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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年03月13日(日) 計画停電 この雑記を書いているうちにも、東京電力から発表があるかもしれませんが、計画停電が予定されているようです。
電気は大量貯蔵することができないため、供給量と需要量(負荷量)が常に釣り合っていないとなりません。このため、電力会社では需要量を常にモニターして、各発電所をどれだけ稼働させるか調整しています。原子力の発電所は発電量をなかなか臨機応変に調整できないので、この役割はおもに火力と水力の発電所が担っています。
供給と需要が釣り合わなくなるとどうなるか? 商用電力は交流で供給されています(東京電力は50Hz)。負荷が大きくなる(供給<需要)と、この周波数が下がります。逆に負荷が軽くなる(供給>需要)と周波数が上がります。電力会社ではこの周波数をモニターして、発電量を調整し、せいぜい±0.2Hzの変動に抑えています。
電力消費が最大になるのは真夏の午後です(エアコンを使うため)。特に甲子園で野球が行われている日が多いのだそうです。東京電力ではそれに備えて6,250万キロワットの供給能力を確保しているのだとか。これは自前の発電所のほかに、隣接する中部電力や東北電力から融通してもらう電力も含みます。
地震の影響でこの能力が半分程度に落ちてしまっています。原子力発電所は柏崎は動いていますが、福島の二カ所はニュースで報道されているとおり止まっています。水力発電所に影響はないそうですが、火力は10カ所で停止しています。日曜日は揚水発電所に溜めた水を使って3,700万キロワットを確保するものの、翌日月曜日からは3,100万キロワット程度に低下するとしています。
東電の予想では月曜日以降の電力需要は最大4,100万キロワット。実に1,000万キロワットが不足します。
もし需要が供給を上回るとどうなるか? 前述のように周波数がどんどん下がっていきます。周波数が下がると発電所で発電に使っている蒸気タービンの回転数(通常は3000rpm)が落ちていきます。回転数が落ちてタービンの共振周波数に近づくと・・タービンが壊れて発電所が大災害になってしまいますから、それを防ぐため発電機を止めるしかありません。これによって供給が減るのでますます周波数が落ち、各地の発電所が次々止まり、やがて関東全域が停電する。これが最悪のシナリオです。
これは避けねばなりません。そこで周波数がある程度下がってきたら、送電を途中でカットすることで需給バランスを保ちます。トカゲの尻尾切りのように送電カットされてしまった地域では突然停電することになります。
それは社会トラブルの元になりますから、計画的に停電させることで、全体のバランスを保つ・・というのが今回の話です。具体的には暖房や炊事などで需要が高まる夕方の時間帯を中心に3時間程度、地域ごとに輪番で停電させることになるようです。
他の電力会社から電気を融通してもらうことはできないのか?
震源に近い東北地方は関東以上の大きな被害を受けていて、東北電力は自前の電力も賄えていません。北海道から送ってもらおうにも、途中の送電線が被災しています。
では、西日本はどうか?
