心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2004年07月04日(日) 一年の半分が終わると

一年の半分が終わるころ、僕は一つ年をとります。
毎年毎年一年が短くなっていくような気がします。1/nの分母のnが大きくなっていくからでしょうか? なんとなくnの自乗のような気もするこのごろです。

AAでのニックネームを変えてから一月半経ちました。慣れない皆様にはご不便をおかけしております。僕のスポンサーは、今の僕と同じぐらいのソブラエティの長さのときに、ニックネームを本名の一部に変えました。けれどその後、悪いこと続きだったので、ニックネームを元に戻してしまったのであります。僕もなんとなく悪いことばかり続いているような気もするのですが、さすがに戻そうって気にはなれません。(まだね)。


2004年07月03日(土) なるようにしかならない。

緑内障の治療で眼科へ。診察といっても看護婦に眼圧と視力を測ってもらい、医師に眼底に出血がないか見てもらって、処方箋をもらうだけです。良くなる事は決してないけれど、現状を維持するために労力がいるという病気であります。
それにしても、一家全員がどこかの医者に通っているという、健康保健さまさまの一家であります。

9月11・12日のビッグブックのイベントに申し込みをしました。4人一部屋とかの宿泊なら安くていいのですが、眠れなくて翌日集中できないのも困るので、別にシングルを予約しておきました(いびきのうるさい人がいると眠れないたちなんです)。遊ぶためのイベントではなく回復のためのプログラムであるので、集中できる環境は自分で用意したいです。

夕方からAAの地区委員会・ラウンドアップ実行委員会。
僕自身にとってラウンドアップは6回目になると思います。赤城山・箱根・菅平(前回の長野)・山梨・茨城・そして今度の白樺湖。
ラウンドアップの成功基準とは何だろうと思うことがあります。そりゃ赤字が出たら困るし、参加人数が少ないのは淋しいです。そういう基準ではなくて、初めて来た人が「来てよかったな」と思えるようなイベントがよろしかろうと思うのです。そのモノサシには目盛りがついていないので、結果を評価することはできないんでしょうが。
ラウンドアップも安くはないです。2泊3日だと2万円近くかかりますし、まして今回は東京近辺から距離もあります。初めてのラウンドアップに長野を選んでくれた人は、やっぱり大切なゲストであります。

多重債務に陥った人は、負債のリストを書き出してみることが大切だと言われます。
それと同じ感覚で、今後の我が家の出費を表にしてみました。このまま放置すると、普通預金が底をつくということがはっきりしました。保険の類は年払いのものをできれば月払いに、次女の歯列矯正も時期を延ばせないか相談してみることにしました。
やれる時が来たら、できることをやっていく。それ以上思い悩んでも、金銭の問題は解決のし様がありません。なるようにしかならない。


2004年07月02日(金) 「金はあるときに使え」という信条

長女が滲出性中耳炎の手術を受けることになりました。手術日まで決まっています。手術したところで効果は限定的なのはわかってるのですが、放っておくと聴覚に永久的な損傷が出る可能性があると言われると、放っておけないものです。それでも高額医療費の対象にもなりますし、保険からもでるのでまあ良いでしょうか。

次女のほうは下顎前突(類人猿のように下の顎が上より出っ張る)という症状が出ています。これが美容上の問題だったら「大人になるまで我慢してね」で済ましてしまうところですが、生えない永久歯があるせいで、歯が乱杭になると脅されると我慢してもらうわけにもいきません。歯列矯正は高くて、しかも健康保健も保険もききません。

この前壊れた洗濯機の支払いもあるし、壊れたパソコンの修理費用もあります。僕の生命保険は年払いなので、その請求も来ます。アルコホーリクが生命保険なんて贅沢かもしれませんが、そこで「アル中だから」という言い訳をしてしまうのは、僕の場合は反則です。

