心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年10月19日(水) 精神科

僕と妻のかかっている精神科のクリニックでは子供は見てくれないので、別のクリニックのお世話になっています。
話を聞いてもらって、ほんの少しばかりの安定剤を出してもらっています。毎週きてくださいと言われているのですが、あんまり学校は休みたくないみたいなので、隔週です。
妻が入院中なので、今日は僕が付き添っていきました。

妻の場合には午後なのですが、僕は午後は仕事なので、朝一番から行くことにしました。9時から診察開始のところ、8時から受け付け開始だそうです。が、・・・8時に行っても開いていないし。しばらく待って、受付のおねーさんがやってきました。結局9時までにやってきて受付を済ませた患者さんは僕らを含めて2組だけです。「次からは8時40分ぐらいでいいかなぁー」と親子でうなずき合いました。

ここのクリニックはじっくり話を聞いてくれます。なので、必然的に一人あたりの診察時間は長くなります。そうなると待ち時間も長くなってしまうわけです。そのせいか、受付で「今日はお薬だけお願いします」という患者さんが多いです。なかには電話で「何時頃薬を取りに行きます」なんて言ってくる人も珍しくないようです。待合室にそんなに患者さんはいないのに、受付に薬の袋がたくさん並んでいます。

子供を学校まで送ってから、今度は自分のかかっているクリニックへ。こちらでは「薬だけ」とか言っても、「なるべく問診を受けていってください」と言われます。それが正しいあり方なのかもしれませんが、待ち時間があまり長くならないようにするためには、一人あたりの診察時間は短くならざるを得ません。「薬だけ」というのはあくまでも非常手段?のようです。

今年1月にうつで休職を決めたときには、週に2回来てくださいと言われていました。しばらくして週に1回になりました。それまでは長いこと「2週間に一回」だったので、毎週行くのは結構面倒でした。10ヶ月近くたって、やっと「最近落ち着いているから、2週間にいっぺんでいいでしょう」と言われて、ひさしぶりに分厚い薬の束を抱えて帰りました。

どうも精神的なものは、「悪くなるのはあっという間で、回復には時間がかかる」というもののようです。アルコール依存症しかり、うつ病しかり。悪くならないように日頃のこまめなケアが大切という点では、心も身体も一緒かもしれませんが。

そういえば、昨日の晩、スポンサーから電話がありました。(なんで電話してくるんだろう)と思いましたが、そこはやっぱり音信不通が長くても、「家族の入院」というストレス・ライフ・イベントには、AAスポンサーらしいケアが必要だと思ったのでしょう。
いつまでたってもスポンサーはスポンサーで、スポンシーはスポンシーなのかもしれませんね。

Perlのスクリプトの書き直しもすんで、やっとサーバー移転が終わりました。


2005年10月17日(月) 旧サーバー解約・・・

昨夜寝る前に、前のサーバーの契約を解除しようと下手な英文でメールを送っておきました

今日はひさびさの本社出張でありました。
ふだんだったらノートパソコンを持って行くのであります。
でも、本社の社内LANには個人所有のノートPCは接続させてくれません。まあ、セキュリティを考えれば当たり前なんですが。しかたがないので、インターネット接続用にはPHSを持って行くことにしています。しかし、今はPHSは入院中の妻の手元。
というわけで、ひさしぶりに「自宅に帰るまでメールチェックもなし」という状態に置かれました。

帰宅してメールをチェックしたものの、サーバー会社からは返事も来ていません。
しかたないので、サポートのページを開いてみました。電話でのサポートというのは無理であります。ロンドンまでの電話代という問題ではなく、もはや英語にまったく自信がないからです。
IRCチャットで24時間サポートをしている、というのでIRCクライアントをインストールして、IRCサーバーにログインしてみました。しばらく様子をうかがっていると、そこにはサーバー会社のサポート係の人が常駐していて、質問にチャットで答えてくれるようです。
下手な英語でキャンセルを頼んでみました。
「契約期間が切れたら更新のためのメールで請求書がいくが、それを無視して払わないように」
途中で解約できないのか?
「契約期間中のキャンセルは受け付けていない」
DNS情報はどうすんだ?
「レジストラのDNS情報を自分で編集してくれ」

