心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2007年02月28日(水) ネカマ

あんまり真面目な話ばかりだと肩が凝りますから、たまには軽い話を(いつも軽いか)。

ネカマとは、"ネ"ット上のお"カマ"の略です。「おかまって何ですか?」という質問は救済しようがないので、広辞苑でも引いてください。

ネットは進化したとはいえ、いまだに文字主体のコミュニケーション手段です。だから、相手の顔を見えないし、声も聞こえません。だから、男が女のふりをするのは簡単なことです。字面だけ女っぽくすれば良いだけですから。相手が女だと思って鼻息荒くチャットに熱中していても、実は通信回線の向こうにいるのは鼻毛を伸ばした脂っこいキモオタなのかもしれません。恐ろしいことです。

ネカマの存在は1980年代前半から指摘されていましたが、やはり数が増えたのはインターネット時代になってからでしょう。ネットで検索すれば、ネカマを楽しんでいる人がたくさん見つかります。
女のふりをして何が楽しいのか? ネカマ道を追求する人には、ほぼ共通の楽しみがあるようです。話を盛り上げて、相手の男がその気に(どんな気だ?)なった時に、おもむろに「実は俺男なんだ」とカミングアウト(?)し、男が狼狽する様子を見て楽しむ・・・。あるいはその様子をネットに公開する。そんなところでしょうか。まあともかく、彼らはネカマ道を極めるべく、日々研鑽にいそしんでいるのです。

お前はネカマに引っかかったことはあるのか、ですか?
もちろん、ありますとも( ̄^ ̄)えっへん。ネット歴二十数年ですから。
いや威張ることじゃないですね。まあ、初めて引っかかった時は、満員電車の中で痴漢されたのと同じぐらいショックでしたが。パソコン通信の時代のことです。

そういう僕も一度ネカマをやったことがあります。
いや、男をからかって遊ぼうと思った訳じゃありません。もちろん真面目な目的じゃありませんので、これも威張れた話じゃありませんが。

なんか話が長くなりそうです。

「もう眠くなりましたから、続きは明日の夜にしましょう」とシャーラザットは言うのでした。

(明日へ続く)


2007年02月27日(火) 一番古い記憶

思い出せる限り一番古い記憶は、3〜4歳ぐらいの頃のものです。実家の御上(おえ)と呼ばれる広い部屋で祖母と遊んでいる記憶です。それは直接の記憶ではなく、小学生の頃に「その場面を思い出した」ことを記憶しているだけです。

直接の記憶として残っているのは、4歳ぐらいで、実家の裏の道で遊んでいたことです。今はコンクリート舗装されたその道も、当時はまったく未舗装で人通りも少なく、草が茂っていました。自分の背と同じぐらいの高さの枯れススキの中で、誰かとかくれんぼをして遊んでいた記憶です。
でも、これも記憶を記憶しているのかもしれません。

AAでは過去のことを掘り起こす作業をするのですが、人生全体から見ればごく一部を取り出せるに過ぎません。残りの部分は平々凡々の日常が続いていたわけでもなく、思い出せた部分より意味が軽いわけでもありません。だとすれば、飛び飛びの記憶から紡ぎだした自分の人生のストーリーは、本来の中心線からずいぶんずれているものなんでしょう。

一度憶えたことを忘れることが本当に出来るかは知りませんが、想起されない記憶は不活発になっていきます。ようするに思い出せなくなるってことです。

子供の頃のことが茫洋として思い出せないように、飲んでいた頃の記憶もあいまいになってきました。AAミーティングでしゃべる体験も、過去に話したことばかりです。記憶を記憶しているわけです。だから、最初の1年・2年・3年の頃に、飲んでいた頃の自分を思い出す作業をしておかないと、後からその作業をしようと思っても、脳みそがそれを許してくれません。

