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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年12月12日(水) 上から目線 上から目線についての話をする前に、世の中の序列について話をしなければなりません。
世の中、何にでも序列ができるのは避けられません。例えば、あなたがスイミングスクールに入って水泳の上達を目指すとします。スクールの会員は全員平等です。しかし、目的が水泳の上達なので、そこに優劣が生まれます。泳ぎのうまい人は、このようなフォームだと早く泳げるとか、息継ぎやターンのやり方、トレーニングの工夫など、いろいろなスキルを持っています。ビギナーにはそれがありません。だから、ベテランはビギナーに教えることができます。
世の中、どこへ行っても、こうした何かの基準で序列や上下関係が生まれることは避けられません。
けれど、例えば会員が集まって忘年会をやりましょう、という話になったとき、ベテランの意見が重視されるとは限りません。むしろ親睦を深めるために、新しい人たちの都合にあわせて日取りを決定することも十分あり得ます。これが平等性というものでしょう。
目的が序列や上下関係を作り出す。しかし、目的とは無縁な評価基準はここに持ち込まないのが集団の平等性、民主制ということでしょうか。
泳ぎがうまくなりたい人は、コーチやベテランから教えられても「上から目線が気に入らない」とは思わないはずです。思わないのは、教えてくれる相手の持つ技量への敬意があるからでしょうね。自分もそれを欲しいし。
一方、初心者が別の初心者の泳ぎを見ながら「あいつは息継ぎが下手だなあ。具体的には××が○○で・・」などと言っていたとすれば、「お前も初心者で、自分もできてないのに、上から目線で何を言っておるんじゃ!」となるでしょう。
つまり「上から目線」と感じるかどうかは、相手の態度の問題というより、自分が相手をどう評価しているかにかかっています。自分が相手を高く評価していれば「上から目線」とは感じないし、相手を低く評価していれば「上から目線」と感じる、というわけでしょう。「上から」という表現そのものが序列を前提とした言葉です。
ところで、最近ネット上では「上から目線」に対する批判が目立つような気がします。
確かに「上から目線」は気持ちの良いものではありません。しかし、そう感じるかどうかは自分の問題ですから、「上から目線は良くない」と主張するのも何かしっくりきません。
そこで言われている「上から目線」は、上の例で言えばベテランに教えてもらっているのに、それが気に入らないという怨嗟の声です。(会社の新人教育担当者の態度が上から目線で気に入らないので、入ったばかりの会社を辞めちゃった、みたいな)。
「上から目線」への抗議は、ルサンチマンなのではないでしょうか。
ルサンチマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3
上に書いたように、社会の中ではどこでも序列が発生しうるため、人は誰でも何らかの序列の下位に置かれることを避けられません。その人に能力や意欲があり、周囲の状況が許すのであれば、その序列の上を目指すことができます。しかし、それができない時に、人はルサンチマンによって自分を正当化します。
貧乏から抜け出せない時に、金持ち(資本家)を敵と想定して、「あいつらは悪人だ、だから俺たちは善人なんだ」という正当化がなされるわけです。これは想像上の復讐です。
努力しているのに貧乏から抜け出せないとか、何らかの制約によってその努力すらできない、という人がルサンチマンに一時の慰めを求めるのは理解され、同情されるべきことなのかもしれません。
しかし、「上から目線」への抗議は、同情されるべきルサンチマンとはどこか異なっている気がします。自らの無気力や怠惰に気づきつつ、それを自己正当化するために、問題を相手に転嫁する独善的な臭いが漂ってくるのです。「あいつは上から目線だから良くないのだ。だから私のこの反感は正当なのだ」という論理です。
では、自分がその類の自己欺瞞に陥らないためにはどうすればよいか。その答えは平安の祈りの中に見つかるのではないでしょうか。
