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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年09月26日(月) 諸々 9月半ばに与えられた仕事はとりあえず終わりました。
といっても、まだバグ出しと呼ばれる工程は経ていないので、今後どうなるのかはわかりません。とりあえずわかっていることは、僕は10月以降は、今僕がつついている10万行以上のVBのプログラムのメンテナンスチームの一員となることが決まっています。
月曜日のミーティングに借りている施設は、公民館と体育館と図書館の複合施設です。図書館で不要になった本をリサイクル本として無料提供していました。ただで持って行っていいよと言われれば、紙袋をふたつぐらい下げて帰ったのは昔の話。今や厳しい本棚事情を抱える自分としては、「絶対自分では金を出して買わない本」「捨てない本」というふたつの条件くらいは課さないといけません。
2冊選んだのは、岩波新書なだいなだ著『アルコール問答』。これはおもしろそうなので、今後雑記ネタとして使っていくかも知れません。
もう1冊はフィリップ・K・ディックの『ニックとグリマリング』。なんと筑摩書房からディックの本が出ていたとは。ディックが薬物中毒であったことが、ようやく「書いてもかまわない事実」になっていることを知りました。
帰ってから、子供を風呂に入れ、長女を寝かしつけて、そうっと抜け出してきてこれを書いています。
ああそうだ。広い世の中には精神科医のAAメンバーもいるのですよ。もちろん日本に。
2005年09月25日(日) 心身症? 午後5時半であっただろうか。僕は今や自分専用の寝室となってしまった2階のテレビルームに布団を敷き、マンガ雑誌をひろげて読むでもなくごろりと横になっていた。
この3連休に予定していた諸々のことはとりあえず済んでいたので安心していた。それはたとえばFAX回線がつながらないトラブルの解決であったり、テレビの伝送路の見直しであったり、子供を実家のお祭りに連れて行くということであったり、色紙のためのイラストを頼む手紙を出すことであったりと、かなりコンパクトなTO DOリストだったが、それはうつ状態の自分にはふさわしい長さだったと思われる。ともかくリストの中身は空になり、ゆっくりとくつろいでいたのである。
妻が内線を鳴らしてきた。夕食にはずいぶんと早い。
「○○ちゃん(上の娘)が倒れて、胸が苦しいと言って起きあがれないの」
とりあえず駆けつけて、背中をさすっている妻をどけて皮膚を見ても外傷はない。熱もないようだ。ぶつけたとか転んだということもないらしい。FAX回線が回復していたおかげで、救急当番医のリストの取り出しに手間がかからなくて済んだ。気が急いているときにはFAXは大変助かる。電話で診療科目と名前と住所と電話番号を延々聞かされるのはうんざりするものである。
小児科の当番医に電話してみると、症状が重いようなら直接救急病院に連れて行ったほうがいいとアドバイスされる。
車のライトをハイビームにして、混み合う週末の市内を押し通って行った。
この救急病院は何年か前には小児科医が全員辞めてしまって、小児科を標榜しなくなっていたはずなのに、いつのまにか立派な救急センターができていて、子供の年齢を言っても嫌な顔をせずに引き受けてくれるようになっていた。
小児科医がいなくなったのも自由競争の結果であれば、立派な救急センターができたのも自由競争の結果かもしれない。
トリアージセンターで受付をすませ、いすに座って順番を待つ。体温はさっき測ったら36.4℃あったはず。チアノーゼも起こしていない。だが、腕に触っていると、その腕がだんだん冷たくなってくるような気がする。このままどんどん冷たくなってしまって、二度と暖かくならないのではないかと不安になる。世の中にこんなに大切なもの、失いたくないものがあったとは今まで気がつかなかった。すごく動揺する。もう一度体温を測るとさっきより上がっていて安心する。息が苦しいと言い、背中と胸を押さえるので、気胸ではないか、酸素が足りないのではないかと心配になる。
看護婦がやってきて、何かの機械のセンサーらしいクリップで娘の指を挟む。しばらくして出た数値を書き込むと、「安心してください」と言って去っていった。
