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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年02月16日(木) またまたDSM-5 NHKスペシャル「ここまで来たうつ病治療」は、やはり残念な番組だったようですね。見てないので、あちこちのブログの評判から判断しているだけですけど。TMS(経頭蓋磁気刺激)の素晴らしさみたいな話は聞きますが、じゃあなんで今までECT(電気痙攣療法)が避けられてきたのかっていう話は出て来なかったのでしょう。
以前「リサーチ200X」っていう、一見科学的でありながら「そんなわきゃねーだろ」とツッコミを入れながら見るのが楽しみという番組がありましたが、最近のNスペもそういう路線ですか?
さて、DSM-5への改訂作業は1999年から始まっているそうですが、ようやくホームストレッチにさしかかったようです。
DSMについて簡単に説明しておくと、アメリカ精神医学会(APA)の定めている、「精神疾患の分類と診断の手引(Diagnostic and Statistical Manual)」のことで、精神医学の診断バイブルとも呼ばれています。現在使われているのはその第4版改訂版(DSM-IV-TR)です。DSMの変更はアメリカ国内のことですが、やがて日本にも影響が及んでくることは間違いありません。
雑記でもDSM-5については何度か言及しています。
DSM-5ドラフト
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100224
ドラフトに対しては、いろいろな反応があるようです。まず発達障害関係では、自閉症・アスペルガー症候群・PDDNOSなどが「自閉症スペクトラム障害(ASD)」に統合されることになっていますが、合わせて行われる診断基準の変更によって、多くの人たちが該当しなくなるという指摘があります。
DSM-5:自閉症の多くが診断クライテリアから外れる可能性
http://kaigyoi.blogspot.com/2012/01/dsm-v.html
[自閉症]DSM-5:自閉症スペクトラム障害の診断基準変更に伴うインパクトに関する報道について
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20120122
自閉症の範囲が狭くなると、グレーゾーンの人たちが健常だと判断されることになり、必要な福祉サービスや支援を受けられなくなる、という問題があります。
自閉症の線引きを縮小したほうが、国の負担が減ったりとか、あるいは以前に書いたようにADHDへ患者を振り向けてADHDの治療薬を売りたい製薬会社や、支払額を減らしたい保険会社の思惑があったりする・・のかもしれません。
依存症関係では、DSM-IVで「物質関連障害」と呼ばれていたものが、ドラフトでは「嗜癖およびその関連障害」という表現に変わり、「依存」という言葉は捨てられています。
以前、依存とは離脱症状のことだと書きました。しかし乱用薬物の中には離脱症状のハッキリしないものがあって、依存を頼りに診断するのは不適切です。またまた頭痛薬や胃薬や花粉症の薬にも離脱症状があって、それはアディクションとは言えません。結局依存というのはアディクションを表現するのに適切な言葉ではなかった、という反省があります。(さらには、アディクションの対象が物質以外にまで広がるに当たって、人が何かに「依存すること」そのものが悪だという誤解まで生じてしまいました)。
さらにドラフトがチャレンジングだったのは、対象をアルコールや薬物に限らず、ギャンブルを含めたことです。ギャンブルは「病的賭博」として衝動制御障害の中に入っていたのを移動させました。さらにインターネット嗜癖とセックス嗜癖をAppendixに置きました。
これは物質使用(アルコールとその他薬物)とそれ以外のアディクションの間にあった垣根を取り払い、アディクションとして一つの分野に統合しようという、とても意欲的な取り組みでした。しかし、パブリック・コメントを受けて、病的ギャンブルは元の衝動制御障害に戻っています。統合は頓挫した形です。
最近は日本でも、ギャンブル・買い物・セックス・ネット・食べ物などのグループも増えてきました。そういう人たちと付き合ってみると、たしかにアルコールや薬物と同じアディクションが成り立っている人もいますが、別のアプローチのほうが効きそうだという人も少なくありません。安易なアディクション概念の拡大は慎んだほうが良いと思います。
DSM-5はこの春に最終ドラフトが発表され、2ヶ月間のコメント受付期間があり、それを受けて最後の修正が行われ、来年早々に採択される予定です。医者ではないので特別な関心を持っているわけではなく、しかも二次情報の後追いばかりですが、当事者活動にもいずれ影響は及んでくると思います。
2012年02月14日(火) 受容と承認 心理学や哲学は、人間の欲望を解明しようとしてきました。フロイトの性欲説、マズローの欲求段階説、アドラーの優越追求説、ロジャーズの自己実現と承認欲求の対立。いずれも、人間の欲求を構造化することで把握し理解しようとする試みです。
