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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年08月22日(月) 底つき 障害年金の書類の再提出をすませてから仕事へ。
1ヶ月休んでいた月曜のミーティング出席も復活させました。テーマは、「もう一度底つきについて」。
ミーティングでは話さなかったことを書こうと思います。
ヤクルトスワローズの古田敦也選手の名前を知らない人は少なくなりました。でも、彼が高卒の時も大卒の時も、ドラフト指名を受けられなかったという話は意外と知られていません。彼はそれでも野球を諦めずにノンプロへとすすみ、オリンピックで活躍してようやく指名を受け、そこで恩師野村と出会って才能を開花させました。最後までプロ野球選手になる夢を諦めなかったという話は人の心にある種の感動を呼び起こします。
だが、彼は言ってみれば「宝くじの一等」であり、「競馬の万馬券」であり、アル中の「1年に一度あるかないかの気持ちよい酔い」であります。当たりの可能性はゼロではありません。だから絶対に当たらないという否定はできません。
しかし普通は当たらない。どんなに夢を大きく持っても、周囲の客観的評価の方が正しい場合の方が圧倒的に多いものです。状況を客観的に見れていないのは本人だけという状況は実に多いものです。
最近はAAにはアル中しか放り込んでこないK医師ですが、以前はなんでもかんでも「AAにいってごらん」と放り込んでよこしたものです。
ある時、あるミーティング会場に、両親に付き添われて(だったかな)30才ぐらいの男性がやってきました。彼は依存症でもACでもありませんでした。まあ、今の言葉で言えば引きこもりとかNEETとかにあたるのでしょうか。ともかく他の兄弟と違って働いたこともなく、ただ自室で法律の勉強をしている。そして、司法試験に受かるのを目標にしているのだと語りました。
僕は法律関係のことは、大学一年の時に下宿していた宿が法学部の人たちばかりだったので、その人たちの話を聞いた限りでしか知りません。法律家になるには、司法試験という大変難しい国家試験を通らなければなりません。しかし逆に言えば、司法試験に受かれば、裁判官・弁護士・検事(でいいんだよね)といった立派な職業に就くことができます。収入の面でも、社会的ステータスも十分でしょう。
だが司法試験は難関です。法学部の学生も司法試験を受けることすら諦めて普通に就職していく人は珍しくありません。一方で卒業後、仮の職業を続けながら勉強をし、何年も司法試験にチャレンジするという人も珍しくありません。
中には法学部に行ったことのない人で、司法試験を目指す人もいます。僕が飲んだくれていたアパートの隣の夫婦者の旦那のほうも、司法浪人でしたが、30才ぐらいで諦めたようです。
だから、30才で親の支援を受けながら司法試験を目指していること自体は、それほど異常な話ではないのかもしれません。でも法学部に行かない人は経済的理由でそうせざるを得ないケースがほとんどだと聞いています。
さてくだんの彼の親がしゃべるには、どこの大学にも受からなかった人間が、はたして司法試験に受かるだろうか。もう何年も受験を続けているのに。ほんとうに部屋で勉強しているのだろうか。どうみても法律家になれる器はないので、このへんで諦めて普通に働いて欲しい。そう言うのでありました。それを聞いて本人の顔が真っ赤になったのを覚えています。
当時のAAの言葉で言えば「生きていくことがどうにもならない」状態なのは、端から見れば明らかで、「底つき」というには十分なのですが、いかんせん本人に自覚がない。というか十分わかっているのでしょうが、認めたくない。認めてしまえば敗北であります。自分は将来法律家という大人物になるのだ!
