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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年11月13日(日) Equipments アイオメガのアメリカのサイトで、ZIPドライブのアウトレットをやっていたので、オンラインで購入したのは、先月、いやもう先々月のことだったでしょうか。
すでにクレジットカードで決済も済み、あとは到着するのを待つだけという状態です。
なぜこんなに到着が遅いかというと、船便を指定したからであります。
アイオメガのサイトでは船便でも2週間ぐらいで届くとありましたが、Hazeldenで本を買ったりした経験からすると、3〜4ヶ月かかるのがふつうです。もし、半年待っても届かなかったら、英文でクレームのメールを書いたり、場合によってはクレジットカード会社に連絡して支払いを止める(というか返金を頼む)必要があります。そうならないことを祈るばかりです。
しかし、クレジット会社の海外使用のクレーム受付はいつ電話してもつながらないのであります。試しに国内でのカード使用のクレーム受付へかけてみるとすぐにつながります。それだけ国内でのカードトラブルは少なく、海外でのカード使用にはトラブルが多いということなのでしょう。
さて、PDA(個人情報端末)としてはPalmを長いこと使ってきました。
主にAAメンバーの電話番号その他の住所録を格納したり、スケジュール管理をしたり、ときには電車やバスの中で簡単なメモを書いたりと活躍してきました。
しかし現在使っているParmVxが、ディジタイザの位置が完全にずれてしまって、まったく使えなくなってしまいました。
このシリーズの新品が販売終了になってずいぶんとたちますが、壊れる(orなくす)たびにヤフオクで中古品を買って、データを引き継いできました。
今度も中古品を買って・・と思ったのですが、最近は中古でコンディションの良いものがなかなかないのが実情です。いっそのこと、新しいPDAをという気持ちもあります。
そういえば、シャープがLinuxを使ったPDAを出していなかったっけ・・・。
物欲に支配されるひいらぎであります。
話は変わって、ウィリアム・ジェイムスの『宗教的経験の諸相』(上・下)を古本で買いました・・・、がもう眠いので、その話はまた明日。
2005年11月10日(木) 異常な食べ方 水曜日のホームグループのミーティングの後、24時間やっているスーパーマーケットで、子供のためにお菓子や、自分のために夜食用のラーメンなどを買うのが習慣になっています。
最近は外食中心のせいか、体重が漸増状況にあるため、カップラーメンならぬカップはるさめにシフトしていたりします。
スナック菓子類は、自分のために「ナッツとクラッカー」というのを一袋、子供たちのためにそれぞれチョコレート菓子をひとつずつ買いました。「ナッツとクラッカー」は一週間かけてゆっくり消費する心積もりでおりました。
この「ナッツとクラッカー」というのは、アーモンドを主体に、ピーナッツとクラッカーが混じっている菓子です。塩味がきいていて、なかなか美味しいのです。こいつを夜寝る前に少しだけ食べようと、袋を開けました。
が・・、食べ始めたら止まりません。袋の裏を見ると700Kcalと書いてあります。こいつを一晩で食べてしまったら、ちょっと問題だな、と思いながら、もう少し、もう少しと食べ続けてしまいまして、結局空っぽにしてしまいました。
さらに飽きたらず、子供用に買っておいたアーモンド・チョコレートを開封すると、半分ぐらい食べてしまって、やっと眠りにつきました。
翌朝(つまり木曜の朝)、起きてみると、異常に胃がもたれています。こんな不快感は飲んでいたころ以来です。幸い吐く必要は感じませんでした。が、問題は逆方向に発生しました。
通勤のために高速のインターに向かっている途中で、お腹が痛くなり、「これは途中のパーキングエリアまで我慢したら交通事故を起こしてしまう」と判断して、TSUTAYAのトイレにかけこみました。おかげで大遅刻であります。会社でもだいたい3時間おきにトイレに行く羽目になりました。うーん。おしりが痛いよう。
が、どんなに気持ち悪くても、昼食を胃に収めることができるのは、毎日二日酔いだったころに身につけた能力(?)であります。偉くはないか。
アーモンドが胃に過負荷をかけたせいで、胃腸全体が失調してしまったのでしょうか。
ともかく、頭がぼうっとして全般に鬱状態で、仕事に手が付きませんでした。いやまったくひどい一日でありました。
