心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年07月13日(水) 水は低きに流れるか

この一週間、なるべく昼間起きて、夜寝る生活を心がけていました。
でも、火曜日あたりから低調であります。子供のバスハイクにつきあった疲れが出たのかもしれませんが、普通に考えるとやっぱりウツでしょう。

障子の張り替えも、あと一枚を残すばかりとなりましたが、面倒なのでしていません。
Conturaには無事Windows NT4がインストールされました。生意気にも無線LANカード装備を装備して、我が家のどこでもインストール作業を続行できる状態であります。

午前中に起きて、ConturaのACアダプターに延長ケーブルを作ったのですが、コネクターがショートしていて火花が飛んでびっくりしました。ちゃんと導通確認をしないで「とりあえず刺して動かしてみる」という姿勢に問題があるのでしょう。ハードウェアを買えば説明書を読む前にとりあえず電源を入れてしまう。ソフトウェアを買えば説明書を読む前に、とりあえずインストールしてしまう。気が向けばなんでも分解してしまう。そしてトラブルに巻き込まれる。おっちょこちょいなのでありましょうか。

話は変わって、僕は自分をアダルト・チルドレン(AC)だとは自覚していないのですが、ハルメンズ(と言って分からなければ戸川順をフューチャーしていたバンド)の歌に「私はあなたの指図通りに生きてきました」という歌詞には親近感を覚えてしまうのであります。
父親に否定的な感情を植え付けられて育った戸川順は、神経症的な自我を確立し、自殺未遂や精神病院への入院を体験します。当時の我々は、そうした彼女を「アイドル」として受け入れたのでありました。
否定的な感情を植え付けられて育った僕は、どんな競争にでも打ち方なければ自分の存在価値がないという強迫観念を持った大人になりました。でも、スーパーマンじゃないので全分野に勝利を収めることなどできっこないのです。結果自分をも、他人をも偽って生きることになります。
たとえば自分は運転免許証を持っていなかったし、健康保険税を払っていなかったので保険証すらもっていませんでした。だからレンタルビデオの会員にはなれなかったのです。ところが居酒屋でアダルトビデオ談義が始まって、あの女優はとか、あの監督はとかいう話になると、何の知識もないのに必死で話に食らいついていこうとしてしまうのでした。結果はしったかぶりがひとりできあがるだけです。
虚言癖があると言っても良い自分を、周囲の友人たちは「変人」もしくは「奇人」として受け入れてくれていました。
加藤諦三という心理学者の本に「自己喪失をした神経症者」という言葉が出てきますが、初めてその言葉に出会った時に、深い共感を持ったことを覚えています。
そんな自分が変わるきっかけを与えてくれたのは、AAプログラムでありました。

僕の両親はアルコホーリクではないですし、僕は自分の育った家庭を機能不全家族だとも思っていません。ACは病気ではなく自覚の問題だと言いますから、僕はACではありません。「自己喪失をした神経症者」に育った「責任」というものがあるとしたら、親が悪いのかもしれません。でも「責任」が「原状回復への義務」にあるとするならば、回復への義務を背負っているのは親ではなく僕自身であります。

これでも10年アルコールの自助グループでうろちょろしてきた人間の言葉として言わせてもらえれば、「すべてのアディクトはACである」というのは明確な嘘であります。そんなものは、AC論のなかで単純なモデルに飛びつきたがった治療者や援助者があみだした幻想に過ぎません。
たしかに、AAはその初期の頃に「アルコホリズムの原因は子供時代の体験にある」とするコンセプトに傾いた時期もあったのでしょう。でも、アル中が遺伝形質の病気であるとしても、親がアル中の子供は、そうでない子供にくらべて「4倍しか」アル中になりやすいのにすぎないのです。
依存対象の物質は、人間が機能不全家庭で育ったか、愛あふれる家庭で育ったかなんて言う違いは斟酌してくれません。ほとんど飲めない体質の下戸であるにもかかわらず、アルコールに囚われてしまう悲惨な男の話もありました。

話は戻って、その後の戸川順は過食症で太った時期もあったりしました。最近の音信では40才前後で自殺未遂を2回ほどしているらしいです。ますますご清栄であります。

この話はふくらませて、ウェブ本体に納めようと思ったのですが、なんとなく時間が過ぎてしまっていたので、雑記のネタに使ってしまいました。そのうちふくらませて収録したいと思っています。

