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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年12月16日(日) ぐったり 疲れが出て、一日ぐったりしていました。
日曜日にしか休みの無い人には申し訳ないのですが、やっぱり土曜日のイベントのほうが助かります。翌日に休めますから。日曜日に疲れてしまうと、どうにも月曜日が調子悪くていけません。2泊3日のラウンドアップあけの月曜日には、有給休暇を取る人も多いのだとか。僕は土曜日の晩の夕食が済んだら帰るパターンが好きですね。
一月の成人の日が思いやられます。
一日ゆっくりしていたいのはやまやまでしたが、いつ雪が積もるとも限らないので、タイヤの交換だけはやりました。
新しい生き方を身につけるのは、タイヤを履き替えるのに似ている、と表現した人がいました。すり減ったツルツルのタイヤを、新しい溝のあるタイヤに変えるのだと。
その人は、車のスリップ事故と、再飲酒(スリップ)をかけて、こんな事も言っていました。スリップには2種類がある。すり減った古いタイヤを変えないまま、日常の街角の中でスリップしてしまうパターン。せっかく新しいタイヤに変えたのに、峠に走りに行って技量を超えてスリップしてしまうパターン。
なんだそうであります。
タイヤの保管場所が車庫の天井なので、下ろしたり上げたりが大変です。タイヤの寸法が1割増えただけでも、体積や重量はその3乗増えるわけです。
話があっちこっちですが、ともかくタイヤの交換しかしない一日だったのです。あと、夕食にギョーザを食べに行ったぐらい。
ニュース検索にイザのブログが引っかかっています。しばらくすればGoogle側でチューニングされて、ひっかからなくなるでしょう。以前もITmediaのブログが引っかかる現象がありました。
2007年12月15日(土) なんか今日は長い お酒の問題や依存症の治療について、いろいろと社会を変えようと努力している人たちがたくさんいるのは知っています。けれど、世の中はゆっくりとしか変わってくれません。行政が変わってくれればいいのでしょうが、集めた税金の使い方はそう簡単には変わらないものです。
でも「回復のための資源」は今すぐ必要で、誰かが用意してくれるのを待ってはいられません。これから来る人のための必要でもありますが、自分の安全を担保するためでもあります。今日の集まりを、「資源」を自分たちで用意するために、やむにやまれず自分たちで行動を開始した人たち、と表現した人がいました。会場の熱気は、そうした渇望が駆動していたものだと思います。
AAに限らず12ステップのグループは「メッセージを運ぶ」ことを目的にしています。ではそのメッセージとは何か。ステップ12には「このメッセージを伝え」と書いてありますが、その言葉の前には「これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め」とあります。
僕の考えでは、伝えるべきメッセージとは、霊的な目覚めと、その目覚めに至るための手段としてのステップです。アディクションからの回復とはその目覚めです。
では霊的目覚めとは何か? ここで今日の集会とは無関係に「心の痛みの三つの原因」というネタを引っ張ってきます。
1.自己肯定感の欠如。
2.他者との親密さの欠如。
3.神との親密さの欠如。
つまり、自己肯定感があり、他者とも神とも親密である状態が「霊的に目覚めた状態」=アディクションが再発しないでいられる安全な状態です。この三つが欠けていたから心が痛み、その痛みを例えばアルコールで解消しようとした挙げ句、依存症という病気になってしまいました。そこで酒をやめてみても、実は心が惨めな状態に戻るだけです。そりゃ酒がぶり返しもします。
ステップの中身を見ると、自己を点検すること、欠点を告白すること、償いをすること、祈りや黙想をすること、奉仕することなどなど、なんとなく人生修行みたいな印象を持ってしまいます。でもステップは人格を磨くのが「目的」ではないのです。霊的目覚めという解決を実現するための「手段」にすぎません。別に「いい人」にならなくたっていいんですよ、目覚めさえすればね。
世の中には、目的と手段がごっちゃになり、手段が目的になっている物事や仕組みがいっぱいあります(手段の目的化)。そうなると本来の目的は忘れられがちです。
