心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年10月22日(土) うう、寒い

2階に引っ越しをしたのは8月だったので、暖房のことはまったく考えていませんでした。
いくら数百ワットの電力を消費するパソコンを2台稼働させているとは言え、それはCPUもディスクも最大稼働したときのピーク値。普段はせいぜい電球程度の消費電力&発熱をしているにすぎません。

というわけで、寒い2階を逃げ出して、3階にこたつを設置して、ノートパソコンに頼っております。

このノートパソコンは毎日会社にも持って行っているというものです。
が、自宅で使ってみると、内蔵しているハードディスクの回転音が気になります。このノートパソコンを購入したのはもう5年前になるでしょうか? 当時は流体軸受けのハードディスクが世に出てきた頃でありますが、まだ信頼性に疑問が残ると言われた時期で、このノートPCのものはボールベアリングの軸受けであります。

ベアリングのハードディスクの場合は機械的に接触しているので、どうしても摩耗が起こります。そして摩耗するほどに音がうるさくなってくるのです。

会社は静かな環境だと思っていても、やっぱりそれなりに騒音レベルは高いのでしょう。仕事中は気になりませんが、自宅では気になります。

できればパソコンごと買い換えたいところでありますが、ハードディスクの入れ替えだけですませようかどうしようか・・・というこの頃であります。


2005年10月21日(金) 年金裁定下る

雑記を読み返してみると、7月7日に社会保険事務所で障害年金の申請を行っています。8月中旬に付箋がついていったん手元に戻ってきたのを再提出したのが8月22日。そしてまた、9月の中旬に書類に不足があるといって、追加を求められたので提出しておきました。
このぶんだと裁定が下るのは来年になるのかもしれない・・・。そう思っていたのでしたが、今日、社会保険業務センターから封書が届きました。

なにしろ、後から出した妻の年金の裁定の方が先に出ているのであります。僕の方はいろいろと書類の不備を突かれている様な気がして、これは不支給の決定をするための証拠集めではないかと疑い、だんだんにやるせない気分になっていたところでありました。

幸運のおまじないである、ハミルトン・アイランドのおみやげのペーパーナイフで封を切りました。中には「裁定通知書」が入っていました。結果についてはここに書くことはできませんが、3月に東京のクリニックに電話をするところから初めて、実に半年以上かかっているわけであります。長かったというのが正直な感想です。

あと、ネットで調べたときにも書かれていたことでもあり、妻の通知もそうだったので、驚きはしませんでしたが、「裁定通知書」のような重要な書類が書留でもなく、配達記録でもなく、ただ普通の郵便で届くという不思議であります。不達だったりしたらどうなるんだろう。

話は変わって、今回はうつ病で申請したわけですが、「アルコール依存症」で障害年金の申請ができるかどうか考えてみました。これは「その他の精神疾患」というくくりの中でも、中毒および器質精神病というたぐいに分類されると思うのですが、基準は「適当な介護がなければ、日常生活の用を弁ずることが不能である程度のもの」ということなので、アルコール性痴呆やコルサコフ症候群を発症するぐらいの勢いでないと無理そうです。それよりも、肝臓などの内臓疾患での申請の方が通りそうな気もします。

さて、裁定に不服があれば「審査請求」という手段が残されているのでありますが、もう書類作成はめんどうくさくてたまらないので「これぐらいにしておこう」という思いと、一人一人の審査請求が積もり積もって、障害年金制度の改革につながっていくので、「ボランティアだと思ってやるべし」という思いと、どちらにしようか、ちょっと悩んでいるのであります。


2005年10月20日(木) 不調

しばらく調子が良かったと思ったらまた不調であります(うつが)。
やっぱりサーバー移転で夜更かしをしたのがいけなかったのでしょう。
つくづく無理のきかない年齢になってきていることを感じます。

そういえば、6時間ぐらいサーバーにアクセスできない状態になっていました。.htaccessの記述ミスであります。ご迷惑をおかけしました。

明日からは早く寝たいものです。


2005年10月19日(水) 精神科

僕と妻のかかっている精神科のクリニックでは子供は見てくれないので、別のクリニックのお世話になっています。
話を聞いてもらって、ほんの少しばかりの安定剤を出してもらっています。毎週きてくださいと言われているのですが、あんまり学校は休みたくないみたいなので、隔週です。
妻が入院中なので、今日は僕が付き添っていきました。

妻の場合には午後なのですが、僕は午後は仕事なので、朝一番から行くことにしました。9時から診察開始のところ、8時から受け付け開始だそうです。が、・・・8時に行っても開いていないし。しばらく待って、受付のおねーさんがやってきました。結局9時までにやってきて受付を済ませた患者さんは僕らを含めて2組だけです。「次からは8時40分ぐらいでいいかなぁー」と親子でうなずき合いました。

ここのクリニックはじっくり話を聞いてくれます。なので、必然的に一人あたりの診察時間は長くなります。そうなると待ち時間も長くなってしまうわけです。そのせいか、受付で「今日はお薬だけお願いします」という患者さんが多いです。なかには電話で「何時頃薬を取りに行きます」なんて言ってくる人も珍しくないようです。待合室にそんなに患者さんはいないのに、受付に薬の袋がたくさん並んでいます。

