心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2004年09月07日(火) man at work

水曜日締め切りの仕事のために、徹夜でがんばっております。
そろそろ台風も通過したようで、窓の外も静かになってきました。
明るくなったら、コンビニにマンガ雑誌でも買いに行きましょう(息抜き)。
完成したら寝ます。


2004年09月06日(月) すべては過ぎ去る

そう、すべての事象は過去になってしまいます。どんなに自分で苦しんだことも、人を苦しめたことも、すべては「過去」という名でひとくくりにされてしまうのです。

過去に囚われて生きるのか、過去から自由になって生きるのか?
例えば進行したアルツハイマー病の患者のように、記憶という牢獄から自由になった人間であれば、「過去を忘れて、過去から自由になる」ということが可能なのかもしれません。
でも、過去から自由になるのに、過去を忘れるという手段は、必ずや失敗を伴います。例えば、とても恥ずかしい思いをしたことや、とんでもなく人を傷つけてしまったのに償いできていないことや、とんでもなく痛い思いをさせられたのに報復でいないでいること・・・。それらを忘れようとしたところで、神が人間に与えた「思い出す」という能力が、忘れることによる過去からの開放を許しません。

一人暮らしで飲んでいたころ、過去のちょっとした事象を思い出すと、たとえば悔しさだとか、無念さだとかも一緒に思い起こされ、感情がそれに支配されて一日が憂鬱になってしまいました。また、「あの時、これではなく、あれを選んでいたら、人生はもっと違っていたかもしれない」という後悔に付きまとわれていたこともあります。
そうした過去は、一刻も早く忘れて、永遠に思い出さずにいたいと思ったものでした。しかし、それは無理な話でした。

いまAAミーティングで時間を与えられると、僕はきょう以前の過去の話をします。「過去を探求しなさい」「なるべく正直になりなさい」「格好をつけないように」とアドバイスされました。そうやって、わざわざ思い出して話をするのは、過去に囚われることになるのではないかと思うかもしれません。しかし、人に話してしまうことによって、過去は客体化され、そして人は過去から自由になって生きていくことができるのです(たぶん)。
「思い出す」という能力が、過去の心の傷をえぐり出したとしても、もうその感情に支配されることはありません(だといいね)。

忘れようと努力することによって過去に囚われ、話そうと努力することによって、人は過去から自由になれるのでしょう。

僕は過去に母親が付けていた日記を読んで、その内容に戦慄しました。
僕はミーティングで正直な話をしようと努力していると自負していたのですが、自分の話より現実はもっと強烈でした。
アル中のぼやけた記憶が都合の悪いことを忘却させ、プライドが物語を装飾し、虚栄心が美化をし、目立ちたいという本能がドラマティックに仕立て上げます。だから、僕の話していることも(たぶん他のメンバーが話していることも)99%が虚構でしょう。

だけれども、僕の考えでは、正直さの絶対量なんか問題にする必要はないと思うのです。話したいという方向性、より正直にというベクトル、それが人を過去ではなく現在に生きさせる力になるのでしょう。

年月を経た人の話は、内容は悲惨であっても、どこか美しいドラマになっています(恨み節が含まれてなければね)。その人の中で過去が過去になった表れでしょうか。


2004年09月05日(日) 秋の訪れ

9月に入ると、あっという間に秋の訪れを感じます。
ついこの前まで、短パンに下着代わりのTシャツという姿で過ごしていたのに、今ではそれでは寒くてたまりません。長袖のパジャマで、靴下も履いております。

机の上においてあるディジタル気温計は、8月上旬は32℃あたりを示していたのが、今は26℃ぐらいであります。26℃でも十分暑いと思うのですが、寒いと感じてしまうのだから、人間の体は不思議であります。

外気温はそろそろ20℃ぐらいになっているでしょうか。車のオートエアコンが、冷房を切って送風だけになる季節であります。

そろそろ『酒とバラの日々』のDVDが発売になるようです。もうずいぶん前にアマゾンで予約してあるので、来週あたりには配達されてくるんじゃないかと期待しています。もう少し古い『失われた週末』も探しているのですが、現在在庫切れだそうです。

もっともここのところ何日か、日程的に追い詰められて仕方なく仕事に取り掛かっております。そうやって自分を追い込まないと始めない「小学生の夏休みの宿題」みたいな性分は、自分で叩き直さないといけないと思ってはいるのですが、直りそうもありません。
で、日程的に苦しい中で仕事をしていると、何かほかの事に逃げ出したくなるものです。例えばDVDを見るとか・・・。

