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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年05月24日(火) プログラミング 何が悲しゅうて、休職中にVisual Stadio .NETなんかを自宅のパソコンで起動して、仕事モード全開でプログラミングにたずさわらなくてはならないのか?
品物をどこかから少しでも安く手に入れて、ネットオークションで売って、わずかの利益を稼いでいる人を俗にテンバイヤー(転売屋)といいます。僕も小遣い稼ぎにテンバイヤーをやってみることにしました。そこは技術者たるもの、若干の付加価値を加えて、多少利益らしい利益をだせるようにしたいものですが・・・。
どんな商売でも、最初は仕入れから始まるので、僕の(家計ではなくて僕の)貯金の残高は底を突きつつあります。このまま計画倒れになる可能性もなくはありません。やれやれ、いつだって僕は狂っているのであります。
僕はパソコンにはYahoo!メッセンジャーをインストールしてあって、パソコンの電源が入っている時は、たいていログオンしております。以前は「心の家路」のホームページにIDを載せていたこともあって、チャットをしてくる人も何人かいらっしゃいました。
でも僕はパソコンをいじるのが趣味なので、しょっちゅうWindowsのリブートをやります。すると、相手のメッセンジャー上では僕がログインしたりログアウトしたりが頻繁に表示されるという、きわめてうっとうしいことが起こることになります。
というわけで、たいていの場合は「無視リスト」の中に入れられてしまっているのではないかなぁ、と想像しています。
でも僕にとっては、オークションの状態を見張ったり、野球の途中経過を見たりと、Yahoo!メッセンジャーの存在は欠かせません。
今夜たまたまメッセンジャーのリストを見ていたら、以前の僕のAAスポンシーがログイン中だったので、チャットを仕掛けてみました。最近すっかりAAはお見限りなので、どうなっているのか心配していたのですが、とりあえず飲まずに元気でいることが判明したので一安心であります。
日本にいるEnglish Speakerたちは、Skypeというインターネット電話によるミーティングをすでに始めているようであります。AASkypeMeetings.com。日本語でもこういうのはじめたいねぇと思っているのですが、思っているだけでなかなかやる気になれません。
でも、ビッグブックの第4版には face-to-face でも、modem-to-modem でも、ひとりのアルコホーリクがもうひとりのアルコホーリクと経験を分かち合う時に、回復は始まると書いてあります。文字によるコミュニケーションには制限がすごくあるように思うので、ボイスミーティングってのをいつかはやってみたいものであります。
去年までは神宮球場のヤクルト戦は、Yahooがインターネットラジオで中継してくれてたのですが、ソフトバンクが球団を買ったせいで、今年から中継されなくなってしまいました。
2005年05月23日(月) 凶兆 英文のメールが舞い込みました。
SPAMなら英文のも珍しくありませんが、文字コードセットがBIG5である場合には、たいていは例の台湾の会社であります。
それは機械のトラブルを伝えていました。
この前、直しに行ったやつじゃなくて、一昨年に納入したものでした。
しかも、僕の書いたプログラムじゃないし。
実はそのとき3本プログラムを書く必要がありました。全部自分で書いても良かったのですが、一人で台湾に行くのは淋しかったので、当時「会社を辞めたい」と公言していた若い社員を無理矢理説得して、その中の一本を書いて貰いました。
「仕事で海外出張に行ったって言えば、転職先でもハクが付くよ〜」というのが、口説き文句でありました。おかげで彼の退職は半年近く伸びてしまったのですが・・・。
結構そのときは楽しかったです。下町の食堂で皆で夕食を食べていたら、頼んでいない料理が出てきて「変だな」と思いながらも食べてしまい、半分以上減ったところで隣のテーブルの客の料理だったことが判明しました。でも誰も怒るでもなく、食いかけの料理がテーブルを移っていきました。相手も「謝々」とか言っていたし。