というわけで、旧サーバーも解約できない状態で置かれています。そして相変わらず旧サーバーは意味不明のアタックにさらされていて、転送量は日増しに増しているというわけです。今時転送量制限のあるレンタルサーバーなんて珍しいのですが、旧サーバーはそうなのであります。そして、転送制限量を超えると「月末までアクセスできなくなる」というのではなくて、従量制で追加料金を請求されてしまうというわけです。
これが面白くないので、サーバーを移転したのに、旧サーバーが解約できないのでは、意味がないではないか・・・。
というわけで、深夜まで対策に追われたのでありました。もう朝4時だよ。


2005年10月16日(日) 新サーバー契約

現在のIEJI.ORGサーバーとの契約はまだ3ヶ月ほど残っているのですが、新しいサーバーと契約してしまいました。値段の点でロリポップにしようかと思ったのですが、サーバーのレスポンスなども勘案したあげく、さくらインターネット と契約することにしました。

というわけで、移転作業を一日やっておりました。

あとアクセス解析のスクリプトの修正が終われば、現在のサーバーは解約して、新サーバーにIEJI.ORGを割り当てることになります。

すでに仮のアドレスでは http://ieji.sakura.ne.jp/ 稼働しているので、ひまな人は見に行ってみて頂きたいです(といっても、同じものが置いてあるだけですが)。

ロンドンのサーバーは実に700ものドメインとの共有でしたが、今度のは100です。それにサーバーのスペックも向上しているのでレスポンスはだいぶ良くなると思います。


2005年10月15日(土)

10 years ago (7) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

娘たちと3人でバスに乗ってママのお見舞いに行きました。
なぜバスか?
それはパパが仕事の日も、子供たちだけでママに会いに行けるようになるための練習です。まあ、実際問題として小学校3年生と1年生でバスに乗せるかは別として、バスに乗るのも社会勉強かなと思って、雨の中、ジジババが反対するのもふりきって、でかけました。

事前にバスの路線図と時刻表をネットからプリントアウトしておきました。市内は複数の路線が入り乱れているため、バス停によっては、どのバスに乗るのかかなり注意しないといけないところもあります。けれど我が家の直近のバス停は、大学病院の前にも止まる循環線が通っているだけです。30分に1本という割合です。

バスに乗れたので、こどもたちはたいそう楽しそうではありました。
入院治療計画書というのを見せてもらいました、入院の目的は「休養」で、入院期間の目安は3〜4週間。すでに一週間経過しているので、あと2〜3週間で退院かもしれません。もっといろいろ薬を変えてみたりしてじっくり入院してもらいたい気持ちもあるのですが、結局「休養」で終わってしまいそうな気配であります。
まあ、入院を機会にいろんなことを見直すきっかけにはなりましたが・・・。

それにしても、サーバーへの嫌がらせ的攻撃が減りません。対策もいたちごっこなので、新しくサーバーを借りて移転の準備を始めました。今度のサーバーもBSDであるうえに、シェルまで使えます。これでますます我が家のパソコンにLinuxを入れる理由が減っていきます。
Perlスクリプトのたぐいは書き直しを迫られるものもあり、移転の準備にはしばらく時間がかかりそうです。

さて10年前。

老人の口から出た言葉は叱責でした。

「お前さんは生きていないよ。生きていないのに生きている意味がわかるわけがない。生きてみれば生きる意味はわかる。生きりゃいいんだ。ただ生きてみろ」

またしばらく沈黙が訪れた後、母が「ご迷惑をおかけしまして」などということをしゃべり、ミーティングは終わりになりました。

みんなは帰っていきましたが、いつも僕を迎えてくれていた会場チェアマン夫妻は残って、僕ら親子に声をかけてくれました。そして、「せっかくここまできたんだから、もう少し話をしようや」ということになって、僕らはチェアマン夫妻の車の後を追って、夫妻の家へと向かったのであります。後に僕のAAスポンサーになってくれるこの人の家を訪れたのは、後にも先にもこれ一回です。

