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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年11月05日(土) 山梨へ AAメンバーと車に乗り合わせてセミナーに行くのは、一昨年だったか新潟へ行って以来になります。
今回集合時間を8時45分にしたのは、現地への到達時刻なんてものは無視して、通勤割引を適用させるために、9時前にETCのゲートをくぐりたかったからであります。むろん、100Kmをオーバーしないインターでいったん降りて、すぐにまた乗り直すということをします。
時間を無視したおかげで、昼食を予定していたサービスエリアに10時に着いてしまい、いくらなんでも昼食には早すぎるだろうということで、そのまま現地に向かいました。
本栖湖畔には11時に到着。昼食を求めて富士吉田方面まで戻ってから、もう一度本栖湖に戻ると12時半ころでありました。
スピーカーミーティングが終わって、ふつうのミーティングが終わる夜9時半までいたのですが、喫煙所でたばこを吸っているAAメンバーと話をする時間以外は、ほとんど24時間ルームで寝て過ごしていました。スピーカーの話は一人半ぶんぐらい聞いただけでした。だって眠かったんだもの。
帰りの車の中で「○○さんの話はよかったね」という話について行けなくて、若干さびしい思いをしました。でも、いつもミーティングを一緒にしていた仲間と車の中で会話しながら行く道中は楽しく、他県のメンバーと久しぶりに(去年の白樺湖のラウンドアップ以来ぐらいに)会えたのも楽しかったです。
こんな僕にも、まじめに会場に座ってスピーカーの話を漏らさず聞こうとしていた時期もあったのですが、いつの間にかAAイベントには「遊びに行く」ようになってしまいました。でもそうやって、「AAの空気」を吸って帰ってくると、しばらくはAAへの信頼感が深まる気がするのは、きっと気のせいではないのでしょう。
2005年11月04日(金) 10 years ago (10) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (10) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
井戸から水をくんで、薪で風呂を沸かさなくても、蛇口ひとつひねればお湯がでてお風呂に入れる。確かに日本は豊かになったんだと思います。またあの薪を割って冬に備える生活に戻れと言われても嫌であります。
だが、薪割りや風呂沸かしに取られていたはずの時間が余るはずなのに、こんなに忙しいのはなんでなのでしょう?
きっと時間泥棒がいるんですよ。
明日は、山梨です。
さて10年前。
通夜の晩は、灯明を絶やさないという風習がありました。
ろうそくの灯を絶やさないように、誰かが見張り番をして起きているのであります。僕はその役を買って出て、そして皆が寝静まった後でこっそり酒を飲むつもりでいました。
しかし、その役目は叔父たちがやるからお前は寝ろと言われました。
じゃあ、叔父たちにつきあって起きていて、彼らが酒を飲むのにつきあおうと思いました。それならおおっぴらに酒が飲めるはずです。しかし、酒は用意されませんでした。「世の中の人のほとんどは毎晩酒を飲むものだ」という思いこみは、僕の(そうであってほしい)という願望にすぎなかったのでしょう。
葬式の日は、禁断症状がピークの日でした。僕は何度シェーバーでひげを剃っても、あごがチクチクするという幻覚に悩まされていました。葬式の席で酒にありつけるだろうという願いはかないませんでした。
親戚中の誰もが、僕がアルコール依存症であることを知っていました。
思えば従姉妹が新興宗教にかぶれ、それを脱会させるためにマンションの一室に隔離(監禁とも言う)させる騒動の時にも、僕は何の役にも立ちませんでした。新興宗教にかぶれる心理について「わかったようなこと」を言って呆れられていただけでした。
前の年に祖母が亡くなったときは、アルコールの専門病院に入院中で、葬式のために外泊にでたものの、電車の中で酔っぱらって帰ってくる始末で、家で泥酔してしまい、葬式の役には立ちませんでした。
「お前がしっかりしなくてはいかん」という無言の圧力が、四方八方からかかっているような気がして、さすがに飲もうという気にはなれませんでした。
集会所を借りた本葬の後、火葬場で待っている間、お骨を拾った後のお清め、自宅に帰った後で近所の人にご苦労様、最後に親戚の人に。都合五回酒の席があったと思います。僕は11月だというのに汗をかきながら、少し震える手でビールや日本酒をお酌をしてまわりました。
