心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年11月07日(水) 欲の強い人ほど傷つきやすい

人間には欲望(欲求)があります。

様々な哲学者、精神科医、心理学者が、人間の欲望について論じています。フロイト、ヘーゲル、ラカン、マズロー、ロジャーズ・・・。論者によって欲望の分類に違いはありますが、「人間が複数の欲を持っている」という点では共通しています。

人間は全ての欲を望むままに満たすことはできません。たいていは「あちらを立てれば、こちらが立たず」ということになります。例えば金銭欲を満たすためには、労働することが求められますが、働くためには時間と労力を割かねばならず、自分の時間を自由に使いたい、という欲は満たされなくなります。

12ステップも心の問題を扱うので、人の欲望について論じています。それについては『12のステップと12の伝統』(12&12)のステップ4のところに詳しく書かれています。

12ステップは人の欲求を「本能(instinct)」という言葉で呼び、三つに分類しています。

共存本能(social)、安全本能(security)、性本能(sex)。

ジョー・マキューは、12&12の長い説明をひとつの表にまとめています。



これはジョー・アンド・チャーリーで資料として配られた中の1ページだそうです。日本語訳は赤本や緑本に載っていますが、それをここに載せるわけにもいかないので、日本語が読みたい人は、12&12や赤本・緑本を参照して下さい。(今回は細かいところまで踏み込んだ話じゃないし)。

ビル・Wは12&12で、こうした本能(欲求)は「本当に必要で正当なもの」であり、神から与えられたものだ、と書いています。欲求は少ないほど良いというわけではなく、人が生きていく上で必要で欠かせないのだから正当なものだ、というわけです。

ところが、時に人はその本能に振り回され、操られてしまうことがあるわけです。これは神が意図したことではなく、限界ある人間だからこそ起きることです。どんなに立派な人間であっても、この罠から逃げることはできません。自分の欲求どうしが競合するし、同じように欲求を持つ他の人との衝突も招きます。

欲求を満たそうとするのを誰かに邪魔されれば、私たちは邪魔した相手に怒りを持ち、恨むようになります。欲求の充足を邪魔されそうだという予感があると、私たちは不安(恐れ)を持つようになります。「重大な感情的問題のほとんど」は、人が本能を自分勝手に満たそうとすることから起きる、というわけです。

私たちはしばしば「傷つけられた」と感じますが、この「傷つけられた」というのは、私たちの本能(欲求)を満たすのが邪魔された状態です。(ついでに言えば、腹が立つとか、嫌な気分とか、怖くなるのも同じことです)。

ここで見落としていけないのは、欲求が強いほど、私たちは傷つくことが多くなることです。

傷つきやすい人=欲の強すぎる人

というのが常なる真実です。

例えば、金銭欲の強い人は自らの貧しさに常に傷つくことになります。名声欲の強い人は、自分が尊敬賞賛されないことに傷つくことになります。ささやかな欲望は簡単に満たすことができますが、人並み外れた欲望は誰もが満たせるわけではありません。欲の強い者ほど不平不満が大きい、ってことは心理学の本を読まなくても常識的に理解できます。

人は「傷つけられた」と主張して、誰かを悪者にして不平不満を述べ立てます。しかし、自分が過剰に欲を満たそうとした結果であるとは考えないものです。その自己チェックをするのが棚卸しです。

・ ・ ・

ここで自己評価(自尊心)というものについて考えてみます。自己評価が高いとか、低いという言い方をすることもありますし、「自尊心を傷つけられ自己評価が下がった」という言い方をしたりもします。

上の図を見ると、共存本能(social instinct)のカテゴリ中に自己評価(self esteem)も入っています。より高い自己評価を求めるのは、人として自然な欲求だということです。

そして、他の本能と同じように、自己評価への欲も大きすぎれば傷つく機会が増えるのは当然です。自己評価を高める欲が強いほど、自尊心が傷つけられたと感じてしまう機会が増えるわけです。

「どうすれば自己評価が高められるのか」という質問に対し、ジョー・マキューの弟子ラリーさんは、二つのことが必要だと答えました。ひとつは「自分に正直になること」、もうひとつは「責任を果たすこと」です。

先日のセミナーでも話題に上っていたのが、アル中は責任を果たしていないのに要求が強いという話です。父親としての役割を果たしていないのに、親として敬えとか。まっとうに働けてないのに、人並みの給料を寄こせとか。そういう状態で自己評価だけを上げようったって無理があります。その無理さ加減が、自己評価への欲の強さです。ご本人の望みどおりに自己評価の本能が満たされることはない(傷つくことが増える)し、周りの人間も「つきあってられない」と言って離れていくでしょう。

やりたいことだけするのではなく、責任を果たすことによって自己評価は上がるし、集団の中に受容され承認されてもいくでしょう。責任から逃れ、やりたいことをやれば気持ちがいいかもしれませんが、その気持ちよさはアルコールによるのと同じで、消えやすく、過ぎ去った後は落ち込みが以前より増すものです。

お手軽に自己評価を上げようとすれば、傷つくことが増えるわけです。

・ ・ ・

自動車のメーターパネルには速度計や水温計の他に、エンジンやブレーキにトラブルが起きた時に点灯する「警告灯」があります。点灯したら、なるべく早くエンジンなどを点検し、整備や修理をした方が良いのは言うまでもありません。警告灯を無視して運転を続ければ、やがては自動車は深刻なトラブルに見舞われるでしょう。