八ヶ岳の山麓の高原にその家はありました。その家の2階の一室に招かれ、座布団の上に座って、気楽に話をしようということになりました。

ですが、僕は出かける前に飲んだ酒が回ってきていて、気分が悪く、機嫌も悪くなっていました。僕はチェアマンに絡み始めました。

「おい○○○(呼び捨てであります)。あんた、5年もAAをやっていて、飲まないでいるのが3年てことは、最初の2年はやっぱり飲んだってことじゃないか。それに、いつも自分で言っているが、5年かかって結局飲まなんでいるのは、自分と奥さんだけだろう。他の人を助けるとか何とか言ったって、5年間でほかに一人も助かってねーじゃねーか。偉そうなことを言っていたって、こんなAAなんて効きゃーしねーじゃねーか」

後のスポンサーは、元やくざ者であります。おまけに両手とも小指が半分しかないという人です。キレると男二人で羽交い締めにしないと止まらないという人であります。はらわたの中は煮えくりかえっていたに違いありません。が、耐えた。我慢したのは、僕の母の手前、僕を殴るわけにはいかなかったからだと、後日語っています。

調子に乗った僕は、神について何を知っているか問いました。チェアマンは「たいしたことは知らん」と答えるのが精一杯でした。

さらに勢いづいた僕は、「ほーらみろ、そんなあんたがやっているから、いつまで経っても誰も助からねーんだよ。世の中にはできる人間とできない人間がいるんだ。俺が本気でこれを(とミーティング・ハンドブックを振り回しながら)やったなら、俺みたいな優秀な人間がやったなら、あっという間に何万人と助けてだな、全国から教祖さまとあがめ奉られるようになってやるぜ!」

後のスポンサーは僕のことを「完全な狂人」だと思ったそうであります。僕の記憶はこの後少し飛んでいて、夫妻が僕らを高速道路のインターチェンジまで誘導してくれたところだけを覚えています。

この(後の)スポンサー宅でのやりとりを、僕はすっかり忘れていて、思い出すまでに2年以上かかっています。スポンサーはこの後3週間うつで寝込んだという話です。

また、当時はACという言葉が世に出てきた頃で、AAミーティングにACoAの人がやってきていました。彼女は僕の「生きている意味って何ですか?」という言葉に反応してしまい、ミーティングから帰った後もその言葉が頭から離れず、いっそのこと死んでしまおうと、飛び降り自殺をするために子供3人をつれて霧ヶ峰にドライブしたそうであります(未遂に終わったそうですが)。
そんな話も、僕が飲まなくなって何ヶ月した後で聞くわけです。

たぶん、もっと酷い言葉を使っていたのでしょう。でも、とぎれとぎれの記憶の中で思い出せることはそれだけです。

後年僕が調子に乗りすぎることがあると、スポンサーがいさめて「さすがに教祖になって何万人も救う人は違うなぁ」と言うので、さすがのあの言葉はまずかったなと思うのでありました。

いつかしらふで訪れる約束をしたスポンサー宅ですが、なんだかんだいって訪れていません。近所では有名な猫屋敷だそうであります。

(この項終わり)


2005年10月14日(金) 10 years ago (6) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (6) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

娘たちの授業参観のために今日は仕事をお休みです。
最近は、毎日起きてから1時間以内にお通じがあります。今まで生きてきて、このような状態が長続きしたことがありません。酒の飲み過ぎで、水様便を垂れ流していた頃を除けば、便秘と下痢を周期的にくり返しているのが僕の人生でありました。
やっぱり、毎週月・水・金と定期的に会社にやってきてくれるヤクルトおばさんからジョアのレモン味を買い、毎日飲んでいること、しかも先週飲み忘れた期限切れのやつも気にせずに飲んでいることが良いのかもしれません。
難を言えば、うんちが柔らかすぎて、最後の方はやっぱり水様便になってしまうことでしょうか。忙しいのに2回・3回とトイレに行かざるを得ないことも珍しくありません。
(あ、食事中の方には申し訳ありませんでした。でも最近昼休みのアクセスは減っていますね)。

