無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年06月06日(日) やつぱり「亀」が好きな世代だから。

 ウチのマンションは原則としてペット禁止なのだが、金魚とか、ご近所に迷惑をかけるおそれのないものについては問題ない、ということになっている。最近ちょっと、「亀」を飼いたいなあ、と思い始めた。
 職場で亀を飼ってることは何度かこの日記にも書いたことだが、こいつがまあ、かわいいの何の。エサのことしか考えてないのは見てりゃわかるんだが、ペットというものはそういうシンプルな付き合い方ができる相手の方がラクでいい。犬、猫、あたりは妙に人間っぽい繊細な神経の持ち主もいたりするので、飼うにはかなりな覚悟が必要になるのである。
 先日、しげに「亀飼っていい?」と聞いたら、始めは「いいよ」とか言ってたのだが、あとで鴉丸嬢とおしゃべりしているときに「ボウフラが湧くよ」と言われて、急に「反対派」に回ってしまった(「派」ったって、一人しかいないが)。あまりうるさく文句をつけてくるので、応対するのが面倒臭くなって、「わかったよ、ベランダで飼わないで風呂場で飼うよ」と適当なことを言ったら、今度は「ウチのバカは風呂場で亀を飼うつもりだ」とみんなに言いふらし始めた。
 ……本気にするなよ、茹っちゃうだろうが、亀が(-_-;)。


 俳優(^_^;)、ロナルド・リーガン、別名、エルヴィス・リーガン(知らない人も増えただろうから、ヒトコト説明しておくと、「レーガン」と表記するようになったのは大統領になってのち、「そちらのほうが原音に近いから」という本人の要望があってからのことである)が、肺炎のため死去。享年93。1994年にアルツハイマー病であることを告白していたし、もう相当な高齢であったから、まさしく大往生であったと言えるだろう。「20代、40代、60代……と、偶数ゼロ番代の大統領は人気をまっとうできない」というジンクスを破ったのも彼である。
 実は60本近くの数の映画に出演している元大統領だけれど、その出演作の殆どは、戦前の二流・三流西部劇。主演もそれほど多くはない。私も、動いている「俳優」としての「“リ”ーガン」氏は、ジョン・ランディス監督のコメディ、『スパイ・ライク・アス』(1985)でチェヴィ・チェイスが見ているテレビの中に登場して、『I’ll be loving you』を歌っている姿を見ているだけである(結構いい声。吹き替えか?)。比較的評価の高いドン・シーゲル監督の『殺人者たち』(1964/これが遺作となった)も見ていない。
 じゃあ、なんでわざわざ「俳優」として取り上げようって気になったかって言うと、これはもう、ロバート・ゼメキス監督の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)で、ネタにされていたから、という、故人には実にシツレイな理由ゆえになのである。
 ご存知ない方のためにその「ネタ」を説明しておくと、1985年から1955年にタイムスリップしてしまったマーティ(マイケル・J・フォックス)は、ドク(クリストファー・ロイド)に自分が未来から来たことをなかなか信用してもらえなくて困るのだけれど、それどころか、ドクから「じゃあ、1985年にアメリカの大統領は誰になってる?」と聞かれて、うっかり正直に「ロナルド・レーガン」と答えてしまったために、ますます信用してもらえなくなったというギャグがあったのである。そのときドクは鼻で笑って、「大統領がレーガンなら、副大統領はジェリー・ルイスか?」とマーティに突っ込む。
 1955年当時、レーガンはまだ俳優を引退してはおらず、またルイスはディーン・マーティンと組んで「底抜け」シリーズを連発、若者を中心に絶大な人気を誇っていた。もっとも翌年にはこのコンビは解消してしまうから、目ざとい観客の中ては、「やや下り坂」に見えていたかもしれない。コメディアンであるルイスと、西部劇役者のレーガンとを並べてみても、私には何だかピンと来ないのだが(かと言って、名優アーネスト・ボーグナインあたりを持ってきては、レーガンとでは役者の「格」が違いすぎて比較にならない)、それはアチラの文化をよく知らぬ私の勘違いで、レーガンは「そういう役者」として認識されているのかもしれない。ルイスの人気は一時凋落の一途を辿ったが、彼にオマージュを捧げる映画人も少なくなく、『キング・オブ・コメディ』などで復活を果たしている。レーガンもまた、別の世界で見事な「役者」ぶりを示した。
 ジョン・ランディスもロバート・ゼメキスも、“役者”リーガンのことが好きだったのかもしれない。


 朝から公演のチラシの撮影で、カトウくん、其ノ他くん、鴉丸嬢、しげ、私と、10時にパピヨンプラザに集合。やや小雨がぱらついていたが、撮影できないと言うほどではない。かえって日陰ができない分、あとでパソコンで加工するのにはちょうどいいだろう。
 一応、演出補の肩書きがあるので、付き合って行ったのだが、特にああせいこうせいと言うことはない。やることと言ったら、荷物の張り番とパシリくらいのものである。
 カトウくん、始めてパリッとしたスーツ姿で撮影に臨むが、これがなかなかの男前。しげはそれを見て「惚れるう〜♪」と嬌声を上げている。けれど、続けて「仕事に疲れて、男臭(おとこしゅう)がしてるとこがいいとよ!」なんて言うものだから、あまり誉めてるようには聞こえない。もう少し言葉を選ぼうよ。
 鴉丸嬢はずっと旗袍(チーパオ)姿での撮影。当然一番目立っているのだが、通りすがりの人がみんな振り返って行くだけでなく、隣のレストランにいた中年オヤジたちも、食事中ずっとウィンドウ越しに鴉丸嬢のことを見ていたらしい。こちとら、曲がりなりにも役者なんだからな、それだけ見たなら木戸銭払ってけってんだ。
 ……とか言いつつ、ウチの公演は未だにカンパ制で、基本的に無料なんだけどね。

 昼からパピオビールームに移動、ここでハカセも合流、練習に入る。
 ようやく私も演出らしきことを言い始めるが、あくまで「補」であって、みんなの合議制で作って行く方式だから、あまり具体的に動きを指定したりはしない。こないだ見た『ロスト・イン・トランスレーション』のカメラマン(ダイヤモンド☆ユカイ)の指示なみに抽象的である。
 例えば、「ああ、そこは声優のくせに顔出しオッケーだと勘違いしてる関智一みたいな感じで」ってな調子である。関智一ファンが聞いたら激怒しそうな指示だが、これ、あくまでタトエだから(^_^;)。
 動きもまだ付いていないし、イメージも固まっていないからギクシャクはしているのだが、アイデアをみんな出してくるので、ノリはいい。苦労するのはいつものことだが、これまでのウチの芝居の中では、一番、スムーズに流れている印象である。公演は12月だが、以外とあっという間に来ることだろう。それまでにどれだけ固めて行けるか。