午後3時から寝てしまい、夕方寝ぼけた頭でミーティングに行かない言い訳を一生懸命考えていたのですが、自分に納得できる言い訳を思いつかなかったので、起きて医者とミーティングに行ってきました。


2005年07月12日(火) 9万人

トロントでのコンベンションに行ってきたよ〜、というメールなどをいただいております。
スタジアムに9万人集まったという話と、AAメンバー5〜6万人が集まったという話があって、おいおい数が違うじゃねーかと思ったのですが、その差は家族(アラノンメンバー)だそうであります。

自分も行きたいかと言われると、あんまり行きたくないな〜というのが正直な気持ちです。別に嫌いとかそういうわけじゃありませんが、僕は飛行機のエコノミークラスというのが大嫌いで、あれで太平洋を越えている自分が想像できません。かといって、ビジネスクラスのお金が出せるほど裕福じゃないし・・・。何十万という金を使うんだったら、あれも買えるし、これも買えるしなー・・と物欲のほうに走ってしまう自分であります。

9月には福岡で日本AAの30周年大会があります。経済的にも、肉体・精神的コンディションも行ける状態ではないので、これも仲間のメールレポートを読ませていただくだけになるのでしょう。

梅雨でいつも曇ってばかりなのですが、たまに晴れると急に気温が上がり、暑くてたまらなくなります。仕事に行くようになると、ずっと冷房の効いた環境にいて、自宅の自室が一番暑いってことになるのでしょう。


2005年07月11日(月) 無料?

月曜のAAミーティングに毎週出るというプログラムはとりあえず今週で終了します。今後は体調と相談しながらということになります。病院から送迎していた仲間とも会えなくなりますが、彼も公営住宅への応募が書類審査を通ったそうなので、あとは抽選に当たれば、自転車で自力でミーティングに通ってくるでしょう。

仲間のバースディミーティングでした。僕の左には18年の仲間が、右にはその入院中の仲間が座っていました。僕ら3人は9年前にもこんなふうにして、一緒にミーティングをしていました。左の仲間の18年前の状態と、右の仲間の現在の状態はとてもよく似ています。9年前には右の仲間はもっとたくさんのものを持っていました。でも、その状態では彼のAAプログラムは始まらなかったのでしょう。依存症本人には失ってみなければわからないことはたくさんあります。それはそれで仕方がないことなのでしょう。でも、子供はかわいそうであります。

アメリカでは回復者の6割がAA以外が占めるようになって、AAの特長といえば「無料であること」ばかりが強調されているそうであります。軍のラジオではAAのコマーシャルが頻繁に流れていて、「会費も月謝もない」と連呼しているといいます。でも、AAも無料ではないんですよね。
ただ、田辺さんが別れの言葉に書かれたように、「止めはじめでがたがた震えているアル中に、会場費のことも、その他いろんなことも心配しなくて良いんだよ。今は自分の回復だけに集中しなさい」と言えることが大切なんだということなのでしょう。

昔はAAメンバーの特殊技能(たとえば翻訳とか)は、「メッセージを運ぶため」に必要とあれば無料で供出されるのが当たり前でした。ですが、現在ではしだいに、その人がAAメンバーであれ、外部の業者であれ、専門の能力の提供にはなるべく対価を払うという方向に進んでいます。
「12番目のステップ」はあくまで無料で行われなくてはいけません。たとえば「AAセラピスト」という看板を掲げて有料でセラピーを行ったら伝統から外れることになります。でも、AAメンバーの精神科医が(実際にいるんだよそういう人が)アル中を診察するのに、診療報酬を請求しないということはありません。

NPO法人になったJSOですが、収入の6割以上を占めている出版は「収益を上げる事業」ということになるでしょう。その収益を本来業務の「メッセージを運ぶ」に回すことは別に問題のないことであります。また、本来業務に対して「献金」という名前の収入を得ることもなんら問題ではありません。

「報酬がピーナッツだけだったら、集まるボランティアはサルだけ」というのはAAのパンフレットのどこかに書かれていたことです。12番目のステップは無料で、でもサービス活動には対価を。何に対して支払って、別の何に支払わないかは、いつだって議論の対象であります。
一方、物品や役務を提供したメンバーは、請求書を提出するかどうか、自分で決める自由があるとも言えるのでしょう。

