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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年11月17日(水) ミーティングのテーマ 僕のホームグループ(AAで所属するグループ)では、毎回ビッグブックを読んで分かち合いをしています。ミーティング・ハンドブックという小冊子は使っていません。クローズド・ミーティングでは12ステップに関する部分を読み、オープン・ミーティングではステップ1と2に関係する部分とドクター・ボブの物語を読んでいます。つまり話はアルコールのことか12ステップのことです。
日本のAAミーティングでは、分かち合う話題として毎回違った「テーマ」(つまり今日のお題)を決めているところが大多数でしょう。僕らのグループではそういったテーマは決めず、「お話しは今日読んだところに沿った内容でお願いします」と言っているだけです。
これはどういうことかというと、
「文章を読んでその内容を理解し、内容に沿った自分の体験と考えを数分で話せ」
ということです。やってみると結構難しく、最初に話をする司会者からしてすでに逸脱することもしばしば、というのはご愛敬です。無理して本に話をあわせることをせず、今の自分に必要な話をする人もいます。ともあれ「ビッグブックに沿ってアルコールかステップの話に集中しよう」という理想だけは高く掲げています。(そうすれば同調圧力も働くしね)。
たまに隣のグループにお邪魔するのですが、そこでは12&12かビッグブックを読んでミーティングをしています。司会する人によってはテーマを決めることもありますが、本を読むのであればいつものホームグループと同じスタンスで話をすればいいので気楽です。
実は昨夜、仲間のバースディミーティングで普段行かない会場を訪れました。そこではハンドブックの3章を読んだ後、テーマが出され、すぐに分かち合いに入りました。僕がAAにつながった頃は、こういうスタイルのミーティングばかりでした。今でもたまにこういう「テーマミーティング」に出ることもあります。だから、慣れているはずでした。
ところが、出されたテーマを聞き、これはどのステップの話だろうと考え出したら、頭が真っ白になってしまいました。悪いことに司会者とバースディの人の次に順番が回ってきてしまい、何を話したらいいか頭の中で考えるヒマもありませんでした。よっぽど話をパスしようと思ったのですが、せっかく来たのだから「バースディおめでとう」ぐらいは言いたいこともあって、その後しどろもどろな話をしてしまいました。とほほ。
これは、何が良いとか悪いという話ではなく、自分の普段のスタイルと違う慣れないことをするのは戸惑いの元だという話です。逆に普段テーマミーティングにばかり出ている人が、僕らのミーティングに来たら「なんだこれ?」と思うかも知れません。
「アメリカには日本のようなテーマミーティングはない」と断言する人もいますが、実際にアメリカに行った人によれば必ずしもそうではないようです(似たようなものはある)。topic を決めて分かち合うのは discussion meeting というのだそうです。ただ、そのトピック(=テーマ)は「何でもあり」ではなく、回復の役に立つAAのプログラムに沿ったものが意識的に選ばれるそうです。
NYのGSOのサイトに「ミーティングお勧めテーマ」が掲げられています。
SUGGESTED TOPICS FOR DISCUSSION MEETINGS
http://www.aa.org/subpage.cfm?page=120
一般的なトピック
・12のステップ
・12の伝統
・「ビッグブック」の各章
・「ビルはこう思う」を読んで
・「どうやって飲まないでいるか」を読んで
・AAのスローガン(おのれはおのれ人は人、気楽にやろう、第一のことは第一に、HALTなど)
特定のトピック
・受け入れること
・感謝の気持ち
・ハイヤーパワーへの信仰
・自己満足(ひとりよがり)
・調べもしないで頭から軽蔑すること
・依存
