心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年08月18日(木) 不調

まずパソコンが不調であります。
調子が悪いのは前々からわかっていたのですが、原因不明なので使えるうちは放っておいたのでした。Windowsを再インストールしても直るとは限らないし・・。
Windowsが起動するまでの時間が5分とか10分とかかかるようになって、しかも、使っている最中に無反応になるかブルースクリーンになるという現象がだんだんひんぱんになってきました。

昨日は、OutlookExpressがフォルダのcompactationをしている最中に吹っ飛び、「受信フォルダ」と「送信済みフォルダ」の中身を空にしてくれました。AAの関係のメールや、ネット・オークション、仕事の関係のメールは別フォルダに入れてありますし、3ヶ月ごとに古いメールは整理することにしているので、被害にあったメール(失われたメール)はそれほど多くはありませんが、頭にはきました。

不安定の原因はハードウェアがらみっぽいですが、原因の部品が判明しない以上、可能性のありそうな部品を全部取り替えてみるしかないかもしれません。

サブマシンとして使っているパソコンがあるので、とりあえずそれを使っています。

次の不調は体の方です。
ちょっとうつが重くなってしまっていて、会社のデスクに座って船をこいでいる状態です。なんとか明日一日がんばって週末になだれ込むか、それとも大事をとって休むか、それすらなかなか決断できないという状態であります。


2005年08月16日(火) 焦り・狼狽・いてもたってもいられない

夏休み最後の日だというのに、起きたのは午後2時でありました。
「諏訪湖が見たい」という家族の要望に逆らえず、車上の人となりました。
いつもの通勤路と同じルートですが、帰省から戻る車で混雑していたので、途中のインターチェンジで降りてしまいました。

日本のなぎさ100選にも選ばれたという諏訪湖のなぎさで、石投げを楽しみました。長女は石投げは初めてのチャレンジでしたが「4回ジャンプしたよ」とはしゃいでいました。次女のはただ遠くへ投げるだけなので「じゃぼん」と大きな音が一回するだけです。

大人800円、子供400円という値段は高いような気がしましたが、乗ったことがなかったので、遊覧船に乗ることにしました。娘たちは船に乗るが初めてだったので、はしゃいでいました。僕が初めて船に乗ったのは、小学6年生の「東京見学」(修学旅行ではない)で東京湾の遊覧船に乗ったのが最初であろうと思われます。

片倉館 という戦前からある温泉の外湯に入って帰ってきました。

翌朝は10時に起きて、クリニックに行きました。戻ってきてみて郵便受けを見ると、社会保険事務所からの書留を預かっていると郵便局からのお知らせが置いてありました。「年金証書がくるにはまだ早いよな〜」と思いつつ、急いで郵便局に向かい、帰省からの戻りでやっぱり混み合っている高速道路をとばして会社にたどり着きました。

書留の封筒を開けてみると、そこには「書類の不備があるのでそろえて再提出するように」という内容の書類とともに、7月に提出した書類がまるまる戻されていました。社会保険事務所での受付が7月7日。社会保険業務センターへ書類が回ったのが7月11日。8月11日に社会保険事務所に差し戻され、盆明けすぐに僕のところへ送ってくれたらしいです。

提出した書類では、初診は東京の調布の精神科クリニックということで出してあります。しかし、そこに紹介されるまでに前の日に手首を切って自殺未遂をして救急病院で手当を受けたこと。その前の月に内科で胃を見てもらっていること。この両方の「受診状況等証明書」を追加して再提出しろということであります。またそのぶんの申立書も追加で書かないといけません。

会社の階段で病院に電話をかけてみました。調布の救急病院ではカルテ庫を調べてくれましたが、カルテは残っていないので証明書は書けないということでした。田舎の総合病院では、医事課のおねーさんが「カルテは5年で破棄しますから残っていません」と冷たく突き放されてしまいました。
母に電話して、当時の領収書でも残っていないか聞いてみましたが、「残ってるわけねーだろう」と一喝されてしまいました。
年金申請の書類にはいろいろと余計なことは書かない方がいいとは言われていました。そのぶんまで証明書が必要になるからです。しかし、初診証明の書類に「7月に内科受診」とか「左手横骨動脈切断」とか書いたのは僕ではなくて、調布のクリニックの医師です。それでも、そう書かれてしまっている以上、その内科やら救急病院が初診となるというのが社会保険庁の見解のようです。

