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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年01月16日(日) ステップのやり方 > ビッグブックのステップと12&12のステップは どこが違うんでしょうか?
僕は12ステップはビッグブックに書かれたやり方に従うのが良いと考えています。同じように考えている人は少しずつ増えています。ただし、間違えないでいただきたいのは、その人たちが全員まったく同じやり方をしているわけではありません。ビッグブックに基盤を置きながらも、その解釈にはある程度バリエーションがあります。
例えば僕はジョー・マキューという人の解釈を重視しているのですが、別の考え方をしている人もいます。そうしたバリエーションを一括して「ビッグブックのやり方」とか「ビッグブックのステップ」と呼ぶことも可能です。
一方、「12&12のステップ」については、それが何を指し示すのが、僕にはハッキリとわかっていません。人に聞いたところでは、「12&12のステップ」とはビッグブックのやり方が日本に登場する前に、日本国内のAAで大勢を占めていたステップのやり方を示すようです。現在でもそのやり方でステップをやっている人は沢山いると思います。
そのやり方は「ステップ1・2・3の繰り返し」という言葉だとか、今までの人生を振り返ってノートなどにそれを書き記す棚卸しのやり方に特徴づけられると思います。ステップ4は「表を作る」となっていますが、このやり方では表を作らず、自由記述式なのも特徴でしょう。
ステップ5では、スポンシーは書いたことを見ながら、過去を振り返る話をします。スポンサーは主に聞き役です。ただ聞くだけというスポンサーから、積極的にいろいろアドバイスをする人までいろいろです。(これはスポンサーとスポンシーが一緒に表の中身を検討するビッグブックのやり方と対照的です)。
ただし、こうしたやり方を「12&12のステップ」と呼ぶのは不適切だと思います。なぜなら、12&12つまり『12のステップと12の伝統』に、具体的にこのやり方をしなさいと書かれているわけではないからです。それを「12&12のステップ」と呼ぶのは誤解の元でしょう。
だから僕はとりあえずそれを「古くからのやり方」などと呼んでいます。ではこのやり方はどこから来たのか? それについては、アメリカ帰りのAAメンバーに、あちらでも人生をストーリー形式で振り返る棚卸しのやり方が存在すると聞きました。
AAはアメリカから日本に伝搬したものですから、AAと一緒にストーリー形式の棚卸しのやり方も伝わって、それが日本で広がったのだと考えられます。
こんなふうに、日本のAAの12ステップのやり方には、AAと一緒に伝わってきて日本で独自の発展を遂げたやり方と、遅れて日本に伝わったビッグブックのやり方、大きく分けてこの2種類があると考えて良いでしょう。
どちらのやり方であれ、すでに回復を得た人にとっては自分のやったやり方をもっとも好ましく思うものなのでしょう。
2011年01月15日(土) こだわりんぐ 月刊「実践障害児教育」の1月号の特集が発達障害による不登校の特集で、その先頭の齋藤万比古の記事から抜粋です。
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「PDDと不登校」
PDDの子どもにとって、興味の中心は自己のこだわりの対象にあるという共通点があり、むしろ他者によりそれを妨害されることのほうが、孤立よりもつらいという面がある。思春期に至って他者の独白の心を認知できるようになり、仲間を求めるようになっても、一方でPDDの子どもは前述のような心性を色濃く維持している。
加えて、思春期の仲間関係の盛り上がりは、PDDの子どもに対するからかいや攻撃をエスカレートさせる。そしてその仲間の攻撃に刺激されて幼い時代からの非被虐待的体験やいじめられ体験の記憶が生々しくフラッシュバックし、恐れ、怒り、困惑といった感情が渦巻く混乱状態をPDDの子どもは生じやすいという事情がある。
これらはPDDの子どもから学校にとどまる動機を奪い、他者に妨害されないひきこもり的な生活へと傾斜させる。
以上の二点から、PDDはひきこもり状態に親和性が高く、そこから抜け出すことに動機をもちにくい傾向があると言えよう。
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PDDとは広汎性発達障害のことですが、この文章ではアスペルガーとか自閉症スペクトラムと読み替えても大丈夫です。また、これは子供についての文章ですが、「学校」を職場とかAAやGAと読み替えれば、そのまま大人に適用できます。
