心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2005年04月10日(日) 三寒四温

ちょっとうつの具合が良くなったと思ったら、また悪くなりました。
波があります。

最近の傾向は、木・金・土と良くて、日・月・火・水と悪いという感じです。三寒四温、いや四寒三温といったところでしょうか。

以前に台湾でやった仕事の機械の調子が悪くなったらしく、英文で質問のメールが来ています。旅費もホテル代も日当も出すから、様子を見に来てくれないかとオファーがありますが、いちおう今僕の属している会社は副業禁止なので引き受けるわけにもいきません。
だいたい、行って解決できればいいけれど、できなかった場合には、どうなるのだろう?

今の台北は雨期が始まる前できっといい季節です。
掃除をしていたら、台湾ドル(元という名前だけれど、お札には園と書かれています)の使い残しが2万円分ぐらいでてきました。日本で台湾ドルを円に換金してくれる銀行は、数えるぐらいしかありません。田舎にいる限り、これは持ち腐れであります。

いつかは仕事じゃなくて、遊びで台湾に行ってみたいです。


2005年04月08日(金) 露出

まっとうに大学を出て会社に就職した従兄弟が「写真家になりたい」と言い出して、周囲の反対を押し切って写真学校に通い出したのがもう十数年前でした。そこそこ有名な写真家の先生の下について修行したりしたそうですが、商業写真家としては芽は出ずに、結局地元のフォトスタジオに勤務となり、結婚式の写真を撮るのを主ななりわいとするようになりました。

スタジオで写真を撮って貰うと、撮影からプリントまで一枚で2〜3万円ぐらいかかるそうであります。だから、あまりスタジオで写真を撮る人はいません。そこで、そのスタジオでは「半額くらいにしてあげるから、5年間毎年撮りに来てください。月々わずかこれだけの支払いで・・・」というプランを作って売るようになりました。

スタジオ勤めの従兄弟にもそのプランの販売ノルマが課せられ、彼は親戚に頭を下げて回る羽目になったわけであります。ちょうど幼い娘が二人いた僕は、そのプランの販売相手としては格好の餌食であったわけです。そんなわけで、ここのところ何年間か、銀行の通帳から「シャシンダイ」という名目で、定期的に出費が続いていたのでした。
まあ、お金のことは「田舎の濃密な親戚づきあい」だと思えば、あきらめもつくことではあります。

が、子供の写真を撮影すると言うことは、親も含めた家族のカットも撮影すると言うことであり、僕も着慣れない背広を着て、スタジオであーでもないこーでもないと色々な格好をしたり、作り笑いをしたりしなければならないのが、一番の苦痛でありました。

しかし、できあがりを見てみると、そこらへんの街のカメラ屋が、2階の客間兼のスタジオで撮影してくれた数千円の写真とは比べるまでもない「写真らしい写真」に仕上がるから、さすがはプロであります。だからといって美醜が変わるわけもなく、ただ「いかにも写真」であるということにすぎないのですが。

今日は次女の入学式ということで、この毎年の撮影ノルマも最終回を迎えました。

話は変わって、今週のいつだったか、午前中にNHKのラジオをつけてみたら、アルコール依存症の家族の方のことが話題になっていました。こうやって、メディアに依存症という病気の存在が露出することによって、世間の認知が進んでいくことが、一番の病気の予防・治療に役に立つのではないかと思うのであります。


2005年04月07日(木) へとへと2

仕事の電話でたたき起こされました。
いや、それは前の会社の絡みで、今後の僕の収入にはつながらないので、仕事と呼んではいけないのでしょう。もしその会社に兄が勤めていなかったら、僕はもっと素っ気ない態度をとっていたことでしょう。

さて、3月中頃くらいから(だったかな)子供たちがごほごほ咳をするようになりました。「喘息かな」などと言っていたのですが、そのうち母親もごほごほ言うようになりました。小児科の先生の見立てでは、感染性の気管支炎だそうで、抗生物質を飲むうちに、症状は徐々に治まって、4月にはほぼ全快と言っても良い状態になりました。

が、そのころから今度は僕がごほごほ言うようになってしまいました。
しかも、だんだん咳き込みが激しくなってきます。皆に「医者に行け」と言われるので、まあ朝から起きていることでもあるし、珍しく内科の医者へ出かけました。