 芝居につかうCD、まだ数曲足りないので、其ノ他くん、鴉丸嬢を送ったあと、「ダイヤモンドシティ・ルクル」の「フタバ図書」に行ってみる。
 鳴り物入りでオープンした「ダイヤモンドシティ」、もう夜も9時を回っていたので、空いてるかと思ったら大間違い。まだ三日目だと、大々繁盛の込み具合である。家から車で15分の距離なので、下手をしたら博多駅に行くよりも近いのだが、少し「落ちつく」までは、休日を避けて行った方がよさそうだ。ワーナーの映画館、17館あって、トリアスの20館よりは少ないものの、前の福岡東より増えている。結構行きつけになりそうである。
 探しものは見つからなかったが、しげがバレエの本を見つけて、芝居の振り付けに使えるからと購入。踊るのはもちろんカトウくんであるが、はてさて、どんな振付を考えるつもりやら。とりあえず、来ただけの甲斐はあったか。


 今日の読書、永井豪原作・鴉紋洋著『映画「キューティーハニー」小説版』、マンガ、流水りんこ『インド夫婦茶碗』3巻、横溝正史原作・長尾文子漫画『本陣殺人事件』、さべあのま『マービーとギジェット』、桂正和『ZETMAN』3巻、牛田麻希原作・木村文漫画『問題のない私たち』1巻、石ノ森章太郎原作・村枝賢一漫画『仮面ライダーSPIRITS』6巻。
 練習はあったけれど、休日はやはり集中して本が読めるのがいい。

2003年06月06日(金) ココロさみし/映画『愛してる、愛してない…』
2002年06月06日(木) つまりシロクマって保護色?/『愛はめんどくさい』(まついなつき)/映画『原子怪獣現わる』ほか
2001年06月06日(水) フォークって民謡って意味なんだが/『メトロポリス』(手塚治虫)ほか


2004年06月05日(土) 通りすがりさんはどこをどう読んでるんでしょうか。

 ここ数日で、一気に日記のカウンターが回ってしまい、76000、77000のキリ番もアッという間に過ぎてしまいました(^_^;)。
 掲示板にも書いていたことだけれども、キリ番報告のあった人には、「福岡限定・ハローキティのミニタオル詰め合わせ」(3点セットくらいにしようかと思う)をお送りしようと思っていたのだけれども、これだけ「通りすがりさん」がいっぱいだと、住所を教えてくれそうな人に当たる確率はかなり低くなりそうだ。さすがに同級生殺人事件直後の800人近くのアクセスは記録しなくなったけれども、それでも今日だけでもまだ300人以上の人が覗きに来ているのである。
 けれど、どうやら「見つからない」と騒がれていた加害者のホームページも発見されたようだし(親、消しとけよ)、私のホームページをきっかけにそこを探しあてようというヤカラも減って行くとは思うのである(だから私ゃ事件の関係者でも何でもないんだから、探そうとしたってムダだってば)。
 もう少ししたら、この状況も大人しくなっていくだろうから、そうすればキリ番もゲットしやすくなりましょう。実はキティちゃんの隠れファンで虎視眈々と狙っていらっしゃるお方も、もうしばらくお待ち頂けたらありがたいです。

 「興味がない」とか何とか言いながら、「日記がそこにある」ことがわかれば、覗いてみたくなるのは人情である。
 私も一部、その加害者少女の日記(らしきもの)を見てみた。散見してみただけだが、コジツケようと思えば、事件にコジツケられる文章がないわけではない。しかし、事件を全く知らない人に、「この日記どう思う?」と聞けば、「別に普通じゃん?」と答えるだろう、と思われるくらいに普通の、小学生の文章である。
 事件前日は大久保小学校の運動会だったようだ。加害者少女は「今日運動会だったんだけど、バナナの皮で滑ったら・・・・・(ウソ)移動中にこけました。ギャグ漫画並みにずるっと。」と書いている。殺意を心に秘めながら、こういう普通の文章をサラリと書ける恐ろしさ、というよりも、少女にとっては、「殺人」もまた日常の延長線上にあったのだろう。あるいはせいぜい「運動会」と同列の「ハレ」のものか。まさしく、こういう子供たちはいくらでもいるし、彼女だけが特別ではない(「異常者」だという意味では明らかに「違っている」のだが、こういう子は平凡に遍在しており、決して少なくはないということである)。
 ニュースで報道された日記の一部、「苦汁、絶望、苦しみが私を支配する」という部分だが、これも全文を読むと、「けれど、全てと戦い、闇を葬り光とこの身の有り難さをそのぶん欲したい。」と前向きな言葉があとに続く。しかしその「前向きさ」は、「殺人」という行為と全く矛盾なく少女の心の中に存在している。「光と闇の戦い」という、ありきたりなファンタジーのタームが、現実的な検証もなされずに日記の文章に綴られるあたりは、彼女の人生が未だ「借り物」に過ぎなかったことを思わせる。「借り物」だから、それが大人の眼から見れば言動不一致に見えても、彼女の心の中ではさしたる葛藤も見せずに存在しえていたのであろう。けれど、「借り物の言葉」しか喋れず、数々の自己矛盾にも気がつかない人間は、大人だろうと子供だろうと、今や当たり前になって来ているのだ。
 昨日までの日記にも書いたが、彼女のような存在を「排除」しようとすることは事件の再発を防ぐことにはならないし、そもそも不可能である。あなたの隣にいるいたいけに見える女の子もまた、ひとつ道を違えれば、あの子のようになってしまう……どころか、あなたが「彼女」になってしまう可能性だって、否定はできない。確かに一生、何の事件も起こさずに一生を終える人間もいるし、そういう人間と、犯罪者との間の距離は果てしなく遠いとは言えるのだが、同時に限りなく密接してもいるのである。
 加害者少女はまた、自分には親が死んでいない旨の詩を書いてもいる。もちろんこれは事実に反している。まさか寺山修司に影響を受けたわけでもないだろうが、そのように自らを仮構した少女の心理に、ある種のヒロイズムを見出すことは簡単ではある。しかしそういう分析が事件の本質を解析できるかどうかという点について言えば、私にはさしたる意味があるようには思えない。分析とは基本的にその対象の「特殊性」を浮き彫りにすることであるが、となれば分析が最も困難なのは「平凡」ということであり、彼女の最も明確な「特徴」がまさにそれだからである。


