無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年04月25日(月) 多分、世界はいやになるくらい狭い/『アガペ』2巻(鹿島潤・石黒正数)

 人の縁(えにし)はどこでどう繋がっているか分からぬ、とは、これまでの人生でも多々実感したことであったが、新しい職場で気が合った同僚の女性(とりあえずAさんと呼んでおく)、なんとホモオタさんの大学の一年後輩であった。
 「ホモオタちゃんは(と、Aさんは先輩である彼を「ちゃん」付けで呼ぶのである)、大学生のころは髪が長くてスマートだったんですよ。性格はあの通りの性格でしたが」
とのこと。現在のホモオタ氏は言っちゃ何だが外見は「ハゲた赤豚」である。性格の歪みが体型にも現れちゃったんじゃないかな。
 当然、ホモオタさんの数々の「行状」についてもAさんは先刻ご承知で、私以外に「被害」にあった方々ともお知り合いだったのだが、私が「部屋に誘われたんで行ってみたらセーラー服姿のホモオタさんに襲われかけたんですよ」という話をしたら、さすがにホモオタさんがバイセクシャルだということまでは知らなかったらしく、目を丸くなされていた。
 「私が知ってるホモオタさんの好きな人は女性でしたが。Sさんという方の奥さんで」
 「Sさんの奥さんも知ってますよ。私の家内の知り合いでしたから。その方に相手にされなくて、私に乗り換えたんです」
 「……好みの幅の広い人なんですねえ」
 いや実際、そのSさんの奥さんというのは昔から評判の美人で、密かに懸想している男性は数知れず、その「後釜」が私だというのはちょっと気の毒だったのである(まあ当時は私も一応は20代でしたが)。
 実を言うと、当時ホモオタさんは、私と家内が接近するのも様々な形で妨害しようとした形跡がある。直接的には私に家内の悪口を言いまくり、「あんな女にいつまでもかかずらわっていると、あなたが不幸になりますよ」とまで言ってのけていた。確かにしげは昔からろくでもないあほんだらではあったが、私への一途な思いは嘘偽りのないものであったから、それを無碍にないがしろにする気はなかった。
 だから、たとえ一見「親切や忠告のつもりで」しげの批判をされても、それは私にとってはおためごかしかいわれのない中傷にしか聞こえないし、そういうモノイイに対しては私が猛烈に反発する人間であることくらい、私を見ていれば気がつきそうなものである。障碍が多いほど恋は燃え上がるという「ロミオとジュリエット効果」みたいなもんですかね。ところが、ホモオタさんにはそのあたりの初歩的な人間の機微すら一向に理解できなかったようなのだ。恐らくそのころにはもう妄想が果てしなくエスカレートしていて、自制できない状態にまで陥っていたのであろう。
 ほかにも当時、ホモオタさんが、私と家内に関するとてもここには書けないような胸糞が悪くなるようなデマを流していたことも、後に誘導尋問で引っ掛けてホモオタさん自身から聞き出した。なんとしてでも私としげの間を裂きたかったのだろうが、結果は全く反対に作用したわけである。だからもともと実る関係ではないのだから、早々に諦めてくれりゃ自分が傷つかずにすんだだろうにねえ。
 ホモオタさん、中傷ハガキの件でも分かるとおり、法に触れるギリギリの線を綱渡りする嫌がらせを実行できるあたり、決してただの馬鹿ではない。しかし、策略家ではあるがそれが実を結んでいないという点ではやはり間が抜けているのである。それはやはり、ホモオタさんが自我肥大を起こして自己を天才と錯覚してしまっているために、結局、人間の心理などは探れば探るほどフクザツカイキであって、いくら読もうとしたって読み切れるものではないという事実に未だに気づいていないからだろうと思う。
 「こうすれば人はこう動く」「人は簡単に洗脳できる」「他人を洗脳できる自分は天才なのだ」「だから他人はみな自分にひれ伏さねばならない」
 一度、そう思い込んでしまったら、他人が自分の思うようにならないと、それは自分がごく普通の人間であって、他人に対してたいした影響力は持ち得ないというあたりまえの事実を受け入れることができなくなる。結果、一種のヒステリー状態を経てその人は他人に対して常に攻撃的になり、人を敵か味方かだけでしか判断できなくなり、自分の不遇は常に他人の陰謀のせいだと思い込むようになり、果ては自分にはこの世ならぬものの姿が見える、自分は神の使徒だ、宇宙意志と交信でき、天変地異だって起こせる、自分に逆らうと地獄に落とすぞ、とまで言い放つようになる。ホモオタさんはそこまで行ってしまった。ホモオタさんに脅され続けて、ついに神経を病んだ女性がいることも私は知っている。
 今日、Aさんから聞いた話によると、ホモオタさんが一時期「研修」の名目で現場を離れていたのは、そういう「被害者」の方の身内の一人が、「告訴してやる!」と激怒して当時のホモオタさんの職場にねじ込み、それを聞きつけた本社が慌てて取った措置だったのだそうだ。
 本社の幹部ども、私にはやたら「告訴したらどうか」と打電しておきながら、実際にキレた人が出てきたら急に及び腰になって、こういう「穏便な」処分でコトを済ませてしまおうとしたのである。ということは、やはり本社はホモオタさんを完全に解雇する気はなかった、と判断せざるを得ない。精神に異常を来たしているという程度のことでは、解雇できないと言うか、既知外相手の厳しい処分は自分たちの身にも被害が及ぶ危険性があると判断して「逃げた」のだ(以前、馬鹿正直にそう口にした支社長もいたから、これは確実である)。
 全く、厄介なのはホモオタさんよりもこういう自己保身に走る本社のほうかもしれない。いっそのことホモオタさんの本名も、本社の名前も暴露してしまいたくなるが、内部告発して不当解雇かそこまでいかなくても減俸処分食らって、これから先、何年も本社と裁判で係争していくとか、そこまでのエネルギーは私にはないし、ホモオタさんが未だに私にちょっかいかけてくるのは、そういうぐちゃぐちゃした事態を召喚したいという思惑もあるのだろうと思われる。「毒を食らわば皿まで」と言うか、「死なばもろとも」と言うか、「窮鼠猫を噛む」と言うか、ホモオタさん、もう精神的にギリギリのところまで追いつめられちゃってるんじゃないかなあ。
 本社の幹部連中も私やほかの被害者にババ引かせたいと考えて事態を放置している糞狸の群れである。その掌の上でいいように転がされたかないから、こっちも命令通りに動いているように見せかけながら実は全く動いていないのだが、その間、ホモオタさんもそれなりに責任のある立場にい続けているわけで、被害者はどんどん拡大されているのである。
 ホモオタさんの話題、これからも尽きることはなさそうであるが、カタストロフが来たときゃ、本社はどう責任取るんだろうかね。それ以前にさっさと定年退職しちまおうって腹か。くそったれめ。


