ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年04月07日(木) ACと発達障害 アダルトチルドレン(AC)とは何か? 単純に言うと、子供時代に養育者からの虐待を受けて育った大人たちのことです。この概念が出てきたのは1970年代アメリカです。親がアルコール依存症の子供たちが成人して社会に出たときに、共通したある種の「社会適応の悪さ」を経験することがわかり、それに対して Adult Children of Alcohocis (ACoA) あるいは Children of Alcoholics (CoA) という概念が提唱されました。
この概念が、親がアルコーホーリクばかりでなく虐待的な子育てをする家庭にまで拡大され、Adult Children of Dysfunctional Family (ACoD) という概念や「機能不全家庭」という言葉を生み出していきました。
日本にAC概念を紹介したのはクラウディア・ブラックです。そして西尾和美や斎藤学といった人がそれを日本で広めていきました。1990年代前半にはメディアが火付け役となって「ACブーム」が起き、日本各地にACのグループが誕生しました。ほぼ同時に「親のせいにするな」というACバッシングも起きました。その後ブームは下火になったものの、ACのグループは確実に存在を続けています。
依存症の世界にいる人なら「AC」という言葉を知らない人はいません。依存症医療の大家斎藤学先生は依存症の専門家である以上にAC問題(家族問題)の専門家でもあります。依存症に関する一般解説書を開けば一章はACのことに割かれているものです。ただし、僕はあまりACのケアには詳しくありません。クラウディア・ブラックの本もあまり読まずに手放してしまいました。僕自身のAC性には気がついていたものの、アルコホーリクとしての12ステップにどたばた取り組んでいるうちに、あっという間に十数年経過してしまいました。AC的な問題があるにしても、アルコホーリクとしてのステップで「何とかなってしまった」というのが正直な感想です。
しかしながら、やはり人の人格形成に最も影響を与えるのは養育者(親)です。だからスポンシーとステップをやるときには、生育歴・家族歴をなるべく詳しく聞き取ることにしています。最近では親がどんな人生を歩んだかということも聞くようにしています。(たいていの人は親がどんな人生について詳しく知らないので調べてもらわなくてはなりません)。その人の性格は親からの遺伝的あるいは養育方針による影響を多大に受けているでしょうから、生育歴・家族歴を聞いておけばステップ5の分析に役に立つだろう・・ぐらいの気持ちで始めたことです。
そうして何人かのステップ5につきあい、また自分のスポンシーではないものの他の人のステップ5の経験を聞いて、ひとつ分かってきたことがあります。
自分がAC概念に当てはまると思っている人は少なくありません。少なくとも自分の中にいくぶんAC的要素があることは認めています。身体的暴力が日常化していたってほどではなくても、適切な養育が受けられず愛情が不足していたと感じているわけです。しかし、それが「虐待的」と言いえるかどうかは疑問です。
「愛されなかった」とは言っても、それは「親の信条を押しつけられた」とか「親の決めた進路に従うことを強制された」といったレベルの話で、身体的精神的虐待が日常化していたというレベルとはかけ離れています。多くの親は子供を大学にやりその学費を払ってやっているし、子供がアルコールでぐだぐだになれば家に引き取って面倒も見ています。多少不適切な養育があったにしても、それは「誤差の範囲内」と言ってもよく、親としての社会的責任も引き受ける愛情あふれる親たちです。
であるのに、自分の成人後のさまざまなつまずきやアルコールの問題を「親の育て方が悪かった」という原因に帰着させたがる人がいる。(それはアル中特有の何でも人のせいにしたがる態度もあるのでしょうが)。
愛情あふれる親に育てられながら、その愛情を受け取ることができなかった子供たち。
いったいこれは何なのでしょうか。おそらくそれは「認知」の問題、愛情を受け取る能力の問題でしょう。
実はスポンシーにはAQのスクリーニングテストをやってもらうように頼んでいます(自閉症のスクリーニング)。これが皆さんそこそこ高スコアをマークしてしまうのです。皆に発達障害のクリニック受診を勧めるほどではないものの、決して低くはない。ここから、AQの信頼性はともかくとして、