医師の診察を受ける。「酸素不足は起こしていません」と結果を告げてくれる。じゃあ原因は何なのか? 尿検査・血液検査・心電図・レントゲンをやって、検査の結果が出てからもう一度診察ということになる。
テレビではモンゴル出身の横綱が、ヨーロッパ出身らしい力士を破って優勝を決めていた。豊かになった日本では力士を目指す少年が減ったというが、貧富の差が拡大する世の中になれば、腹一杯ちゃんこを食べるために相撲部屋の門をくぐる少年も増えるだろうか。
心電図をすますころには、痛みはどこへやら・・・。けろりとしているので、「注射が効いてきたかなぁ」とたずねてみると、「血を抜かれただけで、注射はされてない」と言っていた。医者が「ストレス性の・・・」と言うんじゃないかと予想がつく。
1時間ほど待って聞いた結果はやっぱり「ストレス」・「精神的なもの」ということだった。ストレスが身体の症状を呼び起こすということは、身をもって知っている親であるから、子がそうであると聞いても驚きはしない。逆に身体に出てくれてよかったと思うぐらいである。
しかし、原因がストレスだとすると、くり返される心配がある。そのたびに救急病院にお世話になるわけにも行かない。痛いのは事実なのだから・・・ということで痛み止めを処方してもらう。5,000円払って病院を出た。
ひさしぶりに長女に添い寝をする。ずっと長いこと、添い寝をして寝かしつけてきたのだが、下の子が小学校に上がって、同じ時間に姉妹そろって寝るようになってから、添い寝は一度もしたことがない。
一人部屋を手に入れた娘の布団の横に寝て、ぽつりぽつりと話をする。寝付きが悪くて、なかなか眠れないのだそうだ。親が片方がうつで仕事が半分、もう片方の親もうつで入院準備中では、なかなか安心しろと言ってもできるものではなかろう。
安心して眠れるようになるまで、当分添い寝をしてやろうと思った。
2005年09月24日(土) 眠い 水曜日以降、どうも眠くていけません。
頭の中に鈍い芯ができたようで、思考にまとまりを欠いています。
まあ、抑うつ状態というやつですね。
昔なじみの友達がまた顔を出したようなものです。
糖尿病の人が、糖尿でない人をうらやましく思うように、アル中が健康な酒飲みをうらやましく思うように、うつ病の僕はうつなしの人をうらやましく思うのであります。それがどんなに無意味な行動であったとしても・・・。
まったく、ちょっと気合いを入れて仕事をすると、すぐに心が音を上げるのであります。もっと別の職業に就いていたら、この病気とも別れることができるかもしれないのに・・・とまたも思考は無意味なパターンをとるのであります。
記憶力が悪くなり、物忘れが多くなります。
頭がぼけてしまったんじゃないかと不安になるのですが、これは記憶の前提となる注意力が低下しているため(つまり情報の入力が少ないため)であって、情報の蓄積ができない痴呆とは別なのだそうですが、結果は似たようなものであります。
つまり、本人は不安になるということです。
夕方になると眠くてしかたなく、昨夜は家事をどっちがこなすかで、妻と大げんかしてしまいました。昔スポンサーに言われた「家の戸をくぐると12ステップのことはすっかり忘れる」という言葉を思い出します。
今日は娘二人を連れて、実家の秋祭りにおじゃましに行きました。帰ってきてから妻に謝りました。
今はともかく眠るだけ。
2005年09月21日(水) 宙ぶらりん 大学病院に電話してみたものの、まだ空きベッドはできていないそうであります。これで妻の入院は来週以降が確定しました。入院するわけでもなく、かといって軽快するでもなく、宙ぶらりんの状態です。
会社に出てきてみたら、来週の会議の予定がもう入っていました。いつもだったら入っているはずのメンバーが一人かけているのでたずねてみたら、10月から部署を移動になる(物理的には移動しないけど)そうで、来期向けの会議には出席しないのだとか。そいつが移っていく部署は、僕が入社時に希望していた部署ですが、物理的な問題が壁になって、別部署(長野の事業所にある部署)に配属されたのです。僕が休んでいる間に結果を出して、希望の部署へ異動した人間がもう2人です。
なんだか自分だけが置いてきぼりをくらっているようで寂しいです。かといって、フルタイムに移行して猛チャージをかけるわけにもいかず、どうしたものか宙ぶらりんであります。