車を運転していたSさんが、バックする時に後方確認を怠って、バイク数台をなぎ倒してしまったこともありました。我々は「やっべ〜」とか思ったのですが、彼は"No Problem"と言ってバイクを起こすと、平然とその場を去ってしまったのでありました。
(タクシーなんかもボコボコにへこんでいるのも珍しくありません)。
そして、その一本のプログラムの調子が悪いのであります。
自分の書いたものでないプログラムを読むのは好きではありません。人のプログラムを読むのが好きなプログラマーなんていないでしょう。他の人が考えた論理を、プログラムから逆に推論して導かなければならないわけですから。
妻は「また台湾?」「また仕事?」「またお金になるの?」と浮ついたことを言っていますが、僕の心の中はこんな事態を招いた運命を呪う気持ちでいっぱいであります。
何が嫌だって、英文のメールに返事を書かなきゃいけないのがいやです。
2005年05月22日(日) サイトの管理 掲示板「ぶどうのつるのように」には、時折「逆援助の交際」だとか「無料で出会い」だとかの投稿があります。
以前は、こういうものがあっても「ミーティング会場の隣の部屋から聞こえてくる雑音」と同じと見なして、いちいち削除することもありませんでした。
しかし最近はソフトウェアを使って機械的に投稿していくパターンが多く、ほったらかしておくと掲示板の半分が「高級セレブ女性とのおつきあい」みたいな記事で占められてしまうことになります。(もちろんそんなものに連絡を取っても、こっちのメールアドレスを収集されて迷惑メールが山ほど来るようになるだけですから、ご注意を)。
しかたがないので、こつこつと削除しているわけであります。同一IPからの連続投稿を禁止するとかの処置をサーバー側でやってくれれば助かるんですが、そういう投資をするほど掲示板システムでは利益がでていないのかもしれません。
『電車男』のように掲示板の記事を他に利用して利益を出すというビジネスも考えられなくはありません。掲示板もライブドアに売り払われたことだし、「ぶどう」の中身を勝手に利用されても困るので、念のため利用規約を読みに行ってきました。
まあ、そんな条項はありませんでしたが・・・。
読んでいて気がついたのですが、禁止事項の中に「公序良俗に反する目的若しくはその虞のある目的で使用すること、又は公序良俗に反する情報を第三者に提供すること」というのがあって、さらに次の条文に「前条に該当する内容が掲示板上に書きこまれた場合、すべての管理者は当該内容を書き込んだ利用者に注意を促すとともに即刻その内容を消去する責任を負います」となっています。
う〜ん、最初からこうだったかなぁ。こんなに管理者の責任が重く設定してあったか良く憶えていないのでありますが、まあともかくこれからは「まめに削除」することになります。
AC・摂食障害のRYOKOさんのブログ「閑中忙有り」へのリンクを追加しました。
2005年05月21日(土) ノートパソコン 妻用のノートパソコンを購入したのは、僕が初めて台湾へ渡航する直前でした。
もちろん会社には外で仕事をする時のためのノートパソコンがあるわけなんですが、少々型が古かったのと、(マウスの役割を果たすのが)キーボード中央のトラックボールという設計が気に入らなかったので、自分専用のを用意するつもりになったのでした。
当時「ソーテック」というメーカーが安さを売り文句にパソコン業界に進出してきた頃で、僕の住む街にもソーテックのお店が出来ていました。ノートパソコンが12万円というのは、(今なら12万円は普通の値段でしょうけど)当時としては破格の安さでした。廉価版のために、液晶がTFTでなくてSTNだったり、軽量化の工夫がなくてずっしりと重かったりと、安かろう悪かろうではありましたが、「12万円なら買っちゃうよーん」と、出来たばかりのソーテックのお店で、買って帰りました。
パソコンの箱を抱えて帰宅した僕を迎えたのは、妻の厳しい目つきでした。
「その箱はなに?」
「き、君へのプレゼント」
仕事が忙しすぎて、そのノートパソコンにWindows2000やら開発ソフトやらをインストールしている暇もなく、結局会社のノートパソコンを持って台北へ行くことになってしまい、ソーテックのノートPCは、そのまま褄の所有物へと変わってしまいました。
それが西暦2000年のことであります。