もう酒を飲んではいけないのだろうか、それともまた酒を飲む日常に戻ろうか、ただそれだけのことが頭を支配していて、父が死んだ悲しみを感じることはありませんでした。
片づけが終わって、最後に兄が余った酒を酒屋に返しに行くという段取りになりました。僕はこれだけたくさん酒が余っているんだから、一本ぐらいなくなってもバレやしないだろうと思って、一升瓶をひとつ自分の部屋に隠しました。
しかし、母はお見通しだったようで、「一升瓶は18本。持って行ったものを返しなさい」と僕を叱るのでした。
翌日は、その年からかかり始めた精神科医を受診して、こんなふうに禁断症状も出て苦しいのだが、結婚式も迫っているので精神病院に入院するわけにも行かず、「先生何とかしてください」と泣きついてみたところ、「緊急避難的に」ちょっと強めの精神安定剤を処方されました。
「お酒の代わりに、これを飲んで、ともかく結婚式を乗り切りなさい」というわけでした。
吉事の前に凶事があったからお払いをすべきだという話が、どこからともなく出てきて、僕の実家は廃仏毀釈で菩提寺を失って以来、何かあると神主を呼んでいたので、祝詞をあげてもらいました。
安定剤の助けがあったからといって、ともかくその後結婚式まで飲まずにいたのは、やはり父の人生の最後の数日間から酒を奪ってしまったのは、僕の飲酒に問題があったからだと意識していたからでしょう。しかしそうした反省の気持ちも、その後の再飲酒によって「一番苦しいのは俺だ」という考えにかき消されていってしまいます。
そういえば父にあのとき、すごく悪いことをしたな、と思い出すのは、実にAAでの再出発から1年以上経過してからであります。それほどまでに、僕は冷たい人間なのであります。
(この項、おわり)
2005年11月01日(火) 10 years ago (9) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (9) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
日経バイト誌が休刊だそうであります。bit誌もすでに休刊。これからやってくるソフトウェアエンジニアたちは、いったいどこから情報をえるのでしょうか?
さて10年前。
農夫であった父の晩酌は決して贅沢なものではありませんでした。
ビールがあればビールを、日本酒があれば日本酒を、焼酎があれば焼酎を飲んでいました。その日の飯はまずくても、酒さえあればという飲み方でしたから、多分にアル中的ではありましたが、夕に酒を切らしていることに気づいても、決してあわてて買いに出ることもなく、仕方なさそうな顔をして寝てしまう人でありました。
金がないときはホワイトリカーをお湯で割って飲んでいました。梅酒などを造るための酒で、そのまま飲むためのものではないので、アルコール臭い、ただ酔えるだけの液体でした。父にとって酒は体を温め疲れを取るためが第一で、味を楽しむのは二の次であったようです。僕は自分で酒を買いに行くのが面倒になると、父の酒を盗んで飲んでいたので、ホワイトリカーにもずいぶんお世話になりました。
なるべく父の酒を盗むのはやめて、自分で酒を買ってこようとは思うのですが、夜中に酒を切らすとやむなく台所の父の酒を失敬するのでした。翌日の夕になって酒が減っているのを見つけると、父は「夕べは台所に頭の黒いネズミが出たようだ」とつぶやくのでした。
「頭の黒いネズミ」と呼ばれるのはとてもバツが悪いものです。浅知恵を働かせた僕は、失敬したぶんだけ瓶に水を入れ、父の酒を薄めてごまかすようになりました。焼酎やホワイトリカーはともかく、日本酒は水で薄めるととたんに味が変わります。おまけに、薄めすぎると燗をつけるときに沸騰してしまうのでした。
これには父も母も怒りあきれたものでした。
聞けば、兄は高校生の時に同じことをしたそうです。それを30才を過ぎた自分が毎晩やっている愚かしさです。
息子が精神病院に入院するようになっても、父は夕食の席で酒を飲むのをやめませんでした。別に僕もやめてくれとは頼みませんでした。
だが、10年前のあのとき、父はふっつりと晩酌をやめてしまいました。
何日か経ってそれに気づいた僕は、母に尋ねました。
「親父が晩酌をやらなくなったのはなんでなんだ? やっぱり俺に原因があるのか?」
それを聞いた母は、「お前は自分の言ったことを覚えていないのか」と僕をしかりました。
なんでも、母は「どうやったらお前の酒が止まるのか」と自分の部屋で飲んでいた僕に尋ねたそうなのです。そのときに僕は「毎晩毎晩目の前で親父に酒を飲まれて、俺の酒が止まるわけはないだろう」と答えたそうなのです。