明治時代に日本で電気が普及しだした頃、東日本ではドイツから発電機を買ったので50Hzに、西日本ではアメリカから買ったので60Hzになっています。北海道・東北・東京電力は50Hz。中部・関西・中国・四国・九州・沖縄電力は60Hzです。周波数が違うために、この両者の間ではそのまま電力を融通できません。
そこで、長野県と静岡県の三カ所の変電所で周波数変換を行って、西から東へ、逆に東から西への送電を可能にしています。ただ、その能力はせいぜい100万キロワットしかありません。現在関西電力や九州電力から東電に向けて送電が開始されているそうですが、ここがボトルネックになって必要量の1/10しか供給できません。
(だから、東京に電力を送るために関西で節電しよう! というチェーンメールは、善意とはいえあまり意味はありません。西日本全体で100万キロワット捻出すればいいだけなので。ただ節電自体は悪いことではないし、西日本の電力会社も余裕は欲しいはず)
東電によれば、計画停電は一週間ぐらいで解消できる見込みだとか。おそらくその間に火力発電所を再稼働させるのでしょう。しかし、これから夏に向けて需要はどんどん増えていきます。福島の原子力発電所の能力950万キロワットが失われたのは痛かった。
2007年の中越沖地震では、柏崎の原子炉7基すべてが停止しましたが、最初の1基が再開するのに2年5ヶ月要し、4年経過した現在も3基がまだ停止中です。福島も再開までは(再開できたとしても)年単位になるでしょう。
被災地にいる知り合いのことも心配ではあるのですが、他にもいろいろ心配はあるわけです。
2011年03月11日(金) 言いっぱなしの聞きっぱなし のどが痰を製造し始めたのは風邪が治ってきた証拠でしょうか。
僕は風邪薬を飲むと、必ずその後軽いうつになります。(精神状態に影響を与えるのは精神科の薬ばかりとは限らないため)。たぶん今回は鎮咳剤のせいなのでしょう。まだ残っている風邪のダルさと、若干のうつのために重く感じる体を引きずって仕事に出てきています。スーパークリーンを維持している人たちは、こんな時にも限られた薬しか使えないので大変だろうな、と思うのです。
さて、AAのミーティングは「言いっぱなしの聞きっぱなし」だと言われます。これはクロストークの禁止を意味しています。同じミーティングでも、例えば仕事の会議は「言いっぱなしの聞きっぱなし」ではなく、相手の発言に対して質問したり、意見を述べるのは自由です。そうやって討論を重ねながら一つの結論を出すのを目的としています。
AAのミーティングはそうではありません。人の発言に対して、質問をしたり、直接的に意見を述べることはしません。クロストーク(話のやりとり)が禁止されているので、順番に自分の話をしていくだけです。アル中というのは「No」と言われるのが大嫌いなので、自分の発言に対して他者から意見をもらうことを嫌います。クロストークありでやっていると、人はAAに来なくなってしまいます。
クロストークなしのミーティングは、往々にして進歩の妨げになってしまいます。なぜなら人は自分にとって耳の痛い話を聞き流し、心地よい言葉ばかりを持って帰りたがるからです。それでは現状維持にしかなりません。そうした問題点を補っているのが「スポンサーシップ」という一対一の関係です。スポンサーシップでは質問もあれば意見されることもあり、提案という名前のかなり強めの指示が与えられることもあります。
自助(相互援助)グループが紹介されるときに、同じ問題を抱えた人が集まる「言いっぱなしの聞きっぱなし」のミーティングばかりが取り上げられることが多く、まるでそれだけで十分な効果が出るかのような誤解を与えています。例えスポンサーシップという形でなかろうとも、何らかの形で個人的に相手をしてくれる人が回復には必要です。ミーティングだけで、ほかには一切付き合いなしというわけにはいきません。
話を元に戻して、では「言いっぱなしの聞きっぱなし」とは、単にクロストーク禁止という意味だけなのでしょうか? いやいや、他の人の話に口を挟まなければ、何をしゃべっても良いというわけではありません。
AAミーティングは経験を共有(シェア)するものです。ミーティングにはテーマ(トピック)が出され、最初の人から順番に自分の話をしていきます。この時に、他の人の話を聞いて、自分の中で想起されたことを話すことが必要です。例えば誰かが「酒で仕事の失敗をして、大変惨めな思いをしたことがあったが、それでも酒はやめられなかった」という話をしたとします。自分も酒で仕事の失敗があったなら、それを話せば良いし、別の例えば酒で友人との約束を破ったという似たような話でもかまわないでしょう。
