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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年07月08日(土) 最善は善の敵になる 仕事の合間にIT関係のコラムを読んでサボっていることは良くあります。
次の記事、次の記事と読み進めていくうちに、「今日の必読記事」とかのビジネスコラムにまで突入しちゃうこともあります。
そんな中に「最善は善の敵となる」(だったかな)という言葉に出会いました。家に帰ったらそれで雑記でも書くかと思ったものの、URLをメモっておくのを忘れ、どこの記事だか分からなくなってしまいました。
Operaのキャッシュなどを漁ってみたものの、結局見つかりはしませんでした。
Googleで「最善+善」で捜しても、なかなかお目当てのものが見つかるわけでもありません。なんか検索のアイデアが出るたびに捜していて、ようやくみつけたのが、18世紀フランスの思想家ボルテールです。シェークスピアの時代の人で、フランス王政を批判したがために弾圧され続けた人であります。思想史をやっている人には常識なのかもしれませんが、僕は初めて聞く名前でありました。
Voltaire の言葉に "Le mieux est l'ennemi du bien." というのがあり、僕はボンジュールとメルシーしか分からない人なので、英訳をみますと The best is the enemy of the good. (最善は善の敵となる), The perfect is the enemy of the good. (完璧は良好の敵である)となっています。
Voltaire が何を言いたかったのかは知りませんが、「最善を目指すあまりに一歩も譲歩しないでいると、結局何事も成し遂げられないで終わる」というのは、常識的に理解しやすいことであります。個人的には「進歩は譲歩によって成し遂げられる」と解釈しています。
とうぜんこの文章は『12のステップと12の伝統』の伝統2のところにある、ただの善は時に最善の敵になる、という文句を念頭に置いています。だいたいAAの伝統というのは、「世の中の常識に反して、我々が守ったほうがいいこと」のリストじゃないかと思うのです。Voltaire の警句に反することを選んでいかなければならないということでしょうか。
だいたいこの病気は常識に反するところがあって、アル中さんが「以前のようなひどい飲み方ではなく、最近はおとなしく飲んでいます」という時、良い方に向かっているという解釈はできないのであります。
で、12の概念になるとビルは違うことも書いていて、サービスに携わる人間は、積極的に妥協(譲歩)できる資質が必要だとあります。ほとんどの良い進歩は妥協から生まれるとも。自らの理想を追い求めるあまり、一切の例外を許さないという態度は、結局何事も生み出さないでありましょう。
このように私たちは、常識から反常識へ、反常識から常識へと遷移するのであります。
2006年07月07日(金) こねこねこのこ 我が家のトイレの掃除をするようになって3ヶ月が過ぎました。
春頃我が家のトイレは「これはちょっとどうかな」と思うぐらい大変なことになっていました。ところが妻にいくら言っても掃除してくれません。僕も汚れがひどい時は、軽く掃除をしたりするのですが、家のトイレの掃除は妻の仕事という考えがあるので、本格的な掃除には手を出さずにいました。
でも、娘たちが汚れたトイレに慣れてしまうのも具合が悪いような気がして、手を出したわけです。
家のトイレは自分の仕事だとは思っていませんが、職場では定期的にトイレ掃除の順番が回ってきます。定期的に掃除されているトイレは、それほど汚くはなりません。誰が買ってきているのか知りませんが、洗剤は「トイレのルック」、ぞうきんの代わりに「トイレクイックル」が用意されています。なぜかどちらも花王の製品だったりします。
