心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年06月02日(土) Keep It Simple Stupid

AAのバースディが来るたびに、その後一年間の自分のスローガンを考えて決めています。昨年5月に決めたのは「今日一日の感謝」でした。これは六十何歳かのAAメンバーの自己テーマ「今日一日の謙虚」のパクリです。

今日一日酒を飲まなかったことに感謝できないアル中には、どんな素晴らしいことが起きたって、本当の感謝なんかできっこない。

というスピーチに感銘を受けたのも影響しています。
今日一日酒を飲まなかったことを、寝る前に感謝するという習慣が、僕の精神状態(たとえばうつとか)を良い方に導いてきたのは、間違いありません。感謝とうつの間にどんな因果関係があるのか、それは僕には分かりませんが、誰かが言っていたように「自分に身に起こった奇跡は否定しようがない」わけです。

新しいスローガンは、AAのものをそのまま使って、Keep It Simple Stupid (KISS) にしました。何事にも愚直かつ単純に取り組んでいく。複雑にしすぎない。うがちすぎを避ける。

目の前にある一日を、そのまま受け取って過ごしていきたいものです。


2007年06月01日(金) 無力

いきなり明日葬式になって、ホームグループのミーティングに行けません。あいや、葬式はいつもいきなりか。だから今日のうちにスポンシーを誘ってミーティングに行ってきました。
年配の男性(おじさん・おじいさん)ばかりの会場で、ビッグ・ブックの第二章を輪読しました。日頃は据わりが悪いと感じているBBの文章も、年配の男性が大きな声で読むと、すごく馴染んでいることを発見しました。なるほどそういうことか、これを訳した人(の世代)にとっては、自然な言葉遣いだったのかと得心しました。
ひとつ前の訳はP神父の手によるものですが、神父と同じように戦前の教育を受けた人が「我々の世代にとっては、あれが親しみやすいんだ」と言っていたのを思い出します。
日本語は変わり続けていくし、BBは実用書であって文学作品ではないということを、あらためて思いました。

さて、

相手の望むことをしてあげるのが、相手のためにならないことがあります。
相手のために良かれと思ってすることも、実は相手のためになっていないこともしばしばあります。「良かれ」はしょせん自分の価値判断にすぎません。

世の中には、善意を動機として行動し、ダメな結果を出してしまう人で溢れています。自分にとって、相手にとって、何がよいことで、何が悪いことなのか、判断には必ず間違いが紛れ込みますから、それは仕方ないことです。

であるのに「自分のことはすべて自分で決める権利がある」という考えに固執する人がいます。僕もその傾向おおありです。人が荒野に一人で生きているなら、それも真理かも知れません。でも、人間関係のあるところでは単に迷惑な人になるだけです。

自分に関してさえ、何が良くて、何が悪いのか、知ることが出来ないこと。たとえ前進する力を持っていたとしても、また良くなりたいと善意があったとしても、どちらに進んでいいのか分からなければ、前進力を自分に役立てることが出来ません。

僕はアルコール依存症から良くなりたいと思っていましたが、どうやれば良くなって飲まないでいられて、どうやれば悪くなって飲んでしまうのか、「自分で判断して自分で決めればよい」と思っていたうちは、しらふで生きることができませんでした。
自分の判断を信用している限り、僕はアルコールに対して「無力」でした。

自分の判断を信用している限り、僕はアルコール以外のいろんなことにも「無力」であり続けます。


2007年05月31日(木) 釜飯の店

仕事で遅くなったときは、外で食事をして帰ることにしています。
ところが遅くなると、営業している飲食店の数が減ってきます。9時までの店、10時まで、11時まで、夜半まで、とだんだん店が閉まっていき、「いつも同じところはヤだ」とわがままを言っていると、夕食難民になってしまいます。仕方ないので、勇気を持って新規開拓に挑むときもあります。

昨夜も300円ぐらいのうどんを食わせる店に寄ろうと思ったのですが、問題はその前の版も別の店でうどんを食べたことです。二日連続でうどんはどうよ? と思っていると、「和めしや右折300m」という看板が目に入ったので、迷わず右のウィンカーを出していました。