「金がないという悩みは、金があるヤツには理解できない悩みだ」という分かち合いを電話で仲間としました。

週末のパルコ前の駐車場は若い女性で混みあっていました。僕はノートPCと弁当箱とA4ファイルを抱えて、彼女たちの間をすり抜け、かばん屋の3階へと急ぎました。ゼロ・ハリバートンのケースにこの3つがちゃんと入るか確かめるためです。
かばん屋の店員にもすっかり顔を覚えられてしまいましたが、ここでは買いません。

帰宅してから、並行輸入のショップへ注文を出し、銀行振り込みの予約を済ませました。
まあ、錬金術は知らないけれど、金はなんとかなるでしょう。


2004年07月01日(木) 自己信頼の難しさ

仕事を一日休みました。
身体の疲れ、頭の疲れなど理由はいろいろありますが、「とても職場に行く気になれなかっただけ」という単純な理由であります。

実は火曜日に社長夫妻と打ち合わせがあり、4〜6月期の売上げがこれだけであり、7月〜9月の売上げ予想もこれだけであり、これではとてもやっていけないという話を聞きました。だからといって、僕に何が出来るわけでもありません。自分はあくまでも技術者としてここに雇われているだけであって、もはや当事者能力を失った社長の代わりに経営に従事しようという気にはとてもなれませんし、その能力もありません。

このまま会社をたためば社長夫妻は破産でありましょう。それは避けたいでしょうから、溺れる者は藁をもつかんできます。しかしつかまれたほうはたまったものではありません。金銭問題は、僕のソブラエティにとって最大の弱点であります。それを認めるのにやぶさかではありません。だからこそ、とてもじゃないけど他人の借金のことまで気にしてはいられません。相手がどんな恩人であろうと、そこのところは切り離して考えなくては、自分の「第一のもの」を守ることができません。

しかし自分は、そのところをすっぱりと割り切って平気な顔をしていられる人間ではありません。それは良いことであるかもしれないし、悪いことであるかもしれません。

以前フリーランサーをしていた自分は、自分ひとりで商売をするということの辛さを良く知っています。りーまんの良いところは、今月の自分の給料について、究極の責任を取らなくても良くて、その日に給料が支払われることをシンプルに期待して待っていて良いということです。不満があっても仕事をやめないのは、その一点につきます。だが、その前提が崩れてしまえば、りーまんであるメリットを感じられません。人様の給料のことまで心配するなんて、自分にはとてもできないことですから。

人の上に立つことは自分には向いていません。以前仕事量の割り振りをしているときに、部下から「あなたが優れていることは認めるが、皆があなたと同じだけの能力を持っているわけじゃないことは忘れないで欲しい」と言われたことがあります。そんなことに気付かなかった自分の愚かさよ。
不思議なことは、自分の能力の限界について、大方の人は「それでもかまわない」という一定の満足感を持っていることであります(一方で金銭的な評価については不満を持っているわけですが)。

僕の最もなりたくない立場は、人様の給料について責任を持つ立場であります。そんなことになるなら、自分ひとりの稼ぎに自分ひとりで責任を持つほうが「はるかに楽」であります。しかし、決定的な破局が今の会社に訪れるまでは、そこに留まるのが一番賢明な選択だということも理であります。しかしそれは心が疲れる道でもあります。

そんなことに耐えられなくなって、一日休んで寝ていました。布団の上だと良く眠れました。意味不明な夢をたくさん見ました。

僕も、自分の能力の限界について、一定の肯定感を持つ必要があるのかもしれません。


2004年06月30日(水) 自戒

全国の精神病床数(ベッド数)は36万ほどです。
その患者数のほとんどが統合失調症の人で占められているのも確かです。
アルコール専門病院ではなく、一般の精神病院に入院したことのある人は、「統合失調症の人はこういうもの」というある種の固定観念を持ってしまいます。それは病院という閉鎖空間でいっしょに生活を続けたのだから、やむ得ないことでもあります。