『12のステップの12の伝統』のステップ4では、人間の欲求を、共存本能・安全本能・性本能の3分野に分類するという独自の構造化が行われています。
共存本能の例としてあげられているのが「仲間作りの欲求(companionship)」です。これは人の集団に所属したい、仲間として受け入れられ、価値ある存在として認められたいという欲望です。マズローの欲求段階説で言えば、第3段階の所属と愛の欲求・第4段階の承認の欲求にあたるのでしょうか。
12ステップでは人間の本能(欲求)を「神から与えられた善いもの」として必要なものであり、どれが良いもので、どれが悪いという扱いはしていません。ただ、いずれかの本能(欲求)が暴走すると、自分の持つ他の欲求を抑圧したり、同じように欲求を抱えた他者との衝突を招きます。そうした偏りを招くのが、私たちの持っている欠点だとしています。
ついでに言うと、そうした欠点が首尾良く取り除かれれば、自分の中の様々な欲求を、同じような他者との関係を見極めつつ、バランス良く充足させて生きていくことが人にはできる・・という性善説というか、楽天性が12ステップにはあります。そうした楽天性は、親に存分に愛されて育った人が持っている楽天性に通じるものだと思います。ほら、そういう人って、心にぽっかり穴が開いた人間から見ると鼻持ちならないほどの自己効力感の持ち主だったりするじゃないですか。でもそうした楽天性を持っていたほうが、逆境に強く、自分の能力を発揮して生きていけるように思います。
で、所属と承認欲求の話に戻ります。普段この雑記にはスポンシーだとか僕の身近な人々のことは書きません。それは書いて欲しくないだろうと思うからです(どうせロクでもないことしか書かないし)。でも、たまには書いてしまいます(もちろん気を使いながら)。
ずいぶん前になりますが、AAスポンシーが「僕はホームグループのみんなに受け入れられているのでしょうか?」と尋ねてきたことがありました。「受け入れられているか?」という質問は、裏返せば「受け入れられていないように感じる」とか、「受け入れられていないような気がして不安だ」という意味でしょう。一緒にいてもなんとなく疎外感を味わっているとでも言いましょうか。集団の中の孤独感。
じゃあ、彼がこう言っているんだけど、とグループの他のメンバーに伝えたとしたら、みんなは首を横に激しくふるでしょう。受け入れてないなんてとんでもない! 存分に仲間扱いしているじゃないかと。もし彼がASD(具体的にはアスペルガー症候群)だということを皆が知っていなかったら、中には「言いがかり」だと言って怒り出す人もいるかもしれません。いないけど。
どうしてこのようなギャップが生じてしまうのか。きっとそれも発達障害の特性ゆえではないかと思います。
自閉の三要素は、想像力の障害・コミュニケーションの障害・社会性の障害です。社会性の障害は、前者二つの障害の結果だとされます。よく「空気が読めない」と表現されるのは、想像力の障害にカテゴライズされます。そして、先ほどの、十分に受け入れられているのに、受け入れられていないと感じるのは、このKY特性ゆえではないかと、僕は捉えています。
人間同士のコミュニケーションには、非言語的なメッセージもたくさん使われています。その中には、「あなたは私たちの仲間ですよ」「受け入れていますよ」というメッセージを、表情や身体的な所作で表現することも含まれています。(逆に邪魔だからとっとと出て行けという非言語的メッセージが発せられる場合ももちろんある)。
グループの仲間、あるいは職場の同僚や、家族。そうした自分を囲む人たちが、「私はあなたを受け入れています」というメッセージを発していたとしても、そのメッセージを受け取ることが苦手であれば、受け入れられていることが実感できず、疎外感すら感じてしまうでしょう。その苦手さに発達障害の特性が絡んでいるだろうという話です。
よく「自分の意見が否定されたとしても、自分という存在が否定されたわけじゃない」と言います。意見を否定されることと、所属と承認を拒否されることは違うということです。しかし、意見が言語的コミュニケーションで否定されつつ、同時に所属と承認が非言語的に伝えられるとしたら、自閉圏の人たちはどう受け取ってしまうでしょうか。意見を否定された以上、自分という存在はここでは望まれていないのだ、と捉えてしまうことが十分あり得るでしょう。
「仲間作りの欲求(companionship)」というのは、とても強いものです。しかし自閉圏の人は、その欲求を満たそうとする努力に見合っただけの成果を受け取れない(受け取っているのに感じられない)という困難を抱えているのではないか、というコンセプトです。
感度が鈍いんだったら、強く刺激すりゃいい、っていう考え方もあります。AAグループの中にも、大変真面目で、なおかつホモソーシャルな雰囲気のところもあります。妙に体育会系のノリだとか。そんな風に文化を単一化すれば、それに合わせることができる人は、所属と承認を十分に感じることで安心感を得られます。ある依存症施設では、「愛」や「仲間」という単語が使われ、ハグをして仲間意識を高めあっています。アイコン的単語を繰り返し、ハグというオーバーアクションの分かりやすい所作によって、疎外感を取り除く努力とでも言いましょうか。なるほど、そういうやり方もあるのか、と納得です。