『男が女を愛するとき』もまだ見てないし、『リービング・ラスベガス』もまだ見ていません。感想なんかをこの雑記に書いている日は、仕事から逃げ出した日だと思ってください。


2004年09月04日(土) ステータス希求の仮説

ステータスという言葉があります。辞書を引くと「(社会的)地位」とあります。
以下は、仮説です(実証しようとも思いませんが)。

AAにやって来る人は、ステータスを失っている事がままあります。
失っていなくても、それが脅かされているからこそ、やっと周囲の説得に応じて、AAのドアをくぐってきます。だが、現在の日本のAAのメンバーシップは、ステータスと無縁な人が多いことを示しています。だから「こんな連中と一緒にされたくない」という反発心を抱く人が多くても、決して不思議ではありません。
ステータスを追い求めることに、さしたる意味はないんだよ、とAAの本は説きます。だからAAを負け犬の集まりだと考える人は去ってしまいますが、いずれもっと強力な説得相手(アルコール)に説き伏せられてAAに戻ってきます(とは限らないか)。

AAのプログラムが謙虚さを説くということは、図らずも「人はそう簡単に謙虚にはなれない」と言う現実を照らし出します。人はステータスを追い求めることを諦められないものです。

文字通りの社会的地位というのは、失うと取り戻すのが一番難しいものです。信頼を回復することの難しさは、皆が身にしみて感じていることです。
金銭もステータスになりうるものですが、これも一挙に取り戻すのは難しいです。幸運を願ってギャンブルなんかに手を出すと、別の依存になりかねません。

(男にとっては)女という存在もステータスにすることができます。若くて美しい女を自分のものにするというのは男の功名心を満たしてくれるものです。アメリカの国務長官だったキッシンジャーは、チビでデブでハゲであったが、若く美しく背の高い女性と結婚しました。それは彼にとって「さらなるステータス」を意味したのでしょう。(女はステータスと結婚できるのか? という疑問がわきますが、女心はわからないので置いておきます)。

いくらAAのプログラムが霊的な成長をかかげていても、男は男のままであり、女の尻を追いかける性分です。AAの男女比は4対1。本能が異性を求めるという点では、男も女も同じでしょうが、男の場合にはステータス希求という面があるだけに厄介です。

そこらへんが根源にある以上、AAはストーカー問題とか、セクハラ問題とかを未来も抱えていかなければならないことなのかもしれません。なんか「うんざり」しますけど。

ちなみに、セクハラは「何をされたか(言われたか)」が重要ではなく、「誰にされたか(言われたか)」のほうが問題なんだとか・・・。気をつけましょうね。

ある男性オールドタイマーが、「独身の男性AAメンバーにとって、ソブラエティの最大の難関は、実はセックスの問題なのだ」と言っていました。そういうことは、公には語られないし、僕もそのときには「単なる性欲処理の問題」だと思ったのですが・・・。
そう言う僕自身、決して潔白ではないし。


2004年09月03日(金) あれこれ

ホームページの最下部に掲示してあるアクセスカウンターが、4万を超えました。
これも訪れてくださる皆様のおかげです。お礼申し上げます。

サイトの中身のほうは、最初はフロッピーディスク一枚に収まるサイズだったのが、いつの間にか10MBを超えております。そのうちには、日記もサイト内に収容する予定なので、ボリュームは膨らむ一方です。現在 ieji.org を収容している共用サーバーの容量は30MBなので、そのうちにどこかへ引っ越さなくてはなりません。候補としては ここらへん でしょうか。

新聞をとるのをやめてから、1ヶ月が経ちました。新聞のテレビ欄を見なくなったので、テレビを見ることがさらに少なくなりました(オリンピックは別)。
代わりに新聞社のサイトを見るようになりました。最近では Google がニュースリンク集を始めたのでお世話になっています。
アルコール検知器購入を半額補助、希望殺到 秋田県職員 という記事には「なんだかなぁ」という感じです。東北の日本海側はAAが苦戦しているところでもあるんですよね。

仕事で山梨へ出かけたついでに、前から行ってみたかった 分杭峠 まで出かけてみました。ところが時間の読みを間違えて、現場に着いたのは午後7時過ぎ。あたりはとっぷりと暮れ、オカルト話 もある場所で、あまり言い気持ちはしませんでした(オカルト嫌いです)。
おまけにミーティングに遅れるし。