つまり底をつくというのは、自分のありのままの状態を受け入れることであり、敗北の受容でありましょう。「まだどこかに勝ち目があるはずだ」と考えているうちは、まだまだ底なし沼なのかもしれません。
AAのプログラムは「徹底した敗北」を要求しているのであります。先の司法浪人君とはその後二度とお会いすることはありませんでした。
2005年08月21日(日) 利子 パート勤務では食っていけないので、実母から金を借りました。
利息はいらないという代わりに、とあるセミナーに出てほしいと言われました。それはとある、マルチ・レベル・マーケティングというののセミナーであり、それに絡んでいるのは兄なのですが、その兄が一家で九州旅行中であるというので、人数あわせにでてほしいと言われたのでした。
金を借りる手前、「嫌だ」とは言えないものであります。
ネットワーク・ビジネスなどと言葉を操っていますが、昔風に言うならネズミ講ではないですか。まあ親戚のつきあいというのもあるので、僕も「でぃすとりびゅーたー」というのになって、年会費千数百円を取られています。そこまではまあ仕方のないことでありましょう。
キーワードは「健康にいい」というのと「収入が上がる」というものであります。システムの中で成功した(つまりお金をたくさん稼いだ=たくさん売ったグループの長の)人が体験談を語るという内容でありました。
「健康にいい」ということは悪いことじゃありません。ただ僕は、ここから仕方なく買った泡立ちの悪い歯磨きペーストよりも、キシリトール入りで泡立ちのいい市販のペーストと、歯周ポケットまで掃除してくれる細かい歯ブラシの組み合わせが好きなのであります。
そして、おそらく会場を埋め尽くした数百人の人は、「健康にいい」よりも「お金になる」ということに興味を引かれていることは間違いありません。
成功している人たちに共通していることは、時間をつぎ込んでいる人たちだということです。副業でやって成功しているという人はいません。でも、時間をつぎ込むんだったら、普通のビジネスでもいいと思うのですが、どうなんでしょう。
以前お会いした会社の社長さんが、「俺は成功して当然だ。だって人の2倍・3倍働いているんだから」とおっしゃっていました。僕は人の2倍・3倍働いてまで成功したいと思いません。なるべく楽をして成功したいです。
大阪や東京からもたくさん人がきているところはAAのイベント並の動員力だなぁなんて感心していたのですが、廊下に出てさぼっている人がいないところはAAとは全く違うところであります。
母に約束したとおり2時間たったので、途中でも帰ってきてしまいました。経済的に成功したいという願いは悪い話ではありません。でも僕は忙しいのは嫌です。堀江社長が海外にバカンスに行ったという話を聞いたことがありますか?
お金はほしいです。たとえば宝くじに当たりたいです。3億円あれば働かずにすみますから。もし3億円当たったら、Linuxをマイクロカーネルで書き直すことに人生を費やすかもしれません。
やっとメインパソコンも、そこそこ動作を始めました。まだオフィスとかインストールがすんでいません。
さて、障害年金の申請書類をまた書かねば。
2005年08月20日(土) 低空飛行 金曜日は会社を休んでしまいました。
夕方になってパソコンの交換部品を買いに行きました。マザーボードと電源ユニットを購入しました。
ハードウェアの交換と、配線のとりまとめだけで朝の4時になってしまいました。
水冷システムの水が減るたびに、純水(じゃなくてコンタクトレンズ用の精製水)を足していたのですが、そのせいで沸点がだんだん下がってきたらしく、一度CPUが120℃まで加熱した段階で沸騰してしまいました。過加熱の結果、漏水が起きたりしたのも遅延の原因です。
仕事に復帰したばかりだというのに、プライベートでは引っ越しが始まってしまったし、メインマシンの調子が悪くて、Windowsの再インストールから始めないといけないし・・・。
目標を低く低く設定して、なんとかそれをこなしていくしかありません。
2005年08月18日(木) 不調 まずパソコンが不調であります。