 今日は休日出勤で、半日仕事。
 昼、しげに迎えに来てもらって、昼食は久しぶりの「ジョリー・パスタ」。カルボナーラとたらこスパゲティ、それぞれハーフサイズなので、量的にはたいしたことがない。イタリア系の料理は油をたっぷり使っているので、このあたりの配慮も必要になってくる。
 食事中、今度の公演の話をダラダラとしたのだが、一応、しげは今度の公演を最後に「引退」するつもりでいる。と言っても、芝居をやめる、という意味ではなく、「もう好きなことしかしたくないので、劇団内に『自分同好会』を作る」ということらしい。今までと何がどう変わるんだか私にはよく分らないのだが。
 芝居は一人で作れるものではないのだから、当然しげは、「これはこうしたらいいんじゃないのかな?」と意見をみんなに求める。それに対して、賛同する人もいれば反論する人もいる。何も言わない人だっている。しげだって、自信をもってものを言っているわけではないけれども、言うときは言わないといけないと思う。だから、懸命にないチエを振り絞ってモノを言うのだが、そういう自分から見ると、「意見を言わない人」は、どうして何も言わないのか、その理由が分からない。「意見はないの?」と聞いても「ないです」と答えられてしまっては、それから先、どう会話を続けていけばいいのか。そういうやりとりにはもう疲れてしまったから、これからは話がツーカーで通じる相手だけ誘って、芝居を作りたい、ということだとか。もちろん、劇団として何か芝居を作る相談があって、それに誘われれば参加してもいいと考えてはいるのである。
 自分がうまくことを運べないのは、しげ自身、頭が悪いからだと思っている。それで私にこう聞くのである。
 「アタマがいいってどういうことなのかなあ?」
 頭の悪い私にそれ聞いてどうするかねえ(^_^;)。
 けれども、「会話ができる」という視点でものを考えれば、「頭がいい人」というのは、相手のレベルに合わせて言葉を選べる人である。
 「コトバ」は一般的に考えられているような、「意味を伝達する道具」ではない。「コトバ」によって規定された「意味」は、語り手から放たれた途端に揺らぎ、常に「誤解」される運命にある。だからその意味をより正確に受け取るためには、受け手のキャパシティーが広いことが前提条件となる。でもこのキャパの広い人間がなかなかいないから、会話が成立しない、という現象は実に頻繁に起きてしまうことになる。このあたりのことを分かりやすく説明するのがまた難しい。
 「たとえばさあ、『完全な人間はいない』ってよく言うじゃん。このコトバ自体は間違ってないよね」
 「うん」
 「『医療にミスは許されない』というコトバもある。これも納得するよね」
 「まあね」
 「じゃあ、医療ミスを犯して患者を死なせた医者を『完全な人間はいない』と言って擁護できるかってことなんだよね」
 「それは……」
 「つまりコトバってのは、それが語られる背景となる前提条件があって、それは実は全て全部違う次元にあるものなんだよ。だから違う次元のコトバをつき合わせたって、矛盾が起こるばかりなわけ。だから『アタマがいい人』ってのは、相手がどういう次元でそのコトバを発しているのか、理解できる人ってことになるんだな」
 「じゃあ、何も喋れないっていうのは?」
 「厳しい言い方になるけど、『語るコトバがない』ってことは前提となる条件を共有してない人なんだよ」 
 とっさの質問で、私の言い方もかなり乱暴になってしまったが、要するに相手と会話する気があるのなら、相手がどういう前提に基づいてモノを語っているか、類推する能力が受け手側に必要になってくるということである。極端な話、「以心伝心」が成立するのは、語り手が何も言わずとも、受け手が語り手の(語ってないのだが)ほんの些細な仕草などから、「意味」を類推してしまうからである。
 ネットなどの論争で話が噛み合わなくなるのは、たいていある次元のコトバを、別の次元のコトバで反論しているからである。「ウソつきは泥棒の始まりだぞ」「でもウソも方便って言うじゃないか」このような反論は、それぞれの言葉が成立しているフィールドが異なっているのだから、突き合わせるだけ無意味なのに、そのことに一向に気がつかない人があまりに多過ぎる。
 この「次元の違い」は具体的にいちいち説明し出すと膨大な時間がかかってしまうし、説明して分かってくれるような相手なら、そもそもトンチンカンな誤解はしないものだから、説明してみたところで徒労に終わることが多い。ほんの数年前まではネット環境の広がりが、そういう齟齬を軽減してくれるようになるかと思っていたのだが、全然そうはなっていないのは、そもそも「アタマの悪い」(=心の狭い)人間が多過ぎるからなんだろうね(-_-;)。


 帰宅してひと寝入り、夕べあまり寝ていなかったせいか、夕方過ぎまで寝てしまった。起きてからは読書何冊か、『トンデモ本の世界S&T』、『山田風太郎忍法帖短編全集2 野ざらし忍法帖』、マンガ、青山剛昌原作『名探偵コナン特別編』21巻、石川賢『神州纐纈城』1巻など。
 CSでアニメ『ファイブスター物語』、『ゆめりあ』第1話、映画『地獄』など。
 数時間でこれだけの本が読めるのは、速読に慣れているからである。その分、内容はすぐに頭から抜けていくが(意味ないじゃん)。

2003年06月05日(木) なんかタイトル思いつかん/『キカイダー02』5巻(石ノ森章太郎作・MEIMU)/『ヒカルの碁』22巻(ほったゆみ・小畑健)ほか
2002年06月05日(水) 人間失格かな、やっぱ/『『鉄人28号』大研究』(飯城勇三)/『ちょびっツ』3・4・5巻(CLAMP)
2001年06月05日(火) 一日本しか読んでません/『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』(長谷川町子)ほか