疲れやストレスがたまっていなければ、スナック菓子の食べ過ぎぐらいなんでもないことですが・・・。
しかし思い出してみると、アーモンドをぼりぼり食っている間は、(飲酒ほどではないものの)なんとなく少しだけ幸せ気分だったなぁ、と思うのであります。「この幸せをもうちょっとだけ長続きさせたい」という欲が、アーモンド食べ過ぎの原因だったことは間違いありません。
食べたい欲求に対して無力であり、日々の生活を自己管理できなくなりました・・・とはなかなか認められないなぁ。
2005年11月08日(火) 新聞 新聞を読む機会が多くなりました。
義父母が、読んでいる新聞をローカル新聞から読売に変えました。僕としては、自分が金を出すのでなければ、全国紙ならなんでも歓迎です。
ニュースそのものは、新聞社のサイトなり、YahooやLivedoorのニュースで読むことができます。だから、わざわざ紙の新聞を読む理由は「ニュース以外」ということになります。
読売は最近、刑務所を出所した人の再犯防止の仕組みについての特集を続けています。今日の記事は、幼い頃から母親に虐待を受けてきた男性の話でありました。
こうした話を読みながら思い起こすのは、加藤諦三という人の「自殺する高級官僚、うつ病になるエリートサラリーマン、登校拒否をする子供たち、子供を虐待する親たち、こうした人々は(中には例外もあるが)実は大変まじめな人たちなのだ」という言葉であります。まじめにこつこつやってきたものが報われない。そういう世の中なのかもしれません。
が、こつこつ努力をしても、必ず報われるとは限らないのが世の中であります。
がしかし、努力をして報われて成功することが求められている世の中になっているのかもしれません。落伍者になるのは自己責任だからねと言わんばかりの。落伍者にならないように、大人も子供も必死になっているような世の中のような気がします。実は、落伍したって、何とでもなるというのは、飲まないアルコホリーク業界にいると、自明のようにわかるのですが。
アメリカやフランスは日本より離婚率は高いけれど、家族に対する満足度をアンケートすると、満足していると答える人の割合は日本よりずっと高いのだそうであります。
子供が親の望むものを備えていない、いや親が「世間が子供に望んでいる」と勝手に信じているものを子供が備えていないと、親はちょっぴり、いやかなり寂しくなる。それは本当であります。だが、所詮は自分の子、末は博士か大臣になろうはずもありません。けれど、やっぱり勉強はできてほしいし、将来お金にも困ってほしくないという欲があります。
子供のありのままを受け止めることが、親が幸せになる近道なのかもしれません。なにせ、子供のほうは、親がアル中だろうが虐待者であろうが、それを親と思って離れない(られない)わけですから。
話が新聞からずれました。
で、自分はというと、産経新聞のネット版を読んでいます(朝刊だけだが毎月500円と安いから)。そして、実家に寄ると朝日新聞を読むわけです。
産経と朝日では主張がかなり違っていておもしろいです。朝日が親アジアで弱腰傾向だとすると、産経は対中強行派であります。都知事の文章を載せるのは産経と決まっています(読売にも載ったけど)。
新聞ごとの傾向の違いを知っていて、読む新聞を選んでいるなら、それも自己責任でしょうが、たまたま読んだ新聞の社説なんかを頭から信じてしまったりすると、新聞に自分の意見を振り回されるということになりかねません。
情報化時代になって、情報の選択能力が重要・・・なんて話がずっと前にありましたが、それは紙の新聞の昔から変わらないことでありましょう。
2005年11月06日(日) 適応障害 妻の入院が長引きそうであります。
せっかく入院しているのだからと内科的検査もしたところ、甲状腺の働きが低下していることがみつかりました。それ単独であれば、すぐに治療が必要というわけでもなさそうですが、甲状腺ホルモンの不足は、抑うつ気分に結びつくわけで、(内科医の見解にもよるでしょうが)ホルモン充填をするかもしれません。
うつ病の治療に甲状腺ホルモンの充填をするぐらいですから、ホルモンの追加によって、うつの薬のバランスも取らないといけません。そうしたことを考えると、途中に一時退院を挟んで、まだまだ入院は続きそうです。
本人は気楽そうなのですが、待っている家族は、ジジババにしても子供にしても、そして僕にしても気楽なものではありません。