このこだわり(固着)の強さが障害の重さでもあります。どんなこだわりを持つかは人それぞれで、例えばネットの掲示板に書くことにこだわりがあったり、ブログのエントリの結びの言葉がいつも完全同一であったり・・・。
AAのバースディ・ミーティングだと、歌を唄ったりろうそくを吹き消したりするので、いつもと違ったミーティングの進行になるのですが、この「いつもと違う」ことに対して憤りを持つ人の姿を見ると、「ああ、なるほど」と思うわけです。(これはミーティングのやり方に対するこだわり)。
もちろん誰にだって多少のこだわりはあるわけで、こだわりそのものが悪というわけではありません。そのこだわりが本人の生き辛さとか、社会適応の障害になっているかどうか、という視点から見ないとならないのでしょう。
2011年01月14日(金) 働くということ 廣中直行著『やめたくてもやめられない脳』を再読しています。
なんのために読んでいるかというと、アルコールや薬物という「物質依存」と、ギャンブルや買い物のような「プロセス依存」について、脳の中で起きていることの違いを知りたいと思ったからです。
それについては、いつか書くとして、この本の中にこんな文章がありました。
<精神医学の考え方が変わってくるのと並行して精神的な成熟に対する社会の考えも変わった。私が学生生活を送っていた一九七〇年代後半まではまだ古い考えが残っていて、精神的な成熟とは、基本的には動物学的な概念だった。つまり成熟した人には食糧を手に入れる能力と繁殖能力がなければならなかった。食糧を手に入れる能力とはすなわち「世の中に出て」働く能力であり、もっと言えば官庁なり会社なりといった組織に属することのできる能力であった。繁殖能力とは「まっとうな」結婚をし、その生活を維持する能力だった>
その後、時代は変わり、人の価値観は多様化しました。成熟した人(=精神的に健全な人)であるために、組織に属して働いたり、家族を持つことが必ずしも求められなくなりました。人それぞれであっていいというわけです。
しかし、稼得能力+家族という価値観が圧倒的だっただけに、それにかわる強烈な価値観を一人ひとりが持つことは意外と難しいことです。
発達障害に関する文章を読むと、(特定子会社であれなんであれ)働けるようになったことが本人の自己評価に大きく寄与している様子をうかがうことができます。
断酒会の新年会に行った話はヨソで書きました。いろんな人といろんな話をしたのですが、気がついたことがありました。県内の断酒会は高齢の人が多いのです。AAが30〜50代が主力に対して、断酒会は60〜70代の人が多いのです。(都市部に行けば若い断酒会員も珍しくないのだそうですけど)。
この断酒会の人たちはすでに勤め人はリタイアして、仕事は田んぼだけという人も多いのですが、とまれ酒を飲みながらでも働き、やめた後はもちろん働いてきた人たちです。長く断酒会をやっている人たちも多いのですが、その人たちが会に来た頃は、酒さえやめれば、仕事も家族も失わず、失っても再獲得できる人が多かったのだと思います。つまり、それだけの能力を備えた人が多かったわけです。
だからこそ、仕事や家族を急いで求めずに、まず半年、1年、2年と断酒に専念しろというアドバイスが有効だったのでしょう。イネイブリングを止め、底つきを待つという戦略も有効だったのでしょう。
これからもそうした戦略が有効な層は存在し続けるでしょうが、違うニーズを持った人たちも増えている・・。
新年会でそんな話をしていました。
2011年01月11日(火) ステップを進める速度 スポンシーのステップ5「恐れのリスト」の分かち合いが終わりました。
まず簡単にストーリー形式の棚卸しをやって、さらに表形式で「恨みのリスト」→「恐れのリスト」と続けてきました。ここまで長くかかりました。今後「性のリスト」があって、お終いに「傷つけた人のリスト」が来るのですが、ここまで来ればあとは順調に流れるということは経験的に分かっています。
彼が棚卸しを書き始めたのは去年の5月だったそうなので、もう半年以上かかっています。この間、スポンサーとスポンシーの一対一でやるセッションは10回を越えているはずです(数えてないけど)。ビッグブックのステップのやり方をしている人だと、12ステップ全体にかける時間は数週間から数ヶ月程度でしょうか。だから、棚卸しだけで半年以上というのはずいぶん長くかかったことになります。
なぜそんなに長くかかったのか。それはステップを戻っていたからです。
彼が棚卸し表を書き上げて、さあステップ5だと意気込んで来たときに、僕は
「棚卸しを聞く前に、いったんいままでの復習をしよう。まずステップ1を僕に言葉で説明してくれ」と言ったのです。
