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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年04月09日(月) どうでもいい話 記録が残っていないのですが、この前パソコンの主要部品を買い換えて、Windows XPをインストールし直したのが、確か3年前だったと思います。その一年後にマザーボードが壊れて、それだけ交換しています。
さすがにそれも、いろいろ調子が悪くなってきています。
USB関係がどうもダメで、USBメモリのドライブが消えたり現れたり、印刷中にプリンターとの接続が切れてエラーメッセージが表示されたり、スキャナーを使うために再起動が必要だったり・・・。画面のリフレッシュレートが変わらないし、リジュームが再起動になってしまうし、謎の突然再起動も頻繁です。忍耐力養成装置になっています。
お金がないので買い換えを控えているうちに、二世代も古くなってしまって、いざ買い換えようとすると、使い回しの聞く部品が少なく、高く付いてしまいました。CPU(Core 2 Duo E6300)とメモリ2GB、Intelマザー、400GBのハードディスク。総取っ替えに近いです。
そしてお金を払った直後に「ゴールデンウィーク直前にCPUが値下がり」という観測記事を読んでしまいました。どうせ届いても、交換作業に入れるのはゴールデンウィークになってからでしょうから、焦って失敗してしまいました(でも、メモリの値段は上がるかも)。
話は変わりますが、タバコのTVコマーシャルがプライムタイムから消えてずいぶん経ちます。それ以前にも「吸っているところは描写しない」という自主規制が行われていました。
ところが、ビールのコマーシャルは相変わらずその時間にやっていますし、うまそうに「ぷはー」とやっている場面だって出ます。おかげで、僕の下の娘なんか、外食に行くたびにメニューを見てビールを飲みたいとせがみます(小学生なのに!)。
どうして、飲んでいるところを描写しなければならないのか。飲んで見せなくたってビールの広告は成り立つでしょうに。自主規制する気がないのでしょう。うまそうに飲んで見せないと、広告が成り立たないとするなら、それは単なる表現の貧困です。
まあ、水着のねーちゃんが浜辺でジョッキを掲げているポスター作る業界ですからねぇ。
「かっぱっぱー、のんじゃったー」とか「トリスを飲んで」とか「つっつつびっつ、つびつばー♪」とか。そういう強烈な印象を残す酒の広告は近年ないですね。
2007年04月08日(日) 前駆症状 やっちまいました。
昨夜のAAミーティングで「明日の病院メッセージに行く?」とか人に聞いておきながら、自分のことをすっかり忘れていました。挙げ句に昼過ぎまで寝てしまい、起きてから予定表を見たら「○○○病院」と書いてあるのを見て真っ青になりました。
今から行っても間に合わないどころか、もう始まっているので、他のメンバーに連絡を取って確かめるというわけにもいきません。自分の不安をいち早く解消するためだけ、メッセージ中の仲間の携帯は鳴らしたくはありません。
結局、仲間の一人が昨日の話どおり行っていてくれていたので、僕の失敗は表には出てこなかったのですが、昨晩「一人の病院メッセージはちと辛い」なんて話をしておきながら、結果仲間にそうしてもらったのですから、さすがにメゲました。一人じゃないって良いなぁと、いろいろと感謝であります。
音声の編集をしていたのですが、夕方にWAVファイルの書き出し手順を間違えて、午後の作業を丸々ダメにしてしまいました。昨日のいくつかのミスと言い、今日のミスと言い、明らかに注意力不足、集中力不足です。
これはうつの症状のひとつですね、たぶん。ミスが増えているのは「ぼけてきた」わけではなく、注意力が散漫になって、必要な情報を見落とすので、判断が間違ってしまうのです。気持ちが沈むとか、何をやるのも面倒とか、そういう分かりやすい症状はまだ出てきていないのですが、いずれそうなる下り坂に入ったようです。