というわけで、授業参観までには「まだ時間がある」と思っていたところをトイレに釘づけになってしまい、あわてて走っていきました。

上の子の授業を15分みて、下の子の授業を15分見て、また上の子のを15分見て、上の子のほうのクラスの懇談会に出席してきました。父親できているのは僕一人です。我が子の保健室登校のことは話題に上りませんでした。
終わった後、先生と立ち話をしました。その順番待ちが結構長かったですが・・・。長女は登校するとまず先生と相談して、「今日はこの授業とこの授業に出る」と決めるのだそうです。それ以外の時間は保健室で「精神的に休養」という、ア・ラ・カルト的授業の受け方をしているようです。こちらからは家庭の事情を報告。クラスの中で孤立しているというわけでもなさそうなので、当面は経過を見守るってことになるでしょう。

今日の寝る前のお話は「ギョウ虫とサナダムシ」でした。


さて、10年前。

モンティ・パイソンというイギリスのコメディアン(?)グループがあります。
「モンティ・パイソンの空飛ぶサーカス」をやっていたのは東京12チャンネルなので、田舎者の僕がその存在を知ったのは上京後のことです。『未来世紀ブラジル』という映画を見てとても気に入ったのですが、その美術をこのグループが担当したと聞いて、モンティ・パイソンの映画をビデオに集めるようになりました。アーサー王伝説をちゃかした「ホーリー・グレイル」、キリスト生誕をちゃかした「ブライアンの一生」、そしてもっとも気に入ったのが「人生の意味」を問うた Meaning of Life(邦題は「人生狂想曲」)。

生きている意味って何だ? と問いかけながら、答えはちゃかしてばっかり(ブラックユーモア)という映画ですが、Meaning of Life という言葉は、僕の心にずっとひっかかりました。

せっかくAAミーティングで「飲まない生き方」を与えられたかに見えた僕も約5ヶ月で再飲酒して、もとの飲んだくれに戻ってしまっていました。

結婚式の日取りも式場も、新婚旅行の日程まで決まっているのに、本人は飲んだくれてばかり。本人も両親も途方に暮れていました。

両親も酒をやめるのにAAなんて、まるで頼りにしていませんでした。水曜日の晩に僕が峠を越えてミーティングに行き、9時に終わって高速道路で帰ってくると、だいたい夜10時半ぐらいにはなります。それから風呂と夕食ですから、世話をする母親の方も大変です。「お前、そこまでしなくても酒は止まっているじゃないか」ととがめられたことも何度かありました。「あんな元やくざのやっているミーティングに行くのはおよし」と言われたこともありました。
その言葉が悪かったとは言いません。それは普通人の正常な感覚です。でも、正常な感覚で捉えきれないのがアルコール依存症の本質です。
そしてその言葉は、僕がミーティングにいつの間にか通わなくなったことを、自分自身に言い訳するにはもってこいの理由でした。

しかし、僕はふたたび飲んだくれてしまいました。
それまで酒を切るのに成功した方法は2種類だけでした。一つは精神病院に入院すること。もう一つはAAミーティングに通うことでした。

これから入院したのでは結婚式に間に合わない。だから、もう一つの方法を試してみるほかないだろうということになりました。そうか今日はミーティングの日ではないかと突然気づき、夕方になるのを待って、母は僕を車の助手席に積んでミーティング場へと向かいました。
一つ大きな問題があるとしたら、それは僕がぐてんぐてんに酔っぱらっていて、どんな空間もあっという間に酒臭くしてしまうほど、呼気にはアルコールが含まれていたことでした。

僕が途中で寝てしまったせいで、母は道に迷い、会場についたときにはミーティングはもう始まっていました。みんなはすぐに僕の状態に気づいたのですが、誰もそれをとがめませんでした。狭い部屋はあっという間に酒臭くなってしまいました。
何となく皆の話が「僕に聞かせるためのミーティング」になっていったような気がしますが、頭がもうろうとして、皆がどんな話をしたかまったく覚えていません。

最後に、僕が話す番になりました。
僕は問いかけました。ろれつが回っていませんでした。

「人間は、何のために生きているのですか?」
「人生の意味って、生きていく意味って何ですか?」
「どうしてこんなに苦しいのに、生きて行かなくちゃいけないんですか?」
「死のうとしても死ねない、生きようとしても生きられない、いったいどうしたらいいんですか?」
「いつか死んでしまうのに、どうして生きていくのですか?」
「何のために生まれてきたのですか?」