2004年06月04日(金) やっぱり出たよ、トンチンカンさん。

 なんだかまた、長崎佐世保同級生殺人事件(こんな言い方がだいたい定着しつつあるようである)の追っかけ日記みたいになりつつあるな。
 昨日の日記を読み返してみて、寝る前でウツラウツラしながら書いたせいもあるのだろうが、かなり激烈な書き方をしているのに、自分でも驚く。加害者女子を「鬼」とまで書いているのである。いや、そう書いたことは覚えているのだが、自分の意識の中では、このとき、「あまり激しい書き方はしないで、穏当な表現にとどめとこうかな」と考えて、「鬼」という言葉を選んでいるのである。なんでや(~_~;)。半分アタマが寝ているので、抑制が効かなくなっていたのだろう。
 けれど、これはつい、加害者の少女にも“同情してしまいそうになる”自分を戒めようとした意識の反動かとも思われる。実際、十代前半のころの自分を思い出してみれば、この加害者女子ではないが、「こいつ、殺してやりたい」と思っていた相手は、そりゃあ両手じゃ足りないくらいいたものだ。肉体的な特徴をからかわれた、些細な失敗をバカにされた、先生に誉められたのを嫉妬されてイヤガラセをされた、ともかくちょっとでも欠点を見つけたら、そこを責め立てないではいられないのがコドモの残虐性である。生まれつき眼が悪くて、小学校に上がったころには既に牛乳瓶の底のようなウズマキ眼鏡をかけていた私などは、イジメっ子の格好のエジキであった。集団で取り囲まれてボコにされたことも何度かあるし、事故で頭蓋骨を骨折した直後は、アタマを標的に狙われて、殺されかけたこともある。コドモというものは「相手が死ぬことなどは何とも思っていないのだ」ということを実感させられたものである。
 そういう仕打ちを受けていれば、「殺される前に殺そう」という意識は自然に生まれる。当時は学校にナイフを持ってくることに対する規制だってなかったから、一歩間違えば、ダークサイドに取りこまれて、誰かを刺すくらいのことはしていたかもしれない。私がそうならなかったのは、親の教育の厳しさのおかげだろう。ともかく、息子に向かって「アンタが何かをすれば、アンタを殺して、自分も死ぬ」と本気で公言していた親である。いじめっ子がいくら腐れた外道であろうが、親を巻き添えにして命を捨てる気にはどうしてもなれなかった。つか、いじめっ子よりも親の方が怖かった(^_^;)。おかげで随分打たれ強くはなりました。
 加害者の女子の親が、私の親よりも甘かったのだろう、とは言わない。私が事件を起こさなかったのは、多分に「運」も関連していると思うからである。殺人犯となった彼女と、ならなかった私との距離は、さほど離れてはいない。だから、「悪口を言われた」ことで切れてしまった、という動機について、つい同情してしまいそうにもなるのだが、同時に、「それで切れずに、堪えてきた子供たちだって、世間には腐るほどいるだろう」とも思うのである。ネットの掲示板などを見ても、加害者が年端も行かぬ少女であるにも関わらず、殆ど同情論が見られないのは、「誰だってガマンをしているのに」という思いもあるからだろう。キレる10代を手厚く保護するような、社会的な甘やかしが蔓延している状況に誰もが不満を抱いている中にあっては、殺害の動機となった「悪口」とやらがどんなにひどいものであったとしても、いったん殺人者にまでなってしまった人間に対して同情しようという動きはそうそう現れはすまい。
 人間の心の中から「闇」を取り除くことはできない。輝く太陽の下にも必ず悪はあり、降る星のごとく深い慈愛の中にも、ドス黒い憎悪は表裏一体で存在している。あなたは、自分が理性的に「正しい」と判断して行動した行為の中に、本当に一片の悪意も篭ってはいなかった、と断言できるだろうか? また、あなたが誰かに対して向けた非難や腹立ち、たとえそれに相当の根拠があったとしても、そこに歪んだ感情が全く混じってはいなかった、と言えるだろうか? もし言える、と言うのなら、そのこと自体が、あなたが「闇」にとらわれている証拠なのである。だから、本質的なことを言ってしまえば、誰も、人の「悪」を裁くことなどはできない。
 それでも我々は、自らの悪を裁かないわけにはいかない。私が現実的には不可能だとしても、加害者の少女を処断したほうがいい、と考えるのは、彼女を異常者として排斥するためではなく、誰の心にもある「闇」を処断し、自らを律する道を選ばなければならないと考えるからである。単なる「排斥」が目的ならば、それは結局自分の「闇」を甘やかし、餌をやり、ムダに太らせていくことにしかならない。たとえ更生の道が犯人女子に残されていたとしても、彼女は批判はされてしかるべきである。しかしその批判は、自らもまた、処断されるべきものを抱えて生きているという自覚を持った上でのものでなければ、批判としての意味を持ちえないだろう。

 テレビでも、ようやく加害者、被害者双方のホームページの映像が紹介されるようになった。それが全部ではないにしても、御手洗怜美ちゃんの「なんでアバターがなくなったりしてんの」「どうせアノ人がやってるんだろ」(加害者女子が被害者のホームページを「荒らし」ていたのである)とかいう記述、この程度で怒るのはやっぱヘンだわ、としか言えない内容である。もっとも報道はアテにならないから、これ以前に相当ヒドイやりとりがあったのかもしれない。
 加害者女子は、HPの日記に「うぜークラス つーか私のいるクラスうざってー」「エロいこと考えて弁当に鼻血たらしたり」「愚民」とか書いていたり、事件の十日ほど前の5月下旬にも、教室内で夢中になって本を読んでいたとき、横を通った男子にのぞき込まれて、いきなりカッターナイフを握った手を振り上げたりもしていたそうだ。この加害者女子、やっぱりかなりテンパってた精神状態にあったんじゃないか。今は普通に見えていても、一応、精神鑑定はしたほうがよかろうと思うけれどもねえ。

 こういった事件が起きると、事件そのものだけでなく、それが巻き起こした波紋のほうが滑稽で、馬鹿馬鹿しい展開を見せることがあるのは常ではあるが、井上喜一防災担当相の閣議後の記者会見の発言がまた、ぶっ飛んでいて、今さらながら、「大臣なんて、誰でもなれるんだなあ」と思わせることしきりである。
 「従来の考え方をある意味で覆す。これまで男がむちゃやってなにかしでかすことはあったかもしれないが、女がやったというのは初めてではないか。最近は男女の差がなくなってきた。元気な女性が多くなってきた、総じてどの社会も」
 どこからどう突っ込んだらいいか、わかんないくらいだねえ(~_~;)。
 「従来の考え方」って、具体的にどういうことを言いたいの? 「女がやったというのは初めて」「男女の差がなくなった」ということから想像すると、「女は男の下で従順だったから、好き勝手できなかった」ということなのかな? だとしたら、アナクロにしても百年くらい古い「従来」だなあって気がするが。それとも「女の犯罪はこれまでになかった」と言いたいのか? もちろん、女性の犯罪なんて腐るほどあるんで、どう解釈したらいいんだか、全然わからないのよ。
 で、極めつけが犯罪を「元気」って言うかよ、ということなんだけれども、コトバが不自由なのは、もう現代ニッポンにおいては老若男女を問わずであるから、これも大臣が「元気」である証拠だってことで、ま、いいんじゃないですか?

