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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2004年02月19日(木) 「善良なる管理者の注意義務」 本当は一泊二日で出張に行っているはずなのですが、こうして自宅にいます。
単純に相手の会社の段取りが悪くて、行っても作業にならないので、出かけずにいたのです。仕事の予定がない一日になってしまいました。仕事は作ればあるのですが、作ってほど仕事するほどワーカホリックでもありません。
明日から一泊二日で出かけると、土曜日はつぶれてしまうわけです。日曜日はAAの委員会です。そろそろ髪が伸びてきたので、切りたいのですが、いったいいつ切ったらいいのでしょうか。
出張で行けなかった(はず)なので、仲間に頼んでおいた病院メッセージに、急遽自分で行くことにしました。この病院にAAメッセージに通いだして、もうすぐ7年になります。最近では2回目・3回目の入院という人と出会う機会が増えてきました。1回目の入院の時に「自力で酒を止めるのは難しい」という考えに納得できる人はとても少ないです。多くの人の場合、退院後飲まない期間があり、飲み始めたもののそれなりにコントロールを保っている期間があり、そしてコントロール喪失の期間を経て、病院に戻ってきます。そのスパンは2〜3年という人が多いように感じられます。アルコール依存症の進行はゆっくりの場合が多いようです。
ところで昨日書いた「自由にリンクする権利」には責任も伴うわけです。リンク集に収録するということは紹介を意味するのですから、暗黙の保証が含まれているのです。リンク先のサイトの内容を(ある程度は)推薦しているとも解釈されます。
だから、リンク先が突如変貌して違法なマルチレベル商法のサイトになってしまい、リンクを手繰っていった人が、だまされて数十万円の被害にあってしまったとしたら、そのサイトをリンクという形式で紹介した僕にも、責任の一端があるということになります。法的に賠償の責任が発生するかはともかく、社会的に責められることは避けられません。
だから、僕は「善良なる管理者の注意義務」でもって、リンク先のサイトを定期的に巡回するはめになっているわけです。
2004年02月18日(水) アドワーズは宣伝か? AAのJSOのサイトを アドワーズ に載せようという計画があります。これは伝統11(AAの広報活動は、プロモーション宣伝よりも、アトラクションひきつける魅力に基づく)に反しないのでしょうか?
インターネット業界での分類としては、アドワーズは「広告」であることは間違いがありません。Google社の最大の収入源は、Googleの検索機能をインターネット接続プロバイダーに提供することで得られているそうです。アドワーズはGoogleの新しい収入源として、大いに期待できるだろうというのがアナリストの見解でもあります。
そもそもAAが広告を出すこと自体は悪いことではないでしょう。例えば僕の地元の新聞に、個人やグループが3行まで無料で載せられる掲示板コーナーがあります。何万部と出ているこのローカル紙に「飲酒のトラブル抱えていませんか? 一緒に解決しましょう。毎週○曜日○時から○○でミーティングをしています。AA○○グループ」という文字を載せることは、悪いことではないはずです。プロモーションとは違いますから。
Googleで「アルコール依存症」と検索すると、AA JSOのサイトが紹介される・・・微妙なところだがセーフであるというのが、僕の感想です。
しかし、JSOのサイトが「ひきつける魅力」にあふれているかというと、少し疑問が残るのも事実です。AAが何を目的とした集まりなのか、メンバーになったら具体的に何をするのか、どれぐらいの実績があるのか、そして実際にAAで回復した人の物語は? 多くを語るサイトでないのは事実です。せっかく1クリック何円かで招き入れた人たちも、ブラウザの「戻る」ボタンを押して帰っていってしまうのでは意味がありません。
