心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年01月25日(木) サービスについて(その2)

「心の家路」は丁寧体(敬体)で書くことにしています。つまり「です・ます」調です。他では普通体(常体)=「だ・である」調で書くこともあるので、たまに混じっていることがあります。
丁寧体で書いていて困るのは、単に「だ・である」を「です・ます」に置き換えればいいとは限らないことです。普通体であれば「これは美味しい」と、形容詞で終わるのは不自然じゃありませんが、「これは美味しいです」と形容詞+ですにしてしまうと、なんだか据わりが悪いです。美味しいですね」とか書き換えたり、「美味しく食べられます」と動詞をひねり出したりする必要があります。
しかし、ついつい面倒なので、気がついてもそのままにしている場合も多いです(←ほらね)。なので「正しいです」とかいう表現が出てきても、それこそスルー力を発揮すべき時でありますぞ。

今日は、いつもホームグループのミーティングに来てくれる、山梨の仲間のバースディミーティングへ。はたしてその仲間が女性でなかったら、その距離を走破していっただろうか・・・と自分に問いかけたりして。

さて本題。具体的にそう言う事例を見た、という話ではないので念のため。

神さまを信じて、神さまに任せる、ということに慣れている人は少ないです。だから、AAに来て最初は「とりあえず、仲間を信じ、仲間に任せなさい」と言われることになります。

ところが、仲間に任せることは、意識的に努めないと、なかなか難しいものです。

例えばグループの役割で「会場係」というのがあります。毎回そのAA会場にやってきて、会場を開け、ミーティングの準備をする役割です。こうした役割は、メンバーが順番に担当します(輪番制)。
始めてその役割を任せられた人は、当然不慣れです。

ところで、会場係に、その日のミーティングの司会を指名する権限を与えているグループも多いと思います。指名せずに、自分で司会してもいいわけですけどね。
司会というのは慣れないと緊張するものであり、慣れても細かな失敗から逃れられない役割です。そう言う役割を、不慣れな人が、ぎこちないながらも一生懸命務めているところを見かける時もあります。
流ちょうではない司会を、ほかの皆は黙って受け入れているものです。

ところが、その「お任せ」も、いったん何か起きると吹き飛んでしまうことがあります。たとえば、誰かのバースディ・ミーティングです。
バースディだからと、遠くからわざわざやって来る人もいます。せっかく記念のミーティングだから、そういう人に司会をしてもらおうと考える人もいます。慣れた人がスムーズに進行させ、ついでに普段聞かない「良い話」でもしてもらえれば皆のためになる、と、まあアイデアは悪くないのです。

しかし、そういう話が勝手に決まってしまうのは、大変よろしくありません。
会場係の人に、「今日の司会は○○さんに頼んだから」と結論だけが伝えられたりします。当の会場係さんは、初めてのバースディ・ミーティングの司会に、前の日からちょっと緊張して、ああしよう・こうしようと考えてきたのかも知れません。
そこで「いや、今夜も私が司会をやります」と、あらがえる人がどれだけいますか?

責任を委ねたのだから、権限も委ねるのが当然です(概念10)。
ベストなのは、バースディだからと変えずに、いつもと同じように進行することだと思います。
それでも誰かにお願いしたいなら、「今日の司会は○○さんに、頼んでみたらどうかな? もちろん、そうするかどうかは、あなたの決めることだけど」というふうに、提案するほかないでしょう。それでも十分押しつけがましいと思いますが。

グループみんなのために、またバースディを迎えた人の思い出のためにも、スムーズな進行がふさわしい、という考え方には、もっともらしさがあります。でも、結局それは個人の回復を、グループの成長より優先させる間違いを犯しているだけです(伝統1)。

「責任をかぶせられているのに、決定権は持っていない」。それを思い知らされた人間は、やる気をなくします。それでサービスに喜びを見いだせと言っても無理でしょう。
慣れない人は失敗をするかも知れません。でもそれを責めずに、失敗を皆で分かち合う。そうすることで、任せられた人のサービス(12番目のステップ)への責任感が育っていくものだと思います。