僕は風邪を引いても滅多に医者に行かないので、内科にかかるのは10年で3回ぐらいではないかと思います。それでもきちんとカルテは残っていて、うつ病であることも、アルコール依存症であることも、記録に残されていました。
「喉の薬は、うつの薬とかち合うことが多くてね。今は何の薬を飲んでいるんだ?」
と聞かれたので、精神科でもらった薬剤情報の紙を渡しました。

こういうことをきちんとしてくれる内科医は実は結構少なくて、ただの風邪を引いた依存症者に安定剤なんかをするっと出してしまう医者は世間にごろごろしているのであります(たぶんきっと)。

桜はまだですが、梅が咲いているほど気候がよいので、外で体を動かす気になり、午後は車にCDチェンジャーをつなぐことにしました。記録によると一昨年に買ったものの、取り付ける気力がなくて、1年半以上部屋の片隅に眠っていたものでした。
整備解説書を買えば、車をばらす手順は書かれているのですが、何千円もする本を買う気にもなれなかったので、手当たり次第にコンソール周りを分解しました。なんとか暗くなる前に作業を終えたいと思うのですが、焦るほど混乱して部品のはずし方が分からなくなります。
小学校から帰ってきた娘が、「パパが車を壊している!」と驚いていました。
それでもなんとか、夕方までには配線も終わり、車も元通りになりました。

体を動かしていたので、夕方からへばってしまい、10時過ぎまで寝てしまいました。おかげで、スポンシーからの電話ものがしてしまうし・・・(後で連絡付いたけど)。

これからはなるべく夜寝て、朝起きている生活にしよう・・・と思うものの、すでに窓の外は明るくなってきている時間であります。


2005年04月06日(水) へとへと

独身時代東京のアパートに住んでいた頃、ゴミの分別収集が始まりました。
酒瓶やビールの缶は月一回決められた日の「朝」にしか収拾してくれません。アルコホーリクで自己管理の全然できない僕のアパートのキッチンは、瓶と缶であふれかえりました。

さて、幸い今は毎日飲むジュースのペットボトルの処理に苦労しているぐらいで、さして苦労はしていません。しかし、唯一なかなか出せずにいたのが「破砕ゴミ」という分類の日であります。これは割れた皿であるとか、壊れた小型家電製品であるとかを出す日であります。

部屋の片隅に、壊れたキーボードだとか、ジャンク品だと言われて買ったら本物のジャンクで使えなかったドライブだとか、そんなものがうずたかく積もっていたのです。それが、フリップ・K・ディックのいうキッチュのように、次第次第に増えてくるのであります。
このままだと僕の部屋はゴミで占領されてしまう。
と思いながら、毎月「しまったもう破砕ゴミの日は過ぎてしまったか」と嘆くのが常でした。

というわけで、PerfecTV(スカイのつかない)のチューナーやパラボラアンテナ、子供の壊れたおもちゃ、パソコンのマザーボード、テープドライブ、MOドライブ、コレクションしたPHSの端末類などを、まとめてゴミに出しました。

そこはアル中でうつ病の人間ですから、やり始めたら徹底的です。中途半端はありません。

おかげで、ステップ4&5が終わった後で心の中の風通しが良くなってすっきりするように、僕の部屋も風通しが良くなってすっきりしました。

しかし、そこは「始めたらやりすぎる」人間の常。体はへとへと、心は自分のコントロールの及ばない諸々の事柄にイライラであります。

ほどほどのいい加減(良い加減)を知らないコントロール喪失人間であります。


2005年04月04日(月) 仲間のバースディと新しい地図

あるAAの仲間のバースディミーティングに始めて行きました。
その人のバースディミーティングというのは、毎年同じ時期にあるわけで、忘れていると毎年行けません。5回目の今年になってやっと行けました。

長野県に新しいAAミーティング会場が二つ増えました。
地図がやっと書き上がったので、更新しておきました。

ついでに、古くなった情報もなるべく新しくしました。2003年(つまり一昨年)に更新したまま放ってあった情報が多くて、やっぱ「まめに更新しないとだめだな」と反省しました。