病院メッセージで飲んでいた頃の話をするときは、なんだか中身が定型化してしまっている次第です。


2007年02月26日(月) Bluetooth熱

今回はエレキネタです(というか電波ネタか)。
昨年の1月に突如自分の中で Bluetooth 熱が高まりました。

自動車を運転中に携帯で通話するには、ハンズフリーキットを使うべしと法律で定められています。車載用のちゃんとしたキットは数万円するのですが、そんな投資をするほど運転中に電話したいわけじゃありません。そこで、携帯用の安いキットを買いました。イヤホンの途中にマイクが付いていて、シャツにクリップで留めるような商品です。
が、実際に使ってみると、イヤホンのケーブルがとても邪魔で邪魔で、我慢なりません。また、使うためには携帯電話のイヤホン端子にケーブルを刺さないといけません。が、車に乗るたびに、ケーブルの抜き差しをするのは面倒で面倒で、ますますイライラしてしまいます。

そこで、イヤホンマイクと携帯の間を無線でつなぐ・・という当然の解決方法を探す事にしました。世の中には Bluetooth という無線の規格と製品があります。まず最初は、Bluetooth のイヤホンマイクを買いました。そして携帯電話のイヤホン端子には、Bluetoothの無線アダプタを取り付けます。しかしそれでは「車に乗るたびにイヤホン端子に、何かを接続する手間はちっとも減らない」ことに、なぜ自分は気が付かなかったのか・・・。

携帯電話本体の中に Bluetooth 機能を備えた機種もあります。で、さっそく機種変更。イヤホンマイクの出来が気に入らなかったので、ちゃんとしたヘッドセットを購入。これがなかなか便利で、携帯本体がポケットやカバンの中に入りっぱなしでも、ヘッドセットさえ身につけていれば、発信も着信もできます。調子に乗って、パソコンで Skype 通話するときも、このヘッドセットが使えれば便利だろうとパソコン用アダプタを購入。さらに自宅の電話も Bluetooth 対応に・・・。すっかり泥沼で、何万円使ったか忘れました。
そんなふうに熱が入ったわりには、あまり無線ヘッドセットは使いませんでした。

だって、電話あんまりかかってこないんだもん。

機種変更した携帯電話は使いにくくてたまりませんでした。そして、待ちに待った13ヵ月。やっと機種変更できる時期がやってきました。もうデカくて重い端末はこりごりです。ワンセグも要らないし、ニュース配信も要りません。小説もマンガもケータイじゃ読まないし、音楽も聴きません。だいたい、一日の大半を、パソコンの前に座って過ごす人ですから。


2007年02月25日(日) ネットって本当に匿名なのか・・・。

僕はここでは「アル中のひいらぎ」としか名乗っていません。
(少なくともこのホームページ内では)実名や、住所や、電話番号は公開していません。だから、匿名で活動していると言われれば、それは否定できません。でも、匿名だから言いたい放題のことが言えるかといえば、そんなことはありません。

同じアドレスで4年余り活動し、駄文を書き、よそのサイトにも出入りし、それなりの人間関係も出来ています。オンライン(ネット上)の人間関係は、オフライン(リアル)の人間関係とは違うかもしれませんが、ネットにはネットなりの社会があって人間関係があるわけです。
友人知己は大切にしたいものです。

もちろん、それらをかなぐり捨てて、固定ハンドル名も使わず、匿名プロキシサーバーを通して、没個性の一人として発言することもできます。そういうのはあまり好きじゃありません。「ほらみろ、お前だって完全匿名社会は嫌じゃないか」と言われれば、そのとおりであります。

新聞記事は、わずかな例外を除けば、たいてい匿名記事で、誰が書いたのかわかりません。
どこそこで交通事故が起きたというような雑報にまで署名を入れて欲しいとは思いませんが、「好ましい」とか「好ましくない」という意見を挟んだ記事を書くなら、署名記事にしろと言いたいです。別に記者の実名を公開しろってんじゃなくて、ペン・ネームでいいから載せたらどうかと思います。そうすれば、新聞社と言う会社が記事を書いているんじゃなくて、記者という個人が書いていることが明確になりますから。
そうならないうちは、新聞こそ「匿名メディア」じゃないかと。

