心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年08月18日(木) ACのステップについて(その2)

ところで、あるギャンブルの人が、GAを加害者の集まり、ギャマノンを被害者の集まりと呼びました。あまりそういう概念にとらわれて欲しくはありませんが、確かにそういう側面もあります。

アルコールについて言えば「酒害者」という言葉があります。酒の害を受けた人という意味です。その意味では、アルコホーリク本人も家族も被害者です。「あなたがこうなってしまった原因は何ですか?」と聞けば、酒のせいですと答える人は少なくないでしょう。もちろんそれは表面的な問題に過ぎないのですが、それでも、それをしっかりと正面から捉えることが必要です。

あるACの人に、「あなたがこうなってしまった原因は何ですか?」と尋ねたところ、親も悪いが自分にも原因がある・・・と口を濁していました。自分にも責任があるとか、ごにょごにょ言わなくていいのです。アル中にとって、酒が加害者であり悪であるように、ACにとっては親が加害者であり悪である、と明確に規定したって構わないのです。

しかし、被害者であることは「だから私は何もしなくて良い」という免責の理由にはなりません。回復というのは被害者の側が自分で行動しなくては得られないものなのです。

ところで、アルコホーリク本人は、酒の被害者であるとともに、家族にとっては加害者である点に注目して下さい。「被害者が加害者になる」という構図が成立しています。被害者だからと言って、他の人に害を与えることは正当化されません。本人は酒を飲んで周囲に迷惑をかけてきたことに対し、いつかは責任を取らねばなりません。しかし、AAでは(ということは似たような他のグループでも)、その事実に対してすぐに向き合えと言うのではなく、いったんそれは棚上げして、ともかく断酒を継続させ回復の下地を作ることに集中させる仕組みになっています。(そこが自己啓発セミナーなどと違うところです)。やがて、ステップ8・9で、自分が他者に与えた傷と直面することになります。(ここらへんは葛西賢太先生の『断酒か作り出す共同性』という本を参照)。

(話は逸れるけれど、最近の自助グループで12ステップの力が弱まっているのは、この一時的な免責をずっと保っていたいという意識の表れでしょうか。そういえば竹内先生は、断酒会が酒害者という言葉を使うことにクギをさしていらした。これも過度の免責を戒めるゆえでしょうか)。

アル中本人は、棚卸しをするまで、自分の生きづらさの本質が「自分が他者を傷つける傾向があるため」つまり言葉を変えれば加害者性にあるとは気づいていません。それどころか「自分は被害者だ」と主張するのに熱心である場合が多いのです。(仕事がうまくいかないのは上司が悪いし、子供がなつかないのは奥さんが子供に悪口を吹き込んだからである・・と言った具合)。

12ステップに加害者性という言葉は似合いませんが、説明のためにあえて書けば、回復とは自分の加害者性に aware であろうとする姿勢です。

アル中の周りの人はこう言いたいわけです。「君が被害者であることは分かったよ。大変だったね。でも、その話を続ける前に、君はいま僕の足を踏んでいるから、まずその足をどけてくれたまえ」

話をACに戻します。ACがACたる発端は、親のそうした振る舞いに被曝したからです。そういう意味では被害者です(アル中が酒の被害者であるのと同じ意味で)。しかしながら、大人となった現在の「生きづらさ」の本質は「自分が他者を傷つける傾向があるため」つまり加害者性にあります。「被害者が加害者になる」という構図がACの場合にも成立しています。被害者としての癒しを求めていたら回復はないし、12ステップは回復のためのものなのですから。

こうしてみると、ステップによってどんな成果が得られるか、ひと言で表すと、それは「社会性」という言葉に突き詰められるのかも知れません。ステップを11まで経験すると、スピリチュアルな目覚めを経験するとされています。あるアメリカの精神科医は、スピリチャリティを周囲の人々や社会、自然との一体感と呼びました。スピリチャリティと社会性には通じるところがありそうです。