とあるメーリングリストでは、「共依存者がいたから、今の私の命がある」というお題で盛り上がっております。何が良いことなのか、僕にはさっぱり分かりません。


2004年09月02日(木) 回復への道

そういえば、先週の週末の深夜に少年犯罪のテレビ番組をやっていました。出演者は、金八先生とSMAPの彼と、若者多数。
そのなかで覚せい剤や麻薬を使うのは「自己責任だから本人の勝手」なのか、それとも「やっぱりダメなものはダメ」なのかという話し合いの後に、茨城ダルクの映像が流されました。

その映像を見ていて思ったのは、(若い連中ばっかりだなぁー)ということであります。みんな10〜20代で、それ以上は40代のおじさんが二人いただけでした。以前ダルクの代表が「20代後半になってからじゃ遅いんだ」と言っていたのを思い出しました。薬は肉体も精神も急速に蝕んでいくのでしょう。

その映像を見ても、まだ「こいつら意思が弱いだけだよ」と言っていたのに対し、出演したダルクの所長さんの言葉がとても重かったです。「ビデオに出てきた連中は、まだましな連中だよ。いままでダルクが預かった人の、7割はいわゆる廃人なんだ」
テーマが少女売春に移ったので、そこで見るのを止めてしまいました。

「心の家路」のリンク集も、いままではマックやダルクの情報へのリンクはしないでやってきました。でも、そうした情報を望んでいるのに見つけられない人もいるのでしょう。ギャンブルの中間施設のワンデーポートの名前もあまり知られていません。中間施設だったら数が多くないから(多くないのも悲しい話だけど)、取捨選択せずにリンクすることができます。

病院となると、リンクすることに暗黙の支持がこもってしまうから、難しいですね。でも、数はそう多くないけれど、Webマスターにいただくメールの相当部分は「家族がアルコール依存症なんですが、どこの病院がいいでしょうか?」という内容だったりします。

といっても、僕は長野県内の情報ぐらいしかもっていないので、県外で紹介するのは、神奈川のあそことか、東京だとあそことあそこ、あと群馬のあっこだとかの有名どころの名前を挙げて見せるのが精一杯なんですけどね。


2004年09月01日(水) 繰り返し繰り返し

長女が小学2年生で、二桁の足し算や引き算の宿題を持って帰ってきます。
まず国語が得意なので、そちらの宿題をまず済まし、苦手な算数の宿題は寝る前までほったらかしなので、眠い目をこすり、ぶうぶう言いながらこなしています。
なぜ二桁の足し算ができないかというと、まず一桁の足し算ができていないのです。指10本で収まる足し算ならいいんだけど、桁上がりが起こると頭が止まってしまいます。
しかたないので、指の変わりに1〜18まで数字を書いて、それを使って「6に8を足すときには、6に○して、そこから8個行った先が答えなんだよ」と教えました・・・が、時間がかかるばかりです。

基本的には算数ドリルか何かを徹底してやって、一桁の足し算を全部覚えて暗算できるようになれればいいのでしょう。ドリルをやるのは退屈でしょうが、算数は理屈じゃなくて、体で(というか頭か)憶えるものであります。

足し算の理屈なんて後から分かるものでしょう。国語だって、動詞の下一段活用とかの理屈を憶えてから言葉を覚えるわけじゃありません。
才女になって高等教育を受けてほしいと願っているわけじゃありませんが、基礎でくじけて学校の勉強が苦痛のまま十何年を過ごすのは、ちょっと可哀想であります。

演繹的に言うと、「酒のやめ方が分かりません」というアル中さんの言葉を聞くことがありますが、酒のやめ方なんて頭で理屈を覚えるものじゃなくて、体で実践して覚えるものじゃないのかなぁと思うのであります。

子供たちの夏休みはとっくに終わっていて、本来であれば妻は昼間を自由に過ごせるはずが、「おーい昼飯」だとか「ジュースがないぞ」とかしゃべるストレッサーが毎日家にいるおかげで、すっかりご機嫌斜めであります。これも家で仕事をするのを断念した理由のひとつです。でも、専業主婦なんだからなぁ・・・、もうちょっと・・・ぶつぶつ。

アル中妻の旦那さんの「酒なんかやめなくてもいい。家事育児をしっかりやってくれれば」という言葉に無理解を感じはするのですが、心情は理解できなくもないかなという次第。まあ、家庭と言うの名の鳥かごに閉じ込めておいたほうが安心で、自助グループになんか出してあげて、そこで自分の知らない人間関係を築かれたりすると、嫉妬心が生まれたりするんでしょう。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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