「傷つけられた」という感情もこの警告灯と同じです。本能に振り回されだした徴候です。傷つけられたと感じた時には、つい相手の問題に目が向いてしまいがちですが、そんなときこそ自分の問題を点検し、修正すべき時です。「私は間違っていない、相手が悪いのだ」と考えて、警告灯を無視して人生を続けてると、トラブルはより深刻化します。

アル中やACの人生というのは、いったん水没した車を運転しているみたいなもので、あちこち調子が悪く、警告灯がしょっちゅう点灯してくれます。そのおかげで、いつも自分自身の問題を見なくちゃならならず、大変ではあるのですが。でも、そういう旅にも楽しみはあります。

俺とポンコツ車とメカニックの12のステップ
http://www.ieji.org/archive/the-steps-another-version.html


2012年11月01日(木) 現実検討について(その2)

ジョー・マキューの弟子、ラリーさんの話の中に、深く感銘を受けたものがあります。これは、AAの本やジョーの本には書いてないことなので、ラリーさんの理解なのでしょう。

それは、感情に知性をコントロールさせるか、知性に感情をコントロールさせるか、という話でした。ステップ6の部分での話です。

多くの人は、自分は十分な知性を備えており、感情に振り回されずに、知性を使って理性的な判断を下すことができている、と信じています。しかし、知性が感情をコントロールできていたのなら、アディクションの罠に落ちることもなかったはずです。

大学を出ている人もいれば、もっと高い学歴を持つ人もいるでしょう。しかし、これまでの人生のどこかで感情に知性を支配させたゆえに、今の自分に至ったわけです。せっかくの知性が役に立つような生き方ができてこなかったのです。少なくともステップ5をきちんと終えた人には、そのことが分かるはずです。

だから、今後は、知性を活かして、知性に感情をコントロールさせる生き方をしなければなりません。

この場合、感情とは何を示しているのでしょうか。それについてラリーさんが詳しく語ることはありませんでした。ただ、察するに、ここでの感情とは、主観とか内的事象を指しているのでしょう。つまり、感じ方です。

私たちは、自分の「感じ方」が間違っているとは思いません。感じたことは真実であると思っており、それを積極的に疑うことをしません。そして、感じ方を補強するような材料を集めます。自分が集団から疎外されていると感じれば、疎外の原因を自分の中に勝手に探してしまいます。上司から嫌われていると思えば、嫌っている証拠をどんどん集めてしまいます。

感じことを否定するような材料に気がついても、それは捨てられてしまいます。集団が暖かく迎えてくれているとか、上司が公平であるという気づきは、無視されてしまいがちです。そのような材料集めとフィルタリングは、もちろん知性の働きによるものです。感情の正しさを証明するために、知性を使っている状態ですから、知性が感情に支配されてしまっているのです。

どんなに知能が高かろうが、これでは感情に振り回されるばかりで、知性的・理性的な生き方はできません。情動不安定と言われるばかりです。

知性を使って生きるためには、自分の「感じていること」を疑うしかありません。知性を使って感情をくつがえすことです。例えば、相手の言葉や行動に悪意が感じられたとしても、自分の感じ方が間違っているのではないかと点検してみる癖を付けるわけです。よく分からなければ、他の人と相談しても良い。実は相手は悪意なんか持っていないかもしれないし、少々の悪意があったとしても、相手の立場からすればやむを得ないと、自分が納得することもあるかもしれません。あるいは、そんな風に相手をさせたのは、自分の過去の行動が悪かったことに気づけるかも知れません。

神さまはせっかく私たちに知能を与えてくれたのですから、知能を使って主観と客観の違いを捉え、感じ方を訂正していく。それが「知性に感情をコントロールさせる」生き方であり、ソブラエティというものでしょう。感情に知性を支配させ、その知性が行動を支配し、他者との間に軋轢を生んでいく、という古い生き方と決別したいと願うのがステップ6です。

私たちは、自分が不愉快に思い、嫌っている相手は、向こうからも自分のことを嫌っているはずだ! という思い込みがあります。棚卸しをして自分の落ち度に気がつくと、「これでは相手に嫌われるのも当然だ」と思い、情けなくなります。相手に合わせる顔がないように感じますが、それでも埋め合わせで直接会いに行けと促されます。

そうして会ってみると、実は相手はこちらのことを心配していたのであって、憎まれていたのではないことが分かったりします。憎まれていたとしても、それは自分のやったことゆえだし。基本的に、人間というのは情と思いやりを備えたものだということを理解するようになります。

このようにして、12ステップは、自分の頭の中で起きていること(感じたこと)が、外の世界の現実と違っていることに気づかせてくれます。私たちは12ステップを通じて、現実検討能力を身につけることができます。

こうして説明してくると、12ステップと認知行動療法(CBT)との類似に気付く人もいるでしょう。12ステップの成立はCBTの成立に数十年先行しています。しかし、12ステップも、それ以前に人類に受け継がれてきたものを、アルコホーリックに受け入れやすくしただけのものです。どれも普遍的な知恵なのだろうと思います。

知性によって感じていることを否定するには、相手の立場に立って理解したり共感することが必要です。それは脳の皮質部分が担っています。酒をやめたばかりのアル中は、皮質の働きが鈍っています。だから、意識的なトレーニングがいるわけです。