あいつはやる気がないと責める前に、その人に責任と同じ量の権限を与えて、ちゃんと「お任せ」できていたかどうか、余計な口出しをしていなかったか、であります。
人を思い通りに操ろうとすれば、常に失敗します。


2007年01月24日(水) やっぱりアル中なんかと・・・

「例え飲まなくなっていたとしても、やっぱりアル中なんかと結婚するんじゃなかった」

結婚しているアルコホーリクであれば、少なくとも一回は配偶者にこう言われたことがあるんじゃないかと思います。僕は何度も言われています。数えられないぐらい。
一度も言われていない場合は、(そんなことを言ったらまた飲みそうだから)とぐっとこらえて心の中にしまってある、と思ったほうがいいでしょう。

絶対そんなことを言われたくないから、ノン・アルコホーリクの相手を探すのはやめて、AAの中で相手を探す、と言っていた人もいました。それが何の解決になるのかわかりません。同じアル中であれば、自分のことを理解してくれると思うのかもしれません。でも、アル中同士で結婚しても、相手が「やっぱりアル中なんかと結婚するんじゃなかった」と思うのはとめられないし、さらに自分も「やっぱりアル中なんかと結婚するんじゃなかった」と思ってしまう特典まで付いてきます。
だから、自分のプライドを傷つけないために、「理解してくれる人」を探すのは無意味なことだと思います。

病気丸出しで「俺の言うことを聞け」と怒っていても「ああやっぱり・・・」と思われます。AAのミーティングに真面目に通っていれば、今度は「普通の人はそんな必要もないのに」と責められる始末。
どうやら「やっぱりアル中なんかと」から逃れる手段はなさそうです。

まあ、「やっぱりアル中なんかと」と言ってくれるのは、ある意味信頼の証なのかもしれません。また、その言葉を心の中にしまっておいてくれるなら、それは優しさ(思いやり)でありましょう。

過敏に反応して「うるせえ、俺のことを馬鹿にするな」と夫婦喧嘩を始めるのも自由ですが、相手の気持ちを悪意に解釈したがるのもアル中の傾向ですから、そのセルフチェックも必要かと思います。


2007年01月22日(月) サービスについて(その1)

100円ショップに寄ろうとして、混雑を避けながら脇道に入るうちに、今夜のAAミーティング会場の前に出てしまいました。でも、今日は他のプログラムなので帰宅。

さて、AAの仲間とは何を説明するのに、こんな言葉があります。

「私たちは、私たちを必要とする人を、必要とする」

アルコール依存症からの回復という分野で、自分が必要とし、また自分を必要としてくれる人。それが仲間です。

AAプログラムに取り組むのに、仲間は欠かせません。
そりゃ、ステップ1〜12の中で、仲間の必要が出ているのはステップ5だけです。そのステップ5の相手も何もAAメンバーに限らず、聖職者だって良いのです。僕の住んでいる市内にも20ぐらいのキリスト教会があって、それぞれに聖職者の人がいます。告解(この読みは「こくかい」でいいんですか?)という儀礼を持っているなら、他の宗教でもいっこうに構わないでしょう。
でも、病院のケースワーカーとか、会社の上司にしてしまうのは、どうかと思いますが。ま、それは笑い話。

ともかく、ステップの文言には「仲間の必要性」はあまり出てこないのですが、一人で本を読んで、一人で取り組んでも、なかなか回復しないものです。

僕も例外ではないのですが、飲まないアル中さんは、基本的に「自分の力で酒をやめている」と感じています。どのAAメンバーもそうであります。そしてたまに仲間に感謝するだけです。
だから、たとえ誰かのソブラエティの助けができても、その人が「おかげで助かりました。ありがとう」とは、滅多なことでは言いいません。だから、仲間の手助けは感謝されることを目的にするのじゃありません。
(僕はAAスポンサーに、ありがとうと、ちゃんと言えたのは2回だけです)。

