心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2003年06月18日(水) うつ突入

昨夜の日記が書けなかった時点で、もう予想はついていたのですが、調子が悪くなったので午後から休みをもらうことにしました。具合が悪いのはお腹なんですが、それは身体症状にすぎなくて、多分うつでしょう。

もう、十数年治療を続けてきていて、確かに良くなってきてはいるのですが、根治はなかなかできません。周期的に調子が悪くなることにも、すでに「慣れて」きました。病気でない人でも、周期的に調子が悪くなることだってあるでしょう? 僕の場合には、他の人より性能が悪いだけなんです。だから、周期の底が低いわけです。そういう自分を受け入れて(accept)いられれば、うつであることそのものは災厄ではないのかも。

問題なのは、医者に行く気力もなかったので、薬が尽きてしまうことかな。明日も休むつもりですが、医者にだけはいかなくては・・・でもそれが嫌なんですよね。ああいかん、明日の晩は病院メッセージでした。がんばらなくては。たぶん布団にいるよりは、夜は活動したほうがいいのでしょう。


2003年06月16日(月) 帰ってきました

正直言って、疲れ果てております。
おかげで、うつっぽいし。
どうも毎年この時期は調子が悪いのですが、原因を考えてみると、仕事の忙しさと関連があるようです。つまり企業や投資家の方々がお金を使う時期というのは、一年間の中で偏りがあるということでしょう。
疲れているので、ともかく一日休みたいのですが、忙しいなかで代休というのは難しいかもしれません。しかたないので、熱でも出たことにして有給休暇を一日消化することにしましょう。
週末は娘の保育参観とAAの委員会。その次の週末は、TOEICで東京。六千数百円はどぶに捨てたことにして、TOEICは受験しないでおこうかしら。体がもちましぇん。
誰が怒ろうが、困ろうが、布団の中で寝ていられたあの頃が懐かしい。

疲れているので、日記だけ書いて、メールの返事も、掲示板のフォローもあとは明日ね。
なぜこの日記(というか雑記)とホームページを維持しているのか・・それについては、肝に銘じていることがあります。初心忘るるべからず。Just Fun。「ただ面白いから」。本人が楽しんでいるから続けられるのであって、負担で辛くて辛くてたまらなくなったら、たぶんやめてしまうでしょう。
でも、友人たちの中には5年も更新のないサイトを維持している人もいます。このサイトも金さえ払っていれば、公開は続いていくでしょう(更新はなくても)。

いきなり閉鎖したりしたら、「ひいらぎはきっと飲んだに違いない」という噂が広がったりして。


2003年06月14日(土) 不覚

木曜日からまた山梨県の現場に戻っております。

日曜日のオープンスピーカーズでは、受付とスピーカーを引き受けていたので、なんとか土曜日までに仕事を終わらせて帰る予定だったのですが・・・、「仕事が遅れれば納期は限界まで延びる」という例によりまして、月曜日まで伸びてしまいました。
おまけに、相手の会社の担当者が「土曜日は休みたい」と言い出して、この期に及んで何を言い出すんだ、と言う気力もなく、長野に帰っております。

まあ、そのおかげで土曜の午後は自宅の布団で寝ることができました。これから夜を徹してプログラムを書き上げ、日曜の朝にはまた現場に戻っていなければなりません。というわけで、オープンスピーカーズミーティングは欠席ということになってしまいました。
まあ、受付は誰が座っていてもいいし、スピーカーも替わりの人が見つかるでしょう。スピーカーのアサイン担当の人間には連絡しておきました。長野地区のみんなには迷惑かけるけれどごめんね。



2003年06月11日(水) カバー人口

まったく何曜日なのかさっぱりわからなくなります。というのも今日は、休日出勤の代休だったからです。
この前の日に余計な仕事を引き受けてしまったばっかりに、休まないほうが良かったのかもしれませんが、「忙しいから代休はキャンセル」を始めると、本当に休みがなくなってしまいます。それに、働きずめだと、この職業に必要な「最低限度の創造性」すらなくなってしまいます。
でも、仕事はなくならないので、自宅で作業しようとしたら、必要なプログラムが入っていませんでした。この前Windowsをインストールし直したときに、開発環境を一部入れ忘れていたようです。しかたないので、VC++.NETなど一式をインストールしている間に朝になってしまい、まったく進まないままに就寝。