その店は釜飯屋らしく、店の外には釜飯のディスプレイがありました。中へ入ると店員が席を案内してくれ、そして渡されたメニューは完全なる居酒屋メニューでした。外の掲示はランチタイム用で、夜はより収益率の高い酒家をやっているわけですね。僕は夕食を食べに来たのであって、酒を飲み来たわけじゃありません。
そこで席を立って出て行ってもいっこうに構わないとと思うのですが、もう頭の中は湯気を上げる釜飯でいっぱいです。居酒屋で飯を食って何が悪いというのだ。

何とかメニューの中から釜飯を見つけ出してオーダーすると、米から炊くので20分はかかると言われました。観念してソフトドリンクと焼き鳥5本を頼んで、時間をつぶすことになりました。

周囲を見渡すと、若い男女の二人連ればかりです。僕が通された席も二人席でした。向かい合わせじゃなくて、並んで座るベンチシートです。照明は薄暗く、隣の席とはすだれで区切られていて・・・。まあデートにはいいところでしょうな。
居酒屋も、飲酒運転対策としてソフトドリンクのメニューを充実させるところが多くなって、飲まない人にとってはありがたいことです。

かに釜飯はおいしかったのですが、すでに焼き鳥も食べていたので、1/3も食べたところでお腹いっぱいになってしまいました。鰹だしの汁をかけてお茶漬けにするとおいしいと言われたのでもう1/3食べ、迷ったあげくに残りの1/3も食べてしまいました。食い過ぎです。

おいしかったけれど、夕食に二千円はかかりすぎでした。


2007年05月30日(水) 予備の原稿

スポーツの審判は人間がやるものであり、人間がやるからこそ不完全であります。

僕はスポーツはしませんが、見るのは好きであり、見ているだけならルールがどんなに複雑でもかまいはしません。たとえばサッカーのオフサイドは、ハーフウェイラインより向こう側だけに適用されますが、ラグビーのオフサイドは場所を限定しません。しかも複数のオフサイドルールがあって、どれを適用するか刻々と変わっていきます。
たとえばオフサイドをして相手にキックを与えてしまったとします。相手がキックするときは、最低10m離れてないと後のプレーに参加できません(なので走って後退する)。間髪与えずにキックすればオフサイド・プレーヤーを沢山作ることができます。けれどキックする側は、蹴った地点より前にいた選手は全員オフサイド、蹴ったボールを敵がキャッチするとこちらもキャッチより前にいる選手は全員オフサイドとなります。はたしてプレーに参加できるのは誰と誰?
脳みそまで筋肉で出来ているんじゃないか(失礼)といういかつい男たちが、瞬時に冷静な判断をしてゲームを組み立てていくところがラグビーの魅力だと思っています。

でもプレーヤーは15×2=30人もいて、レフェリーは一人です。10mといったって線が引いてあるわけじゃなし、一方を見ていれば頭の後ろは見えません。密集していれば、反対側で何が起きていてもレフェリーには見えません(観客には見える)。それはどうするのか?

「見えないものは仕方ないじゃん」とでも言いましょうか。観客にいくら見えていても関係ないのです。レフェリーという限界あるものを信頼して、敬意を払っていくのがラグビーであり、間違いがあるのが当たり前なのであります。

アメリカンフットボール(NFL)には「チャレンジ」というビデオ判定を要求できるルールがあります。判定に不服があればコーチが赤いフラッグをフィールドに投げ入れ、主審がビデオをチェックして再判定をします。ただしチャレンジして判定が覆らなければ、3回あるタイムアウトの権利のうち1回を没収されます。時間との勝負であるアメフトで、時計を止める権利を失うことがどれほどの損失か。
チャレンジが吉と出るか凶と出るか、観客もどきどきしながら結果を待てるわけです。

