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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年01月23日(月) 共依存について(その6) 共依存概念では、他者の世話をし、そこに喜びを見いだすことを病的であるとしました。
僕には、アルコール依存症者が飲んで吐いたゲロや、失禁した便を掃除することに家族が喜びを見いだしているとは到底思えません。生活を維持するために、嫌だけれどやむを得ずやっているとしか思えないのです。
酒を飲む以外のことができなくなった夫にかわって、妻が一家のことを取り仕切っていることはよくあります。ところが、夫が酒をやめ、家族が正常な常態に復していくなかで、夫が自己主張を始めると、当然そこには感情的ないざこざが発生します。こんな簡単な例でも分かるとおり、酒をやめたばかりの一家の中はある種の緊張状態にあります。
家族は本来より多くの責任や権限を任され続けています。だから、普通より指示的・支配的になるのも当然です。また酔っぱらいから理不尽な要求を突きつけられ、憤慨することも習慣づいています。だから、そんな人たちが集まった家族グループで、仲間同士の関係がぎくしゃくするのは当たり前で、衝突も起こるでしょう。そこは本人たちのグループと変わりありません。
そうなると、他者と関わることにうんざりし、人との関わりを拒否したくなるのも当然かもしれません。だから自分が自助グループを必要としていると感じても、グループの運営には関わりたくないし、関わるにしてもそこでの人間関係を最小限にし、トラブルを最小限に抑えたいという欲求が生じます。
自助グループ、少なくとも12ステップグループには二面性があります。一つはミーティングという公式の場面、もう一つはスポンサーシップや仲間づきあいという非公式な影の部分です。
当然スポンサーシップは、他者の世話をすることです。それ以外にもグループの様々な役割があり、コーヒーカップを洗うことであれ、ミーティングで使う本を管理する役目であれ、何らかの「他者への奉仕」なくして、グループは成り立たちません(そしてグループがなければ自分の回復もない)。
つまり、回復を進めるためには、他者の必要を満たす奉仕や世話焼きが欠かせないのが自助グループ(12ステップグループ)です。
しかるに、依存症本人ではない(共依存系の)グループでは、回復していない者が他者の世話をしたり、グループの役割を背負うことが共依存の症状や再発として忌避される雰囲気があるため、しばしばグループの維持すら困難になっていると聞きます。それどころか、みんな自分のこと(自分のインナーチャイルド)ばかり気にして、同じ会場にいる他者への関心すら失っているグループすらあるといいます。
そして、そうした他者への無関心と奉仕への拒絶感は、本人のグループにも確実に伝搬しています。しばらく前にAAで起きたスポンサーシップの荒廃は、こうした他者を世話することを悪とする共依存概念(もしくは共依存への誤解)の影響を受けているのではないでしょうか。
もともと12ステップには、他者や集団への奉仕を通じ他者に受容されることを願うのは、人間の根源的な欲求(本能)だとしています。つまり人が生きるために必要不可欠な行為です。
日本ではAAですら数千人という小所帯です。しかしアメリカでは、AA・NA・アラノンという大きな三つのグループがあります(いずれも数十万人規模)。この三つはいずれも、スポンサーシップが活発で、メンバー同士の交流も密です。一方、そうした他者への奉仕と接近に忌避感のある共依存系のグループは小規模なままです。対象者は共依存系のほうがずっと多いにもかかわらず(人口の97%が共依存者だというならなおさら)。
すこしうがった見方かも知れませんが、他者への世話焼きや集団への奉仕を忌避する流れが生じた背景には、それを行うだけのソーシャルスキル、ライフスキルの欠如があったのではないかと考えています。たとえば、家事の苦手な人が、家事行為の価値を貶めることによって、自分が家事に取り組まないことを正当化するように、人付き合いが苦手な人たちが、対人交流の価値を否定することを自尊心を守る手段にしたのではないかと思うのです。
(共依存概念に飛びつく人に限って、ソーシャルスキルの問題を抱えていたり、あるいは片付けがや金銭管理ができないなどの生活管理上の問題を抱えているように思うのは気のせいでしょうか?)