それから、妻に新しく病名がつきました。「適応障害」です。ネットで調べてみると、雅子様に付けられた病名です(するとおいらは浩宮か)。もともとはパニック障害を背景に、抑うつ気分を主訴とするという状態だったのですが、昨年の僕の失業&就職、上の子の学級担任が原因の学級崩壊(気味)という激動の期間を経て、PTA(や授業参観)に参加できないということから始まって、体の症状、心の症状ともに不調が続いていました。
環境が変化して、その変化について行けていない時に、他の病気に分類できない時につけられる病名のようです。心身症的に体の症状が出る場合もあれば、抑うつ気分が主な場合もあり、場合によっては買い物依存などの行動障害がでる場合もあるそうであります。
子供と一緒にお見舞いに行った後、親子3人でお風呂に入りに行きました。
それからソーシャルワーカーさんと相談して、障害年金の訴求請求が退けられたぶんについては、再審査請求はしないことになりました。これで年金関係の事務処理は終わることになります。
2005年11月05日(土) 山梨へ AAメンバーと車に乗り合わせてセミナーに行くのは、一昨年だったか新潟へ行って以来になります。
今回集合時間を8時45分にしたのは、現地への到達時刻なんてものは無視して、通勤割引を適用させるために、9時前にETCのゲートをくぐりたかったからであります。むろん、100Kmをオーバーしないインターでいったん降りて、すぐにまた乗り直すということをします。
時間を無視したおかげで、昼食を予定していたサービスエリアに10時に着いてしまい、いくらなんでも昼食には早すぎるだろうということで、そのまま現地に向かいました。
本栖湖畔には11時に到着。昼食を求めて富士吉田方面まで戻ってから、もう一度本栖湖に戻ると12時半ころでありました。
スピーカーミーティングが終わって、ふつうのミーティングが終わる夜9時半までいたのですが、喫煙所でたばこを吸っているAAメンバーと話をする時間以外は、ほとんど24時間ルームで寝て過ごしていました。スピーカーの話は一人半ぶんぐらい聞いただけでした。だって眠かったんだもの。
帰りの車の中で「○○さんの話はよかったね」という話について行けなくて、若干さびしい思いをしました。でも、いつもミーティングを一緒にしていた仲間と車の中で会話しながら行く道中は楽しく、他県のメンバーと久しぶりに(去年の白樺湖のラウンドアップ以来ぐらいに)会えたのも楽しかったです。
こんな僕にも、まじめに会場に座ってスピーカーの話を漏らさず聞こうとしていた時期もあったのですが、いつの間にかAAイベントには「遊びに行く」ようになってしまいました。でもそうやって、「AAの空気」を吸って帰ってくると、しばらくはAAへの信頼感が深まる気がするのは、きっと気のせいではないのでしょう。
2005年11月04日(金) 10 years ago (10) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (10) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
井戸から水をくんで、薪で風呂を沸かさなくても、蛇口ひとつひねればお湯がでてお風呂に入れる。確かに日本は豊かになったんだと思います。またあの薪を割って冬に備える生活に戻れと言われても嫌であります。
だが、薪割りや風呂沸かしに取られていたはずの時間が余るはずなのに、こんなに忙しいのはなんでなのでしょう?
きっと時間泥棒がいるんですよ。
明日は、山梨です。
さて10年前。
通夜の晩は、灯明を絶やさないという風習がありました。
ろうそくの灯を絶やさないように、誰かが見張り番をして起きているのであります。僕はその役を買って出て、そして皆が寝静まった後でこっそり酒を飲むつもりでいました。
しかし、その役目は叔父たちがやるからお前は寝ろと言われました。
じゃあ、叔父たちにつきあって起きていて、彼らが酒を飲むのにつきあおうと思いました。それならおおっぴらに酒が飲めるはずです。しかし、酒は用意されませんでした。「世の中の人のほとんどは毎晩酒を飲むものだ」という思いこみは、僕の(そうであってほしい)という願望にすぎなかったのでしょう。
葬式の日は、禁断症状がピークの日でした。僕は何度シェーバーでひげを剃っても、あごがチクチクするという幻覚に悩まされていました。葬式の席で酒にありつけるだろうという願いはかないませんでした。
親戚中の誰もが、僕がアルコール依存症であることを知っていました。
思えば従姉妹が新興宗教にかぶれ、それを脱会させるためにマンションの一室に隔離(監禁とも言う)させる騒動の時にも、僕は何の役にも立ちませんでした。新興宗教にかぶれる心理について「わかったようなこと」を言って呆れられていただけでした。