特にMapFanの地図へのリンクは、まともにリンクできているカズの方が少なくて、チェック体制の甘さがばればれであります(直しときましたけど)。

リンク集の方も、リンク先がまだ存在しているかのチェックをしばらく怠っているうちに、消えてしまったホームページもあったりして・・・。リンク切れを発見したら、メールか掲示板で教えていただけると、大変うれしくありがたいです。

明日(もう今日か)は下の子供の入学式です。赤ん坊が幼児になり、そして学童になる・・・。うーん人間は成長するものですな。僕はなかなか回復しませんが。


2005年04月03日(日) VoIPアダプタ編

FAX電話機を買ったのは5年ほど前だったでしょうか。
用途はAA関係専用の電話回線に接続するためでした。

当時は(今もか)FAX電話機の印字方式といったら熱転写が一般的で、インクジェットは少数派でした(レーザー印字は高級機だけ)。熱転写はインクリボンのランニングコストがかさむので大量にファックスを使うには向いていません。感熱紙を使うという手もありましたが、これは経年変化して読めなくなってしまうという難点がありました。
だから、電気店の店員に「インクジェット方式の」と指定したところ、NECとキヤノン製しかないという返事でした。NECは当時もう自前でプリンターを作るのはやめていて、ヒューレットパッカード(HP)のOEMでした。なので、僕の買ったNEC製のFAX電話機も、エンジンはHP製だったというわけです。

一昨年だったかに、レーザープリンターの調子が悪くなっていた時に、AAの出版関係の仲間に勧められて、ブラザーのFAX・コピー・スキャナーの複合機を買ったので、FAXはそれで送受信するようになりました。

そんでもって、去年フリーになった時に、仕事をもらうために名刺に刷る仕事用の電話番号が必要になってIP電話を導入したのでした。

ブラザーの複合機・IP電話・冒頭のFAX電話機と3台並べておいておくのは場所の無駄であります。FAX電話機を片づけて、IP電話と共用にしようと以前から考えていたものの、面倒なのでそのままにしてありました。それにやっと手をつける気になったのです。

引退させたFAX電話機は、母のところに持って行って余生を送ってもらうことにしました。インクが切れていたのでカートリッジを注文したのですが、もうNECでは売っていなくてHPの型番になっていました。5年でカートリッジが3個目というのは、なかなかランニングコストが安くて、その点では買った時の選択は正解であったと言えます。

IP電話のVoIPアダプタの調子が悪くて、NTTに交換してもらったという話は以前に書きました。交換してもらって直ったと思ったら、また症状が復活してしまいました。インターネット上を調べてみたところ、NTT 西日本/東日本 VoIPアダプタの検証 とか NTT東西のIP電話対応機器について書くところ というページが見つかりました。

パソコンでVoIPアダプタの動作を24時間監視していて、挙動不審になったらリセットしてしまえ! というのはなんだか乱暴な手段ですが、なかなかどうして。

FAXを買った頃だったかに「マイ・ネーム・イズ・ジョー」という映画がありました。AAミーティングで、My name is Joe. I'm an alcoholic. と言っているところから題名を取った映画です。ツタヤオンラインで調べてみたら、近くの店にVHSのテープでレンタルしていたので、借りてきてパソコンにダビングしました。

今日はそのテープを返しに行って、ついでに娘たちとファミレスで食事してきました。


2005年04月01日(金) 水虫と友人の死

ホームグループのミーティングの帰りに、実家に寄らせて貰って、母に飯を食わせて貰っています。ついでに風呂も入らせて貰っています。
母はスイミングスクールに通っていて、そこの脱衣室で水虫を移されました。そんな話を聞いたのが2月。皮膚科に行って薬を貰いなさいよとアドバイスをして、「痕が消えても1ヶ月は薬を塗り続けないと、菌が潜伏して再発するからね」と言っておいたものの、3月のお彼岸に子供と帰省した時には、「もう良いと思って、塗るのをやめたら、また水虫になっちゃった」という予想された通りの展開を見せておりました。

お彼岸が終わってからしばらくして、長女が足がかゆいと言い出しました。実家のお風呂の脱衣所で、水虫をうつされてきたのかもしれないと思ったのですが、医者に行くのは先延ばしにしてきました。ですが、気が付くと、僕の足にもなんだか「カサカサ」ができてしまい、しかたなく今日は、親子で皮膚科に行ってきました。

