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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年03月22日(水) 3年後が楽しみ 朝起きてみると、口のなかが乾いていて気持ち悪いです。気持ち悪いので寝ていられずに起きてしまうといった具合です。鼻づまりが原因で、口をあけて寝るせいであります。
1月にはこんな症状はなく、2月になって「鼻かぜかな」と思っているうちにインフルエンザになりました。インフルエンザをはさんでかぜが残存しているのかもしれない・・・そんなことを考えていたのですが、何週間も風邪が治らないのも奇妙な話です。だいたい咳も熱も出ないのです。
「これは花粉症だろうか」と思ったりしました。花粉症はいきなりなると言いますからね。
いままで花粉症の人間がずびずびと鼻をかんでいるのを見ては、かわいそうだなと一段高いところから見下ろしてみたり、アレルギーの注射を打つからと医者に行って仕事に遅刻してくる人間を見ては、自分がうつ病で医者に通っているのは棚に上げて、困ったもんだなと思ったりしたものでした。
しかし、どうやら僕もその仲間入りをしそうな気配であります。因果応報というやつでしょうか(違うか)。
精神科医にかかったときに、特に話すことが無いので、鼻づまりの愚痴をこぼしたところ、「それは○×という薬の副作用ではないか」と、分厚い本をひっくり返して調べてくれました。
その薬は量を減らしていずれゼロにして、かわりに抗ヒスタミン剤を飲むことになりました。それが1週間前の話です。症状は若干改善されたような気がしますが、相変わらず口が渇きます。
そう医者に言っても、たぶん「量は減らしたけれどまだ半分の量を飲んでいるので副作用が続いていてもおかしくない」と言われるだけでしょう。
ゼロになり、薬の副作用が消えるまでにはまだ何週間かかかります。ひょっとして原因が花粉だったとしても、そのころには飛散は終わっているかもしれません。
真実は誰にも分からないままになるかも。
ともかく、鼻炎用の点鼻薬の効果は確かであります。
ワールド・ベースボール・クラシックを見て思ったこと。
・オリックス時代から、哲学者みたいな顔して小難しいことばかり言っていたイチローが、子供みたいにはしゃいでいた。
・キューバの9回裏の攻撃は、なんだか高校野球を見ているようで情熱的であった。
・日本のプロ野球選手にはさめた人間が多すぎると言われていたけれど、みんな結構アツかったじゃないか。
・「裁定を下した審判員から相談を受けた場合を除いて、審判員は、他の審判員の裁定に対して、批評を加えたり、変更を求めたり、異議を唱えたりすることは許されない」と9.02cにあるんだから、球審が独断で裁定を覆したのはルール違反ではないか。ただ「審判員の判断に基づく裁定は最終のものであるから異議を唱えることは許されない」9.02aとあるので、「俺がルールブックだ」と言われればどうしようもないが、それだけに審判の質は問われなければならないと思う。
・やっぱ7月開催のほうがいいよね。でもそうするとWBCのある年はオールスター戦はやらないのか。3週間もリーグ戦を休むのか。
3年後が楽しみであります。
2006年03月20日(月) 回復って・・・ お彼岸で、子供二人と一緒に実家に行き、墓参りに行きました。
雪がちらつくあいにくの天気でありました。
ワールド・ベースボール・グラッシックの準決勝。韓国にしてみれば、日本と3回も試合をして、1試合負けたのが準決勝であったがために、日本のほうが順位が上になるという不条理を感じているかもしれません。疑惑の判定といい、不条理を感じさせることの多い大会であります。
韓国の熱狂は最強のナショナルチームを作ったことによるのでしょう。対する日本は、韓国の監督が日本はまだ3〜4チーム作れるぐらい層が厚いと言っていましたが、それだけベストメンバーが組めなかったということであります。
韓国では野球の人気が急激に盛り上がったといいます。日本も優勝することで野球人気を盛り返してほしいと、サッカーよりも野球が好きなおじさんは思うのであります。
さて、「回復」って何なの? という話がありますが、僕には「よく分からない」というのが本音であります。それは人生の意味だとか、人生の価値だとかと関係があることらしいので、価値観のありようだけ回復のありようもさまざまなのでしょう。逆にひとつのモノサシでいろいろな回復を計ることは無理なんでしょう。