フルタイムに移行するタイミングとして「自分で勝手に」決めている時期は、妻が入院して、退院してきてきたら、それから障害年金の申請の結果が出たら。の二つがそろった時期というのを考えています。
年金の審査はまだまだ時間がかかりそうで宙ぶらりんであります。
いつものメンタルクリニックに行きまして、さんざん待ったあげくに3分診療。先週安定剤を半分に減らした影響が出ていないことを報告します。「この薬も<そのうち>切りましょう」というわけで、薬漬けの身体から抜け出せるのはまだ先になりそうです。これも宙ぶらりんであります。
子供の病気も治癒して「もうこなくていいです」と医者に言われることもなく、いったいいつまで医者通いが続くやら・・・。これも宙ぶらりんであります。
お金のことも、見通しがつくでもなく、つかないでもなく、宙ぶらりんです。
AAの関係でも宙ぶらりんのことはいっぱいあります。
どれをとっても、宙ぶらりんのことというのは苦手なのであります。「はやいところ白黒はっきりつけてくれぃ」と言いたくなってしまうわけであります。仲間を見ていても、自分の過去を振り返っても、この宙ぶらりんの状態に耐えきれなくなって極端に走ると、たいてい悪い結果がまっているようであります。だから、こつこつやるしかないわけであります。
こつこつやる。なんて苦手な言葉でありましょうか。
2005年09月20日(火) 娘の部屋 仕事の内容はもう普通の勤務並みに戻っているような気がするのですが、定時になると切り上げないといけないという難点があります。どんなに気分が乗っていても、そこで打ち切らなければならないし、どんなに気分が乗らなくても、夕方以降に調子が出てくることに期待をかけてサボることもできず、こつこつやらねばなりません。
明け渡した部屋に長女が、机と椅子と本棚、布団などなどを持ち込んで「自分の部屋」を作りました。ママの本棚代わりのカラーボックスがひとつ、パパのサニタリ関係のものを納めたカラーボックスがひとつ、それぞれスペースを占めていますが、そこは完全に「娘の部屋」であります。
もっとも、扉は開きっぱなしに固定してしまってあり、娘の方もまだ「プライバシー」などということにこだわりを持つよりも、孤立してしまうことに寂しさを覚えるようで、キッチンから部屋の中身は丸見えで平気であります。
今後も僕はその部屋で、風呂上がりの髪を乾かしたり、薬を飲んだり、朝は髭を剃ったりするつもりであるのですが、全体的にピンクに仕上がったその部屋は「男が用もなく立ち入ることを禁ず」という雰囲気を立ち上らせています。
3階に僕のために確保されているスペースといえば、「こたつテーブルの上にパソコンを置くスペースとその前の座布団」、「食事をする椅子」、前述の「カラーボックスひとつ」、それと衣料品を入れたタンスだけであり、残り物はすべて2階に移動してしまいました。
前の休みに、娘たちが2階に下りてきて、「パパはご飯とお風呂の時にしか上がってこない」と文句を言われてしまいました。面倒くさがらずに上がっていって、話をする時間を意識的に作っていかないと、3+1家族になってしまいそうです。
大学病院からの連絡はまだ来ません。
2005年09月19日(月) 引っ越し完了 あと本棚とCD棚だけになっていた引っ越しを終わらせました。
3階と2階をひたすら往復する作業は疲れましたが、うつには「頭を使わず身体を使う作業が一番いい」ということもあって、なんとなく頭がさっぱりした気分です。
2階に引っ越し始めた頃には、2階の荷物は少なくて「まるで客間にいるみたい」な気分でしたが、同じだけの荷物が運び込まれた部屋は、元通りの狭さに戻っています。
これで長女は「自分の部屋」を手に入れたというわけであります。
引っ越しのついでに片づけもするわけで、それで出てくるだろうと思われていたものがいくつかありました。出てきたものも、出てこなかったものもありました。
出てこなかったものは、新婚旅行の写真アルバムであります。それと、子供を撮影したビデオのうち8ミリでとったテープが数巻行方不明のままです。
出てきたものは愛用のペーパーナイフであります。このペーパーナイフであければ、便りの中身はよい知らせであり、別の手段であけるとたとえその時点ではよい知らせであっても、たちどころに悪い知らせに返信してしまう、というジンクスを持っているのであります。