2012年12月07日(金) 常識を疑え! 常識が非常識になる(Common sense would thus become uncommon sense)とは、ビッグブックの「ビルの物語」に出てくる言葉です。それまでの自分にとって常識だと思っていたことが、実はそうではなかったという気づきを示しています。
ジョー・マキューの言葉によれば、狂気とは「真実でないこと(虚偽、false)を信じること」です。回復とは、それまでのその人の常識が、実はそうではなかったと気づきがあるプロセスです。
僕が初めて出席したAAミーティングは「言いっぱなしの聞きっぱなし」と呼ばれるスタイルでした。人が話をしている間は黙って聞き、自分の番が来たら話す。クロストークが排除された形式で、AAで最も一般的なやり方です。そのグループのミーティングはすべてそのスタイルでしたし、他のグループも同様でした。
AAのオープンスピーカーズやセミナーと呼ばれるミーティングでも、同じスタイルでした。AAと似たようなグループでも、概ね同じ形式のミーティングをやっていました。
だから、AAの「すべての」ミーティングが「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルで行われているはずで、AAとはそういうものだ、という常識が僕の中に形作られました。後になってそれは勘違いだったと分かるわけですが。
2004年頃に、スクリプト・ミーティングというのに出会いました。スクリプトとは台本のことです。通常の「言いっぱなしの聞きっぱなし」ミーティングに台本なんてありません。誰が何を話すか分かりませんから。けれど、スクリプト・ミーティングは参加者が台本を読み上げることによって進行しますから、内容は台本どおりになります。(実際には短い体験の分かち合いや質疑応答もあるので、厳密に毎回同じではないけれど)。
スクリプト・ミーティングに対しては「そんなやりかたはAAミーティングとは言えない」という意見もありました(僕も最初そう思った)。「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルのミーティングが最もポピュラーなのは間違いがありませんが、それ以外のミーティングを行ってはならない、という決まり事はAAにはありません。
この雑記でよく取り上げる「ジョー・アンド・チャーリーのビッグブックスタディ」は、ジョーとチャーリーの二人が聴衆に向かってひたすら語るという、いわば講演形式ですが、でもこれもAAのミーティングとして大変に人気があり、これを聞いた人は20万人とも50万人とも言われます。
また、1950年代までのアメリカのAAでは、教室形式でビギナーに12ステップを教える「ビギナーズ・クラス」が行われ、高い成果を上げていたそうです。
数年前にある人がアメリカのAAミーティングに行ったところ、講師役のAAメンバーがホワイトボードに図を書きながら12ステップを説明していて驚いたそうです。これが普通のAAグループのミーティングとして毎週行われているというのです。こうしたやり方に対して反発はないのか心配して聞いてみたところ、「全くない」という返事でした。これが嫌なら別のミーティングにいけばいいのだから、何の不都合があるのだ? と逆に問い返されたそうです。
「言いっぱなしの聞きっぱなし」のミーティングでは参加者の体験が分かち合われます。このスタイルのミーティングしか出席したことがなければ、AA(や他のグループ)は分かち合いをするところで、分かち合いこそが目的であると考えてしまっても不思議ではありません。それが僕の勘違いでもありました。
すべてのAAミーティングには共通した目的があります。12ステップを伝えることで参加者一人ひとりに回復をもたらすのが目的です。分かち合いはそのひとつの手段に過ぎません。目的達成のために、別の手段を使うのもありでしょう。
もちろん、「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルには利点があるから大部分を占めるに至ったのでしょうし、今後もAAで最もポピュラーな形式であることは疑いありません。
