心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年06月16日(木) 子供のインターネットアクセス

昨日はなんだかいろいろなことがあって眠れず、結局寝に入ったのは午前7時に近かったのだと思います。肉体的にも精神的にも疲れていたので、起きたら午後になっていたのも自分では不思議に思いませんでした。
ただ、まあ復職に向けてこういう生活は改めていかないといけないとは思っているのですが、なにせ感情の病気ですから、そう簡単には参りません。

その時、次女(一年生)がパソコンをいじっていて、長女(三年生)がいないところをみると、午後2時〜午後4時ぐらいだろうと見当をつけたのですが、はたして時計を見ると午後3時半でした。

子供たちにパソコンを与える時に、ネット接続をどうするか悩みました。ネット接続無しで孤絶した環境にしておくのが、有害なコンテンツやウィルスに対する一番の対策だからです。でも、学習ソフトはプリントアウト作業が必要なので、プリントサーバーに接続するためには、無線LANカードは刺しておかないといけません。それに学習ソフトそのものがInternet Explorerがないと動かないという凶悪な仕様になっています。
というわけで、子供たちは自由に「ネットサーフィン(死語?)」をすることができるようになってしまっています。

しかし無制限に許すと危ないので、「ネットに接続する時は大人の許可を取ってね」という約束であります。Internet Explorerには子供に見せるには不適切なコンテンツを遮断する機能がついているのですが、肝心のそのサービスを提供している会社がアメリカにしかないので、日本のサイトは見放題になってしまうか、制限をきびしくしすぎて何も見れなくなってしまうかのどちらかになってしまいます。適切なフィルタリングサービスがあるなら、月額料金をはらってもかまわないと思うのですが、そういうサービスはあまり聞きません。

子供用のホームページは、キッズgoo にしてあります。長女の話では、学校のパソコン教室のパソコンも、ホームページは「キッズgoo」になっているそうであります。まあ、子供用としては一番無難なところでしょうか。

話は変わって、「心の家路」へのアクセスは、たとえばこんなふうに解析していたりするわけです。なぜそんなことをするかというと、いたずら対策であったり、興味本位であったりするわけです。人々がどこから「心の家路」にたどり着くかは僕の関心の対象のひとつであります。
そのなかで、最近は少なくなってきましたが、一時期多かったのが「キッズgoo」から、アルコール依存症をキーワードに検索して「心の家路」にたどりつくケースです。
なんで子供がアルコール依存症なんかに興味を持つのかな〜と不思議に思っていたのですが、長女の話を聞いて疑問が氷解しました。

きっとおそらく、お父さんかお母さんがアルコール依存症の子供が、病気について調べてみようと学校のパソコンを使って検索をして、そのなかで「心の家路」にもたどり着いたということなのでしょう。なんだか、ちょっと切なくなるような気持ちがしました。

いつかは子供向けのコンテンツも用意したいななんて、またひとつ「やりたいけどいつになったらできるかわからないこと」が増えました。

7月19日から復職すると決まって、一番喜んでくれたのは子供たちであります。


2005年06月15日(水) 復職へ

朝から妻と義母が大げんかをしている。
次女は怒声が飛び交う中、食卓に並んだ朝食を悠々と食べると、さっさとランドセルと帽子を身につけて出かける準備をすませてしまいました。しかし、長女は事態におびえて泣いてばかり。しかたないので、ずっと抱いていてあげました。その後、妻が学校まで送っていったそうですが、1時間目・2時間目は(ひさしぶりに)保健室で過ごしたようです。
やれやれ。

午前中、義父母に呼ばれて話をしました。つまるところこの夫婦は、僕ら夫婦の主治医を信頼していないのであります。精神疾患とはどんなものなのか、理解しようとしない人には、どうしても理解できないもののようであります。

午後から5ヶ月ぶりに会社へ。上司の上司(取締役だ)と面談。「会社としては何も決めていない」ということは、僕を退職させようと言う話にもなっていなければ、何か特定の仕事をしてもらおうという話にもなっていないということでありましょうか。
結論から言うと、「海の日」の次の日から仕事に戻ることになりました。とりあえず最初はお昼から午後勤務ということをお願いしてみました。上司は了解してくれましたが、会社に「疾病社員の半日勤務制度」というのがないので、これは本社に戻って検討してみないと返事は出来ないとのこと。
おそらく仕事に戻っても何も仕事はないのでありましょう。しばらくはそれぐらいがちょうどいいのかもしれません。
「決して焦らないで。あなたが病気だと周囲が知っている環境の中で、ペースを調整しながら仕事をしていくことが大切ですよ」と諭されてしまいました。きっと他にもうつ病の部下を抱えているのでしょう。部下にいるとは決して言わないのですが、「そういう人を何人も知っています」ということは、暗にそれを示しているのでありましょう。
今後僕が仕事で頭角を現すということはおそらくないでしょう。とりあえず口に糊するために働くということになるのでしょうか。こうなるとモチベーションの維持が大変です。
それから、今後ともずっと高速道路通勤ということが確定してしまいました。一月に2,000キロ。4年で10万キロ。車が持つかな。まあ、そんなことは後で考えることにしましょう。

