心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年09月23日(日) 近況

ソフトバンク携帯は、バッグの中に放り込まれたまま、全く使われていない無駄な状態です。とはいうものの、26ヶ月は契約し続けねばならない縛り付きです。トホホ。

テレビ到着しました。
パネルの画素数は1,366×768ですから、フルハイビジョンはおろか、普通のHD放送すらドット・バイ・ドットでは映りません。パソコンのモニターではなく、テレビですからそこは気になりません。てゆーか、アンテナ繋いで見るまで、地上波デジタル放送がHD放送(1440×1080i)だなんて知りませんでした。640×480だとばっかり思っていたのです。

稲刈り終了しました。
自家消費分だけ天日干しにしています。自然乾燥のほうがお米が美味しいから、という理由ではなく、コンバインによる収穫(と乾燥)を頼むと高いからです。

関係ないですが、相手が死んでいるから、二度と会えないから、ステップ9の埋め合わせができない、とは思いません。「会おうにも会えない相手も人もいるだろうが、そういう相手には正直な手紙を書く(p120)」。
たとえば死んでしまった人に手紙を書くことに、何の意味があるのか? ステップ9は相手に許してもらうためにするのではなく、自分の回復のためにするのですから、相手が読んでくれるかどうかは関係ないはずです。
したがって、「埋め合わせのできない相手」なんてのは存在しないことになります。会えないという理由をつけて先延ばししているだけです。

といっても、僕はまだ死んだ父に手紙を書けていません。だから強いことは言えません。まあ、スポンサーになると、自分がやってないことでも、やらせなきゃならない時も出てくるんでしょう(で、後であわててやると)。


2007年09月22日(土) 「リスク上等!」でないとねえ

恋愛相談に乗るほど経験豊富なわけじゃありませんが・・・。

恋愛の告白って「好き」って言えば済むだけの話じゃないですか。難しいことはないと思いますが。

気持ちを自分の心の中だけに秘めているときは、何のリスクもありませんが、言葉に出してしまうとある種のリスクは避けられません。たとえば僕が誰かを口説いたとして、その女性が、

「私、ひいらぎに口説かれたのよ。あの男、あんな変な顔をして、いったい何考えてんだろうね!わはは」

などと吹聴して回られたら、結構凹みますな。仮に首尾良く恋愛関係に持ち込めたとしても、物事には終わりがありますから、こっぴどい別れ方をしようものなら、腹いせ(?)にどこで何を言われるか分かったものじゃありません。

結婚というゴールがあっても、その先に夫婦げんかが待っています。「友達に相談」という名目で、いろんなことが家庭の外に漏れていきますし、ことによるとブログで全世界に向けて発信されちゃったりします。「夫婦げんかは犬も食わない」と言いますが、対岸の火事ってやつですから。

一人でいれば、そういう傷つき方は避けられるのでしょう。でも、納得して一人でいるんだったら、それも良いのですが、傷つくことが怖いから避けているだけなら、やはり淋しいのじゃないでしょうか。

何もしなくても、いつか可愛くて心優しい女性が目の前に現れて「あなたが好き」と言ってくれるという、実現性皆無の夢を見ているうちに、着実に年を取っていってしまうものです。年を取ると落ち着くなんて言いますが、体も心も衰えて、好きになるのが億劫になるだけでしょう。そうなったら遅いですよ。

ともかく、自分だけ安全圏に隠れていて、恋愛の美味しいところだけ食べようなんて、無理な話です。どーんと告白して、ばっさり断られて、経験値を積んだらよいのじゃないでしょうか。

え? 全然勇気づけてない? 否定的なことばっかり言ってる? ま、がんばんなさい。

「結婚する前は両目を開けて、結婚したら片目を閉じて」相手を見ろ、なんて言いますが、酔っぱらっているときは両のまなこが酒で曇っているわけで・・・。なまじ素面になってしまうと、いろいろ見えすぎて誰とも結婚できなくなる例もあるみたいですから、何が幸いなのかは分かりません。

ひょっとすると女のほうも、ぼーっとしていても、急に目の前に甲斐性のあるいい男が現れて「好きじゃー」などと言ってくれるのを待っているのかも知れませんね。女になったことはないので、分かりませんが・・・。


2007年09月21日(金) 領収書

ソブラエティ1年目に「金がない」という悩みをAAスポンサーに相談したら、返ってきた答えは「家計簿をつけろ」でした。
ステップ4・5と同じだというのです。まず自分の状態をしっかり把握しないと、修正もできないから、なんとなく金を使って、なんとなく足りないと言っているようではダメだと。
というわけで、家計簿をつけ、公共料金の請求書・領収書のたぐいはパンチ穴を開けてファイルしました。