さて、今年の5月5日の日記にあるように、妻が「えっくすぴーじゃなきゃ嫌だ」と言い出したので、しかたなくWindows XPのインストール作業にかかりました。でもHDDの容量が4GBでは、XPと一太郎とメールソフト云々を入れると容量不足であふれてしまうだろうと思い、HDDの交換をしようとして・・・見事に失敗し破壊してしまいました。
メーカーに修理を出しても良かったのですが、その前に「なるべく直しておこう」と思っていじっているうちにどんどん破壊してしまって、修理に出すと何万円かかるかわからない状態になってしまったので、メーカー修理は諦めました(だいたい修理見積もりだけで1万7千円は高すぎるぞ!)。
それから僕は妻のと同型のノートPCで、動作しなくなって「ジャンク品」と呼ばれるようになったものを都合4台買い集め、それから使える部品を集めて3台の完全動作するパソコンを作り出しました。バラしては組み立て、バラしては組み立てを繰り返すたびに、だんだんと習熟し、メインボードの交換にも30分もかからないという立派な「パソコン組立工」になってしまいました。
さて、実際に5年前のパソコンにXPをインストールしてみると、動作が重くて(遅くて)使い物になりません。Meというので我慢してもらうことになりました。これだったらHDDの交換なんてしなくても良かったのに・・・。
3台のうち1台は妻に返し、1台は子供たち二人が教育ソフトを動かす共用パソコンになり、もう1台は僕の手元に残ってapacheとsambaを動かすために働いてくれることになりました。
そして動かない2台はジャンク品として売られていくことになります。
そのうちにこのパソコンの分解・組み立て・オーバークロックを開設したサイトでも作ろうかと思っています。
2005年05月20日(金) 年金申請書類 障害者年金の申請用紙をもらいに社会保険事務所に行ってきました。
クリニックのソーシャルワーカーさんも「あなたの場合はウツだけだし、かなり働いてもいるので、申請が通らない確率も高いですが、やるだけやってみましょう」ということになったからです。
年金を申請するのには心理的抵抗感も強かったのですが、同じようにウツで年金をもらっている人から「あなたは働いて税金も年金も納めてきたんだから、自分が苦しい時にもらうのをなんで遠慮するのさ」と言われて踏ん切りがついたってこともあります。
実際に収入がないのもつらいしね。
僕がはじめて精神科の門をくぐったのは、平成3年8月に起こした自殺未遂の結果でありました。かつぎこまれた救急病院で「眠れない」と訴えたところ精神科を紹介されました。ひとつは武蔵野赤十字病院でした。でも、調布から武蔵境の駅まではバスで行かねばならず、バスに乗る気にはなれなかったので、歩いていける調布市内の開業医を選びました。
(もしこのとき武蔵野赤十字に行っていたら、人生はまったく違っていたかもしれません)。
この開業医の先生に「初診証明」という、このときに病気になって医者に行ったという証明を書いてもらう必要があります。先日電話して聞いたところ、ざっと古いカルテをあたってみたけれど、すぐには出てこなかったそうであります。カルテが出てくるか、それともその先生が書いてくれた紹介状がこちらの病院のカルテに残っているので、それを元に書いてもらえるか、これがまず第一のハードルであります。
飲んだくれのフリーランサーで、健康保険料も国民年金も納めていない時期があった自分ですが、このときはなぜかある会社の契約社員ということになっていて、会社が年金を納めてくれていたようで、「年金未納で門前払い」というのは避けられました。数ヶ月受診が前後していたら、どうなっていたかわかりません。これには偶然以上の何かを感じたりします。
それから、その紹介状を持っていった地元の精神病院に3年近くお世話になるのですが、この最初から一年半の時点での診断書を書いてもらう必要があります。
そして、いまの主治医の現状の診断書を書いてもらう必要があります。
診断書というのは保健医療と違うので、医者は自由に値段を決められます。年金と障害者手帳を同時に申請した友人の話では、医者から診断書代金5万円を請求されたそうであります。だから、今回もどれだけかかるかは分かりません。そうやって何万円という金をかけて申請しても、確実に通るという保証はどこにもないのであります。