どうして僕の人生はこんなに苦しいのか、そしてそんなに苦しいのになぜ生き続けなければならないのか、どんなに考えても答えは見つかりませんでしたし、誰も納得できる答えをくれはしませんでした。モンティ・パイソンの映画のように、誰も答えられはしないんだと思っていました。

僕は皆の答えを待って黙りました。誰も答えてはくれませんでした。無言のまま、何分間かが過ぎていきました。

沈黙を破ったのは、この会場を借りている教会の信者で、腰が悪いために自力ではミーティングに来られず、会場チェアマンが送迎しているという老人でした。家族をなくし、糖尿病を患って自炊で苦労し、ミーティングではもっぱら聞き役で、しゃべることの少ない人でした。その人がしゃべると言うだけで驚きでした。

(続く)


2005年10月13日(木) ねむねむ

12時前には寝るんだよ、というお姉さまからのありがたいお達しを無視して 10 years a go を書いたせいでしょう、今日は眠くてたまりません。

ともかくなるべく早い時間に起きることを目標にしています。

今日も早く帰れたのに、接続プロバイダーのサポートに電話はできませんでした。
でも、子供が9時前に寝てくれるのは大変助かります。

Iomegaのアウトレットで、USBのZIP250ドライブが$48だったので、買ってしまいました。日本への輸送料は約2,000円です。


2005年10月12日(水) 10 years ago (5) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (5) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

社会保険事務所から妻宛に封書が届いていました。
メールで連絡したら、開封しても良いということでしたので、ミーティングが終わって帰宅した後で開封したら、障害年金の裁定の結果でした(どっちだったかは書けません)。
僕より後から申請したのにもかかわらず、先に結果が出たのは、やはり社会保険事務センターから問い合わせの有無(僕のは2回、妻のはなし)が影響しているのでしょう。
まあ結果はともかく、これで宙ぶらりんの状態のものがまた一つなくなったので、それだけでもありがたいのであります。

さて、10年前。

結納というのを結婚式のどれぐらい前にやったのか記憶は定かではありませんが、おそらく10月だったのではないかと思います。
結納とは本来双方に送り合うものだそうですが、まあだいたい嫁(や婿)をもらう方が、あげる方に金品を送るというのが現在のあり方でありましょうか。まあ、そういう堅い話のない結婚もありふれているのでしょうが、僕の場合にはお見合い→おつきあい→成婚という手順ですから、結納を省くわけにも行きません。
僕は婿入りなので、結納はあげる方ではなく、もらう方でした。

さて、この週末は結納という週に僕は連続飲酒に陥っていました。
母はまだ毎日勤めに出ていましたし、農夫である父は秋の忙しい時期を迎えていました。「うちには寝たきりが二人いる」と言われたもう一方の祖母は、この前の年に故人となっていましたので、僕は誰もいない古い家で昼間から飲んだくれていました。

18才まで過ごした部屋に、10年後に戻ってきて、そこでまた過ごした4年間。僕がその部屋のどこに酒を隠すか、母は完全に把握していました。わずか10メートル離れた便所まで行くのが面倒で、窓から小便をしていると、この10年の間に立派にコンクリート舗装された裏の道を、近所の少女が犬を散歩させて通り過ぎていったりしました。

(このままではまずい。なんとかしなくては)

そう思って酒を切ろうとするものの、どうにもなりません。
母は僕の部屋を覗くと「お前頼むから、今度の日曜だけはちゃんとしてくれよ」と懇願するのでありました。「だいじょうぶだ。ちゃんとする。きっとちゃんとするから」。

この縁談が破談になったら、さぞかしその話は人の口に上るでありましょう。人の噂を口にして生きている、そんな風に言われる田舎であります。今まで何があっても断り続けてきた見合い話を受けようと思ったのは、人生で一度ぐらい結婚しておきたいというまことに自分勝手な思いからでした。それにまだ30を過ぎたばかりの男ですから、いろいろと欲がないわけはありません。