話を戻して、共依存概念を提唱した人たちは、社会が嗜癖している、社会が病んでいるとしました。そしてアディクションにはまる人は、そうした社会に適応したのだと捉えました。それは共依存についても同様です。だから、嗜癖的社会への過剰適応に抵抗する(他者への奉仕や対人交流の強制に対する抵抗)を身につけることによって、回復できると信じました。ただ、彼らがその手段として選んだ12ステップが、実は他者への奉仕や密な対人交流なしには維持できない文化だったことは、ある種の皮肉でもあります。
2012年01月22日(日) 共依存について(その5) 共依存概念がアディクションの問題(本人についても家族についても)の解決に役に立ってきたかどうか、さらに考えてみます。
近年SMARPPやTAMARPPという新しいアディクション治療が生まれています。これはアメリカのMATRIXをベースにしたもので、いままで僕らが慣れ親しんできたいくつかの概念を覆しています。
禁酒法が終わり、AAが始まった頃のアディクション治療施設では、家族は「回復の敵」だと見なされていました。なぜなら、施設においてアディクションの仲間と過ごしているときには回復を続けているのに、そこを退所して家に戻すとアルコールや薬が再発してしまうことが多かったからです。これを当時の人たちは、家族が悪いのだと考えました。家族にとってみれば、いわれのない非難であり屈辱ですが、これが後のイネイブリング理論へとつながっていきます。
僕は最近あちこちの施設のスタッフとおつきあいをさせて頂くようになり、多少なりとも現状を知るようになりました。施設入所中は、回復に専念できますし、つきあうのも同じアディクションの仲間だけです。しかし、家に戻ると、アディクションの問題を抱えていない一般の人との付き合いも生じますし、就労もしなければなりません。ところが、それを担うだけのソーシャルスキルやライフスキルが不足している場合が多いのです。すると生活や仕事がうまくいかず、つまずきから酒や薬へと再び走ることになります。
(こう考えると、イネイブリング理論は、施設側や治療者側が自分たちの支援不足を棚に上げて、失敗の原因を家族に押しつけるために編み出されたとも言えます)
そんなわけで、依存症者と家族を分離し、それぞれが別個に回復した後に、時間を経て家族を再統合するという手順が編み出されました。「お母さん、息子さんはうちの施設で預かって回復させます。だからその間、お母さんは○○ノンに通ってご自身の回復をしてください」みたいなセリフが吐かれるわけです。だが実際には家族を再統合するよりも、退所後も施設周辺に留まって生活するという環境調整が行われたほうが、再発防止の効果が高まります。そのほうが継続して支援を得やすいからです。
SMARPPについては講演を聴いたり資料に目を通したぐらいで、それほど詳しいわけではありませんが、これまで書いたような「家族との分離と再統合」戦略ではなく、むしろ断酒・断薬直後から積極的に家族に再発防止に関わってもらう戦略になっています。これは「家族は回復の足を引っ張る存在」という考えが否定されていると捉えて良いのではないでしょうか。
また、何度か書いているので詳しい繰り返しは避けますが、イネイブリングという手助けを止めることにより、本人がアディクションを続けられなくなり、現実に直面する「底つき」が起こり、そこから回復が始まる・・という底つき理論がありました。これも最近の新しい治療法では否定されています。
底つき理論では直面化が最も有効であり、直面することを避けているのは、本人の否認の態度だとされます。だから、イネイブリング行為をやめ、本人が問題に直面せざるを得ない環境を作り出せば、やがてその不快さが否認を上回ることを期待しています。しかし、現実にはそうならないケースが多く、深刻化しても援助を拒否し、さらに悪化していくケースがたくさんあります(むしろそのほうが多数か)。そして最後には一家離散や自殺が起こります。それを従来のやり方では、やむを得ない援助の失敗と捉えていました。
これについては、動機付け面接法(MI)が推奨されています。MIでは直面化や対決を避け、本人が問題に自ら気づくように誘導します。ここ数年MIがもてはやされているのは、過去の対決的な直面技法の有効性に多くの人が疑念を持つようになったからに他なりません。