同じプログラムを一緒にやって、仲間が飲まないでいれば、自分も飲まないでいられる。それがAAのプログラムです。
仲間と一緒にやるのが嫌な人は、どうぞ自分一人でやってください、とAAは言います。神とかが出てくる取っつきにくいプログラムをやるのが嫌なら、どうぞヨソへ行って、別のことを試してみなさい、とも言います。

このプログラムを渡すことで、アル中さんを助けるのがAAで、それによって最も助かっているのは自分です。相手が受け取ってくれるかどうかは、重要ではありません。まだその段階でない人もいます。一生受け取りを拒否して終わる人もいます。他でうまく行っている人もいます。それで構わないのです。
大事なことは、中には受け取ってくれる人もいる、ってことです。

でも、一対一での伝達には限界があります。結局、この「伝える」作業を、集団でやる必要が出てきます。集団でやっても、それが12ステップであることに変わりはありません。そしてこの「仲間と一緒に伝える作業をする」のが「サービス活動」と呼ばれるものです。
「孤独を愛するアルコホーリク」という言葉の裏にあるのは、アル中は人と一緒にやるのが苦手だという真実です。人間を相手にするのが苦手なアル中が、集まって活動する。そこにはいろいろなことが起ります。

書ける時には、サービス活動について書いていきたいと思います。


2007年01月21日(日) 空論

AAのメンバーになるために必要なことはただひとつです。
「飲酒をやめたいという願い」desire to stop drinking
です。

ひとつ質問があります。イエスかノーで答えてください。
あなたは飲酒をやめたいですか?

その人がイエスと答え、その人が望んでいるなら、その人がAAメンバーであることを否定できる人は誰もいません。
アルコール依存症であるかどうかは、問われていません。医者からアルコール依存症という診断をもらうことが求められてもいません。自分がアルコホーリクだと認める必要もありません。
もし、そんなことが求められていたら、僕は(そして今AAにいる多くのメンバーも)、最初のミーティングから追い返されていたでしょう。

この人は「アル中ではない」としか思えなくても、だから出て行ってくれとは言えません。AAは「診断も予後予測もしない」わけですから、人がアル中かどうかAAが決めることはないのです。

明らかにアル中の家族であるとか、他の依存症であるとか、依存症を持たないACであったとしても、その人が「私は飲酒をやめたい」と言うのなら、クローズド・ミーティングからでも追い出されてはならないし、発言の機会を奪われる理由にもなりません。

伝統3には、あるいは長文の伝統3にも、AAメンバーの資格はアルコホーリクであること、とは書かれていません。

変な結論ですか? わざわざおかしな結論に導いたのです。

教条主義とは、書かれている字句を絶対視し、現実を見ずに機械的に適用しようとする態度です。
そうではなく、一字一句に囚われず、本質を見抜いていかなければならないのですが、それには自分の頭を使って考えねばなりません。教条主義は、考えなくてもいいので、楽なのであります。目の前で人が苦しんでいても、教条を持ち出せば、何もしない自分に罪悪感を感じなくてすみます。

クローズド・ミーティングに、他の依存症の人がいるのを問題にする人がいます。第一の目的とか、目的の単一性とかを理解していて、「原則はこうだ」と言っている人はいいのですが、単に自分の正義を実現するために、伝統の文章を持ち出してくる人は困ったものであります。
そういう無思考の態度は伝染しますからね。愛ではなく、冷淡な態度を広めているだけであります。
教条を振りかざす人に対しては、「こう考えれば逆の結論だって出るよ」とからかってやりたくなります。それが上の文章です。

原則(AAの伝統)と現実のギャップに悩み、自分の頭で考える。それで出た結論なら、僕と違った意見でも、尊重したいものです。


2007年01月19日(金) 新しくグループを始めるには

新しくAAグループを始めるために、必要なものは何か?
そりゃ、借りられるミーティング会場だとか、コーヒーカップだとかも必要ですが、そういう物質的なものは、いつだって何とか都合がつくものです。