「アルコール依存症の人、あるいは自分をACだと思っている人の中に、自閉的特性を備えた人が多い」
という考えが生まれます。
付け加えると、客観的な(というか第三者からの)視点で証拠を示して「これだけのことをしてくれたんだから、やっぱり親はあなたのことを十分愛して養育してくれてたんじゃないかな」と指摘すると、割とすんなり(とはいかなくても数週間数ヶ月かけてすんなり)受け入れます。客観的証拠を示せば割とすんなりこだわりがひっくり返るのも自閉的と言えます。おそらくはその特性に従って、子供の頃から被害的認知が強化されてきたのでしょう。
一方、親がアル中であっても定型発達の人は、自分がACだという自覚があまりありません(これはこれで問題なのですが)。これでは話があべこべです。
もちろん世の中にはバッチリ虐待を受けて立派な?ACになっている人もたくさんいるはずです。だからAC概念そのものを否定するわけではありませんが、自分がACだと思ってACの問題に取り組んでいる人の多くが、実は親の養育姿勢よりも子供の側の発達障害のほうが大きく影響しているんじゃないかと思っています。その人たちが元々のAC用に用意されたプログラム(ミーティングでの分かち合いや、スポンサーとの親子関係の棚卸し)を何年やってもなかなか良くなってこない・・ということは現実に起きているわけです。
考えてみれば、クラウディア・ブラックは医師でも心理学者でもなくソーシャルワーカー(SW)でした。SWというのは「治す」のではなく、そのままのその人をなんとかうまく社会に適応させる方策を考えるのが仕事です。それはまさしく発達障害の人たちが必要としている福祉的支援です。ブラックの見ていたACの人たちは実は発達障害の人たちではなかった、と思ったりします。
依存症と発達障害の関係を考えている人が増えてきているように、ACと発達障害の関係を考える人も少しずつ出てきていると聞いています。
2011年04月05日(火) 人々が聞きたがらないニュース Dr.林の提言。
http://kokoro.squares.net/HanshinAwaji.html
糖尿病や高血圧の薬が手に入らないとか、透析ができずに苦労しているという話はニュースで取り上げられますが、統合失調の人の薬が手に入らず症状が悪化して避難所にも入れないという話は取り上げられません。同じことは依存症についても言えます。
人々が聞きたがらない、目にしたくない話は、新聞でもテレビでも週刊誌でも取り上げられません。逆に言えば、メディアに出てくる話は、それがどんなものであれ、その話題を歓迎する人がいるからこそ取り上げられているのだと言えます。
2011年04月04日(月) After 311 ホームページにも載せていますが、4月2日は国連の定めた自閉症啓発デーで、この日から4月8日までが発達障害啓発週間となっています。4月2日には厚生労働省と日本自閉症協会の主催でシンポジウムが開催される予定でしたが、地震の影響で延期されました。
地震の影響が及んだのはシンポジウムだけでなく、NHK教育の番組「福祉ネットワーク」で前の週に大人の発達障害の特集が放映される予定でしたが、これも延期されました。いつになるかと気を揉んでいたのですが、ちょうど一週間遅れで今週放映になるので、今夜から見るのを楽しみにしています。第1回に登場するテンプル・グランディンは僕の現在最も敬愛する専門家であり、その著書は僕にとっての教科書となっています。
阪神大震災の時もそうだったのですが、こうした大きな災害や事件が起こると、世間の関心はそれによるPTSDに向かってしまいます。長期的に見ればそれによって増えた依存症に目が向いていくでしょうが、それまではアディクションや発達障害への関心が薄まってしまうことを懸念しています。
原発事故に関しては「日本政府の情報公開が足りない」と国民からも諸外国からも言われています。それはその通りだと思うし、隠蔽されている情報はあるでしょう。ではすべての情報を公開すべきかというと、僕は必ずしもそうは思いません。例を挙げます。
統合失調症は人口の約1%が罹患する病気です。遺伝とやや関係があるものの、この病気から完全に安全でいられる人は一人もいません。この病気が恐ろしい病気だと思われているのは、幻覚や妄想や興奮の印象が強いからでしょう。しかし激しい陽性症状は実は予後良好の予兆です。
この病気の1/4は完全に治癒します。病気で大学を休学したけど、完治して復学、数年会社勤めをした後に結婚して出産、幸せに暮らしている・・服薬も通院も必要なく一生再発もしない、という例は山ほどあります。また1/4は完治はしないものの、服薬と生活上の注意をすることで、普通と変わらない生活をすることが可能です(社会的治癒)。
