合うとか仲が良いとかの理由で集まっている集団は、ひとつの衝突やいがみ合いで崩れてしまいます。意見が合わなくても、仲が良くできなくても「仲間とともに」「一緒にやる」ことがAAですから、それができている人同士は意見が合わなくても根源的な信頼が生まれます。

自分が相手にどう思われているか気にならない人はいないと思います。けれど、仲間への囚われから自分を解放していかなければ、細々とした衝突の繰り返しや、納得できない自己犠牲の連続によって、だんだんAAが嫌になってしまうでしょう。でも、それは自分が自分をそうし向けているのです。

仲間同士はひとつの原理と目的を共有できればいいのですよ。
仲が良く楽しそうなのが新しい人を「惹きつける」魅力になるのではなく、衝突やいがみ合いを繰り返しながらもひとつにまとまっている集団に「何かの力の存在」を感じてくれることが魅力でしょう。


2008年02月13日(水) どう森

毎晩寝る前に、猫とモルモットにエサをあげています。なぜなら、エサをくれと鳴くのでうるさいからです。もう一匹ハムスターがいるのですが、これは鳴きません。なので、エサをあげることはありません。

もともと長女がきちんと世話をするという約束で飼うことにしたので、水もエサもケージの掃除も彼女に任せてあります。時々えさ箱が空になっていることがあり、何日もエサをやり忘れているらしいので、たびたび注意をしていました。

が・・、先日そのモルモットが死んでしまいました。餓死でしょう。「だから言わんこっちゃない」と怒りが湧きましたが、鳴いている彼女を見れば、十分自分のしたことの意味を感じているようだったので、あらためて僕が何かを言う必要は感じませんでした。

さて、我が家では一台のDSを姉妹で共有させています。二台買う金がないという理由もありますが、遊ぶ順番を待つことを憶えるのも大切だと思ったからです。『どうぶつの森』というゲームでは、複数のプレーヤーが同じ世界(島)で遊ぶことができます。だから、おねーちゃんと妹は「どう森」のなかで同じ家を共有し、その家のローンを共同して返済しています。

が、ある時二人でドンキー・コングを交代でプレイしている時、おねーちゃんが「ブチッ」と切れてしまいました。理由は妹には倒せるボスキャラが、おねーちゃんには倒せないからです。それも道理で、妹のほうがはるかにDSで遊んでいる時間が長いのです。おねーちゃんのほうは、妹より宿題も多いし、友達と遊んだり、ピアノを練習したりしなくてはなりません。一方妹のほうは友達いない少女なので、DSに集中できます。スキルに差が出るのも当然でしょう。だいたい「どう森」の家のローンだって、ほとんど妹のほうが返しているのです。

で、ぶち切れちゃったおねーちゃんが、「どう森」の妹のキャラクターを削除してしまいました。妹の使っていた家具はすべて家の外に押し出されていたそうです。当然ケンカになり、原状回復の試みもされたようですが、ゲームの中といえども覆水盆に返らずであります。

そんなわけで、子供は子供なりにいろいろあって大変なんであります。


2008年02月12日(火) 神さまの種類(掲示板から)

昨年、ソーバー数ヶ月のアメリカ人AAメンバーが2週間ほど長野に滞在し、僕のホームグループのミーティングに出ていました(当然彼は日本語が分からないのですが)。彼のスポンサーは大工さんで、ビル・Wの家の改装の時に床を張り替えたのだそうです。そして古い床材をもらってきて、その切れ端をスポンシーにあげました。
日本に来たそのAAメンバーは、ズボンのポケットから切れ端を出して見せ、「これが俺のハイヤーパワーだ」と言っていました。

もちろん彼の「神の概念」は変わっていくのでしょうが、とりあえず最初は信じられるものなら何でも良いのです。旅を始めるには最初の一歩が必要で、いきなり目的地に達することはできません。

ステップ2は「健康な心に戻してくれると信じるようになった」とあります。決して完全な信仰を持てとは言っていません。何かが「健康な心に戻してくれる」と信じるようになればいいのです。実はステップ2の難しいところは、神の問題ではなく、自分の心が健康(正気)かどうかという自問です。

ともかく、ステップ1の「アルコールに対する無力」と「自分の人生が手に負えない」ということがしっかり認識できていれば、ステップ2で「力のある誰かに何とかして欲しい」と思うでしょうし、そうすればステップ3で「じゃあ、言われた手順でやってみようか」という決心もつくのです。

飲んでいた頃のアル中さんにとっては「酒」が「自分より偉大な力」です。みんな飲んできた酒の種類は違っていたかも知れませんが、アルコールが入っているという本質はどれも変わりがありません。今度は助かる時にも、神さまの種類についてこだわりがあるかもしれませんが、好きな酒を飲んできたように、神さまだって好きずきで良いのです。

ステップ1がきちんとできていれば、神さまの種類なんてなんでもいいから「助けてくれ」という気持ちになるでしょう。神などという言葉が出てこないステップ1をしっかりやることで、神に関するこだわりからは自由になれますよ。


2008年02月11日(月) 違い

去年の10月から、ほぼ月一回ペースでAA関係で上京していたのですが、それもこの週末で一段落です。しばらくはAAイベントにも行かずに目の前のことをこなしていこうと思います。
この3連休はまとまった睡眠時間が取れず、今日こそゆっくり寝たかったのですが、子供の友達が遊びに来ていたので布団をひいて寝ているわけにもいかず、パソコンの前で半覚半睡で過ごしていました。

「経験の話のところでは、それぞれが自分の言葉、自分の見方で、いかに神との関係を打ち立てたかを述べている」第2章
「この本の個人の経験の部では、それぞれの語り手が、自分より偉大な力にどう取り組み、どう理解していったかをさまざまに書いている」第4章

かなり以前のことになりますが、病院メッセージに行って自分の順番が来て話をしたときに、「AAはあなたに何かを信じることを要求しません。神さまがお酒を止めてくれるとは信じていないメンバーもたくさんいます」という話をしました。いつもAAメンバーが話を終えた後は、時間の許す限り患者さんの話を聞くのですが、患者さんの一人が、こんなことをおっしゃいました。
「せっかくAAには神さまがあるのだから、AAは神さまを大事にして欲しい。信じなくてもいいなんて言わないで欲しい」
その人は年配の人だったので、ひょっとした断酒会の人だったのかも知れませんし、単なるひがみっぽい人だったのかも知れません。でも、僕はその言葉に衝撃を受け、深く感じるものがありました。

酒をやめたいという人が集まれば、そこに酒をやめる力が生まれる・・という理屈で集まるのであれば、ステップや神さまは不要です。この世の中には断酒会という素晴らしい組織があります。AAと断酒会を比べれば、確かに顕名・匿名、会費制・献金性、組織化・非組織化などの違いはありますが、それは表面に現れた違いに過ぎないと思います。本質的な違いは、スピリチュアルか、世俗であるかです。そこをあいまいにしてしまえば、AAがAAである意味が消えてしまいます。

霊性を大事にしないのなら、AAという看板を下ろして無名断酒会とでも名前を変えたほうがいいのです。いや、そんなことをすると「経験に始まり経験に終わる」という大原則を守れてないから断酒会という名前を使うな、と怒られてしまうかも知れません。あっちはあっちで厳しいのです。中途半端は何の役にも立たない・・・。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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