人が不安(恐れ)のは、脳の中の扁桃体が主役なのだそうです。境界性パーソナリティ障害(BPD、いわゆるボーダー)の人は、扁桃体の活動が過剰になり(大きな不安を感じ)、前頭前野が圧倒されて機能低下してしまいがちなのだそうです。まさに感情が知性を圧倒し、感じたことを訂正できなくなってしまいます。ボーダーの人の逸脱行動には、扁桃体の過活動が背景にあります。

ある心理の人が、ボーダーの人に30分ぐらいの短時間で12ステップの原理を説明し、表を使った棚卸しのやり方を教えたのだそうです。その上で、日常生活の中で、不安になったり、怒りを感じたとき(恐れや恨みだ)、頭の中で棚卸し表を書いてセルフチェックをする習慣を勧めたのだそうです。そして、一日に一回、その棚卸し表の中身を話し合ってチェックすることを続けていたところ、ボーダーの人の逸脱行動が減った、という話を聞かせてもらいました。(多分、high functionなボーダーの人だろうけど)。

結局、脳の機能のアンバランスを、意識的な努力でバランスを取り戻していく、ってことなんでしょうね。(まあこの雑記は毎度そこに落とし込むわけですが)。

(この項お終い)


2012年10月31日(水) 現実検討について(その1)

現実検討能力(reality testing)という話をします。現実検討識とか、現実吟味なんていう訳語もあるみたいですね。

しかし、僕は現実検討能力について詳しいわけではありません。僕は心理学や精神医学の徒ではないので、系統だって勉強したことはありません。じゃあどうしているかと言えば、例えば「現実検討」という言葉がでてきたら、それについての短い文章を読んで、「だいたいこういう事を指しているらしい」と理解する程度です。

他の人が現実検討能力について話をしているときに、その文脈での言葉の使われ方と、僕の頭の中の理解に齟齬がなければ、概ね正しい理解をしているのだろうし、何か引っかかりを感じればヒマな時に本でも読んでもっと勉強しとかなくちゃマズイなと考えるわけです。

最近は雑記の読者が増えてしまったので、あまりうかつな事を書くのも恥ずかしいと思い、ちょっとだけ調べ物をしてから書くことにしていますが、それでも読者の方々には、僕の文章は常人的な理解に過ぎないことは憶えておいて欲しいのです。

現実検討能力とは、自分が頭の中で感じていることと、外の世界で現実に起きていることの差を捉えることです。主観(内的事象)と客観(外的事象)を区別する能力とでも言いましょうか。

発達障害を抱えたスポンシーとの対話も、現実検討に関する話が多くなっています。例えば、ホームグループで自分は他の皆に受け入れられていない、疎外感を感じる、という話が出たとします。

なぜ受け入れられてないと感じるのか、と詳しく聞いてみるとします。すると・・・。

今日ミーティングでAさんと一緒になったが、Aさんは不機嫌な表情をしていた。きっとそれは自分に対して腹を立てているに違いない。その理由はハッキリとは分からないが、きっと自分の○○なところや××なところが気に入らないに違いない。あるいは、自分が過去にやった何かに対して、まだ腹を立てているに違いない。そんなAさんと一緒にいるのは具合が悪い。

などという話を聞くことになります。ここで真相を確かめるまでもなく、Aさんは腹を立てている事実はありません。

人はいつでも機嫌良いわけではありません。不機嫌になるには様々な理由が考えられます。奥さんと喧嘩したからかもしれないし、金の事で悩んでいるのかも知れない。昨日の晩に夜更かしして睡眠不足なのかも知れないし、腹が減っているだけかも知れません。スポンシー君に対して立腹している可能性は低いし、本当のところは尋ねてみるしかありません。(発達障害の人の中には、人の表情を読み取る能力が低いために、不機嫌な表情じゃないのに不機嫌だと捉えちゃう人も多いことも関係している)。

「自分に対して腹を立てている」というのは、自分の感じ方です。それは本当らしく感じられるわけですが、自分の外の世界で起きている現実は違うかも知れない。その差を把握できるのが、現実検討能力です。

退屈な会議はたとえ10分と短くても、1時間のように長く感じられます。一方で、好意を抱いている異性との電話は10分間は、ほんの2〜3分であるかのようにあっという間に過ぎ去ります。でも、どちらも同じ10分であることは、知性を使えば分かります。

(発達障害のあるなし関係なく)人は精神的に調子を崩すと現実検討能力が低下するもののようですし、現実検討能力が低下すると、さらに調子を崩していくものみたいですね(デフレスパイラル的な)。

スポンシー君はAさん以外の人とも同じような体験を繰り返し、結果的にグループで自分が疎外されているように感じるに至ったというわけです。現実にはグループで暖かく迎え入れられているので、疎外されているなどと訴えたら他のメンバーにとっては心外でしょう。場合によっては、謂われのない非難をしたとして逆に嫌われ、イジメの原因になってしまうこともあるのかもしれない。そうなったら空想の被害体験が、現実のものになるわけだ(さすがにウチのグループではそうはならないだろうけど)。

上司が自分だけに叱責を繰り返すのは、上司が自分を嫌いだからイジメているに違いない・・というような訴えも、よくよく職場で観察するように勧めれば、実は上司は他の社員にもまんべんなく注意をしており、たまたま自分のミスが多いせいで注意される機会が人より多目だっていうだけだったりします。これも、「上司に嫌われてイジメられている」という感じ方と、現実との違いが捉えられていないからです。

