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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年12月08日(土) 10 years ago (18) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (18) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
ひととおり僕と妻と話を聞いた後、精神科医はこう尋ねました。
「で、どうしたいのですか?」
妻がしゃべる始めるのを制して、医者はさらに尋ねました。
「いや、ご本人がどうしたいかです」
僕の答えは、「入院させてください」でした。
妻は入院して欲しくなかったようですが、医者の「本人がそう言っているのだから」という言葉に押しとどめられました。入院先として、神奈川のK病院、東京のM病院などが挙げられましたが、僕が「遠すぎるから無理」というので、群馬のA病院か、どうしてもと言うなら県内の県立K病院にするか、という選択肢になりました。それで、一番近いところを選んだだけの話です。
医者はその場で病院に電話をかけ、ベッドを確保してくれました。入院の前日、僕はコンビニでハイネケンの缶ビールを二本買いました。あまりにも肝臓が弱っていたため、体調が悪く、その日はビールを一本開けたものの、飲みきることができませんでした。翌日病院へと出発する前に、その気の抜けたビールを飲み干し、ついでに残った一本も飲み干しました。今のところ、それが僕の最後の酒になっています。
事情を聞いて駆けつけてくれた母と、妻と、僕の三人で、僕の車に乗って出かけました。運転していたのは妻でしたが、道行きずっと泣きながら運転していました。後日母に聞いた話では、帰りも泣いていたそうです。
待合室で待っている時間が、ひたすら長く感じられました。診察そのものは5分もかかりませんでした。そして、入院のためのインテイクがまた長く感じられました。「どうしてこの病院を選んだのですか?」という質問に、僕は「ほかの病院の治療成績は2割がせいぜいだそうですが、ここは3割だと聞いたからです」と答えました。もちろん口からでまかせであります。
入院直前は、もう肝臓が弱っていたために、缶ビール1本か2本で泥酔する状態でした。あまり量を多く飲めない状態になっていたので(つまり末期的ということですが)、「保護室が必要というわけではないが、酒臭いのでほかの患者さんに迷惑だから」という理由で、鍵をかけないという条件で保護室に一晩泊まることになりました。
夕食は重湯にしてもらったのですが、それも満足に食べられませんでした。点滴が終わったので、保護室を抜け出してロビーへたばこを吸いに行きました。そこにいるのは見知らぬ人ばかり、そして窓の外の風景も、まるで見知らぬ景色でした。それを見て、非常に切ない孤独感を感じたのですが、ともかく「これで酒を飲む毎日からは脱出できたはずだ」と少し安心しました。
けれど、それで出口が見つかったわけではありません。
さて、今日は何日だろうと思いました。一月に出した一ヶ月の診断書の期限が切れたのだから、二月の中旬ぐらいか・・。いや、飲んでいると日付の感覚が狂うから、二月の下旬ぐらいかも知れないな。そう思ったのですが、実はもう翌月で、3月の6日になっていました。
それが何か特別な意味を持った入院だったのか・・と聞かれても、それほど特別な要素は見あたりません。でも、ターニングポイントとなった入院でありました。
考えてみれば、その半年前に細かなスリップを繰り返している段階で入院しておけばよかった、そうすればこんなに酷い状態にならずに済んだのに・・とまあ、後からするからこそ後悔というのでありますが。
(またそのうち続く)
2007年12月07日(金) 10 years ago (17) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (17) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