ホームグループのミーティングへは行ったものの、駐車場でちょっと休んだら1時間近く寝てしまい、起きてみるとミーティングは半分以上終わっていました。

先日3,300円で買った160GBのハードディスクにいれておいたWindows XPが死にそうであります。これから修復作業にかかるのですが、長丁場になりそうであります。安物買いの時間失いってやつでしょうか。僕の場合、インストールしているソフトが多いので、アプリなどを全部セットアップし直すのに、のべ40時間ぐらいかかります。やれやれ。
疲れることばかり。
OutlookExpressの設定を他のパソコンに移すソフトって誰か知りませんか?


2005年06月14日(火) 問題

9時にいったん起き、また寝て、もう一度起きたのがお昼前でした。
妻はおらず、僕はいつも通り洗顔・コーヒー・点眼・納豆でご飯・服薬・歯磨き・ひげそりというルーチンをこなしました。
明日は上司と面談なので、毎週水曜日に行っている精神科のクリニックへの通院は、今日のうちにすませておかなければなりません。
午後の時間はゆるりと過ぎていきます。

最初は、午後の診察が始まる2時にあわせて、クリニックまで歩いていこうかと思っていました。しかし妻が帰ってきません。僕が鍵を閉めて出てしまったら、学校から帰ってきた子供たちは困るではないかと思い、妻の帰りを待つことにしました。彼女は書き置きを残していっていません。

さらに午後の時間はゆるりと過ぎていきます。僕はだんだんイライラしてきて、妻の持っているはずのPHSに電話をかけました。「電波の届かない場所におられるか、電源が入っていません」という返事でありました。電波の弱いPHSには良くある話なので、何度かかけたのですが、答えはいつも同じであります。

しかたない、車でクリニックまで大急ぎで行ってくることにしました。幸いクリニックの待合室には誰もおらず、すぐに診察してもらえそうで安心しました。しかし、診察室に入っている前の患者さんの診察がなかなか終わりません。週刊朝日を2冊読んでもまだ終わりません。事務室からは「ながいわね〜」という声も聞こえてきます。
それだけ待って、自分の診察は5分で終わってしまい、もう読む雑誌もないので、立って張り紙などを眺めているうちに薬と会計の準備ができました。年金申請のための診断書はまだ先のようであります。

帰ってきた僕が見つけたのは、いつもの場所に放置されたPHSでした。しかも充電していないので、電源が切れています。そのうち子供たちも帰ってきました。車もある。自転車もある。いったいこの炎天下、5時間以上どこでなにをやっているのか。そこらへんで倒れているのじゃないだろうか。イライラで何をやっても手に着きません。

帰ってきた妻は「仕事を探していたの」と平気な顔をしていましたが、「あれほど出かける時にはPHSを持って行くように」と念を押していたのに、そのことには何の反省の色もありません。僕は「3回PHSを忘れずにでかけるという実績を積むまでは、仕事はまかりならん」と言い渡したのですが、まだ怒りが収まりません。

そのうち頭が疲れてきてしまいました。布団をひいて寝て、途中で夕食を食べてまた寝て、起きると8時半でありました。しかし、まだ感情の波は収まりません。

結局怒りの感情に押し流された一日でした。霊的な病気であるなぁと我ながら思います。


2005年06月13日(月) 睡眠

日曜日は7時45分に起きて授業参観に行きました。
お母さんたちに囲まれて男ひとりで恥ずかしい思いをするのではと心配していたのですが、日曜日だったので半分ぐらいはお父さんであり安心しました。
一時間目は長女の体育の授業で、親子混じってドッジボール。大人は利き腕じゃないほうで投げるというルールだったのですが、右腕で子供たちをぼこぼこアウトにしているお父さんがいました。きっとその人は左腕では野茂のような剛速球を投げるのでしょう。
二時間目は茶話会というので、PTAの会議というか懇親会をするのかと思ったら、自分の子供の隣りに座って、子供はペットボトルのジュースを、大人は同じくペットボトルのお茶を飲むだけのものでした。子供たちには駄菓子のたぐいが配られて・・・、いったいこのどこが授業参観なのか。
三時間目は次女のほうへ行き、工作の授業に混じりました。プラスチックの板に絵を描いて、オーブントースターでチンとやると、グニャグニャと曲がったあとに、また平らになってサイズが縮み、かわりに厚くなります。穴に金具を通してキーホルダーのできあがり。

子供たちはパパが起きられるか心配だったのでしょう。僕の顔を見ると安心していました。
最後に教頭先生と校長先生の講話を聞いて帰りました。小学校高学年で5%ぐらい、中学だと半分弱、高校だと2/3の生徒が「寝るのが午前0時過ぎ」なのだそうです。「そんな生活をしていたら、朝きちんと起きられる訳がありません」と校長先生は強く主張しておられました。
そうだそうだ。そんなことをしていたら僕のような大人になってしまうぞ!