子供を学校まで送ってから、今度は自分のかかっているクリニックへ。こちらでは「薬だけ」とか言っても、「なるべく問診を受けていってください」と言われます。それが正しいあり方なのかもしれませんが、待ち時間があまり長くならないようにするためには、一人あたりの診察時間は短くならざるを得ません。「薬だけ」というのはあくまでも非常手段?のようです。

今年1月にうつで休職を決めたときには、週に2回来てくださいと言われていました。しばらくして週に1回になりました。それまでは長いこと「2週間に一回」だったので、毎週行くのは結構面倒でした。10ヶ月近くたって、やっと「最近落ち着いているから、2週間にいっぺんでいいでしょう」と言われて、ひさしぶりに分厚い薬の束を抱えて帰りました。

どうも精神的なものは、「悪くなるのはあっという間で、回復には時間がかかる」というもののようです。アルコール依存症しかり、うつ病しかり。悪くならないように日頃のこまめなケアが大切という点では、心も身体も一緒かもしれませんが。

そういえば、昨日の晩、スポンサーから電話がありました。(なんで電話してくるんだろう)と思いましたが、そこはやっぱり音信不通が長くても、「家族の入院」というストレス・ライフ・イベントには、AAスポンサーらしいケアが必要だと思ったのでしょう。
いつまでたってもスポンサーはスポンサーで、スポンシーはスポンシーなのかもしれませんね。

Perlのスクリプトの書き直しもすんで、やっとサーバー移転が終わりました。


2005年10月17日(月) 旧サーバー解約・・・

昨夜寝る前に、前のサーバーの契約を解除しようと下手な英文でメールを送っておきました

今日はひさびさの本社出張でありました。
ふだんだったらノートパソコンを持って行くのであります。
でも、本社の社内LANには個人所有のノートPCは接続させてくれません。まあ、セキュリティを考えれば当たり前なんですが。しかたがないので、インターネット接続用にはPHSを持って行くことにしています。しかし、今はPHSは入院中の妻の手元。
というわけで、ひさしぶりに「自宅に帰るまでメールチェックもなし」という状態に置かれました。

帰宅してメールをチェックしたものの、サーバー会社からは返事も来ていません。
しかたないので、サポートのページを開いてみました。電話でのサポートというのは無理であります。ロンドンまでの電話代という問題ではなく、もはや英語にまったく自信がないからです。
IRCチャットで24時間サポートをしている、というのでIRCクライアントをインストールして、IRCサーバーにログインしてみました。しばらく様子をうかがっていると、そこにはサーバー会社のサポート係の人が常駐していて、質問にチャットで答えてくれるようです。
下手な英語でキャンセルを頼んでみました。
「契約期間が切れたら更新のためのメールで請求書がいくが、それを無視して払わないように」
途中で解約できないのか?
「契約期間中のキャンセルは受け付けていない」
DNS情報はどうすんだ?
「レジストラのDNS情報を自分で編集してくれ」

というわけで、旧サーバーも解約できない状態で置かれています。そして相変わらず旧サーバーは意味不明のアタックにさらされていて、転送量は日増しに増しているというわけです。今時転送量制限のあるレンタルサーバーなんて珍しいのですが、旧サーバーはそうなのであります。そして、転送制限量を超えると「月末までアクセスできなくなる」というのではなくて、従量制で追加料金を請求されてしまうというわけです。
これが面白くないので、サーバーを移転したのに、旧サーバーが解約できないのでは、意味がないではないか・・・。
というわけで、深夜まで対策に追われたのでありました。もう朝4時だよ。


2005年10月16日(日) 新サーバー契約

現在のIEJI.ORGサーバーとの契約はまだ3ヶ月ほど残っているのですが、新しいサーバーと契約してしまいました。値段の点でロリポップにしようかと思ったのですが、サーバーのレスポンスなども勘案したあげく、さくらインターネット と契約することにしました。

というわけで、移転作業を一日やっておりました。

あとアクセス解析のスクリプトの修正が終われば、現在のサーバーは解約して、新サーバーにIEJI.ORGを割り当てることになります。

すでに仮のアドレスでは http://ieji.sakura.ne.jp/ 稼働しているので、ひまな人は見に行ってみて頂きたいです(といっても、同じものが置いてあるだけですが)。

ロンドンのサーバーは実に700ものドメインとの共有でしたが、今度のは100です。それにサーバーのスペックも向上しているのでレスポンスはだいぶ良くなると思います。


2005年10月15日(土)

10 years ago (7) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

娘たちと3人でバスに乗ってママのお見舞いに行きました。
なぜバスか?
それはパパが仕事の日も、子供たちだけでママに会いに行けるようになるための練習です。まあ、実際問題として小学校3年生と1年生でバスに乗せるかは別として、バスに乗るのも社会勉強かなと思って、雨の中、ジジババが反対するのもふりきって、でかけました。