神さまと違って人間の能力は限られているので、全てのことを見聞き出来るわけではありません。自分の手に入る限りの情報から導き出した結論が、実は真実ではない、ということもあり得ます。まったくのウソではないにしても、局所解に過ぎないってことはよくある事です。
実際に講座形式のミーティングをやってみたら好評でした(講座というより会議みたいだったという話もありました)。僕が「ミーティングとは言いっぱなしの聞きっぱなしのみ」という虚偽の情報に囚われていたら、この新しい体験は得られなかったでしょう。
(自分の中の)常識を疑え!、というのが大切な姿勢だと思います。
2012年12月03日(月) 仮面 懸案事項がいくつか片付いて、ホッとすることの多い週末でした。掲示板は相変わらずですね。
僕は「ぬるい」スポンサーだと言われています。スポンシーに厳しいことをあまり言わない優しいタイプだという意味です。でも、何も言わないわけではありません。先日もスポンシーにこんな話をしました。特に個人的な情報はないので、書いても構わないでしょう。
背の低い人はかかとの高い靴を履く。髪の毛の薄い人はカツラをつける。こんなふうに人は自分の欠点(欠点だと思っているもの)を隠そうとします。それは何も外形的なことに限りません。自分がわがままだと周りの人に思われたい人はまずいないでしょう。だから、わがままだと思われないように振る舞おうとします。自分にわがままな部分があることを自覚しつつ、それを隠そうとするのは、言わば心に仮面をかぶって、その下の欠点を覆い隠すことです。
こうした仮面は、人が社会の中で生きていくのに必要だから身につけたもので、誰でも多かれ少なかれやっています。必要があってやっていることであるのは、忘れてはいけないことでしょう。
自分に役に立っているはずの仮面ですが、時にはそれがその人の行動を縛ることがあります。仮面の下の醜い真実が見えてしまったら、自分は人から拒否されるのではないか、という不安に支配されてしまうことがあるわけです。こうした恐れが強くなると、自分を守ろうと仮面をより強く顔に押しつけ、仮面の下を見られないように一層気を使うことになります。それは極めて不自由で、安心のない暮らしを送ることになります。
あなたが周りの人に受け入れられたのは、あなたが完ぺきで欠点のない人間だったからでしょうか。それを考えてみて欲しいのです。仮面によって欠点を隠し通すことなどできはしません。靴やカツラをつけっぱなしにできないように、仮面もかぶり通すことはできません。仮面で隠し通せたと思っていても、実はその下の欠点や醜さは、周りの人にはモロバレであるものです。
近しい人たちはあなたの欠点が見えていたにもかかわらず、あなたを受け入れていたのではありませんか?
(もしあなたが、ミーティング会場から追い出された経験があるにしても、それは酔っ払って(酒に酔ったのか感情に酔ったのか知りませんが)ミーティングの進行を邪魔するという行為をしたからであって、欠点ゆえではないでしょう)
仮面で欠点が隠し通せるわけでもないし、欠点が見えたからとして近しい人に拒否されるわけでもない。神さまは完ぺきかも知れませんが、人間はそうではない。必ず欠点があるものです。お互いの欠点を受け入れあって生きているのです。
だからあなたに必要なのは、もっと人を信じるということです。先に言ったように、仮面は必要な道具ですが、そんなに顔にきつく押しつける必要はない。
もうひとつは、これはもっと大事なことですが、仮面で欠点を覆い隠せない以上、他の人の欠点が目立つこともあるでしょう。その欠点を持った人を受け入れることです。生まれてからずっと人にしてきてもらったことなのですから、それを他の人にしてあげることはできると思いますよ。
もちろん、書いた文章だからある程度まとまっていますが、話す言葉はもっといい加減です。また、言うにもタイミングがあることも学びました。少なくともスポンサーシップの初日に言っても仕方ありません。
2012年11月28日(水) なんでも褒めりゃ良いってもんじゃない アル中は人を褒めるのが苦手だと言います。
本当かどうか知りません。でも無理もないことだと思います。人は自分がしてもらってないことを、人にするのは苦手です(苦手ではなく出来ないと言うべきか)。飲んでいるアル中は人に迷惑ばかりかけて、褒められることはしてないのですから、人を褒めることが出来なくなるのも不思議ではありません。