次回は被害者性のケアについて

(続く)


2011年08月17日(水) ACのステップについて(その1)

福岡の「12ステップを学ぶ集い」でファシリテーターをやらせてもらいました。
ACの人たちの関心が高く、ひょっとすると参加者の半分以上はACのグループの人たちだったかもしれません。ACODAの本を持ってきている人も、水色の表紙の12ステップ本を使う日本のACAの方もいらしてました。また、ビッグ・レッド・ブックを使っているACAのグループの人もいましたし、はたまた回復研(つまりジョーのステップ)のプログラムをやっている人もいました。

少々意外に感じたのは、「同じ12ステップであっても、アルコホーリク本人とACのやるステップは違うのではないか?」という前提で考えている人が多かったことです。同じ12ステップなのに「違うこと」をやらねばならない・・というのは誤解です(もちろん)。

ただもちろん、違いもあります。AAのステップ1はアルコールに対する無力を認めるステップです。そのために、シルクワース博士による「身体のアレルギー(渇望)」と「精神的とらわれ(強迫観念)」の概念を長々説明せねばなりません。この身体と精神のふたつの病気の概念は、アルコール以外にも薬物やギャンブルなどのアディクションにはうまく当てはまります。しかし、家族(ACを含む)の人の問題を説明するためにはあまり役に立ちません。

ステップ1は「問題」を知るステップだと言います。自分が何かの問題を抱えていることを知った人は、できればその問題を解決したいと願うものであり、それがステップに取り組む意欲を生みます。アルコホーリクの場合には、「このままではまた酒を飲んでしまうし、飲み出したらやがて自分は破滅だ」ということが問題です。

しかしステップを先に進むと、この「問題」は実は表面的なことに過ぎないことが分かってきます。

「私たちにとって飲むことは問題の一つの症候にすぎなかった」(p.92)

正常で正気の人間が、破滅へ向かう酒をまた飲み始めるわけがありません。アルコホーリクは飲んでいないときも問題を抱えており、それが「最初の一杯」を飲む狂気を呼び起こします。つまり飲酒は表面的な問題に過ぎず、内部には本質的な問題を抱えているのです。それは酒を飲んでいるときだけでなく、やめているときも存在しています。「では本質的な問題とは何か?」をつまびらかにするのがステップ3です。そこで私たちは、自分が「何もかも取り仕切りたがる役者」であることを知ります。

そして、この本質的な問題はアディクト本人・家族、もちろんACにも共通している問題です。

ACにとっても表面的な問題というのは存在します。もともとアダルト・チルドレンという概念は1970年代にアメリカのアルコホーリクの子供たちの観察によって生まれました。ACA(Adult Children of Alcoholics)の創始者となった Tonny A. は、ACの特徴を14の項目にまとめています。

洗濯物リスト アダルトチャイルドの14の特徴
http://www4.hp-ez.com/hp/acafukuoka/page4/bid-83311

洗濯物リストってのはチェックリストという意味ね。この13番目と14番目にパラ・アルコホリックという言葉が出てきます。日本語に訳すなら疑似アルコホリックでしょうか。AC自身が酒を飲む人でなくても、アルコホーリクの家庭で育った影響を受けて、アルコホーリクと同じ性質を抱えることになってしまった・・・というのがACの問題です。

酒をやめただけで回復していないアルコホーリクは「困ったちゃん」であり、周囲の人間にとっては頭痛のタネです。同じようにACも(いったんアル中になって酒をやめるという過程は経ていないものの)酒をやめただけで回復していないアル中と同じで、困ったちゃんであり、周囲にとって頭痛のタネなのです。

ACの概念が広がって行くにつれ、アルコホーリックの成人した子供(ACoA)に限らず、親が依存症でない人の中にも同じ傾向を抱えている人が少なからずいることが分かってきました。そんな彼らは「機能不全家族で育って成人した子供たち(ACoD)」と呼ばれ、ACoAと同じくACと呼ばれるようになりました。

