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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年10月14日(金) 10 years ago (6) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (6) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
娘たちの授業参観のために今日は仕事をお休みです。
最近は、毎日起きてから1時間以内にお通じがあります。今まで生きてきて、このような状態が長続きしたことがありません。酒の飲み過ぎで、水様便を垂れ流していた頃を除けば、便秘と下痢を周期的にくり返しているのが僕の人生でありました。
やっぱり、毎週月・水・金と定期的に会社にやってきてくれるヤクルトおばさんからジョアのレモン味を買い、毎日飲んでいること、しかも先週飲み忘れた期限切れのやつも気にせずに飲んでいることが良いのかもしれません。
難を言えば、うんちが柔らかすぎて、最後の方はやっぱり水様便になってしまうことでしょうか。忙しいのに2回・3回とトイレに行かざるを得ないことも珍しくありません。
(あ、食事中の方には申し訳ありませんでした。でも最近昼休みのアクセスは減っていますね)。
というわけで、授業参観までには「まだ時間がある」と思っていたところをトイレに釘づけになってしまい、あわてて走っていきました。
上の子の授業を15分みて、下の子の授業を15分見て、また上の子のを15分見て、上の子のほうのクラスの懇談会に出席してきました。父親できているのは僕一人です。我が子の保健室登校のことは話題に上りませんでした。
終わった後、先生と立ち話をしました。その順番待ちが結構長かったですが・・・。長女は登校するとまず先生と相談して、「今日はこの授業とこの授業に出る」と決めるのだそうです。それ以外の時間は保健室で「精神的に休養」という、ア・ラ・カルト的授業の受け方をしているようです。こちらからは家庭の事情を報告。クラスの中で孤立しているというわけでもなさそうなので、当面は経過を見守るってことになるでしょう。
今日の寝る前のお話は「ギョウ虫とサナダムシ」でした。
さて、10年前。
モンティ・パイソンというイギリスのコメディアン(?)グループがあります。
「モンティ・パイソンの空飛ぶサーカス」をやっていたのは東京12チャンネルなので、田舎者の僕がその存在を知ったのは上京後のことです。『未来世紀ブラジル』という映画を見てとても気に入ったのですが、その美術をこのグループが担当したと聞いて、モンティ・パイソンの映画をビデオに集めるようになりました。アーサー王伝説をちゃかした「ホーリー・グレイル」、キリスト生誕をちゃかした「ブライアンの一生」、そしてもっとも気に入ったのが「人生の意味」を問うた Meaning of Life(邦題は「人生狂想曲」)。
生きている意味って何だ? と問いかけながら、答えはちゃかしてばっかり(ブラックユーモア)という映画ですが、Meaning of Life という言葉は、僕の心にずっとひっかかりました。
せっかくAAミーティングで「飲まない生き方」を与えられたかに見えた僕も約5ヶ月で再飲酒して、もとの飲んだくれに戻ってしまっていました。
結婚式の日取りも式場も、新婚旅行の日程まで決まっているのに、本人は飲んだくれてばかり。本人も両親も途方に暮れていました。
両親も酒をやめるのにAAなんて、まるで頼りにしていませんでした。水曜日の晩に僕が峠を越えてミーティングに行き、9時に終わって高速道路で帰ってくると、だいたい夜10時半ぐらいにはなります。それから風呂と夕食ですから、世話をする母親の方も大変です。「お前、そこまでしなくても酒は止まっているじゃないか」ととがめられたことも何度かありました。「あんな元やくざのやっているミーティングに行くのはおよし」と言われたこともありました。
その言葉が悪かったとは言いません。それは普通人の正常な感覚です。でも、正常な感覚で捉えきれないのがアルコール依存症の本質です。
そしてその言葉は、僕がミーティングにいつの間にか通わなくなったことを、自分自身に言い訳するにはもってこいの理由でした。
しかし、僕はふたたび飲んだくれてしまいました。
それまで酒を切るのに成功した方法は2種類だけでした。一つは精神病院に入院すること。もう一つはAAミーティングに通うことでした。
これから入院したのでは結婚式に間に合わない。だから、もう一つの方法を試してみるほかないだろうということになりました。そうか今日はミーティングの日ではないかと突然気づき、夕方になるのを待って、母は僕を車の助手席に積んでミーティング場へと向かいました。
一つ大きな問題があるとしたら、それは僕がぐてんぐてんに酔っぱらっていて、どんな空間もあっという間に酒臭くしてしまうほど、呼気にはアルコールが含まれていたことでした。