人はそれぞれ違う人生を生きているので、まったく同じ経験をすることはありません。けれど、経験を重ね合わせようという努力があれば、(先の例で言えば)どのような痛手も反省も飲酒の歯止めにならなかった、という事実が全員で分かち合われます。いわゆる集合知です。これによって、ミーティングの目的が達成されます。
ところが、まったく関係のない話をしたらどうなるでしょうか? 「今朝家族に言われたひと言が気に障って、一日が台無しになってしまった」とか「今日は歯医者に行きました」みたいな話をしたらどうなるでしょう。もし皆がそれをやり、単に集まっててんでんばらばらな話をしてお終いでは、共有するものなしに終わってしまいます。これでは「言いっぱなしの聞きっぱなし」ではなく、「言いっぱなしの言いっぱなし」です。
先ほど、ミーティングだけでは十分な効果が見込めないという話をしましたが、それでもミーティングにはちゃんと効果があり、だからこそAAはミーティングを大事にしているのです。けれど、そのミーティングが「言いっぱなしの言いっぱなし」になってしまって、経験も力も希望も共有されなければ、その効果も期待できません。
クロストーク禁止ですから、自分がしゃべっている間は皆が黙って聞いてくれます。人は誰だって、自分の言いたいことを言えばスッキリします。けれど、そのスッキリ感は回復とは違います。ミーティングの目的に沿わず、自分のしゃべりたいことを一方的にしゃべってしまう人は、会場の外で自分の話を聞いてくれる人間関係を持たない人です。ミーティングはそうした関係の代替物ではありません。
分かち合いができないのなら、なぜできないのか、そのことに焦点を当てていく必要があります。それはゆっくりした作業でもかまわないのかもしれません。
「そういう話じゃなくて、もっとこういう話をしろよ」
そう言ってくれるスポンサーなしに、ミーティングの効果を出すのは意外と難しいことなのかもしれません。
2011年03月07日(月) 死生観と終末期医療 なかなかニュースを見る時間もありません。朝のNHKニュースの冒頭部分と、新聞を少しめくるぐらい。あとは仕事中に時間があればニュースサイトを見ています。
ニュージーランド地震の行方不明者の捜索が終わりました。日本からも捜索隊が派遣されており、帰国した捜索隊員が、生存者を見つけられなかった無念を語っていました。
こうしたニュースに触れるために思うのですが、日本人は本当に「最後まで諦めずに」捜索を続けます。災害や遭難から何日も経過し、常識的に考えればもう生きている可能性はゼロに等しかろうとも「全力を尽くす」姿勢です。台湾や中国で起きた大地震の時には、他国(特に韓国)の捜索隊は、現場で生存者がいる見込みが少ないと分かるや、「我々は救助隊だ。遺体を掘り起こしに来たんじゃない」と別の現場に案内するように災害本部に迫ったのだそうです。一方日本の救助隊は、見込みがなくても作業を続け、見つかった遺体を丁重に扱っている様子がニュースで流され、なにかと日本に批判的な中国のネットニュースに一時さわやかな感動を吹き込んだこともありました。
国ごとのこうした違いは、文化の違い(死生観の違い)から来るのでしょう。
個人的な考えなのですが、「最後まで生きているものとして扱う」という日本人の価値観は、国学思想の影響が大きいのではないかと思います。日本人が日本古来の文化と信じていることの多くは、実は明治維新前後に人為的に導入されたものであることが多いのです。例えば皇室の行事も、これ以前は仏式だったものが、国家神道の導入とともに神式に変わって現在に続いています。神道では、死者は穢れであり、忌むべき対象です。だから、葬式の時には死者はまだ死んでいない病者として扱われます。
話を元に戻すと、日本人の価値観の中に「生を諦めず、最後まで全力を尽くす」という考えがしっかり根付いていることは確かです。
このことは終末期医療にまで及びます。実は先日いただいた精神科医の方からのメールには続きがあり、医療費削減が叫ばれている中で、医療費全体に占める終末期医療の割合の大きさに触れられていました。