彼は満足な説明ができませんでした。一生懸命棚卸し表を書いているうちに、ステップ1がどこかへいっていました。「ステップ1が抜ける」というやつです。それはステップ2、3についても同様でした。そこで「医師の意見」まで戻って、(最初の時ほど丹念ではないものの)もう一度ステップ1とは何かという分かち合いをしました。ステップ2、3も同様です。その時には赤本も使いました。
「私たちはいま、最後には自由な身となってくぐり抜ける凱旋門を築いている」(p.109)
ビッグブックでは12ステップを凱旋門を作る作業に例えています。ステップ1はその基礎、ステップ2は礎石(cornerstone)、ステップ3はかなめ石(keystone)です。どれか手抜きでも建物は倒れてしまいます。だから「基礎に流すセメントは足りなくはないか。砂を抜いたモルタルを作ろうとはしなかったか」というチェックをする勧めがあります。
スポンサーも、スポンシーも、ステップを自分で思い描いたスケジュール通りに進めたいという願望を持っています。しかし工期通りにできあがっても、欠陥建造物では回復は望めません。正しいタイミングというのは、スケジュール通りという意味とは違います。
言葉での説明を求めたのは、彼も将来はスポンサーを務めるわけで、その時に言葉で説明できなければ困るし、ステップミーティングで話ができなければ困るだろうからです。
そんなわけで、これからスポンサーに棚卸しを聞いてもらおうと意気込んできたスポンシーにとっては、すっかり出鼻をくじかれた格好になったのですが、それでやる気を失ってしまわないのが彼の一番良いところです。次からはきっちりと体勢を立て直してきました。
彼はぼくより若いので、将来的には僕よりたくさんの人を手助けし、結果を残す可能性は十分あります。ぜひそうなって欲しいものです。
掲示板とブログで案内をしましたが、今週末にビッグブックのステップのセミナーが板橋であります。ビッグブックのステップと言っても一様ではなくバリエーションがありますが、彼らについては紹介文にあるとおり「絆の強いスポンサーシップ」と「ビッグブックにより忠実」が特徴です。こんな雑記を読んでいるよりずっとたくさんのものが得られるでしょう。12ステップに興味のある方は、ぜひお出かけになってください。
http://www.ieji.org/dilemma/2010/11/116-aagg.html
2011年01月05日(水) fixed mindset と growth mindset 受験勉強を例に取ります。
頭の良い人は人は良い高校・大学に合格し、そうでない人はそれなりの所に合格する。
では、ある人が一生懸命勉強して、目標より1ランク、2ランク上の高校に合格したとします。その場合、その人は勉強の努力によって賢くなったのでしょうか?
「知能は人の土台をなすもので変えることはできない。新しいものごとを覚えることはできるが、賢さを変えることはできない」
そう考える人たちがいます。アメリカの心理学者キャロル・ドウェックは、こういう人たちを固定思考(fixed mindset)と呼びました。こう考える人たちは、失敗を避け、知的に見えるように振る舞うことで、スマートな自分を誇示しようとします。
この人たちは自分に対する否定的評価を恐れます。例えば失敗を隠そうとします。マイナスの評価は大きく自尊感情を傷つけてしまい、その評価を覆すのは容易ではないからです。また、自分より劣った者と比較して優位感を保ちます。人の間違いを指摘することを、自分の優秀の証と捉えるからです。
一方、努力によって賢さを伸ばせる(知能は変えられる)と考える人たちを成長思考(growth mindset)と呼びます。努力によって成長し続けられると考える人にとって、人生とは成長そのものです。失敗によって自分の価値が決まることはないので、失敗を恐れないし、それほど恥じることもありません。
参考リンク:自分の能力を固定的に考える人と成長し続けると考える人
http://d.hatena.ne.jp/himazublog/20060318/1142697735
僕はネットで雑記を書いているわけですが、当然完ぺきな人間ではないので雑記や掲示板では間違ったことも書いてしまいます。親切にその間違いを指摘してくれる人もいます。それは大変ありがたいことです。
中には間違いを指摘したのに、僕が思ったほど凹まないのを意外に思う人もいるようです。おそらくその人は fixed mindset の人で、皆の前で間違いを指摘されて落ち込んだ経験があり、僕が同じ反応を示さないことが気に入らないのでしょう。
その種の失敗を恐れていていて雑記は書けません。間違いを指摘されたから僕の価値が減じてしまうわけでもありません。逆に僕がより賢くしてもらえたのですから。つまり僕は growth mindset の人だと言いたいわけです。(だからといって、掲示板で自閉圏の固着に付き合いたいとは思いませんけど)。
では、この二つのタイプのどちらが12ステップに向いているでしょうか?