また1/4はときどき入院治療が必要になるものの、他の期間は外で過ごすことができます。しかし残念なことに1/4は、次第に無気力になり、感情が乏しく、人との交流をしなくなる人格的荒廃(末期状態)へと向かってしまいます。医者がどうがんばってみても、一定数の荒廃は避けられない。これは現代の医学の限界です。
しかし最近の研究では、発病後最初の5年間にきちんと治療することで、治癒の割合を増やし、荒廃を少なくすることができると分かってきました。早期発見・早期治療が有効な病気なのです。
近年インフォームド・コンセントということが言われます。病気に関する正確な情報を伝え、患者自らが同意して治療法を選ぶというものです。しかし、それが最善とは限りません。しばしば起こることは、統合失調の病名の告知によって、本人や家族が治療を中断してしまうことです。この病気に染みついたスティグマ(偏見)や激しい陽性症状や荒廃が与える「恐ろしい病気」という印象が、当事者を否認へと導いてしまいます。そうして精神科に近寄らないとか、症状を隠して別の医者にかかりうつ病として治療を受ける・・、こうして貴重な最初の5年間が失われます。統合失調の人の2割は自殺するそうですが、自殺の多くは最初の5年間に起こります。適切な治療が行われていれば、それは防げるはずです。
(実際にはアルコール依存症の方がよほど回復率の悪い恐ろしい病気だと思う)。
すべての情報を知らせ、それを受け取った人がめいめいに判断する。それは理想的な考えです。しかし、情報を受け取る側の人間はコンピューターのように機械的なデータ処理ができるわけではありません。人間は感情を持った動物であり、その判断は常に感情に左右されています。
原発の格納容器が破れ、放射能に汚染された水が地下に溜まり、それが海に漏出しています。そのことは、もっと早く国民に知らせようと思えばできたはずです。もし最初の水素爆発の頃に、同時にこの情報が出てきたらどうだったでしょう。おそらくパニックが起きて社会が混乱し、そのパニックが原因で多くの人命や財産が失われたでしょう。人間はおかしなもので、同じ刺激を受け続けていると、その刺激に対して次第に鈍感になります。悪い情報も小出しにされることで、人々はそれに慣れてしまいます。テレビでは毎日原発のニュースが流されています。汚染された水が海に出ていると聞いても、それはもはやパニックを起こすほど強い刺激にはなりません。
福島の原発で何が起きているかを問う前に、その情報を与えられたとして自分に理知的な判断ができるかどうかを自らに問うべきです。政府がどうだ東電がどうだ、よりも、まず自分がどうだ、です。
2011年04月01日(金) ジョー・マキューの軌跡 ジョー・マキュー(Joseph Daniel McQuany, 1928-2007)は、アーカンソー州で初めてソーバーをつかんだ黒人だったそうです。1962年のアメリカ南部はまだ人種差別が激しく、白人男性のアルコホーリクのためにはいろいろ治療プログラムが用意されていましたが、黒人男性には劣悪な環境の州立病院しか用意されていませんでした(そして女性のアルコホーリクの選択肢は刑務所のみでした)。
解毒が済んだジョーはAAに参加します。しかし、黒人はまったく歓迎されなかったそうです。AAに参加するために必要な資格は「酒をやめたいという願望だけ」なので、誰も彼を追い出しはしませんでした。しかし、彼のAAスポンサーを引き受けてくれる白人は誰もいませんでした。それどころか、彼はミーティングで1年のバースディを祝うことさえ許されなかったのです。当時のAAでは、スピーカー・ミーティングと、ステップの経験を分かち合うステップ・ミーティングだけが行われ、今日のテーマ・ミーティングはまったくなかったそうです。
スポンサーを得ることができなかった彼は、誰からもステップを教えてもらうことができなかったため、仕方なくAAのビッグブックからステップのやり方を学びました。このことが、その後の彼のビッグブックへの関心を形作ったのだと思います。
10年後の1972年、彼は治療施設を始めます(名前は Serenity House)。その時彼に用意できた金額は$300しかなかったと伝わっています。