しかしもしこの縁談が破談になったら、僕は笑いもので、きっと二度と縁談は来なくなってしまうでしょう。それが急に恐ろしいことのように思われました。

部屋は東京にアパート住まいしていた頃のように散らかっていました。寝たばこで火事をしないようにということがいつも頭から離れませんでした。

夜になり、ふと僕は妻(になる予定の女性)に電話をかけました。
「来てくれ。今から来てくれ」

彼女は慣れない夜の道を運転してやってきました。そして暗い顔をした母に案内されて、飲んだくれている僕がいる部屋までやってきました。枕元に座った妻に、僕は布団の中から起きあがって、「来てくれてありがとう」と言いました。

「これが本当のあなたの姿なのね」

部屋の惨状と、酷い顔をした僕を見て彼女はつぶやくように言いました。

「そうなんだ。だが、助けてくれ。俺を助けられるのは君しかいない」

(いや、僕を助けられる人間はどこにもいない)

「お願いだ。助けてくれ。きっと幸せにするから」

それ以上何を話したかは覚えていません。彼女は婚約者がアル中だということが判明しても、破談にするとも何とも言いませんでした。後で聞いたことですが、彼女はこのことを自分の両親には何も言わなかったそうであります。

結納の日の前日の土曜の晩にも、僕は彼女を呼び出しています。今度はあまりに僕の部屋がちらかっていたので、客間での対面でしたが、僕は飲んだくれて畳の上に横になったきりでした。

その晩も僕が言ったことはたった一つだけでした。

「助けてくれ」

それに対して彼女はこう答えました。

「わかったわ。私がんばるから。二人の未来のために努力するから」

(恐らく如何なる人間的力も、われわれのアルコール中毒に救いをもたらすことはできない)

こうして、ここに共依存のカップルが一つできあがったのでした。

翌日の結納の儀では、カメラを用意した人はいるものの、結局写真は一枚も撮影されませんでした。婿さまの状態があまりに悪く、彼はぶるぶる震えていて、ひげを半分しか剃っていなかったからで、そんな状態を写真に残すには忍びないと思われたからでした。

妻(になる女性)は、(そうは言ったものの、本当にこの人で大丈夫かしら)と心配になり、涙が止まらなかったそうであります。だが僕は禁断症状が酷くて、当日のことはぼんやりとしか覚えていません。

そうあの時、東京で自殺未遂をして帰ってきてから約4年。その間に3回の精神病院への入院。もう父も母も、アル中息子の世話を焼くことに疲れ切っていました。保健所の酒害者家族教室に通った母は、「夫婦だったら別れれば縁は切れる。でも親子はそうはいかない」というほかの家族の嘆きを聞き覚え、本当にそうだねぇと息子に言い聞かせていました。

縁談を理由に父母に体よく見捨てられたのだと言うことは、うっすらと理解できていました。それに文句を言えるような自分ではありませんでした。けれども、一人で生きていける自信など全くありませんでした。だから、同情から差し出された助けの手に、相手のことなんか考えずに、僕は必死でしがみついたのであります。

後になって酒をやめることができたのだからと言って、あの後に妻に与えた苦痛の埋め合わせができたわけではないでしょう。どんなに気に障ることがあったとしても、「あの時あの奥さんがいなかったら、あなたは死んでいたでしょう」とAAのスポンサーに言われた言葉を思い出せば、彼女こそ命の恩人であります。

ドクター・ボブの物語にあります。
「もし彼女がそうしなかったなら、自分はとうの昔に死んでいただろう。どういうわけか、私たちアルコホーリクは、世界で一番素晴らしい女性を妻に選ぶ恵みを与えられているようだ。なぜそんな彼女たちが、私たちがもたらす拷問に耐えなくてはいけないのかは、私にはわからない」

もちろん、妻にも持病があり、隠し事はその後いろいろ判明するのですが、文句を言えた義理ではありません。

酒をやめることができたのはAAのおかげでしょう。でも、僕がそのことに集中できるようにしてくれたのは、妻やそのほかのたくさんの人たちでした。

(この項、終わり)。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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