新年早々、妻の職場の親睦会でボウリング大会がありました。夫婦での参加が前提であります。酒の飲み過ぎで唇が紫色になっているような状態で、ボウリングができるものか・・・不思議なもので、それが優勝してしまうのでした。
優勝賞品は、誰のアイデアなのか、缶ビール2ダース入りの箱でした。家に着くと同時に、妻はその箱をどこかに捨てにいってしまったので、僕の口には入りませんでしたが。
一月中旬ぐらいから、僕は会社に行くのを止めてしまいました。無断欠勤でした。そもそも妻の出勤時間の方が30分ほど早かったのです。妻が、「今日は仕事に行くんだよ。もし休むんだったら会社にちゃんと電話して」ときつく言い残して出かけていくのですが、妻の車が出ると同時に、僕はアパートのどこかに隠しておいた酒を取り出して飲み始め、そのまま布団に潜り込んでしまうのが常でした。
9時になると、今日も出てこないからと職場から電話がかかってきますが、それには出ません。すると昼休みに、上司が妻の職場に電話をかけまして、「今日も出てこない」と言われた妻が、僕に電話をかけてくる・・・。一日に何度も電話が鳴るのですが、僕はそれを完全に無視して飲み続けるばかり、という日々でした。
不思議と飲酒運転はしませんでした。直近の酒屋は、歩いて片道30分ほどのコンビニでした。さすがに面倒なので、妻に「酒を買ってきてくれ」「車に乗っけていってくれ」と頼んだりしましたが、むろん完全に無視されました。真冬の夜中2時、3時に、歩きながら星座を見上げ、酒をラッパ飲みし、そして「ああ俺は何でこんな生活をしているんだろう」と思うのですが、その生活からの出口がまったく見つかりませんでした。
あんまり会社がうるさいので、精神科医に「一ヶ月の休養を要する」という診断書を書いてもらい、こいつはもうダメだと見放されて、プロジェクトから外されました。その仕事は同僚に回りました。結婚だ病気だと理由をつけて、散々遅らせた仕事を押しつけたのですから、すんげぇ迷惑な話であります。
だがそんな状況でありながら、当時秋葉原でも品薄で入手困難だった機材を手に入れ、ISDN回線を引いてインターネット接続業者と契約までしている・・・よくまあ、そんなことだけはできたんだねぇ、と自分でも感心するのですが、話を戻します。
そんな生活を一ヶ月も続けると、さすがに妻も体調を崩し始め、昼間僕が酒を飲んで寝ている布団の隣で寝ているようになりました。結婚前に実家にいた数年間は、僕が飲んでいようといまいと、母が家事を続けていましたから、僕は家の中のことなど心配せず、ある意味安心して酒を飲み続けることができました。
しかし、結婚して二人になり、(どうみても僕のせいで)妻が倒れてしまうと、とたんに家の中のことが回らなくなってしまいました。
ようやくそこに至って、僕は「この生活をいつまでも続けることはできないんだ」という、当たり前の事実を認識したのでした。自分で酒を切れない以上、入院しかありません。いずれにしせよ、一ヶ月の診断書の期限は切れています。というわけで、妻と一緒に精神科医の診察を受けに行きました。
(そのうち続く)
2007年12月06日(木) われをすくいし ミーティングも残業もなく、とっとと帰るつもりだったのですが、自宅に電話しても「ご飯がないよ」ということだったので、喫茶店に立ち寄って夕食にしました。パスタと珈琲のセットで1,600円というのは、一人で食べる夕食にしては豪華すぎましたが、たまにはのんびり珈琲でもすすりながら本を読みたいのであります。
店内ではピアノの生演奏をしていて、手元に曲のリクエスト用紙もありました。けれど何でもいいというわけでもなく、いくつかの曲から選ぶ仕組みでした。店内の人はあまり熱心に聞いている様子でもなく、拍手があったのはリクエストに応じてハッピー・バースディの曲が終わったときだけでした(たぶんピアノへの拍手ではなかったのでしょう)。
曲目の中には「アメージング・グレース」もあり、別にリクエストしなくても待っている間にその曲になりました。なにせ初めて入った店なので、ピアノの生演奏が「12月だから」なのか、木曜日だからなのか、年中やっていることなのかは知りません。
それにしても、投げたブーメランがとんでもない方角から帰ってきたものです。1月14日は代々木にいるつもりですが、イグナチオにも行かないとダメですかねぇ。え? 朝から来い?