 「現実」と書いて「気が滅入る」と読みたくなる今日この頃であるが、またも悲惨なニュースが夕刊の大見出しに。「脱線」と聞くとすぐに「トリオ」と続けたくなるのは我々の世代の悲しい性(さが)であるが、ここまで大規模な脱線だとシャレにならないのである。NHKは、放送予定だった『きよしとこの夜』に列車の歌を取り上げるコーナーがあるため放送延期だそうな。また、BSフジは『きかんしゃトーマス』の4話分に、列車の脱線シーンがあるため、これも差し替えとか。相変わらずの「考えすぎ」だが(私ゃ地震直後に映画で『日本沈没』見たって放送局に文句付けたりゃしないぞ)、まあ、どうでもいいことにまで文句付けて自分の立ち位置確認しないと不安な人って、世間に腐るほどいるからねえ。
 今日、午前9時20分ごろ、兵庫県尼崎市のJR福知山線の、塚口〜尼崎駅間で、宝塚発・同志社前行きの快速電車(7両)が、速度オーバーで右カーブを曲がりきれず、前5両が脱線して、1、2両目が線路東側にあるマンション「エフュージョン尼崎」(9階建て、47室)北側の立体駐車場をなぎ倒したうえ、マンション1階に激突し、折れ曲がった。
 電車には乗客約580人が乗っていたが、夜までに乗客のうち計57人の死亡を確認、負傷者は440人に上っているという。57+440=497なら、残りの80人ほどは無事だったのかというとそうではなくて、夜になっても、 1、2両目に多数の乗客が閉じ込められたまま、救助活動が続けられているのである。
 事故そのものの痛ましさはもう、言葉にしようもないのだが、やっぱり気に食わないのは、マスコミの報道のはしゃぎっぷりである。
 既に「平成に入って最悪の鉄道事故」との報道がなされているが、台風や地震の規模の話とは違うのである。「脱線」の原因は、考えるまでもなく十中八九「人災」なのだから、事故が起きた事実だけで「最悪」なのは説明しなくたって分かる。屋上屋を重ねるように悲惨さを強調するのはただの「悪趣味」だ。
 その「人災」についての情報も、事故が起きた直後からどんどん流されている。
 曰く、「福知山線のATSは、旧国鉄時代の装置をJR西日本が独自に改良した『ATS―SW』と呼ばれる最も古いタイプで、運転士が赤信号を見落としたり、車止めに衝突しそうになった際しか、自動的にブレーキがかからず、カーブなどでの速度超過は防げない」とか、「事故を起こした高見隆二郎運転士(23)は、見習い期間を含め、過去に3度、オーバーラン等で訓告や厳重注意処分を受けていて、技術内容の点検や適性検査、心理テストなどを受講し、再び復帰していた」とか。
 もしかしたらそういったことどもが事故の重要な原因であったのかもしれないが、ここまで早く断定的な報道がなされると、マスコミは本当に正確な情報を伝えているのだろうか、という疑念が沸いてくる。つまり、「ほかに原因がある場合」の可能性が見落とされてしまうのである。
 ごく常識的に考えれば(悲しいことに私の常識がいつもいつも世間の常識と重なるわけではない場合も多いのだが)、事故の原因は、負傷者の救出の後、現場検証や生存者の証言などを聴取した後でなければ、簡単に結論は出せないはずである。すなわち、事故直後の現段階で、たとえどんなに信憑性、説得力のあるような原因が提示されたからと言っても、それは決して「憶測」の域を出るものではない。情報は常に早けりゃいいと言うものではないのだ。
 しかしマスコミがしばしば「情報の正確さ」よりも「早さ」のほうを優先しがちなのは、「内容」よりも「スクープ」性にこそ価値観を置いており、世間もまたそれを求めていて、だからこそテレビは高視聴率を取ることができて、新聞は売り上げを増すと信じられているからである。でも「高視聴率」ったって、人気ドラマだって今時ゃせいぜい20%行くか行かないか、「スクープ」ったって、ニュースはどこの局でも報道内容は同じじゃないか。80%以上が見てるわけでもない「スクープ」にそこまで価値を置くっていうのはマスコミがやはり強迫観念に捉われてしまっているとしか言えないのではないか。
 マスコミの現状は、言ってみれば、既知外の群れが「報道」という美名の下で「他人の不幸」を喜んでいる状況にほかならないわけで、テレビ新聞雑誌全て「東スポ」化していると言ってもよかろう。そりゃ、一誌や二誌が「東スポ」なら別に文句もないのだが、全部が全部荘なら、飽き飽きするってもんである。事故直後にコメントを発表する「識者」とやらも、ちったあ今喋るべきことかどうか判断しろよ。沢木耕太郎は「私が事件のコメントを全て断るのは、『分からない』からだ」とはっきり言い切ってるぞ。


 マンガ、鹿島潤原作・石黒正数作画『アガペ』2巻(メディアファクトリー)。
 1巻の表紙を見た段階では、「利他的で無償な愛(=アガペ)の持ち主」という設定の犯罪交渉人(ネゴシエーター)、一乗はるかの献身的な活躍を描く、というユメもキボーもあるミヤザキハヤオな展開になると思っていたのだが(だって絵柄も東映動画っぽかったんだもん)、なんかもう、とんでもない展開になってきました。
 交渉に失敗して死人を二人も出してしまったはるか、精神的ショックから失語症になったばかりか、仲間であり好意も抱いていた同僚、武市涼宇の存在も忘れてしまう。いや、単なる記憶喪失ではなく、武市の存在を脳に「書き込み」することすら出来なくなってしまうのだ。
 ……とまあ、ここまではもうこれまでマンガでも小説でも映画でもいくらでもある展開なのだけれど、はるかの愛が得られないと知った武市が、突然「自分が事件を起こせばはるかは交渉人として自分を愛するようになってくれる」と、「東京ドームにサリン撒くぞ」といきなり犯罪者になってしまったのには正直唖然。「八百屋お七かよ、お前は!」 (笑) 
 「神の愛」なんて、幻想でしかないものを、生身の人間の肉体に宿らせようとする作者たちの意欲はまあ、立派かなあと思わないでもないのだが、2巻でもう、手詰まりになりつつあるようである。はるか、全然「無償の愛」の体現者には見えなくなってるし。エゴイストじゃなきゃ「特定の人物の記憶だけを無くす」なんて都合のいい記憶喪失に陥るわきゃないでしょ。事件の「締めくくり」も、果たして武市を救ったことになったのかどうか。武市が更なる犯罪に走ったっておかしかないと思うが。
 けれどもし、作者たちが、「『アガペ』なんてない」という結論に持っていくことを目論んでいるのだとしたら、一応は物語としての整合性はあると言えるのだが、今更そんな分かりきった「事実」を結末に持ってこられたって、楽しくも何ともないのである。ここはやっぱり、はるかが「アガペ」を取り戻す展開に無理でも持っていかなきゃならんところなのだが、そういう手段、ちゃんと考え付いてるのかねえ。

2004年04月25日(日) おじょうさま、ごめんあそばせ。
2003年04月25日(金) メモ日記/シカゴな夜。
2002年04月25日(木) あの人にだけわかるナニの話(^^*) /DVD『エイリアン9 DVD対策BOX』……“NEW”!
2001年04月25日(水) おむすびころりん/『最終兵器彼女』4巻(高橋しん)ほか


2005年04月20日(水) まただ。(追加あり)

 ふざけんな馬鹿野郎、また震度5強だぞ。つい今しがた、またしげを山の中から掘り出したばかりだ。部屋の中はこないだよりも更にひどい惨状。私もしげもちょっとあちこちかすり傷は負ってるけど、今回も命は無事だ。外は雨の中、また救急車のサイレンが。電車は全線止まってるので仕事に行けるかどうかは分からんが、現況はこんなとこ。



