無責任賛歌
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| 2003年02月19日(水) |
メイキング・オブ・SF・レビュー/『川原泉の本棚』(川原泉・選)/映画『宇宙大戦争』『地球防衛軍』 |
昨日無理して仕事に行ったのが祟ったのか、朝から咳が全然止まらなくなってしまった。もう医者に行っても全然治らないことが分ったので、ただひたすらじっとしていようと、また仕事を休む。 もう二月近くも完治しないんだけれど、私もいい加減苦しむのには飽きた(-_-;)。 ヘタにウチにいるからと、料理したりして動き回っているからよくないのだ。食事は出前を頼むことにして、新しくできたカレーのデリバリーに配達を頼む。美味だが、価格はやや高め。八百円じゃ、そうしょっちゅうは注文できない。せめてあと200円、割り引きしてくれないものか。
韓国の大邱(テグ)市で、18日の午前中、走行中の地下鉄車内で放火とみられる火災が発生した。 死者は120人、負傷者も約140人。放火された車輌ばかりでなく、向かいから入ってきた車輌も巻き添えを食って、被害が拡大したらしい。管制局から停止の連絡がなかったから突っ込んじゃった、ということなのだが、その点を取り上げて、韓国地下鉄の安全管理の低さを伝えるのは、間違っちゃいないけれども何となく「日本に比べて遅れてる」って言いたげで、若干のイヤラシさを感じる。 というのもどこのチャンネルでも事故の報道のすぐあとで、「日本の地下鉄の安全管理がどうなってるか」ってのを付け加えてるのね。車両の難燃化・停電時の対応は充分できてますよって、強調してやんの。これって、安全性を訴える感じじゃなくて、どう見ても「彼我の技術の差」のほうがメインになってるよなあ。 一応、「放火された場合は日本の地下鉄も無防備だ」といってるけど、地下鉄でいちいちボディーチェックなんかできないから、そりゃどの乗り物だって無防備でしょ。 気になるのは放火したと見られる「軽傷を負って病院に搬送された乗客の男」だけれど、テレビずっと見てても名前もわからないままだし、続報が全然出ない。まさかこれも「人権に配慮して」ってことなのかね?
川原泉・選『川原泉の本棚 おすすめ本アンソロジー&ブックガイド』(白泉社・1155円)。 川原さんが相当な読書家だというのは、作中に触れられているSF作品へのオマージュなんかでも見当がつくのだが、こういうブックガイドまで出してしまわれるとは……。 イヤね、別に難癖をつけたいわけじゃくてね、こういうアンソロジーって、よくも悪くも選者のセンスが試されてしまうところがあるんで、よっぽど本を読み込んでる人じゃないと、ちょっと散漫なものになりかねないのね。 例えば、ミステリならミステリ、SFならSFとジャンルを絞っても、「なんであの作品を入れない」とか、「どうしてそんなのを入れるのだ」と外野が喧しく、挙句の果ては「あいつにはモノを見る目がない」と扱き下ろされてしまうのが、アンソロジストの宿命だったりするのよ。 だから、名アンソロジストと言われる人は、案外少ない。 私が感心したことがあるのは、筒井康隆『実験小説傑作選』や、唐沢俊一『カラサワ堂怪書目録』くらいのものだ。それくらいテーマを絞りこまないと、「おお、これは凄い」ってことにはならないのである。 では、川原さんのチョイスはどのようなものであったか。実はやっぱりアンソロジーとしては「散漫」ではあるのだが、案外つまらなくはないのである。なぜなら、これはあくまで川原さんが自分の本棚から引っ張り出してきた本ばかりであり、作品自体の面白さよりも、「へええ、川原さんってこんな本を読むんだ」という興味の方が先に立ってしまうからである。 要するに、「川原さんって、こんなヘンな(←いい意味で)人」ってのが見えてくるから楽しくなるわけだね。でもそういう読み方される作品の方はちょっとかわいそうだが。
川原さんが今回選んだのは、次の九編。 『ロビイ』(アイザック・アシモフ) 『おはよう寄生虫さん』(亀谷 了) 『水素製造法』(かんべむさし) 『言葉の戦争�機戞弊郷綉組蓮� 『品種改良』(田中芳樹) 『ヤマナシの実』(日本民話/坪田譲治編) 『ヘリコプターの飛ばし方』(非日常研究会) 『大うずまき』(エドガー・アラン・ポー) 『歴史新聞』(歴史新聞編纂委員会) 李家豊の(^o^)『品種改良』は『幻影城』に載ってたのを読んだ時に「なんてつまんないんだろう」と思った記憶が(^_^;)。 いや、個性派揃いの『幻影城』のメンツの中じゃ、田中さんの書くものって浮いてたんだよね。けど、川原さんの本棚に並べられると一番普通に見える。これがアンソロジーの不思議なところだ。 この並べ方って、最初は普通のスタートを切ったのが、コースがどんどん蛇行してって、障碍物なんかも置いてあって、しかもマラソンしてるつもりがいつのまにか走り幅跳びに棒高跳びも混じっているという……なんかこのたとえもワケわかんないな(^_^;)。 でもさ、自分の持ってる本を見せるって、一つの「ひけらかし」でもあるのに、そこに『おはよう寄生虫さん』を持ってくるのだよ、このひた〜。しかもそれを『ロビイ』のあとに載せる。『ロビイ』でちょっと涙ぐんだりしちゃった人は、次に『寄生虫』の淡々とした説明を読まされて、何をどう思えばいいのか。 私の場合、既に読んでる作品が殆どだったから特に混乱はしなかったけれど(『ヤマナシの実』だけ知らんかった)、この作品の全てが初読って人は、脳が相当混乱するかも。そういう人に本書の感想を聞いてみたいものである。
それにしても、人に本を推薦するというのは並大抵のことではない。 先日、ここの掲示板にあぐにさんが「なにか初心者にお勧めのSFなどありませんか?」と書かれたのを読んだとき、思わず頭を抱えてのけぞったら、そのまま椅子からコケ落ちて腰を打ってしまった。 アタマを抱えた理由は三つあって、一つは「そんなんどこまで紹介すりゃええんや、キリないやんけ!」という叫びであり、もう一つは「そんなにえすえふ読んどらへんわあ!」という劣等感、更にもう一つ、「えすえふなんてジャンル、もう死んどるわあ!」であった。
我々の学生時代、SFの浸透と拡散は既に言われていたが、それでもSFを読むことは「基礎教養」であった。 ハヤカワの銀背は既に高値を呼んでいたが、海外作品はハヤカワSF文庫・創元SF文庫・サンリオSF文庫を読んでいけば有名どころが手に入らないということはなかったし、国内作品も前記のところだけでなく、角川文庫が中心になって、星新一・小松左京・筒井康隆ほか、代表的な作家たちはみな収められていたし、読めない作品の方が少なかったのだ。 SF雑誌も、「SFマガジン」「SFアドベンチャー」「SF宝石」「SFイズム」「奇想天外」と老舗に新創刊と合わせて、みんなで回し読みをしていた。 若い人は、なんてステキな環境でしょう、と思うでしょう。 そんなもんじゃないのだ。
なにしろ、友達はみんなSFを読んでいたし、そしてSFに燃えていたのだ。 寄ると触るとみんなSFの話ばかりしている。「SFを語らずして何を語るか」ってなスローガンのもと、私のいた文芸部内の仲間うちでは、いつの間にか「SF勉強会」みたいなものまで開かれていた。 今やそんな状況、誰も信じないかもしれない。でも、ウソのような本当の話だ。 私のような非才の身には、みんなの話題に付いていくのは辛くて仕方がなかった。なんたって、毎週毎週、「読まなければならない本」が怒涛のごとく押し寄せてくるのだ。
「来週までに読んできてね」 文庫本をそう言って私に手渡すと、彼女はほんの少しだけ唇の端に微笑を浮かべて、文芸部の部室をあとにした。長い髪が風になびく、というのは陳腐な描写だが、でもまさにそんな感じで彼女は立ち去っていった。 勉強会は、次に読む本を当番制で決めていく。概ねみんな、自分のカネで本を買っていたが、ちょうど金欠病、という場合もあったから、そんな時は本の回し読みはよくやっていた。 今回の本は、彼女の選択。有名なSFだけど、まだ読んだことはなかった。女の子に本を借りるなんてことは滅多になかったから、緊張した。それにその子にはちょっとだけ憧れていた(高校時代の友人もここたまに覗いてるんだよなあ、誰のことか見当つけられたらヤバイなあ(^_^;))。 今ならその作品は、たいして滞ることもなくすんなり読めたかも知れない。 けれど当時の私には、よく分らないえすえふの専門用語を目にするたびにアタマの上にクエスチョンマークが浮かびまくっていた。 本のタイトルは、『夏への扉』。もちろん、竹宮恵子版ではない(^_^;)。 勉強会でどんな感想を言ったかは覚えていない。
ともかく当時は、SFを読んで読んで読みまくって「勉強」するしかなかった。そんでもって、カッコつけたモノイイもしてみた。 あるとき、俄仕込みの知恵で「SFの定義はね」とか言ったら、「定義のためにSFがあるんじゃないんだよ?」と彼女にちょっとキツイ口調でたしなめられた。 ヤケになって「SFなんてな」と言ったら、激怒した友人に「撤回しろ!」と突っかかれて論争になり、夜まで帰れなかった。
けれど、楽しかった。 むりやり読まされた本でも、読み始めたら夢中になった。 好きな子には告白することはなかったけれど(まあ、そういう子は私の場合、腐るほどいるから)、あれも私の青春ではあった。 色気ないなあ、と今の人には思われるかもしれないが、あのころ、そんな風景は日本中のあちこちで繰り広げられていたと思う。
今や、若い人たちのSFに対する感覚はまるで変質してしまった。今や、誰もSFの魅力を語る者はいない。その惨憺たる状況は、岡田斗司夫さんが「かつてSFというものがあった」と語るほどだ。 SFの魅力とはなんだろう。センス・オブ・ワンダー? そんな言葉、もう黴臭くなっちゃってるよ。そう嘯く人もいるだろう。 『アルジャーノンに花束を』って、SFだったの? そう口にする若い人もたくさんいる。 そんな中で、あえて「SFを語る」とはどういうことなのか。 SFってなに? もう一度そこから始めなければならないのかも。 でも、それはなぜ?
