無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年02月04日(火) 予想通りに世の中が動くって味気ないね/DVD『パパ・センプリチータ』/『名探偵コナン 10+PLUS SDB』(青山剛昌)

 スペースシャトル・コロンビア号の事故のために、本当なら三面記事のトップを飾ってたかもしれないいくつかの記事が、アオリをくらって小さな囲み記事になってしまっている。
 一つは『千と千尋の神隠し』のアニー賞(国際アニメ映画協会賞)授賞式なんだけど、長編アニメ映画、監督、脚本、音楽の全4部門を制覇したのに、西日本新聞じゃ社会面の右ページの端、朝日新聞に至っては、5センチ四方の囲み欄に数行での紹介。宮崎駿に恨みでもあるみたいだ(^o^)。
 中田秀夫監督の『仄暗い水の底から』も、フランスの「第10回ジェラルメール国際ファンタスティック映画祭」でグランプリ・批評家賞・審査員賞の三部門を制覇したんだけれど、これも全くと言っていいほど新聞報道されていない。
 私ゃいい加減、この国のとってつけたような宮崎駿フィーバーぶりにも飽き飽きしてるし、中田秀夫も『リング2』で見捨てちゃったから、記事が小さくなったってかまいはしないのだけれど、事故についての過剰報道のせいでこちらの知りたい情報が無視されてしまうのがどうにも業腹なんである。
 事故は要するに事故なんだから、報道するったって事実を提供しちまえばそれで終わりである。原因の究明だって、調査が進展しないことにはたいした話は報道できない。なのにマスコミってさ、こういう純然たる事故についてまで、「犯人」や「悪人」を探し出して追求したがるんだよねえ。
 例の9.11・ツインタワーテロの時も、アラブの人たちが大喜びしてる様子を何度もテレビで流して、反アラブの感情をかきたてさせようと姑息なことしてたけどさ、今度もニュースソースがはっきりしてない時点でアラブの誰かが「天罰だ」と口走ったとか、テキトーな情報を流してた。けれどイランかどっかの首脳は、「事故は事故」ということでコロンビア号の七人に哀悼の意を表明していたぞ。
 アメリカ人の一部には、「あんな上空で起こったことだからテロじゃないとは思うけれど……」とかアホなこと言ってるやつもいる。テロの可能性なんて、0.01%もねえよ(ーー;)。
 百歩譲って、テロ組織がスペースシャトルに時限爆弾か何かを仕掛けるとしたらだよ、離陸前か離陸直後に爆破するようにするってば。時間が後になれば後になるほどチェックや爆弾自体の事故で爆破が失敗するかもしれないじゃん。
 それともまさか、ツインタワーのときみたいに、あの七人の中にテロ組織のスパイがいて自爆したのかも、とでも言いたいの? アメリカは自由な国だからねー、何言ってもいいんだろうけどさー、勝手な妄想が他人の神経を逆撫でする可能性もあること、もちっとばかし考えた方がよかないかね。
 テロのせいで心が病んじゃってる人がいるってのはわかるけど、なんでもかんでもアラブのテロに結びつけようって心理ってさ、エスカレートしてきゃ、関東大震災の時に「朝鮮人の暴動が起きる」とデマを飛ばした連中のと似たような事態を引き起こす危険だってあるんだよ? そんな臆病な猜疑心がアメリカ人や日本人の一部に根付いちゃってるとすると、何かのきっかけで戦争のスイッチが押されちゃう危険も確かにあるよなあ、と思うんである。
 私のこの考えのほうが「疑心暗鬼」で「被害妄想」だったらいいけどなあって願うけどね。

 今回の事故で、NHKの朝の連ドラ『まんてん』の内容が変更されるんじゃないか、と心配された向きもあったようだ。
 ……って、誰がどうして、何を心配してるってえのよ。
 宇宙飛行士を夢見るって、もともとキレイゴトで描けることじゃないでしょ。既に「チャレンジャー号爆発」という「事故」はこの番組が始まる前に起きてんだからさ、主人公が「命をかけてでも」って決意でその道を目指すんじゃなきゃ、初めからウソになるじゃん。「また」事故が起きたからって、路線変更しなきゃならない必然性は全くない。
 小見山佳典チーフプロデューサーは「この番組のテーマである宇宙に飛び立つ内容を変えることはない」と、改めて表明したとのことだけれども当たり前のことだ。
 番組内容が変わるって、主役が「宇宙は怖いからもう行くのやめる」ってオチになるとでも思ったの? それって、「おしん」が苦労の果てに報われることなく最後に野垂れ死ぬようなものじゃないの。朝の連ドラでンな結末にするかどうかちっとばかし頭を捻って考えてみりゃわかるだろう。やっぱり妄想入っちゃってるよなあ(~_~;)。
 もっとも私は『まんてん』を見たことがないので、もしかしたらキレイゴトだけで作られてるのかもしれないけれど(^o^)。


 晩飯は久しぶりに「ザ・めしや」で食事。
 ここは福岡転勤と相成ったZUBATさんも利用されているらしいので、もしかしたら今日、ここで会えるかな、とか運命の出会いを想像してみたが、そんな偶然はそうそうあるわけないのである。
 好きなおかずを取って食べられるバイキング方式なので、肉・豆腐・刺身・サラダなどまんべんなく取る。
 しげは初め「丼もの丼もの」と言ってたのに、取ってきた皿を見るとカツ丼でも牛丼でもなく、肉を中心にしたおかずが何皿か。
 「ドンブリにするって言ってたじゃん?」
 「ああ、肉の皿を見てるうちに忘れた」
 ……って、それ言ってたのほんの3分前なんだが(-_-;)。
 とりあえず目の前に肉が見えたらその直前の記憶が消えるのか、おまいは。
 だったら、仮に私が、超グラマーな女性とうへへへへと浮気したり、会社のおカネをガバカバ使いこんでクビになったり、競馬競輪バカラにポーカー、ありとあらゆるギャンブルに手を出して借金まみれになったり、「へへへ、ねえちゃん、ええもん見せたろか」と道端で淫らな行為に及んで警察にとっつかまったりしても、「肉おごるから許して?」と言ったら許すんか。
 ……許しそうだから怖いよなあ(^_^;)。


 DVD『シティボーイズミックス パパ・センプリチータ』。
 これまで発売されてたDVDのケースは全部小さなCDサイズだったのだけれど、今度はトールサイズ。やっばりそうしないと売れないのかな。
 DVDシリーズは毎回マルチアングル仕様で、できるだけ舞台の雰囲気を再現しようと工夫してくれているのが嬉しいのだが、今回はなんと四分割画面が選択できるという、前回の『ラ・ハッスルきのこショー』が単なる画面切り替えだけだったのに対して、より複雑になっている。
 その分、眼がチラチラしてどこ見ればいいのかわかんないって感じになっちゃってるけれど(^o^)。
 考えてみたら、「シティボーイズはいいぞ」とやたら書いてるわりにはどんなギャグがあるのか、あまり紹介したことがないな。でも舞台のギャグくらいコトバで説明するのが難しいものってないのよ。書き手としてはエッセンスを解説したつもりになってても、単に小難しいコリクツこねてるだけにしか見えないしねえ。
 というわけで、わかりやすいセリフのギャグを一つ。
 客からクレームをつけられて謝りに来た納豆会社の社員どうしの会話。
 大竹「心から謝らないのに謝ったってしょうがないでしょ!?」
 きたろう「キミは学生か! 心から謝るオトナなんていないよ!」
 ……うーん、やっぱり難しいなあ。卑劣な小心者を演じてるきたろうさんがこのセリフを言うから、すげえ説得力が生まれて笑えるんだが。
 ……うーん、確かに私も心から謝ってるオトナになんか会ったことがないな。いいのか、そんな世の中で(^_^;)。
 毎回恒例になっちゃった(+_;)「放送させないよ〜ん」カットは、版権に引っかかる関係で、「宝塚コント」での「ゴッドファーザーのテーマ」がP音処理。全面カットにはならなくてホッとしてるけど、WOWOW放送時からカットされてたかなあ?