僕が途中で寝てしまったせいで、母は道に迷い、会場についたときにはミーティングはもう始まっていました。みんなはすぐに僕の状態に気づいたのですが、誰もそれをとがめませんでした。狭い部屋はあっという間に酒臭くなってしまいました。
何となく皆の話が「僕に聞かせるためのミーティング」になっていったような気がしますが、頭がもうろうとして、皆がどんな話をしたかまったく覚えていません。
最後に、僕が話す番になりました。
僕は問いかけました。ろれつが回っていませんでした。
「人間は、何のために生きているのですか?」
「人生の意味って、生きていく意味って何ですか?」
「どうしてこんなに苦しいのに、生きて行かなくちゃいけないんですか?」
「死のうとしても死ねない、生きようとしても生きられない、いったいどうしたらいいんですか?」
「いつか死んでしまうのに、どうして生きていくのですか?」
「何のために生まれてきたのですか?」
どうして僕の人生はこんなに苦しいのか、そしてそんなに苦しいのになぜ生き続けなければならないのか、どんなに考えても答えは見つかりませんでしたし、誰も納得できる答えをくれはしませんでした。モンティ・パイソンの映画のように、誰も答えられはしないんだと思っていました。
僕は皆の答えを待って黙りました。誰も答えてはくれませんでした。無言のまま、何分間かが過ぎていきました。
沈黙を破ったのは、この会場を借りている教会の信者で、腰が悪いために自力ではミーティングに来られず、会場チェアマンが送迎しているという老人でした。家族をなくし、糖尿病を患って自炊で苦労し、ミーティングではもっぱら聞き役で、しゃべることの少ない人でした。その人がしゃべると言うだけで驚きでした。
(続く)
2005年10月13日(木) ねむねむ 12時前には寝るんだよ、というお姉さまからのありがたいお達しを無視して 10 years a go を書いたせいでしょう、今日は眠くてたまりません。
ともかくなるべく早い時間に起きることを目標にしています。
今日も早く帰れたのに、接続プロバイダーのサポートに電話はできませんでした。
でも、子供が9時前に寝てくれるのは大変助かります。
Iomegaのアウトレットで、USBのZIP250ドライブが$48だったので、買ってしまいました。日本への輸送料は約2,000円です。
2005年10月12日(水) 10 years ago (5) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (5) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
社会保険事務所から妻宛に封書が届いていました。
メールで連絡したら、開封しても良いということでしたので、ミーティングが終わって帰宅した後で開封したら、障害年金の裁定の結果でした(どっちだったかは書けません)。
僕より後から申請したのにもかかわらず、先に結果が出たのは、やはり社会保険事務センターから問い合わせの有無(僕のは2回、妻のはなし)が影響しているのでしょう。
まあ結果はともかく、これで宙ぶらりんの状態のものがまた一つなくなったので、それだけでもありがたいのであります。
さて、10年前。
結納というのを結婚式のどれぐらい前にやったのか記憶は定かではありませんが、おそらく10月だったのではないかと思います。
結納とは本来双方に送り合うものだそうですが、まあだいたい嫁(や婿)をもらう方が、あげる方に金品を送るというのが現在のあり方でありましょうか。まあ、そういう堅い話のない結婚もありふれているのでしょうが、僕の場合にはお見合い→おつきあい→成婚という手順ですから、結納を省くわけにも行きません。
僕は婿入りなので、結納はあげる方ではなく、もらう方でした。
さて、この週末は結納という週に僕は連続飲酒に陥っていました。
母はまだ毎日勤めに出ていましたし、農夫である父は秋の忙しい時期を迎えていました。「うちには寝たきりが二人いる」と言われたもう一方の祖母は、この前の年に故人となっていましたので、僕は誰もいない古い家で昼間から飲んだくれていました。
18才まで過ごした部屋に、10年後に戻ってきて、そこでまた過ごした4年間。僕がその部屋のどこに酒を隠すか、母は完全に把握していました。わずか10メートル離れた便所まで行くのが面倒で、窓から小便をしていると、この10年の間に立派にコンクリート舗装された裏の道を、近所の少女が犬を散歩させて通り過ぎていったりしました。
(このままではまずい。なんとかしなくては)
そう思って酒を切ろうとするものの、どうにもなりません。
母は僕の部屋を覗くと「お前頼むから、今度の日曜だけはちゃんとしてくれよ」と懇願するのでありました。「だいじょうぶだ。ちゃんとする。きっとちゃんとするから」。