主観(感じ方)と事実が完全に一致することはないのでしょうが、両者の間に差があること、自分の感じ方が事実とは限らないことは、分かってなくちゃならのだと思うのです。


12ステップの立場から見ると、この「現実検討能力の乏しさ」は、恐れや恨みにつながることが多いと思われます。

先に挙げた例を見るまでもなく、存在しない被害体験を作り出したり、軽微な被害を過大に深刻に捉えたりして、相手に対する恐れや恨みを作り出していきます。あるいは被害は現実であっても、トラブルの発端が自分にあるのに、責任を相手に帰着させていたりします。棚卸しを聞き慣れた人に言わせれば、「アル中の恨みは、ほとんどが逆恨みに過ぎない」そうです。現実検討能力の乏しさが、逆恨みを実現していると言えます。

棚卸し表というのは、恨みという内的な事象を手がかりに、外の事象との軋轢を視覚化して表現するものです。文章ではなく表にすることで、視覚化がうながされ、見通しが良くなります。

人から現実検討能力が完全に失われることはないので、表がちゃんと書けていれば、表を見ただけで、自分のつまらない欲望を充足させるために、人との間に軋轢を招いていた自分の愚かしさが見えてきます。たいていの人は、自分自身に対してお尻がこそばゆくなるような恥ずかしさを憶え、相手に対して申し訳ないという気持ちも持つようになります。

ところが、この能力がさらに乏しくなると、表を書いて、それを見ても、自分の何が悪いのか把握できなくなります。どうも、人は精神的に具合が悪くなるほど、主観(感じ方)を補強するような事実ばかり集め、主観を否定する材料は捨ててしまうような、認知のフィルターを持っているようです。そして、具合が悪くなればなるほど、そのフィルターは性能をいかんなく発揮してくれます。

そんな場合には、棚卸し表の内容も、相手が悪く自分は被害者という内容に傾きがちです。表だけを頼りにすることはできません。「グループで疎外される」とか「上司に嫌われてイジメを受けている」という話しか書いてないのですから。だから、認知のフィルターなりバイアスの向こう側にある、より客観的な事実を探らなくちゃならないのですが、そのために必要なのは「常識」とか「考える力」なのでしょう。

(スポンサーであれカウンセラーであれ)少なくとも棚卸しを聞く側は、話す側より回復している必要があるでしょう。同じレベルだと、一緒になって「疎外する方が悪い」「イジメをするほうが悪い」という被害者ごっこを演じることになってしまい、「自分の側の掃除」をすることができなくなります。12ステップに取り組むもの同士は、お互いに助け合うと言っても、関係が対称であっては手助けにならないみたいです。

(続く)


2012年10月26日(金) 依存症は運転免許の欠格事由

昨夜はホームグループのミーティングでした。メンバーの一人が職業訓練を終えたので、お祝い?もあって久しぶりにアフターミーティングに行きました(ガストで飯を食いながら無駄話しただけですが)。

その中の話の一つが、てんかんであることを隠して運転免許を取ることに罰則を設ける、という話でした。
参考:持病原因の事故防げ 病状虚偽申告に罰則
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012102502000233.html

病気を隠して運転免許を取得することに罰則がないからいけないのだ、という主張になっています。昨年栃木県でクレーン車が小学生の群れに突っ込んだ事件が背景にあるのは言うまでもありません。アフターで、そんな話がでるのは、この話がアルコール依存症と無縁ではないからです。

順を追って説明しましょう。

自動車運転免許は国家資格です。国家資格には、その根拠になる法律がありますが、その中に「これこれの者には資格を与えない」という欠格条項というものがあります。それに該当すると、試験に受かっても免許をもらえないか、そもそも試験を門前払いされてしまいます。

2002年の道路交通法改正以前は、運転免許の欠格事由はこんな風になっていました(法律の条文とは順番が違いますが)。

1. 資格年齢に満たない人。
2. 免許を取り消された日から起算して、指定された期間を経過していない人。

まあ当たり前の話です。

3. 身体に一定の障害のある人。
4. 精神病者、知的障害者、てんかん病者、目が見えない人、耳が聞こえない人、または口がきけない人。
5. アルコール、麻薬、大麻、アヘン、または覚せい剤の中毒者。

(他にもあるけど省略)

これらに該当すると、無条件に欠格となったので「絶対的欠格」と呼ばれます。ただ、実際には身体不自由以外は、それほど厳密に適用されていませんでした。法律は条文通りに運用されるわけではないという一例です。

2002年の道路交通法改正では、飲酒運転の厳罰化ばかりが話題にされましたが、同時に欠格条項も変更されました。「精神病者、知的障害者、てんかん病者、目が見えない人、耳が聞こえない人、または口がきけない人」というのが削除され、かわりに、幻覚の症状や、発作により意識障害・運動障害をもたらす病気の場合には、政令で定める基準に従って、免許を与えない「ことがある」、ということになりました。

「与えない」という絶対的欠格が、「与えないことがある」に変わったので、これを相対的欠格といいます。

その素案の段階では、法律の条文に具体的な病名が挙げられていました。Wikipediaによれば、その病名は

・統合失調症、双極性障害、躁病、重度だと判断されるうつ病、持続性の妄想障害
・てんかん
・ナルコレプシー
・脳虚血
・糖尿病
・睡眠時無呼吸症候群

だったそうです。素案を見た患者団体が、病名を法律に盛り込むと病気に対する偏見を助長しかねない、と反対して、具体的な病名は法律ではなく施行令(政令)に書かれることになりました。政令に書かれているのは、