1973年(あるいは1975年か)に、ジョー・マキューはアラノンのコンベンションにスピーカーとして招かれ、同じくスピーカーとして招かれたチャーリー・Pと出会います。ジョーはチャーリーの名前だけを見て、有名な黒人歌手のチャーリー・プライドではないかと思ったそうですが、残念ながらチャーリー・Pは白人でした。ここで二人ともビッグブックに関心を持っていることが分かります。この共通の関心は、二人を親友関係へと発展させます。その後しばしば彼らは225マイルの距離を越えて会い、お互いのビッグブックへの理解を交換してプログラムを深めていきました。
二人はアーカンソー州やオクラホマ州で開かれるAAコンベンションの宿舎の部屋でも話を続けるのですが、やがて二人の話を聞きたいという人が増えていき、コンベンションのたびにこの非公式プログラムは人気を博していきます。そこに参加していたあるAAメンバーが、彼のホームグループで二人に話をしてくれないかと頼みます。それが4本のカセットテープに録音されて、「ビッグブック・スタディ」と名付けられて広まっていきます。
さらにこの年、1980年にオクラホマで開かれたAA国際コンベンションで、フロリダの熱心なビッグブック支持者 Westly P.がこのテープを100セット配布しました。これで二人の人気に火がつき、年に30回以上もの招待を受け、二人への評価が確立します。その後の20年ほどで、この二人はアメリカ全州、カナダのほか、ニュージーランド、オーストラリア、英国諸島各国、スイス、スエーデン、オランダで「ビッグブック・スタディ」を開催しました。
21世紀に入りパーキンソン病を患ったジョーは、この「スタディ」からリタイアし、もう一人のジョー(Joe McC)が後を継ぎます。新しいジョーはスタディの初期から参加していた経験あるメンバーだそうですが、悪いことにこのジョーも病に倒れてしまい、ここ数年「スタディ」は開催されていないと聞きました。しかし、過去に録音された音源は、カセットテープやCD、ネット上のMP3音源として入手可能です。チャーリーは80才を越えて健在だそうです。
この Joe & Charlie's Big Book Study の恩恵を受けた人は、20万人とも50万人とも言われます。
Big Book Study には有名な Hazelden も興味を示し、その内容を "A Program For You" という本にまとめて出版しています。しかしヘイゼルデンはJ&Cを改変しようとしたため、ジョーとチャーリーは本の出版にも同意したものの、この二人の名前は本のどこにも出てきません。とはいうものの、この本は大変良いもので、僕がステップの本の中で最も参考にした本です。みのわマックで "A Program For You" の日本語訳出版を準備しており、この秋には完成すると聞いています。出版されたら多くの人にお勧めしたい良書です。
さて、ジョーの作った施設の物語に移ります。彼が施設を作った1970年代前半は、アメリカ連邦政府がアディクションの治療に資金をつぎ込み始めた時期です。政府から「どのような治療プログラムを実施しているか」という問い合わせを受けたジョーは、「ビッグブックのやり方だ」と答えたところ、政府は彼にそれを文書化するように求めました。このようにして文書化・体系化された施設プログラムに対して「リカバリー・ダイナミクス」という名前が与えられました。
リカバリー・ダイナミクス(RD)が作られたのが1974年。ジョー・アンド・チャーリー(J&C)はその後ですから、RDはJ&Cに先行していることになります。
ジョーの施設は大きくなるたびに移転を繰り返し、名前を Serenity Park へと変えます。多くの人がそこを訪れるのは、ジョーが本を書いたからでも、有名なレクチャーをしたからでも、プログラムを考案したからでもなく、ただジョーがそこにいるからでした。
ジョーは2007年、45年のソブラエティとともに、79年の生涯を閉じました。彼の最後の夢は女性専用の滞在型RD施設を作ることであり、多くの寄付を集めてそれは実現しています。
現在RDは多くの施設で使われています。滞在型の依存症施設に限らず、カウンセリングルームや、ホームレスのシェルターでのアディクションケアなどのバリエーションを見せています。ただし、急速に広まった歪みもあり、そのライセンスはきっちりとした管理が行われるようになっています。
ここまで書いてきた話は、奈良市内の焼鳥屋で手羽先をかじりながら、ジョー・マキューの後継者であるラリー・ゲインズ氏から聞いた話をベースにしています。ラリーさんは27年のソブラエティをもち、どうやら以前はより報酬の高い施設で仕事をしていたようですが、現在はジョーの後継者として自らをなげうって仕事をされています。