「自分一人では始められないから、もう一人のAAメンバー」
という理屈も分かりますが、たぶん正解ではないと思います。

僕が思うに、必要なのは
「自分一人になっても、最後までやり抜く決意」
です。
自分一人でもやるのだと決めておけば、たまたまグループにつながった仲間が、グループの仕事を分担してくれなくても、不満に思わないでしょう。(そのことを悩まないとは言いません)。
確かに一人ではミーティングはできませんから、他の人は必要です。けれど、最後は私が責任を持つ、ケツは俺が拭いてやる、と考える人が、最低一人いないと、グループは継続していきません。

何人かのメンバーで責任を分担するとしても、どうしても偏りが起ります。偏りに不満を持つのは当然で、自己主張もなければなりませんが、負担の軽い仲間を恨んでしまったりするのは「自分一人でも」の覚悟がない証拠です。

一緒にやってくれる人が現れたらグループを始めたい、と言っているAAメンバーは多いです。でも、そう言っている間は、その人は永遠にグループを作りません。
偶然誰かが現れて、グループが成立したとしても、相方がグループを抜ける確率、AAをやめてしまう確率は、他のメンバーと変わりません。つまり、自分一人取り残される確率は高いのです。それまでに自分が成長できていなければ、グループを解散せざるを得なくなるでしょう。

グループが順調なら、成長して責任を負う人間が増えてきます。ところが「自分一人でも」の考えで、一人で責任を負い、自分が最終決定者だった時期を持つ人間は、そこで謙虚になることが難しいのです。何らかの形でグループを支配し、その成長を止めてしまいます。
特に、自分は上手にやってきたという自信を持っていると、他の人の失敗を黙って見ているのが難しいものです。そこでついつい口を出し、手を出し、その人のやる気と成長をくじいてしまいます。やがてグループが衰退して、ふたたび自分だけが責任を負ったりします。グループとの共依存関係と申しましょうか。

「そのときは、自分がグループを出て行くしかない」と、とある新潟の仲間が教えてくれました。支配癖をなくすことは難しいけれど、出て行くことは簡単だと。
そして、まだ気力があるなら、新しい場所で新しいグループを作ればいいのだと。元のグループへは、伝統4に従って、干渉せずに暖かく見守るのであります。

「そんなやり方では、新しい仲間がつながらない。命がかかっているのだから」
と人のやり方に口出しをしたくなった時には、そっと自分が去る時であります。


2007年01月16日(火) 著作権は誰のために?

著作権は何のためにあるのでしょうか。
何かものを書いた人の、権利や収入を守るため、だと僕は思ってきました。
それは勘違いで、実は「著作物を使った産業を振興するため」です。

著作物(小説、マンガ、歌、絵画、映画、コンピュータープログラム・・・)を作った人がいて、それを複製(印刷、コピー)する人がいて、あとは普通の商品と同じように流通ルートがあって、販売店があって、宣伝をする人がいて。
沢山の人が、それで収入を得て、ご飯を食べていくことができます。それが、著作権法の目的です。

小説を一本書くのは大変な手間でしょうが、印刷するのは(一冊あたりは)短時間ですみます。だから書く手間を省いて、売れ筋の小説の複製を作って売れるのならば、楽な商売になるでしょう。そういう輩が増えると、手間をかけて小説を書いても、収入に結びつかなくなってしまいそうです。
結果として、作家になる人は減り、作品の数も減り、出版点数も減って、産業全体がしぼんでしまいます。

それは良くないので、苦労して著作物を作った人にお金が入るように、著作権という権利を与えて守ってあげるわけです。でも、その権利は手段であって、目的ではありません。そのことを理解していないと、「翻訳権の10年留保」を理解するのが難しくなります。