ところで、日本のACAやACODAでも、同じくACの特徴を説明するリストを使っており、明らかにトニーのものをベースにしています。

ACA:問題
http://aca-japan.org/docs/problem.html

ACODA:機能不全家庭で育ったことにより共通して持つようになったと思われる特徴
http://www.acoda.org/problem.htm

ところが日本のACのリストは13個、ACODAのリストは12個しかありません。数が少ないのは、最後の一つか二つ、パラ・アルコホーリックであるという説明を抜いているからです。なぜその説明を欠落させたのか意図は知りません。おそらくは疑似アルコホーリクという説明が、親がアル中でない人にはかえって分かりにくくなったからではないかと思います。

しかしながら、この「AC=疑似アル中」という説明の欠落が、アルコホーリク本人とACの抱える問題が違っているという誤解を生み、さらにはステップの中身も違ってくる、つまり回復の道筋まで違ってくるという誤解まで生んでいったのではないかと思います。

その点では、アメリカのACAがビッグ・レッド・ブック(BRB)というリファレンスとともに輸入されてきたのは歓迎すべき事です。

書き足しておくと、ビッグブックには「私たちが抱えている人生の問題」として、
・私たちはいつも人間関係の問題をかかえていた。
・感情を思うようにできなかった。
・みじめさと落ち込みの餌食になっていた。
・生計を立てられなくなっていた。
・自分は役に立たない人間だと感じていた。
・恐れと不安でいっぱいだった。
・不幸だった。
・他の人が助けを必要とする時に助けになれなかった。
と書かれています(p.76)。これもアルコールではありませんが表面に表れた「症候」であり、多くがACの洗濯物リストと共通します。

(続くよ)


2011年08月08日(月) 自尊感情・自己評価について(その3)

近藤卓先生は、基本的自尊感情(basic self-esteem)を育てるのは、

「五感を通じた他者との体験の共有」

であると述べています。

基本的自尊感情は子供の頃に育ちます。家族と一緒に同じものを食べ、一緒に眠り、同じ風呂に入り、一緒にテレビを見て同じ事で笑ったり怒ったりする・・・。こうした体験の共有が「生まれてきて良かった」「自分は大切な存在だ」「自分は自分のままでいい」という基本的自尊感情を育てるとともに、自分を変えていく努力もできる存在に育ててくれます。

となると、子供の誕生日に仕事で忙しい父親からのプレゼントだけが届くより、帰ってきた父親が一緒にケーキを食べてくれることがうれしいのは、同じ体験を共有しているからです。つまり「トゥギャザー」であるからです。そのように心理的に親子が不可分であったものが、成長すれば、物理的には together でなくてもかまわなくなります。離れていても精神的に together でいられるわけです。

また、子供たちは同じ年頃の子供たちと一緒にいることでも基本的自尊感情を育てます。年齢に応じた喜びもあれば悩みも生じます。それを同じ年頃の子供たちと共有することによって、基本的自尊感情が育っていくと説明されています。

近藤先生は子供の心理を扱ってらっしゃるようなので、大人になっちゃった人が基本的自尊感情を育てるにはどうすれば良いかという話は見あたらないのですが、(僕が発達障害について学んだ経験が生きるとすれば)子供に通用するやり方は大人にも通用します。

例えば僕らAAメンバーは、ミーティングで過去の飲酒体験と回復の経験を他のメンバーとシェアしています。これをひたすらやればいいわけです。過去に戻って一緒に再体験することはできないけれど、皆に共通のものはあります。物理的にトゥギャザーな空間で、経験を共有することが、基本的自尊感情を育てうるはずです。また、アフター・ミーティングで一緒に食事したり、一緒に病院メッセージやサービス活動をすることが、その人の自尊感情を高めるという考え方も当を得たものでしょう。