アメリカのAAスポンサーの中には、スポンシーに人を褒める練習をさせる人がいる、と聞いたことがあります。人を褒められないと立食パーティの時に話題に困りますしね。人を褒める能力というのは、惹きつける魅力の一つかも知れません。「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」と行ったのは山本五十六だそうです。
『自閉症スペクトラム障害のある人が才能をいかすための人間関係10のルール』(Unwritten Rules of Social Relationship)という本の中で、テンプル・グランディンは、最近の人たちは(褒めて動かされることに慣れてしまったので)褒められないと何も出来なくなってしまった、と嘆いています。褒めて伸ばす教育にも罪作りな一面があるというわけです。
今回は、アディクションの人に対してであれ、発達障害の人に対してあれ、人を褒めるのにもやり方がある、という話です。
以前に fixed mindset(固定思考)とgrowth mindset(成長思考)という話を取り上げ、このサイトを紹介しました。スタンフォードの心理学者キャロル・ドウェックの話です。
自分の能力を固定的に考える人と成長し続けると考える人
http://d.hatena.ne.jp/himazublog/20060318/1142697735
参考キーワード:実体理論、拡大理論
fixed mindset(固定思考)の人は人間の本質的な部分は変えられないと信じています。となると、良い人生を送るためには、失敗を避け、欠点が露呈するのを避けて良い評価を保とうとします。一方growth mindset(成長思考)の人にとっては、人生は成長の連続であり、失敗によって自分の価値が減るわけではないので失敗を恐れません。
固定思考の人にとって、自分に欠点が存在することは自己評価を下げるだけですから、自分に対して甘い評価を求めます。一方、成長思考の人にとっては、成長するためには自分の現状を正確に知る必要があるので、自分に対する正確な評価を求めます。
自分を回復させ、人の回復を手助けすることは、変化を促すことでもあります。固定思考の人には失敗からの立ち直りが難しいのですから、成長思考に変える必要があります。また12ステップの棚卸しも、自分の正確な現状を知る作業ですから、固定思考のままでは苦痛なだけで、棚卸しすることの価値を感じられないでしょう。
ではどうやったら人を(自分を、他者を)成長思考に導けるのか。
先のリンク先の中に、ドウェック先生がやった実験が紹介されています。
子供たちを二つのグループに分け、片方は良い結果を出した場合にその「結果」を褒めました。すると、そのグループの子供たちは、困難に出会うと簡単に諦めてしまうようになりました。良い結果が見込めない場合には、失敗を避けることで自尊心が傷つかない行動を選んだと解釈できます。つまり、固定思考を持ってしまい、成長しようとしなくなってしまったわけです。
もう一方のグループは頑張った場合に、その頑張りを褒めました。良い結果がでたかどうかに関わらず、その努力の姿勢を褒めたわけです。そうすると、そのグループの子供たちは、困難に出会っても、前にも増して頑張ろうとしました。成長思考になったということです。
(ドウェック先生はもうひとつ「上手なやり方」に対して褒めることも挙げています)。
自分を回復させよう、変化させようという「努力の姿勢」に対して結果にかかわらず褒める、ということが大事なのでしょう。ミーティングに通うのが嫌で、駅まで行ったけれどそこで嫌になって家に帰ってしまった、というスポンシーに対して、嫌味を言うのではなく、駅まで行く努力をしたことを褒めれば、やがては雨が降る嫌な晩でもちゃんとミーティング会場に現れるようになるわけです。
(逆に言えば、出来て当たり前のこと、やって当たり前のことは褒めないほうが良いかも)
最初は褒められるというインセンティブで努力していた人も、やがて成長思考に切り替われば、自分が努力すれば回復できるという自己効力感を得て、外からのインセンティブがなくても継続的に変わる努力ができるようになっていくと思います。