・恐れ
・許し
・ソブラエティで得た自由
・グループの棚卸し
・希望
・謙虚
・アイデンティフケーション(=自分をアルコホーリクだと認めること。話の始めにアルコホーリクの××ですと名乗ることも含む)
・不全感
・棚卸し
・怒りを手離す
・友人とは友好的に(=専門家援助職との協力)
・今日一日を生きる
・埋め合わせをする
・黙想
・開かれた心
・参加して活動する(=AAに)
・忍耐と寛容
・個人的な霊的体験と霊的目覚め
・やることの計画を立てる――結果(の計画)ではなく
・私たちのすべてのことにこの原理を実行する
・個人ではなく原理(に信頼を置く)
・幻影――未来の残骸の中で生きる
・恨み
・私たちの責任
・徹底した正直さ
・(心の)平安
・サービス
・スポンサーシップ
・最初の一杯を遠ざける
・全面降伏
・三つのレガシー、回復、一体性、サービス
・12番目のステップを行う
・12の概念
・アノニミティを理解する
・AAのメッセージを運ぶ方法
・ソブラエティとは何か
・意欲
・仲間と共に
・・・ちょっとハードルの高いトピックかもしれませんが、こういうテーマでミーティングをすればグループもメンバーも成長できるように思います。
2010年11月15日(月) 回復研フォローアップ 先週末の回復研の集会で質疑応答のコーナーがあり、そのなかでACの方から、
「ステップ4で過去のことを棚卸し表に書こうとすると、フラッシュバックが起きて具合が悪くなってしまう」
という質問がありました(言葉は正確ではないけれど、だいたいこういう意味だったと思う)。司会者が僕に振ったので、僕が答えたのですが、限られた時間の中で説明できなかったこともあるので、ここに少し書いておこうと思います。
僕は棚卸しでフラッシュバックが起こる人をスポンシーに持ったことはないので、経験からどうしたらいいかという話はできません。だから、他の人が分かち合ってくれた経験を伝えることにします。回復研というのは、ジョー・マキューという人が確立したステップのやり方を紹介していくのが目的です。AAやNAのメンバーがこのやり方でステップをやれば、それは「ジョーのステップのやり方」でやったということになります。これを回復施設のプログラムとして仕立て直したのが「リカバリー・ダイナミクス(RD)」です。
この「ジョーのステップ」とRDを日本に紹介したのがIさんです。ジョーのやっている施設に一ヶ月滞在して日本に戻ったIさんは、さっそくこのやり方を何人かに試してみました。この時期たまたまIさんの周りにはACの色彩が濃い人たちが集まっていたようです。ところが、その人たちがステップの途中で具合が悪くなってしまいました。そこで、まだ存命中だったジョーに相談したところ、強いトラウマは12ステップではなく、専門家の手によって解決すべきだというアドバイスをもらったそうです。(しつこく何人も試さず最初の一人か二人で気づけよってツッコミはともかく)。
また(僕は記述箇所をみつけていないのですが)、ジョー&チャーリーの本にも強度のトラウマは棚卸しではなく専門家の手によって解決すべきだとあるそうです。
もちろんステップによってトラウマの問題を乗り越えた経験を話している人もいますし、ビッグ・レッド・ブック(BRB)のステップでは被虐待の問題を取り扱っており、ステップがトラウマの解決に役に立たないわけではないでしょうが、強度のトラウマには専門家による解決をお勧めすることにしています。
つい何ヶ月か前、西澤哲先生の一般向け講演を聞く機会に恵まれました。この先生は被虐待やトラウマの専門家で、プレイ・セラピーという手法を使われています。その技法はステップとは異なるものです(何らかのバリエーションではないという意味)。話を聞いた印象では、トラウマを乗り越えて得た自己像と、12ステップによって回復した人たちの自己像は、共通するところがたくさんあるように思いました。おそらく精神の健康という点では共通しているからでしょう。また、最近日本に紹介されているEMDRもステップとは異なる手法です。