65才以上の高齢者の医療費が、全体の半分以上を占めています。このすべてが終末期医療ということはないものの、いざ死期が近づくと家族の希望に従ってどこまでも延命治療が行われているのが現実です。人は人生の終わりに大量の医療資源を消費します。それに制限を加えるべきなのかどうか。
そこで医療費がかさめば、結果として子供の医療に十分なお金が回せず、精神科医療にも回ってこないわけです。終末期医療にどれほどのお金が費やされているのか調べてみたのですが、資料によって「多すぎる」と言っているものもあれば、適正だというものもあり、政治的意図の反映がうかがわれます。
老人医療の無料化を行ったのは田中角栄だと思っていたのですが、先日亡くなった美濃部元都知事は自民党の政策に先立って無料化を実現しました。高齢者へのばらまきは得票につながるのです。
結局この問題は、人生のどの時期にどれだけお金を使うか、という価値観にも結びついています。掲示板にいらしたシナさんがお住まいのフロリダ州には、リタイアした高齢者が移住した町がたくさんあります。そこでは、そこでは子供の教育にかける自治体の予算を削減しろという法案が通過してしまうこともあるのだとか(高齢者福祉の予算を確保するため)。民意(選挙結果)に任せておけばいい問題ではないのかも知れません。
処方乱用の問題から始まって、医療費の問題、日本人の死生観、人生における消費バランス、さらには民主主義の誤謬にまで話が転がってしまいました。
2011年03月05日(土) ストレスと食べること 突然の話で中国に出張に行っていたので「家路」はほったらかしでした。
なにせ、電話もネットもつながらない環境だったのです(さすがに仕事用の携帯は持っていきましたが)。中国のみやげ話はブログ「家出」のほうにおいおい書くことにします。
たった一週間なのに、その間に1.5Kg体重が増えました。僕は出張に限らず遠出をすると必ず便秘をするので、1.5Kgの大部分は肥満ではなく滞留なのかもしれません。でもやっぱり数百グラムは太っていることでしょう。
僕は高ストレス環境に置かれるとよく食べるようです。なにせ、朝7時から夜11時ぐらいまで働いていました(それからホテルに帰って食事や入浴だから、仮にネット環境があってもやっぱり「家路」は放置だったでしょう)。「食べたいから」というより、食べるしか楽しみがないから食べていたようなもの。しかもたいして美味しい食事でもないのに(ブログに写真を張る予定)。
ホテルで体重計に乗りながら、ふと思い出したのが、昨年2月の奈良で行われたリカバリー・ダイナミクスの講座に、講師として呼ばれていたラリー・ゲインズ氏のことです。Joe & Charlieのビッグブックスタディの二人の片方であるジョー・マクアニー氏は既に故人ですが、ラリーさんは後継者です。その彼が、講座で余ったポテトチップスの袋をいくつか抱えて「これから宿舎の部屋に戻ってこれを食うんだ」と嬉しげに話している様子を見て、僕は内心「あららら」とちょっと残念に思ってしまったのでした。
ラリーさんは身長が高く肥えている巨漢です。アルコールもヘロインもタバコもやめた人が、しかも糖尿病で薬を飲んでいるというのに、食欲が抑えきれないとはねえ・・とすこし呆れたのです。でも「それもストレスゆえかもしれない」と思い直しました。
ラリーさんはアディクションの人相手専門のカウンセラーです。経験が長いので直接クライアントの相手をするよりも、同じ分野のカウンセラーをトレーニングしていることの方が多いはずです。しかし、カウンセラーと言っても、アディクション・カウンセラーというのは伝統的に酒や薬をやめた「当事者がやる」ことが多いのです。カウンセラーになりたい人は、すくなくとも、酒や薬をある程度やめている期間があるだけビギナーよりマシではないか・・・と思ってはいけません。大差がないどころか、なまじ素面なだけに、口がたつのでやっかいだとも言えます。
アル中・ヤク中というのは、やめて何年経とうとも「素直なよい子」にはなれないものです。この点ではアルコールや薬物のような物質依存であろうが、ギャンブルのようなプロセス依存であろうが違いはありませんし、本人・家族の区別もありません。「やることもやらないクセに、口ばっかり達者」という連中ばかりです(僕もその例外ではないけど)。
ラリーさんのストレスをおもんぱかると、食べることでのストレス発散ぐらい目くじらたてることではないかも、と思い直したのでした。