さて、英語の本を日本語に翻訳して売るには、英文を書いた著者から「翻訳権」を譲り受けないといけません。それにはお金がかかります。それが著作者の権利というものです。

さて、外国の本を日本語に翻訳して売るには、まず翻訳家という職業の人が育つ必要があります。翻訳本を出す出版者だとか、外国の本を違和感なく受け入れる市場とかも必要です。
それらが育つまでは、外国の本を出版しても売れずに、赤字になるばかりでしょう。
そうなると、外国の作者が、日本語で本を売ることができません。それは、外国の著作者にとっては損失ですし、日本の出版産業にとっても損失です。

だから昔は、「外国で本が出版されてから、10年経っても日本語に翻訳出版されていなければ、翻訳権は消滅し、誰でも好きに翻訳して出版して構わない」ってことになっていました。これが翻訳権の10年留保です。
翻訳権がないから、著者の許可を取る必要も、お金を払う必要もなく、出版のハードルが低くなる→出る本が増える→翻訳出版産業が発展する→やがては外国の作者の利益にもなる、というわけです。

この規定は、1970年に「もう日本も文化的後進国ではないだろう」ということで、廃止されました。しかし、それ以前に消滅した権利が復活することはありません。

というわけで、1970年の末までに外国で出版され、その10年後までに日本で翻訳出版されていない本は、誰が翻訳出版しても自由であります。

AAのビッグブックの初版本(1935年)もそうですし、ヘイゼルデンの『リトル・レッド・ブック』(1957年)も、『スツールと酒ビン』(1970年)も、当てはまります。

それは、日本の誰かが、アメリカの原著作者と翻訳の独占契約を結んでいても関係ありません。法律で守られるべき翻訳権がもう存在しないのですから。

だから、例のコピー製本の赤い本も、緑の本も、違法な出版物というわけじゃないでしょう。もちろん、訳文の権利は日本国内で発生したものですから、ピーター神父の死後50年間は守られるわけですが、その許可はもらっているんでしょう(たぶん)。


2007年01月15日(月) ユートピア

努力が必ず報われる世界があれば、それこそまさにユートピア(理想世界)でしょう。
望みを叶えるためには、努力しさえすればいいわけですから。

でも、残念なことに、この世界では、努力は必ずしも報われるとは限りません。努力と結果は正比例しないのです。それは、子供の頃からの経験で、身に染みて分かっているはずですが、でも心のどこかで理想社会を求めているのです。

例えば、「俺がこんなに愛しているんだから、お前も同じぐらい俺を愛するべきだ」という主張もそうですね。俺がこんなに一生懸命愛して=努力しているんだから、それは(お前の愛で)報われて当然だろうというわけです。それを「夫婦なんだから」という理屈で補強してみたりします。
確かに愛してはいるのでしょう。でも、DV夫の心の中にだって、同じ種類の愛情はあるんですね、たぶん。

相手も、愛はあるでしょう。でも、相手も人間ですから、望まれるままに行動するのは無理です。相手には相手の愛し方ってのもあるし。

でも、そのことが「努力が必ず報われる理想」を求めちゃう人には、わからんのです。挙げ句に、お前は俺を愛していないとか、お前の愛は真実じゃないとか言い出したりして。

そう言う人はたいてい「俺はだめな人間だ。皆に迷惑をかけて申し訳ない」とも言い出します。それはある意味真実なのですが、本人はそうやって自分を卑下することで満足してしまうのか、あまり改善の努力はしないですね。

愛というと人間関係を限定しすぎですから、誠意と言い換えてもいいでしょう。
「あの人は立派な人間だと思っていた。私も誠意を持ってつきあってきた。けれど、幻滅した。あんな人だとは思わなかった」
そうは言っても、誠意ある人間でも、望まれるままに動くことはできませんから。

つまるところ、相手をコントロールしたい。世界に自分の力を及ぼしたい。膨らんだ自我というやつです。その手段として、誠意とか愛とか努力とかを使っているだけ。

理想は純愛物語の中だけにしておいて、現実の中で理想がちらりとかいま見られるだけで、良しとしようじゃないですか。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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