そこは女医さんがやっているところで、泌尿器・性病科も兼ねているのであります。妙齢のお嬢さんが、診察室より奥の「処置室」というところに入っていくのを見ながら、「う〜む」と考え込んでしまう僕でありました。

毎日一回塗るように、と抗生物質を処方されました。昔は一日3回だったことに比べると、水虫の薬も進歩しているものですね。看護婦さんは「今日は人手が足りなくて」と言い訳していたものの、たかだか水虫の治療を受けるのに、3時間以上かかってぐったりしてしまいました。

さて、そのメールは今日のうちに届いていたものの、POPFileという迷惑メールフィルタが誤分類をしたおかげで、僕はショッキングな用件を伝えるメールの到着にしばらく気が付きませんでした。それは僕の友人(?)の死を伝えていました。

彼と出会ったのは高校の頃でした。
僕はそのころ、小学校6年から始めた天文の趣味もそろそろ飽きてきて、新しい何かを探している時期でした。天体の軌道計算をするというテーマから、「プログラムできる計算機」に興味を持った僕は、天文部と数学研究会の両方に属する彼と親しくなりました。
僕が後にプログラマーになるのを決定づける出来事でした。
お互いに東京の理系の大学へ進学した後も、頻繁に連絡をとっていました。コ○ック○ーケットに一緒に出店したこともありました。学業を放棄して一緒にアルバイトしていました。
だが、僕は酒に溺れて、学業どころか仕事も放り出すようになり、彼に多大な迷惑をかけるようになり、一度は疎遠になります。

彼は仕事がうまくいって、金も持っていたのですが、成功は長くは続きそうにありませんでした。彼は乾坤一擲の仕事を、会社員を(酒のせいで)やめてフリーになった僕に任せてくれました。彼の成功のおこぼれに預かろうと、無理に仕事を分けてくれるように頼んだのです。
頼まれた仕事を放り出して、雀荘でビールを飲みながら麻雀を打っているところを発見され、「貸した金は返してくれなくてもいいから、絶交だ」と言われて絶縁となりました。
その仕事は彼が完成させたものの、時期が送れ、ヒットにはなりませんでした。悪いことにその後、彼は成功には恵まれませんでした。そして、その原因のひとつは、あの重要な仕事を酔っぱらいに任せたことにあると考えていたとしても、無理のないことです。

僕が結婚式を挙げる時に、ダメもとで彼に招待状を出したら来てくれたものの、「おまえのことは一生許さないからな」とめでたい席で言われました。酷いヤツだと思ったものの、僕が彼にしたことを考えれば、無理のない話でした。
今から思うと、それが彼と交わした最後の会話となりました。

きれい好きだった彼の部屋が「30センチぐらいゴミが積もっている」んだと共通の知人が報告してくれた時には、なんだか自分の住んでいたアパートと似ているなぁと感じたものでした。
彼が長野の実家に帰って入院した原因は、アルコール性の慢性肝炎だという噂でした。

しばらくして実家への転居を知らせるはがきが届きました。
「そうか、彼も夢破れて、都落ちしたか」
と苦笑いしたものの、彼が酒に溺れているという噂に、もし彼がAAのドアを開けて入ってきたら、自分はいったいどうしたらいいのだろうと考えたりもしました。

そんな不安もいつしか消えていきました。ちゃんとボーナスをもらえる時が来たら、彼に金だけでも返しに行こうと思っていました。しかし、景気は悪くなるばかりだったのです。

最近になって、彼の昔作ったソフトを復刻するという話があり、仕事仲間が久しぶりに連絡を取ろうとしたところ、2年前に急病で亡くなっているという返事があったそうです。その連絡が、今日メールでやってきました。

彼は僕の鏡でした。同じようにビル・ゲイツになる夢を見て、同じように学業を放り出し、酒に溺れて、失意のうちに帰郷したわけであります。彼は死に、僕は生きている。二人の運命を分けたものは何だったのでしょうか?

AAの存在?
そうかもしれません。でも僕は「自分が幸運だったから」というふうに感じられてなりません。

この休みのうちに、何十年ぶりかに彼の家を訪問し、線香だけでもあげてこようかと思います。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加