 もう一つの「お笑い」は、またしてもテレビ放送等の「自粛」騒動である。
 NHKは、『中学生日記〜私たちの名前はどの辞書にも載ってない』の5日の再放送を自粛。男子生徒がカッターナイフで自分の腕を傷つけようとする場面が出てくるためだって。
 フジテレビは、4日午後9時からの2時間ドラマ『結婚相談員 末永卯月の推理案内状<5>』の放送を、「刃物を犯行に使用する場面があるため」という理由で中止。
 TBSは、関東地区での5日午後3時30分からの2時間ドラマ『ざこ検事・潮貞志の事件簿』の再放送を別番組に差し替え。
 ……刃物使ったサスペンスものを全部差し替えていくんじゃ、放送する作品、すぐに底をついちゃうんじゃないか?(^_^;) 放送局のみなさん、事件を楽しんでるよねえ。


 週末だけど、今日も残業。いつものように、トンガリさんの苦情を「ハイハイ」と受け流していたら、トバッチリが秘書に来た。
 気がついたら、自分の秘書でもないのに、トンガリさんに命令されて雑用をこなしているのである。しかもその雑用は、以前トンガリさんが「私の管轄外ですから」と言って、頼まれても拒否していた仕事なのだ。「自分の仕事でもないこと」を、なんで関係ない人間にやらせるかね。これだから、結局私がタテになって仕事をしなければならなくなるのである。……受け流しもできないか(~_~;)。
 結局、帰宅は9時過ぎになる。それでも鹿島茂の『セーラー服とエッフェル塔』や尾田栄一郎のマンガ『ワンピース』の新刊を読んだり、昨日録画しといた先代巌治郎の『水戸黄門漫遊記』や、DVD『その場しのぎの男たち』などを見たりしているのである。
 こんなふうに毎日映画を見たり、本読んだりはしてるのだが、相変わらず全然コンテンツにアップできない。やっぱ、こんなふうにタイトルだけでも日記に書いてくことにしようかなあ。感想書いてほしいものがあれば、それを優先的にアップすればいいのだし。


 お気に入りの日記サイトを回っていたら、そのうちの一つに、例のアニメ『ゴースト囲碁王』(韓国版『ヒカ碁』ね)の映像が紹介されていた。佐為の服がチマチョゴリに変えられるんじゃないか、と以前日記に書いていたが、それどころか単に消去されて白いモヤの中に佐為のクビだけが浮かんでいるという、気色悪い映像になっている。
 これ一つ取ってみても、韓国側の考える「文化交流」とやらがかなり手前勝手なもんだということがわかる。あくまで韓国は「教えを垂れる」側で、日本から学ぶものなんてないと考えているのだね。『ヒカ碁』を買ったのだって、韓国のアニメファンの要望に抗しきれなくて仕方なくってとこなんだろうな。自国でアニメを量産する態勢が整ってれば、本当はそんな「屈辱的」なことはしたくなかったのである。
 もう日本の若い世代は、戦争のことだって知りゃしないし、知ったところで「自分の生まれる前のことじゃん、いつまでしつこくこだわってんの、バカ?」としか思わないのである。いい悪いではなく、「そういう人間」相手に、高圧的に説教したって、嫌われるだけだ。オタクが、自分のシュミを非オタクにも押しつけたがるようなものだな(^o^)。本当に「文化交流」をしたいのなら、「自分がそもそも上」って態度、変えなきゃ無理だと思うんだけど。

2003年06月04日(水) 無知の巣窟/『美女で野獣』2巻(イダタツヒコ)
2002年06月04日(火) 日常ってつまんない?/『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』1巻(安彦良和)/『ヒカルの碁』17巻(ほったゆみ・小畑健)ほか
2001年06月04日(月) Nobles oblige/『韃靼タイフーン』1・2巻(安彦良和)


2004年06月03日(木) テレビドラマも映画も本も関係ない。

 御手洗怜美ちゃん殺害事件の犯人の女子に、付添人に選任された弁護士が初めて接見。そのときの会話の内容を弁護士たちが会見を開き、報告した。これがまた、耳を疑うような内容だったんだけれど、ホントにホントなんだろうか?
 曰く、犯行については、「なんでやったのか。よく考えて行動すればこんなことにならなかった。(怜美さんに)会って謝りたい」。
 これからどういう人生を歩きたいか、という質問に対しては、「普通に暮らせればいいんだけど……」。
 まあ、ここでウソをつくわけにはいかないのだろうけれど、これを聞いた人の大多数が、犯人の女子に対して怒りを覚えると思うのである。
 「よく考えて行動すれば」って、よく考えた末の行動だったんだろうがよ、四日も前に殺害するつもりだったんだから。もちろんこれは「受け売りの言葉」であって、本人の心の言葉ではない。多分、親か教師が日頃から「よく考えて行動しなさい」とか言ってたんだろうけれど、本人はそれを今の状況に合う言葉かどうかよく吟味もせず、機械的に流用しているだけである。いたずらをして叱られた小学生の反省文によくあるTPOを間違えた発言の一つに過ぎず、ここに「意味」は存在していない。
 「会って謝りたい」という言葉も同様で、もちろんこれは「自分も死んでお詫びしたい」という意味ではありえない。仮に正確にこのような言い方をしたのではなくて、「会えるものなら会って」だったとしても、「謝ることが不可能な相手」に対して「謝ろう」とする発言は、「謝れない相手にしてしまった」のは紛れもなく「自分自身」であるという事実から目をそむけようとする心理が深層で働いている。真実の反省の言葉ではない、というよりも、実は自分の犯罪について何の後悔もしていないと断言して構うまい。だから弁護士の見え透いた誘導尋問に対して、「普通に暮らせれば」などと、本音を漏らしてしまうのである。
 ……思うんだけれど、この弁護士たち、本当はこの犯人女子を熱心に弁護するつもりなんてないんじゃないのかな? いや、そもそも刑事犯として裁かれることはないのだから、自分たちの点数には全く関わらないのである。犯人女子が世間からどう恨まれようが、本名や顔写真がネットに流されようが、構わないわけだ。そうでなければ、いくらでもボカして説明できることを、こんなにあけすけに言うものだろうかね?
 いや、私だって、この犯人女子に対して憤りは覚えている。だからと言って、弁護士がこんな犯人バッシングを誘導するような会見を行っていいものなんだろうか。それはまた別の問題だと思うんだけれど。それともこの弁護士たちも「何も考えていない」のか?