日本で初めて二つの施設がRDの認証を取得しました。その一つは薬物の施設の奈良ダルクであり、もう一つは奈良ダルクに併設されるギャンブル依存症の施設「セレニティー・パーク・ジャパン(SPJ)」です。日本で初のRDの施設、しかも Serenity Park の名を冠した施設が、ギャンブルの施設だというところに、今の日本のトレンドを感じます。
SPJでは開設記念フォーラムを奈良(4/2土曜)と東京(4/3日曜)で開きます。
http://www.ieji.org/dilemma/2011/03/post-331.html
直前の案内で申し訳ありませんが、ジョー・マキューやRDに関心のある方は、ぜひラリー氏その他のみなさんの話に耳を傾けていただきたい。(僕は忙しくて行けません、ごめんなさい)。
また、この二つの施設以外にも、複数の施設がRDの採用を検討していると伝えられています。また秋以降に出版される "A Program For You" の訳書にも期待しています。アディクションという分野は、以前ほどの「目新しさ」はなくなったかもしれませんが、自助グループ・施設・医療の各分野で革新は続けられています。
2011年03月31日(木) ホーソン効果 ホーソン効果(Hawthorne effect)について。
僕の仕事の顧客は製造業の会社です。どこの工場でも「どうやったら生産性を上げられるか」という課題を追い求めています。より多くの製品を作ることが、より多くの利益に結びつきます。倍の製品を作るためには、倍の人数を雇えばいいのですが、それでは給料も倍払わねばならず、生産性は上がりません。
どうやったら今いる人たちによりたくさん働いてもらうことができるか?
こういうことを考えなければ経営者として(そして雇用主として)失格です。20世紀に存在したウェスタン・エレクトリックという会社は、アメリカの電話会社AT&Tの製造部門で電話関係の機器を作っており、日本電気の持ち主でもあった会社です。1927〜32年に、この会社の工場でハーバード大学の研究者たちが様々な実験を行いました。
その一つが「照明実験」です。職場の照明を明るくすれば、作業者たちが気持ちよく働けるようになって生産性が上がる(一時間あたりの完成品の数が増える)に違いない、という仮説を立て、実験をしてみると結果はその通りになりました。このことからは「照明は明るい方が生産効率が上がる」と言えます。
さらに確かめるために、今度は照明を暗くしてみました。暗くしたのにかかわらず、生産効率は以前より上昇していました。元の明るさに戻してみても、やっぱり生産性は上がっていました。となると、照明の明るさと生産性は関係がないことになります。
ではなぜ生産性が上がったのか。
同時期に行われた他の実験の結果と合わせて言われることは、「人は関心を寄せられると自ら生産性を高める」ということです。これらの実験は経営幹部や同僚たちの大きな関心を集めながら実施されました。注目されることによって、自分のやっている仕事に大切な意味があると感じた作業者の心理状態が生産性に影響を与えたのだと考えられます。
それ以前の経営管理論は、作業者をあたかもロボットのような存在と見なしていたのですが、この発見によって作業者は心を持った存在であり、その心理状態をどのように導くかという方向へ変わっていきました。そしてこの発見は、工場の名前を取って「ホーソン効果(ホーソン実験)」と呼ばれるようになり、(僕は心理学を勉強したことがないので知りませんが)心理学の教科書には必ずといって良いほど載っているのだそうです。
このホーソン効果は生産管理の分野ばかりではなく、人間の活動全般に言えることです。
イギリスでこんな実験が行われました。うつ病患者を二つのグループに分けます。片方にはカウンセラーが専門的な治療を施します。もう一方のグループには何の専門的技量を持たない素人が、同じ時間、世間話をします(お話し療法)。そしてこの両者の結果を比べると、どちらもうつが改善したものの、その差はあまり大きくありませんでした。これは、(カウンセラーによる専門治療の effect size が小さいということではなく)、素人によるお話し療法にも効果があるということ示しています。イギリスでは、ボランティアがうつ病患者と話をするという「友だち療法」の試みが広がっているそうです(これも医療費削減の一環か?)。
人は関心を寄せられると自尊感情が向上します。自分のことを気にかけてもらっていることがわかれば、それだけで「自分の大切さ」を感じることができます。まして注目をあびればなおさらです。