さすがに素面でうつ病をやっていると、予兆を捕まえられる(ときもある)ようになりました。
ここで、気を引き締めて、ザルのように粗くなった集中力の網目を詰め、緊張して物事に当たってミスを取り戻す・・なーんてことを考えると、下り坂どころか奈落の底に落ちていくことになります。注意力・集中力が落ちていて、能率も悪ければ、ミスも多いのが「今の自分の真正の能力」なのですから、背伸びをしないで身の丈に合わせたプランを組むしかありません。
緊張してがんばってみたところで、後でエネルギーが切れれば、周りから「がんばられるのがかえって迷惑」と言われるのがオチです。
そうは言っても納期は延びないのが困りもんですが。なんとかなりますよ、きっと。
2007年04月07日(土) 復活祭前夜 ステップ9の話ですが、できれば直接会って、借りていた金も全額揃えて返したい・・というこだわり(囚われ)があって、先へ先へと延びてしまっていました。なにしろアル中ですから、先延ばしにする口実には事欠きません。
だいたい酒をやめるのだって、明日から、来週から、来年になったらやめようと自分に言い聞かせながら飲み続けてきたのです。今飲んでいる酒を捨てて、今日離脱症状と向き合おうとは思いませんでした。
会えなければ手紙を書けば良いと、BBにも12&12にも書いてあるし、全額一度にってのは「ええかっこしい」にすぎないですね。
ミーティングに行く前に銀行に寄ってお金をおろし、ついでに最近パソコンの調子が悪いのでやむなく買った交換部品代を振り込んだら、またまた残高がトホホな状態になってしまいました。
本当は書留にしなくちゃいけないんでしょうが、仰々しくなるのを恐れて、普通の封筒に現金を入れて差し出してしまいました。いくらにしようか迷いましたが、最初に思い浮かんだ額にしました。いったんワープロで手紙を書いたのですが、少しでも努力をと思って手書きでしたためました。恋文でさえワープロで打って嫌われる僕のことですから、手書きで便せん四枚も書くのは、何十年ぶりです。
ともかく僕に今できることはこれだけで、相手がそれを受け取ってくれるか、受け取ってどんな気持ちになるか、今から心配するのはAAのプログラムの内ではないでしょう。
雨の土曜の市内は思いのほか混んでいて、仲間のバースディ・ミーティングに遅刻してしまいました。花束を買っていく約束だったのですが、あちこち寄ってみても開いている花屋はありません。まだ7時半なのに・・・。
教会の駐車場は、むちゃくちゃ混んでました。復活祭の前夜なんで信者の方がたくさん集まっていたようです。ヨソからスリッパを借りてきていたようですが、それでも足りなくなって、靴下のままで過ごしました。いつもはAAの部屋だけが明るい教会も、今夜はにぎやかです。
女性に「教会にミニスカートで来るなよ」と強い口調で言ってしまって、あとで直情径行を反省しました。まあ、男性から色目で見られるのも、自分は我慢しているのにって女性からひがまれるのも、決してプラスにはならんすよ。それに、信者の人にとっては神聖な場所なんだから・・ぶつぶつ、ちっとも反省ないですね。
なぜ今夜は右肩が痛いのか、ふと考えたらペンで手紙を書いたせいでした。明日は筋肉痛か。
2007年04月06日(金) 過程の楽しみ、結果の期待 動物実験の話です。
サルの静脈にチューブを刺し、サルがボタンを押すとコカインが注入されるようにしておきます。コカインの自己投与ににって気持ちよくなることを学習したサルは、人間の依存症と同じ状態になります。やがてサルは、1回のコカインを得るために、何千回もボタンを押す必要があっても、辛抱強くボタンを押し続けるようになります。
この話を聞くと、酒を手に入れるためなら何でもしてしまう、アル中さんの姿が浮かびます。
頃合いを見て、注入されるものをコカインから、ただの生理食塩水に変えます。サルは気持ちよくはなりません。でも、それでもサルはボタンを押すのだそうです。
断酒する代わりに、ノンアルコールのビールを飲むのはどうか?