この縁談が破談になったら、さぞかしその話は人の口に上るでありましょう。人の噂を口にして生きている、そんな風に言われる田舎であります。今まで何があっても断り続けてきた見合い話を受けようと思ったのは、人生で一度ぐらい結婚しておきたいというまことに自分勝手な思いからでした。それにまだ30を過ぎたばかりの男ですから、いろいろと欲がないわけはありません。
しかしもしこの縁談が破談になったら、僕は笑いもので、きっと二度と縁談は来なくなってしまうでしょう。それが急に恐ろしいことのように思われました。
部屋は東京にアパート住まいしていた頃のように散らかっていました。寝たばこで火事をしないようにということがいつも頭から離れませんでした。
夜になり、ふと僕は妻(になる予定の女性)に電話をかけました。
「来てくれ。今から来てくれ」
彼女は慣れない夜の道を運転してやってきました。そして暗い顔をした母に案内されて、飲んだくれている僕がいる部屋までやってきました。枕元に座った妻に、僕は布団の中から起きあがって、「来てくれてありがとう」と言いました。
「これが本当のあなたの姿なのね」
部屋の惨状と、酷い顔をした僕を見て彼女はつぶやくように言いました。
「そうなんだ。だが、助けてくれ。俺を助けられるのは君しかいない」
(いや、僕を助けられる人間はどこにもいない)
「お願いだ。助けてくれ。きっと幸せにするから」
それ以上何を話したかは覚えていません。彼女は婚約者がアル中だということが判明しても、破談にするとも何とも言いませんでした。後で聞いたことですが、彼女はこのことを自分の両親には何も言わなかったそうであります。
結納の日の前日の土曜の晩にも、僕は彼女を呼び出しています。今度はあまりに僕の部屋がちらかっていたので、客間での対面でしたが、僕は飲んだくれて畳の上に横になったきりでした。
その晩も僕が言ったことはたった一つだけでした。
「助けてくれ」
それに対して彼女はこう答えました。
「わかったわ。私がんばるから。二人の未来のために努力するから」
(恐らく如何なる人間的力も、われわれのアルコール中毒に救いをもたらすことはできない)
こうして、ここに共依存のカップルが一つできあがったのでした。
翌日の結納の儀では、カメラを用意した人はいるものの、結局写真は一枚も撮影されませんでした。婿さまの状態があまりに悪く、彼はぶるぶる震えていて、ひげを半分しか剃っていなかったからで、そんな状態を写真に残すには忍びないと思われたからでした。
妻(になる女性)は、(そうは言ったものの、本当にこの人で大丈夫かしら)と心配になり、涙が止まらなかったそうであります。だが僕は禁断症状が酷くて、当日のことはぼんやりとしか覚えていません。
そうあの時、東京で自殺未遂をして帰ってきてから約4年。その間に3回の精神病院への入院。もう父も母も、アル中息子の世話を焼くことに疲れ切っていました。保健所の酒害者家族教室に通った母は、「夫婦だったら別れれば縁は切れる。でも親子はそうはいかない」というほかの家族の嘆きを聞き覚え、本当にそうだねぇと息子に言い聞かせていました。
縁談を理由に父母に体よく見捨てられたのだと言うことは、うっすらと理解できていました。それに文句を言えるような自分ではありませんでした。けれども、一人で生きていける自信など全くありませんでした。だから、同情から差し出された助けの手に、相手のことなんか考えずに、僕は必死でしがみついたのであります。
後になって酒をやめることができたのだからと言って、あの後に妻に与えた苦痛の埋め合わせができたわけではないでしょう。どんなに気に障ることがあったとしても、「あの時あの奥さんがいなかったら、あなたは死んでいたでしょう」とAAのスポンサーに言われた言葉を思い出せば、彼女こそ命の恩人であります。
ドクター・ボブの物語にあります。
「もし彼女がそうしなかったなら、自分はとうの昔に死んでいただろう。どういうわけか、私たちアルコホーリクは、世界で一番素晴らしい女性を妻に選ぶ恵みを与えられているようだ。なぜそんな彼女たちが、私たちがもたらす拷問に耐えなくてはいけないのかは、私にはわからない」
もちろん、妻にも持病があり、隠し事はその後いろいろ判明するのですが、文句を言えた義理ではありません。
酒をやめることができたのはAAのおかげでしょう。でも、僕がそのことに集中できるようにしてくれたのは、妻やそのほかのたくさんの人たちでした。
(この項、終わり)。
2005年10月11日(火) はた迷惑 いつからだったかわからないのですが、数ヶ月前からニューヨークGSO(正確にはAAWS社)のウェブサイト(www.aa.org)が見られなくなりました。www.alcoholics-anonymous.orgでも同様です。DNSアドレスが引けないという状態です。
実は数ヶ月前に、サーバーを移転するという英文のメール(の転送)を受け取ったので、それかなぁと思って調べてみたらそれはUKの件でした。
いったいGSOのウェブサイトに何が起きているのか? そして、こんなにも長い間アクセスできないのに、騒ぎが起きないのはなんでだ?