ホームページのカウンターばっかり増えても、その次のページまで読んでもらっているかは解析してみなければわからないのです。
そういえば、関東甲信越セントラルオフィスのサイトは、原則リンク禁止なのだとか。理由を聞いてみたら、個人のサイトから勝手に「リンクされる」ことによって、あたかもオフィスがその個人を支持しているように解釈されると困るから、だそうです。
僕ですか? 許可はもらってませんよ。「自由にリンクする権利」を行使しているだけです。ただ、リンクするということは、「相手のサイトを支持している」ことを暗に意味しているわけですが・・・
2004年02月16日(月) 気取ることは良くないことなのだ 何もかも嫌になってしまって、自分が何を目指しているのかも判らない。心が疲れてしまっていて、理想が素晴らしくも思えなくなり、努力にはうんざりし、良い言葉を聞いても空々しく響くだけ。そんな気分になることが、ときどきあります。
そういう時は実は、心が着飾っているのだそうです。ドンキ・ホーテの言葉の「率直に行こう、率直に。気取ることは良くないことなのだ」に従ったほうがいいのでしょう。僕は自分が人格的にも大したことは無いし、霊的成長という点でもろくなもんじゃないということは、よーくわかっているわけです。であるのに、分不相応な自己犠牲を自分に課したりするものだから、歩いていくべき方向すら見失ってしまうことがあるのです。
正当化なんて必要なくて、ミもフタもない自分の心の情動をそのまま受け入れることが必要なんだと思います。少なくともそういう時期が人には必要なときがあるんだと。そうすれば、山の頂きの雪が、まぶしく美しく見える日もまたふたたびやってくるだろうと。
「率直に行こう、率直に。気取ることは良くないことなのだ」
2004年02月15日(日) 「事実上の満場一致」 私たちの集まり(AA)は、「事実上の満場一致」ということをとても大切にしています。でもそれは、例えば100人のうち九十何人が賛成できるような案が出るまで、議論に議論を重ね、問題を先延ばしにしてでも、説得工作を行うことを意味しているわけではありません。
結局のところ、私たちも「賛成・反対」のいずれか(もしくは保留か棄権)を選ぶ投票行動をすることになります。AAでは、拘束力を持った決定をするには、過半数では十分でないと考えられていて、3分の2が必要とされています。そして賛成・反対のどちらかが3分の2に達した段階で物事が決まります。そう、文字通り決まってしまうのです。
敗れた少数派には「アピール」のチャンスが与えられます。もし望むなら、自らの意見をもう一度皆に訴えることができます。それは文字通り最後のチャンスなのです。そして、それに耳を傾けた多数派が「もう一度投票をやり直そう」と言ってくれないならば、それ以上時間が無駄にされることはないはずです。
少数派は、多数派を「説得しよう」とする努力を止め、自らの意見は胸にしまいこみ、下された決定が実行に移されるよう、快く協力するのです。
このように少数派が自ら存在をやめることによって「事実上の満場一致」が実現されるのです。そうでなければ、私たちはばらばらになって酒の海に放り出されるだけなのですから。
僕のような「自分の意見が正しい」と思い込みがちな人間にとって、少数派でありがちであるという事実は恩恵そのものです。少数派であることは、恥辱に満ちた敗北を意味するのではなく、思い上がりを捨て、他者との協力関係を築く練習の機会を与えられることを意味するからです。そして少々の謙虚さを身に着けることも。
今では僕はだらだらと討論することを好みません。投票という民主的な手段を好みます。私たちは誰も裁かないし、誰も罰しない。政府の役割はしない。だからこそ敗北がすがすがしくあるのですから。ステップ9のamendsは埋め合わせと訳されているけれど、それは謝罪でもあり賠償でもあります。私たちは誰に対しても、ステップ9の具体的なやり方を強要したりはできません。
「納得できない」という感情の棍棒を振り回すとき、私たちは常に神から遠ざかる。
2004年02月14日(土) たったひとつの冴えたやりかた なぜ、ここのタイトルが「たったひとつの冴えないやり方」なのか?