という質問を受けることがあります。依存症になって断酒は仕方ないが、酒を飲むスタイルは失いたくないという心でしょうか。僕も試してみましたけど、だめでいたね。いずれ、ノンアルコールでないビールに変わるだけでしょう。
サルは注入されるのがコカインか、生理食塩水かは選べません。でも、人間はアルコールなしのビールと、アルコールありのビールを選べます。そこが違うでしょう。
一生懸命ボタンを押したのに、気持ちよくならない。一生懸命断酒生活をして、酒屋でノンアルコールビールを選んで買ってきたのに、気持ちよくならない。だとしたら、その結果を修正しようとするのが人間じゃないでしょうか。
酒なしでも、宴会に出るのが楽しいという人がいます。
それをずっと続けていける人がいますが、みんながそうなれるか疑わしいところです。
実はサルは何千回も無目的にボタンを押しているのではなく、10分の1押すと赤いLEDがひとつずつ点灯していく仕組みにしているんだそうです。LEDがだんだん点灯していって、やがて10個全部点灯すると・・・という過程も、サルの楽しみ(とらわれ?)になります。
酒なしの宴会を楽しむのは、過程を楽しむことです。過程を楽しむことができているならいいのでしょうが、それも点灯するLEDが増えていくのを楽しんでいるサルと同じだという可能性もあります。宴会を楽しんでいるのではなく、酔っぱらうまでの過程を楽しんでいるのかも知れません。
もしそうなら、楽しめていたはずの宴会が「どこか物足りなく」思えた時に、結果を自分で修正したくなっても不思議じゃありません。
飲まずに話をすることを、本当に楽しめるようになってから宴会に行っても、遅くないと思いますよ。
2007年04月05日(木) プロの書き手、アマの書き手 しばらく前でしたが、地方新聞の社説や、大手新聞の地方欄コラムで、他紙の記事の盗用が相次いで見つかったニュースがありました。
これらの書き手はプロですから、アマチュアの僕が分かったような事を言うのは僭越ですが、毎日欠かさず文章を書かねばならないプレッシャーは理解できます。
この雑記なんかは、毎日書いているようなふりをしながら、実は1/3は休んでいます。今日は疲れたから書くのがめんどくさいとか、忙しいとか、ネタが思いつかないとか、いろいろな理由で休んでしまっても、金を返せと言われるわけでも、上司から怒られるわけでもありません。
ただ、更新が遅ければ催促のメールが来たり、二日も休めば「嫌な予感がした」人から電話をもらったりします。そして何より、更新のないブログや日記から、人々は去っていきます。アクセスカウンターが回らなくなるのは、ちと淋しいです。だから、一応「今日も書かなくちゃ」というプレッシャーは僕にもあります。
ただ、ネタはどこかで聞いてきた話や、本で読んだ話を繰り回しているだけなので、あまり自分の頭では考えていません。仕入れたネタをすぐに書くと、いろいろと弊害も多いので、しばらく間をおいています。その間に、どんなネタも「ひいらぎ的思考」に染まってしまうのであります。
プロの人は、(情報ソースはあるにせよ)それなりに自分で考えたことを、定期的に提供しなければならないので、それは大変でしょう。だから、ついつい魔が差してもおかしくはありません。
新聞と言う単語で思い出したのですが、フランスの通信社AFPは、ニュース記事や写真をブログに引用可能にする サービス を始めました。
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20095811,00.htm
ソフトバンクグループ、ブログでの正規引用を認めたニュースサイトを開設
ニュース記事についてブログエントリを書いても、元記事が消えてしまうと、後から読んで意味がわからなくなってしまいがちです。そのために、ニュース記事をクリッピングしたりするわけですが、直接ブログ中に引用できるなら楽で良いかもしれません。
2007年04月03日(火) 部分の否定と全体の否定 AAでのサービス活動で得た経験として、ひとつ大切なものを挙げるとするならば、「僕の意見が否定されたとしても、僕自身が否定されたわけではない」という、至極当たり前の感覚です。
AAでは議論はしないと言いますが、議論しないのは霊的(スピリチュアル)な事柄に関してのことです。確かに霊的なことは議論してみても始まりません。一人一人、霊的体験は違っているのが当たり前で、どれが正しいとは言えない(言わない)のですから、議論は無用です。