ステップは依存症という「病気の治療の手段」。目的はソブラエティ(飲まない落ち着き)。
とはいえ、ステップは一日ではできません。でも、ステップができなくても、ともかく飲まない状態は続けてもらわないと、ステップはできません。飲みながらステップやっても回復しないですから。だからスポンサーは「セックスするな」など、つまんないアドバイスもしなければならないのですが、それはステップの提案とは別物であります。
自分の場合には、あまりにも早くセックスした(子供を作った)ので、特に上の子には可哀想なことをしたな、と思います。子供ができたりして、環境の変化があると、その変化に対応するのが精一杯でステップどころじゃないですから。親が回復してなくても、子供の成長は止まらないし。夫婦だと、できても仕方ないかっていう油断がありますからね。あの時に賭をしていたら、みんな「ひいらぎが飲んじゃう」ほうに賭けたと思いますよ。
そりゃあ子供は「もっと遅くに生まれたかった」とは言いませんが、子供を作ってといてからステップやるってのは、どうも順番が逆だな、と。
2007年12月13日(木) 慣れ 「今度こそ本気です」と言うから、ミーティングに通うこと、それから毎晩7時に電話をよこすこと、と申し渡しておきました。まだ入院中だからミーティングは無理にしても、電話だけは確実にと念を押しておきました。
ところがこれが、二日しか続きません。三日目には昼間のうちに「今夜は電話できません」という言い訳の電話がかかってきて、四日目にはもうこない。
病院に踏み込んでみると、ナースステーションで「もう二日前に退院されてます」と言われました。またまた医者の言うことを聞かずに自主退院かよ。
電話してみると家にいました。「入院してないならミーティングに来なさい」と言えば、いつもどおりミーティングに行けない言い訳が始まりました。
「そうやって自分の考えを使ってきて、結果がこれだろう。いつも同じだ。また同じことを繰り返すつもりか? それとも今度は自分の考えを窓から投げ捨ててみるか?」
「自分の考えでもう少しやってみます」
「じゃあ自分のやりたいようにしなさい」
ちゃんちゃん。
いぜん、統合失調症が精神分裂病と呼ばれていた頃、ある精神科医がこんな話を書いていました。
「彼の頭の中で、神と悪魔が世界の運命をかけた闘いを繰り広げているにしても、現実の彼の生活は、ベッドに横になりヘッドホンステレオで音楽を聴きながらマンガを読む毎日である」
本人の心の中はとんでもなく苦しくても、端から見るとかなり安楽に見える・・ということはよくあるものです。
一泊で出かけますので、明日は雑記の更新はお休みです。
2007年12月12日(水) 1年セックスレス論 酒を飲み出すときに、アルコールの与えてくれる「心地よさ=快感」を求めていることは間違いありません。もし酒が苦しみしかもたらさなかったら、だれもスリップはしないでしょう。
例えば、抗酒剤を飲んでから酒を飲むとかなり苦しいことになります。だから、誰しも抗酒剤なしで酒を飲もうと思うのが当然です。(抗酒剤を使って酒量を制限するという高度なテクニック?には触れません)。
話は変わりまして、なんで断酒後1年間は、たとえ夫婦であってもセックスするな、と言われるのでしょうか。それは多分セックスが「心地よい=快感」だからですね。精神的にも、肉体的にも気持ちがいい。それはアルコールの代わりになり得るものです。セックスがあることで断酒が続くのなら結構な話ですが、いつの間にかセックスなしでは断酒が続かなくなっているかも知れません。
ところが、セックスパートナーは酒と違って人間ですから、その気にならない時だってあるわけです。そんなときに、夫婦だからと無理強いしたりとか、拒まれたから外にパートナーを求めたりとか、金で手に入れようとしたりすると、ろくな結果になりません。セックスが手に入らなくても、酒ならいつでも手に入るもんね、ということになりかねません。
そんなことなら、最初から1年間しないことに決めた方が確実です。酒を飲めば死ぬかも知れません。けれど、1年間セックスをしなくても命に別状はない、ということは多くの男女が証明しています。
回復に集中するためには、退屈なくらい変化がないのが一番です。環境が変化すると、その変化に対応するのが精一杯で、回復どころではなくなってしまいます。だから、1年は大きな決断はするな、つまり結婚も離婚も就職も離職も引っ越しもするな、と言われるわけです(やむを得ないケースもありますが)。