ホームページ・雑記(日記)・掲示板のうち、最も最初に立ち上げたのがこの雑記です。そのタイトルを考えるときに、「心の家路」を名づけたときと同じように、何もアイデアを思いつかなくて本棚を眺めたわけです。目に留まったのが 『たったひとつの冴えたやりかた』 であったというわけです。
なにが「たったひとつ」で、何が「冴えて」いるのか説明すると、この短編のネタが全部ばれてしまうので、ここではその話の内容に触れることはできません。
僕の冴えない日常を切り売り(売ってはいないか)するのに、悪くないタイトルだと思って採用しました。あえて否定文にしたのは、飲まないアル中のドライドランクの日常にしては、これ以上クール(かっこよく)てホット(情熱的)なものもないだろうという反意もこもっていたりします(だから英語のタイトルはneatのままです)。
「やりかた」を「やり方」に間違えてしまっていることに気づいたのは最近のことです。おかげで、検索エンジンから「雪かきのやり方」だの、「確定申告のやり方」だのを検索して来られる方が後を絶ちません。そうした人たちにっては、まったく目的外の、意味不明な文章の羅列を提示してしまっているわけで、まことに申し訳ない気持ちで一杯です。
そして、ここに「雪かきのやり方」などという単語を書くと、なおさら「雪かきのやり方」を探してここに到達する人が増えるというわけです。
くれぐれも、雑記・日記の類に「女○高の更○室」などという単語を記述してはいけないということは、先行く仲間(いわゆる先輩だ)の貴重な経験によって示されているわけです。
2004年02月13日(金) face-to-faceであっても、modem-to-modemであっても 今週はAAミーティング3回出席でありました。最近の僕としては多いほうです。
単純にたくさん出れば、自分がそれだけ助かるというものでないのも事実です。ミーティングで何がもらえるのか、自分にとってどんなプラスがあるのか、損か得かという勘定をすると、どうしたって得るものは少なく、失うものが多いような気がしてしまうのが人間ではないでしょうか?
その点、今月号のBOX-916の記事は明確でした。「私たちが出席することで、仲間たちに安心感を与え、支えになるためでもある」。人間関係というのは原則「ギブ・アンド・テイク」です。つまり与えたものと与えられたものがバランスするはずのものなのです。一方的に与える・与えられるという、「お母さん」と子供のような関係を期待するというのは、大人のとるべき態度じゃないでしょう。
ミーティング出席に損得勘定を持ち込むこと自体、すでにスピリチュアルな生き方から一歩外れているのでしょう。与えるからこそ、与えられるのですから。
と、偉そうなことを言っていますが、単純に苦しいときにはミーティングという原則に従った結果、通常より今週は少しだけ多かったというだけなんです。
そういえば、AAパソコン通信グループの解散のお知らせも載っていました。これはNIFTY-Serveのものかな。時代の変化を受けてのことでしょうか。僕もNifty-Serveの会員でしたが、このパティオには参加しませんでした(覗き込みはしたけど、文字が多くてついていけませんでした)。インターネットの時代になっても、文字中心のコミュニケーションであることには変わりません(オンラインチャットにしてもメッセンジャーにしても)。
でも、Windows XPのユーザーは増えているし、UPnPの機器も増えつつあります。そう遠くない将来にボイス・ミーティング(ネット会議)でのAAミーティングが始まっても不思議じゃないでしょう。早朝には早起き組が、日中には主婦の人たちが、夜更けには深夜族が、それぞれモデム経由で「心の言葉」を分かち合う日々が来るでしょう。
2004年02月12日(木) I hate Valentine Day 脱臼をはめただけなのに、手術料数千円というのは高いのか安いのか?
僕の子供のころは、年配の小学生の先生がはめてくれたりしたものだが・・・やっぱり自家治療でもよかったかもしれない。
急な仕事が入って、土曜日も出勤になってしまいました。
地域集会用にできれば予算書の簡略版を土曜日に作っておいて、日曜日に配ろうと思っていたのですが、やっている暇がなくなってしまいました。僕にとってAAは「副業」であり(むろん報酬は飲まない人生だけだけど)、そしてサービス活動は僕のAA活動の一部分にしか過ぎないわけです。仕事のしわ寄せを受けやすいセクターであるのもやむ得ないのかもしれません。
休日出勤をすると、代休というのが取れるわけですが、基本的にその給与計算月の中で代休を消化しなければならないという会社の決まりがあります。毎月20日締めなので、今度の土曜日の代休は、来週中に消化しないと権利が消失するという、なかなかに理不尽な仕組みになっております。
来週の予定を立てるために顧客に電話したら、担当者は今週一杯休暇を取っているので連絡が取れないという話でした。どうりでメールの返事がかえってこないわけです。
明日中に自動車保険の更新をしないと任意保険が切れてしまいます。以前試算したら、普通自動車の取得と維持にかかる費用は、ざっと年間100万円ぐらい。年収からこの額を引いたのが、実体としての収入であるのかもしれません。車のカーゴルームにはAAミーティング場用のコーヒーの入ったバスケットが常駐しています。
少し現実逃避して、どこかへ行ってしまいたい気分であります。
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