「ちょっと飲んじゃったけどなんとも無かったよ」という話をする仲間が要る一方で、ちょっと飲んだがために大変な思いをする仲間がいます。だから飲まないでいるということはとても大切なことで、それは例えば飛行機が飛んでいるか墜落しているかの違いぐらい大きいだろうと僕は思っています。
ただ、整備不良なのに結果として何ヶ月も事故なしで飛んでいる飛行機があるように、「飲まない」はたまたまの結果として出る場合がままあるということです。
だから、飲んだ・飲まないというモノサシは使いやすいけれども、あまりそれに頼っていると、本質を見誤るような気がするのです。
僕はAAのイベントに行っても、もう一日会場で座って仲間のスピーチを聞いているという忍耐がありません。ちょっと座っていると我慢ができなくなって、タバコを吸うわけでもないのに、ロビーをぶらぶらして回り、知った人間を捕まえて世間話をしてしまいます。風邪を引けばミーティングに行かないのは当たり前で、いっても要領を得ない話ばかり。こうなってから「回復」なんて言ったところで知れたものです。
最初の1年・2年・3年の努力が大切で、後になって努力しようと思ってもなかなかできるものではないという悪い例であります。
2006年03月18日(土) アリス 有意義なことは何もする気になれないので、パソコンでゲームでもしてみようかと、以前買っておいた、アメリカン・マギーの『アリス・イン・ナイトメア』で遊んでいます。
日本語版の発売が2000年ですから、Windows Meや2000の時代のものです。
が・・買った当時のパソコンの性能では、能力不足であまりスムーズに遊べなかったので、そのままほったらかしになっていたものです。
実はノートパソコンで遊ぼうとそれにインストールしてみたのですが、イライラしただけでした。このノートPCが2000年発売のもので、Pentium III 600MHz、Rage Mobility Mという仕様です。
デスクトップの方は最近の仕様なので、結構スムーズにプレイできました。
上のページにもあるデモ版を3時間かかってクリアした後、製品版をインストールして3分の一ぐらい終わったところです。どんなゲームか興味のある方は、デモ版をダウンロードして遊んでみられてもよろしいかと思います。80MBありますが。
「悪夢の中のアリス」というだけあって、アリスが包丁を振り回してざっくざっくと敵をやっつけていくというスプラッターなゲームですので、そういうのがお嫌いな方にはお勧めしません。ただ、内容は「プリンス・オブ・ペルシャ」系統の、アクションなんですが、実際にはパズルで、一面一面謎を解きながらクリアしていくというものです。
秀逸なのはアリスのガイド役として頻繁に登場する「チェシャ猫」で、性格が悪くシニカルな皮肉を振りまいてくれます。召喚して助言を求めようとすると、
「進むべき道を見つける者はわずかだ。見つけられない者もいれば、見つけたがらない者もいる」
とだけ言って消えてしまったりします。
棚には買ったけれども遊んでいないパソコン用ゲームがごろごろしています。古いものだとMSX用の『魔導物語』(ぷよぷよのコンパイルの作)まであったりします。
まあ、明日には飽きているかも知れません。
2006年03月17日(金) キッズgooはじかれサイト同盟 せっかく雑記のページを見に来て頂いたのに、更新していないと申し訳ないような気もするので、今日は遅くなりましたが、スラドあたりからネタを拾ってきて、短いながらも書いてみたいと思います。
キッズgooはじかれサイト同盟なるものがあります。
キッズgooというのは、検索サイトgooの子供版です。我が家では子供用のパソコンのIEを起動するとこれがホームページになっています。
で、子供用だけあって、子供にはふさわしくないと思われる内容のページは、フィルタリングされるようになっているわけです。試しに「心の家路」がフィルタリングされていないか確かめてみたら、はじかれていました。うーん、心の家路もアダルトな内容のサイトでありましたか。
そういえば以前はリファラーにキッズgooから検索してきたという履歴が残っていたりしたのですが、最近キッズgooからはありません。
それにしても、心の家路を検索してくるお子様とはどんな子供だったのでしょうか。やっぱりお父さんかお母さんがアルコール依存症で、なにか解決はないかと学校の図書館のパソコンで検索してみたりしたのでしょうか。
そういう子供たちに「心の家路」を見てもらえなくなったのは・・残念・・なのかなぁ。
あなたのサイトもはじかれていますか?