・統合失調症
・てんかん
・再発性の失神
・無自覚性の低血糖症
・そううつ病
・重度の眠気の症状を呈する睡眠障害
・その他

です。もちろんそれが自動車の安全な運転の妨げになる場合、ということですけれど。それと「アルコール、麻薬、大麻、アヘン、または覚せい剤の中毒者」というのは削除されませんでしたが、絶対的欠格から相対的欠格へと移行しました。

で、てんかんの場合に免許を与えるかどうかの基準が、「過去2年間発作が起きてないから今後も発作の恐れがない」というような医師の診断書ということになりました。てんかんの人が免許を取得・更新するときには、質問票の中にある「病気を原因として又は原因は明らかでないが、意識を失ったことがある」という項目に○をつけることでてんかんを自己申告した上で、診断書を提出して許可を仰ぐ、という流れになります。

しかし、申告しなければ診断書も必要ありません。申告しなくても罰則はありません。統合失調症や糖尿病や睡眠時無呼吸症候群には、そうした仕組みすら存在せず、てんかんだけに求めているのですから、てんかんを申告しない人が多数存在するのは当然とも言えます。

栃木のクレーン車事故の第一報を見たとき、「これはてんかんだね」と話し合ったのを記憶しています。無申告や治療中断という話と、小学生6人が死亡という悲惨さを考え合わせれば、その後の流れは予想できました。それが、上に掲げた、虚偽深刻の罰則化提言というニュースにつながっています。

他の先進諸国では、病気や障害を理由の差別を禁じる「差別禁止法」が作られ、障害が理由の欠格事項は原則ありません。近年日本でも様々な資格で、絶対的欠格→相対的欠格と変更されたのは、この世界的な流れに沿ったものでした。だが改革にはバックラッシュはつきものです。

てんかんも偏見の多い病気で、偏見ゆえに適切な治療を受けていない人も多くいるとされます。それは精神障害や依存症や発達障害と同じ構図です。無辜の小学生6人も、てんかんという病気に対する偏見の犠牲者だったわけです。

記事では、免許を更新すると危なそうな患者の情報を(個人情報保護法に触れずに)医者が警察に提供できる仕組みも提言されています。「提供できる」ということは「提供しろ」ということで、しなかったら事故の被害者が民事で医者を訴えるという話になるのかもしれません。てんかんの学会では、逆に無発作の基準期間を短くすることで申告しやすくした方が良いと言っていますが。

もちろんアフターでこんな真面目な話をするわけがありません。もっと与太話です。

厳格化は他の病気にも飛び火しかねません。一番燃え移りそうなのが「アルコール、麻薬、大麻、アヘン、または覚せい剤の中毒者」です。なにしろ、これは政令ではなく、法律のほうに残りっぱなしですから。

しかも、道路交通法改正の目的が飲酒運転対策でした。厳罰化をしても、いっこうに飲酒事故が無くならないのは、アルコール依存症が原因だということも分かってきました。とすると、次は「アル中、ヤク中に免許を与えるな、更新させるな」という声が上がりかねません。

もちろん、これは絶対的欠格ではないので、アル中・ヤク中だからと一律に免許を禁じることはできません。だとすれば、てんかんの場合と同じように、「過去2年間断酒が継続しており、今後も最低○年間は断酒継続できる見込み」という証明を誰かにしてもらう話になるのじゃないか。たぶん医者の診断書か何かで。

しかし、アルコール依存症というのは(断酒初期を除けば)医者にかかる必要の無い病気です。他の精神科疾患がなければの話ですが、年単位で酒をやめている人の多くは医者には行っていません。そうなると、免許更新の前にだけ、断酒継続の証明書をもらいに医者にかかることになりはしないか。何年かぶりに診察室に現れた患者に対して、「この人は2年間飲んでない」と医者が判断できるものでしょうか。さらには、今後も断酒が続きそうかどうかなんて、分かろうはずもなし。

さあ、どうしたもんだ。

与太話はともかくとして、ホワイト先生によれば、病気を治療するよりも、懲罰を与えることでトラブルを防ごうとする圧力は常にあるのだそうです。病気の治療(なり障害の支援)は一人ひとりに対して行わねばなりませんから、手間も金もかかります。一方、懲罰は見せしめによる抑止効果が期待できるので、安くつくはずだという発想があります。小さな政府が基本のアメリカばかりではく、日本も不景気で社会保障の予算が削られれば、懲罰志向になりかねません。いや、実際になっているのです。

懲罰志向は、病気や障害に対する偏見を助長し、未治療の人を増やし、結局はトラブルを増やすでしょう。AAの人間として、政治的な意見を述べるのは慎まなくちゃなりませんが、懲罰志向と治療(援助)志向と、どっちが良いかは、言わずもがなです。


2012年10月25日(木) 平凡な存在

僕は特別なAAメンバーではありません。

例えば、ソーバー(酒を飲まないでいる)期間の長さで言えば、僕より長くやめ続けている人はAAには結構たくさんいます。30年という人に比べれば、僕はまだヒヨッコです。

頭の良さでは、AAには僕よりずっと高学歴の人はたくさんいるし、東大卒の人もそんなに珍しくありません。

僕の収入は多くはありませんが、人並み以上に稼いでいる人もいるし、専門的職業や一流企業に勤めている人もいます。

人気があるAAメンバーなら、その人のバースディミーティングには何十人と集まり、部屋に入りきれなくなったりしますが、僕のバースディミーティングは、いつものミーティングとそれほど変わりません。