とすれば、「ステップがトラウマに歯が立たないとは言えない」ものの、強いトラウマを抱えた人がステップにこだわるのはリスクが大きく、専門家の手にゆだねた方がよいと言えます。トラウマを乗り越えてからなおステップをやりたければ、その時にやればいいと思います。
それとは別に発達障害のことを書いておきます。発達障害を抱えた人にRDが効果があるかどうか、というのは大事な話です。
今年の2月にダルクの招きで、ジョーの後継者であるラリー・Gが奈良でRDのワークショップを行い、僕も参加させてもらいました。発達障害のことを尋ねてみたかったのですが、皆に関係のある話でもないので質疑応答の時間は使わず、昼食を済ませたあとのラリーをつかまえて質問してみました。
「セレニティー・パーク(RDの本拠的施設)では発達障害の問題に対して何かケアをしているのか。また、アメリカでの依存症と発達障害の重複障害の現状を教えて欲しい」
という僕の尋ねに対し、セレニティー・パークでは発達障害を抱えた人は扱っておらず、他の施設へ紹介している。アメリカでは発達障害を抱えた依存症者は、その人たち専門のグループに通い、専門的なケアのできる施設に通っている、という答えでした。
ジョー&チャーリーにせよ、RDにせよ、すでに30年以上の経験が積み重ねられています。その中で強度のトラウマや発達障害に対する適用には慎重な姿勢が作られてきました。僕はそうした実体験はありませんが、先達の経験は尊重するべきです。ジョー、チャーリー、ラリーの経験に対して異を唱えて無謀をする必要はありません。彼らの自らの限界を知る姿勢は好感を呼びます。
何でもステップで解決できるわけではなく(当たり前の話)、個別の問題には個別の対応が必要です。自助グループでスポンサーをやっている人が、そうした専門的な技量を持つ必要はないし、それを求められてもいません。ただ、自分の限界をよくわきまえておき、必要に応じて専門家につなげることが求められているわけです。
2010年11月10日(水) 帰結主義? MATRIXについての話を聞いているとき、考えたことです。
MATRIXというのは依存症の新しい治療枠組みで、MI(動機付け面接)とCBT(認知行動療法)を組み合わせたものです。そのなかで、家族の対応についての話でした。
飲んでいるアル中は孤独で淋しいものです。そこで本人がトラブルを起こしたとします。たとえば家の中で酔って暴れるとか、外で酒を万引きしてくるとか。すると家族は本人に関わらざるを得ません。片づけしたり、説教したり、怪我の手当てをしたり・・・。家族は本当だったら自分たちの生活、自分たちのやりたいことがあるのですが、それを一時中断して本人に関わらざるを得ません。ここで本人は、飲んでトラブルを起こせば家族にかまってもらえて淋しくない、ということを学習してしまいます。
そこで何らかの介入があって、本人が酒をやめたとします。すると家族は「やれやれ」という感じで、それぞれの生活に戻っていきます。飲まなくなった本人は、ぽつんと一人取り残されて、淋しくなってしまいます。再飲酒してトラブルを起こせば、また関わってもらえる・・・。
こんなふうに、家族の対応の仕方が、本人に再飲酒のメリットを与えてしまうのであれば、この構図を逆転させなければなりません。飲んでない時にはごほうびをあげ、やさしくしてあげます。飲んでいるときには冷たくします。ごほうびといっても、酒をやめるたびにディズニーランドのホテルに泊まっていたのでは金がいくらあっても足りません。簡単で反復できるレベル、せいぜい「一緒にテレビを見てあげる」とか「好きな料理を作ってあげる」程度のことです。冷たくするとしても、露骨な罰ではなく、例えば「駅まで車で送ってあげない」程度のこと。
その話を聞いてふと思ったのは、これって「なんとか本人に酒を飲ませないように、家族が努力する」という構図とどう違うのか、ということです。これを実行して、その結果に家族が一喜一憂するのなら、それは共依存として今まで否定されてきたことではなかったのか・・・。
この疑問に対する回答は「それは結果による」のだそうで、飲酒問題の解決の役に立つのならそれで良いとするわけです。(共依存は飲酒問題の解決の役に立たないことを示す)。