イギリス人のジェントルマン性、アメリカ人の合理主義と申しましょうか。

日本のプロ野球でもビデオ判定を導入しようという動きがあります。でもチャレンジ失敗の時にどんなペナルティがよいのか(観客が楽しめるのか)となると、難しいですね。


2007年05月29日(火) だから僕も許して

AAの仲間は許さなければならない、と言います。
鼻で笑われようが、頭をひっぱたかれようが、陰口をたたかれようが、デマを流されようが、金を返してくれなかろうが、秘密をバラされようが、ともかく許さねばならないと言います。
なぜ許さなければならないのか、AAの仲間だからです。

許さないのは憎んでいるということです。憎んでいる相手と一緒の空間にいてリラックスできる人はいないでしょう。むしろどっと疲れて、嫌な気分になります。同じミーティングに参加する仲間を恨んでしまえば、ミーティングに行くのが嫌になります。嫌になれば行かなくなるし、行かなくなれば飲んでしまうし、飲んでしまえば死んでしまうのです。憎しみはAAメンバーを殺すのです。嘘だと思うなら、試してみればよろしい。

憎んでいないと強がってみても、相手を強烈に意識している行動に嘘はつけません。相手に弱みを見せないよう、いつも緊張してないといけません。相手を避けようとすれば、自分の行動範囲が自然に狭くなり、この地上で安心できる場所がどんどん減って、最後は部屋にこもって酒でも飲むしかなくなります。
避けたところで、相手はこの世から消えてくれません。
だから許すしかありません。

何もAAに限りませんね。仕事で言えば、同じ職場の人でも、取引先の人でも、憎んでしまえば、その人と一緒にいるのが苦痛になり、仕事が嫌になります。家庭でも、家族の誰かを嫌ってしまえば、家にいるのが苦痛になります。自分で自分を生きづらくしているだけなのに、そういう人に限って「自分以外の誰か」を悪者にしたがります。

人に限らず、社会的なしきたりや制度も、憎しみの対象になり得ます。たとえば会社組織そのものとか、借りた金は返すという契約とか、田舎の濃密な人間関係とか、精神病院とか。そのことを思い出すたびに、心の平和はなくなってしまいます。その人に言わせれば「正当な怒り」なんでしょうけど。

ステップ4で作る表には、この憎んでいる(怒っている)相手や仕組みを書いていきます。相手が人間であれば「この人と二人きりになったら落ち着かない」という名前をリストアップしていけば、まず間違いありません。制度であれば逃れたいと思うもの。ともかくそれをやれば、いろんなことを憎んで、いろんな場所を居心地悪くしている張本人は、他ならぬ自分自身だということが、少しは分かるはずです。
じゃあそれをどうするかは、あとのステップの話です。

「最近どこそこの掲示板の居心地が悪い」という話も聞きますが、掲示板というのはニュートラルなものです。単にそこの誰かを憎むか嫌うかすることで、居心地悪く感じるように自分をし向けているだけなんです。
ほんとに相手が悪いと思うなら、そういう人に近寄らない方がいいのですが、わざわざ近寄るのは自傷行為か恋でしょうね。


2007年05月28日(月) 日々日記

朝起きると若干めまいがして、高速道路を運転するのには不安が残ったので、フレックス出勤の制度を利用して、午後から出社しました。

中国の方から何やらが舞ってくるとかで、ここのところ空気が悪かったのですが、今日は空も心を入れ替えたように良い天気で、山の残雪が鮮明に見えました。いままで気がつかなかったのですが、僕の住んでいるところからも中央アルプスが見えるようです。見えないと思いこんでいたのですが、今日はそちらの方向の緑の山の上に、白い頂が確かに少しのぞいていました。あれは、経ヶ岳あるいは駒ヶ岳の山頂に違いありません。南アルプスは北半分が見えます。

いつもと同じ速度で走っていたのですが、どんどん追い越されていきます。スピードを出したくなる気持ちはよく分かります。気持ちがいい。確かにこんな良い天気の日に、蛍光灯の下で仕事だなんて実にばかばかしい。

で、そのばかばかしいことを夜9時過ぎまでやっていました。遅く行きましたから、遅くならないと帰れません。別に一日の中で労働時間のつじつまを合わせる必要はないんですが、電話のかかってこない夜の方が仕事がはかどります。