自分のところからアクセスできないのなら、経路障害を疑ってみるのですが、ロンドンに置いてあるieji.orgのサーバーからも、会社からもアクセスできません。JSOのスタッフにたずねてみても、やっぱりアクセスできないと言います。
でも、そのうち復旧するだろうというぐらいの気持ちでいました。
で、昨日の雑記に「だれか知っている人がいたら教えてください」と書いたら、親切にメールで教えてくれた人がいました。どうもありがとうございました。ここでお礼を申し上げておきます。スラドの記事によれば、Level3とCogentの間が不通になっているということであります。
ためしに自宅からtracertしてみると、IIJ経由でサン・ノセまで行って、Level3にルートされ、Level3のダラスまで行った先は、ふっつりとぎれています。経路情報だけはやりとりしているけれど、つながっていないというわけですか。そしてGSOのサイトはCogent側にあるというわけですな。
前のJANISを使っていた時代も、アメリカ内部はLevel3.netを通過していました。迷惑している人はきっと僕だけじゃないでしょう。なんともはた迷惑なところで争いをやってくれるものです。
しかしまあ、こちらとしては自分の契約している接続プロバイダーに文句を言うしかありません。こういうことのないようにアメリカ内部での経路に冗長性を持たせてくれるように頼むには、「つながんねー」という苦情の山を築くしかありません。
自宅へ帰ったらユーザーサポートに電話をしようと思ったのですが、娘たちが寝る前にお話をしてくれというのにつかまってしまいました。8月に部屋を引っ越した際に、アザラシのごまちゃんのぬいぐるみが出てきたのですが、これを長女が気に入ってしまい、寝るときに抱いています。それでパパが添い寝をするときに「ゴマちゃんの一日」とか「ゴマちゃんの大冒険」だとかいう話を即興で作って聞かせることが習慣になってしまいました。
今はジジババの家で、次女も一緒になって寝るので、二人に聞かせるために、いいかげんな話を適当にでっち上げています。
毎日いいかげんな話をでっち上げるのは大変なのですが、最近はテーブルトークRPGのシナリオ集などで勉強しています。
というわけで、今夜もゴマちゃんを大冒険させているうちに、ユーザーサポートの時間は終わってしまったのでありました。
2005年10月10日(月) 変化 妻が入院して4日。変化があるといえばないことはありません。
まず本人は夜9時消灯、朝7時起床・ラジオ体操という、(普通の人だったら当たり前かもしれないけれど)慣れない生活リズムについて行くのが精一杯といったところ。食事は3食普通に食べて、間食を一切しないという生活になっています。
子供たちはジジババの元で、夜9時には寝るという生活になじんでいます。長女は保健室登校を続けていますが、1時間か2時間は教室で過ごすことも増えてきているとか。今週の金曜日は授業参観&PTA懇談会であります。仕事を休んで学校へでかけるつもりです。
もっとも変化がないのが僕の生活でしょうか。
金曜の送別会でどっぷり疲れたので、この週末は肉体的にも精神的にも疲労回復のためにあてられてしまいました。昼間起きているのは最低限で、後は寝ていて、夜になって活動するというパターンになってしまいました。
でもこれからは、子供を病院に連れ行ったりする役割が僕に回ってきます。仕事を休んでというわけにはいかないので、やっぱり朝から活動しないといけないでしょう。本社からも呼び出しをくらっていますが、これもやっぱり朝からでかけないといけません。
僕もこれからは生活リズムを正常人と同じにしていかないといけないのであります。
それにしてもニュース検索に変な記事がひっかかっています。オールアバウトジャパンからは「ネコを外に出すこと」、なぜか富士物流の「先進自動車」の話題。前者はネコの「薬物中毒」、後者は「アルコール検知器」のアルコールと、「メーカー依存」の依存がキーワードのようです。まあ、あまり神経質にならずにおおらかに読んで頂きたいです。