そうか、なるほど帰結主義か。
(最近サンデル教授のファンになっているのでそんな言葉を使っちゃいます)
例えば、子供も大人と同じ人権があって、平等に扱わなければならないわけですが、かといって子供の意見を尊重して好きに行動させるわけにはいきません。
虐待とは何かを考えてみます。例えば教育は、子供を一日部屋に閉じ込めて、やりたくもない勉強を無理やりさせるわけです。これは虐待ではないのか。しつけはどうなのか。しかし帰結主義的に考えれば、教育はその後のその子の人生の役に立ちます。身辺自立といって、身の回りのことが自分でできるようになること。また最低限の礼儀をわきまえることなど。しつけによって身に着けるしかありません。
子供の自由を奪い、やりたくないことを無理にさせたとしても、その教育やしつけによってその後の人生をつつがなく生きていけるのであれば、それは子が幸福に生きる権利を尊重したことになるわけです。
つまり権利の尊重、相手への思いやりとは、相手の当座の欲求を満たしてあげることではなく、長い目で見たとき相手に役に立つことが必要です。
さて、メンタルなことに話を戻しましょう。
心のトラブルを抱えた人には、優しく受容的に接することが必要なのでしょう。けれど、「癒し」とやらを重視するのも考えものです。居心地のよさを提供されると、その人はその調子の悪い状態にとどまろうとします(ある種の疾病利得)。具合の悪さを維持するような接し方は、手助けとかサポートとは違うものです。癒しが人殺しの論理になってしまいます。
その人に変化を促す手助けは、冷たい態度に感じられることが多いはずです。しかし、冷たいと言われようが、上から目線と言われようが、それは仕方ないことです。
2010年11月09日(火) 発達障害と12ステップ 掲示板でのやりとりをご覧になれば、12ステップがある種の問題には効果を示さない(示しにくい)ことが見て取れると思います。
12ステップはconfrontation(直面化)が基盤です。自分がアルコールへのコントロールを失っているという事実に直面することが大事です。直面するからこそ、「アルコールに対して無力である」と認められるわけです。しかし依存症は否認の病気であると言われるように、「不都合な真実」に直面するの避けようとする心理が働きます。たとえば、飲んでいた頃は酷いこともしたが、それは酒に酔ったせいであって、しらふの今は正気である・・という言い訳のように。
さらに先のステップに進むと、自分の中にある恨み(怒り)、恐れ、人に与えた傷に直面していきます。その自省によって自分への洞察が生まれます。さらに先のステップでは人に与えた傷について謝罪や補償する行為を通じて、自分の心の中の汚れをぬぐい去っていきます。内面の変化が行動の変容をもたらします。
しかし、自分が人に与えた傷に対して直面できない人たちがいることに気づかされます。「人を傷つける」というとたいそうな言葉ですから、迷惑をかけるとか、非礼をするという言葉で置き換えても良いでしょう。それは、人を傷つけて平気でいる(罪悪感を持たない)かのように見えるわけです。
ある種の人たちは、自分の言動が非礼であることに気がつけません。そして相手がいきなり怒り出して当惑します。そうした相手を責めるか、自分の何が悪かったのか分からず悩みます。あるいは、相手のちょっとしたひと言やしぐさに囚われ、相手が自分を嫌っているのではと勘違いして、疎外感や孤独感を感じます。(逆に愛していると勘違いするときもある)。言葉の行間や、婉曲表現、場の雰囲気を理解できません。あいまいな概念を把握できず、字句をその字面通りに解釈します。
これは広汎性発達障害の特徴です。このジャンルには、アスペルガー症候群、自閉症(カナー型)、高機能広汎性発達障害、PDDNOSが含まれます。共通するのは想像力と言語の障害です。人の気持ちを理解することが難しく、結果として人を傷つけたことが理解できません。