前の年に祖母が亡くなったときは、アルコールの専門病院に入院中で、葬式のために外泊にでたものの、電車の中で酔っぱらって帰ってくる始末で、家で泥酔してしまい、葬式の役には立ちませんでした。
「お前がしっかりしなくてはいかん」という無言の圧力が、四方八方からかかっているような気がして、さすがに飲もうという気にはなれませんでした。
集会所を借りた本葬の後、火葬場で待っている間、お骨を拾った後のお清め、自宅に帰った後で近所の人にご苦労様、最後に親戚の人に。都合五回酒の席があったと思います。僕は11月だというのに汗をかきながら、少し震える手でビールや日本酒をお酌をしてまわりました。
もう酒を飲んではいけないのだろうか、それともまた酒を飲む日常に戻ろうか、ただそれだけのことが頭を支配していて、父が死んだ悲しみを感じることはありませんでした。
片づけが終わって、最後に兄が余った酒を酒屋に返しに行くという段取りになりました。僕はこれだけたくさん酒が余っているんだから、一本ぐらいなくなってもバレやしないだろうと思って、一升瓶をひとつ自分の部屋に隠しました。
しかし、母はお見通しだったようで、「一升瓶は18本。持って行ったものを返しなさい」と僕を叱るのでした。
翌日は、その年からかかり始めた精神科医を受診して、こんなふうに禁断症状も出て苦しいのだが、結婚式も迫っているので精神病院に入院するわけにも行かず、「先生何とかしてください」と泣きついてみたところ、「緊急避難的に」ちょっと強めの精神安定剤を処方されました。
「お酒の代わりに、これを飲んで、ともかく結婚式を乗り切りなさい」というわけでした。
吉事の前に凶事があったからお払いをすべきだという話が、どこからともなく出てきて、僕の実家は廃仏毀釈で菩提寺を失って以来、何かあると神主を呼んでいたので、祝詞をあげてもらいました。
安定剤の助けがあったからといって、ともかくその後結婚式まで飲まずにいたのは、やはり父の人生の最後の数日間から酒を奪ってしまったのは、僕の飲酒に問題があったからだと意識していたからでしょう。しかしそうした反省の気持ちも、その後の再飲酒によって「一番苦しいのは俺だ」という考えにかき消されていってしまいます。
そういえば父にあのとき、すごく悪いことをしたな、と思い出すのは、実にAAでの再出発から1年以上経過してからであります。それほどまでに、僕は冷たい人間なのであります。
(この項、おわり)
2005年11月01日(火) 10 years ago (9) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (9) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
日経バイト誌が休刊だそうであります。bit誌もすでに休刊。これからやってくるソフトウェアエンジニアたちは、いったいどこから情報をえるのでしょうか?
さて10年前。
農夫であった父の晩酌は決して贅沢なものではありませんでした。
ビールがあればビールを、日本酒があれば日本酒を、焼酎があれば焼酎を飲んでいました。その日の飯はまずくても、酒さえあればという飲み方でしたから、多分にアル中的ではありましたが、夕に酒を切らしていることに気づいても、決してあわてて買いに出ることもなく、仕方なさそうな顔をして寝てしまう人でありました。
金がないときはホワイトリカーをお湯で割って飲んでいました。梅酒などを造るための酒で、そのまま飲むためのものではないので、アルコール臭い、ただ酔えるだけの液体でした。父にとって酒は体を温め疲れを取るためが第一で、味を楽しむのは二の次であったようです。僕は自分で酒を買いに行くのが面倒になると、父の酒を盗んで飲んでいたので、ホワイトリカーにもずいぶんお世話になりました。
なるべく父の酒を盗むのはやめて、自分で酒を買ってこようとは思うのですが、夜中に酒を切らすとやむなく台所の父の酒を失敬するのでした。翌日の夕になって酒が減っているのを見つけると、父は「夕べは台所に頭の黒いネズミが出たようだ」とつぶやくのでした。
「頭の黒いネズミ」と呼ばれるのはとてもバツが悪いものです。浅知恵を働かせた僕は、失敬したぶんだけ瓶に水を入れ、父の酒を薄めてごまかすようになりました。焼酎やホワイトリカーはともかく、日本酒は水で薄めるととたんに味が変わります。おまけに、薄めすぎると燗をつけるときに沸騰してしまうのでした。
これには父も母も怒りあきれたものでした。