仕事帰りに夜食を買って帰るついでに、このふたつを買って帰りました。我が家のトイレだって掃除をすれば、いい匂いがするではないか、と思いました。そして、妻が「ありがとう、これからは私がちゃんとするわ」と言ってくれると想像したのであります。
が、妻は感謝の言葉の後に、当然のように「これからもよろしくね」と、トイレ掃除の責任と実権が僕の手に渡ったことを高らかに宣言したのでありました。
僕の心の中には「こだわり」があります。行動しながら、結果を自分で拘束しています。AAミーティングでも、何か話をしながら、みんなの反応がこうあるべきだと勝手に決めています。仕事でなにか成し遂げれば、すぐに給料に反映されるべきだと思ってしまいます。トイレを掃除すれば、妻が改心(?)すると期待しているわけです。
そして、結果が思い通りにならなくて、やる気を失っているのが自分の姿です。
「おまかせ」と言いながら結果を自分で拘束して、思い通りにならないと苦しんでいる。まるでスポンシーが言うことを聞かないと嘆いているAAスポンサーのようです。
結果をコントロールしたいという願望が、自分を酒に追いやったもののひとつであることは、すっかり忘れてしまっているわけです。
クイックルは使えば無くなってしまいます。掃除一回あたり数十円は消費しているでしょうか。妻はそれはもったいないと言うのですが、僕は「トイレの床をぞうきんで掃除して、そのぞうきんをまた洗っておけってんなら、俺は掃除自体をやんねーぞ」と言うのであります。これも「こだわり」でしょうか。
一回か二回掃除をしただけで満足するほどキレイにはなりません(タイルの目地とか)。でも続けてきたので、少しずつマシになってきました。いつの間にか、風呂や流しの掃除までやっている自分がいます。でもゴミ出しはこの1年一回も行っていませんし、空のペットボトルは流しの下に放り出しておくだけです。
やりたいことを、やりたいようにしかできない。自分がそうだし、自分以外の人もたぶんそうなんですかね。
妻が猫を飼いたいという話をしていて、ついに大家(妻の父母)の説得に成功したようです。「部屋がこんなに散らかっていたんじゃ、猫の歩くところがないし」という条件が出たので、さきほどからどたばた片づけをしている音が聞こえてきます。
2006年07月06日(木) プロアナにアンチ・フェミニズムを感じる プロアナ(pro anorexia)に関する話が出ていたので、ちょっとだけ見回ってみました。
プロアナを簡単に説明すると、拒食症を病気としてとらえず、痩せるライフスタイルを選択しているんだと解釈して、積極的に支持していこうというコンセプトです。最大の利点は、拒食症の人の自己肯定感(self-esteem)を向上させることにあるんだとか。
アルコール依存の経験しかないので、他の依存症も同じかどうか断言はできませんけれど、たぶん同じだと思うのですが、この病気には「罪悪感」がつきまとうのであります。
アディクションにはまりながら、こんなことを続けていては自分の将来がダメになってしまうし、人にも迷惑をかける、だからやめなくてはと思うものの、思うだけでやめられるのだったら依存症ではないわけです。思ってもやめられない、やめてもまた戻ってしまう。そんなことを繰り返しているうちに、自分は意志の弱いダメ人間だとしか思えなくなってしまいます。
そうやって自己肯定感を失っていくと、自尊心を失っていきます。言い換えると「投げやり」になります。人に迷惑をかけても良心の呵責を感じられなくなる一方で、自分を否定する気持ちばかりに始終支配され続けることになります。
それが苦しいから、自己肯定感だけ補充してやるなんてことが、はたしてできるのか大いに疑問であります。仮にできたとしても、そんなものは対症療法にすぎないでしょう。歯が痛いから鎮痛剤を飲んでごまかしているのと変わらないのです。効果が切れれば前よりもっと痛くなるのは必定です。
苦しいアディクトは心の中では救いを求めています。self-help group がそこにつけ込むところがカルト的だってのなら、プロアナだって同じようにカルト的であります。「ほうら、私ってこんなに痩せてモデルみたいにキレイでしょ」という写真が掲げてあるページを見ると、単なるアンチ・フェミニズムなんじゃないのという気がしてなりません。