アメージング グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
賛美歌として歌われていますが、AAでは宗教とは関係なく信仰の歌として、国際コンベンションなどで歌われているそうです。この前の福岡でも使われたはず。
2007年12月05日(水) AV 「どうして殿方はアダルトビデオが好きなのか?」
えーと、詳しいことは忘れましたが、要は男は頭でセックスするからだそうです。だから、想像ですることもできるわけです。
じゃあ、女性はああいうビデオは好きなのかどうか? 私はああいうのは絶対見ない、と頑なな人もいます。男と一緒なら見るという人もいます。いや一人でも見るという人もいますが、これは少数派でしょう(たぶん)。
ちなみに妻はスカパーのPPV枠をたっぷり使ってくれたことがあります。
まあ、それはともかく、特定分野を除けば、ほとんどのアダルト映像商品は、男性によって消費されているのは間違いありません。
ただ男性でも、映像が無料で手にはいるのと、有料なのでは、消費行動にずいぶん違いがあるようですが、今回はそっちの話ではありません。
1980年代に、ホームビデオの普及を、アダルトビデオが牽引したのは間違いありません。それまでは8ミリフィルムで「ブルーフィルム」などという手間のかかるものしか存在しなかったのですから。
VHSとβの規格競争でVHSが勝利したのには、様々な理由が言われていますが、一番大きい理由は「VHSのみで発売されたアダルトビデオが多かったため」でしょう。だから、当時βのビデオデッキしか所有していないというのは、男としてかなり潔い態度でした(いや、アニメしか見ない危ない人たちだったのかも)。
家庭用ゲーム機も、ファミコンの時代にはアダルトが結構ありました。市場が立ち上がったスーファミ以降はアダルト禁止になってしまいましたけど。
DVDの普及もアダルトあってこそでしょう。パソコンのハードディスクの大容量化だって、ビデオ映像以外何を入れるんですか何百ギガも。光ファイバーだって、大容量高精細のビデオファイルの伝送に使ってるのじゃないんですか? 液晶画面の色再現性だって、どうしてそんなに人肌にこだわるんですか?
それにしても、ハイビジョンのテレビを見ながら思うのは、なぜ次世代DVDでアダルトが出てこないのか、という疑問です。次世代DVDがなかなか普及しない・・と、ハードメーカーも、コンテンツホルダーも悩んでいます。Blu-rayとHD-DVDと、どちらの陣営が勝利するか・・なんて報道されていますが、先にアダルト解禁した方が勝ちなんじゃないんですか?
やっぱハイビジョンだよねー。
2007年12月04日(火) 安易な癒しに逃げない 朝から雪がちらついていました。
夕方職場を出ると、駐車場の車の上に雪が積もっていました。
2週連続で火曜日のミーティングへ。2週連続でバースディなのでした。悪いとは言わないけれど、まとめることはできなかったのだろうか・・・と思ってしまいます。
中山道で有名な、信州の木曽谷にはAA会場がありません。断酒会ができたのもそう古い話ではありません(10年ぐらい)。木曽と伊那を結ぶトンネルが開通したのが去年の2月。今日の人は、そのトンネルを通ってAAに通った人でした。恵みを得た人です。
ぶっちゃけAAミーティングはアルコホーリクを回復させないと思います。
少なくとも、ステップが与えてくれる回復を、ミーティングは与えてくれません。
それから、生きることが楽なときには人は回復しません。生きることが辛いときに、楽になろうと何か(この場合はステップを)することで、人は回復します。
実はミーティング通い続けることで、生きることが楽になってしまうのは、大変困ったことです。だって、人は楽なときにステップをやろうとは思いませんから。そして「鉄は熱いうちに打て」の言葉ではありませんが、時間が経って楽になってしまった後では、いくら叩いても膨らみすぎた自我は凹みません。
うまくしたもので、楽だと思っていても、生きていれば辛いことはやってきます。そこで、ミーティングの数を増やしたり、AAのイベントに行って楽しんだり何かして、楽になってしまう・・とせっかくのチャンスが台無しです。そこで変わる努力ができたのに「安易な癒し」に逃れてどうする?
そんなだから、男に(女に)逃げたり、薬に逃げたりするんでしょ?