 目は覚めていたのだ。
 「日本映画専門チャンネル」で、『亡霊怪猫屋敷』をみうらじゅんの解説目当てで録画予約していたのがちょうど6時に始まっていた。
 目は覚めていたけれども、朝風呂に入るのはいつも六時半ごろ。寝つきはいいが寝起きはよくないほうなので、布団の中で起きようか起きまいか、うだうだしていたところだった。
 午前6時11分。状況は一月前の本震のときと同じ、いや、それ以上だった。前回は落ちなかった棚の上のビデオが山崩れを起こし、スピーカーがテレビを直撃して転がり落ちた。慌てて飛び起き、落ちてくる本をよける。隣室でしげが悲鳴を上げたが、助けになど行けない。揺れが収まるのを祈るしかないのだ。
 居間の床が一月前と全く同じ惨状になった後、しげに「大丈夫か?」と声をかけた。
  「たふけて〜」と“猿轡をかまされたような“くぐもった声が聞こえる。崩れた本の山を掻き分けて隣室を覗くと、しげは一月前以上の本の山に埋もれて、何とか顔だけを覗かせていた。「出られんか?」と聞いたら、かろうじて左手を出して、「足が痛い。全然動かん」と言った。口の前にやはり本が落ちてきているので、声が聞こえにくかったのだ。
 「もう来るの分かったら何ですぐに逃げないかな」
 「分かったけど、起きなきゃって思った時にはもう雪崩れてきてるんだもん」
 どうやら愚痴を言う元気は残っていたようである。前回同様、しげを何とか掘り出したが、震度は確実に前回よりも大きかった。しげの部屋のテレビは棚から斜めに傾き転げかけていて、もう少しでしげを直撃するところだった。
 既視感。また外で救急車のサイレンがなっていたが、もちろんそれは錯覚ではなく、現実なのであった。

 震源はやはり福岡県西方沖だが、かなり湾岸に近い位置で起きたとのこと。博多区は前回の本震では震度5弱だったが、今回は震度5強。余震とは言え、実質は今回の方が本震のようなものである。ただ、津波警報が出されなかったことは前回よりも少しはマシだったと言えるかもしれない。

 今度も携帯もメールもまるで通じない。真っ先に父の携帯、店に連絡を取ろうとしたが、前回同様、これがまるで繋がらない。自宅の固定電話は完全に断線していてウンともスンとも言わない。こうなったら直接現場に行くしかないと、車に乗って出かけることにする。どうせ電車は普通だろうから、父が無事ならしげに職場までそのまま送ってもらおうと考えていた。
 自分ではまあまあ冷静なつもりでいたが、実際にはかなり慌てていたらしい。
 「エレベーターは動くかどうか危険だから、歩いて降りよう」
 「うん」
 と会話した直後、私はエレベーターの下りのボタンを押していた(あとでこのエレベーターは業者の点検を受けていた。私たちが乗ったときには一応、動いたからよかったもののの、実際にはやはり調子が悪くなっていたらしい。確かにキイキイ軋む音がしていたし、もしかしたらうっかり閉じ込められていたかもしれないのである。あほだよホントに)。

 表通りは地震後30分で既に渋滞になっていたので、裏道を博多駅方面に走る。父の店に到着したのが7時半ごろ。幸い、父も姉も無事だった。けれど、マンションの屋上のタンクは倒れたかどうかしたと言う。博多区の被害はやはり前回よりもひどそうだった。

 本音を言うと部屋を片付けないと今晩寝る場所もないので、出勤なんぞはしたくなかったのだ。しかし今日はかなり重要な用件の出張もあって、おいそれと休むわけにはいかなかった。けれどもこの状況でどれくらいの社員が出勤しているものかと疑いつつも職場に駆けつけてみると、60人か80人くらいいる社員のうち、集合したのはわずかに10人ほど。当然、仕事になんぞなりゃしないのだが、それでもどうやって来たんだか、支社長は「昼までは仕事をします」と言って、、お茶を濁す程度の作業しか捗らないにもかかわらず、出勤してきた少数の社員をこき使ってくれたのである。人の情というものがないよ、今度の支社(まあ、ある支社のほうが少ないのだが)。

 出張は午後からだが、JRの復旧は全く目途が立たず。それは「予想の範囲内(笑)」なので、実はしげを会社に連れてきて、そのまま待たせていた。待合室で一人ぽつねんと5時間あまりほったらかしとくのは正直、胸が痛んだのだが、これはもう天災のなせる業であるし、緊急事態なのでどうにもしようがない。車の運転が出来ないと、こういうときに一番迷惑をかけてしまうのだが、これとても目が悪いのは生まれつきなので、誰を恨もうにも恨めないのである。

 帰宅は5時半、それから夜まではひたすら部屋の片付け。一時は疲れ果てて父のマンションに泊めてもらおうかとも考えたが、8時半ごろにはとりあえず横になれる程度の床は掘り出すことができた。正直、また山崩れを起こすことを考えると、ただ本を積み上げるだけでは怖いのだが、収納棚が限界に来ているので、ほかにどうにも手段の取りようがないのである。


 劇団の関係者との連絡は、夕方までにほほ取れて、全員、無事を確認した。
 確認が一番遅れたのは鴉丸嬢だが、昼夜逆転の生活をしている鴉丸嬢、地震の瞬間は爆睡していたそうである。鴉丸嬢、結構神経は細いほうだと思っていたのだが、あれで眠っていられたとというのは、もしかしたらかなり「大物」なのかもしれない。
 夜には義父も安否を問い合わせてくる。多分、十年くらいお会いしていないし、電話も恐らくは半年か一年ぶりだろう。もちろんしげのことを心配してかけてきたのだが、「代わりましょうか?」と言ったら「いや、いいよ」と断られた。この親子にもいろいろあって、普通に会話することができない。何とかならんものかとは思うのだが、何とかなったらなったで何ともならない事態にもなりそうで、なかなか問題は難しいのである。

 テレビを点けると、ニュース番組で地震の専門家とやらが、「余震は収まってくると思いますが、まだ震度4程度の地震が二、三ヶ月以内のうちに起こらないとも言えませんので、注意してください」なんてことを言っている。
 「注意しろ」って、注意したってどでかい地震が一発来たらどうしようもなかろうに、この人は何を能天気なこと言ってるのか、と腹立たしくなる。だいたいこんな台詞、シロウトでも言えるではないか。専門家を名乗るなら、せめて70%くらいの確率で地震を予知してほしいものだが、どうにも科学とやらはなまずよりも役立たず学問のようである。

 余震は今も続いている。


〔訂正〕
 烏丸嬢から、「地震の瞬間には起きてたよ」と訂正の連絡がありました。私からのメールを受け取ったのは地震後しばらくしてで、回線が混乱したせいで遅れたらしいのです(だから直接通話はダメでもメールなら大丈夫という報道は間違いなのである)。ちょうどそのときは「寝ていた」という意味だったんですね。
 「地震でも爆睡する女じゃないよー」ということなので、ここに慎んで訂正させていただきます。

2004年04月20日(火) 今日はぶっくたびれてるので短い。
2003年04月20日(日) メモ日記/壊れていく夜。
2002年04月20日(土) スゲーナ・スゴイデス!/『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』ほか
2001年04月20日(金) ただいま治療中/『クラッシャージョウ』(細野不二彦)ほか


2005年04月10日(日) 当人には悲劇、他人には喜劇/『夢幻紳士【幻想篇】』(高橋葉介)