 テレビもまた、この手の事件報道の定番、「昔の文集」をどこかから(同級生だった子の誰かからだろうな)発見して放送している。
 それによると、被害者の怜美ちゃんの趣味は読書、パソコン、音楽鑑賞で、好きな小説は時雨沢恵一の『キノの旅』、井上雄彦の『スラムダンク』(小説じゃないじゃん)で、犯人女子は趣味がパソコンで、好きな小説は吉村達也の『ボイス』に、高見広春の『バトル・ロワイアル』だそうな(小説読んでなくて、映画のタイトル書いただけじゃないのか?)。
 なんだかもう、この対比の仕方で、被害者の怜美ちゃんは心優しく友情に厚いよい子で、対照的に犯人女子は、心に危険なものを隠し持っていた怖い子供、という印象を与えたがっているようである。いや、マスコミの「標的」は、犯人女子ではなく、やはり「危険なマンガやドラマ」なのである。
 実際に、女子は『バトル・ロワイアル』もどきの小説をホームページで書いていたというから、あの映画に「影響」は受けていたのだろう。しかし、たとえ“その通りであったとしても”、『ボイス』や『バトル・ロワイアル』を見ても犯罪に走らない人間のほうが圧倒的に多い以上は、それらに責任を転嫁してはならないのである。異常者は、たとえ宮崎駿の映画を見ようがディズニーの映画を見ようが、罪を犯すものである。

 マスコミが「責任転嫁」の躍起になっている様子は、実際「そりゃいくらなんでもコジツケだろうが」と言いたくなるくらいに迷走している。
 例えば毎日新聞は、「女児(11)が、県警の調べに『テレビのドラマを見て(殺害を)やろうと思った』と供述していることが分かった」と、いかにもドラマの影響で殺人が誘発されたかのように報道しているが、これは大きな間違いである。その女子が見たという『月曜ミステリー劇場 ホステス探偵危機一髪(6)』の中には、確かにカッターナイフを使った殺人が描かれていたそうだが、この番組が放映されたのは事件前日の5月31日。女子がまた、「3、4日前にも殺害を実行しようとしたが、カッターナイフを使う授業がなかったので諦めた」とも供述している内容と矛盾している。
 これは明らかに、女子自身が、「事件は自分に責任があるのではなく、ドラマや映画に影響を受けたせいだ」と思わせたがっているのだ。なかなか“したたか”ではあるが、自己弁護にあまりに躍起になってしまったたせいだろう、矛盾したことを言ってしまっていることに、自分では全く気がつかなかったのだろう(^_^;)。その程度のことが、毎日新聞の記者に分からないはずはないから、これもまた“あえて”検証もせずに垂れ流しているのだ。記者もまた、「本当の原因はドラマだ」と読者に思わせたいのである。
 ちょっとやり口がいやらしくないか。

 現行法では、どうしたって未成年は処罰の対象とはならない。それどころか、どんな残酷な犯罪をしようと、「人権擁護派」の方々が、これから先、一生の面倒を見てくれるのである。今の町で暮らすことは不可能でも、遠く離れた土地で、名前を変え、就職の斡旋すらしてくれて、ごく普通の生活ができるようになる。そういう仕組みがこの社会にもうできあがってしまっているのだ。こんな「甘い」世の中はない。
 彼女は確実に、平穏な一生を終えることだろう。「犯罪天国」にあって、誰が犯罪者にならないでいられるだろうか? イヤなやつの一人や二人、“未成年なら”軽く殺せようというものだ。
 だから犯人の少女は、「異常者」ではあるが、精神異常者ではない。冷徹で狡猾な、一匹の鬼である。彼女に心の闇などはない。そういう子供達を、この国は営々として育て続けているのである。


 眼のこともあってしばらく運動を控えていたので、カラダがかなりなまっている。
 仕事は立て込んでいたけれども、なんとか時間を作って、職場の周りを五周する。ちょっと見ないうちに、草むらに花が咲き誇っていて、道の様子がすっかり変わってしまっている。花を踏まずに歩くのもひと苦労だ。かなり気候も初夏らしくなって、そろそろ背広姿のままで歩くのはちときつい。明日あたりからはジャージに着替えて歩くことにしようか。

 帰りに、博多駅の紀伊國屋に寄って、予約しておいたDVDをいくつか買う。ダン・エイクロイドの出演作が一気に3本(『キャノンズ』『大混乱』『キャスパー』)も出ていたので、これはもう買うしかないのであるが、正直、このあたりの作品は映画の出来としては今一つなんだよなあ。いや、『キャスパー』だけはクリスティーナ・リッチが出てるから許すけれども(別に私に許してもらわねばならない筋合いのものではないが)。
 『鋼の錬金術師』5巻、アームストロングさん、大活躍の巻。なんかオレ、このオッサンがエドとアルの次に好きかもしれんな(^_^;)。

 普段はせいぜい4、50程度のアクセス数が、本日はいきなりの760。(@_@)
 なんやねん、と思ったら、ほぼ全部が佐世保事件に関してのアクセスであった(~_~;)。
 キーワードが「御手洗怜美」「ホームページ」だったりするから、たいていの人が、まだ見つかっていないという被害者のホームページを探しているのだろう。でも、そのキーワードでグーグル検索しても、私のこのサイトはせいぜい100番目くらいにしか出てこないのだ。読んでみたって、ダラダラと事件についての勝手な文句垂れが続いているだけで面白くもなんともないと思うのだが。
 ネットの人々が時折ふと怖くなるのは、そこまでいちいち丹念に調べてった人がやたらいるからである。被害者のサイトの「悪口」とやらを自分の目で確かめたいんだろうけれど、私にはよくわからん情熱だ。どんなにヒドイ悪口が書かれていたとて、それが「殺人」にまで発展していいわきゃない。確認の必要もないと思うんだけど、どうなんですかね。
 それに、下手にアクセスされて、中傷の書き込みでもされたら遺族の方々もたまらないだろうから、とっくの昔に消去しちゃってるんじゃないかな。