PJとかオーマイニュースという「市民記者によるネット新聞」が不振だそうです。
原因は、読者が期待したほど市民記者のレベルが高くなかったことに尽きます。レベルの低い(つまり思い込みの強い)記事に対して、「脳内妄想」などといった中傷が(匿名で)浴びせられて、市民記者のプライドが傷つき萎縮して撤退→さらにレベルが落ちるという悪循環でしょう。それでもがんばって書き続けて欲しかったと思うんですが。

ネット上で何らかの意見表明をすれば、好意的な反応がもらえてうれしいこともあります。けれど、反対意見の人からの反応も、ダイレクトかつ即座に、おまけに長期的にやってくるものです。そこが紙のメディアと違うところです。

ネットを使えば作品を配布するハードルは低くなりますが、その作品に批判的な意見の配布も同じように簡単です。情報発信者だけを特別に守ってはくれない、公平だということなんですけどね。


2007年02月24日(土) 「強制的に」と「好きなだけ」

ちくま新書で廣中直行という人の本を読んでいます。
その本の話は、別の機会にするとして。

ある薬が人体にどんな影響を及ぼすか、という実験をする時に、薬を人間に飲ませた後で、脳を切り刻んで確かめるというやり方はできません。仕方ないので、動物を使って実験します。
ところが、動物は薬を飲みたがりませんから、実験のためには、餌に薬を混ぜるとか、注射をするとかして投薬をします。この投薬は「強制的に外部から管理」されています。動物実験は、ずっとそのやり方でした。

アルコール・モルヒネ・アンフェタミン(覚醒剤)・ニコチン・カフェイン。こうした薬物依存の研究をするにも、動物実験をします。人間のアル中患者と同じにするには、動物が自分で薬物を摂るようにしないといけません。でも動物は酒を飲みたがりません。そこで静脈や胃袋にチューブをつなぎ、ボタンを押すと少量のアルコールなどが注がれるように仕組みます。そのボタンは、動物が好きなだけ押せるようにしておきます。
すると、「自分で好きなだけ」薬物を摂取して、依存症になります。

最近になって、前者のように強制的に薬物を与えた場合と、自分から求めて摂取した場合と、脳の中で起きる変化が違うとされるようになりました。

薬物を管理しながら与えると、依存症になりにくい、というのは、昔から経験的に知られたことです。毎日一合の晩酌を続ける人は、酒狂いにはなりにくいわけです。
自分で量を増やしたり減らしたりするのが、依存症への近道であるようです。

精神安定剤には、ある程度の依存性があります。朝昼晩毎食後に安定剤を飲む必要が
ある人もいますが、きちんと服用してれば処方薬依存にはなりにくいものです。もちろん、量を減らしたり、やめたりする時には、リバウンド(離脱)があるのは仕方ないことです。
危ないのは、効かないからと自分で量を増やし、調子が良いからと自分で量を減らすことです。上の動物実験の例で言えば、前者(管理下)から後者(欲しいだけ)に、いつのまにか変わっているわけです。

睡眠薬を切りたい人で、「昨日は眠かったので飲まなかった」と言う人がいます。そういうやり方が依存症者には危険だということは、なかなか理解してもらえません。「自分で量をコントロールできるから大丈夫です」と言われてしまいがちです。
自分でコントロールすること自体が危険だし、コントロールできていると思っていても、いつのまにか、そうでなくなっているものです。

お酒の時だって、自分は(飲む量が、時間が、場所が)コントロールできていると、自分に言い聞かせ続けた何年間があったはずなんですが。


2007年02月23日(金) パパと踊ったワルツ

上の子(長女)は、かなり「人の言うことを気にするタイプ」です。家族の誰かが、なにかでプリプリ怒っていると、長女も不安定です。また、がんばりすぎて疲れてしまうタイプでもあります。
下の子(次女)は、どちらかといえばマイペースです。手抜きをしすぎて、後で叱られるタイプと言いましょうか。もちろん子供ですから、親の感情に左右されますが、基本的に「なんと言われても、私には私の都合があるのよ」というオーラを発散させているように見えてしまいます。