申請の準備も、3月の下旬から始めて、やっとここまできただけです。これから先どれだけかかることやら。それに、申請してから数ヶ月待たされるのも当たり前ですし。
「自立」だとか言っても、生活していくのにお金は欠かせません。子供たちのことも考えると、どこからでもいいからお金を引っ張ってこなくちゃなぁ、というのが正直な気持ちであります。
2005年05月19日(木) 総合病院へ 総合病院の内科に行きました。
「結核ではないか」という僕自身の疑念をはっきりさせるためです。
なぜ今日までずるずる延ばしてきたかというと、もし結核であって、痰の中に菌が混じっていると即入院ということになることが結核予防法で決まっている、ということを聞いていたからです。本当かどうかは知りません。知りたくない真実というのもありますから。
一方で、「自分は結核菌をばらまきながら生活しているのではないか」という恐れがあったのも事実です。
うかつに病院に行って、即入院てことになったら、せっかく自分のバースディミーティング用にケーキも予約して金も払ってあるのに、やだなぁという、まったくわがまま勝手な理由で、ここまでひっぱってきてしまいました。
待合室で待っていると、体温計を渡されました。36.9℃というのは微熱の範疇にも入らないかもしれませんが、普段の体温が35℃台の僕にとっては1℃以上高いわけです。なんだか不安になりました。
医師の問診の後、血液を抜かれ、胸部レントゲンを撮影しました。血液検査の結果が出るまで待っていてくれと言われて、1時間ほど待っていました。
「このまま入院になるのかなぁ」
とぼんやりと考えました。たこさんみたいにパソコン持ち込み許可してくれないと、椎名誠の『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』みたいに「もだえ苦しむパソコン中毒者地獄の病室」になっちゃうかもしれません。いや、パソコンはOKだとしてもネット接続はどうするんだ?
AirH"の端末は買ってあるけど、契約するためには、また伊那谷の田んぼの真ん中のケータイショップまで行かなければなりません。それも無理っぽいなぁ。
結核だったら、傷病手当出るかなぁとか、馬鹿なことをいろいろ考えていました。
医者に呼ばれて緊張しながら検査結果を聞きました。レントゲンはきれいなものだそうです。血液検査も、「確かに何かの感染症にかかっているのでしょう、ちょっと正常値を超えているのがあります」。しかし、「結核の心配はまるでない」そうでありました。
「薬は何日分欲しいですか?」
という医者の質問には、大げさにしてなくてもすぐに治るよというニュアンスが感じられました。「一週間」と答えると、「良くなったら途中での飲むのをやめてください」と言われました。
正直言って、ほっとしました。
精神科・眼科・皮膚科・内科と4つから薬をもらっているので、「お薬手帳」を持つように薬局で勧められて、持つことになりました。
メッセージ先の病院へ移動し、駐車場でラジオを1260KHzにあわせて宮城放送を聞いていました。仙台フルキャストスタジアムでの楽天・ヤクルト戦を聞くためです。そうしたら、この病院周辺でのAA立ち上げに大変尽力して頂いた病院スタッフの人が駐車場を横切っていくのを見つけました。
話を聞くと、ろくに予算も付いていない県の事業のために毎日出向生活を送っているのだそうです。この人も自分のやりたいことをやるために就職したはずなのに、いまは別のことをやらざるを得ないわけで、仕事って難しいなと改めて思いました。
昔話に話を咲かせているうちに、病院メッセージには遅刻してしまいました。私語が多かったけど、みんな正直な気持ちが伝わってきてなんだか楽しかったです。
川島はプロ発完封かな。小野はもうちょっと打てるようにならないと、古田の代わりにならないぞ。
2005年05月18日(水) いろいろ 我が家の電話はISDN(INS64)を使っています。これは以前インターネット接続にISDNを使っていた頃のなごりなのですが、ダイアルインなどのISDN特有の付加サービスを使っているせいで、割高なのはわかっていてもアナログ電話に戻せません。
電話の保安器がある場所の近くにISDNの終端機器(TA)を設置したおかげで、そこから我が家の電話機まではアパートの外壁に沿って10メートル以上の電話線(モジュラー線)が伸びています。