新グループの広報のために、保健所をひとつ、保健所の支所をひとつ、それに精神病院をひとつ訪ねました。精神病院はもうひとつあるけれど、それはずっとメッセージを続けている病院ですから、今回改めては行きませんでした。名刺を渡し、『広報資料』とBOXを一部ずつ渡し、県内のミーティング会場の地図を渡し、ポスターを貼ってもらうようにお願いし、15分ぐらい話をして去ります。

保健所へのアルコール関係の相談件数は、本人<家族親戚<近所の人だそうです。近所の目のうるさいところが、さすが田舎ですね。いやほんとに地域の人間関係は濃いです。だから、飲んで起こしたトラブルは世間に周知されているわけで、それに重ねて「原因が精神病だった」などとなったら大変です。だから、家族も本人も「認める」ところまでなかなか行き着かないのが当たり前かな。

カバーエリア(なんか放送局みたいだね)人口30万人の市部で、グループがまがりなりにも立ち上がるまで「ざっと5年」。それも、それまでの涵養と、協力的な医師やワーカーさんの存在があってこそ。
今度は背景人口は数万人の郡部で、安定したグループに成長するまで、いったい何年かかるのでしょうか。それでも、好意的な総合病院の精神科のあることを感謝しないといけません。

まったく、「自分の回復に専念する」なんて言える立場の人が羨ましいです・・・しかし、このプログラムの核心は Work with others でありますから、ひょっとして僕は恵まれているのかもしれませんね。


2003年06月10日(火)

ひとりで残業しているのに・・・、食べ物が何もないなんて、なんて可愛そうな僕(自己憐憫にひたりまくり)。しかたないので、机の底から出てきたインスタントわかめスープでも飲むことにしましょう。それがふやけるまで、しばし雑記。

現在の日本の首相について、それほど意見を持たないのですが、母と話すと「風貌が父とよく似ている」という点で意見が一致します。顔の輪郭・跳ねた髪・高い鼻・深いまなくぼなどなど。それに、行動でもインテリぶろうとするところとか、捉えどころのないところというか。
「変人・軍人・凡人」の総裁選挙だったときには、さして気にもしませんでした(父も生きていたし(そういえばあの時は凡人が首相になったんだっけ))。でも、年を取った彼は、どうも父によく似ています。テレビに映っていると、まるでそこに父が生きているかのように思えて、少し気味が悪いです。
母は、「似すぎていて嫌」なので、テレビのニュースに出てくるとチャンネルを変えてしまうとか。

僕の今回のソブラエティが始まる半年ほど前に、父は他界してしまいました。盆・正月・祭り・彼岸の際に実家の神棚(神道なので仏壇はないの)に線香を上げるときには、「ともかく元気でやっている。子供達も大きくなった」と報告することにしています。そして目を上げて写真を見ると、どうもそこに写っているのが新聞で見慣れた人物のようで、どうも落ち着かないのでした。

僕は母似だと言われます。外見で父から受け継いだものは無いと思っていたのですが、年を取るにつれ、くぼんでくる眼や、こけてくる頬に遺伝を感じるようになりました。それでも、僕の顔に一国の首相の風貌を見て取る人はいないでしょう。


2003年06月08日(日)

病院メッセージ。僕の退院した病院を、実に半年振りに再訪しました。
というのも、この病院へのメッセージは月に1回。それを三つのグループ集団が輪番で担当しています。だから、自分の属するグループ群の番が回ってくるのは3ヶ月に一回。そして、前回は仕事の都合(だったかな)で行けなかったせいで、6ヶ月ぶりとなってしまったわけです。