人を傷つけたことが自覚できない。あるいは、人が別に傷つけてこないのに、恐れを感じ、相手に恨みを持つ。こうした人の行うステップ4・5(棚卸し)の自己洞察は、常人の理解を超えた世界になりがちです。というのも、棚卸しというのはその言葉通りに(商売の棚卸しでも、自分の棚卸しでも)「事実に基づいて行う」必要があるのですが、広汎性の認知の特性によって表に書かれたことと、事実の間に乖離が生じてしまい、望ましい自省に結びつかないのです。
それでもその人なりの掃除が行われれば、心の風通しが良くなって目覚めも経験するようです。だが、その回復の姿は「ひとりよがりの回復」という印象を与えるものになります。
またこれとは別に、認知は正しいのに自己洞察がうまくいかない人たちがいます。
残念ながら、そういうタイプの人たちと深く長くつきあった経験がなく、棚卸し表も拝見したことがないのですが、おそらくは表の中身は事実と大きく乖離してはいないでしょう。ところがそれによって得た自己洞察を長く保持することができないのです。興味関心の対象が移ろいやすく、自己洞察ですらすぐに消えていってしまうのです。
これはADHD(注意欠陥・多動性障害)の特徴です。このタイプの人たちは、同じことで悩み続けることができません。しかししばらくすると同じトラブルを起こして、また同じことで悩んでいます。結果としてこういう人の回復したという主張も「ひとりよがり感」を与えることになります。
どちらのタイプでも、障害がそれほど重くなければ、ステップは「その人の内面には」効果を示す可能性は十分にあると思われます。実際明らかにそう言うタイプの人でも自分が変化したと言う人がいます。しかし内面の変化が、行動の変容へと結びつくとは限りません。なぜなら、障害は残ったままで解消したわけではなく、その障害にステップは効かないからです。また、障害が重ければ、ステップを進めることができなくなる場合もあります。
ついでに書いておくと、広汎性(PDD)とADHDはふたつに明確に分けられるものではなく、中間タイプや重複した人もいます。
困ったことにこの種の障害を抱えた人に限って、「ステップは万能である」という意識にとりつかれます。彼らは12ステップが人生の困難のすべてを解決してくれると信じてしまいます。もちろんそうではありません。12ステップで糖尿病は治らないし、なくした足が生えてくることもありません。糖尿病には糖尿病の治療が、足が悪い人には松葉杖や車いすが、目が悪い人にはメガネが必要です。ステップ万能論の危険は、目が悪い人からメガネを取り上げることにつながることです。
では発達障害にとって、メガネや車いすに相当するものはあるのか。残念ながら大人の発達障害に対する対策は近年始まったばかりで、本当になにもなく、すべてはこれから、と言っていいぐらいです。しかし、子供の発達障害については、すでに10年、20年経験が積み重ねされており、各地に専門家がいます。子供の発達障害も、大人の発達障害も、その対応には大した違いはありません。すでに得られた経験を、大人に適用していくことは有効です。
実はスポンシーの一人がこのタイプのトラブルを抱えていて、彼との毎日のやりとりをこの雑記に書けたら関心のある人にとってはとても興味深いと思われます。もちろん、プライバシーや守秘のことがあるので、書くわけにはいきません。いつかたくさん経験を積めたら、総合的な話をここで書くことができるかもしれませんが。
残念ながら12ステップではすべての問題は解決できません。足の悪いのや目が見えない障害だったら周りの人にも分かりやすく、それが障害だと理解してもらいやすいのですが、ADHDやPDDは障害だと認知しづらく、本人にとっても周囲にとっても誤解の元です。
PDDやAHDHは心の問題だと勘違いされやすいゆえに、12ステップで解決できる(解決した)ような話になってしまいがちです。けれど、ステップでそれを解決しろと言うのは、足の悪い人から車いすを取り上げ、目が悪い人からメガネを取り上げるのと同じ行為で、実に困ったものなのです。また、本人の側もやっぱり否認が強いわけであります。