「酒をいくら飲んでもいいじゃないですか。好きなんだから。飲むのも自己実現ですよ。飲まなくなったらあなたじゃなくなっちゃいますよ」
もちろん、相手の言って欲しい言葉を言ってあげることが優しさではありません。
え? 酒と過食拒食はちがうって? じゃそういうことにしときますか。
2006年07月05日(水) ブログに思う どこのとは言いませんが、とあるブログを久しぶりに覗きに行ったら・・・ちょっとびっくりしました。
無くなっていたとか、更新が止まっていても、そんなに驚きはしなかったでしょう。
そこには amazon.co.jp へのリンクが張られ、リンク先の紹介文を読むと、どうやらブログの内容が本になったようでした。そしてブログの以前の記事はごっそり削除されていました。
「まだ、読んでなかったのにぃ!」
そりゃ本の内容は、ブログの中身に手を入れたものであって、基本的には同じものでしょう。本は有料で提供し、ブログは無料で見せていたら、そりゃみんなブログを読むでしょうね。
削除したのが作者ご本人の考えなのか、それとも出版社の指示なのかは分かりませんが、なんだか「げんなり」してしまって、ブックマークから削除してしまいました。
コンテンツの所有権はご本人が持っているのでしょうから、削除しようが、本にして売ろうがご自由であります。Webの内容が好評で、本になったよという話はいくつか知っています。本と同じ内容はWebからは削除した例も見ましたし、そのまま残してある例も見ました。
そのまま残してあれば「太っ腹だなぁ」と思うのですし、削除したのを見れば「ケツの穴のちっちぇー奴」と思うのであります。
例えばあなたが、久しぶりに「心の家路」でも見るかとこのページを開いてみたとします。でもそこには、「好評でしたので、心の家路が本になりました。買ってね」と amazon へのリンクが張ってあるのを見たとします。そして、ページがごっそり削られているとなると・・・。
たぶん「おいおい、ひいらぎ、何を勘違いしてるんだよ」とツッコミたくなるんじゃないですかねぇ。それとも、何か嫌なものでも見たような気がして、お気に入りリストから「家路」を削除して忘れてしまうことに決めるのかも知れません。
「ちょっとヒマつぶしに見てみるか」と「金を払ってでも読みたい」の間には、深くて大きい川があるのであります。本にしただけで金を払う価値が出るわけじゃありません。まあ、タダで読めなかった腹いせを書いているだけですが。
関係ないですけど、ハリー・ポッターは最終巻で死んでしまうとか。でも映画では死ななかったりして。
2006年07月04日(火) BBの集い雑感(その2) ステップは理論ではなく「やり方」です。本(ビッグブック)は理論を学ぶ本ではなく、その通りやってみればいいハウ・ツー本です。僕もそうでしたが、AAの本に書かれたことは、60年前のアメリカの白人中年男性キリスト教徒が体験した「実例のひとつ」に過ぎなくて、それをそのまま自分に適用するには無理がある。現代の日本に生きる自分は「自分なりのハウ・ツー」を見つけなければならないと思ってしまったわけです。
だから気に入った所、気に入らない所ができてしまい、好きなものばかり食べているから栄養が偏って具合が悪くなったのでしょう。
自分なりのやり方なんてものは、ハウ・ツー本の中身をひととおりこなした後で、付け加えていけばいいもんだと思います。
でも、たいていのアルコホーリクは「言われたとおりにやること」が最も苦手で、自分が自分の主人でなくなることに不安を覚えるのは、よく分かります。
僕は自分のやり方を見つけようとずいぶん時間を使いました。僕が幸運だったことは、その間もAAミーティングに出続けることができたことでしょう。でも、そのような幸運が誰にでも訪れる訳でははないし、できないのは自己責任で片づけられる問題ではないと思います。「このメッセージをアルコホーリクに伝え」の<このメッセージ>とは、(それが不要だとは思いませんが)AAミーティングに通ったりイベントに行ったりすることでなく、霊的な目覚めのことを示しているのは間違いありません。でも僕はずっとそのことを否定してきました。