じゃあミーティングは何のためにあるのか? そりゃ多分ステップをやる力をつけるためですよ。辛いときしか回復しないとしても、辛くて飲んでしまったら元も子もないですし、前進のためのエネルギーを得る場所は必要ですから。
とはいえ、僕もAAイベントには遊びに行っているだけですが(家族には内緒だよ、美味しいものを食べていることも内緒だ)。
2007年12月03日(月) 10 years ago (16) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (16) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
さて、新婚の僕と妻は、僕の実家で年を越すことになりました。
当然、妻にも、母にも、兄にも、僕は酒を止めたことになっていましたから、何らかの手段で酒を持ち込まなければ苦しいことになります。僕は酒のディスカウントストアの店内をしらみつぶしにあたった後で、ドイツ製のビールを一箱買い求め、それを「ノンアルコールビールだ」と言い張って、家族の前で飲むという作戦に出ました。
父が亡くなった後の家で、母を一人暮らしさせるわけにはいかない・・・それには兄一家がローンの残る家を売り払って実家に戻るしかない。けれど、江戸時代から建っている古い家屋敷に入るのは、義姉が納得するはずもありません。そこで、新しい家を建てねばならないのですが、兄にはそんな金もなし。先祖代々受け継いできた土地を売って家を建てる金を作ったとしても、「俺たちは反対しないから」と叔父たちが兄を説得したとか、しなかったとか。
そんな相談が行われている最中、僕は確実に酔っぱらっていきました。
年が明けると、今度は妻の姉夫婦の家に挨拶に行かねばなりませんでした。ところがもうその日の自分はピキピキの禁断症状の真っ最中で、見知らぬ家で笑顔らしきものを顔に貼り付けているのは半日が限界でした。
帰りの車の中で、妻に八つ当たりしていると、「やっぱりあなた飲んでいたのね」と逆に責められることになりました。
正月休みが終わって、仕事が始まっても、当然まるで仕事になりませんでした。職場の椅子に座りながら、「なぜここで席を立って、すぐそこの酒屋の自動販売機でビールを買って飲んではいけないのだろう」という考えが、繰り返し繰り返し浮かんできました。
この時期に、仕事で浜松へ出張に行っているはずです。一人で行かせるには不安だからと、同僚がお目付役に付いてきました。だが、僕は名古屋に着いたことと、そこから新幹線に乗ったことは憶えているものの、浜松のことはまるで思い出せません。夕刻、名古屋から特急しなのに乗って帰るとき、僕と同僚は喫煙車両と禁煙車両に別れました。僕はさっそく車内販売でウィスキーを買って一息つきました。そのことだけははっきり憶えています。
仕事を放り出して入院するしかないのは分かっていました。けれど、なかなかその道を選べませんでした。プロジェクトは逼迫し、簡単に逃げ出せる状態ではありませんでした。もう家庭から新婚の喜びは消えていましたが、それも入院してしまえば、良い雰囲気を取り戻すチャンスはもう二度とないでしょう。
だから、なんとか入院しないで、現状のままで良くなりたい・・・そう言いながら、飲んだり止めたりを繰り返して、日にちだけが経っていき、状況がずるすると悪くなっていきました。良くあるパターンであります。
あの時に、誰が何と言っても、僕は入院しなかったでしょう。けれど、アルコールは偉大な説得者でした。とは言え、僕が入院を決意するまでは、まだその先二ヶ月飲み続ける必要がありました。
(続く・・かなぁ)
2007年12月02日(日) 10 years ago (15) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (15) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
10年前というタイトルで書き始めたこのシリーズですが、続きを書かないでいるうちに、もう12年前ぐらいになってしまいました。
さて、新婚旅行中にまた飲み出してしまった僕ですが、妻が「日本に戻ったらもう飲まない」という空約束を信じたおかげで、新婚早々夫婦げんかをして過ごすということは避けられました。けれど、たった数日の飲酒生活を送っただけで、酒が切れれば禁断の苦しみという依存症の症状もぶり返してしまい、身体の不調はごまかすことができませんでした。
まだ、日本に戻る飛行機の中は良かったのです。機内サービスの酒を飲み、なんとか禁断症状をなだめすかししていましたし、苛立ちの対象は、ただでさえ狭いエコノミークラスの座席に、妻が空港で買い込んだおみやげを手回り品で持ち込んだため、手足を満足に動かせないことに向かっていました。
けれど・・日本に着いてしまえば、もう言い訳はできません。成田から東京へ、東京から長野へと戻る列車の中で、早くも悪寒と震えがやってきました。
新居のアパートで過ごした翌日。僕はこの症状を和らげてくれる薬を処方してもらおうと、精神科医の診察を受けました。「やっぱり飲んだのですね」と尋ねる医者の言葉に、「ええ、飲んじゃいました」とためらいなく答える僕。その言葉を聞いて、初めて妻は「これは困った人と結婚したのかも知れない」と悟ったそうです。
二人でAAミーティングにも行って「スリップしました」と報告しました。けれど、それで何が変わるわけでもなく、僕は断酒後の抑うつ状態を抑える薬を飲みながら、ノンアルコールビールと普通のビールをかわりばんこに飲んでいました。
遅れに遅れていた仕事に復帰したものの、酒が止まっていない状態ではまるで仕事になりません。なんとか仕事をしなくては・・と1日2日酒を切ってみるものの、アルコールを体から抜いてみたところで、バランスを崩してしまった脳の調子は、すぐには戻りません。どんどん追いつめられていくものの、結局半月まるで仕事ができないままに年末の休みに入ってしまいました。
(そのうち続く)
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