調子が悪いのは前々からわかっていたのですが、原因不明なので使えるうちは放っておいたのでした。Windowsを再インストールしても直るとは限らないし・・。
Windowsが起動するまでの時間が5分とか10分とかかかるようになって、しかも、使っている最中に無反応になるかブルースクリーンになるという現象がだんだんひんぱんになってきました。
昨日は、OutlookExpressがフォルダのcompactationをしている最中に吹っ飛び、「受信フォルダ」と「送信済みフォルダ」の中身を空にしてくれました。AAの関係のメールや、ネット・オークション、仕事の関係のメールは別フォルダに入れてありますし、3ヶ月ごとに古いメールは整理することにしているので、被害にあったメール(失われたメール)はそれほど多くはありませんが、頭にはきました。
不安定の原因はハードウェアがらみっぽいですが、原因の部品が判明しない以上、可能性のありそうな部品を全部取り替えてみるしかないかもしれません。
サブマシンとして使っているパソコンがあるので、とりあえずそれを使っています。
次の不調は体の方です。
ちょっとうつが重くなってしまっていて、会社のデスクに座って船をこいでいる状態です。なんとか明日一日がんばって週末になだれ込むか、それとも大事をとって休むか、それすらなかなか決断できないという状態であります。
2005年08月16日(火) 焦り・狼狽・いてもたってもいられない 夏休み最後の日だというのに、起きたのは午後2時でありました。
「諏訪湖が見たい」という家族の要望に逆らえず、車上の人となりました。
いつもの通勤路と同じルートですが、帰省から戻る車で混雑していたので、途中のインターチェンジで降りてしまいました。
日本のなぎさ100選にも選ばれたという諏訪湖のなぎさで、石投げを楽しみました。長女は石投げは初めてのチャレンジでしたが「4回ジャンプしたよ」とはしゃいでいました。次女のはただ遠くへ投げるだけなので「じゃぼん」と大きな音が一回するだけです。
大人800円、子供400円という値段は高いような気がしましたが、乗ったことがなかったので、遊覧船に乗ることにしました。娘たちは船に乗るが初めてだったので、はしゃいでいました。僕が初めて船に乗ったのは、小学6年生の「東京見学」(修学旅行ではない)で東京湾の遊覧船に乗ったのが最初であろうと思われます。
片倉館 という戦前からある温泉の外湯に入って帰ってきました。
翌朝は10時に起きて、クリニックに行きました。戻ってきてみて郵便受けを見ると、社会保険事務所からの書留を預かっていると郵便局からのお知らせが置いてありました。「年金証書がくるにはまだ早いよな〜」と思いつつ、急いで郵便局に向かい、帰省からの戻りでやっぱり混み合っている高速道路をとばして会社にたどり着きました。
書留の封筒を開けてみると、そこには「書類の不備があるのでそろえて再提出するように」という内容の書類とともに、7月に提出した書類がまるまる戻されていました。社会保険事務所での受付が7月7日。社会保険業務センターへ書類が回ったのが7月11日。8月11日に社会保険事務所に差し戻され、盆明けすぐに僕のところへ送ってくれたらしいです。
提出した書類では、初診は東京の調布の精神科クリニックということで出してあります。しかし、そこに紹介されるまでに前の日に手首を切って自殺未遂をして救急病院で手当を受けたこと。その前の月に内科で胃を見てもらっていること。この両方の「受診状況等証明書」を追加して再提出しろということであります。またそのぶんの申立書も追加で書かないといけません。
会社の階段で病院に電話をかけてみました。調布の救急病院ではカルテ庫を調べてくれましたが、カルテは残っていないので証明書は書けないということでした。田舎の総合病院では、医事課のおねーさんが「カルテは5年で破棄しますから残っていません」と冷たく突き放されてしまいました。
母に電話して、当時の領収書でも残っていないか聞いてみましたが、「残ってるわけねーだろう」と一喝されてしまいました。
