心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年05月14日(金) 表現形

用事があって、初めてGA(ギャンブラーズ・アノニマス)のミーティングに出席しました。クローズドだったのですが、「同じ12ステップグループの仲間だから」という理由で、中に入れて頂きました(僕は聞いているだけで経験はシェアしませんでしたけど)。

その日初めて人(ニューカマー)が来たということもあったのか、分かち合いの内容は「解決方法」よりも「問題」の分かち合いが多めでした。アルコールとギャンブル、対象は違っても、肉体のアレルギー(一度手をつけるとコントロールが効かなくなる)、精神的とらわれ(せっかくやめているのにまた手をつけてしまう)、という病気の本質は何も変わりません。

その点、アルコールは合法で、覚醒剤は違法だ、という区別は何の意味もありません。それは道徳や法律に関しての区別であって、病気の問題とは違います。合法・違法にこだわる人は、これが道徳の問題ではなく病気だ、という言葉の意味がつかめていないからこそ、そこにこだわれるわけです。

しかしビギナーにとって、依存の対象の違いは大きな違いです。覚醒剤で刑務所に入ったという話を聞いて、アルコールのビギナーが「俺はそこまでヒドくない」と否認に入ってしまうことは良くあるわけです。だから、依存の対象ごとにグループが分かれているのも、うなずける話です。(だからといって、ビールでアル中になった人と、ワインでアル中になった人を別ける必要はないと思いますけど)。

逆に、依存対象の違いが気にならなくなってくれば、それはビギナー卒業の時期が来たってことなのかもしれません(目安の一つにはなる、ぐらいの意味)。

話を聞いていると、ギャンブルの人は借金がすごい。そのかわり(肝臓が悪くならないせいか)ニューカマーでも顔色はそれほど悪くありません。

ただし、借金というのは病気の本質ではなく、表面に現れてきたものにすぎません。アルコールの人にとっての内臓の病気(肝臓の数値とか)、薬物の人にとっての刑務所や執行猶予と同じ、病気の表現形というわけです。

この週末は横浜のアディクションセミナーに行く予定です。


2010年05月13日(木) 数え方

「死んだ子の年を数える」という言葉があります。
いまさらどうしようもない過去のことを嘆く意味です。

死んでいなくて、生きている子供の年も数えます。
赤ん坊が生まれれば「生後何日」と数えます。
しばらくすれば何ヶ月と数え、細かい人だと何ヶ月と何日まで数えるかもしれません。
1年の誕生日には親戚を呼んで誕生会をやるぐらいうれしい。
1年を過ぎれば1年と何ヶ月と数えますが、2才3才となっていけば「何ヶ月」の部分が取り去られ「うちの子は何才です」という表現になり、中学生高校生になれば「お子さん何才ですか?」という質問に対して、とっさには答えられず学年や生年から計算しないと数が出てこなくなります。
なぜこのように最初は数を細かく数え、年数が経つと粗くなるのか?
それはおそらく、生まれた直後は子供がいることが新鮮な感動で、年を経ると子供が存在して当たり前の日常になっていくからでしょう。(刺激閾値の上昇?)

断酒後の日数の数え方も同じ感じです。
断酒直後は「断酒何日」と数え、やがて何ヶ月、もうすぐ1年、1年と何ヶ月・・という数え方になっていきます。3年、5年と経ってくると「何ヶ月」という端数はあまり重要ではなくなってきます。十年を超えてくると、「お酒をやめてどれくらいですか?」という質問に答えるのに簡単な計算が必要になってきます。その先はまだ経験がないからわかりません。

断酒9ヶ月の人が「あと3ヶ月で1年です」と言うのは自然なことだと思います。1年目前の人が「あと3日で1年です」というのと同じ。けれど、例えば3年経った人が「私の断酒歴は3年5ヶ月15日です」と表現するのはかなり変な感じです。それは「私の息子は3才と5ヶ月15日です」と同じで、「何でそんなに細かく数えるのか?」という疑問(違和感)を聞く側に与えます。普通は「息子は三才半です」ぐらいのものでしょう? (断酒千何日目ですというのも同じ類かも)。

なんでそんなに細かく数えるのか? ご本人の心の中まではわかりませんが、「死んだ子の年を数える」心理なのかもしれません。その人の中では、手放したお酒=死んだ子供になっている。我慢の断酒が続いている、ということなのではないかな、と。

自分のソーバー(断酒歴)の長さをどう表現するか。その年数をどれぐらい強調するか。そういったことは、その人のソーバーの質を計る一つの目安になると思うのです。

なんでこんな「人のソーバーの質を計る」という話をするかというと、スポンサーをやるためには、スポンシーのコンディションを把握するためのスキルやテクニックが必要になってくるからです。そのためには、なるべくいろいろな指標を使えた方が便利です。霊的であるということは実際的であるということだ、とビルも書いているしね。