じゃあ、ひいらぎ、お前はなぜそういう戦略を取らないのだ、と言われるかも知れません。
ホームグラウンドに戻ればいつでも仲間が分かりやすく受容してくれる、ってのは素晴らしいことに違いありません。けれど人はそこだけで生きているわけではなく、ふつーのメッセージが飛び交う世間の中で生きていかなければなりません。たとえ感じられる受容と承認のシグナルがか細くても、確かに自分は受け入れられているという確信を持って進んで欲しいと思うからです。その為には、人は誰でも基本的には信頼できる、という人間存在に対する根源的な信頼を身につけて欲しいし、その為に12ステップは有効だと思うからです。つまり環境を変えるばかりではなく、本人が変わって欲しいわけです。(ま、だいたいAAはハグの文化じゃなくて、握手の文化だしね)。
受容と承認のメッセージは、おそらく親から子に向けられて発せられるものが最も強いのだと思います。「私は親から愛されなかった」という人は、それがアダルト・チルドレンとしての自覚につながっていることがしばしばあるのですが、その「愛されなかった」というのは果たして本当だろうか、と僕は疑いを持ちます。客観的に見れば、存分に愛されていることもしばしばだからです。となると、親が発するシグナルの絶対量が不足していた可能性ばかりでなく、子どもの側が信号を受け取る能力が弱い可能性にも目を配らなければならなくなってきます。
いずれにせよ、受容と承認は人間にとって大事な欲求だということでありましょう。
2012年02月09日(木) 情報メディアと人間の不安 毎年年末には「心の家路」のWebalizerのデータをまとめているのですが、昨年末は忙しくて手が回らなかったので、今頃になってまとめです。
2011年一年間の統計データ
送出バイト数 54.6Gbytes
訪問者数 63万2千
リクエストページ数 298万
リクエストファイル数 445万
リクエスト数 510万
一日あたりの訪問者数は、以前は2,000人/日ぐらいだったのですが、昨年は1,700人/日ぐらいまで落ちています。日々雑記の更新頻度がすっかり落ちてしまったのと、FC2ブログに同じ内容を載せているので、そちらを見ている人はカウント数に入ってないことも影響しているのでしょう(スマホから見るのであればFC2のほうが見やすいし)。
ただ今年に入って少し増えて、また2,000人/日ぐらいに戻っています(謎)。
(人/日といっても、検索エンジンのロボットも含まれており、実際の人間を数えているわけではないので、それは割り引いて考えてください)
さて、話題を変えて。昨年3月11日以降、多くの人が感じたことのひとつは「マスメディアへの失望」ではないでしょうか。政府や電力会社が情報を隠蔽しているのではないか、そして新聞・テレビ・ラジオなどのマスメディアは、その隠蔽に加担しているのではないか、という疑いが生まれました。いわば、メディアの公平性への失望でしょうか。
多くの人たちが見落としているのは、新聞であれ、テレビであれ、企業が運営しているということです。営利である限り、売り上げが必要です。毎年8月15日になると戦争反対の論陣を張る新聞ですら、第二次大戦中には翼賛体制の中に組み込まれていました。百人、千人単位の雇用や、会社やメディアの存続を考えたとき、それ以外に選択肢はありませんでした。
新聞は購読料だけでは成り立たないので広告主が必要です。ましてテレビ・ラジオの民放ともなれば、収入の大部分を広告料が占めます。メディア各社にとって「大事なお客様」とは購読者・視聴者ではなく、広告主です。コンテンツに広告主の意向に従ったバイアスがかかるのは当然のことです。
では民間企業ではない国営メディアはどうかといえば、当然政府の介入があります。
純粋に購読料や視聴料だけで成り立っているメディアがあれば、もっと公平性が担保されるかもしれません。しかし、ニュース専門チャンネルの加入数が伸びないところを見ると、どうやら人々は公平性に金を払うだけの価値を認めていない、ということになります。
フィルターのかかっていない情報が見たければ、2ちゃんねるやTwitterがあります。ただし、そこにある情報は玉石混淆で、真偽は受け取る側が判断しなければなりません。基本的な情報リテラシを養う教育も施されない中で、人々に自己責任ばかり求めるのは酷だと感じます。
反原発デモがニュースに取り上げられないことを、酷い話だと言った人がいましたが、公平性を期待すること自体が間違っているという視点は持っていないようでした。そもそも公平性とは何か。反原発デモがニュースに取り上げられないと言っていた人も、某宗教系政党が行った人数がより多いデモがメディア各社にまったく無視されたことには憤りを感じないだろうと思います。
そもそも、人はフィルターのかかっていない情報に価値を認めていない側面があります。最もフィルターの少ない報道として挙げられるのが、NHKの国会中継です。あれはフィルターやバイアスが皆無とは言いませんが、他の番組に比べれば格段に少ない。しかし、国会中継の放送が面白くて、好きで好きでたまらないという人にはお目にかかったことがありません。