2006年03月16日(木) プロフェッショナルの偏り 昨日は市民ニュースの偏りが、個人の熱意の偏りを反映しているという話でした(だったような気がする)。
僕は新聞は産経新聞のネット版を読んでいます。月に500円と安価なのと、新聞紙を捨てる手間がいらないからであります。義父母のいる母屋では読売新聞を読み、実家へ行けば朝日新聞を読みます。歯医者や飲食店では、朝日があればそれを読みますが、無ければ毎日だろうが日経だろうが赤旗だろうがかまいません。
こうして読み比べてみると、同じ事象に対しても各紙微妙に伝え方が違っていることがわかります。たとえば産経や読売は朝鮮半島や中国大陸に厳しく、朝日は半島や大陸に優しいのであります。などと書くとさっそく「そんなことはない」とお叱りを受けたりするわけですが、どの新聞だって「うちは公正公平を旨とした編集方針だ」と主張するのは当たり前で、それを鵜呑みしたりするのは危ないことであります。
ではそういう偏りがどこから生まれてくるかというと、つまるところ「読者が望んでいること」を供給するのがニュースメディアであるからだろうと思うのです。ある人が「もし国民の9割が日本に軍隊があることを望んだとしたら、朝日新聞の社説だって9条改憲支持になるだろう」という話をされていましたが、新聞社というのは大きなところでは何千人という社員を抱え、配達員まで入れればもっとたくさんの人がそれで生業をたてている営利企業であります。そして、営利企業というのは顧客第一なのは当然です。
新聞は社会正義の手段であるとか、公器であるとか言われますが、大切なことはそれが事実であるかどうかではなく、読者がそうあって欲しいと願っていることであります。
さて、ニュース検索に引っかかっていなかったのですが、毎日新聞の社説禁煙治療 依存症の軽重無視する子供っぽさと、闘論:禁煙指導への保険適用というふたつを取り上げてみたいと思います。
アルコール依存症に比べて、ニコチンは依存性が少ないし、社会生活が送れなくなるわけじゃないから依存症とは言えない。離脱・禁断症状は喫煙者によって克服されている(吸える場所でしか吸わない)から依存症とは言えない。だから治療の必要はない。
その理屈が正しいかどうかは問題ではありません。なぜニコチン依存症の治療に反対しているかという背後にある意図であります。それは「タバコを吸うことを病気として治療するのに反対」という人たちがたくさん存在しているということでしょう。
成人の二人にひとりが飲酒すると言います。けれど、毎日酒を飲む=常習している人というのは、僕が飲んでいた頃想像していたよりずっと少ないものです(そうであってほしかった)。ほとんどの人は、機会があって酒を飲む機会飲酒者です。そしてしょっちゅう飲んでいる常習者でも、相応の理由さえあれば飲酒を慎むことができる人がほとんどで、理由があっても「今日は止めておく」ことができない依存症者は、飲酒人口全体から見ればたかだか数%にすぎません。
ところがタバコは、人に勧められたときにだけ一服するとか、机の中に3ヶ月前の一箱がまだ残っているとか、そういう「機会喫煙者」はほとんどいないわけです。喫煙者の大多数が常習者であり、常習者の大多数が「今日は止めておく」ことができない状態であるわけです。
喫煙人口3千万の大多数が、「タバコを吸うのは覚醒剤中毒と同じ薬物依存です」と言われれば言われ無き迫害と感じるのでしょう。そう感じるのは個人の自由なのかもしれません。需要側がそう感じれば、供給するたばこ産業も困ったことだと感じるのでしょう。
何が言いたいのかというと、喫煙を治療するという風潮が困ったことだと感じている人が結構たくさんいて、そのたくさんの人の需要を満たすために、「喫煙は依存症じゃないよ」という報道が「供給」されるという構図です。
アマチュアがアマチュアらしく偏るように、プロはプロらしく偏るだけの話かも知れません。
最後に、検索対象から外れているうちにキャッシュに落ちてしまいましたが、なぜ大量飲酒中は男の性欲が落ちるのかという記事を取り上げておしまいにします。
2006年03月15日(水) 熱意の偏り 市民ニュースなるものがあります。
いわゆるマスメディアが「プロの記者」、つまりそれで飯を食っている記者が書いた記事を配信するのに対し、「アマチュアの記者」が書いた記事を配信するところが違っています。
アマチュアの記者がプロの記者より優れている点としては、特定のセグメントに特化していることでしょう。プロの記者だと、たとえば依存症の記事を書く人は、社会面や生活面の記者の人で、病気のことだけじゃなくて、社会生活一般のことを広く取り上げることを使命としているわけです。したがって、個々の事象に対する理解はそう深くはなり得ません。
逆に「市民記者」は、収入以外のものを使命としているのでしょうから、自分の得意な分野を追求することができます。
インターネット登場以前の時代、新聞とは「知の集積」でした。新聞記者は、広く世間を見聞し、人々に紹介する価値のある事象を(公共のということになっている)紙面に載せて伝えたわけであります。特定の分野に深化することは、その分野のプロパーが「専門家」とか「識者」とか呼ばれて担当していたわけです。情報の発信にさえコストを必要としていた時代には、情報を発信するのはプロの役割でした。