また自分の状態を知る指標になることもあります。もう何年もやめているのに、「俺はソーバー何年だ」と強調したい気分になったときは、自分のソブラエティの質を表現するのに年数以外の手段を失っているのではないか? つまりコンディションが悪くなっているのではないか、と自分に問うことができます。


2010年05月12日(水) 適者生存

いろいろな人種が混じって住んでいるアメリカでは、白人の多いミーティングもあれば、黒人の多いミーティングもあるのだそうです。町の中心部の黒人居住地帯では、当然黒人ばっかりのミーティングになり、郊外の住宅地のミーティングでは白人ばかりになります。例えば白人の人の、たまたま一番近い会場が黒人の多い会場だったりすると、そこをホームグループにはせずに、ちょっと離れていても白人の多い会場に行くようになるのだとか。

人種以外にも、職業とか、AAプログラムの解釈によって、相性の良い人たちが集まってグループを作っているのだそうで、これを「適者生存」と呼びます。

適者生存とは、進化論で「その環境に適した形態を持ったものが生き残り繁栄していく」という考え方です。

ちょっと僕の周りを見渡してみても、いろいろなAAグループがあります。
例えば僕の属しているグループは「AAとして最もオーソドックスなところを目指す」とか言っちゃってビッグブックしか使いませんし、「仲間」も大事ではあるんだけど、それより「原理」を重視し、ミーティングでも神とかハイヤーパワーという言葉が普通に出てくるし、スポンサーシップを持たないなんてあり得ねえ、という態度です。

けれど、仲間の交流こそAAの原理だと解釈しているグループだってあります(そういうグループのミーティングでは神という言葉は刺身のツマみたいなもんです)。あるいは、ステップ!ステップ!とうるさいことを言わず、ミーティングでもアルコールの話はほとんど出てこなくて、ともかく毎週のミーティングに来て酒をやめ続けることが大事なんだという気楽なグループもあります。

広く見渡せば、生活保護の人ばっかりの会場もあれば、サラリーマンばかりのところもあります。男ばっかりで汗くさい(比喩的な意味で)会場もあれば、ほとんど女性ばっかりというグループもあります。

いろんな雰囲気、いろんな特性を持った会場やグループがあり、その環境に適した人がその会場に残って、ますますその雰囲気を強めていくわけです。だから、ビギナーには「なるべくあっちこっちへ行って、自分にあったところを見つけるように」というアドバイスが必要です。

当然僕は「自分のグループのやり方が最も正しい」と思っているからこそ、そういうグループのメンバーをやっているわけですが、その一方で「AAグループのこのバリエーションがAAの魅力のひとつであり、多様性がAAの永続性を保証してくれる」とも思っているわけです。生物学をかじったことのある人ならば、均一性が脆弱性を、多様性がロバスト性を意味することを理解して頂けるでしょう。

話は変わって、僕は先日出張で韓国に初めて行ったのですが、その経験を持ってして「韓国のことがすべて分かった」つもりになったら「単なるバカ」と思われるだけでしょう。たった数日の滞在でその国の全体像を把握することはできないのですから。だから、外国の土産話を聞く人たちは、その内容が局所的なことにすぎず、その国全体の話とは限らないことを、きちんと分かっていて聞くわけです。

けれど、これがAAとなると不思議な現象が起こります。わずか一つか二つの会場に数回出席しただけの人が、AAのことをすべて理解したかのように「AAとはこうである」と説明し、聞く方もそれをAAに関する普遍的な真実であるかのように解釈します。AAについては様々な誤解が存在していますが、その多くはこうした「AA土産話」が広がった結果です。群盲象をなんとやら、というやつです。

AAメンバーの中にも、この多様性が強さであると理解しない人たちがいるのは残念なことです。


2010年05月11日(火) この半年

11月
ミーティング 8
病院メッセージ 1
委員会 2
イベント 2
ステップを渡す 1

12月
ミーティング 7
ステップを渡す 2

1月
ミーティング 7
委員会 1
ステップを渡す 4

2月
ミーティング 6
委員会 1
イベント 1
ステップを渡す 3

3月
ミーティング 7
病院メッセージ 2
イベント 1
ステップを渡す 2
その他 1

4月
ミーティング 9
委員会 1


2010年05月10日(月) 近況

用事があって断酒会におじゃましました。
火事で三人が亡くなった事件のことが話題になっていました。依存症で最近退院された人だったのですが、焼けた家の中でご本人が、それとお墓の近くで燃えた車の中からご両親が発見されました。死因はそれぞれ一酸化炭素中毒と焼死。新聞やテレビで事件のニュースが流されましたが、依存症のことについてはひと言も触れられていません。
今日は「どうしてこのような悲劇が起きたのか、それを知らせねばならんのだ」という話を新聞記者にしてきた、と会長さん。