聞けば、兄は高校生の時に同じことをしたそうです。それを30才を過ぎた自分が毎晩やっている愚かしさです。
息子が精神病院に入院するようになっても、父は夕食の席で酒を飲むのをやめませんでした。別に僕もやめてくれとは頼みませんでした。
だが、10年前のあのとき、父はふっつりと晩酌をやめてしまいました。
何日か経ってそれに気づいた僕は、母に尋ねました。
「親父が晩酌をやらなくなったのはなんでなんだ? やっぱり俺に原因があるのか?」
それを聞いた母は、「お前は自分の言ったことを覚えていないのか」と僕をしかりました。
なんでも、母は「どうやったらお前の酒が止まるのか」と自分の部屋で飲んでいた僕に尋ねたそうなのです。そのときに僕は「毎晩毎晩目の前で親父に酒を飲まれて、俺の酒が止まるわけはないだろう」と答えたそうなのです。
それは単に酒が止まらない言い訳に過ぎなかったのでしょう。だが、母は真に受けて、父に「息子の前で酒を飲むのをやめてくれるよう」頼んだのでした。なんと言っても、息子はあと1ヶ月ほどで結婚式を迎え、この家を出て行ってしまうのですから、そう長い辛抱ではないと父も思ったのかもしれません。
「親父は別に酒をやめた訳じゃないだろう。晩酌の代わりに寝床でウィスキーを飲んでいるんだから。こそこそ飲まないで堂々と晩酌をしてくれればいいんだ。冷たい酒は親父も好きじゃないだろう」
僕は父母の寝室から偶然のぞいた光景を、僕は言葉にしてしまいました。
寝室で酒を飲んでいることを息子に知られたと知った父は、その日から寝室で酒を飲むことすらやめてしまいました。
完全な禁酒に入った父とは対照的に、息子の僕の酒は止まりませんでした。
数日後、野菜を出荷しに行った市場で、父が意識を失って倒れたという報が母の元に入りました。珍しく僕は朝から仕事に行っていて、夕方までそれを知りませんでした。市場の人は救急車を呼んだそうですが、その到着より早く意識を回復した父は、運ばれるのを拒み、駆けつけた母の車に乗って自宅へと帰ってしまいました。
しっかりした検査のできる大きな病院に行こうという母の意見を聞き入れず、父の行こうとした医者は近所に開院したばかりの内科診療所でした。後年になって母が言うには、父は大きな病院に行って入院するのが嫌だったのだろう、野菜の世話ができなくなるのが嫌で、入院施設のないところにこだわったのに違いないというのです。僕もそれは父らしい考えだと思います。
結局夫婦は意見を譲歩し合い、それなりの検査設備のある個人医院にかかりに行きました。
診断は心筋梗塞。入院すべきかどうかは自宅で安静にして数日様子を見てから、必要なら大病院に紹介する。たばこは厳禁。お酒は血行を良くするので一日一合までならよし。という話でした。
これで父も一合だけ酒を飲んでくれるだろうと思うと、自室で隠れて酒を飲んでいた僕の罪悪感も少し軽くなりました。しかし、翌日起きてみると、父は酒は飲んでいなくて、かわりに灰皿に何本かのたばこの吸い殻がありました。「医者の言いつけを守っていない」と母は父を責めました。
その日の晩は、母は僕の息が酒臭いことはとがめずに、僕と二人で父を入院させた方がいいか、させるのだったらどこの病院がいいか相談していました。寝室で寝ていた父が起きてきて、どうしても体が冷えてしかたないので今夜は居間のコタツで寝ると宣言しました。僕と母はコタツを明け渡して、それぞれ寝室に下がることにしました。
「親父、一合だけだったらいいんだ、一合だけなら体にいいって医者も言ってるんだ」
記憶はすでにぼやけて曖昧ですが、おそらくそれが父と交わした最後の会話になりました。
翌朝、体から酒が切れて苦しくなって不必要に早く目が覚めた僕は、すでに明るくなっているものの酒を買いに酒屋まで出かけるか、それともお勝手から父の酒を失敬するか、迷いながら廊下へと忍び出ました。
どっちにしても、居間のコタツで寝ているはずの父にばれるとバツが悪いです。父が起きていないか、確認しないといけません。そっと居間の戸を開けて覗き込んでみると、父がおかしな姿勢で寝ていました。前の年に祖母が亡くなったときもそうでした。そんな格好で寝ていたら苦しいだろうという姿勢で人が寝ているときは、もうその人の寿命が尽きた後なのです。
コタツの脇の灰皿には数本の吸い殻が残されていました。
母を起こしに行きながら僕は、禁断症状で体は苦しいけれど、これからまた飲んで寝るというわけにもいきそうにない、どうやら苦しい一日が始まったようだと感じていたのでした。
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