2010年11月06日(土) アルコールが最も危険な薬物 イギリスでは違法薬物をその危険性に応じて三段階に分類している(クラスAが最も危険)のですが、David Nutt教授の属していたACMDというのは、科学的根拠に基づいてそのクラス分けを内務大臣に勧告する役割を負っていました。
ところがこのNutt先生「薬物の危険性は過大評価されている」という論文を発表してしまったのです。その論文によれば、違法薬物による害は人生の他の活動(例えば乗馬)による危険と大差はないというのです。例えば乗馬のせいで毎年10人が亡くなり、100件の交通事故が起きているが、それが乗馬依存症候群と呼ばれて禁止されたりしない。しかしこれはエクスタシー(MDMA)による害と「大差ない」し、乗馬を禁止すればこれらの被害は社会から取り除くことができる、と。
この論文は違法薬物撲滅運動をやっている人たちの怒りに火を付け、Nutt教授はクラスA薬物である大麻をクラスBに格下げしようとしている危険人物という烙印を押されてしまいました。大臣はNutt教授に対して「薬物の危険を軽視した」ことで謝罪するように要求しましたが、教授はこれを拒否。さらにACMDは格下げを勧告したものの、大臣はハッキリとこれを拒絶。これを教授は「科学的根拠を無視した政策決定」と非難し、大臣からクビを言い渡されてしまいました。
しかしNutt教授はこれで引き下がる人ではなかったようで、政策の影響を受けない独立した薬物研究機関を設立。他のメンバーと一緒に新しい論文をLancetに発表しました。これが昨今ニュースで流れていた「アルコールが最も危険な薬物」という話です。
こちらの新しい論文では、薬物による精神的、肉体的ダメージ、犯罪が社会に与える害、家族の苦境、環境や経済的ロスなどを総合し、使った本人が被る個人への害と、社会が被る害の二つに分けて評価してあります。
結果、個人が被る害が大きいのは、ヘロイン(34)、コカイン(37)、覚醒剤(32)。社会が被る害が大きいのは、アルコール(46)、ヘロイン(21)、コカイン(17)の順。かっこ内は点数です。両者を足した総合点では、アルコールが72点で第1位、ついでヘロイン55点、コカイン54点となっています。
これによれば、アルコールの害はタバコやコカインより3倍も多く、MDMAの危険性はアルコールの8分の1。新たにクラスBにランクされたメフェドロンよりもアルコールは5倍も有害なのだということになります。
アルコールの害が大きくなるのは、一人ひとりに与える害は小さくとも、社会で大量に消費されているがために、社会全体からすれば大きな被害を被っているというわけです。
BBCの記事では、この論文に対する酒業界の反応も載っています。酒を乱用するのは全体から見れば少数派で、残りの多くは社会的な飲酒を楽しんでいる、としているものの、アルコールの乱用は社会の重大なリスクであり、それを恐れているともあります。社会に対するアルコールの害が深刻化すれば、20世紀初頭のアメリカの禁酒法のような極端な施策も行われかねません。そうなってしまったら、酒を造り売る業界はほぼ根絶やしになってしまうのですから。
醸界ニュースという酒造・酒販業界のニュースメディアに、酒の安売りによって酒販業者の生活が脅かされており、政府が酒類の販売制限を行うように政治的なアピールを行っている、というニュースが流れていました。酒というのは半額にしたからといって倍売れる商品ではありませんから、酒の価格が下がることは販売業者によって死活問題なのでしょう。
酒造・酒販業界もWHOのアルコール制限政策を歓迎しているという話なのです。
Alcohol 'more harmful than heroin' says Prof David Nutt
http://www.bbc.co.uk/news/uk-11660210
Drug harms in the UK: a multicriteria decision analysis
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(10)61462-6/fulltext