そうなってくると、共依存概念を支えているイネイブリング、底つき、直面化の有効性も疑わしくなってきます。
2012年01月20日(金) 共依存について(その4) 共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みをさらに続けてみます。
共依存者がイネイブリングをやめれば、本人は依存を続けることができず、底つきを経て回復する。これがイネイブリング理論です。シェフはこの考えを男性優位社会に適用し、女性たちが支えているからこそ男性優位社会が存続しており、女性が支えることを拒否すれば、それは続かないと主張しました。
僕のような素人にはこれはフェミニズム的な思想に思えます。しかし、フェミニズム的観点からシェフの考えに反論も提起されています。
前にも書いたように、法律や社会制度という把握しやすい男女差別が減り、表面上の平等が実現されたいま、フェミニズムはむしろ目に見えにくい差別を扱うようになっています。そこを注意しないと表面的な議論に終わってしまいます。
フェミニズムは、何が何でも男女はまったく同じであると主張しているわけではありません。むしろ男女の性差を認めています。ただ、男と女に与えられた社会的役割(性的分業)は、前近代的な思想に汚染されているし、政治的な意図も含まれているわけで、「女性は自分を犠牲にして夫や子に尽くせ」という話を無批判に受け入れることは到底できないというわけです。
(男女の性差を認めず、画一的に性差を解体しようとするジェンダーフリー論は日本固有の一過的な政策にすぎなかったのに、しばしばフェミニズムと混同されます)。
女性は出産や育児を通じて「他者の世話をする」という歴史的な役割を負っており、それは「女性らしさ」の一部です。そしてフェミニズムは、この世話の与え手(care taker/care giver)としての女らしさを否定してはいません。(女らしさを発揮した職業が、男性職業より報酬が少なく低く扱われることは多いに問題にされる)。
しかるに共依存概念は、家族の世話をする「女性らしさ」が病気であると教え、飲んで行われた夫の暴力や虐待を免責してしまいます(夫の失態は、妻がイネイブリングを続けたからだと、責任を妻側に回してしまうから)。社会的な女性役割から離れられない家族に否定的な自己イメージをべったり貼り付けてしまいます。これはむしろ問題の解決を困難にしています。
さらには、共依存状態から脱して向かうべき正常な状態とは何か。それまで男性に支配されていた女性が、世話焼きを拒否することです。それによって一見自由を獲得するように見えますが、実は自らの女性性を否定して男性側つまり支配する側に回ることです。これは男性性こそ素晴らしいという男性優位社会を追認しているにすぎず、女性的価値や女性らしさをいっそう貶めています。
このように「世話焼き」をすることの価値観の否定は、それまでフェミニストが営々と築き上げてきた政治的成果を台無しにするものとして、批判の対象となりました。
こうしてみると、共依存概念は素人には一見フェミニズム的思想に沿ったもののように見えるのですが、それは勘違いで、むしろ反フェミニズムであることがわかります。
共依存概念は、精神科医(その多くは男性)が、治療失敗の責任を依存症者の妻(むろん女性)になすりつけるために使われたに過ぎない、という批判すら耳にします。男たちはそういうことを無邪気かつ無自覚にやってしまう、というわけです。
まだまだ続きます。
2012年01月19日(木) 共依存について(その3) 今回は共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みです。ただし、僕の関心の対象はアディクションのケアであり、社会学やフェミニズムに興味はありませんし、そんな立場から論じても恥ずかしいばかりです。したがって、共依存概念がアディクションのケアの役に立ってきたか、という一点から考えてみます。
ヘリコバクター・ピロリという菌が胃の中に住んでいると、胃潰瘍や胃ガンの原因になることが分かっています。ならば、ピロリ菌への感染が判明した段階で、抗生物質を飲んで除菌すれば胃ガンになる可能性を減らすことができます。けれど、日本ではピロリの除菌に健康保険は使えず、費用は全額自己負担になります。ピロリ菌の感染者があまりにも多いため(6割とか)、その全員の除菌費用を負担したら健康保険制度が破綻してしまうからです。