信心深い年寄り連中のほうが正しかったと認めることは、好んで出来ることではありませんし、それを自分より若い頭の柔らかい連中に教えられたことで、もっとプライドが傷つけられましたが、意地を張るのを止めた方が楽に生きていけるというものです。
originality の追求(自分なり)を否定するわけにもいきませんが、original(原型)の追求のほうが楽でありました。
なんだかんだ言っても、僕はこの1泊2日はまだ2回目です。得たものは貴重ですが多くはありませんし、「実はそうだったんだ」という気づきも、日々の生活の中で泡沫のように消えていくでしょう。その部分を定期的にリフレッシュしていきたいですね。
青年の家みたいなところだったので、夜11時消灯でした。でも廊下で1時までひそひそやってました。朝早い人々は、外で早朝ミーティングをやったようですし、それはひょっとしたら海岸でやったのかもしれませんが、当然僕はぐっすり寝ていました。
(この項お終い)
2006年07月03日(月) BBの集い雑感(その1) 心も体も疲れ切った状態で、月曜日仕事に来ております。
ひとつには、三浦はとっても暑かったということであります。温度が高いだけじゃなくて、湿度も高くて、汗べっとりで体力消耗が激しかったです。やせるんじゃないかと思ったのですが、帰ってから体重を量ったら増えてました。
もうひとつは、プログラムの密度の高さ。
よくあるAAイベントだと、スピーカーが話している間も、廊下の喫煙コーナーには人だかりができていて、熱心(?)に雑談している姿を見ることができます。そういうAAの気楽さを、僕も大いに甘受することにしていて、日に2〜3人のスピーカーの話しか聞いてこなかったりします。
今回の研修では、スピーカーの話を聞く場面もありましたが、それは主菜ではなくて、主菜をいただくためのスパイスでありました。多くの時間はスクリプトを読んでいるか、スポンサー・スポンシーでペアになって過ごしているので、「ちょっと抜け出したまま戻ってこない」という技を繰り出してみたところで、会場の外でひとり淋しく過ごす羽目になっただけでしょう。
スクリプトを読んでいない時間は、スポンサー・スポンシーでペアになって、棚卸し表に記入したり、埋め合わせのプランを立てたりします。広い会場のあっちこっちにそのペアが散らばっていました。ひょっとしたらプログラムの部分は終わって、ふたりで四方山話をしているだけなのかもしれませんが、でもすごく深い分かち合いをしているかもしれませんので、お邪魔するわけにはいきません。
自分のぶんは手短に片づけたとしても、そうして話し相手もなく、風通しの良い階段で涼んで、視野に入る人たちを眺めていました。
スポンシーの人の中には顔が硬直している人もいました。本当は逃げ出したいのかもしれませんが、そうもできずにスポンサーの話を聞いているのでしょう。このスポンサー役の人が初対面だったりするわけですけどね。スポンサーが棚卸し表に記入してあげているペアもあり。ハグをしているペアもありました。
そうした姿を見ていると、「ああみんな真面目にステップに取り組んでいるんだな」と不思議な安心感というか充足感に満たされました。
決められた形式の表に書き込む形式の棚卸し(ステップ4)に違和感を持つ人もあるかも知れません。もちろん、ステップ4のやり方に、正解だとか不正解だとかないので、この方式が他より優れていると主張することはできません。
帰り道で駅までタクシーに同乗させてくれた相模原のメンバーと分かち合ったのですが、ステップ4は「どんなやり方でもいいよ」と言われるのは、実はとっても悩んでしまうことなのだと。それはまるで、真っ白い紙とクレヨンを渡されて「何でも君の好きな絵を描きなさい」と言われるのに似ていて、何をどう描いたらいいか困ってしまうのであります。そのくせ、その絵の出来で「1学期の図工の成績を採点するよ」と言われているような気がするのであります。