12ステップの理解という点でも、当然僕より進歩している人はいます(皆さんその点は謙遜されますけど)。

また、特に素直でやる気があるわけでもなく、AAに来た頃は普通のビギナーでした。つまり、恨みがましく、ヒガミっぽく。酒は自分の力でやめてみせる。誰の助けも要らない、と思っていたわけです。

人格を磨くという面でも、僕より立派な人たちはたくさんいるでしょう。

いろんな意味で、僕は特別なAAメンバーではなく、普通のありきたりなAAメンバーです。

今の日本のAAは長くAAを続ける人が少ないため、相対的にビギナーの占める割合が多くなっています(10年経ってもビギナーみたいな人はいるけど)。さすがに僕もビギナー期に比べれば多少進歩したとは思います。AAに残り続ける人というのは、その人それぞれにAAを理解し、魅力を感じているからこそ残っているわけです。そうした人たちの中にあって、僕は特別ではない、ということです。

おそらく僕はネットでの露出機会が多いために、相対的に目立っているだけなのでしょう。

さて、AAには「二本足をハイヤーパワーにしてはいけない」という言葉があります。ハイヤーパワーとは人ならざるものであり、人をハイヤーパワーとして扱ってはいけない、ということです。こういう言葉が存在するということは、人は人を神格化しやすいということを意味します。

神というのは曖昧な概念です。曖昧な概念を把握するのは面倒です。それが人として形を取って存在しているのなら簡単で良い。だから人を神さまにして、「あの人がいるから安心だ」「あの人の後をついていけば良い」と考えたくなるものです。

回復に成功した人の足跡をたどる、というのが基本路線です。ただ、相手も人間ですから、間違いも犯します。神ではないのです。最初はスポンサーや仲間をハイヤーパワーにするのも良いけれど、回復が進んでいけば、他の人でも自分自身でもない「力」を見つけなければなりません。

また、多少目立っているメンバーを見つけて、「あいつは分かっちゃいない」「回復していない」と叩くのも、逆のパターンの神格化です。スケプチシスト(懐疑主義者)はどこにでもいます。「自分だけはわかっている」という自分を特別に扱いたい気持ちが、そうした批判の出所です。

ビッグブックのp.178に「台座にたてまつる」という言葉がありますが、人は(肯定的でも否定的でも)誰かを台座に奉って崇めて安心したがるものなのでしょう。また、批判という奉り方もあるということです。

AAに残り続け、メンバーの相手をしていれば、時に自分が神格化の対象にされている気付かされます。長い人でそういう経験を持たない人はいないでしょう。尊敬されて有頂天になってみたり、批判されて気に病んでみたり。自分への評価を操作しようと試みて、結局は相手に振り回されてみたり。それが嫌でAAをやめていった人もいませんかね。

やがては、そうやって人に振り回されるのは、自分の回復が足りないからだと気付くようになります。AAとはつまるところ、人を助ける行動を通じて自分を助けるものです。相手が回復するかどうかは確かなものではありませんが、努力していれば少なくとも自分の回復はより確かなものになります。そこが大事です。

時には相手が回復して、自分に良い評価が与えられることもあります。それは秋の味覚としてありがたく頂戴すれば良いのですが、それが目的ではないのは忘れちゃなりません。

批判の内容は的外れなものも多いのですが、そうした中にも有益な示唆が含まれている場合も多いので、その部分は自分を改めれば良いのです。まったく不当な批判もあるでしょうが、それを捨て置けずに敵意を持ってしまうのは自分の問題です。

「批判されないということは、何もしていないということだ」

これはスポンサーが与えてくれた言葉です。目立つために努力しているわけではなくとも、努力を続けていれば、どこかでなにがしかの注目を浴びることは避けられません。そして注目は批判を呼ぶものです。批判されることを気に病むよりも、まったく批判されないことを気に病むべきなのだと。(ある意味批判もご褒美なのかも)。逆風が強いときは頭を低くする古来からの知恵を使えばいいんだし。

こうして、盲信や懐疑主義の罠をくぐり抜け、自分がそれに振り回される時期を過ぎると、他の人と尊敬をベースにした対等な人間関係を築く能力がついてきます。そうした関係の中にあって、「自分が特別な存在である」必要は感じません。本当の意味での仲間意識が育ってくるものだと思います。

12&12のステップ12には「仲間の間で特に抜きん出た人間になる必要はない」ということへの気づきが書かれています(p.165)。若い頃に成功を追い求めたビル・Wだからこその文章かもしれません。AAの中で彼ほど注目を浴びた人は他にいないでしょう。また、先頭に立ってAA全体を導いていかねばならない、というプレッシャーもあったことでしょう。その彼が得た答えが「特別な存在になる必要はない」というものでした。

真の野心とは、人々の中で特別な存在になりたいと思うこととは違うはずです。僕はたくさんいるAAメンバーの中で平凡な存在に過ぎません。そのことに深い感謝があります。

−−−−

メールをいただきました眞美様へ。
書いていただいたメールアドレスが間違っていたようで、こちらから出した返信が届かなかったようです。お知らせまで。


2012年10月22日(月) AAのニックネーム

日本のAAメンバーのかなりの割合がニックネームを使っています。例えば僕は「ひいらぎ」と名乗っています。これは実名とは何の関係もありません。

ニックネームを使う習慣は日本のAA独自のもので、他の国のAAでは珍しいそうです。他の国のAAではニックネームを使わず、ファーストネーム(名字ではなく名前の部分)かフルネーム(実名)を使っているそうです。