(自身が注目を浴びることによって自尊感情を高めることに熱心な人がいます(自己治癒の試みでしょう)。しかし施設スタッフは自分ではなくクライアントのケアに熱心になるべきだし、スポンサーはスポンシーに関心をよせるべきであって、自分のケアはまた別にしなくてはなりません。人は多かれ少なかれ、自尊感情を高めるために関心を集めたいと思うものですが、その行動も度が過ぎれば「賞賛乞食」と呼ばれてしまいます。賞賛を恵んでくれる人たちを追い求め、その機会に恵まれなければ自らを哀れむ気持ちばかりが強くなる。そういう人に接すると、軽蔑したものか、同情したものか悩んでしまいます^^)。
話を元に戻して、何が言いたいかというと、「僕らはお互いに関心を寄せるべきである」ということです。
AAは素人の集まりでプロの治療者はいません。しかしそこには同じ問題を抱えた人に対してお互いの関心があります。それに治療的な効果があるのでしょう。フェローシップ(仲間意識)は断酒継続の支えを提供し、ステップは飲まない人への変化を提供すると言われます。だから変化のためには12ステップが必要だということなのですが、それは逆にステップをやらなければ変化がないことという意味にはなりません。ステップに熱心でないAAグループに参加する人にも、ステップが希薄なスポンサーシップでも、やはり何らかの改善がもたらされます。それには「ホーソン効果」に代表される、人は人に関心を寄せられることによって良くなる、という効果があるのでしょう。
日本にはアディクションの施設がおそらく100以上は存在します。しかし専門的なスキルを備えたところが少ないという批判があります。だから自分たちで勉強したり、精神保健福祉士のような国家資格を取得しようという動きがあり、それはそれで素晴らしい歓迎すべきことです。これからそうした動きが強まっていくでしょう。僕自身も自助グループという枠の中で、ステップやスポンサーシップというスキルを広める取り組みをしようと思っています。
しかし、忘れてはいけない、忘れて欲しくないことは、専門的スキル以前に「人に対する関心」が必要なのだということです。関心とはすなわち愛情です。トルストイは「天国とは人がお互いに助け合って生きるところだ」と書いたとされます(僕はトルストイとか読まないから知りませんけど)。ジョー・マキューは、新しく来たアルコホーリクが愛らしいなどということは絶対にない、と書いています。反抗的で助けを拒む人が愛らしいわけがありませんが、そういう人たちこそ最も関心を必要としています。
専門的なスキルなど持たなくても、多くの人を救ってきた実績を持つ施設はたくさんあります。そこに何があったか、それはスキルより大事なことです。
(追記:ここ十数年経済が長いこと苦境にあることにより、どうやって気持ちよく働いてもらうかという心理的手法をとる余裕が失われ、どのように体を動かすかなどの機械的な動きまで決めてしまう現場改善が多くなってきています。こうした労働強化が病んだ人を増やしている側面もあると思います)。
2011年03月24日(木) 施設について(その3) 話を続ける前に「酒がやめられない」という言葉の意味を、再度説明しておきたいと思います。
「酒がやめられない」という言葉は、毎日お酒を飲んでいる状況から抜け出せない、という意味で使われているわけではありません。何日か、何ヶ月か、あるいは場合によっては何年か酒を飲まない期間があるにもかかわらず、なぜかまた飲んでしまう。つまり「再飲酒が防げない」「再飲酒の確率が高い」ことに対して、酒がやめられないという表現を使います。
ドライアップする(酒を切る)ことはそれほど難しいことではありません。精神病院に入院してアルコールから隔離されれば、アルコールは体から抜けていきます。院内飲酒をするようなタチの悪いアル中もいますが、入院は解毒のおおむね確実な手段です。AAが始まった頃のアメリカでは、解毒の技術が進歩しておらず、重症のアル中も多かったために解毒の途中で死んでしまう人も少なくなかったと言います。けれど、医療技術の進歩は何度でも安心して解毒できる環境を作り出しました。
病院を退院したばかりの人の断酒はまだまだ不安定で、十分に「酒がやめられた」状態とは言えません。再飲酒の確率も高く、退院後の断酒維持率のグラフを見ると懸垂線のようにぐんぐん下がっていき、2年後には1〜2割しか残っていません。解毒は簡単(確実に行える)だけれど、断酒の維持は難しいわけです。