相手の頑張りを褒めるためには、相手に関心を持ってよく観察していなければなりません。同時に沢山のスポンシーを持つことが出来ない理由、忙しすぎるスポンサーが良くない理由の一つでありましょう。
発達障害の人にとって障害は「変えられないもの」なので、変化を促すのは良くないのではないか、という意見もあるでしょう。障害は障害として、その人に変えられる範囲で自分を変える努力が出来た方が良いと思います。いくらその人にとって安定的な環境を用意しても、季節の変化や社会情勢の変化によって環境は刻々と変わっていきます。それにまったく対処する術を持たない、というのは不幸です。
テンプル・グランディンの嘆きは、褒めることで人を動かそうとする安易な処世術を使う人が増え、しかも「結果」を褒める人たちが増えた結果、世の中に固定思考の頑張り嫌いが増えたことを示しているのじゃないかと思う次第です。
経済活動(仕事)の場合には成果が求められるので、結果を褒めるのもありでしょう。だって報酬とか昇給、昇進というインセンティブが別にありますからね。けれど、こと回復という分野では、結果を褒めるのは避けるべきだ、という話でまとめてみました。
2012年11月26日(月) 高橋会長の思い出 もう10日ほど前になりますが、断酒会の高橋会長が亡くなりました。
会長その人の存在を知ったのは、僕がまだ飲んでいた頃でした。アルコール病棟の3ヶ月にはヒマな時間がたっぷりあります。患者たちは無駄話に興じ、その中には断酒会やAAの話題も含まれていました。
当時僕がAAについて知った伝聞情報は「黄色い小さな冊子を読み、神とか言い、自分はアル中だと名乗る謎の人々」というものでした。まあ間違ってる情報は無いかも。
高橋さんはある断酒会の会員だったのが、その会の運営が気に入らず、会を飛び出してみたものの、やはり自分には仲間が必要だと気付いて、自ら別の断酒会を始めたという噂でした。
AAには「彼は恨みとコーヒーポットを持って出ていった」という言葉があるそうです。グループの運営方針を巡って対立したメンバーの一方が、グループから出てしまう。けれど、一人で酒をやめ続けることは出来ないと気付き、やがて別のAAグループを始める。さらに時間が経つと、元のグループと連携して活動するようになる。アメリカではそんな風にしてAAグループが増えることが多かったのだそうです。もちろん日本も同様です。会長はそれを地で行ったのです。
実際に会長にお会いしたのは、僕の最後の入院中でした。会長は病棟のロビーを訪れて、タバコを吸っている患者に声をかけていました。僕も断酒会に誘われましたが、「すでにAAに行くことに心を決めています」と言ってお断りしました。
退院してAAに戻ったところ、スポンサーから「自分でAAグループを始めなさい」という提案をもらいました。まだソーバーだって1〜2ヶ月だし、他のメンバーもいないし、無茶すぎると思いましたが、何しろスポンサーの「提案」です。ともかく、会場やコーヒーセットやハンドブックを揃えて準備しました。
始める前に、県内のAAグループを回って「始めることになりましたんで、一つよろしく」と挨拶をしてまわりました。反応はだいたい一緒で、「ソーバーが短すぎる、せめて1〜2年やめてからにしろ」とか「他に一緒にやってくれる仲間はいないのか」と言われるのですが、スポンサーに言われたんでと言うと、皆さん「それじゃあ仕方ない」とおっしゃいまして、やっぱりそうなのかと。
ついでに、近在の断酒会にも挨拶に回った方が良いのじゃないかと思って、3カ所回った一つが、会長の断酒会でした。ただ、この時のことはあんまり憶えていません。断酒会しかなかったところへ初めて出来たAAでしたから、いわば異分子であり、その後のそちこちからAAに対する謂われのない非難も受けましたが、会長がそうした声を諫めてくれたとも聞いています。
それから十数年が断酒会ともその例会とも縁が薄いまま過ぎました。あるとき引き受けたスポンシーがどうにも不安定で、ヒマにさせておくと飲んでしまいそうでした。毎晩AAミーティングに出て欲しいのですが、東京や大阪のような大都市圏と違って、長野では毎日AAに行くことが難しく、どうしても空きの曜日が出来てしまいます。