ついでにスコット・ジョンソン氏のことも思い出しました。スコットさんは両親とも依存症で、自分もアルコールとヘロインの中毒になって回復し、その後カウンセラーとして修行した後に、ベティ・フォード・センターに勤めて家族プログラムの開発をしたことで有名です。
直接お目にかかったことはないのですが、奈良ダルクで開かれているカウンセラー講座のために長期滞在しており、その様子をちょこっと小耳に挟みました。糖尿病であることも、食べるのが好きなことも、そして太っていることもラリーさんと同じであります。
そういえば、セレニティー・パーク(ラリーさんの施設)の写真を見せて頂いたとき、スタッフの人の巨躯に驚いた記憶があります。「巨体」というのは一流のアディクション・カウンセラーになるためには避けて通れない道だったりしてね。
僕はアディクション・カウンセラーへの道を歩んでいるわけではありませんが、なぜか体重は増加一辺倒です。なんとかしなくては。
2011年02月23日(水) 薬物療法への偏りの原因 掲示板に「日本の精神医療が薬物療法に偏っているのは、薬物療法が安価だから」と書いたところ、精神科医の方からメールをいただきました。以下その内容をご紹介します(許可をいただいています)。
・・・
薬物療法に偏るのは、二つの原因があり、一つは「診療報酬上の問題」、もう一つ「薬物療法に偏った精神科医の教育の問題」です。このうち前者の影響が最も大きい。
保険証を持って医療機関を受診すれば、本人の窓口での負担が(たいてい)3割。残りの7割は保険者に請求され、審査の上で翌月か翌々月に支払われます。医療機関は収入のほぼすべてをこの診療報酬によっています。ただし、保険診療である限り、診療報酬は細目ごとにすべて価格が決まっており、日本全国どこでも同じになります。この診療報酬が、医療費削減の名のもとにどんどん削られ、かつてない低額になっています。
再来の場合、再診料が70点。通院精神療法が330点。処方料(処方をしたことに対する診療報酬)が42点。保険点数1点が10円で、合計4,420円。
院内処方の場合、これに薬価が入り、その額は人によって違います。
現在、薬代は仕入れ値と売値(請求額)が、ほぼ同額になっており、薬を出しても医療機関の利益にはつながりません。昔は仕入れ値が売値の6割だか7割だったことがあり、薬を出せば出しただけ、医療機関が儲かった時代がありました。薬漬けとか言われていたころです。(しかし、この方が医師になられた頃には、すでにそうした時代は過ぎ去っていたそうです)。
そういう訳で、薬は儲けにならず、患者さんひとりの外来での再診で、再診料+通院精神療法+処方料のざっくり4,400円の収入が医療機関に入ります。(検査などはまた別。また、初診の場合はもっと診療報酬単価は高い)。
・・・
ここまでがメール前半の要約です。
調べてみると、現在の薬の納入価格(医療機関にとっての仕入れ値)は、新薬で薬価基準の88%〜90%、ジェネリックで80%〜85%とあります(ソースはWikipedia)。これに消費税5%が上乗せされ(診療報酬側には消費税総額はなし)、在庫管理の費用が加われば、「薬価差益」で儲けるどころか、薬を出せば出すほど赤字になりかねません。
メールの後半では、よく言われる「3分診療」ではなく、一人30分を費やすクリニックを想定して、どんな収支になるか見積もっています。
これはクリニックを寿司屋に例え、客の好みも聞かずに大量の寿司を並べて押しつけるのではなく、「おれは客とじっくり対話して、本当に美味しいものを出す。客と寿司屋のコミュニケーションに最大限の時間を割く。精神分析療法と動機付け面接法と認知行動療法を取り入れた寿司屋にする」という情熱に燃えた若き寿司職人(医師)の行く末を書いた力作なのですが、申し訳ないけれどざっくり省略させて頂きます。
一人30分を費やすと、平日9時〜5時土曜は半ドンで営業したとしても、一月の診療報酬がざっと140万円にしかなりません。これで医師・看護師・医療事務・心理療法士の給料を払い、家賃や光熱費その他の経費が払える・・・わけがありません。
僕はIT技術者として働いていますが、自分の給料の3倍の粗利を上げてくれと言われています。自分の給料の他に、家賃や光熱費、営業費用、会社の借金の金利、非生産部門や管理部門の給与などなどをまかなうにはそれぐらい必要です。スタッフ4人のクリニックの収入が月140万円でやっていけるわけがありません。
では、カウンセリングの費用はどうなっているのか?