そして、そうした書類を用意できなければきわめて不利になるだろうということも、ネット上で調べたあちこちに書かれていました。

(初診証明を書き直してもらえば良かったなぁ)とか後悔しても始まりません。どうして良いのかわからず動転していました。

最後に社会保険事務所に電話して相談してみました。そういう場合には「受診状況等証明書が添付できない理由書」を添付すればいいことや、そこにカルテが破棄されているという理由を書けばいいことを教えてくれました。
「しかし、証明書を提出できる場合に比べると、やっぱり不利になりますかねぇ」という僕の質問に対し、年金給付課の人は、「それは一緒に提出していただく申立書の内容と併せて判断しますから、そちらをしっかり書いてください」という返事をくれました。

内科の方は、酒の飲み過ぎで胃が悪くなり吐いていただけなので、これはなんとでも書きようがあるでしょう。ただ自殺未遂の方はうつ病と関係ないというわけにはいかないでしょう。ここで書類が不備なのでだめだと言われれば、これは手続き上の不備なので、抗弁のしようがありません。

このころになって、ようやく「やるだけのことはやって、あとは<おまかせ>だな」という感覚にたどり着くことができました。1時間ほど気の動転は続いてしまいました。お祈りの効果もなかったし、黙想する余裕もありませんでした。

なんとなく年金はもらえない確率が高く高くなっていくようでありますが、とりあえず書類をそろえて再提出まではするつもりです。


2005年08月15日(月) 台湾から戻って戦争について考えた

正しい戦争などはないということは僕にもわかります。

日清戦争で得た「台湾」。そして中国の従属国であった朝鮮の独立を中国に認めさせ、あげくに併合して得た「朝鮮」。日露戦争で得た「南樺太」。国際連盟の委任統治領だった南洋諸島。これらは日本の植民地でありました。

だが、少し歴史をさかのぼってみれば、琉球(沖縄)は清朝からぶんどったものだし、蝦夷(北海道)には先住民がいたところに植民した場所です。細かい例を挙げれば小笠原なんかもそうかもしれません。これらについては不問なのであります。

アメリカも独立当時は東海岸の13州しかなかったわけで、西へ広がる過程では(金銭によってナポレオンから買ったものもありましたが)メキシコやスペインとの戦争の結果、領土拡張を進めてきて、西海岸にたどりついてもとどまらず、独立国家だったハワイを併合、フィリピンをスペインからぶんどっています。

植民地は本国を潤すためのシステムですから、支配された方は搾取され続けてたまったものではなかったでしょう。だがまあ、そういう時代であったのだとしか言いようがありません。途中で独立されたり、他国にぶんどられたりせずに、本土化が進んでしまえば、植民地支配も正当化されてしまうという例は枚挙にいとまがありません。ヨーロッパの国であるロシアが、太平洋にたどり着くまで領土拡張を続けたこと。すっかり中国領土となったチベット。アメリカのプエルトリコ。などなど。

8月15日に終わったという戦争は、ふたつの起点を持っていると僕は思います。ひとつは1931年9月18日の満州事変。これを起点に日本は満州という傀儡国家の建設を行うようになります。それから、1937年7月7日の盧溝橋事件。これをきっかけに朝鮮にいた日本軍が国境を越えていきます。
いずれの事件も日本側の軍による自作自演であったとする意見が強いです。ポツダム宣言で連合軍が日本を降伏させるにあたって、日本政府に降伏を迫ったのではなく、日本軍に降伏を迫りました。これは、「一連の戦争は軍の独走によるもので、日本国民や主権者(天皇)の意図したところではなかった」という着地点を目指したものだったのでしょう。事実戦後のGHQの「軍の独走が悪かった」という教育とも相まって、国民は戦争なんかしたがっていなかったのに、軍には逆らえなかったという雰囲気を作りだしました。