さて共依存の明確な定義はありませんが、それでもそれを病気として治療しようという試みはありました。アメリカのアディクション治療施設の中には、共依存の治療コースを設け、保険会社の支払いを取り付けたところも複数ありました。しかし、やがて保険会社が支払いを拒否するようになり、治療コースも閉じられてしまいました。その理由は前述のピロリと同じです。
なにかを病気として治療の対象にするには、それが少数に限られなくてはなりません。たとえば老眼鏡を保険で負担することはできません。
アメリカ人のクラウス(Sharon Wegscheider-Cruse)は、アルコホーリクの親や祖父母を持つ人や、結婚によってアルコホーリクと生活する人、これに加えて「感情障害的な家族に育てられた人」も含めた結果、実に人口の96%が共依存症者であるという認識を示しました。もし、人口の多くがその問題を抱えているとしたら、それを病気として保険で治療することはできません。
これは一つの大きな教訓を与えてくれます。1990年代のACブームの頃、日本人の多くはAC(アダルトチルドレン)であるという主張がなされました。それはクラウスの主張を受けてのことに違いありません。また、最近ドメスティック・バイオレンス(DV)が注目されるにあたって、「日本人の多くの家庭にDVがある」とか、「アディクションの家庭には必ずDVがある」という主張がかいま見られるようになりました。
問題が普遍的に存在しているという主張は、注目を集めるには相応しい戦略かも知れません。メディアに露出するにはセンセーショナルであるほうがいい。けれど、本当に支援や治療を必要としている人たちが、支援を得る妨げになる可能性も大です。したがって、そうした主張は厳に慎まなければならないと考えていますし、それは共依存についても言えることです。(僕はアルコール依存についても普遍的にたくさん存在するという主張はしないほうが良いと思います)。
ACブームが一過性に終わってしまったのも、この普遍化がいけなかったのだと考えています。「人は多かれ少なかれ皆ACである」ということにしてしまうと、ACは治療や回復の対象ではなくなってしまいます。こうして本当に回復を必要としているアダルト・チルドレンのための支援体制が作られないままにブームが過ぎてしまいました。それで得をしたのは、ACという言葉で注目を集めた一部の医者や支援者だけだったのではないかと思います。
共依存――この場合の共依存は社会に普遍的なものではなく、純粋にアディクションの家族の問題として――共依存は病気だと言いたいわけではありません。むしろ病気という概念は相応しくないでしょう。しかし、アディクションの問題を抱えた家族が何らかの支援を必要としていることは確かです。その支援体制を作るためには公的な資金が投入される必要があります。公的資金(たとえば税金)といえども無尽蔵にあるわけではありませんから、常に対象を限定しなければなりません。
共依存概念をアディクションの家族に限定せず、社会全体に拡大したことは、共依存を治療なり支援する対象から外す結果を生んでしまいました。共依存の社会学化の弊害とも言えます。社会の構造を論じることが、その中で病んだ個人をケアすることにつながっていません。
ただ僕は社会学が共依存を取り扱ったことが悪いとは言いません。拡大した共依存概念をアディクションの現場に無批判に逆輸入したのがいけなかったのだと言いたいのです。
さらに続きます。
2012年01月18日(水) 共依存について(その2) さて、この文章は、疑似アルコホリズム概念が共依存概念に発展する様を追うことで、共依存を理解する試みです。論文的な論考をするのではなく、僕が学んでいく過程を少々の編集のみで垂れ流しているだけです。
アメリカではアディクションという言葉はアルコールと薬物のみを示すのだそうです。ギャンブル・買い物・セックスなどはアディクションのカテゴリに入れられていません。それはおそらく保険会社が、アルコール・薬物以外の依存症の治療に金を払いたがらないからでしょう。(アメリカの有名な依存症治療施設は一ヶ月百数十万円と高価ですが、保険でカバーできますし、逆に保険で払える人しか相手にしていないのだと思われます)。