土日はお休みした障子張りも続きをしました。あと1枚だけになりました。
テレビの修理もしました。もちろん僕に高圧回路をいじれるわけもなく、ただ接触不良を直しただけです。

近所の大型家電店のテレビのアンテナ配線コーナーで、UHF/UHF混合機とフィーダー線を探していましたが見あたりません。店員に聞いてみたものの「UU混合機って何ですか?」とか「デジタル放送の時代にフィーダー線とは」などと間抜けなことばかり言っていて話になりません。松下の電器屋さんをやっている仲間に電話をかけて、フィーダー線の在庫を持っていないかたずねてみたら、わざわざ倉庫を探してくれて「どっかにあるはずなんだけど、見あたらない」という返事をもらいました。悪いことをしてしまいました。僕は300Ωの線と言ったのですが、UHFは200Ωだそうであります。さすが専門家は違いますね。

必要なものはホームセンターでそろいました。


2005年07月10日(日) あと一週間

日曜日だというのに、家族の中で一番早く起きてしまいました。
娘たちにレトルトのカレーと親子丼で朝食を作りました。またレトルト買ってきておかないといけません。

娘たちが、昨日ラベンダーを収穫した空港近くの畑に行きたいというので、一家で出かけることにしました。途中100円ショップで剪定ばさみを買うという気合いの入れようであります。

尾道ラーメン店で昼食。この店があるところは、以前はうどん屋であったり、カレー屋であったり、どんなテナントが入っても長続きしない場所でありました。テナントがころころ変わる場所というのが市内にいくつかあって、なぜ長続きしないのか誰にも理由はわからないのですが、長続きしない不思議があるのであります。
別の場所ですが、ゲームセンターやゲーム販売などのテナントがくるくる変わる店に、ビデオレンタルショップが入って1年半ほど長続きしていたことがありました。今度は成功したのかなと思っていたら、自動車が店舗につっこむという大事故が起って、店舗補修の資金が出ずに泣く泣く閉店に至ったということもありました。悪霊に取り憑かれているとしか思えません。今はその場所はブライダルショップになっていますが・・・。
尾道ラーメンにはがんばってもらいたいところであります。

午後は眠くなったので寝てしまい、夕に起き出して夜にスポンシーとスカイプでビッグブックの分かち合い。
どうしてもWindows 95ではTCP/IP経由でLANが組めないので、Windows 98をインストールしようとしたら486SXはサポートしていないとすげなく断られてしまいました。Windows NTのインストールを試しています。

さて、復職まであと一週間と迫りました。
今年の正月は実家に泊まりがけで帰省したものの、ずっと寝ているといううつ状態でした。年が明けて勤務が始まってもどうにもならず、残っていた有給休暇を使い果たした段階で、医者の診断書を出して休職となりました。11月あたりから、寝る前に夜食とポテトチップの他に柿ピーやさきイカを食べる習慣がついてしまい、就業時間中もこっそり何か食べているということの連続で、一気に10キロ太ってしまいました。精神科医がしてくれた血液検査の状態が悪かったのも、休む後押しになりました。もしあそこで食べ吐きに突入していたら摂食障害者のできあがりだったのかもしれません。
就職後半年もたたずに休職したので、はっきりいってやめる覚悟だったんですが、落ち着いてくると、ウツが良くなったらまた仕事に戻りたいとは思うようになりました。
1〜2月は生活習慣も崩れ、家族も悲鳴を上げて、医者が「入院」を口にするようになりました。大学病院に入院して電気けいれん療法をする案も出ました。3月15日に入院するか見極めるという話でしたので、AAのホームグループのチェアマン・司会・バスケット持ち・会計などを仲間に全部預けました。
でもまあ、ルボックスが2ヶ月かけて効いてきたのか、入院するほどでもないでしょうという判断になり、あとは自宅で無為の日々を過ごすことになります。
途中台湾に行ってみたり、プログラムを書きかけてみたり、いろいろありました。5月から始めた副業だけは無駄だったと今さらながらに思います。
傷病手当金がでなくて、障害者年金の申請に踏み切ってみたりもしました。
貯金も底を突き、(親にではあるものの)借金だけが残りました。

でも、こんな半年も人生の一こまとして記憶されるにすぎないのでしょう。


2005年07月09日(土) ラッキー・ドラゴン

8時に起きて朝食を食べ、9時半のバスハイクの集合時間に間に合うように家を出ました。
子供たちは二十数人。付き添いは(バーベキューの火の管理ために呼ばれたトクベツなお父さんを除けば)全員お母さんばかり。父親は僕ひとりというわけで、なんだか浮いた感じでありました。