 昨9日、鹿児島市武岡の防空壕跡と見られる洞窟内で、焚き火をした市立武岡中学校2年生の男子生徒4人が一酸化炭素中毒を起こして死亡。
 最初にこのニュースを聞いたときには、あんな狭い空間で焚き火なんかしたらそりゃ窒息だってするだろう、中学生にもなって、その程度の科学知識もなかったのか、と、ご遺族の方には申し訳ないが、またぞろ「学力低下」の四文字がアタマの上に浮かんでしまった。無遠慮でデリカシーのかけらもない感想であるが、そう思っちゃったのは事実なので、人非人との批判は甘んじて受けたい。
 今日になって、4人のうちの2人は、以前もこの洞窟内で火を焚いて遊んでいたことが判明したとか。その時点で別に何も異状がなかったのなら、洞窟とは言っても比較的通気性はよかったのかもしれない。少年たちは恐らくは「前も大丈夫だったから」と「油断」してしまったのだろうが、前だって多少は煙いとか何とか、異状はあっただろうから、これはやはり子供たちの不注意であったと言うしかない。今回は火種にした段ボールなどが充分に燃えなかったせいで、一酸化炭素濃度が急激に高まったということである。気づいたときには煙に巻かれて、身動きできなくなってしまったのだろう。
 亡くなられた4人には気の毒だが、結局これはただの不幸な事故である。昔から「探検ごっこ」に興じる子供はいくらでもいて、それこそ崖から落ちたり川で流されたり猪に襲われたり火に巻かれたり遭難したり神隠しに遭ったり、命を落とした子供たちも決して少なくはなかった。悲しむべきこと、痛ましい事故ではあるが、危険を承知の「探検」である以上、全ては少年たちの自業自得でしかなく、誰かに責を求めることもできない。
 ところがこの「ありふれた事故」が、今朝の新聞では一面のトップを飾っているのである。あたら若い命が失われたことを悼む気持ちが加味されているのかもしれないが、だからと言って、大見出しで報道しなければならない意義が奈辺にあるのか、私にはそれがよく分からない。最初にこのニュースを知ったのは昨日の夜、yahooのニュースで見たのだったが、ネット上での記事は全てベタ記事なので、三面記事程度のものだと思って読み流してしまったくらいなのである。
 新聞が未だに「公器」であるのなら、私の個人的な感覚と世間の常識とがそこまで乖離してしまったということになるのだろうか。それともこの事件にも子供たちが死に至った社会的な道義というものが存在しているのだろうか。購読者の「公憤」を喚起する何かしらの要素があるというのだろうか。想像するにそれは、「子供たちが危険地域に立ち入っていたことに気づかなかった、あるいは気づいていても放置していた親や教師など大人たちの責任」とか、「防空壕跡を埋め立てもせずに放置していた土地管理者の責任」とか、そんなところにあるのかもしれない。けれどいくら「危ないから止めろ」と注意したところで、子供は大人の目を盗んで「冒険」してしまうものだし、子供にとっての危険地帯なんて、その辺にいくらでも転がっているのである。この事件を大々的に報道するのなら、子供が道路へ飛び出して一人車にはねられるたびに一面トップに持ってこなければ、“釣り合いが取れない”のではなかろうか。
 私がどうにも気に入らないのは、実のところ新聞などのメディアは、社会的な義憤とかそういったものにこの事故の報道価値を見ているわけではないのではないか、という点なのである。つまりは、殺人とか強盗とか誘拐とか、まさしくワイドショー的な扇情的事件のひとつとして、もっとハッキリ言ってしまえば、死んだ子供たちの愚かさ加減を笑い者にする感覚が無意識的に報道の背景にあって、面白おかしく報道しているように思えてならないのである。
 いや、確かに子供たちが愚かであるのは事実であるし、親がお茶の間で子供に向かって「あんな馬鹿なことしちゃダメですよ」と戒めるきっかけとして使えるかもしれない。けれどもだからといって被害者をここまで晒し者にするほどの事件なのか? これは、という疑問がどうしても脳裏から排除できないのである。
 もちろん我々人間は本質的にドス黒いものを常に内部に宿している存在ではある。馬鹿を見てあざ笑う心理は醜くはあるが、だからと言って、これを全面的かつ無条件に否定することは、人間の存在自体を否定することになりかねない。だから我々は日常を維持するために、時にそういった「心の暗部」が外部に流出しようとするのを抑制し、なだめすかし、飼いならしつつ何とか過ごしている。しかし今回の報道姿勢は、その醜さがあまりにも露骨に流出してしまっているとは言えまいか。これは「社会」自体が人間の欲望や恨みや妬みや狂気を「飼いならす方法」を既に見失っている証拠ではないのか。
 ……と、ちょっと不安に駆られたような書き方をしてしまったが、過剰報道をしているのは一部の新聞くらいのもので、世間的には「そんな事件があったの。ふーん」で終わっているような気配ではある。なるほど、それが「普通」だ。「よくある事件のひとつ」として新聞報道なんか気にせずに流すのが、この場合の「世間知」ってものだよねえと、私の「古い感覚」ではそう思っちゃうんですけど、もしかしたら若い人は、こういう事件を見たり聞いたりするのは何よりも楽しいんですかね。


 日曜の朝は『仮面ライダー響鬼』、今回は十一之巻 「呑み込む壁」。
 一話も欠かさずよく見てるなあ、オレ。こうなるとDVDすら発売されたら買いたくなってしまいそうだが、考えてみたら『仮面ライダー』シリーズは一番好きな旧本郷ライダーですらLD、DVDは持っていないのである(エアチェックのビデオテープだけ)。気に入らないところもないわけではないのにこんなに入れ込んでるのはなぜなのかまだ自分でもよく分かってないのだが、それを自己確認するためにもついつい見ちゃうのである。
 ついに明日夢も高校生。制服を今一つ着慣れていない様子なのが初々しくてよい。新学期に合わせるかのように、「猛士」側も「魔化魍」側も、急激と言っていいくらいの新展開があったのが今回の話。ダブルライダー揃い踏みのワリに、ドラマ展開自体はまったりしていた前回までとは打って変わったようである。
 ディスクアニマル開発者である滝澤みどり(梅宮万紗子)と明日夢との出会いはまさしく「出会いがしら」でいささか強引だけれども、明日夢がいよいよ「猛士」と深く関わっていくためには必要な展開であろうか。ただこのみどりさん、キャラクターとして香須実とカブってる部分があって、初登場のワリにはちょっと印象が薄い。今後の展開でもう少し突っ込んだ扱いをしないと無駄キャラになりそうな心配があるけれど、まあ私は日菜佳の方が好みなのでどっちゃでもよろし(笑)。
 敵方では「幹部」っぽい黒づくめの男が登場。なんだこいつはブラック司令(『ウルトラマンレオ』)か、と思っちゃったが、いつまでも単発的な戦いばかりじゃドラマが続かないし、敵さんにもやはり組織的な行動が必要だろう。ただこれもデザイン的にはありきたりで、もしかしたらあの黒服の中に斬新な衣装が隠されているのかもしれないが、今のところは「変なやつが出てきたな」程度のインパクトしかない。これも「面白くしてくれよ、頼むよ」という期待で見ていきたいところだ。……それはそうと、今回の魔化魍、食虫植物っぽいけど、「塗り壁」なのかね?
 ラストで明日夢が「たちばな」の秘密の壁に呑み込まれて落ちていくカットと、響鬼がヨロイを纏った童子たちになすすべもなくやられて崖を転落していくカットがシンクロする演出は秀逸。響鬼の危機感が相殺されてるんで、また「ライダーっぽくない」と怒るファンもいるかもしれないけれど、もう響鬼ってどんなにやられても悲壮感のカケラもないキャラとして認知されてると思うぞ。細川茂樹さんと栩原楽人くんの脱力した「あ〜〜〜〜〜」という悲鳴がかぶるのがGood(笑)。
 もう一つ、さりげない台詞だけれど今回のお気に入りは、松山さんの息子に「おにいちゃん」と呼ばれてヒビキが「おじさんでいいよ」と答えるシーン。日常普通に見られるシーンだけれど、ドラマでこういうやり取りを描いた例は意外に少ない。たいていは逆パターンの、「おじさん」と呼ばれて「おじさんじゃない、おにいちゃんと呼べ」と「若さ」を強要する陳腐なシーンが描かれることが多いのである。つまりはヒビキが自ら「おじさん」であることを引き受けていることを端的に示した台詞であって、当然これは将来的に明日夢との師弟関係も暗示しているのであろう。なにより、子供にとっての「大人」が今の世に必要だと訴えるスタッフの姿勢も表しているように思える。ドラマだけじゃなくて、、現実の「おじさん」たちも、堂々と「おじさん」であることを引き受けてほしいものだけれどもね。