自助グループの定義の中に、「直接対面」とか「少人数」という条件が入っていることもこれで納得できます。ネットにおける自助グループが成立・維持されづらい原因もこのあたりにあるのでしょう。

基本的自尊感情が育てばそれで良し、とは僕は思いません。それだけではその人に変化(回復)は生じないでしょう。回復のためには行動する努力が要ります。しかし、基本的自尊感情は努力ができるようにその人の準備を整えてくれるでしょう。

棚卸し(ステップ4・5)では厳しい体験をせざるを得ません。自分の落ち度(誤り)を見つめることになるからです。それは褒められる体験とは逆の効果があるでしょう。つまり二階部分(社会的自尊感情)の泡を吹き飛ばす効果です。僕らは自分に対して持っていた幻想を吹き飛ばされます。多くの人が棚卸しを忌避するのは、それを予感してのことではないでしょうか。実際にはそんな惨めったらし経験にはなり得ない(つまりその予感は間違っている)のですが、でもやはり偽りの自信は失われます。

泡が吹き飛んでも大丈夫なためには、一階部分の基本的自尊感情がしっかりしていなければなりません。そのためには、しっかりAAミーティングに出席して、仲間と過去と現在の体験を五感で共有する経験を持ち、基本的自尊感情を育てなければなりません。それをせずに棚卸しに向かうと、痛みを避け、表面的な分析しかできないのではないかと思います。つまり自省という作業は「仲間とともにある」ことによって実現可能になるのです。

ジョー・マキューは、12ステップには勢いがあり、短期間で次々と進めていくべきだと主張しました。その考え方もよく分かります。しかし、僕はスポンシーが十分な回数ミーティングに出席し、グループの中にとけ込んで、今後泡が吹き飛ぶ体験をしても乗り越えられるなるまで待ってから棚卸しに取りかかったほうが、トラブルが少ないと思っています。

ミーティングと共同体はソブラエティをサポート(支え)てくれ、12ステップは変化(回復)をもたらしてくれる・・・まさにそうだと思います。

ビッグブックには自尊感情の育て方は直接書いてないかも知れません。しかし、これを書いた人たちは自分の周りにソブラエティを持った人たちの共同体を育てることを最後に提案しています。僕らはその共同体の中で、仲間たちと様々な体験を共有していくでしょう。それこそが変化(回復)へのエネルギーを与えてくれます。

(この項、おしまい)


2011年08月06日(土) 自尊感情・自己評価について(その2)

自己評価が低いことは辛いことです。そこで私たちは手っ取り早く楽になろうと、酒や薬に頼ったり、ギャンブルやセックスにふけったり、他者を支配しコントロールすることに熱心になりました。なぜならそれは私たちに一時的な万能感を与えてくれ、自信を与えてくれ、自己評価が高まった「つもりになれた」からです。

依存対象を断つということは、そうした解決手段を失うことでもあります。そのままでは、再発しやすいし、別のジャンルの依存症に移行しやすいままです。

では、どうやったら自己評価を高めることができるのか。

ここまで自己評価という言葉を使ってきました。それは self-esteem に対してビッグブックの新訳が「自己評価」という訳語をあてているからです。しかし、評価という言葉は evaluate (価値を見極める)という意味と取り違えやすいので、ここからは「自尊感情」という言葉を使うことにします。



この図は、リンク集に載せている共依存おやじさんのブログの記事に掲載されていたものです。
元記事はこちら。
http://ranran-panda.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-02c1.html

自尊感情(自己評価)というのは、実は二階建てになっていると考えられます。(この考え方は心理学者の近藤卓という人のものだと思います)。

一階部分が「基本的自尊感情」(basic self-esteem)です。これは「自分には価値がある」とか「このままの自分でいい」とか「自分は大切な存在だ」という感情です。