あぐにさんに何を推薦するかで散々悩んだ末に、私が結論を出したことは、「今のことはもうどうでもいいや、昔に戻ろう」であった。 というか、それしかできない。 私がSFを一番好きだったのは間違いなくあのころであったし(今でも好きだけれども)、たとえ青臭くとも、あのころの感覚で作品を選び、紹介した方が、あぐにさんの言う「初心者向けに」という求めに答えられるんじゃないかと思ったからだ。
選んだのは、とりあえず昨日までで以下の通り。いくつかの作品にはレビューの文章もつけた。
レイ・ブラッドベリ 『火星年代記』『太陽の黄金の林檎』『何かが道をやってくる』『ウは宇宙船のウ』 フレドリック・ブラウン 『発狂した宇宙』『火星人ゴーホーム』『天使と宇宙船』 ロバート・A・ハインライン 『異星の客』 ポール・アンダースン&ゴードン・ディクスン 『地球人のお荷物』 ハリイ・ハリスン 『テクニカラー・タイムマシン』 トム・ゴドウィン 『冷たい方程式』 アイザック・アシモフ 『鋼鉄都市』『はだかの太陽』『われはロボット』『アシモフの科学エッセイ』シリーズ ジェイムズ・P・ホーガン 『星を継ぐもの』『ガニメデの優しい巨人』『巨人たちの星』 アーサー・C・クラーク 『決定版 2001年宇宙の旅』シリーズ
中には絶版でもう手に入らないものもあるが、あぐにさんから頂いたレスでは、古本屋も回られると仰っていたから、全部ではなくともある程度は手に入るだろう。 「お勧めSFまだまだ沢山ありそうで楽しみです」とはありがたい言葉だが、私は前述した通り、感覚的にはナマイキな高校生に戻って書いているのである。そのために、ここに挙げた本は全部ひと通り読み返して、「あのときはどんなふうに感じながら読んでたかな」と思いだしながら書いた。文章が生硬なのは(いつもそうかもしれないが今回は特に)そのせいである。
ただ、『火星年代記』だけは持ってたはずの本がどこへ行ったか分らなくなっている。多分、しげに貸したまま、どこかにほっぽらかされているのだ。 おかげで、この文だけ記憶のみで書いている。ちょうどいい恥晒しだから、これだけ日記に移しておこう。掲示板の方は流れちゃうと保存が利かないんでね。
> 『火星年代記』(ハヤカワ文庫 NV 114) レイ・ブラッドベリ (著), 小笠原豊樹 (訳)¥640 > ブラッドベリをSF作家と認めたがらないSFファンも結構います。 >「あれはファンタジー作家だ」 > この本が「SF」じゃなくて「NV」のコーナーにあるのもそのせいかもしれませんが、SFと叙情性の融合がこれほど見事に描かれている例はそう多くはありません。強いて言えば、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』オリジナル版くらいでしょうか。 > 地球から火星への移民が始まったころの未来。 > しかし、火星ロケットの乗組員たちは次々に失踪してしまいます。 > 実は火星には、「先住民」たちがいたのです。彼らは当然「侵略者」たちを好ましくは思っていませんでした。彼らはいかにして、侵略者たちを排除していったか。 > ……それでもなお続けられる移民計画。 > そして時は静かに流れていきます。 > 火星人と地球人の戦いはどうなったのか。最後に火星の大地に立っていたのは……。
時が静かに流れているのは、その間にどんな出来事があったかを忘れているからである(^_^;)。……しまった、映画版のビデオを見て、書きゃあよかったか。
CS日本映画専門チャンネルで、『宇宙大戦争』に『地球防衛軍』。 『防衛軍』の方は、これで見たのが何度目なのか、分らないくらいだが、『大戦争』は実はまだ二回目。こちらの方は前者に出てくる「モゲラ」のような明確な怪獣(じゃなくて巨大ロボットだけど)がいなかったから、テレビで流れていても見逃していたのだろう。最初に見たのも多分小学生のころだから、記憶もとうに歴史の彼方(^o^)。 てなわけで、『大戦争』は殆ど初見に近く、ニュートラルな感覚で見たので、意外に面白かった。ナタール人の基地破壊のシーンは単調で、ちょっと退屈してしまったが。
意外に気づかれていないが、この二作は前後編である。 放送順が逆になっているけれども、『地球防衛軍』が1957年の製作で、『宇宙大戦争』が1959年製作。 原作は探偵作家・丘美丈二郎(映画のクレジットは「丘見」となっているが、こちらが正しい)。両作とも、宇宙人による地球侵略がそのテーマとなっていて、登場人物も、地球側で宇宙人の侵略に対抗するのは安達謙治郎博士である。ただ、安達博士を演じているのが『防衛軍』では志村喬、『大戦争』では千田是也と役者が変わっているので、前後編であることに気づかれにくいのだ。 この後、『妖星ゴラス』と『宇宙大怪獣ドゴラ』と日本の東宝特撮映画の原作を担当しているから、それも含めれば丘美丈二郎四部作ということもできる。ただ原作と言っても、小説の形で書かれているのは『地球防衛軍』だけのようだ。
映画については、いっぱしの特撮オタクなら当然見ているはずだし、今更あらすじを解説するのも気恥ずかしいから、比較的知られていないと思われる原作者の丘美氏について触れてみたい。たいていの人は映画を先に見て、「この丘美って人、どんなヒト?」と思っただろうが、探偵小説ファン、SFファンには旧知の人物なのである。 丘美丈二郎は、本名兼弘正厚、1918年(大7)、大阪出身で、東京帝国大学工学部卒業後、しばらくは進駐軍に勤務。日本の役人の、米兵へのヘイコラぶりに嫌気がさし、鬱憤バラシに探偵小説・SF小説を書き始める。 1949(昭和24)年、『翡翠荘綺談』が『宝石』のC級短編コンクール三席に入賞し、『別冊宝石』に掲載それ、以後、『宝石』を中心に10年ほど活躍する。 1950(昭25)年には、『勝部良平のメモ』が『宝石』のB級中編コンクールの二席に入賞、1953(昭28)に『宝石増刊』に掲載されたSF長編『鉛の小箱』が、1954(昭29)年に第7回探偵作家クラブ新人奨励賞を受賞する。 他の作品に、『三角粉』『空間の断口』『空坊主事件』『耳鳴りの女』『ヴァイラス』『種馬という男』『二十世紀の怪談』『恐怖の石塊』『左門谷』『汽車を招く少女』『ワルドシュタインの呪い』『波』『電波公聴機』など。掲載誌を全部当たったわけではないので、発表年は順不同。
中でも、特筆したいのは、長編『鉛の小函』と、『宇宙の警鐘』<1958(昭和33)年『科学画報』>の二作であろう。 『小函』は、見知らぬ外国人に拉致された元海軍技術パイロット・白嶺恭二が、ユダヤ人の科学者・アイゼンドルフ博士の手によって秘密裏に建造された宇宙艇に乗り、宇宙探索の旅に出る物語である。……って、まんま『スター・トレック』じゃん。いや、もちろん更に元ネタになってるのが、ヴァン・ヴォクト『宇宙船ビーグル号』であることは間違いないのだが、恐らく日本において、この「宇宙探索」という科学的意識で書かれた小説は、本作が最初期のものではなかろうか。でもこれ、続編の構想があったせいか、尻切れトンボで終わってんだよな。どうも地球を狙ってる遊星人か火星人がいるらしいってところでチョンなもんだから、隔靴掻痒って印象はどうしてもしちゃうのよ。 『宇宙の警鐘』では、地球に氷河期が訪れ、大洪水でアメリカも日本も氷の海の底に沈んでいく。人類を救うための「アルファ工事」計画を立案・実行に移したのが、これまたアイゼンドルフ博士であった。 作者は訴える。 「二十世紀の後半に地球狭しと発展した動物よ、汝の名を人間という。(中略)汝は宇宙の寵児ではない。己を省みて己の無知無能を知れ!」 いささかストレート過ぎる主張であるし、こういう激昂ぶりを見ていると、なんだか藤子・F・不二雄の「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」的な人であったのではないか、という気もしてくる。なんたって、どうして一連のSF作品を書いていったのか、その理由を氏は、エッセイの中で、戦後の人心の荒廃が見るに堪えなかったから、と漏らしているのである。 映画も含めて丘美作品に共通している思想は、「地球の危機」が単なる偶然や運命とか、そういうものではなく、人間の「奢り」に対する「警鐘」、あるいはもっとハッキリと「天罰」的なものとして認識されているということだ。 だから、人間が自らの文明を盲信し、かえって地球を滅亡に陥れるような愚を犯そうとするなら、何度でも宇宙人や宇宙怪獣は攻めて来るし、妖星は降ってくるし、天変地異は起きるのである。ミステリアンの次にナタール人が来ちゃうのはそのためね。 ……東宝特撮映画が、『ゴジラの逆襲』で憤慨して原作者を降りちゃった香山滋の次に、丘美丈二郎に原作の白羽の矢を立てたのって、分る気がするなあ。なんぼでも同じもの書いてくれるもの。
あ、エラそうにいろいろ書いてるけど、丘美作品で私が読んでるの、『鉛の小函』だけですんで。あとの内容は栗本薫の『丘美丈二郎論』を参考にしました。読もうったって、単行本になってるの数編しかないし。『宝石』のバックナンバー探すしか手がないんですよ。
2002年02月19日(火) さだまさしファンだったことが恥ずかしくて言い出せないやつ多いと思うぞ。……私もだ/『シックス・ボルト』(神野オキナ) 2001年02月19日(月) 語源の楽しみ/ミステリチャンネル『ポワロと私』ほか
| 2003年02月18日(火) |
迷宮の扉へ/『冥土』(内田百�痢Χ皸翕脹冂纏辧法拭悒廛螢謄�フェイス』3巻(叶恭弘) |
押井守ファンならば必見、都々目(とどめ)さとし氏が運営するファンサイト『野良犬の塒(ねぐら)』に、去る15日夜にテアトル池袋で行われた、『押井守シネマ・トリロジー/初期実写作品集』発売記念として開催されたオールナイト上映、「押井守ナイトショウ」のレポートが掲載されている。 押井守のアニメは好きだけれど実写はちょっとな、という人も結構多い中、DVDがBOXで発売というのだから、巷間、言われているほど評判は悪くなかったんじゃないか。私自身、『紅い眼鏡』は退屈するどころかワクワクしながら見た。ついでだが、あの映画完成の直後、月見の銀二を演じられた天本英世さんにお会いする機会を得たが、ご感想は「あれもヘンな映画でねえ」だった(^_^;)。さて、天本さん、今は押井さんのことを覚えてらっしゃるかどうか。
押井守の映画を見て、「なんじゃこら? 意味わからん」と仰る方は多いが、ドイツ表現主義の『カリガリ博士』だの、フランス・ヌーヴェルバーグのトリュフォーやゴダールだのの映画を見てれば、別に押井守の映画は難解でもなんでもない。要するに全ては「見立て」の世界なんで、短歌や俳句を鑑賞する気で映画を見ればよいのだ。 そういう「趣味の世界」につき合わされることを憤慨する人もいるが、映画は基本的に監督の趣味の産物である。その「趣味の世界」は入口こそ狭いが、中に入ると一気に空間が爆発的に拡大する。隠喩による情報量が半端ではないのだ。まさしく、その意味を解釈する楽しみがそこに生じてくる。 どっちかと言うとね、私ゃ、ルーカスやスピルバーグの、わっかりやすすぎるくらいに単純な、間口は広いけど、中に入るとウスイ空気しかない世界につき合わされる方がずっと苦痛なのよ。 押井守を人に奨めることは、単に映画を見てもらうってだけでなくて、「同好の士を募ること」、もっと極端に言えば、自分たちだけの非常に狭い世界(まあ、小さな「宗教」と言ってもいいですな)にその人を引き込もうとする行為だとも言える。まあ、胡散臭いと言われても仕方のない行為だ。 おかげで、ことあるごとに押井守の実写映画を見せてはいるのだが、今のところ、私の周囲で『紅い眼鏡』を気に入ってくれた人は、しげとよしひと嬢くらいしかいない。よしひと嬢は、今度のBOXが、「どうして『紅い眼鏡』と『ケルベロス』と『人狼』の三部作じゃないんだ!」と憤慨するほどに入れこんでくれた(^o^)。『トーキング・ヘッド』も「押井守映画論」として楽しい出来なんだけどなあ。