 青山剛昌『サンデー公式ガイド 名探偵コナン 10+PLUS SDB(スーパーダイジェストブック)』(小学館/少年サンデーコミックス・600円)。
 「テンプラス」ってどういう意味かと思ったら、10巻ごとに内容をダイジェストして紹介するってことなんだな。……普通、こういうムック本って、設定資料の紹介とか、キャラクターの分析をするものなんじゃないのかね。ただのダイジェストだけで中身がえらく薄いぞ。
 青山剛昌のインタビューが唯一のウリみたいなものだけれど、子供のころからのミステリファンであることを表明していながら、その語ってる内容が図らずもこの人のウスさを露呈させてしまっている。
 「仕掛けもののトリックを作るのが昔から好きですね。かもいに糸を通して、どっかのドアを開けると何か落ちるとか」。
 ミステリファンなら即座に指摘できる問題点が二つ。一つは機械的トリックはミステリのトリックとしては下の下だという認識がないこと、もう一つは、「それ盗作じゃん」ということ(-_-;)。こういう基本的な知識もわかっちゃいないから、ミステリファンはみんな揃って『コナン』を罵倒してるんだよ。
 「DVDの棚には探偵もののソフトがギッシリ!」ってんでその写真を見てみると、『探偵物語』『刑事コロンボ』『ヴィドック』『名探偵登場』『私立探偵濱マイク』『シャーロック・ホームズの冒険』『名探偵ホームズ』『名探偵ポワロ』『TRICK』などなど。
 私とかぶってるのが多いな(^_^;)。でも一見濃そうに見えて、海外の本格ミステリ映画や、ヒッチコックの諸作なんかは無視してる感じだね。松本清張や横溝正史や江戸川乱歩もないな。このラインナップの中でまあミステリの王道と言えるのは『ホームズの冒険』と『ポワロ』くらいじゃないのよ(『コロンボ』は倒叙ものだからね)。よくもまあ「ミステリファン」なんて威張って言えたものだ。
 作者本人の気に入ってるエピソードはこないだスペシャルでも放送された高木と佐藤の爆弾事件だそうな。あんな出来の悪いバカ話を自画自讃してるんだから、これはもう処置なしである。もっともどのエピソードを選んでもアホ話ばかりだから結論は同じなんだけど。「推理小説を星の数ほど読んだ」? 誰が信じるそんなの。せいぜい建国時のアメリカ国旗についてる星の数程度じゃないのか。
 ミステリファン、もっとこの人に怒ろうよ。「ミステリはあの程度でいい」なんて若いファンが増えててさ、マジで百害あって一理なしの状況を作りだしてんだよ、この人。

2002年02月04日(月) チョコレート一本勝負/『何だかんだと』(ナンシー関)ほか
2001年02月04日(日) HOME,SWEET HOME/『犬の気持ちは、わからない』(押井守)


2003年02月03日(月) 世界は非常識でいっぱい/『ホスピタル』1・2巻(唐沢なをき)/『軽井沢シンドロームSPROUT』2巻(たがみよしひさ)ほか

 私は見てなかったのだが、昨日の『ハリケンジャー』で、池田秀一がこんなセリフを言ったそうな。
 「見せてもらおう……性能とやらを!」
 「当たらなければどうという事はない!」
 職場の若いオタクが狂喜して教えてくれたんだが、どうリアクション取れと言うのかな(^_^;)。
 脚本家か演出家のお遊びなんだろうけれど、そういうのってもう腐るほど見て来てるから、今更「へ〜え」くらいしか反応のしようがないのよ。セルフパロデディなら、『ザ・シンプソンズ』でデイビッド・ドゥカブニーとジリアン・アンダーソンが1話まるまる使って、あのキャラを演じてたのが極め付けって感じだったな。
 ああ、あと、『鉄腕GINREI』で、山口勝平が大作少年の声のままで「これでも26で、コドモもいるんです」って言ってたのには笑ったな。セルフパロディとはちょっと違うけど。


 相変わらず、ウチの職場では面白いことが次々と起こる。
 仕事に関することだから面白がっちゃいられないのだが、例のノイローゼ気味の同僚と出入りの業者がトラブってしまったのだ。
 契約に関することでどうも何かの齟齬があったらしい。
 なんとか話し合ってその場は収まったのだが、そのあとその同僚、ヒトリゴトで何やらブツブツブツブツ呟き続けているのである。
 何言ってんだろう、と思って見ていたら、すれ違いざまに、ここでは書けないような悪態をボソッと吐きだした。
 すみません、私、今、本気でこの職場で仕事するのが怖いです( > < ;)//。こっちにまでトバッチリは来ないとは思うけど。


 仕事の合間に一冊、本を読み切る。
 21世紀研究会『常識の世界地図』(文春新書・819円)。
 世界各国の文化比較をカタログ的にまとめたもの。
 まあ、ウソは書いてないんだろうけれど、どこまでがホントかちょっと首を捻りたくはなるね。ユダヤでは牛肉と牛乳は同じ冷蔵庫に仕舞っちゃいけないんだって。理由は親子関係にあるものを同時に料理に使っちゃいけないからっていうことなんだけれど、食って同じウンコになるのはいいのか? いや、信仰を冒涜するつもりはなくてただの疑問なんだけどさ。日本の親子丼なんて、ユダヤ人が見たら卒倒しちゃうんじゃないかなあ。
 概ねこの本、日本人の習慣・常識がいかに世界で通用しないかってことを書き連ねてるんだけれど、Vサインはギリシアでは「くたばれ」の意味になるとか、正座をすると韓国では「罪人の座り方だ」と嫌われるとか、ストライプのネクタイはイギリスでは由緒正しい伝統を持つものなので無関係な人間が付けちゃいけないとか、そんなん全部気にしてたら、キリがないわ、とネを上げそうになるが、外国人と付き合う、ということはもともとそういうリスクを覚悟しなければならないことなのである。……無理して外国に行きたくもないな。
 それはそうと、冒頭で「日本人にとっては何気ないしぐさの一つなのだが、外国人にひどく嫌がられるものに『指差し』がある」とあったが、これ、日本でも地域差がないか。
 福岡では少なくとも人を簡単に指差ししたりしない。会議の席上などでも、呼名はするが指差しは滅多にしない。そこにその人物がいるのにわざわざ指差しするとは自分が支配的立場に立とうとしているように見られて嫌われるのである。
 かと言って九州全般が指差しをしない、というわけでもない。10年くらい前、北九州演劇祭で、些細なことから劇作家の山崎哲と口論したことがあったが、あいつ、思いっきり私を「指差し」どころか「指振り回し」して罵倒しやがったけど、アレは宮崎出身であった。宮崎人にはあんなふうに激昂して人を指差すタイプが多いのであろう。北九州と南九州は文化圏が全く違うので、いっしょくたに「九州男児」なんて括られたくはない。山崎はあのあとテレビで「オウム真理教擁護」の発言して視聴者から総スカンを食らい、ホサれちゃったんで、いい気味だと思ったもんだった。
 長崎出身の内田春菊は『ストレッサーズ』の中で「指差し確認するし……」と不快感を露にしてるコマを描いていた。指差しを嫌う人間は日本人にも結構多いんじゃないか。
 東京人については、そのあたりをあまり気にしない人が多いように思う。横山隆一の『フクちゃん』じゃ、フクちゃんほか、みんな指差しをしまくってたし(根拠として挙げる例が偏ってないか)。


 しげがまた寝こけて迎えに来ない。
 バスと地下鉄を乗り継いで天神を周って取り寄せたDVDや本を買って帰るのも毎月の恒例。
 晩飯は「CoCo一番屋」で懐かし味のポークカレー。どこがどう「懐かし」なんだかよく分らないが小麦粉が多いってことなのかな。


 DVD『サイボーグ009 第2章』1巻。
 第29話『青いけもの』は見逃していたので今回初めて見たが、こういう地球の化身みたいなやつがいるんならブラックゴーストはとっくに滅んでる気がする……ってツッコミはしちゃだめなのかな。このへん、もともと『009』の原作でないものを持って来てるから世界観に「ズレ」が生じたというところかな。
 もっとも、それを言い出すと『コスモチャイルド』編も浮いてるんだけどね。