そこでスポンシーに「その曜日は断酒会に行ってくれ」と伝えました。AAメンバーに断酒会に行けと言うと嫌がる人が多いのですが、この彼は素直に分かりましたと言うではありませんか。とは言うものの、そのまま送り込んで、何かトラブルがあってはいけません。最初の一回は一緒に行って、これからこの人に通ってもらいますのでよろしく、と挨拶することにしました。
十数年ぶりの例会でした。僕が出席簿に書いた住所名前と僕の顔を見て、会長が「ずいぶん前に一回来ただろう」と言われたのでビックリしました。そんな昔に一、二回会ったきりの人を憶えているとは、これは常人ではないだろうと(少なくとも僕には出来ない)。
それからスポンシーもよく面倒を見てもらいました。またスポンシーの家族もその断酒会に通うようになりました。当地はアラノンの活動が不活発なので、家族が通えるグループがなかなかありません。会長の断酒会は家族の出席が多く、それによるスポンシーの家族の変化が、スポンシーのソブラエティの助けになったことは間違いありません。(個人的には家族の出席が多い断酒会は良い雰囲気だと思います)。
それからは僕の関わる別の団体のセミナー関係でお世話になり、年に何度かは例会に出席するようになりました。いつ行っても盛会で、会の運営もいろいろ勉強になりました。
過去には会長が会を割って出たことに対して他の会から非難もあったそうですが、やがては推されて県断連の会長も務めたと聞いています。それを降りた後に、新聞記事にもなった金銭トラブルが起き、事態の収拾のために再び会長に推されました。警察との折衝など、かなりお疲れの様子がうかがえ、心配したものです。
会長がガンで入院して、余命に限りありと聞いたときは残念でした。幸い定期的に退院して家に戻ると知り(それがさらに命の限りを感じさせるわけですが)、僕らのホームグループのミーティングに会長ご夫妻をお招きして、1時間ほど話を伺う機会を作りました。(奥様の話のほうが人気?でしたけど)。
その後で質疑応答みたいな時間を設けたのですが、メンバーの一人が「アル中に接するときに気をつけていることは」と聞いたところ、「相手が酒をやめていることに尊敬の気持ちを持つことだ」という答えでした。相手が一日しか酒をやめていなくても、その努力を認めてやり、敬意を持てば、それは必ず相手に伝わる、という話でした。
口ではどんな厳しいことを言っていても、心の中で相手を努力を尊重する気持ちは、必ず相手に伝わる(ただし、伝わるのにずいぶん時間がかかることもあるが)というのは、僕も同じ気持ちです。
会長が表彰を受けたという話は僕も喜びました。
http://www.ieji.org/dilemma/2011/12/post-374.html
ある医師が、僕の最近の活動を評して「高橋会長の若い頃に似ている」と言ったと伝え聞いたときは、正直嬉しかった。偉大な先輩に例えられるのは悪くない気分です。ただ、正直、あそこまでのことはできない、とも思いますが。
病院にお見舞いに行けたのはつい先頃でした。すでに認知症が進んでいて、僕のことは憶えてらっしゃらいませんでした。共通の知人(他の断酒会の会長さんとか)の話をしましたが、その人たちもすでに故人です。お別れ会には多くの人が集まったと聞いていますが、僕は出張で行けず、スポンシーに香典を持たせただけでした。
十数年前、断酒会は活発でした。会の支部ができ、その支部が独立して一つの会になり、またその支部が出来る・・と広がっていきました。現在では残念なことに高齢化が進み、後継者不足が深刻だそうです。すでに活動をやめ休会になったところもあります。でもそのぶんのアルコホーリクをAAが吸収できているわけではありません。難しい時代になったものだと思います。
下手に墓参りになど行こうものなら、そんな時間があったら生きている人間のために何かやれ、とあの世から叱られそうな気がします。あと人間にはロールモデルが必要なんだということね。
2012年11月22日(木) 満足させると問題解決につながらない 1枚の紙をいただきました。医学雑誌のコピーで、論文の紹介記事のページです。
それは「患者を満足させると死亡率が上昇する」という題で、患者の満足度と、その後の死亡率の関連を見た、前向きコホート研究の結果が紹介されています。