しかし、ここに来て、状況は随分変わってきた。 以前出たLD−BOXの解説では、友成純一さんが、いかに押井守の実写映画の世間受けが悪いかを語っておられたが(^o^)、『人狼』や『アヴァロン』を経て、改めて押井守の原典を知りたいというファンも増えてきたのではないか。 ナイトショウでの押井さんの発言を引用してみよう。
> 「ごく稀に僕の実写が好きな人もいることは知っているけど、大方の人の評判は悪い。お客さんが来ないしビデオも今ひとつ売れない。このBOXも、2000個出ればいいところじゃないという話をしていたんだけど。でも蓋を開けてみれば5000も受注を頂いて感謝しております」 > 「アニメが本妻で実写は愛人というわけではない。僕には本妻がいないという気がしている。アニメーションで違和感を感じ、それで『アヴァロン』を作ったのだから。アニメーションの違和感がこの実写三本に表れており、非常にプライヴェートなBOXになっているという気がする。これを予期しないほど買ってくれる人がいそうだということで意を強くした。こういう形で世に再び出ることで、僕の映画は生きている。公開当時は評判悪かったけど、『紅い眼鏡』もまだ余命を保っている」
余命を保ってるなんてもんじゃない、『紅い眼鏡』は全編、どこを取っても「映画」に満ち溢れている。予算がないのがどうした、それでも映画は撮れる! そういう気概に満ちた圧倒的な情熱がこの映画を支えているのだ。 千葉繁のシャワーシーン! 玄田哲章のダンス! 鷲尾真知子のチャイナ! 運転する大塚康生! 塗り箸を折る天本英世! イマイチ出番がないぞ田中秀幸! チラッと出てるぞ永井一郎&古川登志夫&立木文彦!(声優さんほかにも多数出演) そして、「紅い少女」兵藤まこのとんでもなく尋常ではない美貌! 『8時の空』に出てるころからファンだったけどさ、これはもう「奇跡」と言っていいくらいだね。最初見たとき、マジで「天使がここにいる!」って思ったもの。 まあ、騙されたと思って、このBOX買ってごらんなさい。あなたの人生、変わるわよ♪
昨日から、しげとぴんでんさんが、ウチの掲示板で謎のヤリトリをしている。 最初に私が、こないだ見たばかりの映画、『火山高』と『黄泉がえり』と『スコルピオンの恋まじない』(うっかり「恋わずらい」と書いたら、しげが烈火のごとく怒った。ダン・エイクロイド絡みだと常軌を逸するのである)について、簡単に感想を書きこんだのがきっかけ。
> 『火山高』 > いやあ、『少林サッカー』より遥かに「濃く」っておもしろい。 > ヘタなギャグを入れずにもうマンガチックな世界をマジメに映像にしてるからカッコいいのだね。ただ、学園ものマンガがそもそも嫌いって人にはキツイかも。 > 『黄泉がえり』 > ……SFじゃなくなってるなあ。これくらいお話を薄めないと、一般の人にはウケないのかなあ。柴崎コウのエピソードがセリフの全くない演出で、一番いい。 > 『スコルピオンの恋まじない』 > ウディ・アレンはここんとこ「普通の」コメディばかり作っている。それをヨシとするか才気が失せたと見るかは人それぞれだろうけれど、妙に文明批評みたいなもの作られるよりはこっちのほうが私は好きだな。
どうせ後で詳しい感想は日記に書くんだし、と思って、至極、簡単に書いたのだが、ぴんでんさんが付けたレスは以下のようなもの。
> しげ。ちゃんへ > ね、言った通りだったでしょ?(笑)
……謎である。何やらぴんでんさんとしげとの間でヒミツの会話があったようだが、何か私に隠しておかねばならないことでもあるのだろうか。 いや、これは別に、私の知らないところでしげが何をしてるのか気になってしまうとか、そんなことではなくて、もちろんヤキモチを焼いてるとか嫉妬してるとか悋気を起こしてるとかジェラシッてるとかそういうことではなくて、なんというか、そのう、まあ単に、謎の言葉は引っかかってしまうというのがミステリファンの心情なのである。 壁に“Rache”と書いてあったら、「レイチェル」って女のことじゃないかと考えませんか。
で、今日、しげが付けたレスも意味深である。
> ああ、確かに(笑)。
「確か」ということは「確かである」ということであって、「確実だ」とか「絶対だ」とか「間違いない」とか「不確定な要素はありえない」という意味であって、決して「のんきだ」とか「ご一緒にポテトはいかがでしょうか?」なんて意味はないのである。 いったいどういう意味だろうと3分28秒ほど考えたが、いかな名探偵と言えども、データが余りに少なすぎると、真実には辿りつけないのである。 だもんで、一番安易な方法、「本人に聞く」という方法を取ることにした。
「このやりとり、どういう意味?」 「ああ、それ、オレも一瞬わかんなかったんだけど、前にぴんでんさんが『有久さんは日本映画を貶してばかりいる』って言ってたから」
なんだ、そんなことか、と拍子抜けしたが、ふとヘンなことに気がついた。 この三本のうち、日本映画は『黄泉がえり』であるが、私はこれをそんなに貶してはいない。いや、欠点はいくらでもあるのだけれど、全体としては楽しく見たのである。「SFじゃなくなってるなあ」とは書いてるが、小説と映画は別ものだし、これは単なる事実の指摘に過ぎない。何より「柴咲コウがいい」と、ちゃんと誉めている。 映画を見た直後も、実は私は『黄泉がえり』に満足して、「設定がいいねえ」と言ったところ、しげの方が「設定以外に何がいいの?」とニベもなかったのである。だから、私とそういうヤリトリをしているしげが、「ああ、確かに」と答えているのもおかしい。辻褄が合わぬのである。 これはもしかすると、私が日本映画を貶してばかりいるとぴんでんさんが言ったというのは、しげのウソなのではないか。 考えてみたら、この日記を通読されている方ならお分りだろうが、私は別に日本映画を貶してばかりなどいないのである。と言うか、日本映画を誉めてる率のほうが圧倒的に高い。ハリウッド映画を貶すことも多いし、ずっと私の日記を読んでいらっしゃるぴんでんさんがそんな発言をするはずがない。 ではなぜしげはウソをついたのだろう。 いや、私は何と言うか、しげがぴんでんさんに口止めをされているとか、そんな疑いを持っているわけではサラサラなくて、もちろん、ぴんでんさんを信頼していないというわけでもなくて、信頼しているからこそ、そんなことを言うはずがないと思っているし、本当は全く違った会話だったんじゃないかと思うけれども、だとしてもそれをキチンと書かないのはヘンだなあとか思ってはいるけれども、だからと言ってそこに何か深い意味があるとか勘繰っているわけでもなくて、けれど「あれは何なんですか?」と今度はぴんでんさんに聞くのもヘンだし、第一、たいしたことでもないからぴんでんさんは詳しくは書かなかったんだろうし、ああしてワザと短く書いているのは、そこは追求しないでね、という謂だろうし、それにしてもだから何なんだ。
恐らく真相は、しげの伝達能力はヒドイものだから、ぴんでんさんの言葉を正確には伝えていない、ってなところだろう。 「日本映画」という単語くらいは合ってるかもしれないが、あとはどうにも疑わしい。じゃあ、どんなことをぴんでんさんが言われたのか、あとは推測するしかないのだが、「日本映画に対する分析の方が、外国映画への見方よりも濃い」と言ったようなニュアンスではなかったか。 そう考えれば、しげが、「濃い分析をする→厳しい見方をする→貶してばかりいる」と脳内で誤変換した過程がスンナリ想像できるのである。 まあ、当たってるかどうかはわからないが、暗号のような会話をされてしまうと、ミステリファンの血が騒ぎ出してしまって心臓に悪いので、ちゃんと明快な言葉遣いをお願いしたい。いや、だからこれはヤキモチとか嫉妬とか悋気とかジェラシーとかではなくて。
仕事帰りの車の中で、しげから職場の楽しい話を聞く。 劇団の愛上嬢が、しげと同じリンガーハットで働いていることは以前もこの日記に書いたが、今んところちゃんと続いているらしい。 「らしい」というのは、しげは夜、愛上嬢は昼の勤務で、滅多に顔を合わさないからだが、店で働いてる人の中には、昼夜の両方に出勤してる人もいて、その人が愛上嬢のハタラキぶりをしげ教えてくれたんだそうである。 「言われたことしかしない」というのは新人さんだから仕方がないにしても、何が周囲が困ったかというと、愛上嬢の「声がデカイ」ということだそうな(^_^;)。 愛上嬢は話好きである。あまりに話好きで、周囲が聞いていなくても延々と一人で喋り続けて、お喋りに熱中するあまり、周囲が聞いていないことにも気づかないくらいである。 いや、一時期愛上嬢、ウチに頻繁に電話かけてきてたことがあってさ、それがもう、脈絡はないわ、結局はただの愚痴のヒトリゴトだわで、聞いててツライのなんの(+_+)。悪意がないから無碍にはできないんだけれども、今もあの調子だとすると、付き合わされてるほうは確かに困っちゃうだろう。 で、芝居やってるから、声がデカイってのも分るのだ。結婚して、半引退状態にあるけれども、ウチの劇団で一番の演技力の持ち主だったんだから。 厨房から他愛ない世間ばなしがホールの方まで延々とBGMのように流れていたら、客も困るだろう。 「……どんな感じで喋ってるわけ?」 「なんかね、天気の話とか家庭の話とか、延々してるみたいよ」 「つまりなんだ、『今日はあったかいですねえ、ずっとあったかいといいですねえ、昨日は寒かったですからねえ、明日もあったかいといいですねえ、明後日はどうなるでしょうねえ』なんてことを喋り続けてるってこと?」 「そんな感じらしいよ」 それは……たまらんだろうなあ(^.^;)。 でもそんな他人事のように言ってるしげだって、実は職場で「動きが芝居っぽい」と言われているのだ。どうも何か動くたびにポーズを決めるクセがあるからだとか。 ……ウチの中でもしょっちゅうやってるわ、それ。 └|-.-|┐ ←こんなの。
内田百�虜遏Χ皸翕脹冂纏匆茵慳重據戞淵僖蹈觴法�2415円)。 パロル舎の「文学絵草紙」シリーズ第四弾。 版画家・金井田英津子さんが取り上げてきたのは、萩原朔太郎の『猫町』や、夏目漱石の『夢十夜』など、幻想小説の佳作ばかりだが、内田百�里慮諺枉�説とは、前二者とは少しくその質が異なる。 「幻想」はもちろん「夢」であり、朔太郎も漱石も、自らの「夢」を小説という形で昇華させているのだが、百�里里修譴蓮∨悗斌戯邂戞�見た夢をそのまま綴ったような「とりとめのなさ」が感じられるのだ。そしてその夢にいつも絡んでくるのが「女」の影である。 本書に収められているのは『花火』『尽頭子』『烏』『件』『柳藻』『冥土』と、本来は脈絡なく書かれた六つの短編だが、装丁を担当した金井田さんは、各短編の表紙に「道」の絵を配し、それをアニメーションのように進ませて、最後に荒涼たる草の土手の向こうにある「冥土」へと案内して行く。 そしてそれぞれの短編に、密接に「女」が絡んでくるのだ。