それは単に酒が止まらない言い訳に過ぎなかったのでしょう。だが、母は真に受けて、父に「息子の前で酒を飲むのをやめてくれるよう」頼んだのでした。なんと言っても、息子はあと1ヶ月ほどで結婚式を迎え、この家を出て行ってしまうのですから、そう長い辛抱ではないと父も思ったのかもしれません。
「親父は別に酒をやめた訳じゃないだろう。晩酌の代わりに寝床でウィスキーを飲んでいるんだから。こそこそ飲まないで堂々と晩酌をしてくれればいいんだ。冷たい酒は親父も好きじゃないだろう」
僕は父母の寝室から偶然のぞいた光景を、僕は言葉にしてしまいました。
寝室で酒を飲んでいることを息子に知られたと知った父は、その日から寝室で酒を飲むことすらやめてしまいました。
完全な禁酒に入った父とは対照的に、息子の僕の酒は止まりませんでした。
数日後、野菜を出荷しに行った市場で、父が意識を失って倒れたという報が母の元に入りました。珍しく僕は朝から仕事に行っていて、夕方までそれを知りませんでした。市場の人は救急車を呼んだそうですが、その到着より早く意識を回復した父は、運ばれるのを拒み、駆けつけた母の車に乗って自宅へと帰ってしまいました。
しっかりした検査のできる大きな病院に行こうという母の意見を聞き入れず、父の行こうとした医者は近所に開院したばかりの内科診療所でした。後年になって母が言うには、父は大きな病院に行って入院するのが嫌だったのだろう、野菜の世話ができなくなるのが嫌で、入院施設のないところにこだわったのに違いないというのです。僕もそれは父らしい考えだと思います。
結局夫婦は意見を譲歩し合い、それなりの検査設備のある個人医院にかかりに行きました。
診断は心筋梗塞。入院すべきかどうかは自宅で安静にして数日様子を見てから、必要なら大病院に紹介する。たばこは厳禁。お酒は血行を良くするので一日一合までならよし。という話でした。
これで父も一合だけ酒を飲んでくれるだろうと思うと、自室で隠れて酒を飲んでいた僕の罪悪感も少し軽くなりました。しかし、翌日起きてみると、父は酒は飲んでいなくて、かわりに灰皿に何本かのたばこの吸い殻がありました。「医者の言いつけを守っていない」と母は父を責めました。
その日の晩は、母は僕の息が酒臭いことはとがめずに、僕と二人で父を入院させた方がいいか、させるのだったらどこの病院がいいか相談していました。寝室で寝ていた父が起きてきて、どうしても体が冷えてしかたないので今夜は居間のコタツで寝ると宣言しました。僕と母はコタツを明け渡して、それぞれ寝室に下がることにしました。
「親父、一合だけだったらいいんだ、一合だけなら体にいいって医者も言ってるんだ」
記憶はすでにぼやけて曖昧ですが、おそらくそれが父と交わした最後の会話になりました。
翌朝、体から酒が切れて苦しくなって不必要に早く目が覚めた僕は、すでに明るくなっているものの酒を買いに酒屋まで出かけるか、それともお勝手から父の酒を失敬するか、迷いながら廊下へと忍び出ました。
どっちにしても、居間のコタツで寝ているはずの父にばれるとバツが悪いです。父が起きていないか、確認しないといけません。そっと居間の戸を開けて覗き込んでみると、父がおかしな姿勢で寝ていました。前の年に祖母が亡くなったときもそうでした。そんな格好で寝ていたら苦しいだろうという姿勢で人が寝ているときは、もうその人の寿命が尽きた後なのです。
コタツの脇の灰皿には数本の吸い殻が残されていました。
母を起こしに行きながら僕は、禁断症状で体は苦しいけれど、これからまた飲んで寝るというわけにもいきそうにない、どうやら苦しい一日が始まったようだと感じていたのでした。
2005年10月29日(土) 冬休み 同僚に麻雀を朝4時までつきあわされ、寝たのが朝6時だったので、起きられるかどうか心許なかったのですが、子供との約束は守らねばなりません。
お昼には起きて、映画『あらしのよるに』を見に行ってきました。上映時間120分というのは、さすがに小学校低学年の子供にはきつかったかもしれません。途中で飽きてきて、ポップコーンを頬張ってなんとか集中力を取り戻すといった風情でありました。
映画の内容については可もなく不可もなくといったところでしょうか。つまらなくはなかったけれど、人に「ぜひ見たほうが良いよ」と勧めるほどでもなかったかな、という感じです。
イチゴ狩りがポシャってしまったので、別の企画をと考えて、二日前の夜に「映画を見に行こう」と誘ったら子供たち二人はとても乗り気でした。もうすこし大きくて字幕が読めるようだったらハリーポッターなのでしょうけれど・・・。
2005年10月26日(水) 会社の飲み会 会社の飲み会に出席しました。
こういうものに意味がないとは言わないですが、やっぱり疲れます。
騒々しいテーブルの片隅に座って、たばこの煙に燻され、愛想笑いをしながら、飲み飽きたジンジャーエールに口を付けても爽快感はまるでなしであります。