 夜、8時半ごろ、またまた大き目の余震。
 さすがに少しは雪崩れた家具や本類を片付けないと、と、床を片付けた矢先にこれである。今度もパソコンの前に座っていたしげの手の上に棚からDVDが落ちてきて直撃。でもしげは「いてぇぇぇぇ!」と大仰に騒ぐので、かえって悲壮感に欠けている。よけろよそれくらい。
 それにしてもこの余震の数の頻繁さは何なのだ。今度の余震もかなり大きくて、マグニチュードは4.8、余震としては3月22日のM5.4に次ぐ2番目の規模、余震で震度4が観測されたのはこれで4回目だということである。西方沖の断層が活性化しているだけでなくて、福岡の地盤自体にあちこちガタが来てるんじゃないかね、これ。
 そんな風に心配し始めると、余震以上の本震が来ることもあるかなあという疑惑をどうしても捨てられなくなる。地震以前から計画していた引越し、本気で考えなきゃならんかとも思うが、いかんせん夏場まではどうにも動けない。その間にデカイのが来ないことを祈るしかないのだ。


 マンガ、高橋葉介『夢幻紳士【幻想篇】』(早川書房)。
 『マンガ少年版』『リュウ版(冒険編)』『怪奇編』『外伝』(更には『帝都大戦』『学校怪談』のゲスト出演も)と続いてきた『夢幻紳士』シリーズの最新作。掲載紙は「ミステリマガジン」で、ついにミステリとしてきちんと評価されるところにまで来たか、と、第一作のころからのファンとしては感慨無量である。
 「幅広の黒帽子、全身も黒服の男」というイメージだけが共通していて、作品ごとにひょうきんだったり純情だったりと変化して、作者自身からも「夢幻魔実也氏はそれぞれ別人」と言われてしまってはいるが、『怪奇編』の中盤あたりから、ジト目で煙草吸いで女たらしなイメージはだいたい固まっている(笑)。全く、何でこんな外道が女性にモテまくるのか、作者ならずとも、こんな陰険で卑劣でそのくせ妖しいくらいに美形なんてやつが現実に存在していたら背中から蹴り倒してやりたいくらいだ。
 けれど今回の魔実也氏の最大の特徴は、彼が「実在していない」という点だろう。すなわち魔実也氏は主人公の“僕”の心の中にしか存在していない。事件が起これば“僕”の心の中から「出てきて」解決するのだが、それは“僕”がそのように思い込んでいるだけであって、現実には“僕”自身が行っているのである。
 つまりこれはいわゆる「脳内探偵」ものなのであるが、本格ミステリとしてこれが秀逸なのは、やはりその「オチ」のつけ方だろう(もちろんネタばらしはしない)。
 何と言うか、実に複雑な気分なのは、このネタ、そしてオチに至るまで、私ゃ昔から考えていたんだわ。つか、実際に戯曲にも書いた。その戯曲を元にして、もうちょっと洗練された形で書きなおしたいなあと思っていたら、「そのラストシーンに至るまで」そっくりそのまま、高橋さんにやられてしまったのである。いやもう、悔しいというかなんというか。
 こういうことはしょっちゅうあって(先日見た芝居もそうだ)、人間の想像力なんて似通っちゃうものだなあとタメイキをつくしかないのだが、だからこそ「更にもう一歩先の物語がつむげないものか」という意欲にもつながるのである。私の脳もそろそろボケがひどくなっているようで、いさささか心許なくはあるのだが、シロウトなりにもうちょっとは面白いよと言っていただけるものを書いていきたいと思っちゃいるのである。

2004年04月10日(土) 勇気を持って言おう。
2003年04月10日(木) 最近教育テレビづいてるかも/『名探偵コナン』41巻(青山剛昌)
2002年04月10日(水) ヒミツ、ヒミツ、ヒミツのしげ/『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』(土屋嘉男)
2001年04月10日(火) 大江山枕酒呑草子/『カエル屋敷のベンジャミン』(玖保キリコ)ほか


2005年04月09日(土) 若さゆえの過ち/『ななこSOS』2巻(吾妻ひでお)

 夜、七時から、天神西鉄ホールで、E−1グランプリ番外編、マニアック先生シアターの『ロジウラ*ラジオ』と非・売れ線系ビーナス×万能グローブガラパゴスダイナモス『況わんや、百年振りの粗捜し』の二本立て。
 「E−1グランプリ」というのは、要するに地方劇団同士の全国大会で、北海道・東京・名古屋・中国四国・九州の各地区大会を行い、それぞれの劇団が25分の短編演劇を上演して、お客さんに審査投票してもらい、上位入賞者による全国決勝戦を年一回行うというもの。うちの劇団にはやる気あるやついないから参加したことがない(苦笑)。
 今回の「番外編」というのは、つまりグランプリに参加した劇団の凱旋公演のことで、素人劇団とは言え、そんなに外れはなかろうとちょっとは期待して見に行く(つか、知り合いのスタッフの女の子からチケット売りつけられたんだが)。
 基本的に私は若い人ががんばってる舞台はそれだけで微笑ましく見ることにしているので、一応は満足。歌って踊って走り回って笑わせて、見ながらつい「若いっていいなあ」とトシヨリの感慨が脳裏をよぎる。今後の活躍も充分期待できそうだ、と評価してあげたいと思う。
 ……でもまあそれはこちらも演劇やってる人間としての共感・同情・連帯感が背景にあるからで、そういうものを一切排除した一観客として芝居を見た場合、どちらの芝居もあれやこれやと不満が出てこざるを得ない。そもそも作り手の「若さ=底の浅さ」がドラマを薄っぺらなものにしてしまっているのが、両作品ともに共通しているのである。

 『ロジウラ*ラジオ』、街角の占い師のところにやってきたホームレス風の中年男。「私の探している『ドア』がどこかにあるはずだ」と妙なことを言う。占い師はその「ドア」がすぐそこにあると答える。そのドアから現れたのは、三人の男女。彼らはみな、自分は「ヤスシ」であると名乗り、中年男を「父親」だと呼んだ……。
 「同一人物が何人も現れる」というネタは私も昔書いたことがあるので、ちょっとした台詞回しも含めてやたら既視感がしてしようがなかったのだが、自分で苦労した経験があるだけに、この芝居もどこがどうマズいのかが細かく見えてしまってかえって困った。無理にドラマを先に進めようとするあまり、設定も台詞がやたら無理っぽいというか、不自然なものになってしまっている。中年男が「ドア」を探して回るという導入自体、物語を不条理劇にするつもりがないのなら無意味で観客の感情移入を阻むものでしかないし、役者も何の心理的葛藤もなくだらりと演じているだけである。しかもオチは浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』の複数化なわけで、ラストをしんみりとさせたいのなら、「ありえたかもしれない子供たち」はロッカーのバカガキや性転換したダンス教師やあやしげな鯉の養殖屋じゃギャグにしかならない。つか、なぜギャグにしないのか?
 小劇場演劇の隆盛は、芝居にはともかく「小出しのギャグ」と「ラストのしんみり」を入れなきゃならないという悪弊を生んでいる。それが決まる芝居ならばともかくも、この「本物は誰だ」ネタは、基本的にスラップスティックにしかなりえない(私は自分の脚本では当然そうした)。ドタバタギャグが日本人に通じにくいというのは分かるが、かと言って、木に竹を接いだような形でアットホームなオチを持ち込まれても、心情的に納得できるものではないのである。途中途中で差し挟まれるラジオDJのシーンも、家出した男が捨ててきた妻の消息を伝えるためだという作者の意図は分かるが、効果としては今ひとつ、それどころか話の流れを中断させることにしかなっていない。結果、「何が言いたいのか分からない」芝居になってしまっているのはやはり「若書き」でしかない。