この日本独自のニックネームという習慣は、日本のAAの始まりの頃に誕生したのだそうです。

日本語のAAが始まる前にも、米軍キャンプを中心に英語のミーティングが行われていました。ミニーさんとピーターさんの二人が日本語のAAミーティングを始めた時、英語グループの人たちがミーティングに参加してくれました(通訳は二人がしていたそうです)。英語のメンバーたちは当然お互いをファーストネームで呼び合いました。

そのミーティングに参加するようになった日本人メンバーたちは、「AAとはファーストネームで呼び合うところだ」と解釈し、自分たちに英語風のニックネームつけ呼び合うようになったのが始まりだと伝えられています。

時代が下ると、英語風のものばかりではなく、珍妙なニックネームを名乗るメンバーが増えました。一部には、ニックネームを使うこと自体が自助グループの習慣であるとか、それがアノニミティ(無名性)の実践であると解釈している人もいるようです。それは勘違いです。AA内部ではフルネームを名乗ってもちっともかまいません。(問題になるのは、AAの外で、しかも活字や放送やネットにおいて、AAメンバーであることと実名を同時に明かすことです――伝統11)。

依存症という病気には偏見があるので、AAにやってきたビギナーはこの病気を恥辱だと感じています。また、人とすぐに打ち解けられないタイプの人も少なくありません。だから、ビギナーが自分の身元を伏せておきたいと願うのは珍しいことではないし、住所や名前を聞かれないことで安心する人も多くいます。しかし、いつまでも身元を伏せ続けなければならない、というわけではなく、多くの人は、相応しいときに情報を明らかにしていくようになります。

最近では、奇妙なニックネームを使う人がやや減り、若い人たちを中心にファーストネームを使う人が増えてきました。つまり名字ではなく、名前の部分を使う人たちです。悪いことではありませんが、おかげで、女性のニックネームが憶えづらくなりました。だってそうでしょう?

ゆきえ、ゆきこ、ゆき、ゆり、えり、えりこ、りえこ・・・どうやってこの違いを憶えろと?

おそらく新しい世代が増えて行くにつれて、ファーストネームや名字の部分を使う人たちが増え、本名と無関係なニックネームを使う人は徐々に減るだろうと思います。しかし、この習慣はなくならないだろうとも思うし、それが特に悪いことだとも思いません。

以下は、先日僕が送ったメールの一部です。

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日本のAAメンバーが、本名とはまるで関連のないニックネームを使っていることについて、一つ私の経験を述べさせてください。

私は工場で使われる機器を販売する会社に勤めており、顧客の多くはアジア圏です。技術職なので、顧客と直接接する機会は多くありませんが、年に何回かは会わねばなりません。

中国人の名刺をいただくと、ピートとかトミーというニックネームがつけられていることがあります。中国語の発音は難しいので、外国人に中国名を無理に読ませて混乱を招くより、呼びやすい英語風のニックネームをつけてしまっているのです。

ところが、このピートやトミーという名前が、元の名前とアルファベット1文字ぐらいしか一致していないのです。(例えば私だったら、Susumu という名前からサミーとかになるかもしれない)。

こうしたビジネスの習慣が中国全体でポピュラーなものなのかどうか知りません。しかし、外国人と頻繁に取引のある中国人の間で受け入れられているようです。

私がこうした習慣に接したときに、内心反発を感じました。だって、どう見ても我々日本人とあまり変わらないアジア顔の中国人が、ピートとかミッチェルとかいう欧米名を名乗っているのですから「ふざけんな!」という気持ちを持ってしまいました。

私はそうした気持ちを言葉に出すことはしませんでしたが、まず間違いなく相手に伝わっていたでしょう。でも、彼らはそれについては何も言いませんでした。きっと、私のような反応をする人は珍しくないに違いありません。

人は異文化に接したときに、不合理な拒絶をすることがしばしばあります。それは自分が慣れ親しんだことと違うからです。しかし、やがてそれに親しむようになると、理解の幅が広がり、拒絶は取り除かれていきます。

中国人ビジネスマンたちは、私の表に出てしまった反発心をとがめることはなく、またそれに迎合することもなく、むしろ寛容と開かれた心で受け止めてくれました。今ではそれに感謝しています。

私は外国のAAメンバーに接する機会はあまりありませんが、それでもたまには接することもあります。そして、彼らが日本人AAメンバーが使っているニックネームの文化に触れたとき、戸惑ったような顔をするのも経験しています。それは異文化との出会いです。

その時私は、その戸惑いをとがめることはしませんし、また迎合することもしません。以前中国人ビジネスマンが私に示してくれたのと同じ、開かれた心と寛容さでもって受け止めようと務めています。私がそうであったように、やがては彼らも日本の習慣に親しみ、理解の幅が広がり、拒絶が取り除かれていくでしょう。実際そうなる様子を、私は何度も見てきているからです。


2012年10月19日(金) リーフレット「司会者の心得」について

メールで問合せがあったので、他にも関心がある人がいるかもしれないと思い、雑記に書いておきます。

10年ほど前まで、日本のAAでは「司会者の心得」というリーフレットを頒布しており、ミーティングで読み上げられることもよくありました。
それには、こんなことが書かれていました。