でも、現実的な決めごとをする必要はありますから、議論は必要です。グループ(集団)として我々はこれからどっちへ向かうべきか、という話もしなければいけません。で、そういう議論をすると、どうも議論が熱く燃え上がりがちです。僕自身がそうですが、まあサービス活動に参加するAAメンバーはたいてい「自分の意見に必要以上に執着しがち」なんです。
やはりその背後には、自分の意見を否定されること=自分自身を否定されること、という思いこみがあるのではないでしょうか。たかだかAAの委員会の方針決定ぐらいの話で、自分の意見が通らなかったからって、自分の存在が否定されるわけがないのですが、心の奥底にはそう感じる部分があるようです。
逆に、相手の意見を否定することが、相手を否定することにつながるのじゃないか、それは相手を傷つけるのじゃないか、という恐れもあります。挙げ句に、自分を傷つけるか、相手を傷つけるか、二者択一みたいな思考パターンに陥ってしまい、ある一線を踏み越えたら、議論に「勝つか負けるか」しか考えなくなったりします。
別の防衛方法もあって、自分の考えに賛同できない人たちに対して「くだらねー、バカばっかり」と評価を下して自分を守ったりします。あるいは、あいまいに濁すことで自分を守ったりします。
「部分(意見)の否定は、全体(その人)を否定するわけではない」という原則を身につけていないと、仕事でちょっと怒られたり、やなことがあっただけで、まるで自分の能力全体にダメ出しをされたかのように、落ち込んでみたり、傷ついて見たりします。そして陰気に恨んで見せたりします。
結局それもセルフ・エスティームの問題であるのですが、言うだけ・聞くだけの普段のミーティングでは経験できないこともあるということで。
2007年04月02日(月) 幸運を誇るのはみっともない 精神病院退院後の断酒継続率は「2割」という定説があります。
この2割という数字はおそらく10年前のある調査からでてきたものでしょうが、実感と良く合っている気がします。退院半年後に、断酒継続率は5割を切り、1年過ぎてもまだそのグラフは下降を続け、2〜3年過ぎたあたりで2割弱で安定し、あとは漸減を続けます。
アメリカでは「3割」と言われていて、逆に言えば残りの7割のアル中さんは「飲みながら死んでいく」わけであります。
何が言いたいかというと、アルコール依存症とは飲んで死んでいく病気であります。現在の日本では、酒の消費量が増えて依存症者が増えていていることがひとつあり。また一方では、医療や行政の取り組みもあって、まだ軽症のうちから治療が始まるケースが増えています。
結果として、死ぬ寸前の重傷者の相対的に減って、依存症が死に至る病気だという姿が見えにくくなっている気がします。けれど、軽症化や死ぬ人の割合の低下は、時代のもたらした一時的な現象に過ぎず、やがて本来のバランス(?)に戻るだろうと、僕は思っています。
何となく嫌なのは、飲んでしまうアル中や、その挙げ句死んでしまう人を、「おなじ依存症でもダメな人たち」と見なす傾向があることです。軽症のうちは酒がやめやすく、重症になるとやめるのは簡単でなくなります。また「ひょんなことから酒が止まる」ことがあるように、断酒には運とかタイミングって要素もあります。
断酒は「優秀の証」ではなく「幸運の証」です。ネットの掲示板などで、自分の幸運を誇り、不運な人に冷たく当たっている人を見かけたりすると、ちょっとげんなりしますね。まあ、無駄にプライドが高いのは、アル中の証ですから仕方ないんですけど。
アメリカのAAメンバーで、20代でAAにつながって離れ、40代でも同じことをくり返し、60代になってしっかりAAにつながって酒が止まった人の話を読んだことがあります。「今の私は幸せだけど、20代の頃にAAを受け入れられていたら、その後の40年も幸せでいられたかと思うと残念ね」とありました。
特別な努力なく10年以上酒が止まった人にも複数お会いしたことがあります。10年も酒がやめられれば、一回の再飲酒はそれほど深刻じゃないと思われるかも知れません。しかし、また鍵のかかる病院の中に戻った人には、過去10年やめられた事実なんて、何の慰めにもならないようです。
AAの第5章には「最初から思い切って徹底してやるように、私たちは心からお願いしたい」とあります。軽症だから真剣にならなくて良いことにはなりません。もっとも、本人が思っているよりは病気が進行していて重症なのが、この病気の常識なんでしょうけど。
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