心の中で願っていたことは、早く時間が過ぎて午後3時40分の解散時間になってくれないかということでした。でも実際に時間はとても早く過ぎてくれました。
午前中の工作教室は天然の木の素材を集めてキーホルダーを作るというものでした。子供たちが作ったものは、キーホルダーには使えないほど大きな物でした。素材ののこぎりをひいてあげたり、ハンドドリルで穴を開けてあげたり忙しくしているうちに、あっという間に1時間半が過ぎてしまいました。男の子たちは、ハンドドリルで穴を開けまくって、ムシキングだとかいろいろ独創的なものを作っていました。うん、男の子がいるのもうらやましいなぁ。

お昼のバーベキューは、最初に自分たちの食べる分の肉を焼いたぐらいで、火おこしもしなかったし、片づけの洗い物もお母さんたちがやってくれちゃって、僕は役立たずに立ってばかりいたのですが、これもあっという間に1時間半が過ぎてしまいました。お肉も十分食べられて、満足でありました。皆さんが僕の名前を呼んでくださるのですが、僕はお母さんたちの名前はほとんど覚えられずじまいでした。

午後は飛行場の周囲の公園へ移動(スカイパーク・略してスカパー)。おもしろ自転車広場というのがあって、奇妙な自転車に乗って遊ぶコーナーなのですが、ふだんは30分100円なのですが、この日は何かのイベントがあって無料開放されていました。そのイベントのあまりものでポップコーンを山ほどもらいましたが、二十数人の子供たちのお腹の中にすぐに消えてしまいました。同じ公園の中のラベンダー畑が、今日からつみ取り放題とあって、雨の中になりましたが、30分ほどラベンダーを収穫(?)しました。
実は大人の中でラベンダー採りに賛成したのは僕だけで、お母さんたちは疲れたなか雨の中に出かけていくことは反対だったようですが、ラベンダーの濃い香りの中でリラックスしたのでしょうか、終わりには笑顔が浮かんでいました。

そんな感じで「良いお父さん」を演じて帰宅したのですが、妻からは感謝の言葉は一言もなしでした。でもまあ、半年仕事を休んだ埋め合わせにもならないかと思うと腹も立ちませんでした。

夜の地区委員会まで仮眠を取っている間に、amazon.co.jpに中古出品していた専門書が売れました。厚くて大きな本ですが、古書店に持って行っても買い取ってくれないだろうし、捨てるのももったいないのでダメもとで出品していたのですが、売れるとなんだかうれしいです。1万円の本がおよそ半額で売れるなんて、夢のようであります。ああこんなことなら、ウェーブレット変換の本も捨てずに取っておくのでした。

副業のほうは、不良在庫の処分が進んでいます。日曜は午前中だけ郵便局の本局が開いているので、発送に行くつもりです。

送品用にクッション封筒を買ってから地区委員会へ。帰ってきた頃には子供たちは昼間の疲れで寝ていました。全般的にラッキーなことばかりあった一日で、不運なことと言えば手の指の皮をすりむいたことぐらい。たまにはこういう一日もあるのだなと思った次第であります。

でも体が疲れた中、委員会に出席するのは少々しんどかったです。土曜日には子供につきあって一日過ごした後に委員会に出てくる人もいるのですが、そのしんどさを初めて実感した機会でした。「その人の靴を履いて長い距離を歩いてみなさい」とはAAの言葉ではないけれど、AAの本のどこかに載っていた言葉であります。


2005年07月08日(金) やれやれと金曜日に到着

午前中はネットオークションの品の発送に、クロネコの営業所までママチャリででかけました。クロネコメール便には「厚さ2cmまで」という規定があり、僕の扱っている品はクッション材を入れるとどうしても厚さ3cmぐらいにはなってしまうので、扱いを断られるのではないかと毎度冷や冷やしているのですが、断られたことは一度もありません。

障子の張り替えも4枚目が終わり、これで電車側から見られる面はすべてきれいに張り直されたことになりました。居間のは貼り替えないことにしているので、あとは長女の机の前の2枚だけです。しかし長女はストレスが溜まると、机の下の障子を足で蹴破ってストレス発散をする癖があるので、貼り替えても無駄かもしれません。
オークションでポイントが溜まっているので、ポリエステル100%の障子紙 を試してみようかとも思っています。
でも、障子紙が破れなくなって、子供にストレスが溜まっても困ってしまうな。