 マンガ、唐沢なをき『ホスピタル』1・2巻(完結/エンターブレイン/ビームコミックス・756円)。もちろん元の単行本も買ってるんだが、描き下ろしが1、2巻ともについてるのでこちらも買う。
 純粋なギャグマンガがほぼ死滅してしまった中にあって(まあ『クロマティ』とかはありますが)、なをきさんの奮闘ぶりにはまさしくエールを送りたくなるのだけれど、商売の仕方自体はアコギだと思う。後書きがつくくらいなら立ち読みですませちゃうんだけど、必ず15ページくらいは新作がつくからなあ。買うしかないじゃん(-_-;)。
 タイトル通り、舞台は「病院」なわけで、となればこれも「シチュエーションコメディ」の系譜にあることになるが、イメージがかなり違うね。まあ間違っても『寺内貫太郎一家』(考えて見りゃあれも立派なシットコムじゃん。よくもまう三谷幸喜は『HR』を「日本初のシットコム」なんて言えたもんだ)みたいにはならない。
 切るは繋ぐは増殖するは、ぐちゃぐちゃのねとねとのぶよぶよのぴちょぴょの、よくもこんなグロいマンガがちゃんと連載されてたなあってものなんだけれど、「アニマルハウス」という雑誌がいかに偉大であったか、ということなんだねえ。
 『BRAIKEN』も再刊するらしいけれど、やっぱり買っちゃうんだろうなあ。好きだからいいんだけど。


 マンガ、みなもと太郎『ワイド版 風雲児たち』10巻(リイド社・680円)。
 巻末のギャグ注の手塚治虫のエピソードが笑える。
 林子平の姉婿に「手塚市郎左衛門」という医者がいるのだが、みなもとさんがこの人物が手塚さんの祖先かどうか聞いてみたときの手塚さんの返事というのが面白いのである。
 「あ、そう、そうですか、手塚市郎左衛門というお医者さんね、わかりました、ボクもね、今ご先祖のお医者の話を描いてますからね、資料調べればすぐわかりますからね、そう、林子平の姉婿ね、たぶんそうかもしれない、すぐ調べてね、ええ、すぐご返事しますからね、はい、必ず、待っててください、すぐわかりますよ、それじゃ、じゃね」
 もちろん、返事がみなもとさんに届くことはなかった。畳語だらけの口調でもう、いい加減さが伝わってくるようであるが、もともと手塚さんはこういう喋り方をする人なんである。慢性の躁病にかかっていたのか、自分をそういう状態にに常に追いこんでいたのかもしれない。
 物語は林子平、高山彦九郎、最上徳内らが寛政の改革の中で弾圧されていく様子を描く。先に新書版で結末を読んでるから、このあとの展開がどうなるかは知ってるんである。それを思うとちょっと悲しい。

 
 マンガ、たがみよしひさ『軽井沢シンドロームSPROUT』2巻(秋田書店・ヤングチャンピオンコミックス・540円)。
 2代目になってもやっぱりあいつともこいつともやっちゃうのか薫平。……とか思ってたけど、耕平はなんだかんだ言いながら薫とくっついたあと、それなりに身持ちが固かったよなあ。絵里や久美子がどんなに惚れてても相手にしてなかったし。いや、相手にしてた女はいたんだけれども、あとくされがありそうな相手とはやらなかったから……やっぱオヤジのほうが外道か(^_^;)。でも20年経ってもストーリー構成も展開のさせ方も全く変わってないってのはちょっとどうかと思う。
 もっともそのことを一番自覚してるのは作者自身のようで、あとがきの「20年経っても絵がヘタ」というのはホンネだろう。昔はたがみさん、あれでもすごくうまい絵を描くほうだったのに、やっぱりこの20年でうまい人が増えて、そういう人たちの中に埋没しちゃったんである。たがみさんの絵、クセはあるけど、それが表現にまで至ってない恨みがあるんだよねえ。
 さて、今度は何巻まで続くかなあ。


 マンガ、瀬口たかひろ『恋愛出世絵巻 えん×むす』2巻(秋田書店・少年チャンピオンコミックス・410円)。
 えーっと、敵を倒すたびにメイドが増えるって、そういうお話だったわけですね。美少年がベッドに押し倒されるシーンもあるし、いったいどういう階層を狙ってるのやら。……アニメ化期待してるのかな?
 いや、それ以上の感想は特に(^_^;)。


 またしげの仕事が終わるのを待って、ジョイフルで食事。
 帰宅して節分豆を二人で食う。しげに「年の数だけ食え」と言ったのに1個しか食わなかったので、残りを私が全部食うハメに。せめて5個くらいは食ってくれよう。

2002年02月03日(日) ラーメンファイト!2/映画『ヴィドック』/『萌えろ!杜の宮高校漫画研究部 辣韮の皮』1巻(阿部川キネコ)
2001年02月03日(土) 笑いの王国/『かめくん』(北野勇作)ほか


2003年02月02日(日) 閃光の意味は/アニメ『明日のナージャ』第1回/『グーグーだって猫である』2巻(大島弓子)

 朝、眼を覚ますと8時半。
 わあ、危ない。『明日のナージャ』第1回を見逃すところだった。
 ホントは体力が持ってりゃ7時からしっかり起きて戦隊もライダーも見たいんだけれど、そうすると昼にはバテてまた寝てしまうのである。
 『どれみ』も見たり見なかったり、どちらかと言えば五回に一回くらいしか見ちゃいないのだが、たまに見た回に『未来さん』の話なんかがあるから侮れない。私ゃもちっと体力が欲しいよ。
 さて、『ナージャ』第1話「ナージャ、運命の扉!!」であるが、なんだか既成の少女小説やマンガ・アニメの寄せ集めって感じで、もうこのトシになってしまうと面白味を感じること自体、難しい。
 ちょっと思い浮かぶだけでも『キャンディ・キャンディ』『あしながおじさん』『家なき子』『小公子』『小公女』『黒いチューリップ』あたりを参考にしたんじゃないかって展開で、キャラクターデザイン自体は今風なのに、なんだか古臭さを感じてしまう。元祖は『レ・ミゼラブル』あたりになるのかな。
 これでまたやっぱリ魔女っ子ものになっちゃったら少女ものジャンルを全て制覇しそうだが、さすがにそうはなるまい(^_^;)。
 でも、どこかで見たような物語であっても、若い世代には若い世代の思い出の作品ってのは必要になるのである。永遠に『キャンディ・キャンディ』をリメイクしていくってわけにもいかないからね。
 でも、「孤児院」で「まだ見ぬ母」に「指輪の秘密」に「謎の美少年」に……って、イマドキの若い子に受けるのかなあ?
 それはそうと、この話の舞台ってイギリスってことになってるけど、「ナージャ」って名前、イギリス人なのか? どうもロシアとか東ヨーロッパに多い名前らしいんだけど(「希望」という意味だとか)。


 で、実は触れようか触れまいかちょっと迷ったんだけど、この日記には思ったことはできるだけ書いておくことにしてるんで、「例の出来事」についても、一応は書いておくことにする。

 『サンデーモーニング』にチャンネルを合わせると、青空に白い軌跡の流れる、ちょっと見、美しい映像が流れている。
 初めはそれがなんだかよく解らなかった。
 でもすぐに上ずり加減のキャスターのナレーションが流れる。煽情的なテロップがかぶる。
 スペースシャトル・コロンビア号の崩壊の映像であった。
 実際の事故は、NASAの発表によれば1日午前9時(日本時間午後11時)ごろに起こったということである。コロンビアは高度6万メートル上空を時速2万キロで飛行中であり、着陸予定時刻のわずか15分前に、テキサス州上空で交信が途絶えた。
 その後、コロンビアはダラスの南約160キロ上空で空中分解した。生存者はいない。乗組員七人の中には、イスラエル人が一人、初めて乗り込んでいたという。