これはメールをそのまま引かせてもらいます。
・・・・
このように診療報酬が激安なため、医療機関は利幅が非常に薄いです。
臨床心理士のカウンセリングは、診療報酬が算定できません。「ただ」です。
心理検査には診療報酬が制定されているので、カウンセリングと同時に心理検査をちょこっとやって、何とか検査代だけは収入を得る、なんてことをやっている施設もあります。
また、家族面談、電話相談なども、もちろん診療報酬を請求できません。
ただです。
「本人とは別に会社の上司や家族がばらばらに来て、それぞれに病状説明」なんてのも、一円も収入になりません。
トイレのトラブル8千円、水道トラブル5千円。
心のトラブルは4,400円です。
クリニック経営で大もうけどころか、下手すると従業員のボーナスも払えない。まともに利益が出ないと雇用が維持できない。(一部略)
そういうわけで、日本の医療は診療報酬単価が安過ぎて、ひとりひとりに長時間の診療を行う余裕がない、というのが実情です。
・・・・
診療報酬が安すぎて、医療機関を成り立たせるために、一人当たりの診療時間を短くするしかない現状が見えてきます。また薬物療法以外を選択をしようにも、それに対する支払いの裏付けがありません。唯一利益につながる薬物療法以外に選択肢がなくなっているわけです。
掲示板で紹介した厚生労働省の「過量服薬への取り組み」には、「診療時間を十分に確保するために必要な支援を検討」するとありますが、現実の施策には結びついていません。
メールを送って頂いた方にお礼申し上げます。
2011年02月21日(月) 自助グループとは? 竹内達夫先生のお名前は存じていたものの、直接知己を得る機会はいままでありませんでした。
ところが昨年11月にIさんの結婚記念のパーティでお目にかかって以来、書簡のやりとりなどあって先生の考えに触れる機会が増えました。先日の秋本病院での研修会でもお話しをうかがうことができました。
竹内先生は医師にして依存症の当事者でもあります。全断連の顧問をされているので、断酒会の応援団の先生だとばっかり思っていたのですが、十年ほど前に保健所所長を定年退職されて以来、様々な領域で活動されているそうです。断酒会に限らず自助グループ文化全般に造詣の深い先生です。
先生のお話によれば、自助グループについては、国際的な定義は定まっていないものの、コンセンサスは得られつつあるそうです。
自助グループの4要件
・直接対面
・直接交流
・相互支援
・小規模
これからすると、直接対面することのないネット上の活動は自助グループとは呼べなくなります。(それから、メンバー同士の直接交流をいましめる某グループもだめなのかな)。
小規模という定義からすると、回復研では、何百人と人を集めて体験発表を聞く集会をやってますが、この集会だけしかやってなかったら自助グループとは呼べないわけだ(メンバーがやっている小規模な勉強会は当てはまるかな)。先生はこの「小規模性」というのを強調されていました。
ところで、自助グループという言葉は self-help group の日本語訳なのですが、最近「自助」という言葉を回避して相互援助グループ(mutual aid group)という言葉が推奨されています。
ミューチャル・エイド(相互支援・相互援助)という言葉は、2007年のホワイト先生の講演でアメリカでの新しい考え方の紹介として初めて聞きましたが、その後いろんな人の口に上るようになっています。今回も先生からその話が出ていました。
なぜ「自助」という言葉がふさわしくないのか?