主人公はみな「私」である。漱石の『夢十夜』は必ずしも全ての短編が一人称では書かれていなかったが、百�里慮譴蠎蠅肋錣法峪筺廚澄� 『花火』では、紫の袴の女が花火の立つ葦の原を横目に土手を越え、座敷へ「私」を誘う。そこで「私」は足萎えになる。 『尽頭子』では、狐のような愛人の家で「私」は、ムリヤリ馬に灸を据える先生の弟子にさせられる。 『烏』で「私」は、宿の女に案内されて、烏の羽を毟る男の隣室に泊まらせられる。 『件』で、吉凶の予言をするという「件」に変身した「私」を、村の人々がその予言を聞こうと取巻く。これには唯一「女」が出てこないが、夜空には女を象徴するような黄色い大きな月がかかっている。 『柳藻』の「私」は、妖婆に使われていた可憐な少女を救い出す。 そして、「私」の旅は、もはや誰もいない『冥土』へと赴くのである。
百�里諒絃呂老茲靴篤匹澆笋垢い發里任呂覆ぁ� いや、別に難解な語彙や、凝った言いまわしをしているというわけではない。語られる言葉自体は実に平易だ。しかし、その言葉の先に何があるのかが一向に見えないのだ。 どこまで行っても尽きない黒板塀の道。 百�里寮こΔ紡�を踏み入れたとき、私たちは、出口の見えぬ迷宮に入りこんでしまったことに気づくだろう。 それが、「恐怖」の正体だ。
マンガ、叶恭弘『プリティフェイス』3巻(集英社/ジャンプ・コミックス・410円)。 予想通り、アッサリと美和先生は由奈(実は乱堂)を疑うのをやめました。ちゃんちゃん。 いや、話はまだ続きますが(^_^;)。 それにしても、月刊ならともかく、週刊で次から次へとよくもまあ、これだけ由奈を窮地に陥れる設定を考えつけるなあ、とちょっと感心。この手の話は、昔『ふたば君チェンジ!』なんかでよくあろひろしがやってたけど、すぐ頭打ちになってたからなあ。どれもこれも全部ムリヤリギャグに見えるかもしれないけれど(実際そうなんだけれど)、これ続けるの、結構才能いるよ。 でも、新しい窮地を考えるたびに新しいキャラを増やしてくのはあまり得策じゃない。その場合、たいていのキャラは「使い捨て」になっちゃうわけで、美和先生もアッと言う間にザコキャラになってしまった。 新登場の植田望、由奈に「お姉さまっ」と突進してくいい味わいのキャラなんだけど、さあ、こいつも4巻以降、作者がちゃんと使いこなせるのかどうか。(2003.3.18)
2002年02月18日(月) くまくまくまっ/アニメ『エイトマン』第1話「エイトマン登場」/『すべてがFになる』(森博嗣原作・浅田寅ヲ)ほか 2001年02月18日(日) HPの原稿はまだ1/10程度です/ドラマ『百獣戦隊ガオレンジャー』第1話ほか
| 2003年02月17日(月) |
事故の顛末(^o^)�◆拭惶胸頬糎雲こΑ戞閉校殻�生)/『ハプニングみたい』(いとうせいこう・岡崎京子)ほか |
16日の日記の続き。
13日以降、あの掲示板のトンチンカンな定連さんにやっぱり愛想をつかした鍋屋造物さんがウチの掲示板に遊びに来るなどの経過があったが、昨、15日になって、また新しい動きがあった。 またもやアクセス解析から、2ちゃんねるに宇津見さんへの悪口と一緒に、ここのURLが貼り付けられていることが分ったのである。 「名無しさん」の仕業であるが、十中八九、山本さんとこの定連さんの誰かの仕業であろう。
しかし、私は今度は逆に感心してしまった。 私は自分のところの掲示板については山本さんのところのようにルールを細かく決めていくつもりはない。それは各人の良識に任せるということでなく、私への悪口や中傷も甘受する、という意味だ。そしてその旨を、ここの掲示板のトップにも掲げている。 ところが、この2ちゃんねら〜は、私たちの一連の書きこみに対する批判(悪口かもしれないが。それはどっちゃでもよろし)をするのに、ウチの掲示板への「乱入」や「荒らし」という形を取らなかったのだ。2ちゃんねら〜に呼びかけて、そこで宇津見さんとのヤリトリについて叩くことを選んだのである。 これは実に潔い選択ではないか。2チャンネルというところは、そういう場外乱闘に最もふさわしい場だ。何を書きこんだところで「荒れる」ことにはならない。 実はこの定連さん(と断定はできないが)、あるべき論争の姿というものを、一番熟知しているのではないか(まあ、ただ単に私のような無名人のサイトで暴れたって面白くも何ともない、と考えただけかもしれないが)。
私もこのへんで、これまでの一連の騒動の「本質」を、ちょっと分析してまとめておいた方がいいだろう、と考え、また、自分の「姿勢」も明確にしておいたほうがいいと判断して、鍋屋さんへのレスという形で掲示板に次のような書き込みをした。
>「世の中にはトコトン真面目な方が多数いらっしゃって、何か問題が起こったときに、『これは自分がなんとかせねば』とお考えになる気持ちはわからなくもない。いや、その『正義感』そのものは立派なものでしょう。 ただ、その主張がいかに『正論』であろうと、相手が別の『正論』を持っていれば平行線にしかなりません。マジメさん同士がぶつかればもう、事態はわやくちゃになっちゃいます。」 >「また、注意された相手が自分の方が悪かったのだと気づいても、『マジメさん』の『優等生ブリッコ』に反発してしまう、ということもありうる。いや、本人に『優等生』のつもりがなくても、そう『受け取られてしまう』ということですね。『てめえ、何様のつもりだ?』っていう反応が起きてしまうわけです。これは注意をする際にコトバを丁寧にすればするほどかえって『慇懃無礼』ととられてしまうことが往々にしてあります。」 >「相手のメンタリティを無視して『正論』をぶつけても、それが伝わらないんだってことは、相手に理解能力があるかないかを判断する以前に把握しておかなければなりません。日常生活だと相手の顔も見えますし、立場もわかりますから、そのあたりの加減が出来るのですが、ネットでそれを行うのは極めて困難です。」 >「例えば、この書きこみ自体、私にそんな意図がなくとも、鍋屋さんに『生意気なやつだ』と思われるかもしれない。そう疑われたくなくとも、絶対に疑われないなどという確信は持ちようがない。しかし、初めから諦めていてはモノ自体が言えない。だから何をどう語ればいいか模索しながら書く。その上で批判を受けたらそこでまた考える。その程度の覚悟がなくてはネットで文章を書く、主張をする、ということはできないことでしょう。」
ピュアな方が読むことも念頭に置いているので固っ苦しい書き方になっているが、要するに「ネットに必要なのはルールやマナーじゃなくて、『覚悟』だ」ってことだ。それさえあれば、ルールはそれなりのものが自然に生まれてくる。 無法地帯のように喧伝されることの多い2ちゃんねるにすら、極端な「逸脱」をセーブする機能が自然に働いていたのだ。 これは私にとって、すばらしい発見であった。もともと2ちゃんねるの存在自体には全く否定的な意見を述べないでいたのだが、もうこれからは積極的に全面肯定、2ちゃんねるバンザイ! を唱えたいね。人間、便所は絶対に必要だし、ちゃんと便器にウンコしてるんだから、いいじゃないのよ。あそこで私のことがどんなに叩かれたとしても、文句をつけるつもりはない。 もっとも、私はあそこに書きこむつもりは今もって全くないんだけれども。だってHN使ったって、私本人と特定できない世界だからなあ(^o^)。
で、ここから17日の日記。
またもや咳が止まらなくなって、仕事を休む。 先日、しげとケンカしたのが確実にカラダに影響しているのだ。こういうことを書くと、しげはすぐに「オレのこと、嫌い?」なんて言って泣くのだが、誰もそんなことは言っておらん。そんなガキみたいな甘ったれをしないでいてくれればいいだけなのになあ。 職場に電話をするのもツライが、上司もいい加減で愛想をつかしているだろうなあ。ホンネではクビを切りたいんだろうけれど、診断書も出しているので、どうにもできないんじゃないか……なんてヒネた考え方に陥ってるのも鬱な証拠だ。 そんな私の気分も知らず、しげは私が休むんで「今日はいちんち一緒やね!」と喜んでいる。と言ったかと思うと、横になって朝寝し始めた。……さっきまで熟睡しとったろうが、おまえは。 で、昼ごろトイレに起きてきたら、また「昼寝」を始めるのである。 部屋にはしげのイビキと、私の咳が谺している。 なんか凄く殺伐とした気分になってるんですけど、どうしたらいいんですか。
少しウトウトとして落ちかけていると、突然のドアチャイム。 申し込んでおいた舞台『黒蜥蜴』のチケットが来ていたのだ。しげは一旦寝てしまうと、どんなにベルが鳴っても起きてきやしないから、もし私が家にいなければ、郵便局に再配達してもらうように頼まなければいけないところだった。 休んでてよかったことはこれだけ。……かえって鬱が募る。 ああ、なんだかここ数年でも一番の鬱状態に陥りそうだぞ。
長山靖生『偽史冒険世界 カルト本の百年』(筑摩書房・1890円)。 ずっと前に買ってたけど、読み切れないまま本の山に紛れこんでいたのをようやく見つけて完読。こういう本を読むと、歴史は本当に「物語」なんだなあ、と実感するね。 いしかわじゅんの『約束の地』で、村田春夫が「私はキリストだった!」と言って「皆の衆音頭」を踊るギャグには大いに笑わされたものだったが、「キリストもモーゼも日本で死んだ」とかいう「トンデモ学説」も、こういう形で昇華されるのが一番「健全」なのかもな、と今にして思う。 現代でも、新興宗教団体などは、新たな「啓示」とやらを受けて、数多くの偽史・架空史を作り続けている。『古事記』『日本書紀』もまた「偽史」と解釈すれば、歴史をでっち上げたがるのは、人間の普遍的な行為なのかもしれないとも思う。 しかし本書は明治・大正期に視点を絞って、この時期に集中して偽史が書かれてきた理由を探っていく。これが実に面白い。 人が自分の求める理想の歴史を持ちたがる心理自体は普遍的だとしても、「なぜその時期に」と考えることは、その「時代の意識」をとらえていくのに有効な手段だろう。真実は決して一つではなく、歴史は常に不確定かつあやふやなものだが、様々な「真実」が生まれていく「理由」は実在する。そういう視点のない「歴史観」は、どんなに真実めいて聞こえても全てクズだ。 例えば例の戦争が「侵略か侵略でないか」なんて論争くらい不毛なものはない。どっちも正しいし、どっちも間違ってるに決まってるじゃん。歴史の真実なんてものを一つに定めたがるから争いも起こる。人がみな一人一人違うって個性を認めるんなら、歴史観もバラバラってこと、認めようよ。どっちの人もさ。