 映像を見ながら思ったことが二つある。

 一つは交信の途絶から実際の爆発までのタイムラグ、およそ7、8分の間に乗組員の人々は何を思っただろうか、ということだ。
 果たして、崩壊は一気に押し寄せたものなのだろうか。もしそうならば、事故自体は悲惨であっても、乗組員の苦痛は一瞬であったかもしれない、と思う。
 しかし、計器の不調、温度の上昇など、“眼に見える形で”彼らに死が迫っていったとすれば……。
 人は、絶対の死を前に、何を思うものなのだろうか。
 祈りか、怒りか、呪いか、ただの叫びか。死の瞬間に人は自らの真実を晒すのか、それとも偽ったままで終わるのか。
 おそらく、新聞やテレビなどのメディアやヒョーロンカのみなさま方は、事故原因の究明だの、そういうところにばかり「謎」を求めるのだろうが、実はそんなものは謎でもなんでもない。たとえその真相が判明しなくても、それが物理的な因果律の範疇に属する問題である以上は、原因と結果はちゃんと存在しているからである。
 けれど、人の心に答えは求められない。
 彼らが最後の瞬間に何を思っていたか、という疑問に答えを出すことなど、どんなに想像を逞しくしたところで不可能だろう。それはとりもなおさず、我々自身が全くと言っていいほど自分が何者かを知らず、自らの存在自体を持て余しているというやりきれない現実がそこにあることを意味している。
 我々には、彼らの死がどんな意味を持つのか、永遠にわからない。そしてそれは我々自身が生きる意味を見失っていることと同義なのである。
 今回の事故について、私が“直接的な”興味を持つのは、実はその一点だけである。

 もう一つは、これからしばらく、この事故に関しての世間の反応がどうなるか、それが一気に私のアタマの中に経巡ってしまい、暗澹たる気分になってしまったことである。
 今、書いた通り、今回の事故について我々は本来何も語れはしないのだ(もちろんそれはこういった「人の死」にからむ事件では全てそうなのだが)。
 しかし、「解釈」が世間に横行することは眼に見えている。
 まず、宇宙開発の是非を問う陳腐な言質が飛び交うだろうことも想像に固くない。そこには俗悪なキレイゴトと、定番な揶揄・皮肉が錯綜し、結局は「何を語ってるんだか分らない」混乱が引き起こされるだけであろう。
 そして時が経てば全てがウヤムヤになる。
 いったいこの事故は「何」なのか? その本質が問われることは決してあるまい。と言うより、誰も、その「本質」については触れたくはないのだ。
 ……まあ、私もそのことをあまりズバリと言っちゃって不必要にテキを増やしたくもないので(今更)、ちょっと婉曲的な指摘だけをいくつかしておこう。

 今回の事故に関して、テレビはさかんにブッシュ大統領の事故報告の演説を流した。私はこのニュースを「遅れて」見たので、サワリの部分しか見ることはできなかったが、新聞各紙に掲載されていた要旨と見比べてみると、ある部分が意図的に欠落させられていることがわかる。
 演説のほぼ最後の部分、「乗組員は無事地上に帰り着くことは出来ませんでしたが、神の下へ召されたことでしょう」である。ナマで報道されていたときには当然この部分も放送されていたとは思うが、午後の報道ではどの局も軒並みこの部分はカットされていたのだ。
 ……偶然ですかね、これ。
 これは敬虔なクリスチャンであるらしいブッシュ大統領ならば当然口にしたセリフであろう。別段「不自然」なセリフではない。
 しかし、イスラム圏ならばカットされるかもしれない(逆にブッシュ批判を煽るために放送するかも)この部分が、なぜ、「日本で」カットされてしまうのか。ネットをいくつか散策してみたけど、この件に関して、言及してる人って、全然いないのである。
 それとも私が見てないところでは結構、この部分は放送されてたのかもしれない。しかし、そうでなかったなら、この部分を削除した「意志」はいったい誰のものなのか。この「発言カット」の件について何一つ問題視する向きがないという事実に、日本人の総体的な「意識」が関わってるんじゃないかな、とどうしても思ってしまうんである。

 SF作家の野尻抱介さんのホームページの掲示板で、このブッシュ大統領の発言に対して、「そんな事をする“神”は悪意に満ちた存在に違いない」と噛みついている人がいた。山本弘さんの掲示板でも結構トンチンカンな発言をされてる人なんで、またまた「あ〜あ、やっちゃったよ」という感じである。
 もしかして『魔王ダンテ』か『デビルマン』でも読んでこういう発想を持つに至ったのか(~_~;)。もちろん個々人がどんな思想を持とうが、そりゃ自由なんだけれど、「日常的に」こういうことを口にしていたとしたら、ちょっと融通が効かなそうというか、やや近寄りがたいところがあるように思う。
 思想の自由は自分ばかりでなく、相手にだって保障されるべきものだ。しかしこの人の場合、自分の発言が、信仰心の厚い人に対してどう受けとめられるか、ということについて、思いが至っていない。意見を語るな、ということではなくて、「人んちの掲示板に、相手が何を考えているかを忖度せずに乱入するのは荒らしだ」ということなんだけど、そういう発想が基本的になさそうなのである。
 でも、こういう「無自覚さ」はこの人に限ったことではない。
 山本弘さんとこの掲示板を初めとして、いくつかの掲示板でこの事故の話題をしているところを回ってみたが、予想通り、「七人の宇宙飛行士の方々のご冥福をお祈り申し上げます」のオンパレードである。
 この「おかしさ」に気づいてない日本人が圧倒的に多いってのはなんなんだろうね?
 何が言いたいかっていうと、「クリスチャン」に「冥福」は違うだろうってことなんですよ。「神の御許」は「冥土」か?(-_-;)。
 単純ミスだし、一般的に「死を悼む」という意味で使ってるだけだから、それくらい許してあげなよ、という言い分もあろうが、それがただの言い訳に過ぎないことも事実だ。我々日本人の宗教に関する感覚はあまりにも鈍い。もしもクリスチャンが「許せない」って言い出したら、これ、充分アウトな発言なのだ(まあ、日本にお住まいのクリスチャンのみなさま方は博愛主義者だから文句はつけますまいが)。
 こういう当たり前の指摘が全くできなくなっている状況って、結局は日本人の「意識」ってものの正体がどんなものかってことを象徴してるんである。

 まあね〜、宇宙マニアな人を除いたらさ、この件に関してあんまり熱く語ったってしょうがないと思うよ。
 報道でもやたら言ってたけどさ、これはどうやら「アメリカの威信の失墜」って問題らしいから。宇宙開発がどうの、人類の未来がどうのって話じゃないそうですから。


 唐沢俊一さんの裏モノ日記で、ちょいと気になる記事を見つけた。と言ってもたいしたことじゃないんで、「どんなツッコミする気なのか」とか期待しないように。
 1月31日の冒頭に、『三省堂国語辞典』を読んだときの、「“尖む”と書いて“こすむ”と読む語がある、などというのも初めて知った。碁をやる人には常識なのだろうが、前に打った自分の石からななめの方角に打つこと、なのだそうである。今や広辞苑にも記載されていない」と書いてあるくだりである。
 もちろん、碁をやってなくても今やジャンプ読者にはこの語は「常識」になっているだろう。もちろん『ヒカルの碁』のヒットのためである。
 ああ、唐沢さんは『ヒカルの碁』を読んでいないんだな、とこれで気づいたのだが、別に「なんであんな面白いマンガを唐沢さんともあろうものが読んでないんだ!」と怒りたいわけではない(どんなヒット作だって読む読まないは本人の自由であるし、唐沢さんの批評対象のフィールドと、『ヒカ碁』がかけ離れていることも当然承知している)。
 昨日もツラツラと考えていた「オタクの浸透と拡散」のことをやはり思い返してしまった、ということなのである。