統合失調症の人口罹患率は1%だといいます。日本には120万人あまりの患者さんがいることになります。病院のベッド数と考えてみると、患者さんの4人に3人は病院の外で社会生活をしているわけです。社会生活が営めないほど病状が悪化した人だけが(開放病棟とはいえ)病院という閉鎖空間に収容されるわけです。「こういうもの」という固定観念は、実は病状が悪化した状態だけから形作られているのです。
とはいえ、「理由もなくいきなり殴りかかってきたりはしない」ということも知っているわけですから、あながち偏見ばかりとは言えません。それと、「ああいう人と一緒にしないでほしい」という人もいますが、違うアルコール依存症という病気とはいえ、それが社会生活が営めないほど悪化して、病院という閉鎖空間に収容されたという点では同一なので、そういった意見に同情しようという気にはなれません。

僕はうつ病でありまして、特段それを隠してはいませんが、明らかにしてもいません。隠さないのはうつ病に対する社会の偏見が減ってきているからであり、明らかにしないのは、そうは言ってもうつ病であることを明らかにして就職することは難しい世の中であることも知っているからです。
うつ病の人間は、基本的に薬を止めて健康に生きたいと思っています。というか、ともかく薬は止めたいという願望は持っています。

統合失調症の人はもっと強い社会的偏見にさらされています。だから、たとえAAの中であっても、そうだとは明らかにしない場合が多いでしょう。彼らはかなり強い薬を飲んでいる場合も多く、副作用に苦しみ、そしてなによりも「薬を飲みたくない」という願望を持っています。彼らの姿が、精神病院で見慣れた「こういうもの」と明らかに違っているので、そうした病気を持っているとはとうてい思いつかないものです。

アルコール依存の私たちは、薬物依存にもなりやすいということは皆がよく知っています。だから、薬を大量に飲んでいる誰かが「調子が悪い」と訴えると、脊髄反射のように「薬は飲まないにこしたことはない」という提案をする誘惑に駆られます。だが相手は「薬を飲むな」と言ってくれる誰かを探している少ない例なのかもしれません。
果たして自分は相手のことがよくわかるだけミーティングを一緒にしただろうか? 何かの見落としをしていないだろうか? 提案をする前にそのことを誰かに相談してみたほうがよくないだろうか?

関係者交流会などに出ると、AAメンバーが医者の代役をしたおかげで命が失われたという批判を受けます。私たちはそれを謙虚に受け止めたほうがいいでしょう。

「見わける賢さ」は祈るから与えられるわけではありません。提案とは、自分が生きるわけでもない人生のことまで考えることを意味しています。アル中は本気で考えることが苦手です。なにせ、目の前の一杯を飲んだら自分の人生がどうなるかすら「考えることを長く拒否」してきたわけですから。

一昨日の朝の電話は、「AAが人を殺した」という電話でした。内容はここに書いたものと違いますが、考えなしの提案をまじめに受け取りすぎた人が自ら命を絶ったという話であります。今に始まったことじゃありませんし、珍しいことでもありません。僕だって失敗を繰り返す人間であります。こんなことを書くのも自戒のためであります。


2004年06月29日(火) 睡眠障害?

最近、昼間眠れません。

りーまんが昼間寝たらおかしいだろう、というご指摘はごもっともです。

プログラマーという仕事は、先進的でも何でもありません。過去の誰かの研究成果を再利用しているだけです。仕事の内容は、多次元のジグソーパズルのようなものです。過去の遺産というピースを組み合わせて全体を完成させるのです。ジグソーパズルと違うのは、ピース同士がぴったりくっつくことは滅多にないので、その間を「自分のコード」で埋めてあげる必要があることです。
設計をするのをシステム・エンジニア、実装をするのをプログラマーと役割分担する場合もありますが、僕のやっている仕事のように、一件一件の仕事が一万行前後なんていう小規模で、ひとりで仕事をする場合には、設計と実装を同時進行させる場合も多いです。