1年は恋愛もしない方がよろしい。恋愛だけしていれば満足でセックスは不要、という人はいませんから。
じゃあ、ひいらぎお前は最初の一年は奥さんとしなかったのか? と聞かれると、そりゃ新婚でしたからやってましたよ、当然じゃないですか。
この業界?ダブル・スタンダード、トリプル・スタンダードは当たり前です。そして、自分ができなかったことを平気で「やれ」と言えなくては、スポンサーは務まりません。別にいじめているわけじゃない、相手のためを思ってであります。ほんとだって。イヒヒ。
2007年12月11日(火) 「飲酒欲求がない」だって!? 「飲酒欲求がない」という人がいます。
その言葉を微笑んで聞くしかありますまい。
僕がある程度飲まないでいた後でスリップ(再飲酒)したときの気持ちを振り返ってみると、自己破壊的な衝動で飲んだことはありません。いつでも、もう少し幸せを感じたいとか、辛いから少しでも楽になりたいという「幸せを希求する気持ち」から最初の一杯に手を出していたのです。
時には、「くそー、俺をこんな風に粗末に扱いやがって。俺が飲んだらどんなに困るか思い知らせてやる」という気持ちから飲んだこともありましたが、それですら「きっと胸がすっとするに違いない」というある種の幸福感を求めてでした。
どの場合でも、飲んだ結果は悲惨でしたから、「幸せを求めて酒を飲む」のは長期的展望を欠いた短慮に過ぎなかったのは明らかです。しかし、幸せを求める行為そのものは悪くはありません。悪い心(悪意)で酒を飲んだのではなく、良い心(善意)から飲み始めたのであります(ただ狂っていたけど)。
「飲酒欲求がない」という話は、おそらく「次の酒を求める肉体的な渇望が消えた」と言っているに過ぎません。飲み出せば止まらない病気であり、次の一杯を求める渇望はあまりに強力です。「お酒は次第に遠ざかります」とスポンサーから言われたように、酒をやめ続ければ、肉体的な渇望は次第に静まっていきます。
しかし「あれだけ痛い目を見てせっかくやめたのに、また飲み出してしまう」という精神的とらわれのほうも、実は一生ものです。その狂気は最初の一杯を飲ませようと、手ぐすね引いて待っています。それは飲酒欲求というほど強く感じられる欲望ではないかもしれませんが、飲酒欲求には違いありません。
「幸せを求めて酒を飲む」という論理は、深く脳に刻まれてしまったために、もう消えることはありません。僕らはそのぶり返しに対して無力です。
だから、幸せになりたいアルコホーリクには、例外なく飲酒欲求が潜んでいるのだと、僕は思っています。
アルコホーリクは自分をごまかすのが上手ですから、飲みたいという気持ちすら、うまくごまかして「ないこと」にしてしまいます。だから、毎朝粕漬けの魚を焼いて「俺は飲みたいんだぞー」とアピールするのは、実に自分に正直な態度です。家族にも危険度がよく分かりますから。
「飲酒欲求がない」と言っている人は、何に対して無力なのか分かっていない困ったちゃんであります。
2007年12月10日(月) 10 years ago (19) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (19) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
その入院ではいろいろな人たちと知り合いました。そして、そのつきあいが、退院後も細いながらもずっと続いていったのが、その前の入院と違っていました。
ロビーでタバコを吸っていると、Sさんというおじさんが声をかけてくれました。若い奴が入ってきたので面倒を見てやろう・・と思ったのかどうか知りませんが、まさこんな生意気なヤツだとは思いもしなかったでしょう。
「明日保護室から出たら、部屋の隣のベッドが空いているから来いよ」と言ってくれましたが、一介の患者に過ぎない彼にそんな権限があるのかどうか・・ところが彼は、翌日になると保護室からぼくの荷物を勝手にそのベッドに持って行ってしまい、それを既成事実として看護婦さんたちに認めさせてしまったのです。
そんなわけで、2ヶ月の入院期間中、わりと多くの時間をSさんと過ごすことになりました。