 「このマンガを読んでなくて、マンガが語れるか」というものがかつてはあった。いや、マンガに限らず、小説だって映画だって、そういうものは「あった」のである。しかし、年月が膨大な作品群を生み出していく過程で、少しは見るべきものとそうでないものとのセレクションが行われていったかというと、必ずしもそうはなっていないのである。実際にはどのジャンルにおいても、学ぶべき「基礎教養」が増殖するばかりになっているのが現実である。
 好き嫌いは別として、マンガ史において、手塚治虫や梶原一騎を読まないでモノが語れはしないだろう、ということは誰しも見当がつく。しかし、彼らが亡くなって随分時間が経った。単行本の復刊はあるものの、雑誌連載は当然ない。連載されているマンガの単行本しか読まない買わない、という若い人はもうゴマンといるのだ。
 マンガを文化としてとらえようと思うなら、作品だけでなく、その読者層の特徴までも含めて見て行かねばならない。そうなると、「『ワンピース』や『テニプリ』しか読んでいない人々」をも「マンガファン」と呼ばねばならなくなる。そんなのは私らの世代ならば即座に「てめーら、それだけがマンガなんて思うなよ、マンガの読み方一つわかってねーじゃん、もっとほかのマンガ読め」と怒鳴りつけたくなるのだが、では、彼らに我々の世代が読んできたマンガを全て「基礎教養」として読め、と強制することができるのか? と自問したら、そりゃ無理だよってことになるのも分っているのである。
 私だって、面白ければ『ジャンプ』だって隅から隅まで読むだろう。昔は『ジャンプ』『マガジン』『サンデー』『チャンピオン』『キング』、それ以外にも結構な数の雑誌を立ち読みと貸し借りを駆使して本当に全部読んでいたのだ。しかし、マンガ文化がここまで爛熟してしまうと、その全てを追いかける情熱自体が自分の中から消えていってしまう。私だって、マトモに「若者文化」を語ろうと思ったら『テニプリ』も『NARUTO』も読まなきゃならないんだろうが、如何せん、全く食指が動かないのである。
 もちろん、食わず嫌いというわけではなくて、チラッとは見てみた上で先を読んでみようかどうか判断するわけだが、さて、そうしてみても『テニプリ』のどこがどう面白いんだか、サッパリわからないのである。物語が破綻してるとか、そういうんじゃなくて、ただただヘタで陳腐なだけにしか私には見えないんだが。
 こうなると、私にも「マンガは語れない」。
 けれどそうなると、そもそもこの膨大な作品群がひしめいていて、「基礎教養」すら身につけられない状況の中、果たして批評自体が成立する余地があるのか、ということになってしまう。
 もちろんその道を模索しないことには、「語る」こと自体が意味をなさなくなってしまうのだが、なんかねー、最近はねー、私のやってることがことごとく空回りしてる気がしちゃってねー。だって、「読みたくない」人間にとっては、手塚治虫だって、藤子不二雄だって、赤塚不二夫も石森章太郎も永井豪もエトセトラエトセトラ、「存在しない」のと同じなんだから。
 ……なんだかこれ以上考えていっても、同じことを繰り返しそうな予感があるのでこのへんでやめておこう。疑問は残るばかりだけど。


 晩飯(と言ってもしげが仕事から帰ってきてだから深夜なのだが)はジョイフル。
 知り合いの女の子が働いていたのでびっくりしたが、「いろいろお世話になりまして」とか言われたんでなおびっくりした。何をどう世話したのか、きれいサッパリ忘れていたからである。
 あとで「ああ、あれのことか」と気づいたが、別に艶っぽい話ではないので、読者諸賢はあまりヘンな期待はしないように。
 どうも私は自分でも知らないうちにいいことをしているらしい。困ったな、できるだけ人に感謝されない人間になろうと努力しているのだが。でないとすぐしげが嫉妬するし。
 しかし、自分の夫が世間のツマハジキモノになって欲しいと願ってる妻ってのも、人間としてどうかと思うのだが。

 キムチ定食を食いながら、しげから今日の練習の様子を聞く。
 円谷君が演出を降りる話は先日聞いてはいたが、結構ひと悶着があったようである。
 円谷君、これまでも演出プランを何も考えずに練習場に来たり、役者が質問をしても全く返事ができずに立往生したりと、ホントにただのウドの大木だったらしい。本人はそれでもめいっぱいだったのかもしれないが、メンバーは「いい加減」としか見ていなかった。
 「学校の方が忙しくなるから」という円谷君の言い訳に鴉丸嬢がまず噛みついたとのこと。「そんなの最初からわかってたでことじゃない。なんで演出引き受けたの?」。
 鴉丸嬢のこの疑問、というより糾弾は至極マットウなのだが、マットウなだけに相手に反駁の余地を全く残さない。ついには円谷君、泣き出してしまったそうな。
 泣くようじゃ同情はできんなあ(-_-;)。
 円谷君も、知り合いの演劇関係の人に話を聞いたりして、自分なリに努力はしていたと主張したそうだが、それが現場に全く生かされてないのでは、口にするだけ卑怯な言い訳にしかならない。みんな怒ってたろうなあ(ー∇ー;)。
 自分の言葉がどれだけ相手の神経を逆撫でしているか、最後まで気がつかなかったというのはある意味シアワセな人なんだが、一緒に何かを作っていくにはちょっと向かない。
 結局、演出は鈴邑君に決まったとのこと。さて、円谷君はあと何をしたいのだろうか。


 マンガ、大島弓子『グーグーだって猫である』2巻(角川書店・1155円)。
 大島さんの猫マンガを『綿の国星』の繋がりで読んでいた読者は結構いるんじゃないかと思うが、最近の大島さんは猫を人間の姿では描かない。サバが最後の人間型猫だったんじゃないかと思うが、今巻に登場するタマもやはり普通の猫である。
 私はマンガの中の猫や犬にはほとんど感情移入をしないので、猫がどんなにかわいいかを描かれても「それって作者のマスターベーションでしょ?」としか思わない。猫を猫以外のものに描くことも実は自慰行為なのだが、ある意味作者がそこまでイッちゃってれば、読者はもう両手をあげてそのファンタジーを受け入れるしかない。サバを「モノホンは猫なんだよな」と思いながら見ていた読者がいたろうか?
 いや、相変わらず大島さんのエッセイマンガは面白いのだ。大島さんのガン治療の話ですら、ユーモラスで深刻さのカケラもなく面白い。
 けれど、やはり何かが違う。
 猫が人間の姿で描かれていたことには、「そうとしか描けない」切実さがあった。単に気を衒っただけとは誰も受け取らなかったからこそ、『綿の国星』は、『サヴァビアン』は支持されたのだ。
 大島さんにとって、猫はただの猫になってしまったのだろうか。

2002年02月02日(土) ファンタジーの地平に/映画『ハリー・ポッターと賢者の石』/『バイリンガル版 ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる)
2001年02月02日(金) ゆっくり休もう/舞台『人間風車』ほか


2003年02月01日(土) オタクについて考える夜/『コラムは誘う ―エンタテインメント時評 1995〜98―』(小林信彦)

 野田秀樹作・演出の舞台、『RED DEMON』(赤鬼)の英国公演が31日夜から、ロンドンのヤング・ヴィック劇場で始まって、大盛況なんだそうな。
 野田さんの舞台は、10年以上前に萩尾望都原作の『半神』をナマで見たのが最初(『夢の遊民社』を解散する4、5年前だったと思う。しげと一緒に見に行ったんだが、そのときにはこいつと結婚することになろうとは夢にも思っちゃいなかった)で、脚本構成、セリフ、舞台美術様々な面にわたって実に見事な演劇的効果をあげていたので感心して、テレビで舞台中継があれば録画し、LDで出ている舞台も全部集めるようにしてたんだが、『野獣降臨』だの『贋作桜の森の満開の下』だの『贋作罪と罰』だの、いろいろ見てくと「なんだ、やってること全部同じじゃん」ということに気がついて飽きてしまった。かと言って、別に嫌いになったわけではない。野田さんの人間性は嫌いだが、できあがった芝居は鴻上尚史よりははるかに上出来だと思っている。
 その鴻上尚史に、イギリス公演では野田さんは先を越されてしまった。蜷川幸雄にならともかく、コーカミに先にやられちゃなあ、と野田さんは内心、忸怩たるものがあったのではないか。そういう下世話な興味で、野田さんが今回どんなものを作ったのか、興味が沸いてくる。
 『赤鬼』は、もともと日本の浜辺に漂着した外人が「赤鬼」と村人たちに思われてしまう、という設定のものを、今回はイギリス公演用に作り変え、野田が赤鬼、イギリス人俳優7人が村人を演じるという形になったもののようだ。日本人が鬼じゃあ「赤鬼」にはならないんじゃないかと思うが漂流して日焼けでもしたんだろうか(^o^)。
 さすがにイギリスとなるとちょいと見に行くということは不可能だが、野田さんのことだし、これはビデオ化してくれるんじゃないかな。そんときゃ、これもチョイと見てみたいものである。