事前にバスの路線図と時刻表をネットからプリントアウトしておきました。市内は複数の路線が入り乱れているため、バス停によっては、どのバスに乗るのかかなり注意しないといけないところもあります。けれど我が家の直近のバス停は、大学病院の前にも止まる循環線が通っているだけです。30分に1本という割合です。

バスに乗れたので、こどもたちはたいそう楽しそうではありました。
入院治療計画書というのを見せてもらいました、入院の目的は「休養」で、入院期間の目安は3〜4週間。すでに一週間経過しているので、あと2〜3週間で退院かもしれません。もっといろいろ薬を変えてみたりしてじっくり入院してもらいたい気持ちもあるのですが、結局「休養」で終わってしまいそうな気配であります。
まあ、入院を機会にいろんなことを見直すきっかけにはなりましたが・・・。

それにしても、サーバーへの嫌がらせ的攻撃が減りません。対策もいたちごっこなので、新しくサーバーを借りて移転の準備を始めました。今度のサーバーもBSDであるうえに、シェルまで使えます。これでますます我が家のパソコンにLinuxを入れる理由が減っていきます。
Perlスクリプトのたぐいは書き直しを迫られるものもあり、移転の準備にはしばらく時間がかかりそうです。

さて10年前。

老人の口から出た言葉は叱責でした。

「お前さんは生きていないよ。生きていないのに生きている意味がわかるわけがない。生きてみれば生きる意味はわかる。生きりゃいいんだ。ただ生きてみろ」

またしばらく沈黙が訪れた後、母が「ご迷惑をおかけしまして」などということをしゃべり、ミーティングは終わりになりました。

みんなは帰っていきましたが、いつも僕を迎えてくれていた会場チェアマン夫妻は残って、僕ら親子に声をかけてくれました。そして、「せっかくここまできたんだから、もう少し話をしようや」ということになって、僕らはチェアマン夫妻の車の後を追って、夫妻の家へと向かったのであります。後に僕のAAスポンサーになってくれるこの人の家を訪れたのは、後にも先にもこれ一回です。

八ヶ岳の山麓の高原にその家はありました。その家の2階の一室に招かれ、座布団の上に座って、気楽に話をしようということになりました。

ですが、僕は出かける前に飲んだ酒が回ってきていて、気分が悪く、機嫌も悪くなっていました。僕はチェアマンに絡み始めました。

「おい○○○(呼び捨てであります)。あんた、5年もAAをやっていて、飲まないでいるのが3年てことは、最初の2年はやっぱり飲んだってことじゃないか。それに、いつも自分で言っているが、5年かかって結局飲まなんでいるのは、自分と奥さんだけだろう。他の人を助けるとか何とか言ったって、5年間でほかに一人も助かってねーじゃねーか。偉そうなことを言っていたって、こんなAAなんて効きゃーしねーじゃねーか」

後のスポンサーは、元やくざ者であります。おまけに両手とも小指が半分しかないという人です。キレると男二人で羽交い締めにしないと止まらないという人であります。はらわたの中は煮えくりかえっていたに違いありません。が、耐えた。我慢したのは、僕の母の手前、僕を殴るわけにはいかなかったからだと、後日語っています。

調子に乗った僕は、神について何を知っているか問いました。チェアマンは「たいしたことは知らん」と答えるのが精一杯でした。

さらに勢いづいた僕は、「ほーらみろ、そんなあんたがやっているから、いつまで経っても誰も助からねーんだよ。世の中にはできる人間とできない人間がいるんだ。俺が本気でこれを(とミーティング・ハンドブックを振り回しながら)やったなら、俺みたいな優秀な人間がやったなら、あっという間に何万人と助けてだな、全国から教祖さまとあがめ奉られるようになってやるぜ!」

後のスポンサーは僕のことを「完全な狂人」だと思ったそうであります。僕の記憶はこの後少し飛んでいて、夫妻が僕らを高速道路のインターチェンジまで誘導してくれたところだけを覚えています。

この(後の)スポンサー宅でのやりとりを、僕はすっかり忘れていて、思い出すまでに2年以上かかっています。スポンサーはこの後3週間うつで寝込んだという話です。

また、当時はACという言葉が世に出てきた頃で、AAミーティングにACoAの人がやってきていました。彼女は僕の「生きている意味って何ですか?」という言葉に反応してしまい、ミーティングから帰った後もその言葉が頭から離れず、いっそのこと死んでしまおうと、飛び降り自殺をするために子供3人をつれて霧ヶ峰にドライブしたそうであります(未遂に終わったそうですが)。
そんな話も、僕が飲まなくなって何ヶ月した後で聞くわけです。

たぶん、もっと酷い言葉を使っていたのでしょう。でも、とぎれとぎれの記憶の中で思い出せることはそれだけです。

後年僕が調子に乗りすぎることがあると、スポンサーがいさめて「さすがに教祖になって何万人も救う人は違うなぁ」と言うので、さすがのあの言葉はまずかったなと思うのでありました。

いつかしらふで訪れる約束をしたスポンサー宅ですが、なんだかんだいって訪れていません。近所では有名な猫屋敷だそうであります。

(この項終わり)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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