「ジンギスカンは果たして源義経であったか?」。この異説を最初に私が知ったのは、高木彬光の『成吉母汗の秘密』を中学生の時に読んだときだったが、まあ全面的に信用しないにしても(何たって、その証拠と言うのが、あの「天城山心中」が義経と静御前の生まれ変わりによるものってんだから、信じようもなかった)、「そうだったら面白いな」とは思った。 微かではあるが、その「面白い」と感じた事実は、ノンポリなつもりな私にも「日本ナショナリズム」の芽があることを示唆している。誰しも自国が「強い国」「誇れる国」であろうと望む気持ちはあるのだ。 「侵略」「非侵略」の双方とも、「日本が誇れる国であってほしい」という願望が意識の根底にある点では共通しているので、結局、あの論争はどっちも自分の解釈に基づいたナショナリズムのぶつけ合いでしかない。 ただ、明治期・大正期に「偽史」が続々と作られていったのには、より切実な「事情」があった。長山氏は、それが大陸進出・南進政策を正当化するための根拠としてあった、と指摘し、その根拠を一つ一つを確認していく。これが実に明快で、心理的にすんなりと納得させられるのだ。 もちろん、「それはどうかな?」と首を傾げる部分が全くないわけではない。「明治以降の日本は、欧米列強を模倣する過程で、その侵略主義をも真似ながら、しかし明確な「差別の根拠」を持っていなかった」とするのはどうか。庶民はいざ知らず、「日出ずる国日本」としての他国に対する優越意識は、明らかに貴族・武士たちにはあったはずだが。だから蒙古・中国・朝鮮の侵略を受けた博多には、アチラを「野蛮人」と見なす意識がずっとあったんだってば。まあ、白人の黄色人種に対する差別意識に比べれば薄かったろうとは思うけどね。 そういう小さなキズはあるが、当時の日本人たちが「侵略」という意識ではなく、「回帰」という意識で大陸や南を目指していったことは実証できていると思う。 右がかってても左でも、歴史書を読む前に、まずこの「偽史」の歴史を辿ってみることをオススメする。
マンガ、藤島康介『ああっ女神さまっ』25巻(講談社/アフタヌーンKC・460円)。 続けて読んじゃいるんだが、いったい何の話をやってるんだか。 いや別に話が分らないっていう意味じゃないのよ。魔族ヒルドとマーラーが、“天使喰い”を操って、ベルダンディー達、女神のパートナーである“天使”を食らって行く。第5の女神・「戦闘部」のリンドは“天使喰い”の所在を懸命に探すが……。 って「外形」は分るんだが、もともと「心根は清らかだけれど女の子に持てない男の子のところにステキな女神様がやってきちゃったよ〜ん」って他愛ないラブコメだったものが、途中から「愛の絆ってなに?」みたいなモチーフ持ちこんでちょっと感動的な感じになってたのが、何だか天使と悪魔の戦いがどうのって展開になって……でもその「魔族」ヒルドは、「女神」ウルドのかあちゃんで……ストーリー、単に迷走してるだけじゃないのか? 長期連載の悪癖なんだろうけれど、いったいこのエピソードがどこに向かってるのか、何だかピンと来ないんだわ。 藤島さん、最近どんどん絵の描き分けができなくなってきたから、読みにくくもなってるしなあ。本来、私は、ストイックだけれども不器用なリンドみたいなキャラにはハマッて然るべきなんである(私がかわいい女の子なら誰にでも萌えると思ったら大間違いである)。つまり『オトナ帝国』のチャコみたいなタイプね。でもなんか「絵」が違うんだよなあ。いや、ほかのキャラもそうなんだけれど、「表情」がどんどん消えていってさ、ただの「決め絵」になってきてるんだねえ。これ、「いい絵を描こう」と努力する人がかえって「型」にはまっちゃったってことなんだよね。こうなるとどうにも感情移入ができない。この「壁」を乗り越えないと、藤島さん、そろそろ今後が苦しくなってくるんじゃないかと思うけどなあ。 っつーかさ、もう少し面白いもの描いてくれないと、しげがこの手のマンガを一番嫌うんだよ。「面白さが中途半端だ」ってさ。
マンガ、高橋葉介『ドクター・フォービア 恐怖症博士』(秋田書店/少年チャンピオンコミックス・410円)。 ああ、たった1巻で終わっちゃったなあ。確かにそんなに面白い連載じゃなかったけれど、もしもこの先『少年チャンピオン』からお呼びがかからなくなっちゃうとしたら悲しい。できればもう1回くらい高橋さんにチャンスをあげてほしいものだが。 様々な「恐怖症」患者を、いかにもアヤシゲなドクター・フォービア(とその助手・千悟)が「治療」していくという設定はいいのだが、ページの短さもあってか、オチが殆ど一発アイデアで、当たり外れの振幅が大きい。 第1話の「“月”恐怖症」など、タイトルだけでオチが読めてしまう人も多いのではないか。 いや、オチが読めること自体は必ずしも欠陥とは言えない。1話のオチは、本来、そこから「恐怖症」が発生する物語にしなければならないのじゃないか、と思える点で、「安易」な印象を脱ぐいされないのである。 それに比べると、17話の「雪恐怖症」は、恐怖の先にある物がなんであるかを暗示していて面白い。 空に浮かぶ雪の精。青年には彼女の姿が見える。雪を見るたびなぜか恐怖を覚える彼は、自分の記憶に封印された部分があることに気づく。しかし雪の精は青年に語らう。「それは怖いことなの。思い出さなくていいことなのよ」。しかし青年は衝動に突き動かされてドクター・フォービアを訪ねる。そして、渡された「記憶の小箱」を空けると……。 これもオチが読めないこともないのだが、第1話と違って安易さは感じられない。夢の終わりが一つの恐怖であることを我々は無意識のうちに感じとっているからかもしれない。 まあ、要するに「理に勝ち過ぎてる」話は面白くないけど、「情に訴える」話は感動するって、ごく当たり前の結論なんだけどね。
いとうせいこう・岡崎京子『ハプニングみたい』(講談社/KCデラックス・1000円)。 「岡崎京子」の名前に驚いて、岡崎さん、元気になったのかと思ったら、旧版の新装版であった。 岡崎京子がまず絵を一枚描く。ただし、描きながらコピーを取っていく。一枚の絵が完成していくまで、制作途中の絵が十数枚生まれる。それに、いとうせいこうが物語ともエッセイとも感想ともつかない文章をつけていく。 試みは面白い。面白いんだけれど、残念ながらできあがった作品は今一つ。理由は簡単で、いとうさんの文章が岡崎さんの絵に追従した形にしかなっていないからだ。それが証拠に、文章を無視して岡崎さんの絵だけを見ていくと、これがとてつもなく面白いのである。 この絵はいったいどんな完成形を見せるのか? それを想像しながらページをめくっていく楽しさよ。想像力が貧困で、いとうさんの書く文章に一読三嘆してしまうような人ならば面白く読めるのかもしれないが、たいていの読者にはいとうさんの文章は陳腐にしか映るまい。それはいとうさんに才能がないということではなく、開放された個人の想像力には、生半可な才は到底かなわないからだ。 山崎正和の文じゃないけどさ、いとうさんのやったことは「ミロのビーナスに腕をくっつけてみる」行為でしかないのだ。そりゃムチャってもんでしょ。
白い画面に黒い点が一つ。 次のページでは女の子が現われる。 黒い点からは何か動物のものらしき足跡が現われる。 あちらにも。 こちらにも。 黒い点は穴なのか? そしてまた、女の子の向こう側にも黒い穴が……。
この絵の1ページ目に、いとうさんがつけた文章は、こうである。 「(白い画面について)このあたりは幸福。何の疑問もない。(中略) (黒い点について)黒いしみ? そんなことはわかっている。だがなんのだってこと。(中略)ミクロなレンズで見たホクロ! つまり皮膚のどアップで……。……違うな、きっと。あるいはまさか? 印刷ミス!?」 まあ、これで面白いと思う人はそれはそれでいいんですが。(2003.3.16)
2002年02月17日(日) ヘンなメール/『百鬼夜行抄』9巻(今市子)/『空前絶後のオタク座談会�◆.淵�ヨシ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか 2001年02月17日(土) ゴミ箱はティッシュの山……鼻水で/『2001年映画の旅』(小林信彦)
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事故の顛末(^o^)� 辛饌罅悒▲僖奪塑屬旅極鼻� |
朝は寝過ごしちゃってアニメも特撮も見られなかった。 起きたのは昼をとっくに回っていて、なんだか体が重いので、風呂に入ってるところに、練習に出かけていたしげが帰ってくる。 「なんしよん?」 「何って……風呂だよ」 「それまで何しよったん?」 「寝てたよ」 「なん、つまらん男」 家でゆっくりしてて面白いエピソードなんかあるか。
しげ、今日みんなに配ったというバレンタインチョコの余りを一つくれる。 一つと言っても、野球ボールをひと回り大きくしたくらいの大きさはある。当然一日で食いきれるものではないので、チビチビと分けて食ってくしかない。 「冷蔵庫に入れとくしかないなあ」 「チョコって冷蔵庫に入れると美味しくなくなるってよ?」 「だからって、外に出してたら腐るやん!」 この程度の大きさのチョコですら苦労するのだから、例の「タライチョコ」を渡された其ノ他君はどうであったろうか。 「『重い』って言ってたよ」 ……もっと積極的に断ろうよ、其ノ他君(-_-;)。
しげから、新しく演出になった鈴邑君が夢を見た話を聞く。 「なんか、アンタを怖がってるみたいよ」 「……どして?」 「アンタが鈴邑さんの枕元に立って、今度の演出について『ふっ、まだまだだね』って言ったって。……なんでそんなことしたん?」 「しねーよ!」 わしゃ六条御息所かい。
夜、NHKで東京ボードヴィルショーの舞台『アパッチ砦の攻防』を見る。 福岡に来た舞台を生で見ているけれど、その時は主演が佐藤B作・石井愃一のお二人だったが、こちらはオリジナル版の佐藤B作・伊東四朗バージョン。 前にも放送されてたやつの再放送だけれど、改めて見ても脚本のムリを伊東四郎が随分救ってるなあ、という印象。小林信彦が「佐藤B作が弱い」と『コラム は誘う』に書いてたけど、まあその通りなんだけれども、ボードヴィルショーの舞台なんだからしょうがないじゃん(^_^;)。小松政夫と伊東四郎のコンビだったらもっとよくなることはわかりきってるけど、主役を二人とも客演にするわけにはいかないしねえ。
この四、五日で、この日記のアクセス数が、一日平均50件ほどに増えた。 それまでは、平均15〜20件程度、ヘタをしたら2、3件、という日もあるので(^o^)、2倍から3倍くらいの増加だ。 いったい、何が起こったんじゃらほい、また「2ちゃんねる」にURLを張られでもしたかな、と一瞬考えた。 私の場合、先からずっと、読んだ本や見た映画について悪口を言いまくってたから、2ちゃんに「こんなん悪口言われてるでえ」とその内容やアドレスを貼られたことも何度かある。そのたびにアクセス数は一時的に十数件増えるのだが、二、三日もすると、波が引くようにスウッと、また、静かなサイトに戻るのである。 ところがどうも今回は様子が違うな、とカンが働いた。