しかし、金が絡む話を除けば、アディクション概念は着実にアルコール・薬物以外にも広がっていきました。(DSM-5ではギャンブル依存が採用され、ネット依存も候補に挙がっています)。
ここではアン・ウィルソン・シェフの『嗜癖する社会』という有名な本の内容を取り上げます。シェフはまずアディクションを2種類に分類しました。
・物質嗜癖(アルコール・ドラッグ・ニコチン・カフェイン・食べ物)
・プロセス嗜癖(お金を貯める・ギャンブル・セックス・仕事・宗教・心配)
さらにシェフは三番目のジャンルとして共依存を提唱していますが、前者二つと同列に論じてはいません。つまりアディクションを物質依存・プロセス依存・共依存(関係性依存)という三つに分類するのは、シェフの考えに従えば正しくないことになります。
共依存概念を学んでいくときにフェミニズムのことは避けて通れません。フェミニズムは女性に対する差別をなくし、抑圧されていた女性の権利を拡大していこうという思想・運動です。
まず最初に、19世紀から20世紀前半に、女性の投票権や財産権などの法的権利に関わる運動がありました。そう、昔は政治に参加できるのは男性だけで、女性は財産を持つことすら許されなかったのです。権利獲得が実現されてフェミニズムはいったん下火になるのですが、第二次大戦後になって女性が外で働く権利や男女の賃金格差など、単に「女性が参加する権利」だけではなく、男女格差の解消を求めた運動がありました。ウーマン・リブ運動を憶えている人もいるでしょうか。さらに1970年代以降は、例えば男女の昇進格差(ガラスの天井)のように目に見えにくい、意識しづらい男女格差の問題が取り上げられるようになり、運動が多様化して現在に至っています。
シェフは前著で白人男性システム・反応女性システムという概念を提唱しました。世の中(この場合はアメリカ社会)は白人男性システムによって支配されている。白人男性たちは名声と権力を求めてパワーゲームに耽り、他者を支配することに熱中している。彼らはその熱中によって自らの感情を抑圧した病的な状態に陥っている。また、そうした男性たちを支えることを自らの役目として喜びを感じる女性たちが反応女性システムを作っており、この相補的な二つのシステムによって病んだ社会が維持されている、というのです。
この状態を脱するには、まず女性たちが従属的な立場に甘んじず、男性を支えることを拒否すればいい。女性による支えを失ってしまえば、白人男性システムは維持できなくなり、男たちも本来の自分の人生について考えざるを得なくなる・・。という理屈です。
つまりカウンセラーだったシェフは、依存症に関するイネイブリング理論を、男性優位の社会とそれを支える女性たちの構図に当てはめて、女性たちが男性を支えることを止めることが社会の変革につながると主張しました。
さらに『嗜癖する社会』では、嗜癖システムという言葉を用い、嗜癖者(依存症者)の行動様式は、白人男性システムのそれと同じだと主張しています。つまり嗜癖システム=男性優位社会であり、嗜癖者の周りでは嗜癖行為を支えている共依存者(おもに女性)がイネイブリング行為を止めれば、依存症者は行き詰まって、本来の生き方に戻っていくはずだ、という理屈です。
シェフは依存症者と家族のイネイブラーの関係は、社会の縮図であると考えました。疑似アルコホリズムの時代には、依存症者本人が一次的に病んでおり、その影響を受けて家族が二次的に病むという構図でした。これが共依存概念になると、まず社会そのものが嗜癖的かつ共依存的であり(これが一次的)、その中に生きる人が影響を受けて物質嗜癖・プロセス嗜癖を二次的に発症する、というコペルニクス的発想転換が起きました。
また、それまで依存症者を抱える一家の病気としての概念だったアディクションが、社会全体の問題として社会学の対象となっていきました。そんなわけで、現在共依存という名目で出版される本を探すと、それを個人の問題としてではなく、社会の問題として論じているものが目立ってくるわけです。
さて、次回は、こうして成立した共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みです。