人々はフィルターを経てバイアスがかかった情報を欲しがっています。ただ、そのバイアスのかかり方が自分好みであるかどうかが気になります。だから昨年起きたことは、大手メディアの信頼性への失望ではなく、大手メディアが自分の好みのバイアスがかかった情報を提供してくれない事への失望だったと言い換えることができます。
3月原発事故以降、放射線関係の書籍の売り上げが大幅に伸びました。それはビジネスチャンスでした。ところが、出版関係の人のブログによれば、そのブームも夏には沈静化してしまったそうです。人々の関心の移ろいは早いものです。しかし、来月は事故の一周年にあたります。再びビジネスチャンス到来です。おそらく皆さん商売に精を出されることでしょう。商売はそんなに悪いことではないと思うのです。
ここで「そんなに」悪いことではない、と限定を付けたのは、実は結構悪いことも起きるからです。
いまの日本はモノがあふれており、そんな中で商売をするには、人々の不安を煽るに限ります。つまり、髪の毛が薄くなるのは良くありませんよ、と不安を煽れば、育毛剤やカツラが売れます。インポテンツが良くないと不安を煽ればバイアグラが売れます。結婚できないのは良くないと不安を煽れば、婚活産業が流行ります。ほら、これを手に入れないあなたは不幸です。不幸であることも知らないなんて、可哀想なあなた・・、というメッセージであふれています。原発事故や放射線関係の出版や放送も、この不安を煽るという手法にうまくマッチしています。
解消できない不安は、精神に対しても、肉体に対しても、健康を害することが知られています。「ヤマアラシのジレンマ」のブログの方に二つほどあげておきましたが、実はチェルノブイリの原発事故では、放射性物質による外部被曝・内部被曝による健康被害よりも、放射線による健康被害が強調されるあまり人々が不安に陥った事による被害のほうが深刻だった、という見積もりがあります。
福島の事故ではどうかは後年の検証を待たねばなりませんが、原発事故がもたらした被害より、人々の不安を煽る情報が流布した事による健康被害のほうが大きくなると予測します。というのも、チェルノブイリの時代よりも情報メディアが発達し、人々が不安な情報に触れる機会が増えているからです。(もちろん個々の例でいえば、直接被害のほうが大きい例はたくさんあるでしょうが、全体としての話)。
東京電力は商売の上で健康被害をもたらしたことで激しく非難されています。それは非難されて当然です。しかし、同じく大きく健康被害をもたらしている商売が非難されることはありません。(善意において不安情報を拡大している人たちはどうか)。
パソコンが誕生し、インターネットや携帯電話、FacebookやTwitterとメディアは進歩を続けてきました。しかし、メディアが人間にもたらす混乱は、僕が30年近く前に大学で情報について学んでいた時代とまったく変わっていません。なぜなら、メディアは変わろうとも、人間はちっとも変わっていないからです。おそらく、千年後も(人類が滅亡していなければ)変わらないでしょう。
メディアの問題なのではなく、それに接する人間の側の問題なのです。つまり自分の問題というわけですが、多くの人はそれを自分の問題として捉えていません。
2012年02月02日(木) 答えを求める人・応えを求める人 Twitterにこんなつぶやきがありました。
https://twitter.com/#!/sweets_shocho/status/162331930463977473
> 多くの人たちが求めているのは後者なんだろうと思います。RT @mayakima: 日本語の「こたえ」にはどうして「答え」と「応え」があるかには意味があると思う。
「答え」というのは解決方法。「応え」は応答してもらうこと、相手をしてもらうこと。
12ステップというのは、アディクションの問題に対しての解決方法を提供してくれる道具です。だから、AAなどの12ステップグループでは、問題と解決策について分かち合うことになります。AAであれば、問題はアルコールに打ち勝てないということであり、そのために人生がどうなってしまったか、です。解決策は棚卸しやら埋め合わせの経験の分かち合いということになります。
つきつめて考えると、AAのミーティングでは酒の話と12ステップの話だけしていれば良い、ってことになります(少々極端な言い方だけど)。だから余計な話をするなよ、と少々強めの圧力をかけつつミーティングをやっていても、それなりの人数が集まってきます(実際には逸脱も多いしね)。それは問題を解決したいという思いが強い連中です。いわば「答え」を求める人たち。
だが、そういうミーティングは窮屈で嫌だと思う人もいます。もっと自由に、今週あったこと、今日あったこと、様々なことを話したい人もいます。年配の女性は嫁の愚痴を言い、サラリーマンは会社の不条理を嘆き、職場の「困った同僚」の話をします。傷ついたとか、腹が立ったとか、あるいは頑張らねばならないのに頑張れないとか・・。そういう話をする場をAAミーティングに求めている人たちが確かにいます。