で、アクセス先を辿ってみたら、出所は山本弘さんの「SF秘密基地」の掲示板なのであった。 確かに、私は時折あそこに書き込みをしているし、この日記のURLも公開しているから、そこから辿ってここを覗くことは可能である。実際に、これまでにもちょこちょこと、一週間か一月に一人くらい、山本さんのところからここにいらっしゃる通りすがりさんもいたことはいたのだ(なんだか寂れた博物館みたいだな)。 まあ、どんな興味でここを覗いたか、ということの見当はつく。 BBSの方で、この二ヶ月ほど、あそこで暴れまくっているトンデモさんや、トンデモさんに振り回されてる定連さんたちを見て、からかったりバカにしたり、といった発言を繰り返していたから、そのあたりが口コミ(ネットの場合はなんて言うんだ? ネットコミか?)ででも広がったのではないか。 しかし、たとえそうだとしても、いきなり10件以上もアクセスが増える、というのはちょっと不自然である。 だもんで、BBSに「山本さんとこからのアクセスが増えちゃったけど、どうしたのかな」と書きこんだのが、一昨昨日、2月11日の夜のこと。
反応はすぐにあって、翌12日の夕方に、宇津見さんから「定連さんの集まっている掲示板(山本さんとこにあらず)で、ルールを軽視した書き込みを続けている人たちがいたから、それを注意するのに貴方(私のことね)の文章を引用しました」との謝罪の書きこみがあった。 こうやって日記もBBSも世間に公開しているのだから、当然、引用は自由である。いちいち承諾の必要もないし、宇津見さんが謝罪されることはないのだが、まだ腑に落ちないのは、宇津見さんが「URLは書いてません」と書かれていたことである。となれば、やはりその書きこみからここに辿りつくことはできないはずである。何かもう少し「事情」がありそうだなあ、と思って、その当該の掲示板を覗いてみたい、と思ったのだが、如何せん、宇津見さんはその掲示板の名前を書かれていない(^_^;)。
もともと私は、自分の書いたものが自分の知らないどこかで話題にされることについては、無頓着なほうである。今回も「どっかで話題にされてた」ことが分った時点で、アクセス数が増えた原因は判明したのだから、私の気持ちとしてはそのままほったらかしてもよかった。しかし、宇津見さんの書きこみを見る限り、その「話題」とやらは今後もなにやら紛糾を呼びそうな気配である。 アクセス数が増えるだけならばともかく、私の書いている内容に対して、批判のメールやら掲示板への書きこみやらがあった場合に、事情を知っていると知らないとでは、対応の仕方が変わってくる。 いきなり「フザケたこと書いてんじゃねえ!」と怒鳴られても、「なんですかあ?」としか言えない。人によっては、私が事情を知っているのに「しらばっくれている」ととらえる可能性もある。状況を確認しておくに越したことはないのである。 かといって、宇津見さんに直接、メールで当該の掲示板の場所を質したりするのも、「そこに乱入するつもりなのか」と思われそうで聞きにくい。さて、どうしたものか、と思案しているうちに、ハッと思い出したことがあった。
(ここより回想シーン(^^)) もともと私が山本弘さんの掲示板ウォッチングを始めたのは、ある人がご自身のサイトで同様のことをされていて、しかもその内容がすばらしくおもしろかったからである。 お固いマジメ人間には、「ギャグ」がなぜ存在するのか、その意義についてもまるで理解不能だろうが、人間の歴史には「揶揄の文化」「からかいの文化」というのは、モノゴトの価値を相対化する方法として普遍的に存在するのである。というか、そういう感覚を持ってない人間って、社会の害毒でしかないのよ。私も非才ながらその方の顰に倣うマネをしてみた、という経緯があるのである。 その方が語られていた文章中に、世の中には「山本弘問題連絡会」と称するサイトがある、という情報があった。 「山本弘問題連絡会」。 なんて楽しくステキで、心地よく秘密めいたタイトルであろうか。♪ヽ(^。^)ノ☆ これを察するに、「山本弘氏について問題を挙げてそれを連絡し合おう」なんて生易しいものではないのである。まず、この世には「山本弘問題」というものが存在していて、それについて連絡し合っているのである。存在そのものが問題。山本さんがそれを聞いたら激怒されるかもしれないが、ここまで言われりゃこれはかえって名誉のようなものである。 昨今の作家で、「問題」とまで指摘されそうな人間がどれだけいるだろうか。「田中康夫問題」とか言おうと思えば言えそうだけれど、あの人、既に作家じゃなくなってるし。「柳美里問題」とか「中島梓問題」とか、話題にできそうなのは女性ばかりである。そう考えると山本さんは孤軍奮闘状態だ。すごいぞ山本先生! さて、その「山本弘問題連絡会」、ざっと見ただけでも7、80くらいの項目がズラリと並んでいる。サイトのいくつかを覗いて、2、3個目で、山本さんとこの定連さんたちが群れて好き勝手なことを喋っているのを見つけた。 正直な話、「ここまでバカ?」と思ったので、その感想をウチの掲示板に書きこんだのが1月27日のこと。 (回想終わり。この時点では、この人たちが更に屋上屋を重ねるがごとき恥さらしをやってくれるとは思ってもみなかった。全く、世の中は広いね)。
ああそうか、あそこの連中のことだな、と気がついて、そこを覗いてみる。 ビンゴである。(V^-°)! 宇津見さんの「引用」は、まさにその1月27日に私が書いたものであった。
> 「もちろん『レス奉行』もサルなんだが、もともと山本さんのルール提示があったにもかかわらず、その意味をまるで理解できずに(あるいは故意に無視して)つまんないスレッド立てまくった連中が、よくもまあ、これだけ自分のバカを棚に上げて言いたい放題が言えるものだと感心する」
引用部分はこれだけだが、ここで私が指している定連さんの「バカ」というのがどんなものなのか説明しておくと、それまでの掲示板の内容を、黒子さん白子さんふうに、私はこうまとめておいたのだ。
>「最近の山本さんとこの掲示板って、雰囲気悪くありません?」 >「そうよねそうよね、私だけがそう感じてたんじゃないのね、安心したわあ」 >「だいたい『レス奉行』が多すぎるのよね」 >「そうそう、何かって言うと『ルール違反してるんじゃないの?』ってうるさくってさあ」 >「ルールを錦の御旗にして、自分の気にくわない意見を封殺しようとしてるのよ」 >「やだわあ、おかげで私も書きこみにくくなっちゃって」 >「そりゃ、言ってることは間違ってないかもしれないけれど、頭ごなしにバカにしたモノイイされたら、こっちだってムカッとしちゃうわよ」 >「『少しは捻ったスレッド立てろよ』って言うんだったら、アンタがまずお手本見せてごらんなさいよってね」 >「だいたいたまにしか書きこまないくせに生意気なのよ」 >「そうよそうよ!」
もとになった定連さんの会話は男性どうしのもので、表現自体はもっとマトモなのだが、内容のウスさを分りやすくするためにこんな表現にしたのである。別に女性の会話がウスいと言いたいわけではないのでそこんとこ誤解なきよう、女性のかた(^^*)。この会話のどのへんが「バカか」ということの解説も省略する。 宇津見さんは仰ったとおり、ここのURLを貼りつけなどしてはいなかった。私のこの文を読んでいたと思しい、別の定連さんが、「その言葉はここから引用したのだろう」とこの掲示板のURLを貼りつけていたのである。 ……え? ということは、ここから飛んできた人もいるはずじゃん? と思って、もう一度アクセス解析を見たら、前に見た時にはなかった、そこの掲示板のURLから飛んできた人が確かにいた。 どうもさっきは見落としていたらしい(^_^;)。 山本さんところから直接飛んできた人たちは、「独自で」私んところに目星をつけてやってきたんだろうなあ。発言の一つや二つ確認するためだけに、大層な努力をするものである。
ともかく、「事情」は分ったので、さて、ここの定連さんたちが私のところに文句をつけてきたときにどう対処するか、ということを思案する。 定連さんたちのことをバカだサルだと貶しまくっちゃいるが、それは「マジメなカタブツ」で、「考え方が幼稚」ってだけだから、何か言ってくるなら恐らく態度自体はマトモなものであろう。 そういう人を相手に、いくらなんでも、「小学校から出なおしな」とは言えない(昔はオトナはみんなこう言って子供を叱ってたものだったがなあ。言われたことがない人間はただバカにされたとしか思えないんだろうな。そういうところが、イマドキの若い者の「幼稚」なところなのである)。
そんなことを考えながら、続く書きこみを読んでいくと、どうも様子が違っている。 攻撃されているのは宇津見さんばかりで、私のことには殆ど触れられていない。そりゃあ、そこの掲示板に乱入しているのが、宇津見さんだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、「学習能力の無い自意識過剰のおバカなおサルさん」などというコトバ自体は私のものだ。宇津見さんは私のコトバに「そうですなあ」と賛同は示されていても、ここまでのモノイイはしていない。 それがほとんど、宇津見さん自身の言葉のように解釈されている。上記の私の書きこみすら、宇津見さん本人の意見と全く同一のように語る人もいる。「賛同」さえすれば意見が完全一致、と解釈するというのは、普通、滅多にせんことだと思うが。人間一人一人は全部違うんだよっての、難しすぎてよくわかんないかな? それとも最近はそういう「常識」、誰からもおせーてもらえないの? 宇津見さんが私の言葉を引用したのは、「ヨソではアナタたちに愛想を尽かしてる人には、こんなヒドイことを書かれてるんですよ、腹が立ちませんか? そこまで言われてしまう意味を考えてみましょうよ」ということなのであって、そこで私と宇津見さんの態度には、明確な差異が既に生じている。 「私は」、定連さんたちに愛想をつかしているが、「宇津見さんは」「この時点ではまだ」「愛想をつかしてはいない」のである。この二者を比較した場合、腹を立てるべきがどっちかは分りそうなものだが。通じねえ奴には通じねえやな。 宇津見さんは、定連さんたちを批判した時点ではまだ「言葉が通じる」と思ったからこそ、書きこみをされたのだろう。あそこに集っている人たちの中でも、そのことが「理解」できる人は、「言葉に拘らずに、宇津見さんの言ってることにも耳を傾けよう」とか、「ダブルスタンダードを使っているのはここの定連さんの方ではないのか」と指摘するが、逆ギレしている頭脳の不自由な方々は、無視である。 こういう状況を見ていると、宇津見さんを宇津見さんだから批判しようとしているように思えてならない。実際、彼らの書きこみ、殆どマトモな批判の体をなしていないのである。 もういい加減、こういう人たちに「情け」をかけることは、宇津見さんにとっても疲れるばかりだと思い、「ほっときましょうよ」と返事を書きこんだ。もっともその時点で宇津見さんもついに愛想をつかせてしまっていたが。 ここまでが2月12日の出来事。
しかし、事態はまだまだ収まらない。 翌13日以降も、宇津見さんをターゲットにした暴言の嵐は、当該掲示板に定連さんたちによって次々と書かれていく。しかもその中身はどんどん感情的かつ抽象化していくばかりだ。
宇津見さんのモノイイについて、
>「掲示板の基本的なルール『他人を不快にさせるような発言は控える』というルールはどうでもいいのでしょうか?」