2003年06月03日(火) 路傍の石のように生きたい/『ああ探偵事務所』3巻(関崎俊三)/『爺さんと僕の事件帖』4巻(しかくの)
2002年06月03日(月) 「八手三郎」は「やつでさぶろう」/『ふたつのスピカ』1・2巻(柳沼行)/『僕らのスーパーヒーロー伝説』(堤哲哉)ほか
2001年06月03日(日) 全集員合(←解る人には解るね)/『だめだこりゃ』(いかりや長介)


2004年06月02日(水) 年齢は関係ないのだ。

 昨日起きた、長崎県佐世保市の大久保小学校で、6年生の御手洗怜美ちゃんがカッターナイフで首を切り付けられ殺害された事件の続報、今日もニュースの半分以上を締めている。
 まず、全ての報道がそうではないのだが、いくつかのテレビニュース、新聞などが「殺された」と言わずに「死亡した」とか、まるで怜美ちゃんが死んだのは偶然の事故で、「うっかり死んじゃった」ような表現をしていることが気になる。これは、あまりに事件が陰惨なので、「表現をやわらかくした」ということなのだろうが、やはり「偏向報道」であり、一種の「情報操作」であることには違いないと思うのである。
 いつもいつも思うことだけれども、一見、加害者の人権を擁護するように見えるこういう偽善的な報道が、かえって、世間の加害者に対する反感を募らせることになると、マスコミはどうして気付かないのだろう。「殺された」と言えば、当然、「そこまで言わんでも」という反応や、「使者に鞭打つ行為である」という批判は寄せられるだろうが、反感は生まれない。事実を隠蔽するような報道は、かえって視聴者の感情を鬱積させたり、ヒステリックな反応を牽引したりしかねない。事実は事実として冷徹に報道したほうが、よっぽど視聴者は冷静でいられると思うのだが、マスコミはあえて視聴者の神経を逆撫ですることを狙っているのだろうか。

 殺害の動機についても、少しずつ、情報が流され始めた。昨日の段階では、私は「痴情のもつれだろう」と書いたが、一応、当たってはいたようだ。しかし、私が想像していたのよりも、ずっと幼稚で、馬鹿馬鹿しい動機だった。
 「インターネット上で、自分のことについて怜美さんが書き込んだ内容が面白くなかった。いすに座らせて切った。殺すつもりだった」……何なんだろうね、これ。
 実のところ、「痴情のもつれ」と書いたのには、「せめてそうであってほしい」という「願望」もかなり混じってはいたのだ。人ひとりの命を奪ったのである。それがあまりにもガキっぽい、あまりにも下らない動機では、救いがないではないか。……でも、やっぱり救いはなかったのだ。
 けれど、現実には「こんなことで人を殺すかよ」という殺人事件は、大人の間でも腐るほど起きている。幼児化した社会で幼児的な犯罪が起きるのは必然なのだろう。
 なのに、マスコミの報道の仕方は、相も変わらずの「責任転嫁」である。未成年の犯罪の場合はたいてい「親」や「教育」、「マンガ」や「ゲーム」、「アダルト本」など、「犯人以外のところ」に原因を求めよう、求めようとして、「標的」を探し回るものだが、今回は早くも「ネット危険論」が怒涛の勢いで報道され始めたのだ。自宅ばかりでなく、学校や塾などに、パソコンネットが普及していること自体が悪い、みたいな語られ方までしている。ネットを散々利用しているマスコミがそれを言うのかよ。近視眼的で一番幼児的なのはマスコミである。
 もうねえ、今更また何度もこれまで書いてきたことを繰り返すのも何なんだけれどもねえ、危険なのは「ネット」とかではなくて、「人間」なんだってば。「環境が悪い」って言い出せば、全部が悪くなるんだよ。山ゴモリしてカスミでも食って生きろとでも言いたいのか。

 私も、これまでにもこの日記で、誰かの批判をしたことは腐るほどある。「なんだあいつらは猿か」と、口汚く罵ったことだって、一度や二度ではない。しかし、根拠のないただの中傷をしたことは一度もないし、何の覚悟もなく、言いっぱなしでモノを言ったこともない。もちろん、私が「根拠がある」と思っていたことがただの勘違いで、反論が寄せられた場合も何度となくあり、その場合には必ず謝って訂正をしている。私が反省してないと見る向きは、それこそが「中傷」である。
 翻って、ネットの掲示板などでの罵り合いは、殆ど脊髄反射的な感情のぶつけ合いでしかない。「傷つきたくない症候群」は、今やいいトシをした大人の間にも蔓延していて、「この程度のモノイイでここまで怒るか」と言いたくなるくらいに幼児的な言質が横行している。博多の「悪口文化(日常の挨拶が身内の悪口なのである)」の中で育ってきた身にしてみれば、「バカ」程度のモノイイで激昂する人間には、「あんたら、いくらなんでも苦労ってものをしなさすぎてんじゃないの?」とイヤミの一つも言いたくなってしまうのである。更に念のために注をつけておくが、私は「他人の悪口を言った人間」に対してしか悪口を言ったことはない。それなのに怒って噛み付いてくる人間は、自分は悪口を言いっぱなしなくせに、自分が言われることについては全く無自覚なバカなのである。責任感もなければ覚悟もない。
 ネットに限らず、「発言」には本人がどうあがこうと、「責任」というものが伴ってくる。その点、この日記の「無責任賛歌」というタイトルに反しているように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、この「責任」というのは、人間にはどうしたって取りようのない「原罪」のようなものなのだ。
 これまでにも、「何かを書くことについては“覚悟”がいるのだ」ということを散々書いてきている。その「覚悟」というのがどの程度のものなのか、この日記を読んでる人でもピンときてない人がいるんじゃないかと思うので、改めて書いておくが、「自分の書いたことが、人をひどく傷つけるかもしれない。あるいは死に至らしめることもありえるかもしれない」「そのことで誰かから恨まれて、殺されるかもしれない」という「事実」を受け入れる覚悟なのだ。どんなに表現を抑えようと、どんなに人を傷つけまいと努力しようと、自分の書いたものが万人に受け入れられるということはありえない。どこかで、必ず誰かを傷つけているのである。そして、一度誰かを傷つけてしまえば、その責任など、取ろうったって取れるものではない。傷ついた人の心は、死んだ人間の命は、どうしたってもとには戻らないのだ(だから逆に私は、人から批判されたからと言って簡単に「傷ついたり怒ったり」はしないのである。それがスジというものだ)。
 人は生まれながらにして罪を作ることでしか生きて行けない。これは厳然とした現実である。開き直って言うのではない、人は、「心」を持ってしまった時点から、自らの罪を十字架として背負って生きて行くことしかできない動物なのだ。もしもこれまでに誰も傷つけたことがない、迷惑をかけないで生きてきたと嘯く者がいたら、その人の本性は悪魔であろう。ネットに責任転嫁しようとしている人々も、自らの罪から目を逸らそうとしている分だけ、悪魔の側に足を突っ込みかけているのである。
 ……でも誤解を招くタイトルなのは事実だからなあ、いい加減で別タイトルに変えちゃおうか。