二階部分が「社会的自尊感情」(social self-esteem)です。これは「自分にもできることがある」とか「人より優れている」という感情です。

二階部分は、人に褒められたり認められたりすることによって成長します。良い学校を出たとか、良い仕事をしているとか、有名であるとか、知り合いがたくさんいるとか・・これらは二階部分を膨らませてくれます。成功とか他者からのプラスの評価によって高まる部分です。

上の図では、一階部分をビールに、二階部分をビールの泡に例えています。(アル中相手の話でビールを例に使うのは好ましくないとすれば、一階部分がゴンドラ、二階部分が気球の例えもあります)。自尊感情の高い低いは人によって違いますが、それはビールの泡の表面の高さです。表面の高さが同じでも、中身はほとんどビールの人もいれば、泡ばっかりの人もおり、ビールと泡が半々という人もいるでしょう。

ところで、二階部分(ビールの泡の部分)は、失敗や挫折によって失われやすいものです。泡が吹き飛んでみたらビールが底のほうにちょっとあるだけだった・・というアル中さんも少なくありません。真面目な子供時代を過ごした人たちです。努力によって、他者から分かりやすいプラスの評価を獲得してきた人たちです。しかし、アルコールによる挫折によって社会的立場を失ってしまうと、もう一度努力して再獲得する気力が生まれてきません。なぜなら、その人に残されたのは底にあるちょっぴりのビールに似たわずかな基本的自尊感情だけだからです。厭世的な無気力や抑うつに支配されており、「今さら努力して何になるのだ」と言いたげです。

こういう人がやる気を出すと、手っ取り早く人に認められ、褒められることばかり目指してしまいます。(いるよね、自助グループにもそういう人)。12の伝統の言う無名性の良いところは、そうした誤った自尊心の回復手段をいさめてくれることです。

逆に、ビールが多く、泡が少ない人は、今の自分に満足しすぎているので、努力できません。進歩がない人です。やはり、一階と二階部分のバランスが取れていることが大切です。

よく学校教育で、できの悪い子供でも「その子の良いところを見つけて褒めてあげる」と良いと言います。これによって伸びるのは二階部分です。もともと学校における情緒教育が社会的自尊感情を延ばすことを目的としているから、当然のことだとされます。

「褒めて伸ばす」というやり方が基本的自尊感情を育てないことに注目しなければなりません。高機能自閉症者テンプル・グランディンの本に、最近の学校の先生は生徒を褒めすぎるし、会社の上司は部下を褒めすぎると指摘していました。結果として

「褒められなければ動けない」

という人たちが増えてしまったと。褒めることは二階部分を伸ばすけれど、それはビールの泡のように吹き飛びやすい。結果として、常に褒められなければ落ち込みやすい努力できない人になってしまうわけです。いつも褒めて、大事に扱ってやらないと仕事しない部下ばっかりになってしまったら、面倒すぎてやってられません。やはり、世間から評価されようとされまいと、こつこつ努力できる人でなければ。

というわけで、二階部分は努力して他者からの評価を得ることで伸ばすことができることがわかりました。でも、一階部分(基本的自尊感情)の話は出てきていません。

逆境にあってめげず、自分の努力が実を結ばず無視されても腐ることなく続けていける強さは、いったいどこから手に入るのでしょうか。

(つづく)


2011年08月04日(木) 自尊感情・自己評価について(その1)

esteem という英単語は「尊重する、高く評価する」という意味です。

the esteem of our friends and business associates は「友人や同僚からの信用」と訳されています(12&12 p.120)。

セルフ・エスティーム(self-esteem)は、自分で自分をどう捉えているかです。ビッグブックのピーター訳版では「自尊心」と訳されていますが、新訳では「自己評価」となっているので、いまビッグブックのやり方をしている人たちは、もっぱら「自己評価」という言葉を使っています。

自己評価の低さは「自信のなさ」と言っても良いでしょう。ただし、それがいつも自信のない態度として表れるとは限りません。自己評価の低い人は異性と付き合おうとしないし、せっかく異性から誘われても断ってしまいます(自分に自信がないから)。