しかしこれは、単に(後に西側と呼ばれる諸国が)極東における橋頭堡として自陣営に安定した国が欲しかったという理由にすぎないのでしょう。朝鮮はカイロ宣言の言葉にあるようにまさに enslavement であって国としての体裁をなしておらず、台湾は地政学的にあまりに中国本土に近すぎました。ここで、日本の主権者の戦争責任を問い、戦後体制を不安定にしてしまうのは、西側の(特にアメリカの)望みではなかったのでしょう。
だが「先の戦争は軍部の独走」という幻想は、その後も日本国民に染みついて離れていないような気がしてなりません。

しかし軍部の後押しをしたのは経済問題であったはずです。
黄禍論・世界恐慌・関東大震災・ブロック経済。当時の日本経済の苦境を語るキーワードです。生活の苦しさが強権を後押ししたという点では、ドイツのナチズムと似ているかもしれません。でも、ドイツでは「なぜナチズムを止められなかったか」という反省が戦後一貫して行われています。それに対して、日本では「なぜ軍部の独走を止められなかったか」という反省が行われることもなく、ただ漫然と平和憲法とアメリカの軍事力の傘の下で、経済発展を享受してきました。

中国が石油の輸入国になるという予想はきちんと当たりました。そりゃ自動車は石炭では走らないから当たり前でしょう。あの国の指導者は、膨大な数の国民を食わせ、豊かにする仕事にひたすら追われています。石油の消費量は今後も伸びていくでしょう。
尖閣列島のある大陸棚には石油資源があると言われています。また中国が「日本の領土ではない」と主張して都知事を怒らせている沖ノ鳥島近海にも石油資源がある可能性があります。

領土なんて要らないと言っている人も、いざ資源競争に負けて不景気になり、職を失って食う飯にも困れば、「集団的自衛権の行使」などと叫び出すのではないかと思うのであります。

フォークランド紛争やイラク戦争のように「国のメンツ」などというくだらないものが戦争の種になることもありますが、ほとんどの戦争は経済的な背景を持っているものでありましょう。

結局何が言いたいのかまとまらないままに、二日間日本の近代戦争史を読んですごしてしまいました。


2005年08月13日(土) 帰省

毎年お盆の帰省は、こちらでのAAミーティングもしくは病院メッセージの日にあわせているのが通例でした。でも今年はどうしても水・木の日の巡りがお盆とあわず、週末の帰省となりました。

実家への途中でホームセンターに寄り、パソコン裏の配線をしまうためのカッティングダクトを探しました。広い広い店舗を探し回ったあげく、店員さんにも聞いてみたのですが、「何ですかそりゃ」という返事でした。やっぱり民生用としては売られていないのでしょうか。
アスクルという事務用品の通信販売会社は、最初は会社相手だけの商売でしたが、そのうちに個人相手の小売りも始めて繁盛しているようです。ミスミあたりが個人相手に商売を始めてくれると助かるのですが・・・(ミスミは工業部品の通信販売会社)。

実家に家族を残して、前回日記に書いた薬物依存の人の入院先を訪問しました。しかし、看護婦さんに「外泊中」だと教えられました。無駄足でしたが、外泊できるぐらいコンディションが良いというのは悪くないニュースです。

パソコンに向かってばかりいる妻を残して、母と僕の娘二人と全員4人で花火大会を見に行きました。小規模でちょっとさびしい花火大会でしたが、不況のあおりで中止が続いたりしてたので、復活はうれしい限りです。

実家に帰るときはPHSを通信手段にするのですが、ちょっと電波状態が悪いのが難点でした。PHS会社のカスタマーサービスに実家の住所を知らせて「この場所でもっときちんと使えるようにしてほしい」とだめもとで伝えてみました。それはもう何ヶ月も前の話であります。
今回は、PHSの機種が変わっているということもあるのですが、とぎれずに安定して通信できています。なんだかうれしいです。