・司会者が話したことも、他のどのメンバーが話したことも、個人の意見であり、AA全体を代表した意見でも、このグループを代表した意見でもありません。
・持ち帰りたいものは持ち帰り、それ以外は、この場に置いていってください。
・ここで話されたことや、ここで会った人のことはこの部屋にとどめておいてください。
・出席している方々のプライバシーを尊重するために、写真撮影、テープ、メモ等はご遠慮ねがいます。

なぜこのリーフレットが作られたのか古老に聞いたところ、かなり以前に関東でプライバシーがひどくないがしろにされるトラブルが続発し、対策として自分たちで作ったものが徐々に広がって、やがてオフィスから配布されるようになったそうです。

「司会者の心得」に書かれたことの中には、AAの方針に間違いなく一致する部分もありますが、それぞれのメンバーやグループの判断に任せるべき部分も含まれています。ところが、これがミーティングで読み上げられていると、これがAA全体の方針であるとか、ルールであると勘違いする人が増えてきました。

例えば、どこそこのミーティング会場で○○さんに会った、という話をヨソでしてはいけないのだ、とか、ミーティング会場でメモをとってはダメなのだ、というふうに、これを「AAのやり方」とか「ルール」と解釈し、そこから外れた人を責める道具に使う人まで現れました。それは、最初に善意でこのリーフレットを作った人たちの意図から明らかに外れたものでした。

そんな事情もあって、10年ほど前に「司会者の心得」は廃止することになりました。もちろん、もう使ってはならぬ、という話ではなく、使いたいグループが使い続けるのはそのグループの自由ですが、AA全体で使うものとして配布することはやめたということです。

代わりに希望するグループには「ブルーカード」というのを頒布することにしました。ブルーカードも「司会者の心得」に似たリーフレットで、ミーティング会場で読み上げられることを目的としたものです。そこに書かれた文章を要約すると、とてもシンプルです。

・「AAの目的は一つ」であり、ミーティングでは「アルコールの問題」「アルコホリズムに関わること」だけが分かち合われるようにお願いします。

というものです。

僕としては「司会者の心得」が「ブルーカード」に替わったのは良いことだと思っています。

「司会者の心得」の内容は善意で書かれたもので、常識的なものです。例えば、プラバシーを尊重することは(自助グループに限らず社会一般で)大事なことです。ミーティングで自分が話したことが、どこまでも広がってしまうのであれば、話しづらくてしかたありません。特にビギナーにとって、秘密が守られるということは大事なことです。依存症という病気に対する偏見は少なくなってきているものの、自分がその病気であると認めるには恥の意識が邪魔になることもしばしばです。それを認めることが回復の第一歩であるなら、ビギナーの回復のためにもミーティングで話されたことが外に漏れないことが大切です。

でも、ビギナー期を過ぎれば次第にそのことは気にならなくなります。何百人の聴衆の前で話をしたり、何千部も発行される雑誌に記事を書いたりできるようになります。それは、自分自身の中にあった(病気に対する)偏見が取り除かれていったから、つまり回復の結果です。

ミーティングで話をしている目の前でメモを取られたら、話しづらいでしょう。取材じゃないんだし。多くのグループでミーティング中のメモを歓迎しないのには、そんな理由があると思います。

でも私たちは「経験を分かち合う」ためにミーティングをやっています。つまりそれは、お互いに経験を伝え合うということです。伝えるために話をしているという意識があれば、相手が「メモを取っても良いか」と聞いてきたら、断る理由はありません。

おわかりでしょうか。ミーティングで聞いた話は一切外に漏らしてはいけないわけではないし、メモが禁止されているわけではありません。「司会者の心得」が伝えたかったことは、そんな表面的な細かいことではなく、「他者への配慮を欠いた行動をしてはいけない」という根源的なことだったのです。

ところが「司会者の心得」が長く使われるにつれ、そこに書かれた字句が「AAのやり方」とか「ルール」だと勘違いする人が増えてきました。(字句通りに解釈してしまう発達特性を持った人がAAに多かったせいかもしれませんが)。

幸いにしてAAはリーフレットを撤回するという軌道修正を行うことが出来ました。ところが、AA以降に始まり、AAの影響を受けた他のグループの中には、「司会者の心得」の内容を受け継いでいるところも見受けられます。

というのも、他のグループや援助職の人から「自助グループってこういうやり方をするもの」という話を聞くときの内容が「心得」の内容そのものだったりするからです。たった1枚のリーフレットでしたが、その影響が及ぶ範囲は広かった。

僕はAAメンバーとして、他の団体がどうあるべきかという意見を表明することは控えねばなりませんが、すでにAAは「司会者の心得」を廃止したということは、知らせておくべきことだと思います。

個人的には「司会者の心得」の最大の欠点は、回復したくない人にとって都合の良い解釈が出来る言葉が並んでいることだと思います。回復とは変化を伴うものです。変化を伴わない回復はあり得ません。自分の何かを変えるのは、面倒だししんどいことです。しんどさを避け、今の自分のままでいるのに都合の良い言い訳を「司会者の心得」の中に見つけることが可能です。それがあのリーフレットの難点だったということです。

自助グループも変化するものです。10年前、20年前と同じとは限りません。悪い方にも変わりうるし、良い方にも変わりうるということです。僕は日本のAAの現状について嘆くような話を書くことも多いのですが、もちろん良い方向への変化もたくさん起きていることは疑いありません。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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