年金申請の書類にはいろいろと余計なことは書かない方がいいとは言われていました。そのぶんまで証明書が必要になるからです。しかし、初診証明の書類に「7月に内科受診」とか「左手横骨動脈切断」とか書いたのは僕ではなくて、調布のクリニックの医師です。それでも、そう書かれてしまっている以上、その内科やら救急病院が初診となるというのが社会保険庁の見解のようです。
そして、そうした書類を用意できなければきわめて不利になるだろうということも、ネット上で調べたあちこちに書かれていました。
(初診証明を書き直してもらえば良かったなぁ)とか後悔しても始まりません。どうして良いのかわからず動転していました。
最後に社会保険事務所に電話して相談してみました。そういう場合には「受診状況等証明書が添付できない理由書」を添付すればいいことや、そこにカルテが破棄されているという理由を書けばいいことを教えてくれました。
「しかし、証明書を提出できる場合に比べると、やっぱり不利になりますかねぇ」という僕の質問に対し、年金給付課の人は、「それは一緒に提出していただく申立書の内容と併せて判断しますから、そちらをしっかり書いてください」という返事をくれました。
内科の方は、酒の飲み過ぎで胃が悪くなり吐いていただけなので、これはなんとでも書きようがあるでしょう。ただ自殺未遂の方はうつ病と関係ないというわけにはいかないでしょう。ここで書類が不備なのでだめだと言われれば、これは手続き上の不備なので、抗弁のしようがありません。
このころになって、ようやく「やるだけのことはやって、あとは<おまかせ>だな」という感覚にたどり着くことができました。1時間ほど気の動転は続いてしまいました。お祈りの効果もなかったし、黙想する余裕もありませんでした。
なんとなく年金はもらえない確率が高く高くなっていくようでありますが、とりあえず書類をそろえて再提出まではするつもりです。
2005年08月15日(月) 台湾から戻って戦争について考えた 正しい戦争などはないということは僕にもわかります。
日清戦争で得た「台湾」。そして中国の従属国であった朝鮮の独立を中国に認めさせ、あげくに併合して得た「朝鮮」。日露戦争で得た「南樺太」。国際連盟の委任統治領だった南洋諸島。これらは日本の植民地でありました。
だが、少し歴史をさかのぼってみれば、琉球(沖縄)は清朝からぶんどったものだし、蝦夷(北海道)には先住民がいたところに植民した場所です。細かい例を挙げれば小笠原なんかもそうかもしれません。これらについては不問なのであります。
アメリカも独立当時は東海岸の13州しかなかったわけで、西へ広がる過程では(金銭によってナポレオンから買ったものもありましたが)メキシコやスペインとの戦争の結果、領土拡張を進めてきて、西海岸にたどりついてもとどまらず、独立国家だったハワイを併合、フィリピンをスペインからぶんどっています。
植民地は本国を潤すためのシステムですから、支配された方は搾取され続けてたまったものではなかったでしょう。だがまあ、そういう時代であったのだとしか言いようがありません。途中で独立されたり、他国にぶんどられたりせずに、本土化が進んでしまえば、植民地支配も正当化されてしまうという例は枚挙にいとまがありません。ヨーロッパの国であるロシアが、太平洋にたどり着くまで領土拡張を続けたこと。すっかり中国領土となったチベット。アメリカのプエルトリコ。などなど。
8月15日に終わったという戦争は、ふたつの起点を持っていると僕は思います。ひとつは1931年9月18日の満州事変。これを起点に日本は満州という傀儡国家の建設を行うようになります。それから、1937年7月7日の盧溝橋事件。これをきっかけに朝鮮にいた日本軍が国境を越えていきます。
いずれの事件も日本側の軍による自作自演であったとする意見が強いです。ポツダム宣言で連合軍が日本を降伏させるにあたって、日本政府に降伏を迫ったのではなく、日本軍に降伏を迫りました。これは、「一連の戦争は軍の独走によるもので、日本国民や主権者(天皇)の意図したところではなかった」という着地点を目指したものだったのでしょう。事実戦後のGHQの「軍の独走が悪かった」という教育とも相まって、国民は戦争なんかしたがっていなかったのに、軍には逆らえなかったという雰囲気を作りだしました。