などと言っている批判も、一見正論のようでいて、その実はただの難癖である。これは「不快にさせる」意図で文を書くなってことであって、受け取った方が勝手に「不快になる」のとは全然意味が違う。 宇津見さんが明らかに「不快にさせることを意図していた」と断定できる根拠がどこにあるか。所詮、これはこの人の主観を一歩も出ていない。仮に宇津見さんにそういう意図があったとしても、そのことを指摘すれば、今、論じようとしている内容から話は関係ない方向へ逸れてしまう。基本的に会話に不自由な人なのだ。 はっきり言って、宇津見さんの書きこみ程度で不快になるのは神経が病んでいる証拠である。
一番逆ギレして、支離滅裂な戯言を書きなぐっている人は(上記で私がまとめた会話のヌシでもある)、
>「『相手がルール違反だからと言ってわざわざ「それはルール違反です」と注意をするの「も」立派なルール違反だ!』です。」
と主張する。心の不自由な人を相手にすると、必ず返って来るセリフだ。 小学生がイタズラをして先生に叱られたときに、「なんだよう、先生だって昔はイタズラしてたんだろう、オレを叱る資格なんてないじゃんかよう」と言い返すアレと全く同じヘリクツである。 それにこの書き方だと、まず自分がルール違反をしていることも認める形になってしまうが。普通、そのことを自覚してれば、大人しくしてるものだけれど、恥という感覚自体、ないようである。 さすがにこれはヒド過ぎると、ほかの定連さんもガマンならなかったのだろう。
>「ルール違反て注意するのはルール違反て注意するのはルール違反て注意するのはルール違反て注意するのはルール違反て注意するのは…のループは如何なもんかと。これって、結局バカって言った方がバカって言った方がバカって言った方がバカ(以下略」
と突っ込まれるが、言われたそのヒト、やっぱりその意味を理解できず、同じ主張を繰り返している。 宇津見さんの悪口を一緒に言っていたもう一方の人は、そのあと謝罪をしているのに、この人はどうもそのことも気に食わなかったようだ。コドモなのか粘着質なのか。どちらにしろ、かなりトンデモさんに近いことは間違いない。
こういう人がいつまでも吼えていては、宇津見さんも辛いことであろう。 いい加減で収束をしてもらいたいものだと、ウチの掲示板に「このへんでやめとくのがオトナでしょ?」という書き込みをする。 ついでに、私自身の言葉使いについても、反省する旨を書く。こういうとき、頼りになるのが唐沢俊一さん御夫妻だ。唐沢さんはこういう方たちのことをしばしば「ピュアな人」と表現し、K子先生は「イノセント」と呼ぶ(ヴィスコンティか)。うまいなー(^^)。私もこれに倣うことにしよう。 けど、指してる意味内容は同じなんだがなあ。それに「おサルさん」と言われたら「サルじゃないぞ!」と反論ができるけど、「ピュア」なんて言われたら表現上は誉めてるんだから、何も言えなくなると思うが。これだからピュアな人は(^_^;)。 最後に「こういう場外乱闘が、2ちゃんねらーを喜ばせるばかりで、実りがないと気がつけば、自然にみなさん、落ちつかれていくものと思います」とまとめてシメる。「場外乱闘」と優しい言い方をしたが、要するに犬のケンカだ。自分たちが「見世物」になっていることに気がつけば、プライドだけは高い人たちだから、少しは大人しくするかな、と考えたのである。 まあ、ウチの掲示板を続けて覗いて、ピュアな心にも少しは染みがあれば(^o^)、鼻水垂らしてダダこねてるだけの自分たちのガキな姿に気がつくだろう。 ここまでが2月13日の出来事。
規定枚数を越えたので、続きは次回。
2002年02月16日(土) 伏字伏字伏字伏字〜、伏字大行進、ヤァ!/映画『A*P*E』/『Heaven?』3巻(佐々木倫子) 2001年02月16日(金) なりたくて病気になってるわけじゃないやい/舞台『トランス'98』ほか
| 2003年02月15日(土) |
今日はケンカしなかったね/映画『スコルピオンの恋まじない』/DVD『新八犬伝 辻村ジュサブローの世界』 |
二、三ヶ月前からしげは今日のこの日を楽しみにしていた。 なんて書きだしで始めちゃうと、まるで結婚式みたいだが(^o^)。 東京の方の公開からは数ヶ月遅れではあるが、ダン・エイクロイド客演の(主演はウディ・アレン)『スコルピオンの恋まじない』の福岡公開初日なのである。 何度か書いているが、しげはダン・エイクロイド主演の『ブルース・ブラザース2000』に都合20回以上、劇場に通ったほどの(しまいにゃ劇場支配人の外国人に顔を覚えられたらしい)ダン・フリークである。 まあ、いい役者だとは思うがなんでそこまで入れこむか、という野暮は言うまい。誰しも、そういう憧れの人を持っているものだ。こないだも、『帰って来たウルトラマン』を見ながら、しげに「ダンが出てるよ」と言ったら「え? どこどこ!?」と目を輝かせたので、「団次郎」と言ったら、ちょっと惨殺されそうになりました。しげに冗談は通じないのである。 こんなしげだから、ダンの初日と来れば、朝イチでしかも一番乗りでないと気がすまない。 ところが、そのしげが寝過ごしてしまった。 第1回の上映は、11時からなのだが、しげが目を覚ましたのは10時過ぎ。劇場は天神の外れにあるので、とても今から急いで出かけても間に合わない。私はもっと早くに起きていたのだが、ネットを見ていたりしていたら、時間の経つのをつい忘れていた。 しげが泣き出しゃしないかと、ちょっとハラハラしながら様子を窺う。目が覚めるなり、挨拶もせずそのままトイレに向かうしげ(挨拶しないのはいつもだが)。俯いてショボンとはしているが、泣いてはいないようだ。 トイレから出てきたところで、さりげなく「何時に出かける?」と聞く。 ……返事がない(^_^;)。 「2時の回に間に合うのでいいかな?」 「……もう、見てる人がいるよね」 「……うん」 「どんな人がいるかな」 「……さあ……」 私になんと答えろと言うのだ(T∇T)。 でもまあ、何とか心を落ちつけてくれてはいるようだ。考えてみれば、東京の方では既に公開済みなんだし、今回はそれほど「一番乗り」には拘らなくてもいいはずなのである。
外は雨である。 比恵から地下鉄に乗って、合間の時間をベスト電機のlimbに寄ったり福家書店に寄ったりして潰す。 天神をうろつくときは地下街を利用することが多いので、殆ど傘を持ち歩く必要はない。今日もいつものデンでここまでは全部地下を通って移動していたのだが、外に出た時点で、ついうっかり傘を忘れていたことに気づいた。 劇場のKBCシネマに行くまでには、ちょっと距離がある。時計を見ると、上映時間の30分前。徒歩で10分の距離だから、どこかそのへんの店に入って傘を買う時間は充分あるのだが、そんなことを言い出そうものなら、ただでさえ時間に遅れることを異常に気にするしげのココロが落ちつくはずはない。 覚悟を決めて、雨の中、早足で劇場に向かう。雨といっても土砂降りではなく、小雨だったのが幸いした。濡れはしたが、ずぶ濡れで風邪を引くというほどではない。
KBCシネマは、5、6年前までは本当にKBC(九州朝日放送。テレビ朝日系である)の建物内にあったミニシアターである。 一階が品のいい喫茶店になっていて、そこでサンドイッチとコーヒーで一服してから映画を見る、というちょっとだけエスタブリッシュな(^o^)気分になる、というのが楽しみだったのだが、KBCの改装で劇場が潰されてしまった。 映画館自体は存続して、真向かいの空地にプレハブみたいな建物を立てて、今はそこがKBCシネマになっているのである。座席はそう悪くはないが、ロビーがともかく狭く、あまり、エスタブリッシュとかゴージャス、という感じはしなくなっている。天神というよりは長浜に近く、地下鉄やバス停からも歩いて遠いので、あまり行き易くはないのだが、『スコルピオン』のように、ここでしかやらない、という映画も多いので、それなりに繁盛はしているようだ。 ついた時にはちょうど1回目の上映が終わる少し前であったが、2、30人のお客さんがゾロゾロと出て来ていた。オジサンも中にはいるが、オトナのカップルや、大学生風の女性たち、概ね女性率が高い。でも、ダン・エイクロイド“一人”が目当てで来ている客はしげくらいのものであろう(^_^;)。
映画『スコルピオンの恋まじない』。 原タイトルは“The Curse of The Jade Scorpion”。 “Curse”は普通、「呪い」って訳すんだけれども、「ジェイド・スコルピオンの呪い」じゃ、どうしたってホラー映画にしか見えないから、この邦題は正解。 キャッチコピーの「しあわせの処方箋、教えます」ってのはハズシてるけど。 1940年のニューヨーク。C.W.ブリッグス(ウディ・アレン)は、一流保険会社ノースコースト社に勤務している自称・腕利き保険調査員。まあ、決して二流ではない、という程度には事実で、社長のマグルーダー(ダン・エイクロイド)の信任も厚い。ピカソの盗まれた名画を見付け出したりと、最近は特に絶好調である。 ところが、最近入社してきた同僚のベティ=アン・フィッツジェラルド(ヘレン・ハント)は直観に頼るブリッグスとは考え方が正反対の合理主義者。おかげで彼とは顔を見るたびに皮肉を言い合う犬猿の仲だった。 ところがある日、二人は同僚のジョージ(ウォーレス・ショーン)の誕生パーティで、インチキ魔術師ヴォルタン(デヴィッド・オグデン・スティアーズ。米版『千と千尋』の釜爺!)のマコトシヤカな「ジェイド・スコルピオン(サソリのペンダントである)の呪い」によって催眠術をかけられて、「コンスタンチノープル」「マダガスカル」という呪文を耳にするたびに、恋に落ちてしまう関係になってしまった。 ところがそれはヴォルタンの巧妙な罠。その日をから謎の宝石泥棒が世間を騒がせ始め、ブリッグスは犯人を捕まえようと奔走するのだが……。
もちろん、実行犯はブリッグス。 何しろホントに泥棒やってるんだから、指紋だの何だの次から次へと犯人の証拠が出てくるんだが、それをなんとか言い訳しようとどんどんデタラメなことを喋り出すアレンの芸が面白い。この言い訳芸、『何かいいことないか子猫チャン』や『OO7/カジノ・ロワイヤル』のころからのアレンの持ち芸なのだけれど、年を取ってもこの話芸だけは衰えない。ジョン・ベルーシ、チェヴィ・チェイス、ダン・エイクロイドたちも、これまでにこぞってこの「言い訳芸」を披露してくれているが、やはりウディ・アレンのそれが一頭地を抜いている。 体技タイプのコメディアンが旬を過ぎると映画が作れなくなって行くのに比して、そろそろ70歳になろうというアレンが新作を連発できるのは、彼が基本的にスタンダップ・コメディアンだからだろう。 「話芸」と言っても、もちろん面白い「間」を作るためには動きのキレは必要なわけで、催眠状態から正気に戻る切り替えの間などは絶妙で、この分だとまだまだ面白い新作を取ってくれそうな気配である。