「自助自立の精神」とか「自助努力」という言葉があります。自助努力を求めるという言葉は「自分で何とかしなさい」という意味です。自力・独力ということです。
しかし自助グループに来る人というのは「自分では何とかならなかった」人たちです。自助努力で問題解決できなかったからこそ来たわけです。そういう人たちの集まりに対して「自助」という言葉はふさわしくありません。支援・援助が必要な人たちがそうした支援・援助を授かる場所です(また同じ人が他者に対して支援・援助を与える場所にもなります)。
ただし「自助グループ」という言葉すらまだ世間に定着していない段階で、それを新しい言葉に置き換えることには戸惑いもあります。当面は自助グループという言葉が主に使われることでしょうが、「自助(相互援助)グループ」のような括弧書きも始まっています。
長い目で見れば、アディクションの分野でセルフ・ヘルプ(自助)という言葉は廃れていくのではないかと思います。
2011年02月18日(金) 精神医療の対象図
この図は12月の京都での発達障害とアディクションに関するシンポジウムで、京都大学の十一元三先生が使われたパワーポイント資料から抜き出したものです。ただ、今回の雑記は十一先生の話とは関係ありません。
精神医療が取り扱う病気を「心」「脳」「体」の三要素に分類しています。
このうち「体」の領域は内科などが診ることなります。
「心」と「体」が重なっている領域にある「心身症」は、ストレス性の胃潰瘍や過敏性大腸炎のように、心理的な問題が原因で体に不調が現れるものです。(心療内科とは本来この領域を担当するもの診療科だったはずなのですが、精神科と同化しているところもあります)。
「体」と「脳」が重なっている領域にある「症候性精神病」は、内臓疾患が原因で起こるものです。例えば肝臓病で代謝機能が落ちると、脳が影響を受けて幻聴が聞こえたり、見えるはずのないものが見えたりします。
「心」の病気として捉えられる範囲は意外と狭いことに気づきます。虐待による愛着障害や適応障害が含まれます。やんごとなき女人の病気は適応障害だと発表されていましたが、どうみてもうつ病ですよね。後述の「脳」の病気よりも、まだ「心」の病気の方が「まだまし」という価値観があるのでしょうか。
残るは「脳」の病気の領域です。ここに含まれる病気の多さを考えると、精神病とは脳という臓器の疾患であることがよく分かります。
統合失調症やうつ病は「内因性」の病気だとされます。内因というのは、素因(遺伝的な体質)と環境(ストレスなど)の組み合わせで発症すると説明され、心因性とも器質性とも区別されています。内因性という概念が考えられたのは、統合失調やうつの人の脳に器質的な変化(マクロな変化)が見あたらなかったからです。
しかし近年の検査技術の進歩によって、内因性の病気でも器質的な問題が大きいことが分かってきています。統合失調症の人の脳に萎縮が見られ、うつ病の人は前頭葉(前頭前野)の血流が低下していることが分かりました。この図で「脳」の病気に含まれているのは、そうした背景があってのことでしょう。
ちなみに、うつ病の人の前頭葉の血流が低下するのは安静時のことだそうです。なにかの作業に集中させると、血流は増加します。前頭葉は長期的記憶や予測、注意力、我慢強さ、創造性や意欲、実行能力を担っています。うつになるとこれらの機能が低下しますが、集中すれば(することができれば)機能が回復します。一方ADHD(注意欠陥多動症)の人の場合、集中しようとするとかえって前頭葉の血流が低下してしまうことが観察されています。とすれば、「がんばろうとすると能力が落ちてしまう」のがADHDの人のジレンマでありましょうか。
話を元に戻すと、発達障害もこの「脳」の領域に含まれます。
また、認知症、アルコールや薬物の依存症、脳梅毒なども、この「脳」の病気(器質性)に含まれます。
このように精神科の扱う病気は多岐にわたります。この図の中で、自分の抱える問題がどこにあたるか、という情報は本人にも周囲にもあまり役立つ情報ではないかもしれません。しかし、一口にメンタルな問題といっても多様であることは知っておく必要があると思い、雑記にまとめてみました。
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