しかし、性的に活発な人の自己評価が高いとも言えません。浮気ばかりするダンナは、自己評価が低い(特に男性性に自信がない)からこそ、異性交遊によって手っ取り早く自己評価を高めようとしているだけだったりします。このように自信満々である人の自己評価が高いとは限らず、その態度は自信のなさの裏返しであったりします。(虚勢を張るというヤツで、しばしば依存症者はこれをやる)。

自分自身のことを正確に捉えるのは難しいことです。時には高く捉えすぎて自信過剰になり、また低く捉えて自己憐憫にはまります。表面で意識される自己評価がどうであれ、奥深いところでは人間は正直なものであり、それがその人の感じ方や行動様式として表れてきます。

もしあなたが、自分のことを傷つきやすい繊細なタイプだと感じていたり、日常生活の中でイライラさせられることが多いのなら、自己評価が低いと思って間違いがありません。

自己評価の低い人は、恨みや恐れを抱きやすい人であり、罪悪感や自己憐憫に支配されやすい人です(人との境界線が曖昧になりやすい人と言っても良い)。自己評価の低い人は自ら行動する人ではなく、他者の言葉や行動に「反応する」人です。ステップ4では、自分の自己評価が傷つけられたとき、私たちがどのように反応したかを過去のパターンを分析します。

ステップ5で私たちは、自己評価が自分で意識していたより低いことを知ります。その自己評価が何らかの外因によってさらに脅かされたとき、私たちは激しく反応し、恨みや恐れに支配されて行動し、それが自分の首を絞める結果につながりました。(もちろん脅かされるのは自己評価に限りません、財産だったり人間関係だったりいろいろですが)。こんなことを続けていたら、私たちはまた飲んでしまうでしょう。依存症の再発は死につながります。

飲まない生活を続けたければ、私たちはこの反応パターン(行動様式)を変えねばなりません。それがステップ6から先です。

スポンシーに対して「ここであなたが怒ったのは、相手の言葉で自己評価が傷ついたからでしょう」と言うのは簡単です。自分の怒りは自己評価が傷つけられたからという理由が示されるだけで、行動様式を変えられる人もいます。しかし、皆がそうではないし、変えられる人であっても、自己評価は低いままです。だとすれば、その人は相変わらず恨みや恐れを抱きやすい人であり、それを防ぐために大きなエネルギーを費やしていかねばなりません。

やはり「回復」と言うからには、自己評価そのものが高まっていくことも必要です。実は、ビッグブックにも12&12にも「こうやれば自己評価は高まる」ということは直接的には書かれていません。

どうやったら自己評価を高めることができるのか、それが問題です。

自己評価が高まった「つもりになる」ことは簡単です。それは自信過剰への道です。自信過剰の後には必ず自己憐憫が待っています。やはり「つもりになる」だけではダメで、本当に高まらねばなりません。

(つづく)


2011年08月01日(月) イライラ3年、ぼちぼち5年

AAの僕のホームグループは、週に一回しかミーティングをやっていません。そこで月の奇数週はクローズド、偶数週はオープンのミーティングにしています。年に何回かひと月に同じ曜日が5回ありますが、このやり方だと第5週はクローズドになります。

うちのグループは、池袋の某グループのやり方をかなり真似ているのですが、そこのグループでは第5週は「お楽しみミーティング」と称して外部から人を呼んで話をしてもらっているそうです。面白そうだから、うちでもそれをやってみよう・・ということで、7月末から「お楽しみミーティング」を始めることにしました。

第1回は誰を呼ぼう・・・田舎だからそんなにアテがあるわけでもなく、近隣の断酒会の設立者で長年会長を務められたTさんご夫妻をお招きすることになりました。

Tさんは、断酒の始めの頃は別の断酒会に属していたのだそうです。しかしそこの会長が再三再飲酒し、責任を取って会長を辞任すると言っては、やがて前言撤回して会長の座に留まる・・歯を食いしばって酒をやめている新人会員もいるのにと腹立たしい思いをしたTさんは、「会長が辞めないなら俺がやめる」と言って2年経ったときに断酒会を退会してしまったのだそうです。