頭の中に立体的なジグソーを組み立てるには、集中力が必要です。そして、人間は集中を始めるのに努力も必要だし、集中を保つ長さも限界があります。コンピューター・プログラマーの場合、集中力の限界は約20分だと言われています。実際には邪魔さえ入らなければ1時間でも2時間でも集中していられるものですが、たいてい邪魔が入ります。例えば電話に応対しているだけで、頭の中のジグソーは崩壊します。「これから打ち合わせするけど、今ひまかな?」という声をかけられる場合もありますが、質問自体がナンセンスであるわけです。

集中が途切れると、再度集中できるまで時間がかかります。その弛緩の時間をどう過ごすか。隣の同僚の手が空いていれば雑談するという手もあります。メールをチェックしたり、ネットサーフィンをしたり、僕の場合には雑文を書いたりしています。
しかし、集中力が強ければ強いほど、弛緩の時間の緩みも大きくなります。そしてプログラマーは、居眠りをすることで脳を休めます。それはトラックを全力疾走したランナーが、倒れこんで休むのに似ています。同僚が寝ているのを見つけたからといって、起こしてあげる必要はありません。起こしてもどうせ仕事にはならないでしょうから。

3月4月と仕事中に眠くて仕方ありませんでした。これは居眠りなんて生易しいものではなく、ふと気がつくと何十分も経っていたりしたものです。その原因を服薬しているミラドールに見つけ、それを切ったことが原因で不安とうつの谷に落ち、量を倍に増やして服薬を再開して、谷からはい上がってきました。

なのになぜか居眠りという小休止ができなくなってしまい、全力疾走とインターバルのサイクルが崩れて、トラックをだらだらと走りつづける状態になり効率が悪くてかないません。


2004年06月28日(月) 考えろ、考えろ、考えろ

朝、仲間からの電話で起こされました。
普通の人であれば起きていて当たり前の時間帯でしょうが、僕にとっては寝ていて当たり前の時間帯です。18秒経っても僕が携帯に出なければ、ボイスメッセージセンターへと飛ばされるように設定してあります。センターが「メッセージ預かり」のメールを送ってよこす頃、やっと僕は布団から抜け出しました。こんな時間にかけてくる人物は、決して僕と親しい人ではありません。

こちらからかけなおすと、話題はアノニミティとAAミーティングでの性的嫌がらせや言葉の暴力の問題でした。アノニミティはともかく、性的嫌がらせや言葉の暴力の問題は、どこが取り扱うべきかと言えば、それはAAのローカルグループでしょう。まあ、グループにその能力がなければ地区委員会とか。

とりわけ複雑なのは言葉の暴力の問題です。
「先行く仲間から伝えられた言葉だから、これをそのままあなたに伝えます」というのは、聞こえはいいけれど単なる思考停止であります。経験も大切だけれど、原理も大切であります。もし先行く仲間からの経験と、原理が矛盾していたら、どうすればいいのか?
そこで悩んで考えるのがAAのプログラムの一部だろうと思います。

たとえば「毎日ミーティングに出よう」という単純な提案は、それ自体は悪いものではないけれど、それができない境遇の人間にとっては「無理強い」でしかありません。繰り返されるなら、それは単なるいじめになってしまいます。
同じ言葉でも相手によって、ありがたい提案にもなりうるし、単なる暴力にしかならないときもあります。「私たちが行っているのは提案であって、どう受け取るかは相手の自由だから」というのは自分に対する甘えを引き出すための、格好の言い訳です。
提案する側が、相手の立場を考えてあげて、どういう提案をするべきか、個別に悩むことが大切なプロセスだと思います。

「先行く仲間の経験」というのは、あてにならないことが多いものです。大切なことは自分で考えること。「考えろ、考えろ、考えろ」のスローガンどおりであります。一つの提案があれば、たいていその逆の提案も用意されているものです。

カルト宗教の特徴は思考停止して従うことだといいます。AAも「思い悩むのはやめて、経験を述べ伝えていきなさい」という単純化をしてしまうなら、カルトと同じであります。そして、カルトでは人を救うことなどできないでしょう。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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