 『況わんや、百年振りの粗捜し』、再演だそうだが、意味不明でしかもキャッチーでもないタイトルは改題したほうがよかった。
 雨の日、段ボール箱に捨てられていた青年を拾ったハジメ。彼女は青年にテンノと名前をつけ、ペットにする。放送局のあるタレントの付き人になったテンノは、突然起きた大地震で混乱した民衆に的確な誘導を呼びかけてパニックを収めたことをきっかけに、プロデューサー・鍵屋に救国のカリスマとして利用され、「王のない国」の象徴的存在として擁立されていく。そして鍵屋の魔の手はテンノの出自を知るハジメにも伸びていた……。
 再演されたということは、初演は大受けだったのだろうか? 一部で笑いはあったが、劇場内は概ね落ち着いている、というよりは白けた雰囲気が漂っている。「みんなで唱和するからショーワ・テンノ」とか、場内はシーンとしている。一言で言ってしまえば、天皇制を揶揄するその視点が、ちょっとだけ政治にかぶれたガクセイの何となくな“軽い”反発の域を出ず、見ていて「もうちょっと世間知持とうよ」とタメイキしか出ないのである。
 天皇が所詮は時の政治の傀儡に過ぎないこと、なし崩し的に天皇制が継続していることが、いつかは「時代」によって利用される危険を秘めていること、そういった作者の「不安」は確かに物語を構成する重要なモチーフになってはいるが、結局物語はそれを指摘するところで終わりであり、その先の主人公たちの懊悩もなければ打開策の模索もない。挫折し、開き直って無頼に生きる度胸もない。テンノも鍵屋も仲間たちもみな死に、婆あとなったハジメだけが生き残って何となく空を見つめて終わるという投げやりなラストはいつたい何なのか。
 作者としてはこの程度の「からかい」で充分笑いを取れた気になっているのかもしれないが、客の目からは重いテーマから逃げているようにしか見えない。キツイ言い方にはなるが、芝居をなめているんじゃないか、とすら言いたくなる。あまり芝居を見慣れぬ若い客なら簡単に騙されるだろうが、天皇制に対する破壊的なギャグなら、場末の寄席でだってしょっちゅう行われていたのだ。軽いのではなく、ぬるい。結局、「何が言いたいのか分からない」芝居になってしまっているのは『ロジウラ*ラジオ』同様である。これもやはりただの「若書き」なのであろう。
 ああ、でも、NGOの連中が、鍵屋に「テンノ制に協力しろ」と言われて拒絶していたのが、「金は何ぼでも出す」と言われた途端に「何でも協力します」と豹変するギャグは笑った。何かを本気でからかうなら、「モジリ」に逃げずに堂々と実名を出さなきゃ意味はない。誤解を恐れずにあえて言うなら、演劇は本質的にテロリズムなのである。

 しげは以前も「非・売れ線」の舞台を見ていて、そのときも「今どきなんでこんな芝居を打つのか」と疑問に思ったそうだが、どの時代でも学生気分の純粋真っ直ぐ君はいるものである。そんなに不思議に思うこたない、と言ったら、「作者は絶対そこまで考えてないよ」と断言した。そこまで言い切るのも容赦がなさ過ぎると思うが、確かに「何も考えていない」可能性も大なのだよなあ。


 マンガ、吾妻ひでお『ななこSOS』2巻(ハヤカワコミック文庫)。
 とりあえず『ななこ』の感想は後回しにして(笑)、『失踪日記』は既に四刷りまで行ったそうである。今日、天神の福家書店でもカウンター横に平積みで何十冊も置かれていて、新聞の書評が紹介されていた。「吾妻ファンは10冊購入しなさい」とまで書かれていたが、実際、お金に余裕があるなら、10冊でも20冊でも買って、知り合い連中に「読め」と言って配りたいくらいである。
 『コミック新現実vol.3』掲載の『うつうつひでお日記』をお読みの方はご承知だろうが、吾妻さんの病気は現在進行形で、今も抗鬱剤を服用している。『失踪日記』だけを読んでいたら、「ああ、もうアル中も治って、マンガを描けるようになったのだろうなあ」と勘違いしそうだが、そうではないのだ。構成、下書きは確かに吾妻さんだが、仕上げは奥さんがされている状態。いつ再び、いや三度、「失踪」してしまうか分からない。せっかくヒットしているのだから、ぜひ平穏に暮らしてほしい。『失踪日記』の内容についていろいろ言いたい人もいるだろうが、ともかくファンとしては暖かく見守っていただけたらというのが願いなのである(最初の失踪もファンの「最近の吾妻マンガはつまらない」などの中傷が原因の一つだった)。いや、公的に発表されたマンガである以上、感想は何を言ったって構わないのだけれど、吾妻さんの目に触れ耳に届く形ではやってほしくないということなのだ。
 吾妻さんの公式ホームページ(http://azumahideo.nobody.jp/)では、日記代わりのスケジュール報告で、吾妻さんが「今更遅いけど、仕事は来ないし、限界だし、自分を苦しめるだけなのでもうナンセンス漫画はやめる。これからは暗い漫画を描くつもり。どこも使ってくれないかも知れんけど」と言ったことに対して、いしかわじゅんが「暗い漫画でも、日記漫画でも、何でも俺たち吾妻ファンは読むよ。好きな物を描いてくれ」と激励し、感動したことが書かれている。吾妻ファンはみんな等しく、同じことを思っているのだ(『ななこ』の描き下ろしマンガで、Dr.石川が昔よりも「優しく」なってるのはこのせいかな?)。
 『ななこ』の解説では、竹本泉が、「少年まんが家の93%は吾妻ひでおの影響を受けてるんだぞ」と力説し、「この『ななこSOS』には吾妻さんの基本要素が全てつまっています。美少女とSFとちょっと不条理と。吾妻ひでお初心者の人にもぴったりです」と薦めている。吾妻マンガを読んだことがないという若い人、けれどあなたの好きな最近のマンガ、そのルーツを辿れは必ず吾妻マンガに行き着くのだ。
 『ななこ』や『オリンポスのポロン』、『アズマニア』はハヤカワ文庫で入手可能だ。売れてないらしいので絶版が近いかもしれないが、『やけくそ天使』も秋田文庫でまだ買える。これも残部僅少だとは思うが、マガジンハウスからは『幕の内デスマッチ!!』『メチル・メタフィジーク』『贋作ひでお八犬伝』『格闘ファミリー』『銀河放浪』が出ている。あなたがマンガを本当に愛しているなら、ぜひ一読を乞う。

2004年04月09日(金) うどん談義と『新選組!』低迷
2003年04月09日(水) 最近日記に書けないことが多いなあ/『エンジェル・ハート』6巻(北条司)
2002年04月09日(火) 正義なんて要らない/DVD『指輪物語』/『UAライブラリー10 すごいけどヘタな人』
2001年04月09日(月) ハートブレイカー/『DRAMATIC IRONY』(藤崎竜)ほか


2005年04月08日(金) 訃報二つ/『名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(石川森彦)