それは growth mindset の人ではないかと思います。fixed mindset の人は、あえて自分の欠点(つまり失敗)を探す表形式の棚卸しには心理的抵抗を示すからです。
ドウェック先生の話に戻します。この二つの違いは、人格の根本を成すものですが、あくまで考え方に過ぎないので変えることができます。スポンシーが fixed mindset を持っているようなら、growth mindset に変わるように導くことが必要なのでしょう。そのためのヒントは上のリンク、ドウェック先生の話の中にあります。
参考キーワード:実体理論、拡大理論
fixed mindset の人は自分より劣った者との比較を好みます。それは逆に自分より優れた人との比較を恐れ、回避することでもあります。「スポンサーとスポンシーは平等だ」と強調する人は、この fixed mindset のタイプなのでしょう。
そりゃもちろん、スポンサーだろうがスポンシーだろうが、人として平等なのは当然です。でも、それを言ったら教師と生徒も、医者と患者も、人としては平等です。でも、生徒は先生の、患者は医者に従わなければ勉強も治療も成りません。
「スポンシーってのはスポンサーのドレイだよ。反抗は許さん」と言い切っちゃう人もいます。こういう人が嫌われるかというと逆で、スポンサーとして大人気だったりします。人として平等だけれど、スポンシーはスポンサーの指示に従ってくれないとスポンサーシップにならないのであります。
2011年01月04日(火) 新春発達障害ネタ 今年もよろしくお願いします。
そして今年もいきなり発達障害ネタからです。
名古屋の杉山先生が書いた文章に、こんな話がありました。
新しく来た看護師さんが先生の元で仕事を続けていると、患者さんの「ああこの人のこの部分が発達障害なのだ」と分かるようになってきます。やがて来る人全員が発達障害を持っているかのように見えてしまうのだそうです(もちろん、そうではない)。
発達障害とは何かというと、その人の持っている能力のバラツキです。分かりやすい例えをするなら学校の成績を思い出して下さい。成績の良い人は5教科すべてで高い点数を取り、成績の悪い子は全般に点数が低くなります。けれど教科によって得手、不得手があって、算数が得意だけれど国語がダメとか、英語ができるけれど理科の点数が多少低いなどと、点数のバラツキがあるのが普通です。
これは勉強以外の分野についても同じで、自閉圏の人は記憶力に優れるので学校の勉強はできるのですが、一般化や想像する能力が低いので、人の輪から疎外されやすいのです。
それほどの偏りでなくても、スポーツが苦手だったり、本を読むのが苦手ぐらいはいくらでもある話です。できる人は何をやらせてもうまいし、逆に神さまの恵みがその人のどこに隠されているか探すのが大変な人もいます。能力の全般的な高低だけでなく、その人の中でバラツキがあるものです。
もちろん、このバラツキすべてが「障害」ではありません。
杉山先生は「発達凸凹」という概念を提唱しています。人間は誰でも能力の発達の凹凸(つまりデコボコ)を持っているものです。そのことが社会の中で暮らしていくのに支障になっていなければ「障害」と呼ぶのは適切ではありません。しかし、そのデコボコ(凹の部分)が、生活に影響したり、人間関係を維持するのを妨げるようになると、精神的なトラブルを起こすようになります(適応障害)。
杉山先生は、発達凸凹+適応障害→発達障害という視点を提唱されているわけですが、医者でない僕としては適応障害という精神疾患に限らず、社会適応全般の障害も加えて考えた方が良いと思います。
中学校→高校→大学→就職という人生のステップ(階段)を考えたとき、一つ上との段差は小さいし、周りのみんなと一緒に上がっていけます。だから大きな発達凸凹を抱えた人も定型発達の人と一緒に階段を上がれます。だから、人生の中途までは順調に見えるわけです。
けれど、その人の能力の凹の部分がどこかで足を引っ張ります。それが適応障害のうつ症状となって現れたり、アルコールや薬物の依存として目立ってくるわけです。そうして仕事や家族を失うと、今度は復帰するために階段を一ステップずつ上るのではなく、一度に大きな段差を乗り越えねばなりません。