それは相互援助(自助)グループの目的外使用です。しかし、自助グループに、愚痴や恨み言や弱音を吐く場所としての機能を求めている人たちはたくさんいます。
おそらくこれは間違いなく言えることだと思いますが、そういう人たちはミーティング以外に恨み言や弱音を言える場所を持たないのです。内面の負の感情を言える人間関係をミーティング以外の場所で持っていないか、そうした信頼できる人間関係を築く能力が弱い人たちです。なぜ、そんなことを断言してしまうかといと、僕もAAにやってきた頃はそうだったからです。
こういう人たちが求めているのは「応え」のほうです。否定したり叱ったりせずに話を聞いて欲しい。理解して、できれば承認して欲しいということであり、必ずしも解決方法を求めているわけではありません。助言は受けたくないし(自己否定感が強まるから)、助言を受けいれたとしても実行には移しません。
「答え」を求める人と、「応え」を求める人。自分の目の前に来た人が、どっちを求めているかです。「応え」を求めている人に、12ステップという「答え」を提供しようとしても、うまくいきません。ニーズとシーズがずれているからです。
2012年01月31日(火) 混ぜるな危険的AC論 いろいろとウンザリしているので、愚痴みたいな事を書きます。
共依存概念に関する混乱については、ちょっと前に長々書きました。そうなると、AC概念(アダルト・チャイルド、アダルト・チルドレン)についても書くことになります。
共依存について(その1) で、こう書きました。
> 1970年代に、コ・アルコホリズムやパラ・アルコホリズムという概念が成立しました。これはアルコール依存症(アルコホリズム)にかかった人と一緒に暮らしているせいで、家族も依存症本人と同様の考え方や行動が身に付いてしまう、つまり疑似的な依存症になってしまう、という考え方です。アダルト・チルドレンという概念もここで同時に成立しました。
アディクションはその人を無能力化・無責任化してしまいます。だから、本人にかわって家族がその責任を引き受けることになります。奥さんがアル中ダンナに手を取られてしまうと、どうしても子供たちの養育がないがしろになります。子供たちは本来必要な世話を受けられずに成長します。手不足な家庭の中で、まだ幼いのに、自分のことは自分でやり、時には母親の助手として、あるいは母親の相談役として、大人としての責任を担わされます。
その一方で、父親の暴言・暴力が激しかったとしても、母親はなかなか守ってくれません。昨今ではDVは警察を呼ぶなど外部化することが勧められていますが、なかなかそうはなりません。
そんなわけで、自分の必要を満たしてもらえない(世話してもらえない)、むしろ自分で自分の必要をないがしろにし、優先して他者の必要を満たし、責任を過剰に背負う思考パターン・行動パターンを身につけて大人になります。
しかし人間は無限のエネルギーを持っているわけではないので、そんな自己犠牲はどこかで限界に達します。その時に、様々なトラブルが起きてきます。アル中の子供が成人するとアル中に成りやすい(世代伝搬しやすい)ことは昔から知られていましたが、成人してアル中にならなくてもどこかヘンであるということが知られるようになり、「アルコール依存症者の成人した子供たち」(Adult Children of Alcoholics)という概念が誕生しました。
だから、元来の意味での共依存(アディクションの人の家族)という意味では、AC=共依存ということになります。ACの人は、親にないがしろにされたことに恨みがあるわけですが、その恨みが表面化しているよりも、むしろ内面に抑圧されていることのほうが多いわけです。
ここで気をつけなければならないのは、親子関係が悪いことがすなわちACではないということです。親子関係の悪さには様々な原因があり、共依存的な関係が成り立っているとは限りません。親子関係の悪い子供がみな、自分の必要をないがしろにして他者の必要を満たすような行動パターンを身につけるわけでもありません。
だから、親子関係が悪いとか、親を憎んでいるからACだ、というのはあまりにも単純化しすぎです。成人しても親に経済的にべったり依存しっぱなしとか、親の家にひきこもりってのは、どうみてもAC概念にそぐいません。(むしろ親が子供の面倒を過剰に見てないか?)。「俺がこうなったのは親のせいだ」という憎しみを持っていたとしても、それがACを意味するわけではありません。
ところが、親子関係の悪い人をみかけると、すぐにそれをAC扱いしてしまう人がいて困るのです。アディクションの問題でメシを食っている人ですらこれをやります。このようなACに関する誤解は広く広まっている気がします。
それをやられて一番困ってしまうのは、ACの人がアディクションを持ってしまった場合です。先ほどACとはアル中になれなかった人たちだと説明しました。アル中になってしまえば、ACは関係ありません。本人性のほうがAC性より優先するからです。