結局今日はミーティングには行きませんでした。
2005年09月18日(日) ドア・クローザー なんか、昨日の雑記に、別のブログ用のネタが混じってしまいましたが、そのままにしておきます。
3階から2階に引っ越して、3階のドアを開け閉めする回数が増えました。しかし、ドアの開閉装置(って言うのか?)がダメになっていて、ドアが毎回勢いよく閉まるおかげで「ドカーン」という音が近所中に響き渡ります。宵っ張りの朝寝坊の僕が、夜中に気を抜いてドアを閉めると、寝静まった町内に「ドカーン」という音がコダマしていくという次第です。
これではいけない、ということでホームセンターに買い物に行きました。でも、どこに置いてあるのかわかりません。しかたなく、店員さんに聞きました。
「ドアの上についているあれ、どこですか?」
相手も何のことかは理解したらしいです。
「引き戸じゃなくて、開き戸に付いている、あれですね」
先輩の店員に聞きに行ってました。
「ドアの上についているあれ、どこですか?」
製品名はドア・クローザーと言うらしいです。6,500円でした。
古いドア・クローザーの撤去に1時間以上かかりました。義父がDIYでつけたらしいのですが、ねじ山がバカになっていて外れなかったのです。
作業が終わると、すでに夕方でした。
今日は本棚の引っ越しを済ませる予定でしたが、明日に繰り越しです。
さて、先日ラジオで団塊世代が60才に到達するという話をしていました。その数1,200万人。これからその人たちが順次年金生活に入るわけであります。それを聞いていた時には、「ふーん、たくさんの人が年金生活になる前に、僕の障害年金の申請が通って欲しいなぁ」ぐらいのことしか考えていませんでした。
別の日にテレビを付けると、NEETの特集をしていました。仕事をしていなくて、学校にも、職業訓練の場にもいない15才〜35才の若者を指す言葉だそうです。その数80万人。
いままでNEETといっても、「働いたら負けだと思っている」というニート君のことぐらいしか関心がありませんでした。
NEETの生活を支えているのが、団塊世代の親たちであって、NEETの生活は親にパラサイトすることによって成り立っていることが多いのだそうです。その親たちが退職して年金生活に入れば、当然子供たちの生活まで面倒は見られない。あり得るパターンとして、世帯分離して親は年金生活、子供は生活保護というケースが大量発生することも考えられる・・・というのがニュースの内容でした。
「いままでなら優秀な工場労働者になれた層が、製造業の空洞化で行き場を失っている」と就職担当者が言えば、当事者たちは「道から外れた人間の、道への戻り方を教えてくれる場所がない」と訴えていました。
時代はフリーター問題なんかを超えて、ずっと先に行っていたのですね。
であるのに、「小さな政府」を訴える首相の党が圧勝したりしている不思議であります。
長野県人は理屈っぽいから、こういうことを語らせたら長いよ。
「一億総中流」で中間所得層が最大だった時代は終わりを告げるでしょう。日本も「普通の国」と同じように、豊かな層と、貧しい層に別れていくことになるでしょう。そして、僕はどうやらこのままでは貧しい層の方に入ることが確定しているようですが、まあそれは仕方がないとしましょう。
貧富の差が激しくなれば犯罪が増えるでしょう。今も実家のあたりでは、戸締まりしないで寝て、戸締まりしないで出かけています。それは田舎の濃密な人間関係の中で、見知らぬ顔が歩いていただけでもニュースになるようなローカリティと、どんなに貧しくても人のものを盗んで暮らすことを良しとしない古い道徳観念がまだ生き残っているからでしょう。
しかし次第にそうしたものも失われつつあります。アメリカの今回のハリケーンで被害が拡大したのは、被害地域が黒人の低所得者層が住んでいる地域だったせいで、救助活動が熱心に行われなかったからだという話がありました。それが事実かどうかともかく、当事者(黒人貧困層)は、もし被害地域が白人の富裕層の住む土地だったら、もっと迅速に救助活動が進んだはずだと考えているのは事実だそうです。
人々が、自分が豊かな日本の恩恵を受けられない層にいることを発見した頃には、政府の福祉策は縮小一方ということになるのかもしれません。
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