現実には、こんなに簡単に催眠術にはかからないものだろうが、それは映画のウソとして許容できる範囲。催眠術にかかっても、本人がイヤなことは絶対にしない、という事実は世間一般の常識になっていると思うが、ブリッグスにはどうやら泥棒願望もあるらしいので、その点はクリアーしている。 パンフレットには心理学者の門前進氏が解説をつけており、それによると催眠状態に入っても、完全に記憶が欠落するわけではなく、「今、自分は催眠状態にあるんだ」という心は残っているそうである。どっちかと言えば、ブリッグスもベティも完全に自分の催眠中の行為を忘れちゃっているのが事実と反するのだが、そこに突っ込むと映画自体が成り立たないから、これもしょうがなかろう。 じゃあ、催眠術で犯罪を犯させることは不可能かというとそんなことはなく、やはり門前さんの指摘によれば、現実に催眠誘導(「催眠をかける」という言い方はしないそうだ)を利用した事件はかなりあるんだとか。つまり、実際には「催眠誘導されてるとわかってるけどやっちゃった、やった以上は逃げるしかない」っ感じになるものなのかな。
まあ、基本的には面白かったし、年を取っても決して説教臭い映画を作らないアレンの姿勢には共感を持つが、さすがに1935年生まれ、67歳のアレンに「中年の恋」を演じさせるのにはムリがある。後ろ頭のハゲはちょっとキツイよなあ。なんでもアレンは最初は監督に専念、主演するつもりはなくって、ブリッグス役はトム・ハンクスにオファーしたそうだ。けれど、まあ、あの人も忙しいことだし、それにオスカーを二回も取って、今更コメディを演じたくないという気持ちもあったのかもしれない。あっさり断られたそうだ。 ダン・エイクロイドは、製作記者会見でこの映画に出ることになった理由について「今、この業界でアレンと組みたくない人間がいると思うかい?」と発言しているが、これって、ハンクスに対する皮肉かも知れない。ハンクスは『ドラグネット』でエイクロイドと組んだときはあまり気のない演技をしているから、もしかしたらこの二人、仲が悪いのかも。うまい役者だとは思うけれども、コメディアン時代のトム・ハンクスが好きな私としては、『ロード・トゥ・パーディション』のハンクスを見ていても、片岡鶴太郎がシリアス演技をしているような違和感を感じてしまうのである。いや、ハンクスは鶴太郎みたいにヘタじゃないけどさ。 でも、ムリはあっても、ハンクスの主演である『スコルピオン』より、アレンの『スコルピオン』のほうが絶対に面白いだろう、と思う。お相手のヘレン・ハントはちょっと前ならフェイ・ダナウェイかメリル・ストリープあたりが演じたんじゃないかと思われるようなバリバリで押せ押せタイプのキャリアウーマン大女で、対抗するのがハンクスだと、普通に対等なヤリアイになってしまうのである。チビでメガネでハゲネズミのアレンが頑張るからこそ、画面上の面白さが出る。だから、「これを40代の頃のアレンで見たかったなあ」というのが正直な感想なので、見ている最中、私はできるだけアレンのハゲに心の中でカツラをかぶせて見ていた(^o^)。これからビデオ等でこの映画を御覧になろうとされる方にもそうすることをオススメする。
ワキの役者も、みな好演。 エイクロイドは『アンツ』に引き続いてのアレンとの共演。実はベティは社長のマグルーダーの愛人であるという設定。つまり、アレンとエイクロイドは今回はライバル関係にあるのだけれど、エイクロイドのこういう役柄は、観客から好かれても憎まれてもいけない微妙な演技が要求される。妻と別れてベティと一緒になろうと本気で思ってるけれども、離婚調停がなかなかうまくいかず、実は妻と別れたくないんだとベティに誤解されたら困るなあ、と眉を顰めている、善人と悪人の中間の役どころなのだ。これをエイクロイドは臭くなりすぎずにサラリと演じている。ラストでベティに振られて、「妻との協議を再開してくれ!」と慌てふためくあたりもうまい。 ヘレン・ハントはちょっと大柄過ぎて、私の好みではないのだが、アレンと並ぶと「蚤の夫婦」的イメージが画面に横溢して、それだけで楽しくなる。 ブリッグズにモーションをかけるローラ役のシャーリズ・セロン、なんでブリッグズはベティじゃなくて、こっちを選ばないんだと言いたくなるくらいの美女ぶり。 ブリッグズが催眠から冷めるきっかけを作る親友、ジョージ役のウォーレン・ショーンは、『おかしな二人』でのハーブ・エデルマンかジョン・フィードラーあたりが演じた役回り。ホントにチョイ役なんだけれども、この人がいなきゃ、話が成立しないって役どころなのね。こういう役を設定できるかどうかで、その脚本家の実力が計れる。もちろん、アレンは一流である。
まあ、ストーリーもオチもどこかで見たような、という印象はあるのだが、それは本作が「古きよきアメリカ」の都会派コメディだから。「ホントのニューヨークはこうじゃなかった」という批判は、こういう映画に関しては野暮というものだろう。
思ったよりエイクロイドの出演シーンが多かったので、しげは大満足。映画自体も普通にいい出来だったし。アレンの老けぶりはやはりちょっとキツかったらしく、私が「あのハゲがなあ」と言うと、「ハゲよりアゴのシワが」と、ヒドイことを言う。演技よりもハゲだのシワだのを云々されるんだからアレンもかわいそうである。
劇場で折りたたみ傘を200円で売っていたので、これを買う。しげはこういうときに絶対に傘を買おうとしない。どういう心理なのかよくはわからないのだが、傘を差すなんて重いし面倒臭いし、よっぽどの大雨でない限り、濡れた方がまだマシだ、という感覚のようだ。必然的に相合傘になるんだけど、そうすると照れて「アンタ一人で差してりゃいいよ、二人で入ってたら鞄やパンフが濡れるよ」なんて言うんである。女房一人を雨に濡らせて、カバンのほうが大事、だなんて「厩火事」みたいなマネが出来るかい。それに一人で傘差してたって、体でかいからカバンははみ出て濡れちゃうんだよ。 幸いパンフは正方形で文庫よりちょっと大きいくらい、カバンの奥にしまえたので濡れずにすんだ。
食事をどこでするかで相談、雨もあがってきたので、少し歩いて、リバレインの柳川屋で久しぶりに「櫃まぶし」を食べようということでまとまる。 天神から中洲を通っていると、しげがレストランの前で立ち止まる。マクドナルドがロッテリアにいつの間にか変わっているのを見て、驚く。 「うーん、ロッテもいいなあ」なんてことを言うので、「うなぎはやめたの?」と聞いたら、「あっ! うなぎ食べに行くんやった!」と叫ぶ。 今、どこに向かって歩いてると思ってたんだ(-_-;)。
柳川屋で特上の櫃まぶしを二人分。いつもはしげはうな重の方が好きなのだが、私があんまり「櫃まぶしは美味い」というものだから、今日は「あんたと同じもんでいいよ」。私の分も分けてやったから、しげは充分満足だろう。 店を出る時に、しげ、カバンを持っていないことに気がつく。 「持ってきてたの? じゃあ、映画館に忘れた?」 「うん……」 「じゃあ、今から取りにいくか」 「いいと? また歩かないかんよ? 帰るの遅れるよ?」 「別にいいけど? 休日だし。何がイカンの?」 「アンタのことやけ、『遅くなるけん、先に帰る』とか言うかと思った……」 「……あのな、そうやってオレを『自分モード』で勝手に極悪人に仕立てるの、やめてくれる?」 ありがたいことにカバンは映画館で預かってもらってました。
帰宅して、DVD『新八犬伝 辻村ジュサブローの世界』を見る。 もうこの作品は超々々大好きだし、しげにもぜひ見てもらいたいと思っていたのだが、残念ながら、今、残っているのは、2年間の放送分のうち、わずかに第一回、第二十回(第一部最終回)、第四百六十四回(完結編)の三回分のみである。これでこの作品の面白さを伝えようってのはまあ土台ムリな話なのだが(なんたって、二十回のラストで丶大法師は八犬士を探す旅に出るのだが、次の回では八犬士はみんな揃ってて、法師は切腹して果てるのである)、なんとか間のストーリーなどを説明しながら見てもらう。でも反応は「私のうまれた年って、こんなのやってたんだあ」程度のもの。 いや、その程度のものじゃなかったんだ、『新八犬伝』の面白さは。『八犬伝』の小説化、映像化、漫画化は数多いが、数々の脚色が施されているにも関わらず、この『新八犬伝』が最も原作の精神に忠実であり、かつ最高傑作であることを私は主張して憚らない。 確かに、原作は勧善懲悪、因果応報の物語であるにも関わらず、脚本の故・石山透氏は、原作ではあえなく死んでいった悪人たち、網乾左母二郎や舟虫を最後まで死なせなかった。教条主義的正確の強い馬琴が『新八犬伝』を見れば、恐らく激怒したことだろう。 しかし、石山氏は明確に「今、子供たちに何を教えるか」というイメージを持っていた。それは氏が、トコトン「言葉」に拘っている点に現われている。今、わずかに残る『新八犬伝』を見ても、とても小学生には理解不能ではないかと思える言葉が出てくるのに驚く。 例えば、元・金腕大助こと丶大法師は、最終回で僧侶の身から元の武士に戻る。俗世の人間が僧になることは「出家」と言うが、その逆は何と言うか? 「還俗」というのである。私がこの言葉を知ったのは、まさにこの番組であったし、それ以外にも数限りない言葉をこの番組から学んだ。 石山氏は脚本を書くのに、決して原作の「難しい言葉」を「優しい言葉」に言い換えなどしなかった。その代わりに、説明を入れまくったのである。「還俗」という言葉も、最終回で初めて出たのではなく、その前の回から坂本九ちゃんの懇切丁寧な説明があり、それがまた次の回で繰り返されたという経緯がある。 つまり『新八犬伝』は「復習つき」学習人形劇だったのだ。 何度も繰り返される言葉は確かに見ていてクドさを感じるものだ。しかし、それを補って余りあるのが坂本九の明朗で軽快なテンポの「語り」であった。難しい言葉でも、九ちゃんの話術でかたられるとすんなりアタマに入っていったのだ。 会話していても分るのだが、この『新八犬伝』を真剣に見ていた世代と、それ以下の世代とでは、その語彙力において天と地ほどの違いがある。後に原作の馬琴の『南総里見八犬伝』を読んで、その文が古文であるにも関わらずスラスラ読めることに驚いた。既に、原典を読むための素養が、小学五年生のころの私のアタマにインプットされていたのである。 だから私は教育に関して、「子供には難しいんじゃないか」という発想は持たない。NHKはもう一度『新八犬伝』をリメイクすべきだ。ただ九ちゃんの代わりをする語り手がいないことが一番のネックなんだが……。 DVDには『真田十勇士』第一回、第四百四十三回も収録。 出演者の名前を見ると、その豪華さに驚く。名古屋章、松山省二、岸田森、三谷昇、河内桃子、中村恵子、、里見京子……。語りはアナウンサーの酒井広から熊倉一雄に途中から代わっている。このことも記憶にあるけれど、前番組の『新八犬伝』の九ちゃんの楽しい語りがいきなりアナウンサーの説明口調に代わったんだから、当時は随分腹が立ったものだった。そのあたりのことが原因で変更になったのじゃないかな。 懐かしくてすっかり見入ってしまったけれど、惜しむらくは『新八犬伝』の主題歌『仁義礼智忠信孝悌』(坂本九)と、『真田十勇士の歌』(村田英雄)が収録されていない。アレは音源が残ってるはずなんだがなあ。(2003.3.16)
2002年02月15日(金) ニンニクの家/映画『がんばれ!ジャイアン!!』/『キノの旅V』(時雨沢恵一)ほか 2001年02月15日(木) 携帯綺譚/『雨柳堂夢咄』5巻(波津彬子)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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