患者が病院に行くのは病気を治すのが目的です。良質の医療が提供され病気が良くなれば、患者の満足度も上がるし、死亡率だって下がるはず、と普通考えますよね。しかし、満足度が上がると、死亡率も上昇するという意外な結果になったという話です。
患者の満足度の調査方法は、下記の5点を尋ねています。
1. 話を注意深く聞いてくれるか。
2. 理解しやすい言葉で説明してくれるか。
3. 患者自身が話したことを尊重してくれるか。
4. 十分な時間をかけたか。
5. 医療従事者から受けた医療サービスの10段階評価。
なるほど。1〜4の逆をやれば満足どころか不満が高まるのは明らかです。医者でも看護師でも患者の話をろくに聞いてくれず、説明の言葉は難しくて分からず、こちらの希望は無視されて、短時間診療で帰される・・のでは、不満も高まろうというものです。
ところがこの論文では、満足度が高い患者のほうが、その後の死亡率が高かった、という明らかな結果が出ています。
記事では、満足度の高さと死亡率の高さの関係を様々に考察していますが、そこはざっくり省略するとして、結論的には「医者が患者の希望を常に取り入れることは、最善の医療につながらない。時には患者の満足度を犠牲にしてでも、自分のすすめようとする医療を提供すべき場面が意外と多いはずだ」というところに持ち込んでいます。
The cost of satisfaction: a national study of patient satisfaction, health care utilization, expenditures, and mortality.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22331982
話をよく聞いてくれて、こちらの希望も考慮してくれる医者が良い医者とは限らない、って話ですね。まあ、考えてみれば「常に希望を叶えてくれる存在は、問題の解決を阻害する」というのは、何にでもある話です。
なにか感情的な問題を抱えるたびに「カウンセラーに話してみる」という人がいます。その人によれば、話をよく聞いてくれるのが良いカウンセラーなのだそうです。話はするのですが、カウンセラーから言われたことはあまり聞き入れていないようです。単なる話の聞き役だったら、金のかかるカウンセラーじゃなくて、近所のおばちゃんに聞いてもらえば良いのじゃないか。聞き方が上手なカウンセラーって、そういう意味じゃないと思うけど。
自助グループだって、アットホームで「そのままのあなたで良いよ」という雰囲気が強いところは、あんまり問題解決に役立っていない印象です。
人間というのは承認不安を抱えているものですから、「そのままのあなたで良い」と言われれば安心します。ただ、人間が人間に無条件の承認を与えることは不可能です。生まれたばかりの赤ん坊は、世のため人のために役に立たなくても、ただただ可愛いと愛されて、おっぱいだ、おしめだ、おねむだと母親から世話をされます。赤ん坊は人間として無条件の承認を得るのに最も近いところにあります。
しかし、そんな可愛い赤ん坊でも、母親にとって、時に疎ましく不都合な存在になることもあります。人間が人間に無条件の承認を与えることはできず、それができるとしたら神さまだけです。(だから、神を否定することは、無条件の承認を諦め、承認不安を抱えて生きる選択をすることです)。
AAのミーティングは、グチをこぼしてストレスを解消する場所ではない、という話は以前にもしました。安心してグチを言える人間関係を作れない人が、ミーティングにグチを吐き出しに来ているという感じもします。酒のやめ始めには、そういうことも役に立つかも知れませんが、やがては、信頼できる人間関係を作れない自分の問題を見つめる時期が来るでしょう。
AAミーティングには目的があります。その目的に沿って話をすることは、自分の都合と合わない時もあります。しかし、常に自分にとって都合の良い場所(ミーティングでもグループでも人間関係でも)というのは、自分の回復や成長には役に立たない(少なくともそういう局面が多い)、と心にとめておいた方が良いでしょう。
2012年11月16日(金) 家族の飲酒について 「アルコール依存症者の家族が飲酒するのは避けた方が良いか?」という質問を頂きました。つまり、家族が一緒に酒をやめた方が良いか、という話です。
ややこしいので順を追って説明させて下さい。