途中で食事をして帰るとすでに11時近く。
そんな時間でも子供が起きていて、夜食を作れと言うので、焼きそばを作りました。
キャベツを洗って切手大に切り、ウィンナーも切り、中華鍋を温めて油を引いている間に蒸し麺を電子レンジで温め、麺を鍋に放り込んで水を少しかけ、炒めて水分が飛んだところでソースを加え、強火で少し再度炒めておしまい。

今日は見なかったけれど、だいたい毎晩子供の宿題を見ています。「キロは千だから0が三つだな。だから、小数点がみっつ、ぴょんぴょんぴょんと移動して、これでメートルになる」そんな具合です。

パソコンの前に座る頃には日付が変わっていて、メールの処理などをして、この雑記を書いている今は午前1時半です。まだ、明日の準備に多少かかります。正直、明日もお昼から出て行きたいのですが、あまりそれをやると「ちょっとちょっと」と呼び出しを食らうので、明日は決められた時間に行こうと思います。

こういう感じで関わる人間が少ない生活をしています。電話の向こうの顧客は、いつもせっぱ詰まっていますが、それが人間関係・・・なのかなぁ。明日から量産なのにまだ動かねーと言っているお客さんに、今日は諦めて帰りましょうよと言えるようになりたいものです。

というふうに、日記にしてみたところで、僕の生活はあまり面白くはないんですよ。
AAがなければ、会社と自宅の往復の生活でしょうね。仕事人間でない僕には、それではあまりにもつまらないだろうと思います。


2007年05月27日(日) 予備の原稿

松坂の投げる試合をTVで見ていたら、対戦するあるメジャーリーガーのことをアナウンサーが「彼は日本に来た時に、六本木で踊って、秋葉原で買い物をしたんだそうです」と紹介していました。高給取りの野球選手が、秋葉原でメイド・イン・ジャパンの家電製品を買い求めたのかどうかはわかりません。

メイド・イン・ジャパンは日本の工業製品の品質の高さを示す言葉です。昨今では市場が安い他国の製品に市場を席巻されているおかげで、「高いけれど日本製だから壊れないよ」という売り文句へと変化してしまった感じがします。性能やコンセプトの面では、すでに韓国メーカーに追いつかれ、追い越されている(部分もある、米国市場とか)んですが、信頼性についてはまだ若干のリードがあるように思います。

しかし50年前、いや70年前には、メイド・イン・ジャパンは「粗悪品」の代名詞でした。当時の日本は工業化が進んでいたものの、基本的には安い労働力を武器に、安かろう悪かろうの工業製品を輸出する国だったのです。また、取引相手としても、日本人は信頼できない油断のできない相手と評価されがちでした。金を払った後、日本からの積み荷を開けてみたら、中には石しか入っていなかった・・・なんて話もあって、まあこれは都市伝説の類ですが、日本のイメージの一端を現しているように思います。

そう言う状況を変えたのは、戦後登場した経営者たちであるとか、あるいはプロジェクトXみたいな燃える男たちであるとか、そういう方向には話を持っていきません。

世界大戦後に日本を占領したのは事実上アメリカでした。
彼らは財閥を解体し、労働運動を奨励しました。富の集中や貧富の差を解消しようと試みたのでした。その目的が「民主平等」ばかりであったかどうか、それは怪しいところです。

戦争の荒廃によってさらに貧しくなった日本人が、その安さを武器に粗悪品を乱造して輸出し、それがアメリカ市場に流入してアメリカの産業が打撃を受ける・・・そういうシナリオを避けたい動機もあったでしょう。結果、常に賃金上昇の圧力にさらされた日本企業には、安さではなく品質を武器にするしか道がなかっとも言えます。アメリカの思惑は当たり、戦後日本では中間所得層が形成され、それはアメリカから輸出された製品の購買層としても成長していきました。

日本の野球選手も質が良くなって、メジャーリーグに輸出できる時代になったわけですな。僕は天の邪鬼なのか、若貴時代よりも、外国人が増えたいまの大相撲の方が面白いと思います。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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