しかし、一人で酒をやめ続けることはできないことも分かっていたので、周囲の勧めもあって今の断酒会を設立。元の断酒会とは絶縁状態での始まりだったので、やっかみから「3ヶ月も続かない」と揶揄されたそうですが、苦労の甲斐もあって会は隆盛し、Tさんは県断連の役員を長く努められました。

AAに「彼は恨みとコーヒーポットを抱いて出ていった」という言葉があります。病気の人間の集まりであるのはAAも同じです。時にはメンバー同士のいざこざが深刻な対立に発展することもあります。一方が袂を分かって出て行ってしまうこともあります。しかし、出ていった者が自分に正直であれば、飲まないで生きていくためには仲間が必要であることに気づくでしょう。そうして新しいグループが誕生します。

アメリカでAAが始まった頃、しばしばそうやって新しいグループが誕生し、AAが増えていったのだそうです。オフィスを構えたばかりのビル・Wの元に届く手紙は、そうしたグループ同士の仲裁を依頼する内容ばかりだったとか。

Tさんの話も興味深い者でしたが、もっと関心を集めたのは奥様のお話でした。

「イライラ3年、ぼちぼち5年」という言葉が印象に残りました。

酒をやめた当人は3年ぐらいはひたすらイライラしています(本人側にその自覚はないけどね)。それがぼちぼち取れてくるのが5年ぐらい。離婚しなくて良かったかなと思えるようになるのが、およそ10年だとか。飲まれていた頃は、死んだって決してダンナと同じ墓に入るものか。自分の灰は山にでも川にでも撒いてくれればいい・・と思っていたのが、このごろは「そこまで意地を張らなくても良いかも」と思うようになってきたそうです(Tさんは断酒24年)。

以前ホワイト先生の講演で、どれぐらい酒をやめていれば回復と言えるかという会場からの質問に対し、「最低でも5年、できれば10年」というのが先生の答えでした。10年というのはここでも一つの目安になっています。(まあもちろんその間に薬物乱用とかナシで願いたいけど)。

AAでも最近は最初の年から週に一回しかミーティングに行かない人が増えていますが、断酒会はどうかとTさんにお尋ねしたら、断酒会も昨今は週に一回だけの人が増えたことを憂慮されていました。せめて週に3〜4回と出て、自分の会だけでなく、他の会のやり方を知ることで、「断酒会はこういうものだ」ということが分かっていく、それが大切だそうです。

奥様は、夫婦揃って例会に出席することの大切さという話をされていました。ダンナさんだけが出てきて回復している人もいるが、奥さんとしては「せっかく酒をやめたのに毎晩いない。週末は断酒会の催しで一泊二日で金ばかり使って・・」という不満が出てくる。それで旦那さんが断酒会に出づらくなり、やがて退会、再飲酒となりがちですが、一緒に動いていればそうはならないと。

小さい子供がいれば、その子に留守番させて夫婦で夜の例会に出るのはためらわれるかもしれません。しかし、奥様はこうおっしゃいました。子供にとっての幸せは、とうちゃん・かあちゃんの仲がいいことだ。夫婦揃って家にいても中が悪けりゃ子供は不幸せだ。だから二人で例会に行くことが大切で、少なくとも私はそう教えられたと・・そして、「あんまり小さいなら一緒に連れておいで」とも。

一時間半のお話しの内容は、とてもすべてここには書ききれません。Tさんは、抗ガン剤治療の疲れも感じさせないお達者ぶりでした。本人だけの集まりであるAAは、普段なかなか家族側の話を聞く機会がないだけに奥様の話は新鮮でした。

それにしても「イライラ3年、ぼちぼち5年」とは良い表現ですね。

さて次は9月にも第5週があります・・次は誰をお呼びしようか。


2011年07月28日(木) 治癒はないが回復はある。では回復とは?