 午前中はここんとこ体調が悪いせいもあるのか、ずっと寝たまま起きられない。咳止め薬が切れると、すぐに咳がぶり返す。大人しくしてるのになあ。なんで治ってくれないかなあ。まさかこのままAIQの公演や東京行きのときまで体調不良が続くのだろうか。冗談じゃないけれど、治らないものは治らないのである。注射しても効果がないんじゃ、医者に行くだけムダな気になっちゃうしなあ。


 夕方より、天神の赤煉瓦館でAIQ公演前最後の打ち合わせ。昼間ずっと寝ていたので、頭の回転が鈍い。
 「えーっと、八時からだっけ?」
 「六時からだよ!」
 しげに叱られるようになるとは、人間として終わりが近い。
 赤煉瓦館に着くなり咳込んでる私を見て、ぴんでんさんが「まだ治ってなかったんですか! 三日も仕事休んだんなら治ってくださいよ!」と仰るが、私もそれは私自身のカラダに言いたいんですよ。(T-T) グスッ。

 今日のメンバーは獅子児さん、武内さん、ぴんでんさん、私としげ、いつもは仕事で閉会ギリギリに来るのだけれど、意外に早く来られた代表のエロの冒険者さん。
 しおやさんとアンジェリーナさんは都合で欠席であったが、多少の変更はあるものの、もうほとんど討議事項は終わっているので、あとで連絡の確認だけしておけば、そう問題はなさそうな感じである。
 もっとも、もしかしたらここにいたかもしれないM君が、とある事情で今回よりAIQを脱会している。私ゃ面識が一回しかなく、しかも全く会話をしたことがないので、その「事情」についてはなんともコメントのしようがないのだが、ものごと全てがうまく運ぶわけではないという自戒のための一例としたいものだ。
 話し合いは、主にしげの作った進行表と、ぴんでんさんの機材配置の確認を行っておしまい。私は警備の担当だが、これもロビーをゆったりと使えるので、去年よりもだいぶ楽になりそうである。
 チケットの売り上げも大評判、福家書店さんは大喜びだそうで、このままだとご祝儀が出て、我々スタッフは3年は左団扇で暮らせそうな勢いだ(^o^)。
 随分いい雰囲気だけれど、好事魔多し、本番までは油断は禁物で、気を引き締めて行きたいものである。私の体力はなくなってきてるけど。へろへろへろ〜 (;@_@)ノ。


 打ち合わせのあと、当日の宴会場の下見に、親富幸通り(今やこんな字を当ててるのである。阿呆な話だ)まで繰り出す。
 とある店で肉だの何だのを注文しまくるが、いつものごとくオタクばなしに花が咲くので、味の方はとんとわからぬまま(^_^;)。

 武内さん、ようやく『ゴジラ×メカゴジラ』を御覧になったそうで、面白かったとのこと。前々からこの映画に入れこんでたぴんでんさんが喜ぶまいことか(^_^;)。
 以前から「釈由美子命!」をぴんでんさんが表明していることを知っていながら、私もしげも散々アレを貶しまくってたので(最低な夫婦である)、ぴんでんさんも内心「こんちくしょう」と思っておられたのだろう、賛同者が得られて有頂天になられたようで、酒飲みながらトバすトバす。
 「やっぱり人が貶すものの中からいいものを見つけ出してこそのオタクですよ!」
 けど、やっぱつまんねえよな、「釈ゴジ」。〜(*▽*〜)(〜*▽*)〜。
 いや、私だって『ゴジラ』シリーズはB級SFのレベルで評価すべきもので、あまりハイレベルなものを求めたってしょうがないとは思ってるんである。それに、もともと完璧な映画なんてあるはずもないし、そんな幻想を求めているわけではないのだ。
 でも、それにしたって、今回のやつはこれまでにも増して雑な出来だとしか言いようがない。欠点に眼をつぶっていったら、「釈由美子がちょっとカッコイイ」しか残らないものなあ。
 それに釈を使うんならもっとエロいシチュエーションを作らんでどうする!
 例えば憎しみのあまりギルスが釈を押し倒そうとするが、そのとき釈のムナモトが乱れてチラッと乳輪の端が見えるとか、どうしてそんな映像を撮らんのだ!(撮らんて)
 まあねー、それは既に「ゴジラ映画」ではなくなってるという意見もあろうが、昔は『地球防衛軍』じゃ白川由美だったか誰だったかがちゃんと風呂場に入ってるシーンとかあったんだしねえ。もうちょっと子供に対してもオトナへの淡い性の目覚めを感じさせる映像を提供してあげといてもいいんじゃないの? って思うのよ。
 私も『エスパイ』で由美かおるのオッパイプルルンにドキドキしたの、小学生のときだったし。
 まあストイックな釈のほうが「萌える!」って人も、このニッポンに三人くらいいたって別に構いはしないんだが、そもそも「釈がいいよ」って言ってる時点で既に「怪獣映画」を評価してることになってないんじゃないか。
 それとももしかして釈由美子って実は怪獣なのか(^o^)。

 みなさん段々酔っ払ってきて、口がどんどん軽くなってくる。
 エロの冒険者さんの、「『笑う犬』なんか喜んで見てるやつの気がしれない」の発言にはムネをグサリと突き刺される。
 すみません、喜んで見てます。m(__;)m。
 でも、スケッチとしてはつまんないことはわかって見てるんですよ、ウッチャンナンチャンもネプチューンも芸人としては下の下だと思ってるし。
 でも、溺れる者は藁をも掴むというか、周りにブ○しかいなかったら、少しマシなブ○でも美しく見えるってことあるじゃないですか(なんちゅータトエじゃ)。
 いやまあ、それがベ○○ーだと言うつもりはないんですが。

 エロさん、新しくスピーカーを買うので、今まで使っていた中古のスピーカーを買わないか、とみなさんに持ちかける。
 私もノドから手が出るほど欲しいし、独身ならもう絶対に即決で借金してでも買ってるのだが、しげに「どう?」と聞いたら「どこに置くの?」と一言のもとにバッサリ切られてしまった(T∇T) 。
 みなさんの反応はどうだったかというと、「別にスピーカーなんてなくていいし」「テレビに付いてるステレオだけで充分」「そもそも音響なんて気にしてない」と酔ってるとは言え、言いたい放題である。
 気の置けない仲間どうしだから、という気楽さがあるので、もう発言はエスカレートするばかり。「だいたいエロさんのホームページの日記の音響についてのウンチクだって読んでないし」「B級SF映画のレビューだって飛ばしてるし」とかいうのはもう話の脈絡がどこかに飛んじまってて、ほとんど暴言である。
 ついにエロさん、怒髪天を突く勢いで卓袱台をひっくり返し、隠し持っていたサブマシンガンVz61通称スコーピオンをぶっぱなしてあたりを血の海にした上で、居酒屋のねーちゃんを全員人質にして立てこもって、「日本政府に『オタク保護法』の成立を約束させるまで戦うんだ!」と絶叫し、国内外のオタクへ向けて階級闘争を訴えた檄文を飛ばして華々しく切腹して果ててしまった。
 というわけで、今、たからビルで働いておられるにこやかなエロさんはゴーストです(^o^)。