午後はこんどは郵便局へ発送に。相変わらず赤字基調ですが、収支は改善しつつあります。

昨日からConturaにネットワークカードのドライバーをインストールしようと、何度もWindows 95をインストールしているのですがなかなかうまくいきませんでした。古いマシンだから、枯れた古いカードを使ったほうが良いだろうと10Mbpsのカードを使っていたのですが、どうやらそれのドライバーがいけなかったらしいです。100Mbpsのカードに換えたら、すぐに動き出しました。

CPUのクロックは25MHzで、今使っているデスクトップ機の1/100の速度です。メモリ容量12MBというのもほぼ1/100。ハードディスク容量700MBというのも1/100以上の差です。
そうなると使い勝手も100倍違うかというとそうでもありません。
数字ばっかり大きくなっていくけど、なかなか進歩しないのがパソコンであります。

明日は児童センター主催の子供バスハイクにつきあう予定です。朝9時30分集合。午後3時まで6時間つきあわされることになっていて、いまからうんざりという感じですが、まあ子供はとても楽しみにしているのであります。


2005年07月07日(木) やっと

なんとか一日一回の睡眠にまとまってきたかなという感じです。この間3週間あまりかかったでしょうか。

申立書の清書ですっかり右腕が疲れてしまったので、サロンパス貼りまくりであります。

いちおう診断書には「午前中はなにもできない」と書かれているので、申請は午後に行った方が良いだろうと思い、お昼過ぎに社会保険事務所に行きました。歩いていった方がよいのでは、という提案もあったのですが、屋内からは駐車場は見えないので、別に関係ないだろうということで車で行きました。

年金相談の窓口はすいていて、番号札を取って待つ間もなく係員に呼ばれました。
書類に不備がないかどうか確かめて、認め印をついて、受付が終わるのに5分とかかりませんでした。「裁定請求書の受付控え」という書類をもらいました。それには、今年の4月から社会保険庁では、「お客様」が実際にサービスを受けられるまでの所要日数を「サービススタンダード」として設定することになっていると書かれています。このケースでは年金証書が届けられるまでが「3ヶ月半」が目安であり、それ以上かかる場合には連絡があるとあります。

「質問事項がある場合には自宅に電話か書面で問い合わせがあります」と言われ、実際に問い合わせを受けた事例も聞いているので、帰宅後に妻に「復職後に、仕事中に社会保険庁から電話があっても、仕事に行っているとは言わないように」と念を押しておきました。

3月下旬に東京のクリニックに問い合わせの電話をかけるところから初めて3ヶ月あまり、やっと申請にこぎつけてほっとしました。これから3ヶ月半というと10月下旬になります。申請が通って年金証書が来ても、実際に年金が振り込まれるまで2〜3ヶ月必要だということですから、お金を手にすることができるのは来年になるでしょうか。長い道のりであります。
あらかじめ予告しておきますが、申請が通ったかどうかは報告しませんので、あしからず。

ちなみに妻も障害者年金の申請の手続きを進めています。そこで話し合ったのですが、個々に年金を手にすることがあっても、それを「夫婦の共同形成財産とはしない」という約束をしました。どうせ金が入れば家計の維持のためにそれを回さなければならないのははっきりしているのですが、あくまでそれは「夫の財産」「妻の財産」を融通しているのであって、年金を共同財産とはせず、それぞれの銀行口座に振り込まれるようにすることにしました。

雨が降っていたのですが、体を動かしていないと寝てしまいそうなので、障子張りをしました。

それから会社の総務とメールで連絡をしあって、復職後の給与体系がきまりました。「時間給のパートさん」というのが7月19日からの僕の立場であります。体調が悪くて休んでも、有給休暇を消化するのではなく、単に時給が支払われないだけということになります。勤務時間は午後1時〜5時30分。もちろん、AAミーティングに出られる時間であるのですが、しばらくは体を慣らすまでホームグループのミーティングに絞ることにします。

夜中にConturaにWindows 95をセットアップしている途中で寝てしまい、朝に子供の笑い声で起きました。なんだか健康的ですが、やっぱり午前中はぼうっとしてしまいます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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