ネットが登場し、ワープロソフトをいじるのと同じぐらいの手間でWebページが編集できるようになると、情報発信へのハードルはぐっと低くなりました。それまでは自分の好きな分野の情報を本という形で配信しようとすると、少なくとも数十万円は用意しないといけませんでした。誰にでもできることではありません(まあ、それができる人が何万人と集まるコミック・マーケットのすごさを改めて感じるわけですが)。ところが、WWWという技術の登場によって、ネット接続と、数千円のソフトと、時間と熱意があれば、同人誌レベルの発信は誰にでもできる時代になりました。
さらには、21世紀に入ってブログが流行すると、ソフトも時間も熱意もさらにハードルは低くなり、裾野は広がりました。
当然そうした情報発信の中には、特定の分野に限れば、新聞などのマスメディアよりも高い「知識の山」が存在することになります。そうした山の価値が認められるのに10年は要したように思います。
そうして認められた個人による情報発信の価値を、ふたたびマスメディアに集積してみる試みが「市民新聞」であろうかと思うのです。
日本での市民新聞としては、JanJanと、Livedoor PJニュース。それから韓国のOhmynewsが日本に上陸するそうであります。
「心の家路」のニュース検索にも、JanJanとPJニュースはひっかかってきます。今のところ市民新聞だからという理由でそれらを取り除いたりはしていません。
ただ、市民新聞で引っかかる記事は、DV関係とギャンブル依存関係だけであります。そういう記事の中に「アルコール」だとか、「依存」だとかいう言葉が出てくるので検索対象になっているのです。そしていつも同じ人が記事を書いていることもわかります。
それは、たまたまDVやギャンブルに関心のある市民記者がいて、アルコールや薬物に関心のある記者がいないだけなのでしょう。
市民ジャーナリズムについての話を読むと、情報の正確さを誰が担保するのかという議論になりがちのようですが、僕の感じ方ではこうした関心の偏りのほうが深刻だと思うのであります。
アマチュアによる情報発信は、どうしても「熱意と時間」をどれだけ捧げるかという問題になってきます。そして時間と熱意をたくさん捧げた人の意見は浸透しやすいということであります。たとえばWikipediaの記事にしても、情報の正確さではなく、たくさんの時間を費やしてたくさんの記事を書くことでその人の意見が浸透するわけです。
しょせん「個人の意見」なのだということを承知していれば問題ないのでしょうが、ジャーナリズムだとか百科事典という名前が付くと、そこに真実が存在しているという期待値が高くなりすぎる欠点があります。
(この項、続く)
2006年03月14日(火) ミステリー 推理小説の表紙カバーには「主な登場人物」の一覧が載っています。そしてこの登場人物一覧の中に犯人がいるのが「お約束」とも言えます。
もちろんせいぜい10人ほどしか並べられないので、それ以上に登場人物が多いときには犯人が入っていないという場合もありますが、経験的には少ないです。
マット・スカダー・シリーズにおいても、当然この法則は当てはまります(はずです)。
とはいうものの、シリーズ物ですから、今後も毎回出てくるだろう人物が犯人とは考えにくいです。もちろん、まれにそう言う場合もあります。場合によっては探偵本人が犯人という場合すらあります。しかしそういう「反則」もしくは「反則すれすれ」のことは滅多には起こりません。三毛猫ホームズで片山兄妹・石津刑事・栗原警視あたりは安心して犯人から除外できないと、シリーズが続いてくれません。
マット・スカダーでは、一覧の半分ぐらいが「次の話でも出てきそう」な人であります。
そうすると5人ぐらいしか残りません。であるのに、犯人が誰だか分からないというのは悔しいことであります。
マット・スカダーは本格推理ではないので、密室のトリックを解いたり、偽のアリバイ(不在証明)を暴いたりという必要はありません。だいたい5人の誰もアリバイがなかったりします。同じように誰も「殺しの動機」がなかったりします。
サスペンス小説じゃないんだから、激情に駆られての殺人であるはずがありません。少なくとも未必の故意が認められるだけの計画性のある殺人のはずです。だから「なぜ」の解明は必須です。
というルールでゲームは進むわけであります。ハードボイルドな主人公は、物語の進行に合わせていろんな人に会い、いろんな物事の断片を集めていきます。そして、探偵が「ジグソーパズルのピースはこれですべてそろった」などとぬかすときには、次のページから謎の開陳が始まるという警告であります。そこのページに至っても、まだ5人のうち誰が犯人かも分からない場合には、
「くそー、わからねー」
と敗北を宣言して次に進むわけであります。僕の場合、もう一度読み直して考えることはしません。素直に謎解きを読みます。ああ、しまったこいつが犯人だったのか。そう納得できる場合には「おもしろかった」ということになります。万が一犯人が当てられた場合には、おもしろさは倍増するわけですが、毎回当てられたら逆につまらなくなるでしょうね。
一番つまらないのは「俺の推理だって成り立つじゃねーか」という場合であります。そういう推理が成り立たない理由がちりばめてないと、漏れのある話になってしまうのであります。
ローレンス・ブロックに対して、今のところ0勝2敗であります。こうでなくては。
ハードボイルドな主人公は街の喧噪の中に姿を消していきます。物語は余韻を残して終わります。amazonから次の二冊を発送するという連絡が届きました。
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