しかしこれは、単に(後に西側と呼ばれる諸国が)極東における橋頭堡として自陣営に安定した国が欲しかったという理由にすぎないのでしょう。朝鮮はカイロ宣言の言葉にあるようにまさに enslavement であって国としての体裁をなしておらず、台湾は地政学的にあまりに中国本土に近すぎました。ここで、日本の主権者の戦争責任を問い、戦後体制を不安定にしてしまうのは、西側の(特にアメリカの)望みではなかったのでしょう。
だが「先の戦争は軍部の独走」という幻想は、その後も日本国民に染みついて離れていないような気がしてなりません。
しかし軍部の後押しをしたのは経済問題であったはずです。
黄禍論・世界恐慌・関東大震災・ブロック経済。当時の日本経済の苦境を語るキーワードです。生活の苦しさが強権を後押ししたという点では、ドイツのナチズムと似ているかもしれません。でも、ドイツでは「なぜナチズムを止められなかったか」という反省が戦後一貫して行われています。それに対して、日本では「なぜ軍部の独走を止められなかったか」という反省が行われることもなく、ただ漫然と平和憲法とアメリカの軍事力の傘の下で、経済発展を享受してきました。
中国が石油の輸入国になるという予想はきちんと当たりました。そりゃ自動車は石炭では走らないから当たり前でしょう。あの国の指導者は、膨大な数の国民を食わせ、豊かにする仕事にひたすら追われています。石油の消費量は今後も伸びていくでしょう。
尖閣列島のある大陸棚には石油資源があると言われています。また中国が「日本の領土ではない」と主張して都知事を怒らせている沖ノ鳥島近海にも石油資源がある可能性があります。
領土なんて要らないと言っている人も、いざ資源競争に負けて不景気になり、職を失って食う飯にも困れば、「集団的自衛権の行使」などと叫び出すのではないかと思うのであります。
フォークランド紛争やイラク戦争のように「国のメンツ」などというくだらないものが戦争の種になることもありますが、ほとんどの戦争は経済的な背景を持っているものでありましょう。
結局何が言いたいのかまとまらないままに、二日間日本の近代戦争史を読んですごしてしまいました。
2005年08月13日(土) 帰省 毎年お盆の帰省は、こちらでのAAミーティングもしくは病院メッセージの日にあわせているのが通例でした。でも今年はどうしても水・木の日の巡りがお盆とあわず、週末の帰省となりました。
実家への途中でホームセンターに寄り、パソコン裏の配線をしまうためのカッティングダクトを探しました。広い広い店舗を探し回ったあげく、店員さんにも聞いてみたのですが、「何ですかそりゃ」という返事でした。やっぱり民生用としては売られていないのでしょうか。
アスクルという事務用品の通信販売会社は、最初は会社相手だけの商売でしたが、そのうちに個人相手の小売りも始めて繁盛しているようです。ミスミあたりが個人相手に商売を始めてくれると助かるのですが・・・(ミスミは工業部品の通信販売会社)。
実家に家族を残して、前回日記に書いた薬物依存の人の入院先を訪問しました。しかし、看護婦さんに「外泊中」だと教えられました。無駄足でしたが、外泊できるぐらいコンディションが良いというのは悪くないニュースです。
パソコンに向かってばかりいる妻を残して、母と僕の娘二人と全員4人で花火大会を見に行きました。小規模でちょっとさびしい花火大会でしたが、不況のあおりで中止が続いたりしてたので、復活はうれしい限りです。
実家に帰るときはPHSを通信手段にするのですが、ちょっと電波状態が悪いのが難点でした。PHS会社のカスタマーサービスに実家の住所を知らせて「この場所でもっときちんと使えるようにしてほしい」とだめもとで伝えてみました。それはもう何ヶ月も前の話であります。
今回は、PHSの機種が変わっているということもあるのですが、とぎれずに安定して通信できています。なんだかうれしいです。
これから眠れなければ、パソコンのDVDで『十二人の怒れる男』をみるつもりです(12人のイカれた男ではないよ)。
ハッピー・ボン。
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