定型発達の人はその大きな段差をなんとか乗り越えることができても、凸凹の大きな人は凹の部分が妨げとなって乗り越えられず、ふたたび階段の下へ落ちてしまうわけです。こうした社会適応の障害がある場合は、やはりその凸凹を「障害」と呼ぶのが相応しいのでしょう。
都市部のAA会場に行くと、年単位で酒が止まっているのに生活保護で暮らしている人の存在が珍しくありません。見れば知的障害も精神障害もありそうにない。就職しようとしても仕事が安定せず、最悪ストレスで再飲酒&再入院という結果になってしまうのだそうです。今後時間はかかるでしょうが、発達障害についての社会資源が増えていけば、こういう人たちも適切な支援を得て社会復帰していけるでしょう。ただ、それが何年先の話なのか。
政府の税収不足を背景に、福祉に使う金を削ろうという動きがあります。単に生活保護を受ける人数を減らそうとするのではなく、発達障害に対する適切なサポートを増やすべきです。そうした分野が一つの産業として成立するぐらいになれば、生活保護受給者が納税者に次々変わって、政府だって潤うはずです。
2010年12月31日(金) 今年も1年ありがとうございました Webalizerの出力データ。
今年一年の統計データ
送出バイト数 68.0Gbytes
訪問者数 70万8千
リクエストページ数 378万
リクエストファイル数 630万
リクエスト数 600万
今年も多くの皆さんに訪問していただいて、本当にありがとうございました。
一日の訪問者数2,000人足らずというのは、大きな変化がありません。
今年を振り返ってみると、AA的に大きなトピックはスポンサーシップにありました。
話はいきなり逸れます。グループホームや作業所を作ろうと活動している人たちの話を聞くと、障害を持った子供たちも18才までは養護学校で面倒を見てもらえて、親として大変ありがたい。ところが18才を過ぎた途端に、社会的なサポートがぐっと少なくなり親の肩にずっしりとかかってくるというのです。
また統合失調の親御さんたちの話でも、「自分たちが死んだらこの子の面倒は誰が見てくれるのか、これでは死ぬに死にきれない」と言います。「この子」といっても30代、40代の中年になっているわけです。
同じような問題は、アルコールや薬物依存の「この子」たちにも言えます。
「配偶者(奥さんとか)子供と同居」「単身」「親と同居」の3種類のパターンを比較したときに、一番社会的回復に時間がかかるのが「親と同居」のパターンです。もちろん、一概にものを言ってはいけなくて、仕事をしながら老親の面倒を見ている立派な人もいます。しかし、家族や仕事を失って実家に身を寄せ、親の年金で暮らしている依存症者も少なくありません。とりあえず家賃や食費の心配をしなくて済むぶん、社会的回復が先送りされている面があります。
これは、学校卒業後に親から自立することなく就労体験の少ない人にとっても、あるいはいったんは経済的に自立し結婚生活を営んだ後に親元に戻った人でも同様です。この両者にあまり差はなさそうです。
特に男性にとっては老いた母親の作る料理や身の回りの世話、年金などは(経済的不自由に目をつぶれば)それなりに快適なものです。母親がおらず父親だけとの同居だとそれほどの快適性はないみたいですが。
親の心配としては、やっぱり「自分たちが死んだらこの子の面倒は誰が見てくれるのか」ということです。そもそも人の世話にならなくて済むように、経済的に自立して、生活のことも自分でできるようになって欲しい、と息子に願うのが親の気持ちです。
昔だったら、そんなケースでも「2年ほど毎日ミーティングに通わせて、しっかり酒や薬を切るのが先だ」とシンプルなアドバイスをすれば良かったのです。それは酒や薬が止まれば仕事もできるようになる、「酒をやめられれば何とかなる」という前提条件が成り立っていたからです。
しかしその条件が成り立たないケースが増えてきたというわけです。この年齢でなんとかしなければ、親が亡くなってしまった後は、生活保護でどこかの施設に入るしかない・・いま何とかしなくては。スポンサーをやっていて、つくづくそういうことを感じさせられました。
さて、今年最後のミーティングに行って参ります。なんだかんだ言っても、ミーティングがあって、ステップがあって、根本的な酒の問題が解決できるからこそ、その先の問題で悩めるわけですから。
皆様良いお年を。
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