もうそろそろお開きという時間になって、本部長が登場して、さらに延長1時間。
やっと先に帰らせてもらうことにして、「野球はどうなったんだろう」と車のラジオをつけてみたら、ボビーの英語が飛び込んできて結果がすぐに知れてしまいました。
マリーンズはパ・リーグの中では一番好きなチームですが、いかんせん試合を見るチャンスがありません。顔と名前が一致するのは、代打で一回出た初芝ぐらいです。敗れた阪神を語る人は多いのですが、パ・リーグの一位ソフトバンクホークスを語る人は少ないです。
「プレーオフ制度に問題があるにしても、パ・リーグが盛り上がったのは確かだし、プレーオフ制度がなかったら、毎年ソフトバンクの優勝ではないか」というのが酒の席でのおおかたの意見でありました。たしかにそうかもしれません。
だが、へんてこな制度を導入するよりも、完全ウェーバー制のドラフトだとか、テレビ放映権収入の均等分配などで、普通に140試合戦って、毎年どこが優勝するかわからないくらい戦力が拮抗する仕組みにした方が面白いと思うのですが、当分そうはなりそうもありませんね。
しかし、土日の休みにテレビ中継で見るのが、野球に接する精一杯という、いまの自分の生活を見直した方がいいような気がするのであります。
むかしBOX-916に、疲労が取れるのは「睡眠・飲酒・入浴」だと誰かが書いていましたが、二日続けて入浴というご褒美も取り上げられてしまいました。しかたなく、シャワーを浴びていますが、暖房のない部屋はもう寒くてたまりません。
ともかく来年は野村楽天と古田ヤクルトを応援します。
日本シリーズでの対決は無理でも、交流戦での師弟対決を楽しみにしています。
2005年10月24日(月) あったかお風呂 仲間がミーティングで、「疲れて、帰ったらこのまま寝てしまいたいと思っても、帰って風呂にはいると身体が温まって、血行が良くなって、なんだか調子が良くなる」と言っていましたが、
僕もそうですたい。
(たまには、こういう技もしないと)。
今夜は久しぶりに母屋でお風呂でありました。週末はちょっと風邪気味だったので、お風呂はお休みでした。僕自身は風邪で熱があっても風呂に入る人なのですが、義父母は風邪の時には風呂にはいるもんじゃないという意見の持ち主であって、婿の身としてはあまり自分の意見を押し通すわけにもいかずにおりました。
しかし、低体温、低血圧の身としては、お風呂なしは辛いです。
久しぶりにお風呂にはいると、ほんわかと身体が温まっていい気持ちであります。
酒も、飲み始めの頃は、飲むとほんわかといい気分に暖まった時期もありました。でも、いつの間にか泥酔するまで飲まないと気が済まなくなっていたのですが、それでも「ほろ酔い」があるんではないかと、何度も「コントロールされた飲酒」にチャレンジしては敗れ去っていたわけです。
AAメンバーが温泉が好きな人が多いのもうなずけるような気がします。
2005年10月23日(日) 最近コンテンツの更新が少ない理由 うつっぽいというか、風邪っぽいというか、どっちともつかないので、一日寝ていました。
最近はJIGブラウザなどで携帯電話から『心の家路』をごらんになっている人もいるようです。
しかしすべての人がフルブラウザを使える携帯電話を持っているわけではありません。
だから、なるべく多くの人の携帯電話で『心の家路』を見られるようにしたい→Compact HTMLやHDMLのページを作りたい→いちいち携帯専用のページを記述するのは面倒だ→パソコン用のページから自動生成するようにすればいい→パソコン用のページを解析して、Compact HTMLやHDMLのベースになるページを作るソフトを書けばいい・・・。
そういうことを休職中にやっておけば良かったのでしょうが、休職中はあまりプログラムを書いたりする根を詰める作業は禁止されていたので、今頃になって取り組んでいます。なんとかお正月までには、携帯やテキストブラウザで見られるページと、パソコンで見られるページを統合したいと思っています。
URLもwww.ieji.orgに来たのをAgentで分類して、テキストブラウザや携帯でも同じURLでポイントできるようにしたいですね。
その次が、日記のサイト内への収録。そして最後が掲示板の予定です。
10月初旬に眼鏡屋で頼んだめがねがやっとできあがったという連絡が来ました。明日からまたセルフレームのめがねに戻れそうです。
よくある間違い。
「心の旅路」・・・ときどき家出してますが、心だけで旅には行きません。
「こころの家路」・・間違いではない、がちょっと違う。
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