その後、多少経済状態が改善すると、もう家計簿はつけなくなってしまったのですが、領収書のファイリングだけは続けていました。

一度、過剰請求を見つけて、何ヶ月分かさかのぼって返してもらったことがあります。

電子メールが普及する前は、AAメンバーとのやりとりは電話か手紙でした。郵便箱を開けて手紙が入っているのを見つけるのは、実に嬉しいものでした。それがないときは、JSOやセントラルオフィスからの書類でも、NTTや携帯電話の領収書と同封のパンフでも、ないよりマシでした。

最近のメンバー同士のやりとりはメールが主ですし、届く郵便物は「片づけねばならないこと」の類なので、郵便受けを開ける楽しみは、以前ほどではありません。

何のために領収書をファイリングしているのかも、意味不明になってきました。若干の資源節約のために、領収書や明細はWebで参照するサービスの申し込みをしました。


2007年09月20日(木) あなたのスポンサーではないのだが

目の前で起きていることが、どうしても納得できない、という気持ちは分かります。
もし神様がいるなら、どうしてこの人に罰を与えないのだろう、と思ったりするわけですね。「配慮に欠けていた」ってのも含めて、自分に落ち度はないし、相手が悪いとしか思えなくて・・。いつかこの人は罰が当たるだろう、いや当たって欲しいと思ったりして・・。

でもそれは「私は間違っていない」、「もし神様がいれば私に賛成してくれるはずだ」という思い上がりですよ。

もっと言えば、「私は正しいのだから、神様は私の判断に従うべきだ。だから早くあの人に罰を下しなさい」と思っているわけです。
いつの間にか、自分が神様より偉くなって、命令を下したがっています。AA流の言葉で言えば「神の役を演じて」います。自分=神になっています。

世間において「自分は神だ」と主張する人間は、一般にキチガイと呼ばれます。それが「自分の古い考え」の狂気です。これにつける薬はステップ2。健康な心に戻してくれると書いてあるでしょう。

自分がアル中だと気がつかない人は、酒をやめようとは思いません。同じように、自分の考えの狂気に気がつかない人は、正気に戻してもらおうとは思いません。だから、自分の考えで苦しむのはひとまず良いことです。きっとたぶんね。

自分の考えでは、どうにも間違いとしか思えないことでも、神様の視点で見れば実は正しいことなのかも知れません。僕らは神のように全知全能ではないので、目の前で起きていることの正しさが理解できなくても、しかたないことです。諦めましょう。

それよりも神様はすべて良くしてくださると信じ、今日起きたことにもきっと何か意味があると信じ、罰をあてて欲しい人に頭の中を占領させるのはやめて、今夜はぐっすり寝ようではありませんか。

いくらミーティングに出続けていても、そういう考え方は意識して努力しないと身に付きません。3年後にはきっと自分が変わっていると信じて続けていきましょう。そうすれば自分のことだけで十分忙しいはずですよ。


2007年09月19日(水) 仲間の力じゃないんだよ

ソーバー1年目に一冊の本を何度も読みました。
(いや、ビッグブックじゃなくて)

加藤諦三という人の本で、巻頭にこんなことが書いてあります。

人間は二つのことが大事である。
一つは、自分を尊敬し、自分を大切にすること。人にどう思われるかではなく、自分が自分をどう思うかが大切だ。
もう一つは、人間は他人との関係が大切である。意欲の源泉は他人との関係にある。

それに続いて、「この二つのことは、お互いに矛盾するではないか」と主張する若者の話が出てきます。僕もこの若者と同じように感じていました。自分を大切にすれば他者との関係はぎくしゃくするし、関係を大切にすれば自分を犠牲にするしかない。だから二つのものを同時に大事にはできない、と感じていたのです。

わがままを貫き通すか、そうでなければ自己犠牲の連続。そういう二者択一の人生を生きるのはとても辛いことです。でも、子供の頃からずっとその生き方を続けてきたので、ほかの生き方があるなんて知らなかったのです。
だが、知ってしまいました。知ってしまえば、別の生き方がしたくなる。要するにステップ1と2です。

関係ない話ですが、ステップ2をすっ飛ばして、ステップ4・5を済ませた人は、その次のステップ6に至ったときに、矛盾を抱えます。「性格上の欠点を神に取り除いてもらう」と書いてあるのですが、ステップ2を迂回してきていますから「神に取り除いてもらう」事ができません。
しかたないので、一生懸命「自分で取り除こう」とします。それも無駄にはならないでしょうが、いつの間にか人生が「自己犠牲の連続」になりがちです(経験者は語る)。そのうち「ステップって辛い」とか言い出しますから。
その時には、いったんステップ2まで戻った方が良いです。