 けれど、やはり思うのはオタクの浸透と拡散、ということである。
 私は映画が「音と映像の芸術」であるというのは常識だと思っているし、古い映画がDVDでリニューアルされるときのウリとして、映像ばかりでなく音声にも力を入れているのは当然のことだと思っていた。
 もちろん、私がそういう「常識」を得るに至ったのは、そういった「映画はこう見ろ」ということを教えてくれた人が、周りにいくらでもいたからである。
 例えば、私と同世代でオタクの世界に少しでも触れている人間ならば、故・長岡鉄男氏のオーディオに関するウンチクに接したことのない者はいないはずである。私は、このトシになっても、とても音響に関する知識を披露できるほどの才覚とてないのだが、それでも音響についてテキトーな発言はできんなあ、程度のことは氏のコラムを通して学んでいた。
 考えてみれば、AIQのスタッフも私より世代がひと世代、下なのである(オタクの世代は数歳違えばもう話が通じなくなることがしばしばだ)。5歳も違えば、長岡氏のコラムに触れたことがない人がほとんどだろう(亡くなったのはほんの三年前なのだが、その勢力的な活動は80年代末まででほぼ終わっている)。こういうオタク的知識はほとんど「独学」でしか培われないので、よいお手本がなければ理解のしようもない。
 だが、そう同情的に考えても、やはり胸の中を寒い風が吹き過ぎて行くのを感じないではいられない。なにか、感覚的にどうにもならないケツラクを若い世代の人々に感じないではいられないのだ。

 最近、この「感覚の溝」を埋めるというのは並大抵のことではないなあ、という気がしてきて暗澹たる気分になることがある。私は自分のことを根本的には虚無的だと思っていたが、こと「オタク」に関しては「理想主義者」だったのかもしれない。たとえお互いに知ってる分野、知らない分野で個人差があっても、オタクの輪は繋いでいけるんじゃないかとコドモみたいな夢を見ていたのだ。
 そのこと自体、そもそもの間違いだと言われればそれまでかもしれない。けれど、私は自分の知らない話でも、そこに何がしかの「真実」があって、脈絡さえ繋がっていれば聞いていて楽しいのだ。みんなもそうだろう、と思っていたのが私の錯覚だったのである。
 ……なんだか川原泉みたいだが、やっぱり「夢だっていいじゃない」という気分はこれだけ薄汚れた私の心の中にもどこかに残っていたのだろう。
 まだまだ甘いんだなあ(~_~;)。

 会話の流れの中で、私の視力のことが話題に上った。
 武内さんが、「身障者手続きを取ったらどうですか?」というのである。
 私の裸眼視力は0.01を切っている。矯正視力でも0.3だ。それ以上にはもう上がらない。これは充分、身障者の対象になるというのだ。
 そういうことを一度も考えたことのない私は、一瞬、虚を突かれた。
 「バスや電車の料金がタダになりますよ」と武内さんは仰る。確かにそれは便利は便利だなあとは思う。けれど、そもそもそういうサービスを受けるのが当然、という発想が私にはなかったのだ。
 うーん、ほかの眼の見えない人にそういう利益が保障されることは当たり前だと思うけれど、自分に対してはあまりそういうことを考えてないっていうか、「権利意識」でそういうの考えたことなかったんだよなあ。
 私は自分の思考判断の基準には職人気質のようなものがあると思っているが、これは往々にして世間との人間関係を無視とまでは言わないまでも軽視する傾向を生み出してしまう。軽いニヒリズムのようなもので、「人は人、世間は世間、自分は自分」と考え、他人の基準を自分の基準に持ちこまないのである。
 だから改めて「身障者手続きを取ったら」と言われると、「何のために?」と自問自答してしまうのだ。
 はっきり言って、私は自分の眼が見えなくなるのも運命だと思っている。
 そりゃ、本が読めなくなったり映画が見られなくなるのは寂しいが、そんなことはどんな人間にだっていつかは起こることで、執着したって仕方がない。もちろん完全に眼が見えなくなれば歩くにしろ誰かに手を引いてもらわねばならなくなるし、身障者認定をしてもらわねばならなくなるとは思うが、それも自分から率先して申請、という気にはならないのである。
 うーん、どうしようかなあ、どうせもう1年以上眼科に行くのをサボってるので、そのうち行かにゃならんのだが、そのとき聞いてみるべえか。

 ふと眼鏡を取ると、武内さんが「眼鏡取ったほうがいい顔ですよ、奥さん、この素顔に惚れたんでしょう?」と突っ込む。
 途端にしげ、「いえ全然」と否定。……少しは迷えよ(-_-;)。

 帰宅して爆睡。
 と言いたいところだが、自分の咳で目覚めてしまうので充分睡眠が取れないのがイタイ。


 小林信彦『コラムは誘う ―エンタテインメント時評 1995〜98―』(新潮文庫・580円)。
 表題にある通り、95年から98年にかけてのエッセイ、ということになると、もう5年以上昔のことになる。
 そういう「古い」話題にもかかわらず、今でも小林さんのエッセイが「読める」のは、時評というものが正しくその時代の「空気」を浮かびあがらせているからにほかならない。
 オビにあることだが、「渥美清が逝った、やすしが逝った」。そればかりではない。フランキー堺も萬屋錦之介も三船敏郎も黒澤明もこの間に死んでいるのである。昭和の終わりが松下幸之助と美空ひばりと手塚治虫の死に象徴されるとすれば、20世紀の終わりを彼らの死に感じると言ったら大袈裟だろうか。
 もちろん、そう感じるためには渥美清以下、彼らが「どういう人であったか」に気づいていなければならないのだが、それには遅くとも1960年代前半までに生まれていなければ「間に合わない」。いや、私の年代ですら「遅い」のである。彼らの代表作の全ては、私が生まれる以前にほとんど「終わって」いた。私が着実に間に合っているのは、『てなもんや三度笠』以降に頭角を表していった横山やすしただ一人である。
 こう言えば、「渥美清は? 『男はつらいよ』はあなたが生まれたあとの作品でしょう」と言われるかも知れないが、小林さんもこのエッセイで書いていることだが、「渥美清=寅さん」ではない。世評が渥美清の代表作を『男はつらいよ』シリーズに求めることは仕方がないが、少なくともその演技の、芸の代表作とするのであれば、「それは違う」と断言できる。
 渥美清は「寅さん」になることで、「渥美清」として評価されることがなくなってしまった。それを証明しているのが、「寅さん一周忌」という表現であり、「国民栄誉賞」なのである。
 渥美清が役者としてずっと空虚な人気を得ていたように、この間に亡くなった人々も、ほとんどこの20年ほどは空虚な存在に置かれていた。若い人には、小林信彦の喪失感・憤慨が理解出来まい。小林さんも若い世代に限定された紙数で語りかけるのは諦めて、その「憤慨」のみを書き連ねる。説明がないのは不親切極まりないのだが、懇切丁寧に過去の歴史を語ったところで、若い人は「へええ」で終わりである。ある意味、小林さんのように若い読者を初めからコバカにしたような態度を取ることも一つの「方法」ではなかろうか。
 何の「方法」かは私ももう説明しませんが(^o^)。

 このころの小林さんは、まだ三谷幸喜を評価していたようだ。ただ、多分に「奥歯にモノの挟まった」誉め方なのは、「貴重な才能」「才人」という表現を使っていることでもわかる。
 あの、これもいろいろ本読んでればわかるけど、「才人」ってさ、「才能があるのはわかるけど、欠点も多いし、私はあまり好きじゃない。一応、この人がいてくれてるおかげで、周りを刺激して活性化はするから、貶しはしないけど、実のところ、この程度の才能がこの人の限界だと思うよ」って思ったときに使う言葉なのよ。こんな微妙な説明は辞書には載ってやしないんで、納得いかないかもしれないけれど、そういう人はもっと本を読んでください。今にわかります。
 「『アパッチ砦の攻防』はきわめて今日的・日本的で、なんだか切ない。しかし、なるべく乾いたファースとして見せたいのが三谷幸喜の希望だろう」。
 つまりファース(笑劇)になり切れてないってことである。
 「『笑いの大学』を越える芝居はそうは書けないと思う」
 三谷幸喜の旬はここまでだ、ということである。まさしく、三谷幸喜はこのあとどんどん坂道を転げ落ちて行った。
 小林さんに誉められる、ということは同時に「見限られる瞬間も見通される」ということだから、あんまり喜ばないほうがいいってことなんだな。多分、爆笑問題も今や見限られてることと思うが。(2003.2.24)