2012年01月17日(火) 共依存について(その1) こんな質問をいただきました。
「共依存のステップ1の無力って、どう説明すれば分かりやすいのでしょう?」
依存症の世界に首をつっこんで以来、共依存は依存症者の家族がなるものだと聞かされてきました。僕自身は依存症の本人で、本人用のAAというグループに属しているので、家族のことについては強い関心を持っていませんでした。もちろん相談を受けるなど家族への対応もしていますが、その回復過程については家族グループにお任せしていました。餅は餅屋であり、本人が家族のプログラムに手を出すのは避けたほうが良いという判断です(逆も同様)。
ところがひとたびAAを離れて、12ステップ全般の話になると、とたんに「家族の無力ってどういうことか」という質問が投げかけられてきます。その質問に答えられる人がたくさんいたら、僕のところにお鉢が回ってくるはずがありません。どうやら、日本では依存症の本人への支援はそれなりに充実してきたとしても、家族への支援はまだまだなのではないか、と思うようになりました。そうなると、僕も少しは勉強しておかなければなりません。
さて、この「分かりやすい説明」という表現には背景があります。
僕自身アルコホーリクとしてAAに来て、ミーティングに参加しながら「自分はアルコールに負けたな」という感じを抱いていました。アルコールに対して無力を感じていました。しかし、無力感を持っていることと無力を理解し認めていること、この二つの間には距離があります(雲泥の差と言っても良い)。ところが、アルコールに対する無力とは何かを、当時の僕に説明してくれるAAメンバーはいませんでした。
もちろんビッグブックには無力の説明がきちんとありますが、(残念なことに)ビッグブックは決して分かりやすい教科書ではありません。
その後ずいぶん経ってたどりついたのが、Joe & Charlieであり、この二人が書いた "A Program For You" というステップの解説本でした。最近になって日本語訳が出ています。
「プログラム・フォー・ユー」
http://www.ieji.org/bbs/bbs.cgi?mode=view&th=6202
この本には無力の説明がたくさんページを割いて書かれています。それを読んで僕は「これは自分に当てはまる」と納得しました。この「納得できる分かりやすい説明」が求められているわけです。ジョーの他の著作、緑本(「ビッグブックのスポンサーシップ」)はスポンサー向けの本なので無力についての説明は詳しくありませんし、赤本(「回復のステップ」)にいたってはその説明はざっくり省かれています。
本人の無力と家族の無力は構造が違うのかもしれません。そして家族向けの「分かりやすい説明」というか納得できる説明がないからこそ、質問が発せられるのでしょう。
共依存の無力について知るには、まず共依存とは何かを知らなくてはなりません。というわけで、それについて調べてみることにしました。
まず共依存概念が成立するより前に、イネーブラー概念がありました。イネーブラーとは「可能にする人」という意味です。アルコホーリクは酩酊するにも時間を費やしますし、そこから離脱する(酔いが抜ける)にも時間がかかります。酒に多くの時間を費やすために、本来取るべき責任を放り出しています。その責任を肩代わりしたり、また本人の起こしたトラブルを後始末してくれる家族をイネーブラーと呼びました。そして、イネーブラーの存在が、飲酒の継続を可能にし、本人が問題に「直面」する邪魔をしているという説です。
イネーブラーの存在が本人の回復の妨げになるのなら、やめるように家族を教育すれば良いわけです。ところが、アルコホーリクの奥さんが、飲みながら働き続けるダンナの収入を必要としているなら、手助けをやめれば一家が経済的に困窮してしまいます。また、イネイブリングをやめたとて、すぐに本人が回復できるわけでもありません。さらには、家族の行動の中で病的なイネイブリングと健康な家事労働を簡単に区別することもできません。このようにイネイブリング理論は実はアディクションの現場ではそれほど役に立ってくれません。少なくとも、アディクションの問題はイネイブリング理論一本槍で解決できるほど生やさしいものではないと言えます。