そういえば、ニューヨークGSOのウェブサイト(www.alcoholics-anonymous.org)が見ることができない状態が続いています。DNSで引けないというのはどういう事態なのでしょうか。これについて情報を持っている人がいたら教えてください。
ところで、セキュリティの問題から「いつ」とは言えませんが、ieji.orgを置いているレンタルサーバーも期限が切れます。最近は国内でもレンタルサーバーの値段が下がってきているので、<今度こそ>国内に移転しようと思っています。
現在契約している会社になにか問題がある訳じゃありませんが、ヨーロッパ経由、あるいは南米経由で無意味なアクセスに継続的にさらされています。悪意でやっているのか、どこかほかへの攻撃のとばっちりをくらっているのかは不明ですが、あまり気持ちの良いもんじゃありません。
いろいろと面倒なので、この際だからサーバーを移転してから対策しようという考えです。IPアドレスが変わるので、DNSレコードが更新されるまでの間2〜3日間はアクセス不能になるかもしれませんが、事前にご案内をしますので、ご心配なく。
なお、日記と掲示板は国内のサービスを使っているので、移転はしません。
2005年10月09日(日) うう、寒い 妻が入院して、子供たちはジジババの世話になりに母屋に移っていきました。僕も風呂と食事は、それから衣類の洗濯は世話になることになります。
アパートでは炊事も入浴もしないので、温度がその分上がらないのでしょう、寒々しく感じられます。
会社の送別会の後、前の会社からの同僚何人かで集まって話をしたのですが、どうも今の会社は「出世も、より多くの収入も望まない、現状維持で良い」という人間を快く思っていないようで、激しくプレッシャーをかけてくるんだそうであります。まあ、経営側としては、現状維持で満足という人間が多数を占めてしまうと、会社の発展が望めなくなってしまうので、会社人間(ワーカホリックといってもいいかも)が多くを占めてほしいのでしょう。
僕はコンピューター・プログラマーという点では専門職であるのですが、それとて今の会社では特別なスキルではなく、専門職にとどまるためには例えば博士号を取ったぐらいの数学屋であるとか、高周波回路の設計ができるとかのスキルが必要で、せっかくぺーぺーにまたなることができた僕にも、部下の管理だとか、そういうストレスフルなことが頭の上に降ってくるのもそう遠い未来ではなさそうです。
それにしても寒いな。
2005年10月08日(土) 魂の持ってきどころ 何年か前にAAにつながったあと、ふとしたことでAAを離れてしまい、ガンで余命何ヶ月と宣告されてAAに戻ってきたメンバーがいました。
余命何ヶ月という状況にもかかわらず、彼は働いていました。「無理しなくても」と言うと、「働かないと生活していけない」という答えが返ってくるのでした。抗ガン剤を打つために入院し、しばらくすると退院してまた働くの繰り返しでした。平日は働いてくるともう外出する体力も気力もなく、週末に奥さんの運転する車に乗せられて、土曜のAAミーティング会場に現れていました。お子さんが大学を卒業するまであと何年、俺は死ねないんだ、といって医者の宣告した時期を超えて彼は生きながらえていきました。
僕は自分のことが忙しくなり、土曜日のミーティングに出かけることも滅多になくなりました。
先日、ふと思い出して、その人のメールアドレスに「おそるおそる」というタイトルでメールを出しました。550エラー(メールアドレスが取り消されている場合)でメールが返ってくることが恐ろしかったのです。
返信はエラーメールではなかったものの、奥さんからで、ご主人が昨年の3月に亡くなったことや、先日納骨を済ませたこと、そして二人でAAに通った頃の思い出が書かれてありました。僕は「二度と会えない人」がまた一人増えたことを知るのでした。
ガンを宣告されてAAに戻ってきたのは、僕の知る限り彼が二人目です。
なぜ戻ってきたのか訪ねてみたのですが、二人とも感情のスリップを口にしました。
AAメンバーは、たとえAAから離れて暮らしていても、死を目の前にしてAAにもどってくるようにできているのじゃないか。そんなふうに想像してみたりします。
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