AAの12のステップには「ACの場合には」という注意書きはありません。それはAA誕生がAC概念成立よりずっと前なので当然なのですが。ACであろうとなかろうと、アル中として12ステップをやるには何ら変わりがなく、一括して扱って不都合がなかったのです。(むしろ12のステップがちきんと伝わっていなかったのが不都合の原因でした)。
だから、AAの12のステップでは、親に対する憎しみを特別扱いすることはありません。親への恨みも、その他の人への恨みと同様に扱うし、当然親に対する埋め合わせも回避しません。そんなことをすれば、12ステップによる回復がおぼつかなくなるからです。「恨み」には他者に責任を転嫁するために使われる側面があります。それをやっている間は回復できません。
あなたはACだから、という理由で、親に対する恨みを免責してしまったり、親への埋め合わせを回避させてしまうと、その人の回復の手助けするのではなく、足を引っ張ることにしかなりません。
ジョー・マキューの『回復の「ステップ」』(通称赤本)は、1990年の出版ですが、これは12のステップをアルコールや薬物の依存ばかりではなく、ACや家族の問題にまで拡張した意欲作であり、ある意味ジョーのステップのプレゼンテーションの究極です(だからこそ日本でも多くの愛用者がある)。しかし、そこでも親との関係を例外扱いすることはありません。
とは言うものの、まったくAC性を無視して良いか、となるとそうではありません。AAの12のステップは、他者をなじることをやめ、責任を自ら引き受け、他者への奉仕を通じて自尊感情を育てていく構造になっています。これは社会適応性を向上させるので大変良いのですが、「自分の必要をないがしろにして、優先して他者の必要を満たそうとする」というACの思考パターン・行動パターンを助長する側面を持っています。
だから、AC性を持った人が12のステップをやると、アディクションが止まるのは良いのですが、数年すると苦しくなってくるということが起きます。だからこの時点でACとしてのケアをすればいいわけです。ACのグループに通い、ACとしての12ステップをやればよい。それはアディクションにならなかったACの人たちに遅れて合流するということです。
まず、アディクション本人としての回復のステージがあり、次にACとしての(あるいは家族としての)回復のステージがある。このような構造化が必要なのですが、いままでそれがなく、本人性もAC性もごっちゃごちゃにされています。
よくある誤解は、ACが原因となってアディクションに発展したのだから、まずACの問題について扱うというやつです。なにが原因で依存症になったにせよ、依存症の問題を第一のものとして扱うのが基本です。なぜなら、酒や覚醒剤をやっていたのでは、ACとしてのケアもあったものではありません(それはギャンブルなどのプロセス系でも同じ)。きちんとアディクションを止め、安定させることを優先し、その上でAC性に取り組まなければなりません。
日本のACグループがいまいち発展してくれないのは、まだまだ本人性が強く、酒や薬その他のアディクションから未回復の人たちが、ACグループに送り込まれて混乱を招いているからだと思います。それを送り込んでいるのは、実はアディクションの支援者たちだったりします。
ACであろうとなかろうと、親による虐待を経験し、トラウマによるフラッシュバックがステップに取り組む妨げになるという場合には、12ステップよりもトラウマ治療を優先すべきです。最近は暴露療法ばかりでなく、EMDRという良い治療法も日本に導入されており、実施するお医者さんも増えていると聞きます。EMDRですっかり良くなってしまったというのなら、そもそも12ステップは必要なかったという話にもなります。
ACであろうとなかろうと、親に対する恨みは強固な場合があります。そのあまりの頑固さに辟易してしまい、「ACだから」という理由付けをしてその問題を回避して通ろうとするのは、ステップを援助する側が陥りやすい落とし穴です。だからこそ、その誘惑に負けてはいけません。ガンの手術をする時に「面倒くさいから(例えば肝臓の裏側にあるから)」という理由で病巣を取り残す外科医はいません。そんなことをすれば再発間違いないからです。しかし、アディクションではしばしばそういうことが行われます。
スポンシー(施設ならクライアント)は、「回復したい」という気持ちと「回復したくない」という気持ちが両方ともあるアンビバレントな状態です。その天秤を「回復したい」という側に傾けるのが良い支援者です。「回復したくない」、つまり回避したいという気持ちを助長してしまってはダメなのです。
僕がジョー・マキューに惚れ込んだのは、彼が自分の施設用に作った12ステップのプログラム「リカバリー・ダイナミクス(RD)」が、視覚化と構造化によってすっきり分かりやすく整理されていたからです。しかし、どんなに素晴らしい道具であっても、それを使う支援者側の頭が構造化されていなければどうにもなりません。
いや、構造化によって援助職を援助するということが、RDに限らずアディクションの領域全般に必要なのでしょう。
2012年01月27日(金) 「心の家路」の10年間 このサイト「心の家路」を始めて10年を経過しました。
10年前の自分がどうだったのか、すこし振り返ってみたいと思います。