例えば「仲間のおかげ」という言葉を使うのをやめる。だって「神様のおかげ」ですから。


2007年09月18日(火) 燃費の話、薬の話

ハイオクとレギュラーガソリンを混ぜて給油し、燃費の変化を探る実験の途中報告です。まだ7回しか給油していないので、何かハッキリしたことを言えるほどのデータは集まっていません。それでは面白くないので、無理に何か言うとすると・・。
ハイオクとレギュラーの価格差は、僕の近所では約7%です。そしてレギュラーガソリンにすると、燃費が7%ほど悪化しています。つまり、経済的効果は出ていません。普段の走行には影響ないものの、ここ一番では出力の低下を感じることもあります。
これから冬に向かって気温が下がっていくと、空気の密度が上がり、吸入酸素量が増えるので燃費が向上します。だから、毎回ハイオクとレギュラーの比率を変えながら、データを積み上げていきたいと思います。

うつ病の治療のために飲んでいる薬は、昨年10月の記録が残っています。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20061018

トレドミン(塩酸ミルナシプラン)については変化がありません。たぶん一生この量(50mg×2回)を飲むのでしょう。
レスリン(塩酸トラゾドン)の量は半分に。
ロラメット(ロルメタゼパム)は減らした後に、ワイパックス(ロラゼパム)に変更。さらに1mg錠を半分に割って出されるところまで減っています。
アタラックスP(パモ酸ヒドロキシジン:通称アタP)は、50mgから25mgに半減し、実は勝手に服用を中止しています。次回止めてもらいます。

夜は5時間眠れればせいぜいで、あとは目が覚めてしまって眠れません。けれど、昼休みに机に突っ伏して寝ているのを除けば、仕事時間中に眠くて困ることは無くなりました。精神状態が悪いと寝付けないこともありますが、棚卸しと祈りが効いてくれます。睡眠の質が改善してくるのが分かります。

医者はだいぶ薬が整理されてきたとは言うものの、最終的には寝るための薬(残ったロラメット)を廃し、トレドミンとレスリンをうつ病の再発防止用に維持量飲み続ける状態に持っていきたい・・・しかも来年あたりまでに。と自分で勝手に治療計画を立ててしまっています。

睡眠薬を切ってうつ病がぶり返しては元も子もなかったので、減薬には霊的状態の改善がどうしても必要でした。長い時間がかかったものの、ようやく睡眠薬と手の切れる未来が、実現可能なものとして見えてきた感じがします。
これも霊的な道具のおかげです。


2007年09月17日(月) 自分の頭で考えろ!

改めて別に書いてもいいのですが、忘れないうちに。

まずルールを求めるのはやめなさい、ということです。
法律という社会ルールは、確かに犯罪を減らすけれど、犯罪常習者を更正させる能力には乏しいものです。依存症者も同じで、酒を飲まないというルールを守れた試しがありません。そもそも、何でそのルールを作る必要があったのか、原理原則のところから根気強くやっていかなければなりません。

ステップや伝統も、ルールではなく、原理原則です。守らなくても、処罰はされません。ただ、AAメンバーが大きくステップからそれ続ければ再飲酒と死が、AAグループが大きく伝統からそれ続ければ、グループの消滅が待っているだけです。

だが、人はルールを求めたがります。その方が簡単だからであり、考える手間を省けるからでしょう。

AAのオープンミーティングで、AAメンバー以外(アル中以外)の人に話をしてもらうかどうか、って問題もその一つです。

「アルコール以外の人には、オープンミーティングといえども、話はしてもらわない」のが正しいという人もいます。でも、それはルールですね。

アメリカのAAミーティングでは、話し出した人がアルコール以外の人だと分かった途端に司会が話を遮り止めてもらうところがある・・ていう論拠を出す人もいます。でもそれは、アルコールとそれ以外で分けているのと違うのです。

伝統5ではAAはアルコールの問題に専念しろと書いてあります。アルコホリズムと、そこからのAA流の回復手段だけを分かち合うのであれば、家族の人や別の依存症の人にAAの回復の話ができるわけがない、というのは分からないでもありません。(そう主張する人でも、なぜか医者の話はありがたく聞いたりする不思議)。

だが、それを言い出すのなら、AAメンバー自身も話の内容を吟味しなければなりません。アルコホリズムとその解決=ステップです。昨日も書きましたが、決して「今日辛いことがあって、ここへ来て打ち明けて楽になった」という癒しの話じゃありません。そこまで厳しい基準を自らに課して初めて、「それ以外の人」にも厳しい態度で臨めるのではないでしょうか。これがルールでない原理原則です。

前述のアメリカの話は、AAメンバーであろうと無かろうと「アルコールの話に限ってくれ」といって遮られてしまう、という話であります。

だが原理に100%沿って生きられる人はいません。AAメンバーだってヌルい話はしてしまいます。だからこそルールはナンセンスなのです。少なくともAAの中では。

まあ、ルールを作るのは個々のグループの勝手で、「自分に甘く人に厳しいルール」で原理から外れたからといっても、処罰がないのもAAであります。

常に伝統やステップの原理に照らし合わせて考え(Think! Think! Think!)、同時に現実は原理どおりにはできないことも受け入れる。清濁併せ呑むことが求められる、それがAAでしょう。てゆーか、世の中なんでもそうでしょうけど。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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