 あまり具体的に書いちゃうと、ビビッてしまう人もいるだろうと思って、これまでは「匂わせる」程度でしか書いたことはないが、この際だから書いてしまおう。
 私は女房と結婚した時も、「こいつに殺される可能性も覚悟できるか」と自問自答し、納得して結婚したのだ。仮に、私がしげを裏切るようなことをして、しげに殺されることになったとしても、それを受け入れられるか。あるいは、しげや、我々二人の間に生まれてきた子供が人を傷つける行為を働いたとして、その償いにしげや子供を殺して、自分の身も処することができるか。その質問に「諾」と答えられたからこそ結婚する覚悟だってできたのである。突拍子もないことや過激なことを言ってるように思う人もいるかもしれないが、うちは親もそういう考えの持ち主だったし、死を常に身近に感じていた戦前世代の人の多くはそれくらいの覚悟はしていたのである。少なくとも人間と人間の絆を本気で考えるのならば、「死」を覚悟しないものは全て偽善でしかない。特殊なことを言っているわけでもなければ、威張ってモノを言っているのでもなくて、「覚悟」をすることが人としての「最低限の礼儀」なのである。

 加害者の少女にも、被害者の怜美ちゃんにも、そんな「覚悟」があったとは思えない。10歳やそこらの少女にそれを求めるのか、という意見は、そもそも人間の能力をバカにしている。小学校高学年なら、「失われた命が元に戻らない」ことなど、熟知している子供の方が圧倒的に多いだろう。たとえ相手への殺意があったとしても(キレイゴトを言うつもりはないから、殺意を持つこと自体がおかしい、とは言わない。私だって少年時代、心の中では何度も親や友人を殺している)、それを実行に移すことの恐ろしさに気付かないのならば、それはあまりに鈍感で、明らかに精神的成長に異常を来たしている。
 思い出してみたらいい、命の価値を、その重さを、あなたが最初に知ったのはいつだったか? 小学校高学年になっても、あなたはバカだったか? 殺したい相手がいたとして、実際にそれを実行し、その人がいない世界を自分が作り出すことの傲慢さに全く気がつかなかったか? 仮に残酷なマンガやゲームや、煽情的なサイト(昔はそんなものはなかったから、アダルト本でもいい)があなたの神経を磨耗させていたとしても、それ以上に命の素晴らしさを称え、どんなに無意味に見える存在にも存在し続ける価値があるのだという「教え」を訴える人や、物語はあなたの回りに全くなかったか?
 だから私は逆に、10歳も過ぎて、この程度のことで、精神のコントロールができなくなるというのは、やはりただの異常者だろうとしか思えないのである。この子がもっと大人だったなら……大人並の「痴情のもつれ」から行われた犯罪であったなら、本当に、まだしも、救いがあったのだが。できれば、事件の解明が進む中で、もっと「納得のできる」動機が判明してほしいと願うのは、不謹慎ではあるが、正直な感慨である。


 昨日治療を受けて以来、左眼が暗くなった気がする。
 仕事の休みが取れるかどうか、眼科の診療日とスケジュールが合うかどうか、調べて見たら、「今日しかない」ということに気がついた。いきなりであちこちに迷惑をかけてしまったが、予定をいろいろと変更して、午前中でバタバタと仕事を片付ける。
 1時頃、しげに車で迎えに来てもらうが、今朝までしげは鴉丸嬢のところでチラシの打ち合わせをしていたので、殆ど寝ておらず、眠そうである。けれども瞳孔を開いたら、しばらくは外を一人では歩けないので、しげには無理を頼むしかない。しげは今晩の仕事を代わってもらうことにした。申し訳ないことである。
 もうしょっちゅう休みを取るわけにはいかないから、多少痛くてもガマンしようと思っていたのだが、どうしたわけか、今日は昨日ほどには痛みを感じなかった。やはり昨日は体調が悪かったのだろう。昨日はいったいレーザーを何発撃たれたのか、数える余裕もなかったのだが、今日は三百発とちょっと撃った。けれどもこれはあくまで「予防」で、これまでに発生した飛蚊症が治るわけではないのがツライ。前の医者が「左眼も予防の必要があります」と言ってくれてりゃ、こんな苦労をする必要も、カネが素っ飛ぶこともなかったのだが。左眼が暗いのは、やはりこの「濁り」が右眼に比べて多いせいだとか。
 ともかくこれで終わり、とホッとしていたら、「2週間後にまた来てください」と言われてガックリ。やっぱり休み取らんといかんか(+_;)。


 そのあと、しげが来月の父の日に、プレゼントを買いたいと言うので、キャナルシティに回るが、お目当ての店が改装で閉店中。しげ、「オレって運が悪い?」と嘆くことしきり。
 せっかく来たんだから、と、福家書店に回って本を買って帰宅。
 晩飯はしげの手料理。昨日はおでんだったが(でもコンニャクやガンモドキに混じってタコ焼きが入っているのはどうかと思う)、今日は水餃子。水餃子のみオンリーで、実に独身男の手料理である。せっかく作ってくれてる料理だが、私が全く誉めないので、しげは随分ブスくれているが、ちゃんときれいに平らげているのである。そのあたりで私の気持ちは察してもらいたいものだ。

2003年06月02日(月) 人間みんなどこか狂ってるけどな/『るくるく』1・2巻(あさりよしとお)
2002年06月02日(日) 天動説健在/『ブレーメン�供截慨�(川原泉)/『殉教カテリナ車輪』(飛鳥部勝則)ほか
2001年06月02日(土) レトロポリス/アニメ映画『メトロポリス』(2001)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)