2002年02月01日(金) 餃子、餃子、餃子〜、餃子を食べぇよおー♪/『真・無責任艦長タイラー�ァ”�活編』(吉岡平)/『東西奇ッ怪紳士録』(水木しげる)ほか
2001年02月01日(木) だ〜れだ?/舞台『菜の花の沖』


2003年01月31日(金) 嗚呼、アニメ三昧の日々が……/『名探偵コナン特別編』17巻(阿部ゆたか・丸伝次郎)/『できるかな』(西原理恵子)

 角川大映の第一作が『妖怪大戦争』のリメイクに決まったそうな。
 『大魔神』復活とか、『ゴジラ対ガメラ』とか角川歴彦社長がぶち上げてたけど(この人も春樹前社長に負けず劣らずのラッパ吹きだな……大映の社長の伝統かねえ)、現実には期待していいんだか悪いんだかよく分らない路線できちゃったねえ。「意表をつく」とはこういうことを言うのであろう(^o^)。
 企画の仕掛人は雑誌『怪』の連中だそうな。
 水木しげる・宮部みゆき・京極夏彦・荒俣宏の4人が再映画化を熱望して、自らプロデューサーに名乗りを上げたってな話だけど、こういう浮世離れしたヒトたちが集まっても、どれくらい宣伝に効果を上げられるものか。もう一つ宣伝のキモになるようなものがないと、ヒットは難しいんじゃないかなあ。
 今現在、シノプシスを書いてるのは荒俣さんだそうだけど、「大人たちには見えない妖怪を少年と老人が協力し、妖怪によって引き起こされた事件を解決する物語」になるんだって。
 元映画と全然違うじゃん(^_^;)。ダイモンは出るのか、油すましは青河童は二面女はどうなるのか。いや、そういう旧ファンの想いよりも、そもそもこういうありきたりなストーリーラインに興味を惹かれる若い人たちがイマドキどれだけいるというのか。「少年」を「鬼太郎」に、「老人」を「目玉親父」や「砂かけ婆・子泣き爺」に置き換えたら、そのまんまではないの。
 荒俣さんに脚本書かせるってのは、『帝都物語』の実績を買ってのことだろうけれど、アレの面白さってのは、実在の人物をムリヤリ「帝都の怨念」物語の中にぶちこんだ曼陀羅図としての面白さであって、ドラマとしての面白さ、小説としての面白さじゃないんだよねえ。
 水木さんはもうお話書けまいし、京極さんはウンチク書き過ぎるだろうし、あの中で原案書くとしたら宮部さんしかいないと思うんだけど、どうなんでしょう。


 CS放送J−COMネットの放送チャンネルに、今日から新たにアニマックスと日本映画専門チャンネルが追加。
 これは私に死ねということなのかも(^_^;)。
 気がついたら、『とんでもラッキーマン』『幽遊白書』『キテレツ大百科』『魔法の天使クリィミーマミ』『ドラゴンボール』『花より男子』『ルパン三世』『鎧伝サムライトルーパー』『PiNMeN』『サイボーグ009』『宇宙海賊キャプテンハーロック』『忍空』『中華一番!』『機動戦士ガンダム』と立て続けに見ている。
 ……こんなん全部感想書いてられるか(-_-;)。


 マンガ、青山剛昌原案・平良隆久プロット・阿部ゆたか・丸伝次郎漫画『名探偵コナン特別編』17巻(小学館/てんとう虫コミックス・410円)。
 バカミス『コナン』に関しては、もうネタバラシでツッコミ入れるんで、まぁだ『コナン』をミステリとして見ようなんて奇特な人は以下の文は腹立つだけだと思うんで読まないように。

 『さまよえる銃弾』、被害者はハンター、鹿を撃つフリをして、人間を撃つのが楽しいという既知外である。実際に何度もそういう事件を起こしておきながら、これまで警察は全部事故で済ませてたっていうんだから、この地方の警察は痴呆が揃ってるんだろう。
 犯人はその男に孫を殺された老人で、パイプ式のガードレールに銃弾を撃ちこみ、その銃弾がパイプを伝って男を撃ち殺す、というのがトリック。できるか、そんなん(-_-;)。
 で、それ以上に何がバカかって、その爺さん、被害者を殺したあと、死んだ孫のところに行こうと自殺しようとするのね。それなら、わざわざトリックを弄して自分が犯人であることを隠そうとする必然性がないじゃん。さっさと殺して死にゃあいいだけの話。
 『密室の人体爆発事件』、被害者は科学者で、阿笠博士の親友。犯人も同じく科学者。自分の研究の成果を横取りされたので殺害を計画、エレベーターにマイクロ派を出すマグネトロンを取り付け、内部を電子レンジ状態にして爆死させる。なんでそんなハデな殺し方をせにゃならんのか。証拠のマグネトロンも天井に残したままだし。
 『湖はんペンション殺人事件』、「湖畔」ってちゃんと両方漢字で書けよな。
 えー、もうツッコミどころ満載で、どうしたらいいやらっつて出来。
 双子の姉妹が一人の男を好きになり、先に男と結婚した方を、もう一人が殺して入れ代わろうとする。殺された方にはソバカスがあるので、ファンデーションでごまかそうとするって……バレまんがな、そんなん(-_-;)。で、男のほうも女に「一緒になってくれなければ死ぬ」って脅されて協力してやんの。その男さあ、蘭からも尊敬されてる先生なんだよ。そんな人格者なら、犯人を説得して自首させろよ。
 ほかの短編はめんどくさいのでツッコミ省略。いいよなあ、こんなテキトーなお話で原稿料貰えるんだからさあ。


 西原理恵子『できるかな』(角川文庫・650円)。
 単行本持ってるけど、描き下ろしマンガが付いてたので購入。それにしてもカラーページが多くて紙質がいいせいなんだろうけれど、このウスさ(140ページ)でこの値段というのは高い。それに描き下ろしっても巻末に3ページだけだったしなあ。
 もはや若い人にはNHK教育で『できるかな』という番組があったことを知らない人もいるかもなあ。「でっきるっかな、でっきるっかな♪」って音楽に乗って、身近な材料でちょっとした工作を作ってみせるってだけの他愛ない番組だったけれど、結構な長寿番組で、「終わる」ってことが信じられないのに終わっちゃったって感じの番組であった。基本的に全てマイムで演じられるので、最終回で出演者のノッポさん(高見映)が喋ったということで反響を呼んだりした。
 こういうNHKの良心みたいな番組をタイトルにして、ガイガーカウンター作って放射能漏れ直後の「もんじゅ」んとこで試し計測するなんてことするから、西原さんの性根はマックロクロスケなのである。これではマンガで一発アテて左団扇とは行くまいて(^o^)。
 前に読んだ時も思ったが、このレポートマンガ(と言っていいのかどうか)中の最高傑作は「バンコク編」である。
 どこまで真実なんだかわかんないが、「テレビで『本日の死体』という番組をやってる(結構転がってるものらしい)」とか、「玉(もちろんあのタマです)マッサージの店がある」とか「普通の銭湯のイスがなぜか全てスケベイスで湯舟からインド人のタマが丸見え」とか、「マンション買ったら、工事に来たタイ人の家族がそのまま住みついてた」とか、「車で人撥ねたけど10ドルで警察が手を打たせた」とか、イヤハヤ、外国には行きたくないものである。
 で、これをのんきにマンガに描けるんだから、やはりサイバラ女史はスバラシイ。土佐の女のイメージって私ゃ西原さんと鬼龍院花子と『海がきこえる』の三つでできあがっちゃってんだけど、これは正しいんですか、土佐の人。
 くらたまさんは百年経ってもサイバラさんには追い付けまいなあ。追いついたら人生ちょっと大変なとこに言っちゃうんだけど。(2003.2.21)

2002年01月31日(木) 血管をタテに切る女/アニメ『七人のナナ』第4話/『ガウガウわー太』2巻(梅川和実)ほか
2001年01月31日(水) そうか、最近匂いに敏感になったのはそのせいか/『鉄甲軍団』(横山光輝)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)