飲酒はヘロインやコカインよりも有害であることを示す薬物別有害度グラフ
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20101101_alcohol_more_harmful/
2010年11月04日(木) 魂の避難所 何か一つのことが絶対的に大事であったら、どんなにか楽であろうかと思います。
たとえば、何か一つのことだけをやり遂げれば、酒が止まって幸せになれる・・とかだったら。
しかし現実はそうはいきません。
例えば僕はスポンシーにはAAミーティングに行くように要求します。相手の状況にもよりますが、ソーバー1年目だったら毎日行くぐらい当然だと思っています。仲間とのふれあいは断酒を続けさせる「支え」をもたらします。だから、この曜日はAAのミーティングが近くにありません、というのなら断酒会にお願いして行ってもらっています。
ではミーティングが絶対で、ミーティングに通えばそれでオッケーなのか、といえばそうではありません。「支え」を得て飲まない生活を続けてくれるのは大変結構なのですが、支えから離れたとたんに飲んでしまうのでは困ります。3年間熱心にミーティングに通ったあげく、就職してミーティングの数が減ったら飲んでしまったという人がいました。愛着形成してくれるのはいいのですが、ママの支えが必要で「一生ママから離れられない」のも困りものです。
ある程度ミーティングから離れても飲まないでいられるようになるには、その人が変わらなければなりません。この変化を実現するのがステップです。ミーティング通いが忙しくてステップができない、例えば棚卸し表が書けないというのなら、ミーティングを休んで表を書いた方が良い。変化を先送りするメリットはありませんからね。ここでミーティングの絶対性は崩れます。
ではステップが絶対的に大事で、ミーティングはなくてもいいのか? そんなことはありません。ステップをどこまでやろうとも、僕らは回復や成長の中途にあるのであって、完成されることはありません。また、どんなにソーバーが長くなろうと、仲間の支えは役に立ちます。
神との関係が大事だという人もいますが、それだけあればいいわけではありません。神さまは声を持ちません。神の声が聞こえるというのなら、それは依存症とは別の病気でしょう。声を持っているのは仲間たちであり、僕らがいるべき場所も人間のあいだです。ステップの本にも、着想を得たらそれを誰かと相談してみるべきだとあります。
では人間関係が絶対に大事かと言えばそんなこともなく、僕らの病気が人間への執着となって現れたことは多々あったわけです。
こんなふうに、回復や健康に必要なのはなにか一つではなく、たくさんの要素がバランスよく必要です。それはまるで栄養をバランスよく摂取するのが必要なように。
しかし、ときおり弱った心、弱った魂が、絶対的な一つの何かに寄りかかりたくなる誘惑に負けることがあります。その背景には、「自分はこれをやっているから大丈夫だ」と自分を安心させたい心理があるのでしょう。たとえば、自分はAAミーティングに通い続けているから大丈夫だとか、ステップをやっているから大丈夫だとか・・。そのような「魂の避難所」というのは、人生にはどうしても必要なものです。そこで一時の安らぎを得ることまで否定する権利は誰にもありません。
しかしいつまでもそこにとどまっているわけにもいきません。
まだミーティングにも続けて通うことができないでいる人に、こんな話をすると、ろくでもない屁理屈を考え出してくるのでしないほうがいいわけですけど。
2010年11月02日(火) 死ぬなら飲んだ方が良い (彼は)飲まないでいることが少しも楽しくない。また昔のゲームに手を出すようになるのは時間の問題である。彼には、アルコール無しの人生なんて考えられない。そしてやがてはアルコールの有る無しにかかわりなく、人生そのものについて考えられなくなってしまうだろう。そのとき彼は、誰も知ることのないような孤独を味わう。彼はまさにぎりぎりのところにいる。終止符が打たれるのを心から待ち望むようになる。(p.220~221)