ちなみに僕の場合には小学校時代は10時過ぎに寝ていました。中学になって深夜のラジオ番組を聞くようになりましたが、眠くて最後まで聞ききることができませんでした。当時のラジカセはオートリバースではなかったので、120分テープを使っても60分録音するのが精一杯。録音の切れた続きがきになったものです。
夜半過ぎまで起きている生活が定着したのは、ひたすら受験勉強をしていた高校時代からであります。三百数十人いる学年の中で、20位以内に入っていないと「ラブひな」の目標大学を受験するのは「無謀」「見栄っ張り」と言われたものですが、僕はその順位を維持することが出来なくなって、急速に勉学に対する熱意を失っていきます。思えば当時がうつの発症なのでしょうが、治療に結びつくのはその10年後で、考えれば長い病歴であります。

復職へ備えて朝起きるリズムを作っていこう、そう決意したのですが、月曜日に起きてみるともう午後1時半でした。代休になった子供たちと公園へ。芝生の上でまた昼寝。

こんどの水曜日は上司との面談であります。ひょっとすると解雇通知もあるかもしれません。いやまさかそんないきなり。でもあるかもしれない。
AAミーティングのテーマは「希望」。不安と恐れがなくなるのが僕の希望という話をしたら、すこしだけ水曜日に対する恐れが薄れました。

「なんとかなるでしょ」というのが僕の会社で長野県を営業担当している人の口癖です。きっとそう言う人は霊的(スピリチュアル)なプログラムなどなくても、そういう気持ちで生きていけるのでしょう。僕が「なんとかなるでしょ」と言う時には、暗闇が怖いので大声で叫んでいる少年のようなものなのですから。


2005年06月11日(土) スポンサーシップ

「電話とメールだけのスポンサーシップは失敗する」

私の敬愛する人が手痛い経験を元に学んだ事実を、僕は信じることにしました。
たとえ数十分一緒にいるだけのためにでも、直接会うことには意味があるのだと。

まじめな仲間は朝6時半起床で隣県のオープンスピーカーズ・ミーティングに向かったようですが、僕は9時起きでありました。コーヒーだけ飲んですぐに出ようと思ったのですが、妻が起きてこないので子供たちの朝ご飯を何とかしてやる必要がでてきてしまいました。
昨日の残りのご飯を電子レンジで温め直し、ハムを切り、レトルトの子供用カレーをかけて朝食にし、それを片づけたらもう1時間以上過ぎていました。

コーヒーだけ胃袋はむかむかして、かえって食欲が失せてしまいましたが目は覚めました。高速道路のサービスエリアでまずざるそばを食べ、次にモスバーガーで昼ご飯を仕入れました。
僕の車にはナビゲーションシステムはついていません。その代わり僕はだいたい行きそうな県の地図は一冊ずつ持っていて、それを頼りにしています。しかし、山梨県の地図は昨年つぶれた会社の社用車のドアポケットに入れたまま、債権者の手に渡ってしまったようです。おかげで、関東甲信越10万分の一というおおざっぱな地図で目的地を目指すことになりました。
甲府昭和のインターをおりてから曲がる方向を間違え、甲府駅の前をぐるぐる回り、右折禁止の看板をよっぽど無視しようかと思いながら、だいぶ余分な時間を費やして目的地に着きました。

お昼ご飯を食べながら話をして、午後のプログラムが始まっている会場に送れて入ったら、満席で座る椅子はありませんでした。2人目の話を聞いている時に、椅子を勧めてくれた人がいたのでありがたく座ったら、そのままぐっすり1時間寝てしまいました。

休憩時間にいろんな人と話をし、もう午後3時半には会場を離れて戻ってきました。

夕方からは地区委員会。7月30日にやるオープンスピーカーズの案内の発送の準備をみんなで手分けしてしました。おもえば、この委員会に様々な立場で出続けてもう10年目になります。いくらなんでも、もう今年あたりで引っ込みたいです。

さすがに夜半になると眠いです。おやすみなさい。


2005年06月10日(金) パソコンの話

それを買ったのは2000年のことです。当時僕はLinuxに凝っていました。
といってもLinuxでいろいろやることに凝っていたのではなくて、ただインストールして遊んでいただけですが・・・。