たまに大きな夫婦げんかをして「離婚する」とか騒いでいると、本気で心配しているのは長女のほうです。父親か母親かどちらかが、子供を捨てて去っていってしまう可能性を本気で心配しているようです。対する次女のほうは、「そんなワケないじゃん」と落ち着いています。

買い物に外出すると、ついて行きたがるのは長女のほうです。単に外出好きなのかと思っていたのですが、「見捨てられ不安」が強いのかも知れません。お父さん、どっか行っちゃって帰ってこないかも知れないし。次女のほうは、一人で残ってゲームやマンガを楽しんでいる方が好きです。
学級が荒れていたとはいえ、不登校をやったのも長女のほうだし。

というわけで、上の子のほうが生きづらそう、という話を人にしたことがありました。その返答は・・・

「上のお子さんは、ひいらぎさんがお酒をやめてまだ1年2年のころに、赤ちゃんをやっているわけでしょう。それだけ回復していないお父さんの影響を、もろに受けたってことじゃないでしょうか」

子供は二人とも、父親が酒を飲んでいるところを見ていない・・ってのが、心の拠り所になっていたわけですが、それがガラガラと音を立てて崩れていった瞬間でした。
僕が飲んでいなくても、「飲んでいないだけ」の父親であったのは、明らかでした。長女と次女は2才違い。2年の違いが、ちょっとした回復を僕に与え、それが長女と次女の違いとして現れたってことでしょうか。
それとも、単に影響を受けた時間が2年少ないだけでしょうか。

子供は親の影響を受ける。飲んでいないだけのアル中じゃだめだ。ってことは分かるんですけど、でもそれってアル中本人には結構厳しい現実ですよね。


2007年02月22日(木) 選択肢の時代

選択肢が増えている時代だと思います。

たとえば仕事にしても、ありとあらゆる職業から、好きなものを選べばよいと言われる時代になりました。僕らの親の世代には、それほど職業選択の自由があったわけじゃありません。

商品も沢山のなかから自由に選ぶことができる時代になりました。
たとえば家電製品だと、子供の頃には、(ナショナルとか東芝とかの)街の電器屋さんの店頭で見て選ぶか、せいぜいカタログで選ぶぐらいのものでした。僕は中学生の頃、短波ラジオを聴くのにこった時期があり、KHzまでディジタル表示される受信機が欲しかったのですが、親から与えられたのは、兄のお下がりの短波ラジオだけでした。まあ、そもそも選ぶ自由すら無かったというか。

今は、仕事でも商品でも、飛躍的に選択肢が広がっています。
ただ、問題は、その中から何を選んで良いか分からないことです。

ちょっと前までは、選ぶために必要な情報をたくさん与えれば、人は自分で選ぶことができると考えられていました。いままでテレビや新聞や雑誌という「フィルター」を介してしか得られなかった情報が、インターネットによって情報提供者から直接得ることが可能になりました。はたまた、CGMと称して、口コミ情報を集める手法も流行りました。

それが幸せにつながったのかどうか。幸せどころが、みんな選ぶことに疲れているような気がします。よりよいものを選ばなければならないプレッシャーにつぶされているように思えます。

どんなに良いものを選んでも、必ず失敗の要素は含まれています。人生から後悔を取り除くこともできません。

高校時代とか大学時代とか、男女がクラスという狭い枠の中に閉じこめれられている時には、交際相手をクラスメートの中から選べた人が、いざ就職して世間に出ると、膨大な選択肢を前に、結婚相手を選ぶことができなくなる・・なんて話もあったりして。

一度しかない人生なんだから、失敗したって良いじゃないか、と思うんですが。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加