AAでは「12のステップ」が大事にされており、ステップによって回復することになっています。しかし、12ステップがどんなものなのか説明してくれる人は、当時の僕の周りにはいませんでした。もちろん、僕にもスポンサーがいて、その人には大変世話になりました。彼がいなかったら今の僕はなかったわけで、大変感謝しています。
AAでは当時でも今でも、最初の三つのステップがとりわけ大事だとされています。アルコールに対する無力を認めるステップ1、自分より偉大な何らかの存在が自分を救ってくれると信じるステップ2、その存在に自分の「意志と生き方」をゆだねる決心をするステップ3です。
この三つは「認めて・信じて・お任せ」という言葉でくくられて語られます。それはどういう意味かとスポンサーに尋ねたところ、「あなたは、アルコールに勝てないと感じたからこそAAミーティングに通っている。それは自分が無力だと認めたからだろう。それがステップ1だ」と教えられました。
同様に、AAが助けてくれると信じたからこそミーティングに通っているわけで、それがステップ2である。さらには、自分の生き方をAAにゆだねようとしているからこそ、ミーティングに通っているわけで、これがステップ3である。というわけで、ともかくAAミーティングに通い続けることが、ステップ1・2・3であるという話でした。
これはこれで、かなりシンプルで良い考え方だと今でも思っています。2〜3分の説明で済む利点もあり、ミーティングに通っていないとか、通い出して間もない人にはとりあえずこの説明で十分かもしれません。しかし、その先はどうするのか?
それでも僕は、ステップ4で長いストーリー形式の棚卸しを書き上げ、ステップ5で人にそれを話して聞いてもらいました。でもそこまでだったのです。ステップが階段を上ること(下ることでもいいけど)だとすれば、ステップ5まで行ったところで、次の一段がなく、ずっと長い広い踊り場が続いているようなものでした。ステップ5の時に自分の人生の長い話をして聞いてもらったことで得た開放感や高揚感は素晴らしかったものの、その効果は2〜3ヶ月しか続きませんでした。
12ステップは良いもののはずなのに、自分には効果が不十分だったし、効果を上げる別のやり方も手に入りそうにない・・。そう思うとAAがツマラナイものに思えてきました。かといって、完全にAAを離れると再飲酒が待っていそうで怖い。すぐに飲むわけじゃなくても、何年も離れているとヤバいみたいだ・・・。
そんなジレンマを抱えた状態で始めたのが、この「心の家路」です。しかし、ネットに突破口を求めるとか、そういう発想はなく、ただ単に手詰まりだったので、できることをやってみただけです。
やっぱりネットの中に突破口は見つからなかったのですが、変化のきっかけはネットが作ってくれました。僕のサイトはAAのなかで少しだけ知られるようになり、僕の文章を読んだAAメンバーと知り合いになりました。
当時の雑記を読むと、熱に浮かされたような文章を残しています。
仲間が増えない?
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20030828
1950年代のアメリカと現在の日本では状況が違い、多分アルコホリズムとされる病気の範囲も異なっているでしょう。でも、その違いを考慮に入れたとしても、今の日本のAAの有効性は低すぎやしないか。そういう話です。
僕が方向付けを得たのはこの頃だったのでしょう。自分は変化を続けていると思います。けれど、あの頃も現在も、目指すものは変わっていません。それは「一人でも多くのアルコホーリックが助かって欲しい」ということです。一人の人間が出来ることは微々たるものですが、AAという集団が成長すれば、より多くの人が助かるはずです。
あれからビッグブックのやり方で12ステップに取り組み、その経験から有効性を確信するようになりました。AAに対する信頼を取り戻したとでも言いましょうか。しかし一方で壁にぶち当たったこともあり、その頃に発達障害概念と出会いました。今では標準的なプログラムを提供することばかりではなく、一人ひとりの特性に合わせた支援が必要だと考えるようになっています。
僕の成長は常に人との出会いによって起きてきました。「心の家路」を始めた頃は、県内のAAメンバーを中心とした限られた人たちばかりでしたが、やがて県外のAAメンバー、そしてアルコール以外のアディクションや隣接分野の人たち、様々な施設の人、いろんな人から機会を与えられてきたと感じています。
慣れないことをすれば必ずつまずきや失敗が待っています。けれどそれを恐れていては成長も回復もありません。前へ進めば以前とは違った風景が見えてくるし、上へ登ればより広い範囲が見えてきます。その時に、以前の自分が持っていた考えは、狭い範囲にしか通用しないものだったことに気づかされます。
最近はなかなか忙しくなってしまって、雑記を毎日更新することも出来ていません。雑記を書けば、なにかしらレスポンスをもらえるのは嬉しいことです。いつまで続けるかなんて何も考えていませんが、続く限りおつきあい頂ければ幸いです。