これから眠れなければ、パソコンのDVDで『十二人の怒れる男』をみるつもりです(12人のイカれた男ではないよ)。

ハッピー・ボン。


2005年08月12日(金) テレビの設定

2階にテレビを移したので、子供たちに「テレビを見たければ2階へ行っていいよ」と申し渡しておいたのですが、せっかく3階でゆっくり寝ていたのに「テレビを見たいから」という理由で起こされてしまいました。
「2階で見ればいいではないか」というと、「ジジがだめだって」と言うのであります。どうやら夕方遅くまで見ていた時に、電気代がもったいないからとかいう理由で叱られたらしいのですが、子供に細かい区別のつくわけもなく「2階のテレビは見ちゃだめ」と怒られたという認識しかないので、3階のテレビを見たがります。
「昼間はいいんだよ」と諭しても、パパの言うことよりもジジの言うことのほうを聞くようであります。

妻に愚痴をこぼすと、「せっかく別々に暮らしているのに、口を挟まれるから嫌なのよ」という弁でした。その後ジジババのところに話しに行っていたけれど、談判しに行ったのかどうかは聞きませんでした。

パソコンへのテレビの配線をすませました。

ついでにSONYの「テレビ王国」というテレビ番組表のサービスに登録しました。対応機器ならば、テレビ王国に登録したキーワードに一致した番組が自動録画されるように設定できるのですが、とりあえず番組表が見られて、キーワード検索ができるだけでもよしとしましょう。

キーワードとかジャンルとか人物の名前を登録しておくと、おすすめの番組をピックアップしてくれる「レコメンド」という機能があります。

人名のキーワード設定:
YOU・緒川たまき・遊佐未森・小倉優子・田中裕子・広瀬香美・中島みゆき・チャカ・井上陽水。

フリーワード:
依存症・AA・怒れる男・マイネームイズ・失われた週末・市民ケーン

という設定にしておいたのですが、なぜか「失われた週末」の「週末」をキーワードに、「めざましテレビ」とかをリコメンドしてきたりするので、もうすこしなんとかならないかと思うのであります。

また朝になっちゃったよ。


2005年08月11日(木) わがままなお願い

AAにビッグ・ブックというベーシック・テキストがあるように、NAにもベーシック・テキストがあって、これが「またすごくいい」という話を二人の人から聞いていました。なので、いつかそれを読んでみたいという、どちらかと言えば興味本位の関心を抱いていました。

前に僕のいたAAグループで回復を勝ち取った薬物依存の若者(?)が、ぶり返してしまい病院に入院したというニュースを同時に二ヶ所から知りました。僕のことを覚えてくれていたようで、また一緒にやりたいと伝言が伝わってきました。

前回一緒にやっていた時には、躊躇なく「若者」と呼べた年齢ですが、年月は誰にでも等しく訪れるもので、僕がおじさんになったように、彼も若者の範疇からは外れつつあると思います(まだ再会していないからわかりませんが)。アルコールと違って、薬物の人の命は短いです。今回がダメでもなんて悠長なことは言っていられません。だいたい今回入院にこぎ着けるまでも長い時間がかかっているのです。

僕は最近、ビッグ・ブックを回復の道具として使うムーブメントの一部に混じっています。ならば、彼と再会したらNAのベーシック・テキストでもって分かち合いをしたらどうだろうか。そんなことを考えました。

しかしNAにはまだサービスオフィスがないし、当地での次のNAミーティングの際に、僕は実家へと帰っているはずです。いったいどこからベーシック・テキストを手に入れたらいいのか? しばらく思案した後、県内にあるDARCに電話をかけました。