ここの断酒会は野菜の産地にあり、行くたびに野菜をおみやげに頂いてきます。今回も「ブロッコリーいらねえか?」と聞かれました。僕はブロッコリーが大好きなので「ぜひ頂きます」と答えたのですが、ブロッコリーはブロッコリーでも、ブロッコリーの苗でした。それを十数本もらってしまったのです。

「30センチ間隔で植えればいい。肥料は野菜用の三要素のやつでな」

三要素って窒素、リン酸、カリウムだっけか。

借家の狭い庭はすでにイチゴやらハーブで埋まっているのですが、なんとか隙間を見つけて数本植え付けました。それでもまだ半分あります。実家の田植えに行くついでに持って行って、カーネーションと一緒に母に渡せばいいや、と思っていたのですが、持って行くのを忘れてしまいました。「お前のやることはいつもそうだ」とは母の言葉です。

さて、どうしたもんだ。

庭を持っているスポンシーに「ブロッコリーの苗いらない?」と電話したところ、近くまで来てくれるというので、近所で待ち合わせしました・・・が、そこへも苗を忘れていってしまい、結局我が家に来てお茶を飲みながら少し話をしました。

彼がAAに来たのは5年前ですが、当時は彼が今のように「スッキリとなる」とは想像もつきませんでした。最初は再飲酒もあったし、その後2年間は酒は止まっていたものの、処方薬の多用が続いていました。そのスッキリしない状態でもミーティングに通い続けたからこそ、その後の彼があったのでしょう。スッキリしだしたのは、薬の乱用をもとにソーバーをリセットして断薬し、ステップをもう一度1からやり直してからでした。おそらく断薬とステップの相乗効果だったのでしょう。

あのころ彼が患っていた「うつ」が、本当の?うつ病だったのか、それともアルコール性のうつ症状(や安定剤の相反作用)だったのか、両者の混合だったのか。それは今の僕には判断がつきません。ともかくアル中の「うつ」は治りうるものなのだ、というひとつの証拠を示してくれます。

ブロッコリーは順調にいけば2ヶ月ほどで収穫できるそうです。


2010年05月03日(月) 行ったり来たり

AA日本ニューズレターは、AAのJSOが隔月で発行しているニューズレターです。一部70円なのですが、PDFでよければ AA JSO のサイトからダウンロードして読むことができます。

中身は「回復」よりも、AAを維持し動かしていくための話が多いので、AA外の人にはあまり興味を持たれる内容ではないと思います。が、その 最新号 に山梨の大河原先生が常任理事退任の挨拶文を寄せていらして、読んで感銘を受けました。それを引いてこの雑記を書くことにします。

スリップ(再飲酒)する人たちは、「またふつうに飲めるようになる」という妄想を捨てられずに酒に手を出していると説明されます。けれど何度か試してみれば、それができないことは体験的に学習できます。

ふつうに飲めないことを知っていながら再飲酒を繰り返す人たちは、何を考えているのか。それを説明してくれるのが大河原先生の文章です。それは「ここで飲んでしまっても、またやめればいい」「回復はいつでもできる」という考えです。飲酒と断酒の間を、何度でも自由に行ったり来たりできると信じているというわけです。

「今回の再飲酒は精神病院への入院とか大変なことになる前に酒が止まって良かった」などと(ちょっと嬉しそうに)言われると、こちらは<とほほ>な気分になります。

AAで何年も酒をやめているメンバーが、「もし次飲んでもまたAAに戻ってきて酒をやめます」と真顔で言ったりすることもあります。次回も戻ってこれると無邪気に信じているわけで、実際、戻ってこられる確率のほうが高いのかも知れませんが、戻って来られない確率も少なくありません。

(断酒の側に)戻ってくるつもりってことは、(飲酒の側に)また行くつもりということでもあります。「飲んでもまたやめればいい」というのは、飲んでしまった人に慰めを与え、再起を促す言葉であって、断酒している人が使えば、将来の再飲酒をあらかじめ言い訳しておくための言葉になってしまいます。

つまるところ、酒をやめるんだったら一生断酒するしかありません。けれど、ゼロか100のどちらかしかないアル中さんは、一生酒をやめるなんて無理だから飲み続けると言い出します。「一日断酒」という言葉は白と黒の間にグレーを作り出す装置なのでしょう。ではあるものの、次回のソブラエティではなく、今回のソブラエティを大事にするのが基本というわけです。