1970年代に、コ・アルコホリズムやパラ・アルコホリズムという概念が成立しました。これはアルコール依存症(アルコホリズム)にかかった人と一緒に暮らしているせいで、家族も依存症本人と同様の考え方や行動が身に付いてしまう、つまり疑似的な依存症になってしまう、という考え方です。アダルト・チルドレンという概念もここで同時に成立しました。
本人がアルコールという毒に中(あた)ってアルコール中毒(=依存症)になるのならば、家族も依存症者という毒に中って中毒の症状が出て不思議ではありません。さながら壊れた原発が放射能を振りまいて被曝した人を具合悪くしていくように、飲み続ける(あるいは断酒しても未回復の)本人の振りまく毒によって家族が病んでしまうのです。「家族が疑似アルコホリズムになって、当人同様の行動をする」というこの考えは、現在のACAのプログラムにそのまま受け継がれています(アルコホーリクのほうのACAね)。
このコ・アルコホリズム/パラ・アルコホリズムという概念が、1980年代に「コ・デペンデンシ=共依存」という概念に発展するのですが、その過程で本質的な変化がいろいろ起きています。共依存概念を理解するには、その部分を知る必要があるのじゃないか・・・というわけで、次回に続きます。
2012年01月10日(火) 薬物依存症者のアルコール摂取 アディクションという観点から見たとき、アルコールとその他の薬物に違いはありません。なにしろ、エタノール(エチル・アルコール)も「薬物」の一種なのですから。
ではなぜアルコール依存症のグループ(AAとか)と、薬物依存症のグループ(NAなど)が別になっているのか。
アメリカにおけるアディクション治療は、禁酒法(Prohibition Law、1919〜1933年)以降に発展しました。この時代は麻薬の取り締まりが強化、厳罰化されていった時代でもあります。麻薬が止められない患者が医師の管理の下に少量の麻薬を使用する「維持療法」というものがあり、当時これを支持する医師も多かったのですが、厳罰化のあおりをくらって禁止されてしまいました。麻薬中毒者は治療を受けられずに刑罰を受け、一方アルコールへの禁止は弱まりアル中は自由に飲んでいました。
アルコールは社会に受け入れられ、麻薬は禁止されていた。この違いがアルコール依存と麻薬依存を分けることになりました。
世界的に見ると、どの薬物が許容され、どの薬物が禁止されるかは、国によって違います。イスラム教文化圏では飲酒は悪とされています。日本では大麻(マリファナ)は禁止されていますが、公然と販売されている国もあります(これもイスラム圏では禁止されており厳罰の対象)。
法律で禁止されているかどうかは、実は大した違いではありません。「俺はヤク中とは違う」と言っているアル中さんも、もし日本でアルコールが禁じられ、ハシシュが許容されていたら、立派な薬物乱用者になっていたことでしょう。
アメリカの治療施設では、アルコールも薬物も区別していません。区別する必要がないからです。
しかしビギナーにとっては、この違いは大きな違いです。アルコールを摂取した経験談と、覚醒剤を摂取した経験談には、表面的が違いがずいぶんあります。この違いに注目してしまうと、共感を得ることができません。ビギナーがやってきて、会場にいる他の人と自分が同じ問題を抱える「仲間」であると感じられなければ、その人はグループに定着できず、助けを得られないでしょう。(表面上の違いにとらわれず、共通の本質に気づくためにはビギナーの域を脱している必要があります)。
アルコールと薬物のグループが別にできたのは、ビギナーのために良かったと言えます。
薬物のグループというとNA(Narcotics Anonymous)が有名です。この Narcotics という言葉は麻薬という意味です。つまりアヘンを元に作られるモルヒネ、ヘロイン、コデインのことです。これはアルコールと同じダウナー(鎮静効果のある薬)です。
日本では薬物のグループが事実上NAしかないので、様々な薬物の人がすべてNAに集まるのですが、非合法薬物の筆頭が覚醒剤であるために、日本のNAは覚醒剤のグループといっても良いぐらいです。つまりアッパー(覚醒効果のある薬)のグループです。