入院したのは県立の古い病院でした。病棟は二つの建物があり、一方には痴呆の老人ばかり、もう一方は統合失調の人ばかりで、そちらの3階にアルコールの人々が集められていました。2ヶ月入っていた間にアルコールの人は増減しましたが、少ないときで5人ほど、多きときで12〜3人ほどでした。そして、アルコールのプログラムも、特に充実しているわけではありませんでした。
だから、というわけではありませんが、ぼくは猛然と「こんな所にいてはいけない、何の役にも立たない」という焦りに襲われました。入院早々、僕は退院したくてたまらなくなりました。
担当医は毎日病棟まで上がってきては、ナースステーションで患者のカルテを見て、必要であれば患者を呼び出して面談していく習慣でした。患者のほうから医者に話をしたいときは、朝の点呼の時に「面談希望」と伝えておけば、その時に呼んでくれます。
僕は毎朝「面談希望」を出し、毎日担当医に「僕がここにいてはいけない理由」を並べ立てました。医者も「あなたは自分の希望でここに入院してきたのにねぇ」と苦笑いしていました。いてもたってもいられない焦燥感は、単なるアルコールの禁断症状に過ぎなかったのでしょうが、先生もわかっていながら丁寧に付き合ってくれたと感心します。
「自分は仕事と家庭を放り出して来たのです。すぐにでも退院して、その面倒を見なくてはいけないんです」
などと言っても、そんな状態で退院してこられても皆が困っちゃうだけなんでしょうが、それが分からないのが断酒初期というものです。
最初の数日は、病棟内禁足で、外に散歩にも出られません。そのうち、昼間だけ敷地内を散歩してもいいよということになりました(夜間は施錠されるので外出不可)。
入院して初めての日曜日は、AAの病院メッセージというのがある日でした。その日に病院を訪れるのは、入院以前に1年間に僕が断続的に通ったAAグループのメンバーでした。そのメンバーには、スリップしたのがとても恥ずかしくて、顔を合わせられない気持ちもありましたが、同時に僕の焦る気持ちを分かってもらえるのも、その仲間だけだという確信もありました。
そしてその日曜日・・・。
2007年12月09日(日) 恵まれている 「恵み」という話とちょっと違って、「恵まれている」という話。
僕が初めてAAのミーティングに出たのは、勤務先がある市内のクリニックの3階でした。それはAAグループのないその地方のために、県内の他の地方のメンバーが月1回やっていた「出前ミーティング」でした。
住んでいたのは車で二十数キロ離れた田舎町で、そちらでは仕事がなかったので、ほぼ1時間かけて自動車通勤していました。だから家の近くにAAミーティングがあったわけでもありません。けれど、通い慣れた街にあっただけでも助かりました。
その出前ミーティングをやっていた人に、うちのグループへおいでよと誘われて行ったのが最初のホームグループでした。自動車免許を取ってようやく初心者マークがとれた僕が、地図を片手に峠を越えて見知らぬ街へ行ったのでした。自宅から50〜60キロぐらいでしたでしょうか。夕方に仕事が終わったらAAに行き、帰りは高速道路を使っても帰宅が10時過ぎ。夕食を食べるのが11時ころでした。
当時は一週間に一回それをやるだけでも、ずいぶんしんどく感じられました。
でも「恵まれていた」んですね。行けるところに会場があったのですから。それでも遠いと文句を言っていたら、じゃあ自分ちの近くに自分で会場を作りなさいと言われました。自給自足であります。作りなさいと言われること自体が「恵まれていた」と思います。
通っているうちにKさんという人が現れました。その人は、僕の初めてのホームグループ(諏訪)が出来る前からAAにいた人でした。住んでいたのは伊那のあたり。そこから、当時県内にあったAA会場へ通ったのだそうです。更埴、上田、小諸、佐久。高速は金がかかるから国道で。仕事もしながら大変だったでしょうと訪ねると、だってそれしかなかったんだから、と笑っておられました。
また別に、メールで伺った話ですが、一番近いAA会場まで特急電車で2時間という環境の人もいるわけです。それでもあるだけ「恵まれている」んでしょうね。
まあ、普通に恵まれているだけではだめで、仕事も家族も失って、施設へ行って1日3回のミーティングという「チョー恵まれた環境」でないと回復できない人もいるわけですけど。
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