仲間の9年のバースディミーティングに顔を出していました。話を聞いているうちに、その会場の9年前のことを思い出しました。
当時そこの会場はとても出席者が少なくなっていて、グループを維持するのが精一杯という状況でした。僕自身も、これ以上AAを続けても自分の進歩はないだろうと予測して、そろそろAAやめちゃおっかな〜と考えていた頃でした。それでもAAを離れなかったのは、単に酒を飲むのが怖かったからです。飲まない喜びではなく、飲んだどうなるかの恐怖で酒をやめていたわけです。
そんな頃に精神病院を退院したあるおじさんがメンバーに加わりました。よく奥さんと一緒にミーティングに来ていました。AAに通い続けて酒は止まっているのでしょうが、表情が明るくなってこないのが気になりました。それに未来を語らないことも。人は酒をやめた直後は、未来を考える余裕を失っているものですが、数週間、数ヶ月と酒が止まり続けていると、将来こうしたいという希望を語るようになるのが普通です。たとえば仕事を再開したいとか、資格を取りたいとか。しかし、そのおじさんの場合にはそれがなく、ただもうすぐ子供の結婚式があるんだという話があるばかりでした。
ちょうどその人の1年のバースディと、お子さんの結婚式が同じ頃に重なり、バースディでは式が無事に済んで肩の荷が下りてホッとしたと語っていたのを覚えています。けれどおじさんは翌週のミーティングには来ませんでした。さらに次の週のミーティングには奥さんだけがやってきて、旦那さんが自殺して葬式も済んだという報告をされました。酒は飲まずに自ら命を絶ったそうです。奥さんの「いままで大変お世話になりました」という言葉に、僕は何もできなかった大きな喪失感を感じました。
それは、僕はAAをやめてはいけない、と思い直す機会になりました。しかし同時に、酒をやめているだけでは全然ダメなのだ、と強く思うようにもなりました。では足りないものは何か。たぶんそれは「12ステップ」だったのでしょう。僕が東京でビッグブックのステップをやっている人たちに出会うのはそれから2年後です。
さらに2年後、戸塚で開かれたビッグブックの集会で、東北から来たメンバーがスピーチで紹介していたのが、冒頭に掲げた11章の文章です。そこでハッと気がつきました。いままでそこを何度も読んでいはずなのに、何度読んでも思い至ることがなかったわけです。「酒をやめているって素晴らしい」と言いながら実はちっとも楽しくない。もし飲んでもトラブルが起きないのなら再び飲みたい。けれど飲むわけにはいかないのだ。なぜならば飲むことは社会的な死を意味するから。死ぬのは嫌だ。だが飲まずに生きることが果てしなく虚しい・・・酒をやめた人は、時にそんな心理になるものです。そしてその中には、しらふのまま人生に終止符を打つ人もいます。そうやっていったい今まで何人自殺していったでしょうか。
ビッグブックの文章は「私たちはそこからどうやって脱出したのかを述べてきた」と続きます。ステップがあるってことは素晴らしいことです。けれどステップを受け入れられない人もいるし、準備ができていない人もいます。そんな人がしらふで死にたくなったらどうすればいいのか。
そんなときは酒を飲むのがいいのだと思います。こんなことを書くと再飲酒の勧めみたいになって怒られてしまうかも知れませんが、それでも死ぬよりはマシです。なにせ酒が好きだから飲んできたのではなく、生き延びるために酒を飲んできたことを忘れてはいけません。だから酒をやめただけでは死にたくなるのが当然なのです。再飲酒すれば、どんなに若かろうと、どんなに病気が軽かろうと、それが死につながる可能性はゼロではありません。だからこそ酒は飲むなと言うのですが、しかし飲まずに自殺してしまっては元も子もありません。
僕は精神病院からAAに戻ったときに、後に最初のスポンサーになってくれた人がかけてくれた言葉を覚えています。
「生きて帰ってくりゃそれでいいんだよ。そうすりゃまだチャンスはある」
(それでも飲んだ後のAAの敷居は高かったけど)。
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