 出張で一日ばたばた。そのためか、買ったばかりの定期をどこかに落としたらしい。
 「もしかしてスラレたかなあ」とつぶやいたら、しげ、「あんたが落としたにきまっとるやん! どうして他人のせいにするとね!」と烈火のごとく怒る。別に他人のせいにしてるわけじゃなくて、どこでどう落としたかが皆目見当がつかないので(ポケットに入ってたほかのもの、鍵とかは無事で定期だけが落ちているのだ)、そう言っただけのことなのだが、しげは怒りのぶつけどころがなくて、私に当たっているのである。
 でも、落として損したのは私であってしげではないのだが。私が悔しがる前にしげが半狂乱になってたんじゃ、私はどうしたらいいのやら。


 映画監督の野村芳太郎氏が、8日、肺炎のため死去。享年85。
 遺作が1985年の『危険な女たち』(原作はアガサ・クリスティーの『ホロー荘の殺人』。エルキュール・ポアロにあたる探偵役は石坂浩二!)つまり、十代、二十代の若い人は、リアルタイムで野村芳太郎の映画を見たことはないということになる。だからこその「誤解」が、この人に関してはかなり付きまとっている気がしてならない。
 例えばその「代表作」のように思われている松本清張原作による『砂の器』である。以前もこの日記やコンテンツ(現在再アップ中ですが)で書いたことがあるが、お涙頂戴好きの日本人には痛く受けていても、これは映画としてもミステリーとしても何ら評価すべき点のない駄作である。あんなハンセン病を「利用」した映画に価値を認めるというのは、いったいどういう神経の人間かと憤りを覚えるほどだ(詳しくは都筑道夫の『サタデーナイト・ムービー』を参照のこと)。
 公開当時も、知り合い連中で(もちろんコアな映画ファン、ミステリファンばかりなのだが)あれを誉めている人というのは皆無に等しく、「ヒットしてるって言うから見に行ったのに、何だあれは」と憤慨すらしていた。つくづく作品の出来と大衆受けとは別物なのだと実感せざるを得ない代表例が『砂の器』であった。
 今やその「大衆受け」でしかなかった虚名が定着し、後追いでこの映画を見た若い人はこれが本物の名作であると大きな誤解をしているように思える。まさしく「歴史の風化」と言うか、「古いものはみなよい」症候群に罹ってんじゃなかろうか。
 基本的に野村芳太郎という人は、特に個性的な演出家というわけでもなく、やはり松竹大船の人情路線の伝統上にあってペーソスは解せてもナンセンスギャグは不得手、社会派としてもごく小市民的で床屋政談的な思想しか持ち得なかった人で、だからこそ逆に一般大衆にはわかりやすい庶民感情に根ざした娯楽作品を作ることのできた職人監督であったと思う。70年代、80年代の「大作志向」の映画以前は、小品だけれどもたまにしんみりした文芸映画、コメディ、ミステリーなど、ジャンルを問わない映画を数多く撮っていた。原作知ってりゃ誰が見たってミス・キャストだろうって印象の、美空ひばり主演の『伊豆の踊子』とか三波伸介主演の『ダメオヤジ』とか、一連のコント55号シリーズとか、いくらプログラム・ピクチャーだからとは言え、映画の出来云々以前に、企画段階で誰か止めるやついなかったのかって言いたくなるような珍品の数々が目白押しなのだが、これは恐らく、「タレント人気」に乗っかりゃいいんだからと軽い気持ちで(つか何も考えずに)作っていたと思しいのである。
 だからこそ初期作品でたまに光って見える『張込み』とか『拝啓天皇陛下様』とか『五瓣の椿』も、脚本もそんなに上手いわけではないのでやはり役者の力に起因するところが大きいのだろう、と演出家としての野村さんの腕は割り引いて考えてしまいたくなるのである。
 それにしても不思議でならないのは、野村さんは本人の資質的にはおよそ合っているようには見えないミステリー・推理映画に、どうしてあそこまで拘ったのかということだ。全部で88本ある監督作の中から、広義のミステリー・推理映画に当たるものを抜粋してみる。

 1953 鞍馬天狗 青面夜叉(原作 大仏次郎)
 1958 張込み (原作 松本清張) 
 1961 ゼロの焦点 (原作 松本清張) 
 1961 背徳のメス (原作 黒岩重吾) 
 1964 五辧の椿 (原作 山本周五郎) 
 1968 白昼堂々(原作 結城昌治)  
 1970 影の車 (原作 松本清張)
 1974 砂の器 (原作 松本清張) 
 1977 八つ墓村(原作 横溝正史)
 1978 事件(原作 大岡昇平)
 1979 鬼畜(原作 松本清張)
 1979 配達されない三通の手紙(原作 エラリー・クイーン『災厄の町』)
 1980 わるいやつら(原作 松本清張)
 1981 真夜中の招待状 (原作 遠藤周作『闇の呼ぶ声』)
 1982 疑惑(原作 松本清張)
 1983 迷走地図(原作 松本清張)
 1985 危険な女たち(原作 アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』)

 晩年の作は殆どミステリーばかりと言ってよいが、そこそこの秀作はあっても文句なしに傑作と言えるのは『張込み』『事件』『鬼畜』くらいのものであろう。しかもこれらの作品の面白さはあくまで映画としての面白さであって、ミステリーとしてのそれではないのである。『張込み』『鬼畜』は犯罪を題材にはしているが、ミステリーとしての興味はかなり薄く、『事件』も原作が本来目指したものは裁判の集中審理方式に関する是非であり、推理小説のそれではない。これだけ松本清張作品を映像化していながら、最も本格ミステリとしての体裁を整えている『ゼロの焦点』が一番つまらない出来なのである。横溝正史、遠藤周作、クイーン、クリスティーの映像化に至っては、ミステリーとしてはトホホなものばかりであった。「ミステリ映画を作る才能がない」と断定しても構わないと思う。
 「いったい何が野村芳太郎に欠けていたのか」という点を考えたとき、比較の対象として黒澤明や岡本喜八を挙げれば、納得していただける方も多いと思う。黒澤明の場合はブレーンにミステリマニアの脚本家・菊島隆三がいたことも大きいと思うが、実際、野村芳太郎以上にミステリに対する造詣は深かったと思われる。純粋にミステリーを原作にしたものはエド・マクベイン原作の『天国と地獄』くらいだが、『野良犬』『羅生門』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』などにはミステリーの要素が横溢している。岡本喜八も、出世作『独立愚連隊』は完全に本格ミステリの体裁を取っていたし、大藪春彦原作の『暗黒街の対決』『顔役暁に死す』、ウールリッチ原作の『ああ爆弾』、都筑道夫原作の『殺人狂時代』、天堂真原作の『大誘拐』のほか、やはりミステリ趣味満載の映画が数多くある。黒澤・岡本両監督のミステリ趣味は、常に「粋」だということだ。
 まさしくその「粋さ」こそが、ミステリ映画をミステリ映画たらしめる重要なファクターなのである。例えばそれはどんなところに現れているかというと、『用心棒』『椿三十郎』で三船敏郎が敵を欺くために見せた数々の機知、『天国と地獄』のあのパートカラーの煙、『殺人狂時代』での仲代達矢のとぼけぶり(あまり具体的に書くとトリックをばらしちゃうので書けない)などなど、それらは映画、映像表現であるがゆえに効果的なものばかりであった。まさしく黒澤・岡本監督は「映画作家」であったのである。
 それに対して、野村作品のミステリ描写はことごとく芸がない。ただカメラで写しているだけで演出というものがない。『砂の器』の「カメダ」ほか、謎解きの高揚感のなさはどうしたことだ。「allcinema online」などのユーザーコメントを見ても、「親子の情愛」云々について語るばかりで、一般観客の感動がミステリ部分には全く関わっていないことがよく分かる。
 「ミステリ映画の第一人者」というイメージが、いかに野村芳太郎の本質とかけ離れているか、それは例えば野村さんの映画を見て原作者に興味を持ち、他の作品を読んでいけば、野村さんがいかに原作者の代表作を“外して”映像化しているかもよく分かる。横溝正史、クイーン、クリスティーについてはどうしてそれを選んだのか、理解に苦しむほどで、これはもうミステリに対する感度が著しく低いと言うしかない。別にミステリとして面白くなくてもいいじゃないか、と仰る向きにはミステリをミステリとして映画化しないのは羊頭狗肉であると反論しておこう。
 監督としての評価も『事件』『鬼畜』を最後に、作る映画作る映画、酷評を受けヒットもしなくなっていく。結局は『砂の器』や『八つ墓村』が予想を超えて記録的に大当たりしてしまったことが、野村さんを「勘違い」させ不幸にしてしまったのではなかろうか。その結果、「大作」を「ヒット作」を作らなければならない、という思い込みが、野村さんを、そして松竹を支配し、そのために「ミステリー映画で当たったのだから、次もミステリーを」という安易な選択に走らせてしまったのではなかろうか。
 そうでさえなければ、あともう少し、小粒ながらもしっとりした映画を作り続けられたのではないか、そんな気がしてならないのである。