断酒維持の確率を少しでも上げようと「三本柱」なるものが提案されており、なかでも有効性が高いとされているのが自助(相互支援)グループです。だから酒をやめるために断酒会やAAに通えと言われます。しかし多くの人には誤解があり、解毒が済み、飲酒欲求が減ってきたところで「酒がやめられた」と早合点してしまうのです。実際にはまだまだ再飲酒の確率が高い危険な状態が続いているのにもかかわらず・・です。自分が酒がやめられたと思っている人は、酒をやめるためのグループに通おうとは思いません。
退院後に通院とグループ参加を続けて断酒が安定していけばいいのですが、うまくいかない場合があります。グループに通っても再飲酒、通わなければさらに再飲酒。その合間にときどき入院が挟まっている、という状況も少なくありません。
何か手を打たねばなりません。その時に選択肢として浮上するのが施設入所です。グループに通ってダメだったにせよ、通えなくてダメだったにせよ、そうした環境から離れ、依存症の施設に入所して回復に専念できる環境で「きちんと酒をやめる」ことを目指すわけです。
施設につながれば仕事は続けられません。休職か退職することになります。通所ではなく入所となれば、家族とも切り離されることになります。仕事や家族のことから解放されることで、回復のプログラムに集中できるわけですが、多くの人は「そこまでのことはしたくない」と思うのではないでしょうか。
だから、断酒と再飲酒、入院と退院を繰り返しながら、何年もかけて仕事を失い、家族を失い、経済的に困窮した状態になって、ようやく「そこまでする必要がある」ことを納得します。それまでにいったいどれだけのものを失うのか。多くの人は「こうなるまえに何とかしたかった」と考えるようです。その「何とか」とは、仕事や家族のことを優先させず、回復を優先すれば良かったという後悔です。
回復以外のことを優先させれば、回復も回復以外のことも失ってしまう。回復を優先させれば、回復もそれ以外のことも失うことはない。という逆説が存在するわけです。
だから、自助グループでうまく回復できないとか、通えない事情があるのであれば、なるべく早く施設を利用するにこしたことはありません。早期発見・早期介入・早期治療はここでも有効です。ところが現実の施設は、いろいろ失ってしまった人、遠慮のない言葉を使えば回復困難の人が多いのです。重症・末期の人を受け入れる施設はもちろん必要なのですが、「施設とはそういう人の行くところ」という認識になってしまってはマズいでしょう。早期治療という理想と逆行してしまうからです。
しかし、「施設は回復困難の人が行くところ」という認識がなんとなく広まってしまった結果、病院を退院するとすぐ再飲酒してしまうような困難ケースが施設に紹介されて行く、なんてことが行われています。そうした人を受け入れる施設も必要なのでしょうが、これではまるで施設が病院の下請けであるかのようです。(社会復帰のための中間施設だと捉えれば病院→施設という流れは自然かも知れませんが)。
本来であれば公的な病院などが困難ケースを担当し、依存症の施設のほうはボリュームゾーンの人たちをどんどん数多く回復させるような分担になるべきです。現状はあべこべです。これには、依存症の治療になるべく費用をかけたくないという国の施策が背景にあるのでしょう(話は依存症だけでなく精神疾患全般に及ぶのですが、今回はそこははしょります)。依存症によってどれだけの社会的損失が生まれているか、逆にそこから多くの人が回復することにどれだけ多くのメリットがあるか。それが社会全体に理解されていません。施設のスタッフががんばればいい、病院の医師ががんばればいい、というレベルの話ではなく、アディクションに対する社会の認識を変えていく必要があります。
そんなわけで、施設の置かれた状況を変えて行くには、個々の努力はもちろんのこと、リカバリー・パレードのような回復擁護運動が盛んになっていく必要があるのでしょう。
明日から数日でかけてきます。ノートPCも通信手段も持参するので、ネットにつなげるとは思うのですが、雑記の更新頻度は落ちるでしょう。もとより雑記は毎日更新していたわけではないので、これも通常に戻るということです。
2011年03月23日(水) 施設について(その2) 日本の依存症の施設が「福祉施設化」しているという話は以前から出ていました。依存症の治療よりも、社会復帰の訓練施設としての機能が重視されるようになってきている、というわけです。(さらに言えば、社会復帰できずに施設に長期滞在する傾向が強まっています)。
日本ではどうしてヘイゼルデンやベティ・フォードのような治療型の施設ができないのでしょうか?