アルコール依存症における治癒(cure)とは、飲酒がコントロールできるようになることを意味するのでしょう。ホワイト先生の『米国アディクション列伝』という本を読むと、アメリカではこの治癒を実現する様々な治療法が編み出されましたが、すべて歴史の中に消えていきました。数少ない事例ではうまくいっても、その手段が公表され多数に試されると、とたんにその有効性が失われてしまう・・・まるで競馬の必勝法のようなものです。結果として、今のところ依存症を治癒させる方法はない、という考え方がコンセンサスを得ています。

「唯一の解決法は、まったく飲まないことしかないと言わざるをえない」(AA, p.xxxviii)

「治癒(cure)はないが、回復(recovery)することはできる」という言葉を使い出したのは、AAの創始者の一人ドクター・ボブと一緒に活動した看護婦シスター・イグナシアだそうです。

アルコール依存症者が正常な飲酒に戻れる(つまり治癒可能)というのは、当時根強く残っていた偏見です。この偏見は現在もあります。この偏見を解かなければ、依存症者は正常な飲酒に戻ろうと再飲酒を繰り返してしまいます。「治癒は不可能だが、回復は可能」というのは、偏見を脱学習させるために彼女が考え出した表現ということです。それが世界中に広がり、現在でも使われています。

では、その「回復」とは何でしょうか?

思い出して頂きたいのは、ドクター・ボブやシスター・イグナシアが入院患者に施していたのは「12ステップ」という治療法だったことです。つまり彼らの言う「回復」とは、12ステップによって霊的な経験を経た結果、再飲酒の可能性を心配しなくて良くなった状態を指しています。

「再飲酒に対する心配をしなくて良い状態」という話をすると長くなりますから、AAのA類常任理事をされた大河原先生が書いた文章があるので、そちらを参考にしてください。
http://aajso.web.infoseek.co.jp/newsletter/n141.pdf

アル中が酒をやめていても、例えばこんなことをしたらその人が再飲酒してしまうのではないか・・飲まれてしまうと後々いろいろと面倒だから、それを避けるために周囲の人がいろいろと配慮を積み重ねる必要があるならば、それはまだ「回復」とか「酒がやめられた状態」とは言いにくいものです。

AAを始めた人たちは、その状態が霊的な経験を経ることによってもたらされると考えていました。ただし、霊的経験を得る手段が12ステップしかないとは言いませんでしたが。(しかしながら、なぜに12ステップが良いのか、という話はまた別の機会に)。

さらには、その「回復」は一度実現すれば自動的に一生保たれるものではありません。メンテナンスが必要であり、それを怠れば回復は衰えていき、しまいには再飲酒が起こりえます。

そんなふうに、AAの人たちが「回復」という言葉を使い出したときには、その意味はかなり限定されたものでした。しかし、時代を経るとその言葉の意味も拡散していきました。もはや回復とは何か、すべてを包括して定義することなどできなくなっています。AAにはAAの回復の定義がありますが、例えば一人で断酒している人にはその人なりの回復の定義があるのでしょう。

そうなると、回復とは「何でもあり」であり、自分が回復したと言えば回復したことになってしまうわけです。それはそれで構わないのかも知れません。しかし、アルコール依存症のケアに長くたずさわっている人たは、「回復とは何か」について言語化しづらい何らかのイメージ(回復像とでも言うもの)を持っており、それは人に寄らずある程度共通していると言えます。それに合致しているかどうかで、回復している・していないが判断されるのも確かなことです。

結局のところ、回復とは何かを知るためには、自分が回復してみるのが一番であるし、また自分が依存症でなくても依存症の人の回復に長く付き合えば自然と分かってくるものだと思います。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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