アメリカでは薬物の種類ごとにグループが分かれています。NAのほかに、コカインの人はコカイン・アノニマス(CA)、大麻の人はマリファナ・アノニマス(MA)、処方薬の人はピルズ・アノニマス(PA)といった具合です。当然の事ながら、「コカイン依存のグループだから、ヘロインやるのはオッケー」ということはありません。グループは分かれていても、薬物という点では共通性があります。
余談になりますが、アメリカのAAとNAの親和性が高いのは同じダウナーのグループだからであり、日本のAAとNAの雰囲気が違うのはダウナーとアッパーの違いだという説があります。
さてさて、日本においてアルコール依存症になった人が、酒をやめて他の薬物に手を出すことはあまり心配されていません。それはヘロインやマリファナや覚醒剤が法律で禁止されており、入手性も悪いからです。(処方薬依存の問題はちょっと脇に置きます)。
逆に、薬物依存症になった人が、薬はやめたもののアルコールに手を出すことはどうでしょうか。何といってもアルコールは合法薬物であり、コンビニで買えるほど入手性良好です。そして、この問題はほとんど啓発されていません。薬物乱用で学校を中退した若者を引き取った大人が、一緒になってがんがん仕事をさせ、一緒にがんがん酒を飲んだりします(そして薬物が再発したり、今度はアル中になったりする)。
薬物依存症者にとってのアルコールの危険性はもっと強調されねばなりません。
NAのパンフレット「だれが、なにを、なぜ、どのように」に、こんな記述があります。
http://www.na.org/?ID=ips-jp-index
> アルコールは薬物ではないという考えは、非常に多くのアディクトを逆戻りに至らしめた。NAに来るまで、多くの人たちはアルコールは別のものだと思っていた。しかし、これはまちがいである。アルコールも薬物なのだ。私たちはアディクションという病気をもつ人間であり、回復のためにはいかなる薬物からも遠ざかっていなければならないのである。
ダルクのような薬物の施設では、施設利用者(つまり薬物依存症者)にアルコールを飲ませないことは徹底しています。しかし、それ以外のところではどうでしょう。覚醒剤依存の息子や娘を持つ親が、アルコールなら良いではないかと酒を飲ませた話はいくらでも聞きます。アディクションの観点ではなく、合法・非合法で判断してしまうミスです。
僕には薬物のスポンシーもいます。僕は彼が薬物だけでなく、アルコールの問題も抱えるまで、彼を手助けすることができませんでした。なぜなら、アルコールと薬は違うと「僕も」思っていたために、彼の飲酒を制止できなかったからです。彼は酒を飲み始めると(時間は長短あるもの)やがて薬も再発するというパターンを繰り返しました。飲酒は薬物再発の前駆症状であり、飲酒した時点で薬物もスリップとするべきでした。今では彼も回復していますが、若い時期の数年間を無駄にしたのには、僕の未熟さにも原因があります。忸怩たる思いがします。
ベンゾジアゼピン系の抗不安剤が依存を形成しやすいことは以前に書きました。しかし、処方薬よりアルコールのほうがより危険な存在です。一つの薬物の依存症になった人は、別の薬物の依存症にもなりやすく、すぐに多剤依存症へと発展してしまいます。一般の人々にとってアルコールはそれほど危険がないにしても、薬物依存症者にとっては再発の対象です。薬物の種類ごとにグループが分かれているのは、「俺はAという薬物の依存症だから、Bという薬物ならオッケーだ」と言わせるためではありません。
「薬物依存症は病気である」、そう捉えるのなら、病気としてアルコールと薬物の共通性に気づいて下さい。決して合法・非合法の問題にすり替えることのないように願いたいものです。どんな薬物を使ってきたのであれ、薬物依存症者がアルコールを飲むのは再発です。処方薬の取り扱いが難しいのは承知しています。なぜなら必要があって処方薬を飲んでいる人がいる以上、ゼロにすることはできないからです。しかし、酒を飲まなくても十分社会生活を送れることは、多くの回復したアル中が実証しています。その点、飲酒の可否について判断に悩む必要はありません。
もう一度ハッキリ言いましょう。どんな薬物を使ってきたのであれ、薬物依存症者がアルコールを飲むのは薬物依存症の再発です。
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