採点されるような気がするのも、ひとつのビョーキなんでしょうけれど。
ステップ3で決心をした後は、もうすぐに棚卸し表に取りかかって、それが終わるとスポンサーに「スクリプトに書いてあるとおり、<私たちのほとんどは他人が悪いと結論するのがせいぜいだった>わけだ、でも少し自分の欠点に目を向けてみよう」と言われて、どーんと背中を押されてしまうわけです。
そして、翌日には埋め合わせの計画も出来て、祈りと黙想を紹介され、ひとりでやるプログラムではないから一緒にやる人を探しなさいとなって、あっという間に24時間が終わります。間に挟まるのは、食事と風呂と睡眠。
これは完全なステップでしょうか? いえ違いますね。でも、どうやればいいかまず経験してみることです。「ステップは難しい、ステップは分からない」という言葉を耳にします。僕に言わせればそんなのはナンセンスです。難しい分からないというのは、ステップが理論だと思っているからです。自分にあったステップのやり方を見つけるためには、まず理論を理解する必要があるのでしょう。
「自分にあったステップ」だとか「理解」を求めているからなかなか見つからない。僕もそうでした。
(続く)
2006年07月01日(土) 無力+α(しめくくり) 穴のないドーナッツもありますが、穴のあるドーナッツを思い浮かべてください。
ドーナッツの穴は空虚であります。
穴にも意味がありますが、少なくとも空腹を満たす役には立ちません。おまけに、ドーナッツの穴は、穴だけ存在するというわけにはいきません。ドーナッツがあって初めて穴になれて、ドーナッツが朽ちれば穴もなくなります。
無力を認めるのは、結局自分がドーナッツの穴であることを認めることだと思っています。
もう一度、ドーナッツの穴は空虚であります。
その穴が、「俺は空虚だ、空虚だ。生きていくってなんて虚しいことだろう。ドーナッツがなくなれば穴があったことすら、皆忘れてしまう、ああ空しい」
そのくせ穴は、穴になにかを入れられることには我慢がなりません。何かが入ったら、穴が穴でなくなっちゃうじゃないかと。
それでも空虚なままにしておかずに、なにかを入れてみるということでしょう。あんことかクリームが無難でいいです。たくあんが好きならたくあんでもいいですけど、僕には勧めないでください。あまり変なものは入れない方がいいです。ドーナッツが食べられなくなっては元も子もありません。お酒もダメです。
そのあんこが「神様」なのだと思います。あんこは静かに空隙を満たして、不安や不満を耐えられるものに変えてくれます。
神様が何を考えているか、僕には分かりません。人間という限界ある殻に閉じこめられた身には、理解できないことはたくさんあるでしょう。ときどき分かるような気がするときもありますが、たいていは(これが正しいという)僕の思いこみでしょう。
ドーナッツの穴にも意味があるように、僕の人生にも意味が与えられました。この世の中に意味のないことは起こらないのだから、自分の人生にだって意味がないはずはありません。じゃあ、どんな意味がと言われても、自分にそれが完全に理解できる日は来ないだろうし、他の人にも同様だろうと思います。
不安も不満もゼロになりはしませんし、いきなり聖人になれるはずもありません。最低限の物質的充足がなければ、幸せは難しいだろうとも思います。それでも、世界が理想とほど遠くても、自分が不平不満のない聖人になれなくても、要するに酒を止める前と止めた後で根本的に何も変わらなくても、生きていけるようになったのは、あんこを受け入れたからということでしょうか。
AAメンバーがあんこを求めて歩いた道は無数にあります。僕もそのひとつを通ってあんこにたどり着きました。けれどこのあんこは僕のあんこであって、あなたのあんこではありません。だから、僕のあんここそが真正のあんこだと言えば、僕は嘘つきになってしまいます。
あなたが僕と同じようなドーナッツの穴であるならば、あなたを満たすあんこが見つかるよう願っています。
(この項おしまい)
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