本で読んだ知識ではなく、アディクションの現場に身を置いて考えること、そしてより多くの人が回復を手にして欲しいという願い。いままでもこのふたつの原則を大事にしてきたのですが、これからもその点は変わらずにありたいと思っています。
2012年01月24日(火) 共依存について(その7) さて、ひさしぶりに長い連載?になりましたが、そろそろまとめに入りたいと思います。
元々は疑似アルコホリズム(パラ・アルコホリズム/コ・アルコホリズム)として、アルコール依存症者とその家族に限った病理を表していたものが、やがて共依存というアディクションに限らない社会学的な概念に発展する中で、実はアディクションのケアについての有効性を失っていったのではないか、という考えに至りました。
しかし、共依存概念そのものが無効なのか。ギデンズは共依存をこう定義しました。
> 共依存症者とは、生きる上での安心感を維持するために、自分が求めているものを明確にしてくれる相手を、一人ないし複数必要としている人間である。つまり、共依存症者は、相手の要求に一身を捧げていかなければ、みずからに自信を持つことができないのである。共依存的関係性は、同じような類の衝動的強迫性に活動が支配されている相手と、心理的に強く結び付いている間柄なのである。
この定義に沿って考えると、アディクションの家族は必ずしも共依存とは限らないし、共依存者が必ずしもアディクション関係者とは限らない、と考えたほうがまとまりがつくではないでしょうか。
つまり両者は独立の関係ではないか。共依存概念が「アディクションの家族に限る」という条件を捨てたときに、両者の関係を独立したものにしておけばよかったのに、共依存概念をアディクションの現場に逆輸入したのが良くなかったのじゃないかと思います。
こう考えれば、CoDAという「共依存の12ステップグループ」という、一見矛盾に満ちたグループも存在の意味が見えてくるのではないでしょうか。(うつや統合失調などアディクション以外の分野に12ステップを使う応用は結構あるから)。
結論としては、「共依存概念はアディクションとは無縁なものとして捉えたほうがスッキリするんです」というあたりでしょうか。
じゃあ、家族の回復はどうすりゃいいのか。ここで考えてみて欲しいのは、共依存概念が成立したのは1980年代です。それ以前にもアディクションの家族グループは存在しました。アラノンの成立は1951年です。実に30年以上も前から存在しています。僕の知る限り、アラノンは共依存という言葉は使っていません。であるのに、アラノンは共依存系のグループより数的に成功しています。これは家族として回復するときに、共依存概念は必ずしも必要ないってことじゃないでしょうか。そして、NAやGAなど本人のグループがAAをモデルにしてできていったように、様々な家族グループもアラノンをモデルとしていきました。
だから、共依存のステップ1を説明しろと言われたら、そりゃCoDAの扱いでしょう、ってことになるわけです。一方、依存症の家族にとってもステップ1って何ですかってことなら、とりあえず共依存という言葉は無視して、アラノンのステップを調べてみるべきだってことになります。
いろいろ長々と共依存について批判的に書いてきましたが、共依存というものはきちんと存在すると思っています。だが、共依存とアディクションの家族としての問題は分けて考えるべきだと思います。アメリカにおける一部の考え方を、無批判に翻訳紹介し、日本のアディクションの現場に放り込んだ人がいたおかげで、その後ずっと混乱が続いているように感じます。
共依存概念にこだわるよりも、むしろそれを捨てて、家族がどんな問題を抱えているか概念を再構築する時期に来ているのではないでしょうか。
少し視点を変えて、アメリカでは1980年代から、日本でも2000年を過ぎてから、ビッグブックを使った12ステップの原点回帰運動が起こりました。AAの12ステップの成立以降にいろいろ12ステップにくっついてしまった概念を脇に置き、元々12ステップがどんなものだったのかを探ることで、ステップの有効性を取り戻す動きです。これは本人側のグループの動きでした。
同じことが家族の12ステップにも必要とされているのじゃないでしょうか。つまり家族版原点回帰運動です。その中核を担えと言われても僕には荷が重いですけど。
「心の家路」10周年記念シリーズとしてはちょっとショボかったとは思いますが、ここ数年感じている共依存概念の混乱に対するアディクションの現場からの苛立ちを文章にまとめてみました。
この一連の雑記を書くにあたり、山口大学の鍋山祥子先生が公開されている論文、および葛西賢太先生の書籍『断酒が作り出す共同性』を参考にさせて頂きました。文末となりましたが感謝申し上げます。もちろんこの7回分の雑記の内容については僕の考えであり、お二人が責を負うべきものではありません。
共振〜resonance〜
http://ds0.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~nabeyama/
宗教と霊性の研究
http://ktkasai.cocolog-nifty.com/
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