2010年04月29日(木) リハビリ

僕が子供のころ、実家でヤギを飼っていました。
雌ヤギは乳を搾り、雄ヤギは種ヤギとして種付け料が父の副収入になっていました。種付け料はヤギの血筋によって決まるらしく、良い血筋の雄ヤギを確保することが収入アップにつながるのでした。
ある時、峠の向こうに良い雄ヤギがいると聞いた父は、軽トラックに雌ヤギを積んで出かけました。そのヤギに種を付けてもらって雄ヤギを生ませる算段でした。しかしあろうことか、冬の凍結した峠道で車を正面衝突させてしまい、膝蓋骨(膝の皿)を折る大けがを負いました(ヤギは死んだそうです)。
退院してきた父は、天井から紐をつり下げ、米を入れた一升瓶を足にくくりつけてリハビリに努めました。それは相当痛かったようで、脂汗を流しながらリハビリに励む父の姿を今でも思い出すことができます。父が農業の力仕事ができるようになるまで回復するには、一年近くが必要でした。

話は変わって、アルコール関係で知り合ったある人のことです。
彼は過剰服薬(OD)をやって救急車で運ばれました。幸い一命は取り留めたものの、意識を失っている間に足が変な角度で曲がっていたため、血行が悪くなり、片足に機能障害が残りました。
その足はかなり痛み、無理に動かそうとするとさらに痛くなるのだそうで、理学療法士が勧めても「痛いから」という理由で彼はリハビリに熱心に取り組みませんでした。やがて足が徐々に回復し、痛みが取れる頃になってリハビリをやろうとすると、「動かさない状態で長く経過してしまったので、今さら機能回復は望めない」と突き放されてしまったのだそうです。

何にせよリハビリというのは痛かったり苦しかったりするものです。しかし、痛いから、苦しいからとリハビリを避けていては機能回復が望めなくなってしまいます。

うつ病においても、難しいのはリハビリなのだそうです。薬を飲むことは難しいことではありません。うつ病が社会に認知されるようになったおかげで、仕事を休むことの必要性も理解して貰えるようになりました。つまり、薬を飲むこと、休むことは比較的簡単なのですが、問題なのはリハビリです。

元々苦しいことを無理して続けてきたのでうつになった、と言えます。リハビリというのは、その環境に徐々に戻っていくことです。ところが、足の関節と同じように、社会的機能も使わなければ徐々に衰えていきます。健康な時には、膝を曲げることも歩くことも痛くなかったものが、怪我をした後はそれが脂汗が流れ落ちるほどの苦しみに転じてしまいます。けれどそれを経なければ機能回復がありません。つまり、リハビリというのは強いストレスなのです。

昨日まで休職して家にいた人が、いきなりフルタイムの仕事に復帰するのは無理な話です。それは動かない膝を無理に動かして農業をしろというのと同じです。結果としてうつがぶり返すことが多く、再び休職どころか退職ということになりかねません。やはりリハビリ期間は必要だし、しかもそこで焦って無理をしても、その期間はなかなか短くなってくれません。

逆にリハビリの辛さを回避する人たちは、「元々苦しいことを無理して続けたせいでうつになったのだから、こんな辛いことをしてはまたうつがぶり返す」と言います。そうやってリハビリを回避し続けた挙げ句、機能回復が難しくなっていきます。つまり「うつをこじらせてしまう」わけです。

満員電車に揺られて会社の近くの図書館に「出勤」し、そこで8時間過ごして帰ってくるとか。出社するだけで仕事をせずに会社に7時間いろとか。残業制限があって、仕事が終わらなくても帰らなくちゃいけないとか。そこに辛さや苦しさがあるのは当然で、それを飛び越していきなり日常生活には戻れないものなのです。その間にぶり返しがあっても、地道にリハビリを積むしかないのでしょう。

アルコール依存症もリハビリが難しい病気という点では同じだと思います。精神病院から退院していきなり仕事に復帰という例もありますが、皆がそううまくいくわけではなく、無理をすれば簡単にぶり返します。

そういう意味では、AAという自助グループはリハビリのためのグループと言えます。その人の社会的機能を回復させる役割があるわけです。やはり最初のうちはリハビリに時間を割いた方が良いし、そのほうが後々の人生を楽しめると思います。

unpaid work だって仕事なので、部屋を片づけることだってリハビリのひとつだし、それで疲れ果てるというのも僕も経験しています。大変だけどガンバってね、と応援するしかありません。もちろん、社会的機能は仕事ばかりではなく、様々なことがあります。見知らぬ人と話をすることだって、最初はなかなかできないものなのですから。

金銭や名声が幸せをもたらすとは限らないのですが、最低限の経済的安定や人間関係がなければ、幸せはとても難しくなります。同じように、幸せであるためには「何でもできる」必要はないのですが、ある程度のことはできなければ難しいと思うのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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