断酒が安定して続いていくためには、様々な手段が考え出されています。そうした手段は大まかに二つに分けることができます。一つは内面が変化すること(回復)。もうひとつは、その人を取り巻く環境を変えることです(環境調整)。
で、環境調整も大事なのです。たとえば、過重労働でうつになった人が、復職するときに負担の少ない職場に異動することで、うつの再発を防いだりします。酒をやめるのだってなるべく酒をやめやすい環境を整えるに越したことはありません(クスリやギャンブルでも同じです)。
良く言われることは、酒から物理的に距離を取ることです。病院に入院するのも、アルコールから物理的に隔離する効果があります。家に酒を置かないのも一つの手段です。
酒をやめて1年ぐらいは、酒を飲みたいという強い欲望を感じることがしばしばあります(飲酒欲求)。この飲酒欲求には波があって、強い時もあれば弱い時もあります。とても強い飲酒欲求はあまり長続きせず、数分程度で弱まっていくとが多いのです。そのピークを乗り切ることが大切で、そんな時にAAのスポンサーや仲間に電話したり、あめ玉をなめるとか、その人なりの手段を身につける必要があります。
飲酒欲求のピークの時に、手近に酒があると手を出してしまいがち、というリスクはあります。そして、家の中に酒がある理由は、家族が酒を飲むから、という理由がほとんどです。(本人が飲むために持ち込んでいなければの話)。
もちろん、環境調整ですべて解決することはできません。僕らは酒が溢れる社会の中で生きて行かなければならないのですから、「近くに酒があるからやめられない」と言っていられません。酒をやめない言い訳に使われても困ってしまいます。
ではあるものの、出来る環境調整はやったほうが良いわけで、協力的な家族は一緒に酒をやめてくれることが多いものです。もちろん完全に断酒しているかどうか知りませんし、そんな必要もないでしょう。ともあれ、家の中で飲まないとか、外でしょっちゅう飲んで帰ってくるのを慎むとか、ぐらいに控えることはしてくれます。中には完全に止める家族もいます。
アルコール依存症でないなら、酒をやめることも、控えることも難しくないはずです。それが、やめることも、控えることもできないなら、家族も依存症である可能性を疑ってみた方が良いです。やめることも控えることもできない理由として、社会的なつきあいとか、ストレス解消などの理由を挙げる人もいますが、酒を一切飲まなくても社会生活に不都合がないことは、酒をやめ続けるアルコホーリックの姿が証明しています。
アメリカでは夫婦揃って依存症という例も少なくないそうです。日本はそこまで依存症者が多くありませんが、AAメンバーの親も酒がやめられない、という話はしばしばあります。相談の現場に本人しか登場しない(家族が現れない)、家族が酒を慎まないというケースは、家族の他の誰かも依存症である可能性を考えてみる必要があります。
クスリやギャンブルについても同じ事は言えます。
もちろん、上に書いたように、家族が酒を飲んでいるから俺もやめられない、と依存症症者本人に言わせてはいけないわけです。家族が酒をやめてくれなくても、本人は酒をやめ続けなければ問題は解決しません。それに、順調に酒をやめ続けて回復すれば、周りの人が飲んでいるかどうかはそれほど気にならなくなるものです。
また、家族内に複数の依存症者がいる場合でも、同時にやめられないのなら、誰かが一番最初に酒をやめるしかありません。あまりに環境が悪すぎて断酒が続かないというのであれば、別居するなどして、環境を改善するべきかもしれません。
ビッグブックを読むと、依存症者が回復し安定した後で、(来客に出すために)家に酒を置くかどうかは、初期のAAメンバーの間でも意見の統一がなかったようす。置くも置かないもそれぞれの家庭の事情に合わせれば良いとしています。しかし、ともあれ酒のやめ始めは、アルコールから物理的に距離を取ることが役立つのは確かです。順調にいけば、危険な時期は1年か2年で脱するのですから、それぐらいの期間は家族にも慎んでもらって悪くないと思います。家の仕事が酒を扱ってたりする場合は、家業を変えろとまでは言えないですが。
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