僕は病院メッセージのあり方について、かなり真剣に悩んだ時期もありました。しかし最近では、単に「AAという存在を知ってもらうための広報活動の一環」として捉えているだけです。以前と違って、病気への認識とか、自助グループの必要性とかは、病院のスタッフの方がよく理解してくださっています。だから、そうした基礎的なことを微に入り細に穿って繰り返す必要はなくなりました。AAプログラムの紹介も、それほど熱を入れなくても大丈夫であると確信しています。「このプログラムには効果があります」それだけが伝わればいいのでしょう。
もっと回数を増やし、シリーズ性を持たせれば効果は違うのかもしれません。でも、じかの12ステップ活動をしたければ、ベッドサイドまで行く必要があるのでしょう。だから、広報活動と割り切って、他のこととバランスよくやるのが僕の考えです。

そういえば、「終わりに質問を受け付けます」と約束したのですが、あっさり終わりにして帰ってきてしまいました。まあ、みんな退屈そうな顔をしていたし・・・、と自分に言い訳。

苺のプランターからランナーが伸びています。DIYショップで鉢3個と丸土と栄養土を買ってきました。およそ千円でした。夕日の中で子供達と「簡単ガーデニング」。
鉢の底にキッチンで使う網を敷き、3分目ほど丸土を、残りは栄養土をのせ、あとは伸びた蔓の下に置くだけです。
「鉄製のベランダに土を持ち込むと錆の原因になる」と家主である義父はご機嫌斜めですが、子供達が喜んでいるので強くは言いません。それに、しっかりと根付いたら、親株から切り離して、地面に降ろすつもりです。苺は強い植物です。ただ、栄養が足りないと実が生りません。

そういえば、柊という筆名を使っていたという話をしましたが、当然苗字になります。下の名前も必要なときは「一伍」(いちご)というふざけた名前を使っていました。据わりの悪い名前でした。
アル中といわれても尊称だと思っていたあの頃。


2003年06月07日(土) ハンドルネームとニックネーム

休日出勤している部下が腐ってしまいそうなので、職場に顔を出して励ましているうちに、余計な仕事を背負い込んで帰れなくなってしまいました。でも、仕事にまったく集中できないので(だって仕事しようと思って行ったわけじゃないんだもん)「家でやる」と言ってごまかして抜け出しました。
確かにパソコンしか機材の要らない仕事は、家でもできるのですが、素直に帰るはずもなく、激安カット(といっても東京のように千円ではなく1,600円なんだな、おまけに消費税まで)によりました。いつもと同じように「このまま短くして。前は眉毛、横は耳にかからない程度、後ろは刈り上げないで」と言ったっきり、考え事の中に沈んでしまいます。
隣で小学生が8mmの丸刈りに挑んでいました。そういえば丸刈りは一度も試したことがないな。ついでにブリーチして、いとうせいこうのようなメガネをかけてみたらどうだろう・・・。同じ年だし。これを白昼夢といいます(たんなる妄想か)。

関係ない話題ですが、僕はネットでのハンドルネームをAAのニックネームにしてしまった人間です。もともとは別のハンドルネームを使っていたのですが、主婦の某というライターの筆名と同じ名前だったために、誤解されることがしばしばあって(ファンレターまでもらった)、やむなく暫定的に「ひいらぎ」というハンドルネームを使うことに下のです。そして新しいのを考えるのが面倒なまま日々は過ぎ、AAにつながったときも、面倒だったのでその名前を使ったのです。

AAのメンバーはニックネームと、ネット上でのハンドルネームを別にしている人も多いのです。その理由はなんとなく理解できるのですが、僕の場合は「そもそも自分はネット上では、ず〜っと10年以上<ひいらぎ>であり続けたのだ」という思いがあるものですから、<ひいらぎ>をそのまま使っています。

AAとネットで同じ名前を使っているものですから、「あれは売名行為だ」という意見もあるようですが、僕にはどうしてそうなるのか理解に苦しむのでした。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加