おそらくそれはいろんな原因が組み合わさっており、単純に答えることはできないと思います。けれど、一つ確実に言えることは、コストの問題です。
例えば例に挙げたヘイゼルデンでは、通所プログラムで$10,000、4週間の入所プログラムで$28,300となっています。約1ヶ月で240万円ほどです。もちろん適用できる保険もあるのですが、そうであったとしても、日本で依存症の治療にそれだけのコストを支払える人がどれだけいるのでしょうか。「高すぎる」という声もあるかもしれませんが、優秀なカウンセラーをたくさん配置すれば、必然的にこのコストになってしまうでしょう。ベティ・フォードは30日間で$27,400とほぼ同じです。(Serenity Parkは30日間で$7,500だけどね)。ヘイゼルデンもベティ・フォードも、営利を目的としないnon-profitの組織です。
もし日本で依存症の治療型施設を作り、その料金が一ヶ月で240万円だとしたら、どれぐらいの利用者が見込めるでしょうか?
日本の依存症の施設で料金表をネットに掲載しているところは少ないですが、別に隠しているわけではないので聞けば教えてくれます。安いところで一ヶ月あたり十数万円〜二十数万円。高いところで三十数万円です。ただし、健康保険が適用されるわけではないので、全額が本人あるいは家族の負担となります。
精神病院に入院して健康保険が適用された場合の本人負担額が十数万円ですから、それに比べて極端に高いとは言えません。しかし、高額医療費の制度が使えないことや入所が長期化する可能性を考えれば、本人家族の経済的負担はずっしり重くなります。早期介入・早期治療が行われず、病気が進行して経済的苦境に陥ってからようやく施設入所に至るのが日本の現状です。240万円の十分の一ですらなかなか払えたものではありません。
そこで多くの施設では、障害者自立支援法の施設認定を受けています。これにより入所費用のかなりの部分を公費で負担してもらえるため、本人家族の負担は軽くなります。また、施設の経営を安定させる効果もあります。(それでも負担しきれないという場合には生活保護にして本人負担をなくす手段が取られるのは病院と同じです)。
このようにして精神障害者の自立訓練施設として税金が投入されている以上、国あるいは社会がこうした施設に福祉的機能を期待するのは当然のことです。日本の多くの施設が福祉施設化しているのは、こうした背景があるものと考えています。
では日本では治療型の施設は成り立たないのでしょうか? 成り立つかどうかは経営の問題です(非営利組織でも経営は経営です)。僕には経営者としての才能はなさそうなので、これについては何とも言えません。ただ、日本にも以前より治療志向の施設もあるし、またリカバリーダイナミクスを導入するなど意欲的な取り組みもなされている以上、日本でも治療型の施設が今後隆盛する可能性はあると思います。
ポイントとして押さえておきたいのは、福祉型の施設は治療型の施設に劣ると単純に捉えて欲しくないということです。福祉型の施設も必要があって存在しているのであり、そうした施設の提供する機能が存在しなければ困ってしまう人たちがいることです。福祉型としての施設の技量の巧拙はあるでしょうが、それは福祉型・治療型の区別とは別の問題です。「福祉型より治療型の施設の方が上等である」と考えるのはあまりにも幼稚というものです。
またアメリカでも高価な施設ばかりではなく、安くてそれなりのところもあり、またAAメンバーがほぼボランティアで運営しているハーフウェイハウス的施設もあります。こうして様々なバリエーションがあり、利用者に適したところが選べるところがアメリカのアディクション治療先進国たるゆえんです。日本でも施設の数が増えるばかりではなくバリエーションが広がり、それぞれに質が高まり、また適切な施設へ相談者を紹介するソーシャルワークの機能が発展することを願っています。
もう少し日本の施設の話を続けたいと思います。
(続く)
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