木造家屋の中に長い電線を置くと、雷が鳴っている時に、雷誘電という現象が起きて電線に電気が流れます。ましてそれが壁の外を這っているとなればなおさらです。終端機器のポートは意外に誘電に弱く、近くに落雷があるとたいてい壊れてしまいます。
壊れて電話が使えなくなれば、もっと真剣に対策をするのですが、中途半端な壊れ方をするので、本腰を入れて雷対策をしようという気になれません。現象としては、外線がかかってきたときに、電話をオフフックすると、その瞬間に電話が切れてしまいます。たった0.何秒の通話ですが、それでも相手には10円課金されてしまいます。
外から携帯電話で自宅にかけると、「トルルル」と鳴っていたものが、いきなり「ツー」という話し中音になり、通話料金10円と表示されます。これはなかなか腹立たしいです。
2回続けてかけると2度目はちゃんと通話できます。慣れというのは恐ろしいもので、これが当たり前の状態だと思ってしまいます。
中古のTAを買ってきて取り替えるという消極的な解決方法を3〜4回やったのですが、近所に落雷があるたびに壊れるので、もうそろそろうんざりしてきました。
保安器と電話機が離れた家のために、無線で接続するTAがあったので、オークションで競り落として、今日取り付けました。これであの腹立たしさから逃れられるはずです。
そのかわり、停電すると電話がまったくかからない家になってしまいました。
先日書いた、処置入院になっている仲間に面会にいってきました。もちろん本人に会おうとしても無理なので、一緒に閉鎖病棟に入院しているAAメンバーに面会するという名目です。
我が家の本棚で遊んでいた、一番分厚いビッグブックを一冊持って行きました。前半よりも、後半の個人の物語が何か彼の刺激になってくれればという期待をもってです。それから、タバコを3箱ずつ。
彼とは僕がAAグループを作ってからのつきあいで、断続的に4年ほど一緒に活動したでしょうか。しかし、今日会った彼に当時の面影はほとんどありません。なんとなくぼんやりとした感じで、目も言葉も焦点を結んでいません。
処置入院は1年半で解けたものの、医療保護入院はまだ続いていて、保護者が付き添わないとAAミーティングへの外出もままならないのだそうです。その保護者というのが僕で良ければ、休職中のうちは、一番近いミーティングまでは付き添ってあげるよと請け合ったのですが、彼は医者の許可が下りるかどうか心もとなさそうでした。(そして、僕の心の中にも面倒くさいという気持ちがなくもないのが真実です)。
30分ほど昔話をしました。出てきた名前の大半は「現在消息不明」でありました。
AAミーティングに出て、聞いて話すことに時間をかければ、彼の痴呆にも似た症状は消えていくのだろうと思います。しかし、退院の許可は下りそうにないし、たとえ退院したとしても彼を受け止める受け皿は今の社会にはほとんどないでしょう。
「懲役のほうが良かったなぁ」という話もしました。
なんだか切なくなって病院を後にしました。彼が「個人の物語」に興味を持ってくれたのが唯一の救いです。
AAミーティングでは僕のバースディミーティングをして頂きました。他グループから、それから病院からの人も加えると、十数人のにぎやかなミーティングになりました。去年は6人のミーティングで、そのうち3人はほかのグループからのゲストだったことを思えば、増えています。なによりもそのことが僕にはうれしいことであります。
いろんな要因が重なっているとは思いますが、僕としては個人の経験談だけの分かち合いだったのが、ビッグブックを輪読しての分かち合いに変えた頃からの変化のように思っています。
僕は自分では色紙を回さないくせに、若い仲間が僕の色紙を回してくれて、ネットでしか触れあったことのない仲間や、遠くてなかなか会えない仲間の言葉をもらってきてくれました。今夜それは僕の元に届きました。ありがとうござました。
それから、色紙を回してくれた仲間に礼を言ってないや。今度言っておかなくちゃ。
こちらの主宰の方からゲシュタルトの祈りについての訂正情報をいただきましたので、更新しました。
「出会えないことも、出会えることと同じぐらいに素晴らしい」
今夜の僕は、この言葉をかみしめています。
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