WindowsとLinuxの両方を一台にインストールしておいたのですが、メールだとか文章を書くのはWindowsでやりますから、ほとんどの時間はWindowsが起動していて、Linuxの出番はわずかということになってしまいます。

(これではLinux使いにはなれないではないか)

そう思った僕は、中古のノートパソコンを物色しました。なんでノートかというと、2台目のパソコンにデスクトップはじゃまだからです。ノートパソコンをLinux専用機にして、それでいっぱしのLinux野郎になってやろうと思ったのでした。
Pentiumの90MHz。表示はTFTで800x600。HDDは800MB。メモリは増設して32MB。これで1万数千円かかりました。

最大の問題は、CD-ROMドライブが付いていないことです。LinuxはCD-ROMからインストールするものと相場が決まっていたので、これには苦労しました。しかも買ったPCMCIAのLANカードを標準でサポートしているLinuxディストリビューションはひとつもありませんでした。
しかたないから本を買ってきて勉強し、Linuxのインストールだけで正月休みが終わってしまいました。Plamo Linuxが動き出すのに2週間ほどかかりました。

コンソールだけだとMS-DOSと大して変わらなくてつまらないので、KDEをコンパイルして入れました。KDEのいろんなtar玉の中にゲームがあって、そのなかに「倉庫番」という懐かしいゲームが入っていました。

Linux専用マシンは「倉庫番」専用マシンに変わりました。そして、ゲーム専用機として妻に取られてしまいました。Linuxがクラッシュした時に、修復させる技量もなければ、またインストールする気力もありませんでした。「倉庫番」もライセンスを受けたものではないらしく、その後あちこち探してみたのですが、Linux用のパッケージを見つけることはできませんでした。

ちなみにWindows用の「倉庫番」は二千数百円でまだ売られているようです。

その後は特に何に使われるでもなく、Windows 95などをインストールされて堕落したノートPCは、滅多に起動されることもなく部屋の片隅で4年以上の年月を過ごすことになります。

最近の副業のために、そのノートPCに2.5"のHDDを抜いたり刺したりしていたら、接点が壊れてしまってハードディスクを認識しなくなってしまいました。さすがにCD-ROMもHDDもなしでは、モダンなOSはもう動きません。ジャンク品としてオークションに出品してはいるものの、いまのところ買い手は付いていません。

この4年の間にLinuxもすっかり大きくなってしまいました。
特になんに使われるでもなくゴミとなってしまったノートPCの姿がちょっと哀れであります。


2005年06月09日(木) 歩くアルコホーリック(その2)

夜中に起きて活動した性でしょう、午後3時まで寝てしまいました。
しかもパソコンの前で。
妻に叱られて反省の一日を過ごしました。
子供にも、こんなことで日曜日の授業参観に無事出られるのか、不安を与えているようであります。

送っていただいたまま、お礼のメールも差し上げていないコーヒーを今朝(?)もおいしくいただきました。やっぱりジャスコの一番安い粉とは違います。

顔を洗い、ひげを剃り、朝(?)ごはんがわりにバナナを一本食べ、朝(?)の服薬をし、歯を磨き、メールのチェックをし、オークションの入札を適当なところまでつりあげ、足踏みをして腸の動きを活性化させた後にトイレに行きました。だいたいここまでで一時間であります。
仕事に行く時は、これらの様々な作業が20分ぐらいで済んでしまうのですから不思議であります。

革靴は水虫に良くないという皮膚科の先生の指導に従って、スニーカーに履き替えて駅前まで勢いよく歩いて行きました。1,680円で髪をカットをしてくれるお店は、服役を終えた人に仕事を確保するために作られた店であると、このまえ女性のAAメンバーに教えてもらいました。
そういえばちょっと怖い感じもするのですが、手早く済むのが気に入っています。

風呂を入れようとおもったら、すでに入っていたので、子供を風呂に入れる役を買って出ました。いつもだったら、「これも埋め合わせとやらでしょう」という皮肉を言う妻も、今日は体調が悪いのか何も口の悪いことは言わずに喜んでくれました。

AAの仲間から深夜に二本の電話。どちらも大した用件があるわけでもないのですが、深夜に大した用件があったほうが大変なので、喜楽でよいということにしておきましょう。

さて、MS-IMEを見限って、ATOKに乗り換えたのが昨年の12月。「使っているとだんだん辞書が馬鹿になってくるよ」という様々な人からのお言葉を、半信半疑で聞いていたのですが、最近それは真実であると思うようになりました。新しいバージョンが発売される頃になると、かな漢字変換の精度が落ちる・・・偶然なのか、何らかの作為があるのか・・・。
でももうMS-IMEには戻れない体になってしまっています。

今夜は東の空が白んでくる前に、布団で寝る。それが目標です。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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