 訃報がもう一つ。
 こちらは野村監督に比べて扱いが格段に小さいが、マンガファンにとっては絶対に忘れられない、忘れちゃならない名前である。
 かつて伝説のマンガ雑誌『COM』(手塚治虫責任編集だったんだよ)誌に珠玉の短編マンガを発表し、「天才」の名を恣にしていた岡田史子さんが、3日、心不全のため死去していたことが判明。享年55。つい何年か前に旧作の短編集が編まれていたし、『消えたマンガ家3』でもインタビューに答えていらっしゃったので、お元気なものと信じていた(「消えた」と称するが、もともと寡作家で、数年作品の発表がなくてもファンは気長に待っていた)。
 作品数は限られていたが、24年組の人たちに強く影響を与え、少女マンガが少年マンガを凌駕するほどの深遠なテーマを扱うようになるきっかけを作った人であった。……こういう「常識」も、知っている人間の“誰もが”記しておかないと、忘れられてしまうのである。
 多分に60年代、70年代の世界に対する逼塞感を感じさせる作風であるが、少年の、少女の、壊れ行く精神を、切り絵が人形のようなキャラクターに託して象徴的に描いた作風は、現代でもあるいは未来でも充分に通じるだろう普遍性を持ちえていたと思う。代表作の『ガラス玉』『ピグマリオン』などは、飛鳥新社から発行されている『ODESSEY1966〜2003 岡田史子作品集』で読むことができる。


 マンガ、大橋志吉脚本・石川森彦まんが『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(NHK出版)。
 マンガやアニメからクリスティーに入ろうという人には「原作を読んでくれ」と言いたいところだが、ともかく活字離れの進んでいる現代では、若い人にミステリーを読んでもらおうと思ったら、「学習マンガ」的な、マンガとしての面白みに欠けるマンガであってもないよりはマシ、ということになるのかもしれない。
 と、好意的に評価しても、原作の選択に『雲をつかむ死』というのはちょっと納得がいかない。クリスティーの長編の中では犯人の動機、トリックにかなり無理があり、せいぜい中の下、程度の評価しか与えられないのだが、やっぱり「空中の密室」である飛行機の中での殺人という設定に、つい魅力を感じちゃうんだろうね。犯人が限定される状況でなぜあえて殺人を犯さなければならなかったのか? という疑問に明確に答えられていないのが難点なのだが、この疑問に納得のいく解答を出しているミステリーって、実はすごく少ないのである(去年の『名探偵コナン 銀翼の奇術師』も、そのあたりの矛盾が全く考慮されてなかったものなあ)。しかも前作の『パディントン発4時50分』と、内容的にちょっと「かぶっている」部分もあり、その点でも原作選択においてもう少し検討はされなかったのかと疑問が生じるのである。
 アニメに準拠しているので、今巻もメイベル・ウエストが登場しているのだが、『パディントン』のように「置き換える」キャラがいなかったため、出番も少なく、いてもいなくてもいいテイタラク。ポワロがやたら「解けない謎はない。真実は私に微笑む」と決め台詞を口にするのもうるさい。これはもう『金田一少年』と『名探偵コナン』の明らかな悪影響だ。原作ファンには宣告ご承知と思うが、ポアロは確かに「名探偵、みんな集めてさてと言い」という状況を作るのは好きだが、巷間言われているほどのハッタリ屋ではない。マンガもアニメもキャラクター造詣が雑なのである。
 アニメもじきにめでたく放送終了だと思うが、いくらクリスティーファンとは言え(デヴィッド・スーシェ主演版のDVDボックスはしっかり買っているのである)、あれはDVDが出ても買う気になれないのである。


 マンガ、和月伸宏『武装錬金』7巻(集英社)。
 黒い核鉄のために、人類を滅ぼすモンスター・ヴィクター�靴伐修恒震燭砲△襯�ズキの逃避行編。斗貴子がくっついていくのは当然としても、もう一人の仲間、前巻より新登場の中村剛太のキャラクターが弱いのが難点。つかねー、もう中堅どころと言っていいキャリアがあるのにねー、和月さんが脚本・キャラ作りともに一向に進歩・上達しないこと自体、将来が心配になるんだけどねー。なんつーか、あれやこれやの先行作品からの流用が多すぎるよ。しかもそれを正直に後書きで告白して、「反省」したりするから、かえって評判を落とすのである。技術が上達しなきゃ、反省なんて有名無実だとしか思われないって。
 「いずれ化物になるかもしれない恐怖」ってモチーフもまあ昔からいくらでもあるんだけれど、ちょうどサンデーで夏目義徳の『クロザクロ』が全く同じ展開になってて、こっちのほうがはるかに面白いものだから、比較されるとどうしても和月さんのほうがワリを食ってしまう。何がよくないって、カズキに宿命を背負った悲壮感がまるで感じられない点なので、これはどう言い訳したって和月さんの演出力不足に原因があるのだ。「カズキはあくまで明るく振る舞うキャラだ」と弁護したいファンの人もいるかもしれないが、「明るく振舞うからこそその運命の重さが際立つ」演出がまるでなされていないのである。
 和月さんの実力を考えると、これから先、このマンガが面白くなるとは思えない。なのにファンとして和月さんを見捨てられないのは、前にも書いたと思うが、マンガそのものはつまらなくても、和月さん本人に「人間としての誠実さ」を感じるからだ。誠実でなければ誰が自作の欠点をあそこまで堂々と後書きで書きまくるものか。ほんの少しでも面白くなってくれれば、という淡い期待で、8巻、9巻と続いてほしいのだが、10巻越えての伸びがどこまでか、苦しいところだろうなあと思うのである。

2004年04月08日(木) もう好きなだけトンガッちゃってください(-_-;)。
2003年04月08日(火) 新番組攻勢始まる。/『アニメ『キノの旅』1話「人の痛みが分かる国」/カレイドスター』1話「突然で! 初めての! ステージ」
2002年04月08日(月) ゲイは身を助く/『光の島』2巻(尾瀬あきら)ほか
2001年04月08日(日) デイ・アフター/『漫画 巷説百物語』(京極夏彦・森野達弥)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)