電話をかけること3回。回復の道具としてベーシック・テキストが欲しい、という要求は相手に伝わりました。しかし残念なことに、日本版はまだ完成してはいないそうなのであります。もうすぐ完成しそうなのだが、まだである、ということで在庫がないという話でした。つまり端境期というわけですね。
DARCのスタッフは親切にも東京にまで電話をしてくれて、2002年版のベーシックテキストの中古を探してくれると約束して頂きました。
実にぶしつけなお願いをきいて頂いて、恐縮千万であります。「できれば2冊お願いします」と言う自分もなかなか厚顔です。
でも、電話の向うから感じられたのは、いま苦しんでいる薬物中毒者のために、できることをしようという意欲でした。

パソコンと電話のシステムを3階の部屋から2階に移しました。とりあえず配線なんかも全部すみましたが、裏側のごちゃごちゃの配線はどうにもなりません。いっそのこと工場の機械みたいにカッティング・ダクトを設置して、全部配線を押し込めてしまいましょうか。カッティング・ダクトはホーム・センターで売っているかなぁ。


2005年08月10日(水) 知らせ

市営プールに行くという子供との約束だったので、午後1時には子供にたたき起こされました。最近体重減が続いているので、なんとか去年まではいていた海水パンツがはけました。
市営プールは大人800円、子供400円と決して安くはありません。でも、障害者手帳のおかげで僕の分は無料であります。
長女が僕の手帳をみて「しょうがいしゃてちょうって何?」と聞いてきました。なぜそれで無料になるのか不思議に思ったのでしょう。「病気だよっていう手帳で、病気だといろいろ大変だから割引してくれたりするの」と答えておきました。
子供は親が病気であることは知っているし、だから寝ていることが多いことも知っています。いまさらそこで取り繕ってみてもしかたないなと思いました。
ちなみに、妻も障害年金の手続きを進めていて、ついでに障害者手帳の申請もするつもりのようです。夫婦そろって精神障害者というわけです。ご近所には知られてはならない事柄でありますな。

市営プールは親子連れが圧倒的で、浜辺ほど見ていて楽しいものではありません。
おまけに、以前は眼鏡もゴムひもで固定すれば、眼鏡をかけたままプールに入っても良かったのですが、今は一律に禁止されてしまいました。僕は裸眼では視力は0.1以下であります。ビキニのおねーちゃんを見て目の保養をするためには、よほど近寄らないといけません。もっともビキニの人は少なくて、タンキニ+デニムのボトムという人が一番多いです。
「ビキニ少ないな〜」と嘆いていたら、妻に「あれはよっぽど自信がないと着れないわよ」と諭されてしまいました。

日頃肩こりに悩まされているので、ビート板を胸の下に入れて、足を使わず腕だけで泳ぎながら流れるプールを何周かしました。

夕方になったので、精神科のクリニックへ。時間がなかったので、家族連れで行きました。受付の人に「これから花火大会に行くんですか」と聞かれました。そういえば今日はこの街で、一番大きな花火大会の日です。「いや、AAミーティングへ行くんです」というと、「そうね命の問題だからね。そっちのほうが大事だよね」と言われました。
昼間眠いので、薬を少し変えてもらいましたが、しばらくは前の薬の効果が残り、新しい薬の効果も重なるので、かえって昼間眠くなるかも知れません。「でもまあ、休みだからいいでしょう」とは医者の言葉。

高速道路を使ってAAミーティングへ。
頭がぼうっとしていて話がまとまりません。だらだらと話してしまいました。

こんなことを書くと「回復評論家」なんて言われちゃうのかも知れませんが、ミーティングで回復するのは「過去」の話をする人たちだと思います。飲んでいた頃どうであったか、なぜ飲むように駆り立てられたのか。そういう人たちが現在を話す時は、中身がステップの話になっていることが多いように思います。
一方「現在」にこだわった話をする人がいます。最近あった事柄を網羅的にいろいろ話すのですが、過去の酷かった頃の話を繰り返すことが少ないものです。こういう人はなかなか前進しないように思います。
霊的な生活は理論ではないと言います。だから僕も祈ったり黙想したりしないといけないな、と思いながらただ毎日が過ぎていきます。

帰ってから妻と2時間ぐらいまとめて話をしました。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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